徳川上代の浪人政策
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度 弁祭 八.
浪人に付いての字にはこの外に牢人とも書く︑即ち主君に離れ縁を失った武士であって︑武士の失業者とも言ふ
ペきものである︒叉浮浪人︑ウカレ人の意味である︒
後世乙の牢人を浪人と書くに至ったのは﹁世話用文章﹂に﹁ヰ人は字さへ︑あさまし穴冠り︑牛か午かと人に一五 はれて﹂とあるによって知られる如く︑その文字を陥としたからである︒
浪人は武士たる一階級が出来てそれが主従闘係で結ぼれ主君の奥ふる停株と臣下の忠義的奉仕とが密接不離の関 係を注して所謂封建枇舎が完成した後︑その主君の封縁に離れた者が浪人となったのである︒
江戸時代初期に於ける枇合問題として︑牢人の重要であった所以の第一は幕府の一粧品百組織に劃する態度との関係
によ
る︒
在戸幕府の吐曾政策を約言すれば武士を中心とした最重な階級制度を確立し︑とれによって祉舎に平和と秩序と
を興へると共に︑卒和による武士
D
吐合的地位の低下を防ぎ︑幕府自らを安固にせんとしたものである︒然るに武士の失業者︑落伍者たる牢人の護生は武士階級の動揺であり︑その量的衰替を意呼すると共に頓て枇舎組織に費動
徳川上代の浪人政策
四
徳川上代の浪人政策
~H
を来たも︑平和を奈し︑秩序を破るべき危険の萌芽であらねばならぬ︒加之枇舎の平和と階級の同定とが︑常人の
活動を不自由ならしめ︑その就職難の度を増し︑その危険性を加ふる所以でもあった︒されば騒飢と麗勤との鞍園
の世にば五程問題とならなかった牢人も平和と安定の江戸時代に入つては彼等自らも苦境に陥ったと共に︑一位舎か
ら見ても危険分子たるを菟れなかったのである︒共はその教の多かった事である︒
多数の牢人の生じた原因は江戸幕府が出来それが確立されるための犠牲として︑多くの大名が取潰されたととが
主で
ある
︒
とれに蛍時猫遺存した武士の戦闘的風雨が助国と友った︒
大名の除減封は幕府の威椛を立てるためにも領地を整理する必要からも司巴むを得たいととであったが︑その理
由又は口賓とたったのは徳川氏と戟って股れたもの
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嗣子が幼いか又は無いもの及び幕府の法令に油民営節度に服し占泣
いも
ので
あっ
た︒
徳川三代の聞に諸大名の改易減封せられしものは弐の如き多敢に上ってゐる︒
軍事的原因によるちのハ閲ケ原︑大阪公役の結果︶改易九十二家︑五百
O
七寓
石︒
族制的原因によるもの︵嗣子たきか幼弱左るもの︶改易四十六家︑四百五十七高石︒減封十ご家十六高石︒慕
府洩牧︑四百二十九寓石︒
I ;
法律的原因によるもの︵法令︑違反及︑ぴ疑獄﹀
改易五十九家︑六百四十八高
T F
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減封同家︑十四高石︒幕府渡牧︑五百六十五高石︒以上の通りである︒
江戸時代
κ
入つでも︑その初期には猶職国時代の風備が遺存して居たため︑主君も僅のことで改易し︑家屋も些一終なことで立退︿ものが多く浪人の後生を多からしむるに典って大であった︒要するに一度牢人しでも再び館参す
るか他に仕へる事の容易であった鞍園の好景気の夢が醒めない震であらう︒
改易の多いのも主君も戟図的重刑の風を遺存して居た上に実臣も立退くを意としない同一の精神から行動も故
縦であり主君にも不従順なものが少くなかったであらう︒
かくの如くして生じた数十寓の浪人が文武の素養があり一位舎上最優れた地位にあった失業若であって見れば枇曾
問題として重大である乙ーとは明でるらう︒
浪人の重闘すべきは単に散の多いためのみではなく・その働の大い割に於℃殊にそうである︒幕府は後述するや
うに種
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の策を以て浪人を居一迫したが︑彼等の活動は却てとのために一居著しかったのであるc
首代文化の護連に寄興するととの最多がったのも浪人であり︑あらゆる枇舎の事援に際して︑先づ第一に現にれ
て来るのも同じく浪人であった︒武革︑軍製等が彼等によって著るしい提歩を見たは市す迄もない︒印儒事の如き
も大名をなせるものの大部分は浪人生活の瞳験者であった︒町人文皐と呼ばれた文事ですら︑俳譜では貞徳宗国芭
