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①5/9笹川孝一の諸論文を検討

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(1)

大学院総合ゼミ(1985年度)の記録

(1)総合ゼミの日程

①5/9笹川孝一の諸論文を検討

    C.茂木俊彦(教員),佐藤広美(院生)

②5/23修士論文の構想を検討(1)

    R.疋田容子,田久保清志,荒井文昭

③6/13修士論文の構想を検討(2)

    R.村上純一,富田充保,石田佳子

(C.コメンテイターR.レポーター)

④6/27茂木俊彦,高橋智,平田勝政「障害概念の数育学的検討」を検討     C.笹川孝一(教員),村上純一(院生),富田充保(〃)

⑤9/27修士論文中間検討会(1)

    R.荒井文昭,村上純一

⑥10/24修士論文中間検討会(2)

    R.田久保清志,富田充保,石田佳子

⑦11/14佐藤広美「人間的欲求の疎外と能力主義教育一他者関係の問題をめぐって,

    〈覚えがき〉一」を検討     C.黒崎勲(教員)

⑧11/28坂元忠芳の諸論文を検討

    C.柿沼秀雄(教員),中山一樹(院生)

⑨12/12片岡洋子「現代の生活綴方教育実践にみる親子子関係の問題一丹羽徳子先生     の教育実践分析の試み一」を検討

    C.越田伊紀子(院生)

⑩1/23院生の研究計画の検討

    R.草野滋之,片岡岡洋子,高橋智,佐藤広美,平田勝政,村井淳志,権在淑

(2)総合ゼミの記録  第1回(1985年5月9日)

今回のテーマは社会教育,とりわけ戦後期から1950年代における自己教育運動史につい てである。共通テキストは,本年助手に着任した笹川孝一の論文,「自己教育の復興と展開」

および「1950年代の自己教育運動」(共に,藤田秀雄・大串隆吉編著『日本社会教育史』,

エイデル研究所,1984年,所収)である。

 1 茂木俊彦(教員)によるコメント。

(2)

(1) 「公的社会教育」と「自己教育運動」という概念の内容と両者の相互連関について。

 例えば公民館活動のような「公的社会教育」の中で「自己教育運動」が行われる時,

 それをどのように分析すべきなのか。また,1950年代の社会教育行政の反動化に対し,

 「自己教育」機能を果す「公的社会教育」団体が反対の態度をとったことをどのよう  に分析するのか。これらの諸事実から両概念と相互連関を明らかにするためには,「社  会教育実践」の分析が不可欠である。そうすることによって「公的社会教育」内部で  の実践上の矛盾が解明可能となり,個別的実践を「自己教育運動」上の典型として位  置づける規定も明らかになると,考える。

(2)各階層(「農文協」・「労働者教育協会」・主婦等)における,「自己教育運動」の  学習課題・方法の共通点・相違点を明確に分析すべきではないか。

H 笹川のリプライ

(1)について  「自己教育」概念について,さしあたり,学習の自己指導を現実化するた

 めには,当人がその必要性を自覚すること,つまり自覚の組織化と捉える。そしてそ  れは歴史的にみれば,公的な自己教育活動に先行していた。戦後期(1952〜55年)に,

 「自己教育活動」は「公的社会教育」でもあるようになる。両概念の相互連関を明ら  かにするためには,「社会教育法」の矛盾構造の分析等を通じて,大局的には「公的  社会教育」へ攻めこむ図式をとりながら,個別的には「公的社会教育運動」内部の矛  盾をとらえる立場をとりたい。

(2)について 本論文では学習課題を,科学・学問の大衆化の問題を限定した。

皿 討論

(1)一つの時代「自己教育運動史」を表わす場合,どの事実を典型として取り上げるか  は重要である。本論文で取り上げた実践は,「運動史」を表わす典型であるよりも「実  践史」に傾斜している。さらに本論文では「実践史」「政策史」が対抗基軸になって  いるが,社会教育史においてそれは可能なのかどうか。

(2) 「自己教育」概念の精緻化もさることながら,学習者個人の内実の変遷・意識史を  解明する必要がある。農民・労働者・婦人・学生等の多様な階層を対象とする社会教  育においては,学習要求内容も異ってくるはずであり,思想・学問ばかりではなくス  ポーッ・リクリェーション等,より間口を広くとらないと,個々人にとっての学習の  必要性が運動へ転化してゆく過程を明確にできないのではないか。そうして初めて一  つの時代の社会教育が「教化政策」として機能したのかそれとも「自己教育運動」と  して機能したのかを解明できるのではないか。

