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Kyushu University Institutional Repository
我が国フードシステムが抱えるリスクに係る数量分 析に関する研究
株田, 文博
https://doi.org/10.15017/1441306
出版情報:Kyushu University, 2013, 博士(農学), 課程博士 バージョン:
権利関係:Fulltext available.
我が国フードシステムが抱える リスクに係る数量分析に関する研究
九州大学大学院 生物資源環境科学府 博士(農学)請求論文
2014年
株田 文博
i
目 次
第1章 フードシステムが抱えるリスクの分析視角 ... 1
第1節 問題の所在と本研究の課題 ... 1
第2節 本研究におけるリスクの定義 ... 5
第3節 本研究の構成と分析方法 ... 7
第2章 過去の食料危機と対応 ... 12
第1節 我が国の中世以降の飢餓・飢饉 ... 12
第2節 1970年代前半の「食料危機」への対応 ... 15
第3章 食料の量的リスクに対応する食料安全保障概念の系譜 ... 24
第1節 安全保障概念の歴史的変遷 ... 24
第2節 冷戦後の安全保障概念の多様化・「拡散」 ... 25
第3節 我が国における食料安全保障概念の形成 ... 26
第4章 産業連関分析による為替及び輸入食料価格の変動リスクの分析 ... 34
第1節 国際食料価格・為替の変動とその国内への影響を規定する要因 ... 34
第2節 為替レートの動向 ... 36
第3節 為替レート変化による食料品など国内消費物価への影響 ... 38
第4節 国際食料価格の動向 ... 44
第5節 輸入食料価格の変化による食料品など国内消費物価への影響 ... 51
第5章 産業連関分析による食料供給制約リスクの分析 ... 64
第1節 供給制約による前方連関効果の産業連関分析の先行研究 ... 64
第2節 分析モデルと部門別の影響試算結果 ... 66
第3節 結果の考察と課題 ... 74
第6章 国際機関等における食料安全保障を巡る近年の議論 ... 79
ii
第1節 食料安全保障を巡る国際的な議論の概観 ... 79
第2節 世界食料サミット,FAO等における食料安全保障の定義 ... 80
第3節 WTOにおける配慮事項としての食料安全保障 ... 82
第4節 OECDの多面的機能やリスク管理の視点での食料安全保障議論... 83
第7章 諸外国における食料安全保障を巡る状況と政策 ... 86
第1節 食料大国アメリカにおける潜在的な経済的アクセス問題 ... 86
第2節 集団的食料安全保障を志向するEU ... 88
第3節 イギリスにおける体系的な食料政策・食料安全保障の検証... 89
第4節 対外経済政策と食料安全保障の狭間で揺れる韓国 ... 98
第5節 穀物輸出大国として台頭するロシアの供給不安 ... 102
第8章 フードシステムが抱えるリスクの潜在的な危害要因の類型 ... 105
第1節 潜在的な危害要因の類型 ... 105
第2節 家庭の入手可能性とアクセスに関するリスク ... 106
第3節 日本の食料供給力とフードチェーンの弾力性に関するリスク ... 108
第4節 日本の輸入食料アクセスに関するリスク ... 110
第5節 世界の食料供給力・資源持続性に関するリスク ... 112
第9章 将来の食料需要増のアジア太平洋諸国の貿易・産業への影響―アジア 国際産業連関表によるフードシステム産業の分析― ... 123
第1節 背景と目的 ... 123
第2節 分析手法・結果と評価 ... 123
第3節 今後の課題 ... 136
第10章 結論と今後の課題 ... 138
謝 辞 ... 150
iii
図目次
図 1-1 他のグローバルリスクと比較した食料リスク ...3
図 1-2 食料の1日当たり総供給熱量と国産総供給熱量(億kcal) ...9
図 3-1 重層的な安全保障の枠組み ... 25
図 4-1 主要品目の長期的な国際食料価格の推移(名目価格ベース)... 35