蕉の三組悉浪人である︒歌道では長晴子の大名出たるを初め契沖︑茂睦の二先費も浪人である︒以て一般配察す
徳川上代の浪人政策
四
徳川上伐の浪人政策
四 四
べきである︒とれ江戸時代初期に於ては蔵士階級が枇合同上の地位の高いのみなら歩︑とれに件ふ買力を持って居り
武力は勿論︑教査に於ても富に於ても遣に他の階級を凌いで居たため︑浪人も本来の素質が勝れて借た上に総仕者
の如き勤務もなく︑在闘の資任もないことが文化上の貢献を可能なら﹇めたものである︒
枇合上の事制捜に浪人の関係せる乙とは一一暦著しかった︒要するに越境
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ーがった彼等が自己の運命を開拓せんとして試みた絶えぢる努力の異なる方面に現はれたものに外ならね︒かくの如き重大な意義を有せる浪人に封し幕府が
如何なる態度を取ったか︑郎大阪陣以後白井正雪事件の勃脅するまでの間は最鹿迫︒甚しかった時である︒大阪陣
に於て浪人のために手強き反抗を支けた乙とが主であり︑島原の凱に於ても誠人の活動の侮り難きを感巴たととが
更にとれを助けたと思はれるのが正しいだらう︒
大坂陣は浪人の幕府に封ずる最初にして且最大な反抗であった臨に於て︑一拡曾史上の重大な意義が見出される︒
大坂誠には問より譜代の土も少︿4なかったが大坂が器兵に決し︑大野治長等が浪人を招くに及んでは﹁名右牢人
此度何レカ践ルベキ﹂と山本日記に開せる如く︑久しく天下の鑓を窺って居た彼等が争って入城したととは一一日ふ迄
−も・泣い︒約十寓と謂はれた龍城者の大部分は浪人の臆募者であったらしく︑とれが幕府の設けた到る所の闘所を監
副帆を脆して入境しだものであるを昆ても首時天下に浪人の多かったととが察するに十分である︒
犬阪へ入城した浪人め経歴を分けると改易された大名大野道大織田摂長等あり︑大名︒一族家臣の立退又は改易
によるものに後藤基攻︑塙直之等有力なものが沙くたいが最も著しいは闘ケ原の鞍数者であった︒即長田幸村︑長
曾我部盛親等の大名子弟でるった︒
とれは豊徳二氏の争ひといふ特殊な闘係にもよるが営時嗣ケ原浪人の最彩しかったためでもあり︑やがて幕府の
大阪浪人に封ずる態度の酷烈となる機縁を含むものである︒
印幕府は彼等の手強い抵抗によって浪人の甚だ恐るパきことを悟り︑今後もかくの如き浪人が多敢に存して︑反 幕府的傾向を績けた・ならば一豊臣氏を減しても民の平和を期待するととは困難を感ぜざるを得ない︒
さ礼ぽ大阪浪人の酷烈た刑裁によって︑反幕府的傾向の浪人の教を減やると共に幕府の威樫を示し︑反抗的議分 を一掃せんとしたものと品はれる︒日制門の如きも昔時としては珍しいととではないが︑上は内大臣の会建から下一 般勝士に至るまで.かく多敢に及んだことは我が困の歴史にもその例に乏しいととで人心に奥へた筒勤も察せられ とれたけ幕府の威力の表示としては妓果があり︑幕府に抗議することの不可能を感ぜしめたととも著しかったで る ︒
あ一
らう
︒ 而しでかくの如きととが無遠慮に断行せられた所に︑関ケ原佼以後に於ける幕府の確立が明に看取せられる︒
大阪陣後浪人抑屈に努めて%た幕府は島原の乱によって更に浪人の活動を目撃し猶侮るべからざる勢力たるを感 巴た上浪人自身も就職の困雑は益々茜しくなり︑生計に窮するものを増すと共にその行動も漸︿危段性を帯び て来たととが幕府の浪人政策の硬化した原悶であらう︒この後二年にして起った白井正雪の大陰謀を醸成したもの
徳川上代の浪人政策
四 五
徳川上代の浪人政策
四
は浪人の窮迫と幕府の浪人政策の硬化に外ならなかった︒
此の頃の墜者の浪人制策に封しての意見︑町大宰春事一の浪人制策に封しての例を事げる事にする︒即その文に﹃愚
克縞に
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ふに浪人の管轄は朝廷の士大夫六位以上の人の中にて一人是を定め副投を附け1
其下
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卒従
を附
て都
