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開 発 に 伴 う 補 償 問 題

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(1)

第 第 第 第 第 第 結 六 五 四 三 二 一

K

K

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章 憲 章 憲 章 章 言

庄川流域の概要

荘川村の概要と御母衣の発電事業による水設問題

白川村の概要と椿原の発電事業に伴う補償問題

上平村に於ける発電事業に伴う補償問題

平村に於ける発電事誌に伴う補償問題

上平村及び平村に於ける生活様式及ひ社会構造の変革

円詳細目次は巻末に認すJ

4b1 

元 廉

三A 士 口

6

:15‑

地域社会がこうむる諸影響も広汎且つ深刻なも白となるであろう︒そしてこ

の場合超々た形をとる補償問題はいよい之複雑化するであろう︒とりわけ大

規模なグム建設に伴う水泣補償を中心とする諸問題は︑最も重大な問題た︑川

ん︑としている口過去に於てもまた現在に於ても︑かかる補償問題のために工

事は辺廷し︑計画は変更或は放棄され︑或は無益の社会的混乱をひき沿こし︑

無用の巨額の経費を支出した事例︑或はそのおそれが存在するのである︒

同土総合開発は︑わが国の社会の全般的な社会的︑経法的発展を日開とす

るものであるが︑同時にそれ自体その関係地域の社会的︑経済的発展を桔極

的︑有機的に推進することを目的とするものであるから︑とれに伴う補償問

題もかかる見地から処理されなければならない︒即ち従来の如き単に区々的

と産業の発展の基礎を築こうとする国土綜合開発計国ゎ中で︑電源・溌翫用水・洪水調節その他水資源の開発・利用・保全を目的とする水利用計闘は︑

特に重要な部分を占めている︒ところでこの氷利用計図には︑多くの場合補

償問題がつきまとっている︒今後︑水利用計百が山花々大規模な形で︑且つ数

多く実施に移されようとしているが︑これらの突拍に当って︑関述地域に於

ける諸資諒よ詩産業も大きな影響をうけ︑まに被害地域の住民も多数になり

(2)

富山大学紀要経済学科論集

な被害者個人の損失に対する消極的な補償を考えるばかりでなく︑個々の補

償も地域の積極的な発展と結びつけて処理されなければならない︒更にまた

気の毒なる犠牲者に対しては︑被害財産の補償に止まらず\被補償者が生活

の安定をとりもとすまでの補償を意味すべき生活補償をなすよう処理されな

ければならない︒これはヒユ才ニヂイの原現であり︑新憲法の基礎をなす某

本原現である︒以上の昆地に廿沿いて︑補償内容︑補償方法︑補償手続等の合

理化が工夫されなければならないのである︒

過般総理府資掘調夜会会長から内閣総理大田に畑町間せられた﹁水資阪の開

発等に伴う補償処理に関ずる勧合﹂汽昭和幻年ロ月部日附︶の︑平一意に我々は全

く同感するもので︑該拘告に崎られた諸措閣内が速に実抱に移されることを熱

Q

とこゐで︑との﹁劫品こも力説している如ノ\補償問題は突に抱雄多岐に

一双り︑且つ深刻な問題であって合理的な解決の方法︑理想的なる案を見出す

ととは︑容易なわざではない︒それにはまず補償問題の複難性︑深刻位︑解決

の的雑なることの突惑を把握することが先決問題なのである白そのためには

過去に於什る及び辺校問題となっているところの補償問題を詳細に観察し︑

分析し︑批判することが必要である︒我々の調査研究はこの目的で行われた

電諮問発等のためのダム建設による水没補償問題並にこれらが当該地域社

会に及ぽす詩⁝影響の問題は︑我々が久しい以前から一深い関心と興味をいだい

いてた研究題目?あったQ富山県内としては︑さきに県営発電事業として計

画され︑次いで日発に移され工事途中にして戦時中に中止された存峰金地︒

ダム建設による氷山計画のため︑全部薄が買牧されて全部落民の立退きの終

了心た例と︑及び庄川流域に於ける幾つものダム建設と水没補償の例とがあ

る︒本調査者の一人の小寺は双方の現場を実地視察しているが︑とりわけ庄

川の流域のグム建設地たる所謂越中五グ山地方及びそれに隣接せる岐阜県白

川村の地域は︑地理学的に︑社会学的に︑また民;俗学的に︑十数年に亙って 詳細に研究して︑きわめて熟知せる地域であるQ庄川流域に於ては︑現在工事中の地点よりもなおまた上流に於て︑及び支流K於ても︑東に幾つものグム建設の計副がある︒そして庄川のこれらの地域に於ては︑グムの建設と電源同発に関連する一切の一事柄が︑現有放に将来に於ける住民の生活の拍んどすべてを交問しようとしている︑とえっても過言ではない︒