図 4-2 月次実質実効為替レートの推移(2010=100) ... 37
図 4-3 月次実質実効為替レート(日本円)の階差系列の推移 ... 38
図 4-4 為替レート1%変化による主な食品製造業への影響の時系列変化... 43
図 4-5 近年の国際食料価格の推移(2005年=100とした指数) ... 45
図 4-6 近年の原油価格の推移(WTI,ドバイ,ブレント) ... 46
図 4-7 国際小麦価格指数と日本・韓国の小麦粉価格指数の推移(2005年=100) ... 47
図 4-8 食料価格に影響を及ぼす要因の類型 ... 48
図 4-9 USDAによる近年の食料価格変動の時期別要因分析 ... 49
図 4-10 輸入物価指数の動向(2010年=100) ... 52
図 4-11 麦類の輸入価格変化の川下産業部門への価格波及 ... 55
図 4-12 豆類の輸入価格変化の川下産業部門への価格波及 ... 56
図 4-13 その他の食用耕種作物の輸入価格変化の川下産業部門への価格波及 ... 56
図 4-14 2000年以降の小麦輸入価格と川下産業部門の価格の変化 ... 58
図 4-15 2000年以降の大豆輸入価格と川下産業部門の価格の変化 ... 60
図 4-16 2000年以降のとうもろこし輸入価格と川下産業部門の価格の変化① ... 61
図 4-17 2000年以降のとうもろこし輸入価格と川下産業部門の価格の変化② ... 61
図 4-18 2000年以降のとうもろこし輸入価格と川下産業部門の価格の変化③ ... 62
図 8-1 ブラジル,米国から中国(上海)までの大豆輸送費比較(2007年) ... 114
図 9-1 2000年アジア国際産業連関表の基本構造... 125
iv
表目次
表 3-1 3つの政策努力のレベルに対応した経済安全保障政策に必要な政策 ... 28
表 3-2 大平政策研究会による食料安全保障に関する提言内容 ... 28
表 3-3 基本法研究会報告書における食料安定供給に関する論点整理... 29
表 3-4 基本問題調査会答申における具体的な総合食料安全保障政策の方向 ... 30
表 4-1 為替レート1%変化による国産品価格変化率が高い部門 ... 42
表 4-2 主要輸入品目の輸入物価指数の変動係数 ... 52
表 4-3 輸入物価の変化のCPIに及ぼす影響が大きな部門 ... 54
表 5-1 輸入途絶を仮定する部門とこれらを必要不可欠な中間財とする部門 ... 69
表 5-2 麦類が輸入途絶した場合の国内生産への影響試算 ... 70
表 5-3 豆類が輸入途絶した場合の国内生産への影響試算 ... 71
表 5-4 飲料用作物が輸入途絶した場合の国内生産への影響試算 ... 71
表 5-5 その他の食用耕種作物が輸入途絶した場合の国内生産への影響試算 ... 72
表 5-6 金属鉱物が輸入途絶した場合の国内生産への影響試算 ... 73
表 5-7 各部門が輸入途絶した場合の国内生産への影響試算総括表 ... 75
表 6-1 FAOによる世界食料サミットの定義に基づく食料安全保障に必要な4要素の 詳細 ... 81
表 6-2 OECD多面的機能の概念分析レポートにおける食料安全保障の議論 ... 84
表 7-1 エネルギー自給率の各国比較(2008年)... 87
表 7-2 アメリカの農務省予算に占める食料・栄養予算の割合 ... 88
表 7-3 アメリカの追加的栄養プログラム(SNAP)受給者数の推移 ... 88
表 7-4 多様な指標によるイギリス食料安全保障の評価 ... 95
表 7-5 韓国の食料自給率目標値(%) ... 100
表 7-6 韓国における主要食料品の消費者物価指数の推移(2005年=100) ... 101
表 8-1 日本における食料の量的リスクの潜在的な危害要因の類型 ... 106
表 8-2 アジア太平洋地域諸国の1人当たりGDP(購買力平価ベース) ... 110
表 8-3 アジアの高所得層人口数の推移 ... 111
表 8-4 ブラジルの土地利用と農業的未利用地 ... 113
v
表 9-1 部門分類 ... 124
表 9-2 フードシステムを構成する産業の各国・地域の規模(10億ドル,%) ... 128