W 笹川のこれまでの論文については佐藤広美(D3)がコメントをしたが,共通テキ  ストに関わる部分の記録のみをここには載せた。その論文は以下の通りである。

 ○「戦後社会教育学習理論の出発と『主体性論争』」(『青年期教育研究』No 5,1976年)

 ○「戦後民主主義と社会教育」(碓井正久編『日本社会教育発展史』亜紀書房,1980,

  所収)

 ○「『成人の発達』分析のための『作業仮説』」(『日本社会教育学会紀要』No.17,

(3)

   1981年

  ○「教育科学と成人の学習」(『教育科学研究』No 1,1982年   (文責 中山一樹)

 第4回(1985年6月27日)

 茂木俊彦・平田勝政・高橋智「障害概念の教育学的検討」(『人文学報』第171号,1984 年3月)の検討。コメンテーターは,村上純一(M2),富田充保(M 2),笹川孝一。

 本論文は,最近の障害概念をめぐる国内動向を,国際的動向を視野に入れつつ整理し,

それを教育学のアスペクトから検討して,いくつかの見解を提起したという点で意義をも

つo

 コメンテーター村上は,執筆者らが,障害児教育の目標設定,内容と方法の選択のため に必要なのは「環境的条件を無視したところでなお残る個人レベルの客観的なものとして のdisability」の測定・評価であるとしたことに対して,そこに教育実践の観点が含めら れているか,それは必要ないのか,という疑問をのべた。

 富田は,執筆者らの「教育的アプローチは主に能力障害に関わる」との見解に対して,

障害が重い場合には,機能・形態障害への働きかけが能力障害への働きかけになるという 問題が実践的・理論的課題になる場面も多いのではないか,とのべた。

 笹川は,障害概念の検討を,障害教育実践の基本的視点を共有するための不可欠な作業 として,その積極的意味を評価したうえで,上田敏の「実存の次元においてとらえた障害」

に対する執筆者らの批判をめぐって,その論述に不整合性があるのではないか,とのべた。

 村上のコメントに対して,高橋は,個体の障害を客観的に測定・評価しないと,それに ふさわしい自助具・装具など教育条件の整備や発達の診断,学校選択の問題が不正確にな

ること,また環境物条件は流動的であることをあげ,あえて「環境的条件を無視したとこ

ろでなお残る……disability」のiHIJ定・評価が必要であるとした,と答えた。

 坂元忠芳は,「『やまい』(体験としての障害)』という媒介回路」「媒介変数すなわち子 ども.青年という人格主体」という用語について,そこに教育学的なアプローチの意味付 与をしようとしているように思えるとしながらも,その用い方には疑問がのこるとした。

 これに対し高橋は,「媒介変数」という用語はふさわしくないかもしれないが,これま でimpairmentにはたらきかけることが障害児教育の役割だとされており,そこでは子ど

も・青年の人格と諸能力の発達は一斉度外視されて様々な治療がなされてきたのだが,そ うした傾向に対する批判的な立場から,人間を媒介とする(経由する)ことがなければ,

障害と障害児教育の関係は成立しないことを強調したが故の表現であると答えた。

 両者の論議をうけて,小沢有作はimpairment, disabiity, handicapはfunctionalな概念で

あり,一方,人格実存などは別なカテゴリーの概念であって,これらを意識的に使い分け ず,教育学研究の中で結びつけたため,違年感がありわかりにくいのではないか,(たと えば「人格にはたらきかける」など),院害児教育のカテゴリーに即して「障害」の概念 を検討する必要がある,と意見をのべた。

 最後に,高橋の方から今後の課題として,障害概念を自分たちの教育的カテゴリーで検

討すること,具体的には,イギリスでの「特別な教育的ニーズをもつ子ども」についての

(4)

研究動向をふまえて障害概念と障害児教育との関係をみなおすこと,があげられた。

      (文責 越田伊紀子)

 第7回(1985年11月14日)

 今回は佐藤広美(D3)論文の検討を行った。「教育科学研究」第4号(1985年7月)