富山県内としては︑これらの他に最近紳通川流域に於てもグム建設による

水没補償問題の一応の解決があった︒更にまた神通川流域の他の地点及びそ

ダム建設による氷山氏補償の問題は︑従来の事例に於一ては上記の如く︑多く

の場合に︑畑山々人を相手方と卜して区々的な損失の補償を行って来たのである︒

しかしながら出トハ総合開発計画の如く一定の地域全体を開発の対象とする︑も

のマ︑心山も大現械ながノム式による総合的な水利用計画に於ては︑被補償者は

きわめてヨ境期比つ名人数であり︑或は地境社会そのものであったりする︒

また補償の対象もきわめて多岐にわたる諸地設や財産躍︑更に被補憤者の生

存棋一にまでも及ぶものである︒従って補償は最口千個々的には考慮することは

訴され子︑補償は全般的に綜合的に処理されなければならない︒支た補償の

交渉相手方も亦伺々的ではなく︑集団的な交渉の当事者とされなげれば払ら

ぬのである︒即ち集団的補償処理の時代に今後は入るのである白内勿論今後

0

そしてこの場合諸積の補償対象に関する﹁統一的合理的評価基準﹂が急速

に設定されなければならない︒かくしてはじめて従来の補償にしばしば見ら

れたような強者と弱者との間の不公正や︑中聞に介在して不当利一得を占めた

hくは甲個人と乙個人との間の不均衡

などが是正されうるのである︒勿論﹁統一的合理的評価薬準﹂の設定は︑理

論的にも︑また実際的にも︑相当の難事である︒更にまたこの﹁基準﹂が設

定されたとしても︑現実の場合は千差万別の諸条件のドにあるのであるから︑この﹁基準﹂を現実に埴用することは必ずしも容易ではない︒

‑56‑

(3)

さて︑﹁統一的合理的評価基準﹂を案出するためにも︑またこれの埴用を

うける複雑多岐きわまる現実の補償対象にまつわる諸条件を分類し整理しこ

れを類朝一化するためにも︑過去の及び現在の補償問題の実情を詳細に調査研

究し批判することが必要である︒

かかる見地から︑特に集団補償の埴正基準の設定のために.昭和町年度に

於て総理府資源庁及び建設省が主体となり︑ダム建設による水没地点の補償

問題の実態調査を全国的に行う計画を立て︑宮山県にも協力を求めて来た︒

そして県はこの調盗の一部を我々に委嘱したのである︒本稿はこの調査の報

告の一部分である︒

調

我々は十月及び十一月の二ヶパに−

って︑庄川流故に数回出張して︑過去H f

に行われたる及び現在進行中の柿償問題について︑多くの資料︑を耳集し︑実

地の視察吟行い︑とりわけ補償問題に悶

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E2︑式決に間出すらもの

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詑結設︑及び洋産状況説

︶人口収容力の変化︵移転︑

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Qfノ\石ムトル二一日院し

︿ド︶水洗地及び周辺地域社会の土地利用

山形態等の︑水浪前と水没後の変化︒︵ハ

移住等を合む︒﹀

水資源の開発に伴う術償問題 3︑補償に関連するもの︵イ︶集団補償及び個人補償の形式及び実施方法白︵ロ︶地域社会のうける負担及び利益︒

AA

−−乃至8が流木及び内水面漁業に及ぼす影響51

による地域社会の産業情造及び社会構造の変化︒生活様式や4 A

生活程度の変化

6・地域社会の態度調査

︵イ︺水波放に補償に対する地域社会の態度︹氷浪並に柿償の精仲的影

調

調

富山県東謂波郡平村及び上平村︑岐阜県大野郡白川村及び荘川村︑の地内

の庄川流域

問︑間在者

小寺保守︑航村元覚︑功子︵富山大学文理学部経許学科及び文学科学作︶

凡川郎︑河合進︑吉田彦夫︑竹内洋一二︑阿部一仁︑折杭礼一︑中間際一雄m m

‑ 57 ....... 