表 9-3 中国及び日本における付加価値基準の国際分業率 ... 129
表 9-4 食品製造業の付加価値基準の国際分業率 ... 130
表 9-5 USDAによる各国の実質GDP予測値の増加率 ... 131
表 9-6 各部門の国別最終需要の増減率推計(2000年=100) ... 133
表 9-7 食料需要増減による2019年の生産誘発額推計値(百万ドル)と2000年実績 値からの増減率 ... 134
表 9-8 食料需要増減による2019年の付加価値誘発額推計値(百万ドル)と2000年 実績値からの増減率 ... 135
1
第1章 フードシステムが抱えるリスクの分析視角 第1節 問題の所在と本研究の課題
東日本大震災の経験は,電気,ガソリン,交通網,通信網等と同様に,食料,
飲料水は,ひとたび供給の寸断が生じると,国民生活に大きく影響し,場合によ っては社会的なパニックを引き起こしかねないことを再認識させられた.リスク に関連して,大震災後に開催された地震学会,土木学会を始めとする学術学会の 大会において,「想定外」を言い訳に使うべきではないとの議論もなされている1. また近年,食料価格が過去最高値を更新するなど乱高下していることから,食料 問題について国際的な関心が高まった.さらには環太平洋パートナーシップ
(TPP)協定参加問題を契機として,我が国の食料・農業のあり方について,様々 な立場で議論がなされている.
世界的な食料の需給状況をはじめ食料問題を冷静に分析・把握すべきとの視点 から,徒に食料危機を煽るべきではないと当然の指摘がなされる一方で,国際的 な影響力を有する政治経済プロセスである累次のG8・G20の首脳会議・閣僚会 議等でも,食料問題が議題の一つとして取り上げられ,さらに2011年6月に世 界の食料安全保障の確保を目的として開催されたG20農業大臣会合では,食料・
農産物価格の乱高下への対処等が議論され,G20による具体的な取組が盛り込ま れた,「食料価格乱高下及び農業に関する行動計画」が合意されている.
まず,世界のリーダー達が,多種多様なリスクとの比較で,食料のリスクをど のように捉えているのか,世界経済フォーラムが2006年から公表している「グ ローバルリスク報告書」2で確認する.今後10年程度の中長期にわたるリスクの 発生の可能性と深刻度の二次元で個々のリスク課題をマッピングしている.ただ し,主観的な意識調査を基礎としているため,その時々の世相を反映した結果と
1 池田(2011)は,日本リスク研究学会誌の巻頭言で,東日本大震災という地震,津波,原発事故の巨大複 合災害について,発生前後の「想定外」問題の影響を,「リスク分析の枠組み」で検証する必要性と,その際,
異質の知見を排除しがちな専門家集団内の「peer-review」から脱皮した学際的なメタ評価軸
「meta-peer-review」の必要性を示唆している.
2 世界経済フォーラムが追跡している特定のグローバルリスクに関する専門家,財界首脳,政策立案者に対し て,リスク意識調査を実施し,2012年版は469件の有効回答について統計学的手法を用いて分析した報告書.
2
なっている点には留意が必要である.
食料問題については,2006-07年の報告書では,グローバルに主要な課題と 認識されていなかったが,世界的な食料価格高騰を経験し,2008年報告書に,食 料不安(Food insecurity)が,発生の可能性は5~10%と中位ながら,深刻度(被 害額)が5~25百億ドルと中位,深刻度(死者数)が百万人以上の最高位のリス クと認識され,初めて登場した.さらに新たな課題として,金融体系のリスク
(Systemic financial risk),過度の最適化とサプライチェーンの脆弱性
(Hyper-optimization and supply chain vulnerability),世界的なエネルギーリ スク(Energy and global risk)と並んで,食料安全保障(Food security)が重 点的に特集された.2009年,2010年報告書でも,食料価格の変動が,2008年報 告書と同様に発生の可能性は5-10%,深刻度(被害額)が5-25百億ドルのリス クと引き続き認識されている.