下 の諸浪人を主領せしめ︑凡浪人の都下に居住す守句者をば其の来臨を正し火組の由緒を詳にし・其姓名並に都下に ての居鹿を帳簿に記し︑浪人の中にて叉先祖正しく︑家産も豊に℃人品も好き者を都下の四方に一人宛定て共長と して政令を停へしむべし︒・抑斯友らば浪人たる者皆廉隅をほ萌して︑無頼の行ひをなす者少かるべし︒又近年は家 筋ある浪人に非やして農工商買の中よりさもらしき者は浪人と慌て︑ニ刀を帯し都下に居住して市民を歓く者頗る 多い︒若浪人の支問所を立て共来蕗を正さば︑との殺の輩自ら止むべし︒是治世の柿にあるのみ友らや︑又武備
の一
一切
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﹄と
管一
口っ
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る︒
一冗和寛永期に於ける幕府の浪人政策は朝廷︑犬名に封しでもそうであったやうに︑何所まマも強康一主義であった︒
営時の抑肱一覧は掛郎迫放を行ったこと摘を認めたとと︑及び寄位を制限したととの三つが主左るものであった︒
浪人掛即迫放は抑監の最甚しきもので︑浪人と並ペて危除服した切支丹の如く︑とれを悉く海外に追放するとと
は出来たかったが︑地方的の温故は浪人花も行はれた︒
幕府企てて最も著しいのは一冗和九年に行はれた京都浪人掛である︒大名としては尾張家の未年の浪人掛がある︒
との一冗和九年九月十八日幕府は京都所司代板倉重宗に令を偉へて京都に於ける浪人を誼放せしめたが︑その範国及
ぴ罰則は左の簡書院よって明である︒次にとれをしめず︒
﹁ 葺 ﹂
一︑
重而
奉公
可レ
仕と
存牢
人可
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事︒
一︑出家同前に罷成︑寺に居住仕︑出家之不ν致
ニ皐
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4宮
・人
可レ
掛事
︒
一︑
従=
主人
−合
力を
取.
京都
に居
住之
牢人
可レ
梯事
︒
一︑京都を被レ出候諸牢入︑家屋敷俄買候儀成かたきもの在レ之者︑其家町に預り置︑何時成共可レ詩レ貰事︒
一︑公儀御存之牢人無コ異儀−可コ指置﹁但其牢人向後奉公開敷候旨︑詑余之牢人抱置間敷之由︑諸親類知者拾人輿
堅一
札其
町へ
可コ
取置
−事
︒
一︑
年久
商い
たし
︑妻
子を
持︑
在付
候牢
入︑
其偉
可ユ
指置
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右同
前に
一札
可ユ
取置
−事
︒
つ公儀御存之牢人蛙年久商賓之牢人にして︑此方市切手可レ出候問︑踊致コ穿盤−可エ申上司事︒
追放の範園につき注意すべきは﹁重而奉公可ν仕﹂か否かが第一一保件となったととで再び主取する意志のたいと
とを誓は訟ければ︑幕府に知られた浪人で
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長年商買をして居た町人化した浪人でさへも放逐を菟れ・なかったのでるる︒とれ再び主取せんとするものは現在の地位に満足したいもので武士としての蓮命の開拓を希望するだけ・
その行動に劃して幕府は危険を感じたためである︒されば主取に一歩近づいたものとも云ふべき浪人で大名から合
・カを受けて居るものの兎れ占なかったのは営然である︒何故にとの京都に於てのみ浪人掛が行はれたかは明ではない
徳川上代の混入政策
四 七
徳川上代の浪人政策
四
八
が京都が朝廷の所在地として幕府の最警戒を要した所であったことが根本の原因であらうと考へる︒江戸に於ける浪人掛の議は由井正雪事件の後であって老中酒井忠勝によって殻せられ︑保科正之等が賛成したが 阿部忠秋がとれに反封し︑井伊直孝亦反釘設を支持したため遂に行はれなかった
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忠勝の追放設は日本園中の浪人で江戸に集まる故悪事を企てるに至るといふ理由であり忠秋の意見は浪人の江戸に来るのは身代有付のためで−b るから︑江戸を迫はれては身代稼の詮を失ひ或は乞食非人となり︑或は山賊強盗と化し︑却て一居闘の害に友ら
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といふにあったのである︒前には未だ何等の事件もないのに掛はれた浪人が今や騒動の暴露した後でありながら︑