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十分なる託料が貯に県戒は古力会社に存するものが少なくたい︒例えば地防竹

調

け人口収容力のふ九化︑克明下一柿造や社会情誌の変化︑生活様式や生活秤度の変

化等の問題は泊四一半︑経済苧及び社会学的な研究に平素従事している我・々に

とって最も興味深い題目である︒しかも我々はこの地域を十数年来調査して

いるのであるがら︑これらの点についての多くの研究題目と資料とを有って

(4)

富山大学紀要経消叫学科論集

1!9 

‑ 58 ‑

のがわりあいに広い筒所が多い︒それか九

五什ノ山町地内は︑所間庄川杭の峡谷地都であるが︑それ

で々で谷が開け流れがゆるく広い洞岸段丘が発達した小平野が岡市一一閃し

ていろ︒例えば鳩ケ谷附近︑回赤尾附近など︒これらの例外を除けば︑峡谷

AM

で︑市も両側がひどい断箆絶腕試を注Lている筒所が多

い︒流域の地質は花山間京︑石英閃緑山町︑時岩などが多く︑それに処々火山山お

の話出があるoy流は第三和層及び第問紀隠となるG

平野地方から一隔絶した山地︑市も峻険な快火口の中であるが︑古い時代から誌に数多く集落が存在をつYけてきたことは注目に価する︒越中に属する庄

J所謂越中五ケ山だけでも古来日個の集薄がある︒白川村に

は集搭が郎︑荘川村には刊の大字がある︒因に現在の荘川村は明治氏︑川口ーの郡

区改在以前は︑白川村と併せて白川郷を形成していたむこれらの地域は︑明

治時代までは︑他地方からの交通の使が極度に悪く︑こ与の集落の人選はな 庄川流域の

地域の鞭観

川︑白川村平瀬で白山伊東剖ら流れて来る大白川︑飛越国

huまい

2 4 d  

利賀村地内で利賀川が東方から合流する白木流の延長約一五日︒平野に出

てから川口の高岡市伏木浩の東方まで二パ︶粁余で占める︒疏域の大部分は飛騨

高原の山地で︑そとに深い峡谷をえぐっているG

内では︑川の水商は七O

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O

(5)

しろ封鎖的な社会を作り︑また生活の大部分に於て自給自足を余儀なくされ

ていた︒したがって平野の地方の人々から見れば︑これらの集落に奇習が行

われたり︑或は他地方では既に亡んだ旧い時代白文化の名残がここではなお

も生きていた︑などということも理由あることであった︒要するにこの地域

は永い歴史時代を通じて︑文化的にも︑社会生活の諸特質でも︑また政治的

にも︑特殊地稽を形成していた︒白川村の中切地方に顕著な大家族制が残っ

ていたこと︑白川や五ケ山に武人その他の身分ある人達が幾多かくれ住んだ

こと︑それに関係ある平家子孫説︑南北朝時代に五ケ山の山村が特殊な役割

を演じたらしいこと︑加賀藩時代に五グ向が重罪犯人の流刑地となったり︑

またここで煙硝︵火薬原料の硝石Uが作られたこと︑またプルj

をして歎賞せしめた︒︵﹁日杢突の蒋発見﹂︶白川・五ケ山式の大都一の茅ぷき

よく人々が挙げるこの地域の特異性の例である︒

この両者の間に何等かの因果関係があるという識拠は全く見当らない︒

天地根元造りが︑日本民家の原始的型式と想定された場合︑この型式の直

接の発展とも考えられる白川・五ケ山式の茅葺合掌切妻都一の家屋は︑民家

史上重要な意味を有って来る口白川・五グ山式民家は比両地域及びそれに

接する僅少の部落に見られる︒東京都の西多摩地方のはずれから甲府盆地

の東部にかけて︑白川・五グ山式と外観は似た切妻造りの屋根で︑切破風

造りの民家が多くある︒これは内部の建築的構造は全くちがう︒

所謂大家扶制の意味は必ずしも明確では・ないが︑単に二市川内の同居の多人数汽奉公人なども合めで﹀@意味ではなしに︑︵イ︶つ出掛謝甘い州司向武

U

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の草昧に解するか︑︵ロ﹀かかる家放形態で而も火勢が一家に同居してい