2011年報告では,課題が食料価格の変動から,食料安全保障(Food security)
に変更となり,発生の可能性が高く3,深刻度も25-50百億ドルと2010年までよ りも一段高いリスクと認識されている.また,主なグローバルリスクの相互関連 について分析が深められた.食料安全保障とともに,経済成長と社会的安定にと っての障害と捉えられている,水の安全保障,エネルギー安全保障とが,食料供 給増とエネルギー供給増による水使用の増大4,食料供給増による肥料,灌漑,輸 送,加工等を通じたエネルギー使用の増大,水の採取と配水でのエネルギー使用 の増大と相互に関連しており,資源配分のトレードオフにも留意した,統合的な 戦略が必要であると提起されている.
2012年報告では,社会的リスクとしての「食料不足危機」と経済的リスクとし ての「エネルギーと農産物価格の極端な変動」の2つのリスクに分割され,何れ も他のグローバルリスクと比較して高いリスクと認識されている(図 1-1参照).
3 発生の可能性について,2010年報告書までは,確率の幅で示されていたが,2011年報告書から定性的可能 性のみが示されている.
4 2011年報告書では,食料供給増による水使用の増大に関して,肉1kgの生産に最大2万リットル,穀物
1kgの生産に1,200リットルの水が必要とされ, エネルギー供給増による水使用の増大に関して,例えばシ
ェール油1トンの生産に,大量の水(1~5トン程度)が必要とされている.
3
図 1-1 他のグローバルリスクと比較した食料リスク
出典:2012年1月に世界経済フォーラムが出版したGlobal Risk 2012 Seventh Editionの日本語版(p5)
4
食料の量的リスクに関する日本国民の意識に関連して,内閣府(2010)の世論 調査によれば,将来の食料輸入に不安があると回答する者が85.9%を占め,前回 の2008年調査時の93.4%からは低下したものの1990年調査時の62.8%と比較 して極めて高い水準となっている.不安要因と考えられる事象のリスク,つまり 発生確率と,発生した場合の影響度の定量的推定が困難な中で,約86%もの国民 がどのような情報に基づき食料輸入の不確実性を不安と感じているのかについて も検証される必要もあろうが,何れにしても国内生産と比較した食料輸入への信 頼度の低さが明確に反映されていることは否定できない.
こうした国民の強い不安感は,日本において,「physicalな飢餓」からは説明 できないほどに,他の先進諸国と比較して,「飢餓」,「飢饉」,「食料危機」,「食料 不足」という言葉を含む出版物の数が突出して多いことについて,樋口(1999)
が,道徳的・倫理的基盤,災害文化にかかわる文化資本等に起因する「spiritual な飢餓」にも焦点を当てて飢餓問題を捉える必要性と,さらに食料不足という状 況でのパニック発生問題への対応策として,「単に「physicalな飢餓」耐久性だ けでなく,「spiritualな飢餓」耐久性をも合わせて考察する必要」(樋口1999:p.403)
があることを指摘していることとも関係があろう.
学術界においては,関連学会でも様々な議論がなされているが,日本学術会議 の日本の展望委員会・安全とリスク分科会が,審議結果をとりまとめて,「リスク に対応できる社会を目指して」との提言を,2010年4月5日に公表している.
その中で,食料については,「国内の食糧生産体制の脆弱化と国際商品としての食 糧確保の緊迫化の相乗効果」を考慮し,「食糧危機への対応」として,①「食糧自 給率の向上」,②「食糧備蓄の充実」,③「海外からの食糧供給の確保」,④「食品 の安全性の確保」が必要と提言している.
リスク社会とも称される現代において,内外の関心が高まっている食料の主に 量的側面に関するリスクについて,複雑化するリスクの決定要因を明らかにして,
リスクを除去,軽減することを検討する初期作業として,リスクアセスメントに おける,リスクの特定,分析,評価に相当する研究が求められている.
5
第2節 本研究におけるリスクの定義
食品のリスクは自然科学的な食品危害等を主に指すことが多い一方で,農業の リスク5は自然災害等に起因する,主に農業経営面の損失の統計学的期待値を指す ことが多い.しかし食料の量的側面に関するリスクという用例はあまりないこと から,まず本研究における「リスク」を定義しておきたい.
「経済学の長い歴史において,リスクの問題を最も真剣に分析した学者の一人」
(酒井 2010:p.50)は,シカゴ学派の祖であるフランク・ナイトとされている.