掲載の「人間的欲求の疎外と能力主義教育一一他者関係の問題を中心に〈覚え書き〉一」

をめぐってである。コメンテーターは黒崎(教員)であった。

 黒崎はまず佐藤論文の簡単な要約を行い,いくつかの問題点を指摘した。1:三項関係  (自己一他者一学習内容)の論理をことさら言いたてる理論的意義が自覚的に貫かれてい

ないようにみえる。2:この論文の仮説と言うべき三項関係を,一定の手続きをもって検 証を可能にするテーマにまで具体化していないのではないか。3:ジラールのマルクス批 判とこれに対する著者の反批判に関する整理に難点があり,この問題は初期マルクス研究 全体についての見識を要求する,の3点である。そのほか,佐藤論文の価値を損なうもの ではないが,著者の長期的研究計画と関運でいえば,この論文の指向するところは一般的 な教育行政学の領域とは全く重なるところが無いように思われる,との懸念が付け加えら

れた。

 これに対し佐藤は,問題点の1については,三項関係の論理は全編に貫かれていないと いうことは言える,2については,たしかに自分の内面的直観に任せた論文だ,検証の方 法を今後考えていこうと思う,3については,これから少しずつ研究していきたいと答え,

最後の研究領域の問題については,やはりパーソナルな関係から教育制度を考えつつ教育 行政学に何か組み入れていきたいと思っているとしめくくった。

 続いて,笹川(助手)によって「覚え書き」を印刷することの意味が問われ,論文を書 く上での基本的な手続き一従来の見解の整理とそれに対する佐藤自身の批判的見解を提 出すること一が不十分だから印刷するまでには熱していない,との評価が述べられた。

佐藤は,たとえば欲求論と他者関係の問題では,マルクス初期論文について自分自身の批 判的見解を提出したつもりであると答えた。

 その後,論文のキー概念と思われる他者,二項関係・三項関係をめぐっての様々な質疑 応答や参考意見の提示等が行われた。例えば,「ここにおける他者はどういう意味で使わ れているのか,論文に即して説明をしてほしい」(小沢・教員),「制度論につなげようと すれば少なくとも二項関係と三項関係における構造化を現実態の中で問題にしながら,な おかつそれの持つ既成研究における構造を一応踏まえなければならない」(坂元・教員)

等である。そして最終的に佐藤論文の独創性はどこにあるのかという議論へと進み,三項 関係と能力主義批判の先行研究の再整理が課題であるとされた。    (文責 権在淑)

 第8回(1985年11月28日)

 今回の総合ゼミでは,最近発表された坂元忠芳氏の一連の論文(A『現代における子ど も,青年の発達の危機について一「商品化」,「物化」一「物象化」の視点から一』,

B『個性の形成と教育実践への視角』,C『現代の子ども,青年の発達における「幼なさ」

の諸相について』)に関する検討が行われた。コメンテーターは,柿沼秀雄(助手),中山

(5)

一樹(D3)であった。

 まず柿沼は,三論文を貫いている坂元の問題意識を,「現代日本の子ども・青年の発達 の危機を,「同一化」作用の矛盾構造,ないしは「同一化」作用の危機の問題としてとらえ,