彼等の就職を慮って遁放の断行を中止せられた所に︑幕府の浪人政策の鑓勤を明示して居る︒浪人掛は地方的の事 に過ぎなかったが︑とれに反して普遍的に永く彼等を苦しめたのは構の公認であったのである︒
構とは前の主人からその浪人の他へ仕へることを許さないことで詳しく言へば武家奉公構である︒乙れは主人に 封して不義を債いたか︑又は何等か罪を犯して脱走した如き場合には営然なことであった︒構がかくの如き際のみ に行はるるならば幕府がこれを認めたのも治安を維持する上から必然なことであったのだ︒然し前主白樺は本人に 罪ある時に限らや︑主人の了解を得て美しく退身した場合の外はこの事が起り勝であったため︑浪人の就職難に大 影響を興へたのである︒
家臣の立退くととは理由の如何に抱ら歩︑主人から見て喜ばしくない乙とは勿論だから︑とれを措しむの飴り
或は本人
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情に訴へ︑或は一族知人に責を負はしめて引留めた場合も多く時には怒って諒伐を加へ︑又は加へんと
したととも珍しくたかった︒
黒田長政の毛屋主永を思ひ止まら吃︑叉黒田長政が後藤基弐を討たふとした例がある︒
されば立退いた者に劃し武家奉公を構ふ位は言ふまでもあるまい︒
江戸幕府に於てもその初めは罪ある浪人の召抱を禁じたに止まった︒
然るに寛永九年九月廿九日に旗本
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下した諸士法度に至って︑構有レ之奉公人下レ可ユ抱置−事と明に一般的に構を認める態度を示し︑同十二年六月二十二日の武家諸法度︑及び同年十二月十二日の諸士法度に更に詳細な規定を見
るに
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る︒
とれによれば本主の障即構が一般的に認められるやうになったと共に︑従来遁放されるに過ぎ・なかった叛逆殺害
の重罪人は本主に引渡さるるとととなった︒
車に無断で立退いたに温曾﹄ないものは小者仲間のみ本主に返して︑士分のものは見出さるるものと解すべきであ
らう
かく幕府が木主の構を重んじとれを公認するに至ったため従来相封的であった殻呆を一般的ならしめ︑ために ︒
浪人の就職をして著しく困難の度を増さしめた︒
浪人の居住に関する取締も大阪以後最重になった︒
浪人は寺院や武家邸に居住を許されないのみなら歩︑町家と雄︑詮人を立︑町奉行の承認を受けねば寄位すると
徳川上代の浪人政策
四 丸
徳川上代の混入政策
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とが出来・なかったのは幕府が浪人を危険硯し・その行動を抑制し︑監観するためであって寛永十一年家光上洛の際
には公領私領の別注︿畿内全般に亘る大規模な浪人改さへやってゐるのである︒
かくの如く幕府及び諸大名の取締の巌しさが浪人の行動を束縛し・彼等をして高天厚地身を安んやる所なきを骨
たしめたと共に︑彼等の性質を悪化せしむるに至った︒
しかし慶安以後に於ける浪人の寄住に封ずる幕府
O
態度を見れば︑武家屋敷︑町家は勿論寺院に於ても縁ある浪人の寄住を許して居り︑唯奉行所に帳簿を備へて必・?とれに記せしむるととに止めた︒
以上越べ来った如く浪人の身上稼卸就職運動は枇舎の安静と幕府の塵迫のため益困難に陥るに至った︒だからし
て慶安四年の白井正零の陰謀はかくして念化して来た浪人が軍撃者を中心として平地に波調を捲き起之して︑その
聞に
一僚
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路を
見出
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とし
た試
に過
ぎ−
なか
った
︒
かくの如き事件の起こったととは幕府をして.更に浪人に劃する警戒を一居強︿感ぜしむるに至ったのだ︒
然しその方策は従来と粕趣を異にし︑主としてその散を減じ且危険性を除かんとするに至った︒浪人減少策とし
て一方では護生白主因たる大名の改易を減歩ると共に浪人に劃しては就職のチャンスを多からしめた︒
とれにより浪人の敷を減少させ︑枇舎の平和化に従ひ︑彼等も自然平和的事業に向ひ浪人騒動が影を誠すると
共に彼等の文化上白貢献が漸︿著しくたって行く︒
浪人は然し枇舎的要素として存在し決して滑誠したい唱