経済学を「人間の科学」と捉えたNight(1921)は,自然現象のように発生する 確率分布を測定し得る不確実性を「危険」(risk:客観的確率6)と,発生するか どうかも含めて確率分布を測定し得ない「真実の不確実性」(uncertainty:主観 的確率)とを峻別し(ナイト 1959:p.66-67),「危険」は保険でカバーされるべき で,企業家の利潤は「真実の不確実性」に依存すると論じている.このように経 済学的には根本的に異なる概念ではあるものの,食料が人間の生命の維持に欠く ことができない物資であることを踏まえ,食料の量的リスクという概念には,一 定程度予見可能な「危険」のみならず,発生するかどうかも予見し難い「真実の 不確実性」の双方の不確実性が含まれるべきであろう.
これは,食料の量的リスクが、リスクの発生頻度と発生した場合の影響度があ る程度計測されることを前提に,予防に要するコスト等との兼ね合いで,リスク を転嫁する保険等のマネジメント手法が検討される,いわば経営学的なリスク管 理にとどまらず,蓋然性が低いと想定されても一定の備えが行われるべきとの考 え方に立つ公共政策としての危機管理(クライシス・マネジメント)7も必要なリ スクだからである.市場による調整が正常に作用している平常時ではなく,需給 が均衡点から大きくずれ,場合によってはその発散の可能性を抑制するために公
5 南石(2011:p.56)は,農業経営学・農業経済学における代表的なリスクの定義として,Harwood et al.(1999)
による定義を参照しつつ,「人の福祉や経営状態に望ましくない影響を及ぼす可能性について正確に予見でき ない状態」と定義している.
6 厳密には,先験的確率と統計的確率に区分されるが(酒井 2010:p.118-122),食料供給に関する限り,デー タの信頼性そのものにも問題が残る統計的確率が該当する.
7 発生が必ずしも予見できない危機事態への備えとして,その予防策もさることながら,発生後の被害を最小 限に収束させ迅速に正常化させるという事後処理の方策を予め検討しておくことが重要である.
6
権力の介入も必要となりうる不測時への対応と定義することもできるだろう.
また,食料の量的リスクは,誰にとってのリスクであるかという視点が重要で ある.フードチェーンのどこに所在するかで事象に対するリスクの被害程度が異 なり,極論すれば,生産者・輸出国にとっては価格下落を招く供給過多がリスク 要因である一方で,消費者・輸入国にとっては供給不足がリスク要因となるなど,
関係者個々に利害相反するケースもある.このため質的リスクについては,例え ば食品危害発生の影響が,消費者のみならず,その緊急事態対応等を通じて生産 者をはじめとしたフードチェーンの各段階にも及ぶことから,程度に差はあれど も関係者共通のリスクとなりうることが,協働によるリスク軽減に向けた共通の 基準形成を動機付けることと比較して,量的リスクの普遍的な対応策を国際的に 確立することを困難にしている側面もある.本研究では,量的リスクを,消費者 が健康で充実した生活を送る上で,合理的な価格による良質な食料の安定的な調 達に困難を生じさせかねない不確実性と定義し,一定程度予見可能な「危険」と,
発生するかどうかも予見し難い「真実の不確実性」の双方のリスクを含めて考察 する.また,消費者の視点を重視しつつ,リスクを軽減し,食料の安定供給を確 保するために重要な役割を演じるフードチェーンの各段階を通じた,フードシス テム産業の直面するリスクについても分析の対象とする.
さらに,食料の量的リスクへの対処と関係の深いFood Security,その訳語で ある食料安全保障の問題を概念的に論ずる際には,ノーベル経済学賞を受賞した アマルティア・センが,1970年代に発表した論文等を集大成した著書『貧困と飢 饉』(Sen 1983)の中で,それまで常識とされていた,食料総供給量の減少を飢 饉の要因とする見方を痛烈に批判して,権原8アプローチを導入した視点を重視す べきである.センは,人々が十分な食料を手に入れ消費する権原が損なわれたこ とが飢饉の要因であると喝破し,その後の世界的な食料問題の議論に影響を与え
8「権原」(entitlement)とは,社会で容認される合法的手段を用いて人々が食料を含むある財を手に入れ,
若しくは自由に用いることのできる能力・資格を意味するとされ(セン 2000),その後の国際的な食料安全 保障の議論におけるaccess to foodが,概ねこの概念に相当する.また,センは,飢餓や飢饉に対して最も脆 弱であるのは,市場経済が浸透して伝統的保険メカニズムが消えつつあるにもかかわらず,それに代わる社会 保障制度が整っていない途上国であると指摘している.