今日の教育実践の基本課題と方向を明らかにすることにある」と指摘し,更に三論文の構 成について,「Aでは,「同一化」作用の「物化」一「物象化」関係への「内在化」過程の 展開を,Bでは,「同一化」作用と「個性」形成の関係を, Cでは,「同一化」作用の危機 のあらわれとしての「幼なさ」の問題をとりあげている」と整理した。そして,論文に対 する感想として「日本における「マルクス主義教育学」がこれまであまりとりあげてこな かったと思われる側面に切りこんでいる点で注目に値する。」とし,1成熟した資本主義社 会における教育問題を分析していく上で,物象化という視角は欠かせない。」と,坂元論 文の分析視角に対する共感を述べた。次に,問題点として以下の事柄が出された。第一に は,論文で述べられている「自然的共同的関係のはやくからの解体と,市民社会的関係へ の彼らの渡り行きの困難性」という点に関して,「自然的共同体的関係」と「市民社会的 関係」ということの教育的意味をどうとらえるかである。柿沼は,自然的共同体的関係に つvlては,「個人の性格形成としての教育は,家族に,倫理的=政治的教育は地域社会に 委ねられ,民衆の日常文化と政治的自治能力は,その両者に基礎を置いていたという意味 でとらえてよいか」,また市民社会的関係については,「経済の中心が,その伝統的単位で あった家族と地域社会から巨大な法人企業に移行すること,行政手段が匿名の客僚機構に 集中すること,家族と地域に代って学校教育が教育活動を独占すること,といった事態を 想定してよいか。」と問うた。第二には,子どもにさまざまな形での一方的「同一化」を 強制している学校の管理主義的支配が何故成立するかという問題を問う必要があるのでは ないかという指摘である。第三には,画一的・類型的「同一化」作用を拒否し,自らの人 格の個性的形成へと向かう要求に教育実践の根をすえて課題化しようとするときには,ど うしても学校そのものの分析は欠かせないのではないか,という指摘である。また,それ と関連して,ヘーゲルが『精神哲学』の中で,「ブルジョア社会の公的秩序を作り出すの は学校である。家庭は,子どもの直接的個別性における価値を愛すべきものとして認める が,学校は,一般的規制や秩序にしたがって子どもを形成する。そういう意味で,学校は,

家庭から市民社会への移行を形成する。」と言っているが,こういう問題をどう考えるのか。

やはり,市民社会との関連で制度としての学校を分析する必要があるのではないか,とい

う指摘がなされた。

 次に中山は,主にCを中心にしながら,養護学校での登校拒否児との関わりの経験を紹 介しながらコメントを行った。

 以上のコメントを受けて,討論では,主にA・Bの論文を中心にして議論が展開された。

まず坂元は,学校における管理支配が何故成立するのかという柿沼の指摘に対して,次の

ように述べた。

  「今日の体罰問題の必然性を,今日の学校構造の中でとらえることは非常に大事である。

管理体制は大きな枠組としてはあるが,特に強い管理体制がしかれているのは,輪切り体

(6)

制の真中よりもやや下に位置つく学校であるようだ。全体として管理主義が支配している といえるが,そのいくつかの「ゾーン」の中で,下辺の部分に矛盾が集中し,体罰や管理 主義が普遍化してきているのではないか。それは,単に日本の学校の中に存在していた精 神主義が復活してきたと見るだけでは単純であり,新しい条件の中で再生産されていると 見るべきではないか。その点についての学校論に即した検討はこれからの課題である」。

 また,ヘーゲルの学校のとらえかたについては,次のように述べた。

  「ヘーゲルの学技論や学習についてとらえ方は,もっと論議してみる必要がある。ヘー ゲルは肯定的に近代学技のモメントをとらえているのではないか。ヘーゲルは一般的な規 則や秩序は,子どもがどうしても通らなければならない訓練だととらえているようだが,

だからこそ,子どもの中に矛盾が生まれ,他方で「夢見る魂が市民社会の子どもや青年の 中に生まれてくる,としたのではないか。近代学校の古典的イメージについては,もう少

しつめて考えていく必要がある。

 「物象化という問題を感情葛藤論というレベルで切っているが,認識論のレベルまでは どうちながるのか」(佐藤広美・D3)また,それと関連して,「かつての学習意欲論の試 みとこの論文はどうつなが一てくるのか。能動性と受動性との関係や認識的契機という問

題はどうなったのか。」(茂木)

 これについて坂元は,次のように答えた。

 「認識的契機についてはもう少し展開しなければいけないと思っている。「同一化」作 用の中に,「認識の共有」ということをいれているが,現在の物象化関係の現実態は気分 の部分にとりわけ典型的に表われているように思える。そこを一回くぐらないと認識の共 有ということもリアリティを持たないのではないか。この論文では,それが前面に出てい

る」。

 それから議論は,実践論と制度論をつなぐ視点へと展展開しかけたが,時間的な関係も あり,それは今後の課題として持ちこされた。         (文責草野滋之)

 第9回(1985年12月12日)

 片岡洋子(D4)の論文「現代の生活綴方教育実践にみる親子関係の問題一丹羽徳子 先生の教育実践分析の試み  」(『教育科学研究』第4号,1985年7月)の検討。コメン