る家族形態と解するかによって︑問題の取り上げ方がちがってくる︒門ロ

︶の意味とすれば大家挨制は︑白川村の中でも大体は中切地方及び山家地

方に限られていた︒ハイVの意味とすれば大家族制は︑白川村の他の多く

の部落でも︑越中五ケ山でも珍しいものでなく︑荘川村r その他の飛騨のいくつかの村にも見られた0︵イ︶の家族形態は五ケ山でも若干現存してい て︑かかるものの家庭的た特異た事情のわかっているものもあるE

れは非近代的家族であり︑且つまた必然的に家族員数も普通よりは多く六0

.七人乃至十人内外広もたるであ

5 0

民家の形式や集落生活の外観の黙では︑五ケ山と白川村とは類似し︑荘川

村はこれらとかなり異っている︒しかし詳細に観察しまた調査すれば︑五ケ

山と白川との間にも︑また五ケ山の諸部落の間にも︑白川村の南部と北部と

の聞にも︑いろいろな相異がある︒なおまた白川と草川との間にも多少の類

似点や︑或はその差異にも糊移性が認められ石︒

五ケ山及び白川を通じて︑集落の大部分は−きわめて小さな何芹段圧の十

U︑或は山崩地とに成因

を有つ山腹の平担面や緩斜面に︑位置している︒そしてかかる峡の中の集落

の大部分は必然的に戸数の少い小集落である︒そして村落共同体的司な諸特故

出吉4Yは極めて強い︒たYし平村下梨︑上平村西赤尾︑白川村の鳩件H

1

などは︑例外的左大きな集落で︑多少都市北している口

荘川村に入ると︑飛騨高原の高い部分の表面に上ってしまうので︑帥附谷状

態はたくなり.集落は広い谷の中の平野や河岸段丘の上に︑戒は高原性の低

い山地の山麓や浅い谷底に位置している︒荘川村では中野︑牧一戸︑新制など

が大きな多少とも都市化した集落である︒

大正末期から昭和初頭にかけて小牧及び担山のグム建設が始まってからv 五ケ山の生活は一変Lはじめ︑殊に最近に於ける庄川峡符に於ける氷力安⁝闘

の開発事業の進捗は︑この地方の生活に全く新左特徴を与え様としている︒

もっとも水力資訴の開発と並行して発展してきた自動車交通のこの山間えの

侵入は︑五ケ山︑白川村及び荘川村の由来の生活の諾特質を根本的に変卒すι

ZF

る動因とーなっていたのである︒岐阜市からの鉄道ハ越美南藤Uの美濃白鳥及

び北譲までの開通︑それと連絡する国鉄ベスの鳩谷及びその北方えの開設は

白川村の所謂大家族制の最後のものを払拭せしめたとヒユ的に一疋ってもいい

‑ 59ー

(6)

富山大学紀要経済学科論集

日本を洗う時勢の激しい波はこの山間にも押し寄ぜた︒例えば高いオネの

上から展望すると︑緑の大きな波浪の起伏する大海のように見えた森林で埋った五ケ山の地域も︑過般の戦乍中の強制乱伐のため︑今日では炭焼の生業

すら容易でなくなった︒五ケ山でも白川でも主要な現金牧入源であった養蚕

 

も︑桑畑の縮小と生糸の輸出減少によって低下した︒五ケ山ではぢ来冬の聞

の家々の仕事叫んった予すきの和紙製造も衰え︑周年働く機械の和紙工場が生

れ︑不足の原料を高知県から移入することすらやっている舟

庄川桃谷の中が︑その下流から上流まで︑大部分の処が次々と一グムの議水

湖で占められるようになるのも︑ここ数年の間のことである︒かくなる酢決

的な過酷に於て︑生活にどのような激動が既に起りまたこれから起るだろう

か︒水浪の排地や門家屋の補償︑立ち退いた人々の行き先き︑村溶の生産楠浩

G

これらのあるものは既︒に過去の脱出史となってしまっておi

り︑もっと大ぎな変革はこれから起きようとしている︒近い将米に荘川村の

半が亡びるかもしれぬと村中が興奮のルツボと化しているの・も︑このためで

h流峨とその周辺地問参与

片山川流域に赴くには︑北方から入る路には︹ハイ︶北陸本線の高岡市もしく

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はむ一毅一町から稿野町経同で庄川町の青島駅に去り︑そこ日ら庄川峡谷の中に b