7
た.世界的な食料の供給不足が生じても,構成員の権原に問題のない地域・国で は被害が生じない一方で,国レベルでは食料の供給が十分であり,かつ平均所得 が高くとも,社会保障制度等のセーフティネットが未整備のため権原が損なわれ ているグループが存在する場合には,当該グループがリスクに直面するケースが ある.換言すれば,マクロの食料供給量は,全ての人の食料安全保障を達成する ための必要条件ではあるが,必ずしも十分条件ではなく,この観点からは,食料 の安定供給の確保は,食料安全保障達成のための構成要件の一部といえる.
第3節 本研究の構成と分析方法
本研究では,国内外で関心が高まる食料危機,食料安全保障問題を,食料の量 的リスクという視点で捉え直し,我が国のリスクの潜在的な危害要因を把握した 上で,食料の輸入依存に起因するリスクについては数量的な分析を行うとともに,
可能な限り幅広い類型化を行い,いくつかの潜在的リスクの要因の検証を試みる ことを課題とする.
具体的には,まず,第2章で過去の食料危機と対応について歴史的な検証を行 い,第3章で食料の量的リスクに対応して概念形成されてきた食料安全保障に係 る議論の系譜を整理し,我が国では一貫して食料の輸入依存度が高まり,国境を 越えたガバナンスの観点からリスク管理に懸念を抱いてきたことを明らかにする.
続く第4章,第5章では,食料の輸入依存に起因するリスクについて,産業連 関分析により,数量的アプローチを試みる.第4章では,近年国際食料価格や為 替水準が変動し,これらが輸入食料価格の変動,ひいては国民生活への影響が懸 念されていることを踏まえて,産業連関分析の均衡価格モデルにより為替及び輸 入食料価格の変動リスクを分析する.第5章では,発生のメカニズムや発生頻度 を予め特定することは困難であるものの,一旦発生すると,影響度が,価格の変 動リスクよりも大きいと考えられる,輸入途絶等の量的変動リスクについて,川 下産業の生産に影響が波及する前方連関効果を計測するGhosh型モデルに,ボト
8
ルネック型モデルの考え方を組み込んだモデルを開発して,産業連関分析により 影響試算を行う.
しかしながら,リスク社会とも称され,問題の構造が複雑化する現代において は,食料のリスクも,マクロの食料供給量を,国内生産の維持増大と,輸入の安 定化を図り,短期の調整は在庫で賄えば良いという単純な課題に限定されなくな ってきている.第6章では,国際機関等における,第7章では,諸外国における 食料安全保障を巡る議論,政策を検証し,特にイギリスが実施した多様な指標に よる食料安全保障の評価を参考としつつ,国内のみならず国際的な議論との国際 比較の視点を踏まえて,消費者を起点とした食料リスクの潜在的な危害要因の分 析を行う必要性を明らかにする.
以上を踏まえて,第8章では,我が国における食料の量的リスクの潜在的な危 害要因を類型化の試案を提示するとともに,アクセス問題,大規模災害時のフー ドチェーンの弾力性,輸入食料アクセスに関する購買力,世界の食料供給力・資 源持続性に関するリスクについて,数量的分析ではなく問題提起の域を出ていな いが,検証を試みる.
なお,食料の量的リスクは,基本的に「不足」に関わる課題であるが,我が国 の食料需給の長期的な動向を振り返ると,食料の1日当たり総供給熱量(=1人・
1日当たり供給熱量×人口)は,1960年に約2,140億kcalに過ぎなかったもの の,2000年には56.7%増の約3,354億kcal(=2,642kcal/人×126.9百万人)
となり,その後減少し,2011年には約3,115億kcal(=2,438 kcal/人×127.8 百万人)まで落ち込んでおり,いわば総量としては「飽和」の時代を迎えている.