テータは越田伊紀子(M1)である。

 片岡は別の機会において,これまで生活綴方が追究してきた「ありのまま」に表現させ るという方法に対して,次のような疑問や検討課題を提示していた。すなわち,①生活綴 方表現は書き手の内面の全てを表わすものではないこと,②生活綴方の表現は書き手をと

りまく人間関係に媒介されること,③表現するかしないかの問題を,「題の二重化」(書け る題と書けない題)と表現の「自由」(書かない自由も含めて)の観点から検討すること

の重要性,である。

 片岡論文はとくに第3の問題意識にもとづき,1984年9月から10月までの1カ月間,岐

阜県中津川市立神坂小学校の丹羽徳子氏の学級(第5学年)に机を並べて氏の生活綴方実

践を参観.分析し,思春期の親子関係の問題を軸に「書かれたことで,書かれていないこ

(7)

とを同時に映しだすような,表現されるものと表現されないものとの緊張関係が,現代の 生活綴方実践の中でどうおこっているか」の解明に取り組んだのであった。

 コメンテーターからの批判や議論の展開を整理してまとめると次のとおりである。

 1. 「題の二重化」の原因となる親子間の不安・嫌悪感という感情的葛藤が,子ども社   会認識の獲得によって納得させられてしまい,葛藤の意味が見えなくなる場があるの   ではないか。また逆に,親・家族における安定した部分を見つめさせていくことも,

  現実の意識化という点で実践的に求められている方法ではないか(越田)。一概念   の使用の不徹底さを痛感している。仮説の段階だが,不安・嫌悪感の葛藤の中に親子   関係をつなぐ環がどのように形成されるのかを見つけたい。またある社会認識を獲得   することですぐさま子どもが不安・葛藤をしずめることはできない。不安定なものを   通して安定なものを見つめさせることも重要で有効な方法である(片岡)。

 2.思春期という対象把握の問題について:片岡は久美子が思春期に入っていると考え   ているが,少年期特徴がずい分とみられる。思春期への思い入れから,作品をリアル   にみるのではなく,不安・葛藤を拾い上げている傾向がありはしないか(茂木俊彦)。

  プレ思春期・少年後期についての教育学的・心理学的分析がまず必要ではないか。ま   たかっての思春期像をもって分析しているのではないか(坂元忠芳)。久美子の作品   テーマが「牛の乳しぼりが私の仕事のなかにふえてうれしい」と働く喜びを書いてい   るのに,労働場面を分析からとおして思春期の親子関係の問題に焦点化している点に   無理を感じる(小沢有作)。一久美子の問題は思春期固有のものなのか,少年期で   もみられるものなのか,前提的作業を欠いた感覚的把握ではあったが,子どもらしい   生活綴方とは読めなかった。しかしそれを作品に則して明確に提示することはできず,

  今後の課題としたい。次に思春期像の問題では,かつての心理現象を示さず,ケロッ   と明るく不安など感じていないような行動形態で,少年期でもあり,不安を隠す仕種   などはとても大人びていると感じている。坂元が指摘するように,綴方によるゆさぶ   りで「題の二重化」とは異なった意味で,現代の思春期前後の子どもの内面の真情が   本当に出てくるのかどうかという問題については,再検討の必要性を痛感している。

  次に小沢の指摘であるが,久美子は働くことを必ずしも楽しいとは感じておらず,ク   ラスの他の子に対してうらやましさをもっており,無理に葛藤をみているともいえな   い。小沢は働くことにより社会に目を開かれている過程の分析を提起されるが,それ   はいわば社会認識の形成過程の問題であり,生活綴方教育はそれと同時に子ども自身   の感情分析を担わなければならないと考えている(片岡)。

 以上が論議の大要であるが,片岡が提起した生活綴方における「題の二重化」という重 要な問題について十分に検討できなかったのは残念であった。その原因として片岡の言う

ごとく「実践記録ではなくて目前の実践の対象化と分析の難しさ」もあるだろうが,茂木

 も指摘したように思春期問題に対する生活綴方の役割への「期待過剰」にもその一因があ

 るように思われた。片岡は今後の研究の進め方として,丹羽実践を一度つきはなしてみる

 という意味でも,「題の二重化」の問題が,これまでの生活綴方教育の遺産の中でどのよ

(8)

うに言及されているのかを析出する作業に取り組みたいと述べたが,記録者も同様の感想

をもった。      (文責 高橋 智)

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