入り︑パスや湛一水湖上の汽艇を利用して上流に赴くもの︑︹ロ︶上記の稲野町

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から域開帆町に至り︑そこからパスで山越えして庄川峡谷の中のF

ハイ︶と合して沿岸沿いでl−流地方に赴くもの︑︵ハ︶庄川支流の利賀川流

域に赴くには︑井波町を起点として青島を粍出して本流えの合流点から利賀

谷に入って行くパスの路線と︑及び寓山市から八尾町まで鉄道ハ高山線︶で

それからパスと徒歩で宝牧川に沿って栃折まで︑それから四方に峠を越えて

も略戦︑百瀬川︵山田川上流︶流域に日る︒一更にまた闘に峠を越えると利賀谷の中流

に出る︒利賀谷では水源地の水無まで自動車路がついている︒百瀬川流域は

ノ、

利賀村の地内であるが︑この川を〆ムで山咋ござ止めて湛水湖を作り発電する計

画がある︒また水無の下流でグムーを建設して水無盆地を酪水制にして発電す

る計一間もある︒商業とも部落を水淡させる︒なお水無から南え峠を越えて︑つのザわ飛駿の羽根部落桜山間で高山線の角川駅に出る路もある︒

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f南方から庄川流域に入る路には︵イ︶越美南線の白鳥釈もしくは主法駅か

ら間有鉄道経営のパスの路線出︑長良川の水沼地・攻上って蝉ケ野の高原に出

て︑それから飛騨に入り荘川村牧戸を何時て庄川本流に沿うて白川村鴻火口に

五るものが久しい以前から通じていたが︑昭和訂年秋にはこれはド悶まで延

長された由昭和凶年春にはこれは宮山県の上平村及び一千村を総て城端町まで

戒は庄川納谷中佐青島までも通じる予定である︒ハロ︶飛騨の中心の高山市

から一三日町︑夏既︑六厩︑軽悶川峠を料自ずる門川筒道をパスが通じて︑る︒

これば佐川村の新淵を持て牧一円でほ鉄のベヲζ

本介入の綬述の理解内助けとなると思うので︑庄川流域各部分の地域的な特

徴と及び電源開発の見地からの問題について簡易な解説をしよう︒∞城端町から下梨まで

⁝説端町から山どえしてド梨に至る路が︑永い照史的時代の問の︑また現在

でも︑出川の谷に入る最も主要な通路である︒城端町は本願寺の別院善徳寺

の門前町的な性格を有っているが︑地方の市場町とりわけ山の地方就中五ケ

山地方と平野との接轡点として発展して来た町である臼一現在は機業や木工業

なども行われている︒封建的時代以来との町の商業資本家と五ケ山の集落と

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37

の関係はきわめて密接である︒すぐ東方の前商に所謂高滑水一問題農の急崖をつくっている山地︵高度

43

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てびょうぶを立てたようにきり立っている︒そのオネ筋には処々に小さい一半 米で飛騨高原の末端﹀が北北東から南にかけg

抑制珂がある心その裏側︵東側︶を下ると庄川の深い峡谷がある︒理主の自動

車道路ハパスや発電所やダムの縫設資材運搬のトラックの路線︶はこの断層の山腹

‑60‑

(7)

を登って︑細尾峠︵約叶CO米︶で平村に入る︒やがて右側に無人の草屋根の一

令 ︑

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軒岸一の前を通る︒これは﹁道谷のお助け小犀﹂で旧落時代以来村で維持し