将来の量的な食料需給を展望するために,減少傾向にある1人・1日当たり供 給熱量が,2012年実績値である2,430kcalで将来にわたって横ばいで推移すると 仮定するとともに,将来人口については,国立社会保障・人口問題研究所による 出生中位(死亡中位)推計予測を採用して,2050年までの食料の1日当たり総
9
供給熱量9を試算すると,図 1-2に示すとおり,今後一貫して減少し続けて,2050 年には,2,359億kcal(=2,430 kcal/人×97.1百万人)と,1965年頃の水準,
2000年比では約7割の水準まで,量的な市場規模が縮小すると見込まれる.FAO が,2050年に91億人の世界人口を養うには,食料全体の生産量を2005/07年か ら2050年の間に約70パーセント引き上げる必要があると警鐘を鳴らす中で,我 が国フードシステム産業にとっては,国内市場の量的縮小と,経済成長・人口増 加が著しい新興国・途上国における需要増へ対応していくことも課題である.
図 1-2 食料の1日当たり総供給熱量と国産総供給熱量(億kcal)
資料:農林水産省大臣官房食料安全保障課「食料需給表」,総務省統計局「人口推計」,国立社会 保障・人口問題研究所「日本の将来推計人口(平成24年1月推計)」
註:食料の1日当たり「総供給熱量」は,食料需給表の1人・1日当たり供給熱量に,人口推計 を乗じて算出した.「総供給熱量予測」は,2012年の1人・1日当たり供給熱量(2,430 kcal)
が横ばいで推移すると仮定し,これに日本の将来推計人口を乗じて算出した.「国産総供給熱量」
は,食料需給表の1人・1日当たり供給熱量に,食料需給表の供給熱量総合食料自給率を乗じ て算出した.
9 厚生労働省「食事摂取基準」をもとに,「エネルギーの国民全体1日当たり摂取所要量」の将来推計を行っ た南石(2012)によれば,「人口動態による合計摂取所要量減少の9割弱が人口減少に起因しており,高齢化 など年齢構成の変化に起因する部分は1割未満と推測され」ていることから,人口減少要因のみを勘案して 供給ベースで試算した.ただし,高齢化や食品ロスの減少等の要因も加味すると,本試算よりも供給熱量がさ らに減少すると推定される.
0 500 1,000 1,500 2,000 2,500 3,000 3,500 4,000
1960 1963 1966 1969 1972 1975 1978 1981 1984 1987 1990 1993 1996 1999 2002 2005 2008 2011 2014 2017 2020 2023 2026 2029 2032 2035 2038 2041 2044 2047 2050
総供給熱量 総供給熱量予測 国産総供給熱量
10
換言すれば,我が国農業及び食品産業が,人口減少・高齢化等の進展に伴い,
国内の食料需要の減少に直面しており,その解決策として,食料需要が増大する と見込まれるアジア諸国への輸出や食品産業の海外展開により,GDP,GNIの 増大を通じた経済成長への貢献が期待されている.
このため,第9章では,第8章までの議論展開と若干異質ではあるものの,ア ジア経済研究所の2000年アジア国際産業連関表を用いて,フードシステムに関 する産業の国際分業率等による貿易・産業の連関構造の現状分析と,中国を中心 としたアジアの新興国における将来の食料需要増による2019年を目標年次とす るアジア太平洋地域の貿易・産業への影響,すなわち国境を越えた投入・産出を 通じた生産誘発効果等を分析し,現時点での国際産業連関を前提にすると,これ らアジア諸国の食料需要増が,アプリオリに日本経済,とりわけ日本のフードシ ステム産業にプラスに作用する構造にはないことを明らかにする.今後,アジア の成長をこの分野で内需に取り込むためには,海外の食品産業への投資のリター ンが国内に環流するとともに,農産物・食品の輸出増に向けた国内生産増が必要 であり,このことが我が国の食料供給力を向上させ,食料リスクの軽減に貢献し うることを浮き彫りにする.
第10章では,結論として,議論を要約し,的確なリスク管理に向けた本研究 の政策的意義を論じる.併せて,本研究で問題提起したものの,分析まで至らな かった論点等について,今後の課題として提示する.