ている冬季行旅の避難小舎である︒電力会社がこれを鉄筋コゾグリ!トに改

築する計重である︒この附近の水田︵高席︒

81

80

米﹀は最近著しく拡張され

た︒最初の集落は梨谷である白︵小47

五号参照﹀︒

も自動寧道路はやがて佐川の谷底に向って急な斜商を迂間Lながら︑いくつ

もの集落を経て降りていくが︑これらの集落やその耕地のある処は︑山崩や

地との結果生じた緩斜面が多い︒初めてこの地域を訪れる者は︑長い危路を

自動車でゆられた後に︑峡谷の底の下梨に着いてポットすることであらう︒

下梨は会五ケ山の山村中では最も都市北した集落である︒鉄筋コゾグリj

ト造リの平村役場︑郵郎氏局︑登記所︑福野高等学校分校と中学校及び小学校

D病室のある病院︑機械化された工場ハ和紙︑マユ乾燥など︶

数軒の旅館︑多くの商店︑土木詩負業者や運送業者など︑非農業者が非常に

多い︒とれはド梨がやや広い平担一回をもっていることもあるが︑それよりも

むしろ交通上の枢要な位置を占めているためである︒ここは平野との自動車

交通の関円であり︑下流からの汽結航行の終点︑ー且つ平野からの物資輸送に

周年使える索道の終点である︒この索道は城端町から杉品峠を越えて︑6

程下流の渡の原部落で仲継されてくる︒米︑味晴︑醤油︑柄︑その他の食料

品や日用品の雑貨︑何人托送の小包から︑セメゾト︑鉄材︑機同などの電力

開発の資材まで︑絶え間なく輸送している︒殊に積雪期には地上輸送が杜絶するので︑この索道が唯一白輸送機関である口上流の成出及び峠ぽのがノムの

建設工事が始まってからは︑索道の利用は一一回強化され︑ト一沈の工事現場ま

でも索道は延長された︒

∞青島から下梨まで

庄川が山快から解放されて︑広々した平野に問︑に処が庄川町

ι

こり地方︒商業中心地でもあるが︑落政時代から庄川を︑上流の結川村︑白川

村︑越中五ケ山の太・交流を流材して米た木材の集散地であり︑また広川筋

5補償問題 流白川村のものも細尾峠・城端町経由で青J局に来るものがありーまた福井県 ト一ブツグ輸送のきく附近の山地︑住川下流︑利賀川筋の木材のみでなく︑上 史の伝統の底力は強いもので︑青島は今日でも相当の木材の集散地である白 なり︑木材業者︑製材工場︑流材人夫などの転失業がおこった口然し︑水い牒 敗北となり︑木材の流送は廃止されて仕舞い︑青島の広大な貯木場も無用と こで展開されたのであった︒グムが完成して︑結局山林業者︑木材業者側の 会社と木材業者との聞に激しい斗争があった時には︑最も興奮した場商がこ ら昭和初めにかけての小牧及び祖一山のグム建設の際の所謂庄川問題で︑電力 を上流からとこまで木材を流下させる人夫白供給地でもあった︒大正末期か

の木材などで鉄道でことに来るものがあるロ盛大友製材工場もなお残ってい

る︒流材人夫も絶一蹴したわけでなく︑ここの出身者が︑北海道などに出稼に

行っているのである口以上は初年前の﹁庄川問題﹂の後日物語である︒

電力会社による︑グム建設及び何水統制と関連した別の問題に︑ド流の農村

の濯常用水の問題があった︒下流の左右治岸の数カ地点に設けられであった

用水の取入口は︑青島地内に建設せられた庄川本流を横開削する伺いがノムの処

役に立たなくなるのである︶口因に合口のダムから用水路に水を送る中間の減

水を発電に利用している

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6

青白から上流一は︑定川はその水源までの長い店敵

JM

Jを︑流れているG大部分の処は谷幅が狭く︑しかも芥が深く︑水且回一が多い内J

で︑高いダムを造って上流に細長い人造湖を作り︑大量の竜気を起すのに戒

に都合のいい箇所が数多くある︒

まず青島から谷合に入った近くの小牧にグムと発電所︵

11

5年自宅﹀がある︒ここの湛水淵上には立派な汽艇が通っており︑

湖畔にある宏壮な新しい建物の大牧温泉えの浴客や修学旅行の団体をお一んで

いる︒この温泉宿は加賀薄時代からあるのだが︑旧湯ロが湛水Fに渡したの

で岩盤中にポーリングしたら以前よリも高温の湯が豊富に出るようになっ

‑ 61

(8)

富山大学紀姿経済学科論集

0 4へ牧温泉の下手に交流利賀川から山肢をトjネルで導水して︑高所から 3

祖山の部溶附近まで行く︒〜r船すると近くに刻一山の発電所︹2

ワ ナ

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Uまたれ附で法水湖上を行く︒沿岸の傾斜

面や小さい一平担地にあるいくつもの一部講の前九三過ぎる白下梨から月粁杭ドヰγ

Uで下船するo昭和5年に初山J

会で汽駄が航行したが︑それから今日までとの県水湖の約おμが土砂で相均

したむそして下梨附近の河床ち高くなり︑新に水浸や立退

L g h

もおこった︒下梨ど対山刊の大良部認とを結ぶ橋も一層ぬくつけ換えた︒

昭和5年にダムが完成してから数年の聞はさかんに利用さ礼たらη

しかし二つの湛水湘ともはかなり理法Lて汽艇の航行医閉がちピまりも佐山川

距離が長くなったために︑その後利用度は減少した臼他方城縮から細川川峠を

とえて一ト梨に来る自動車交通は一層ひんぱんになった臼けれどもこのr月動車

交通は積雪期には会く不通となっ他方浜水如上の汽棋はかみ二千も利用問決る

ので︑依然環要た交通路である口

なお青島から峡何げの市中を川沿いにト梨まで︑馬車が通れる治岸道路は︑明

治時代にJ度開設されたことがあった︒一九ケ山のιて初めて見て︑びっくり♂したとのことであるQしかし沿道に急患が券?にめ 崖崩れや雪崩のために︑間もなく道路は壊以してしまったGところがこの沿

岸道路再開の計撃が最近立てられ︑恐らく昭和弘年心度頃までには青島から

ア梨までの自動車の通える沿岸道路が完成して︑ベスも通るのではないかと

予想されている口この道路は上流の発電工事の資材運搬に役立つであろう︒

かむ

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h 下梨から治山がの自動車路・を上流に進むと︑ーん梨及び皆葎の部落をのせたや f

犀の建物の漬物がある︒小原にはダム及び発電所︵設大出力戸川千

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があるむ小原部落はグムので手のやや小高い段丘上にあるので移動のhfr必要はなかったがダムの上手の左岸の葎一島部誌は全部楳水下に浪したので︑

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辺倒の高地に移転した白そこに叉発電所の従業員の社宅の群もある︒

料品や菅沼の部誌ののっている河岸段丘は︑以前には深い淵をなしていた汗

尽から高︿きり立っていたのだが︑グムの

w m 一水の結果︑水面は民家のめくり

の別地とすれすれになっ甲た︒家屋や耕地の氷浪補償の問題も多少はあった︒

その他の水法制償の問題もグム建設当時大体解決されていた︒小国ダムの楳

水均域のし部は内赤尾附近までも及んでいる白しかるにその後十一砂堆積にようろι

り川z

川県︵とする援が多数生じた︒この補償問題は昭和幻年秋に大体の解決

たのであるが︑これの調杢に我々の調査班員の多くが当ったのぜあ

ではりがわち附附いて︑川作の平野や広い段丘も発達して︑−球団

いが︑多くの部誌が集合している︒西赤尾は務政時代から上平の中心地

である心ととの一岩瀬家の家屋は参観に価いする白山川・五ケ川式の切安︐A

掌芯りの

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民根の家屋の最大のものである9

衣の遠山家よりも大きい

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その二般のアマは小さい学校の悶犬体操場校広

いむこのz認は加賀浴時代に五ケ山を通じての一殺大の賢#伸一家でわった赤尾の長

右衛門の邸の名桟りである日加羽田︑議の殺人もしばしば滞慨しにし︑また大き

な上黄門児ハ火燕の原料である鰹硝の精製及び取扱い商人︶として大勢の下男

やとの地方出土の土器石器を所蔵している︒

湖西赤曜から椿麗まで︿第三笠矧入﹁庄町誠同ニ﹂地図参照︶

町一赤尽から市に進んで境川を渡ると︑岐阜県内川村に入る︒小白川部落を

すぎるとやがて成出の発電所とダムがある︒左岸は岐卒県であるが︑発電所

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村である︒成問の旧部落は発電所友どの敷地の・ために寅牧されて︑全部がそ

の南のやや高い処に移転した︒なお成出グムの貯水冷一方洋の下流に導上京して

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