【第1章 引用・参考文献】
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11
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12
第2章 過去の食料危機と対応
第1節 我が国の中世以降の飢餓・飢饉
歴史上,我が国を含む世界各地で,最高度の食料の量的リスクと言える飢餓・
飢饉の発生も枚挙にいとまがない.中世社会では,人々は慢性的に飢餓状態にあ り,自然災害や支配者による収奪により飢饉が起きたとされる.いわば地方分権 システムの中で,食料確保を含む,それぞれの地域での問題は地域自らの力で解 決せざるを得なかった一方で,被害が他の地域に広範に伝播することもなかった.
近世になると,農業生産力が飛躍的に向上したものの,商品経済の進展に伴い都 市と農村の格差も拡大し,いわば飢餓と飽食の共存という事象が見られた.石高 制という経済システムを基礎とした,中央集権的な江戸幕府は誕生したものの,
支配や経済の単位としての領地は小国家たる藩であり,財政運営を始めとした内 政は独自性と排他性を有していた.なお大飢饉が発生した寛永,元禄,享保,宝 暦,天明,天保期には,その被害は,地域的なレベルに止まった中世と比較する と,格段に広範囲に影響が及んだものの,飢饉への対応策は藩ごとに大きな隔た りが存在し,現在の輸出禁止措置に相当する「穀留」という食料不足時の対応も 始まったとされている10.明治維新後,近代に入り,鎖国体制が解かれ海外から の食料輸入も開始されるとともに,廃藩置県という中央集権システムが構築され たことにより,依然として経済的・階層的な格差は残存したものの,穀留を行う ような小国家的な壁が撤去され,円滑な国内流通が確保されることによって,徐々 に食料の偏在が是正され11,飢餓・飢饉の発生が激減した.
明治から第二次世界大戦前の間は,コメ,いも,麦などに依存する貧困な食生 活であり,さらに昭和初期の世界経済恐慌時,戦時中の軍事経済優先の食料事情 悪化,第二次世界大戦終結直後には全国的な飢餓と栄養失調の蔓延を経験した(山
10 中世から近代に至る日本の飢餓の歴史は,原田(1999)を参照.なお「穀留」とは,「下野国黒羽藩士・鈴 木正長の「農諭」に,『隣村に親類縁者有と雖,他の領分なれは穀物の取やりは少しもならす』とあるように,
それぞれの領内でしか穀物の売買を認めない,とするものであった」(原田 1999:p.31)とされている.
11 一方で,原(2000:p.42)は,文明開化以前の全国各地における小市場の存在と対比して,明治維新以降は,
交通網の一極集中化に伴う大都市への一極集中と,各地の小市場の経済的な自立性の喪失が同時に進展し,む しろ偏在化が顕著となった負の側面を強調している.
13
本1999).しかしながら現代の日本では,エンゲル係数の著しい低下,世界各国
から多様な食品・農産物の輸入,大量の食品ロスの発生に代表されるように,戦 中・戦前の状態とはほど遠い,量的にも,多様性・栄養・安全性など質的にも豊 かな食生活を平均的に享受しうる状況になっている12.
この間,量的リスクを巡る農業政策が実施されなかったわけではなく,市場経 済を前提としながら,市場の失敗を緩和することにより,国民福祉の向上を図る 観点から,農産物への市場介入が,米穀法(大正10年法律第36号)により,コ メで始まり13,その後,他の農産物でも採用され,管理価格制度(コメ,葉たば こ),安定帯価格制度(豚肉,牛肉,繭・生糸),安定指標価格制度(バター,脱 脂粉乳・加糖煉乳),最低価格保証制度(いも類・いも類加工品・でん粉等,てん 菜・さとうきび・砂糖),抑制価格制度(飼料),安定基金制度(野菜,肉用子牛,
肉用雄肥育素牛,子豚,鶏卵,加工原料果実)等の多様な介入手法が開発された.
そもそも米穀法によるコメの制度創設は,農業保護よりも価格高騰の消費者への 影響緩和を主たる目的としていた.しかし経済発展に伴う農工間不均等成長によ り,いわゆる「食料問題」から「農業調整問題」に転化し,次第に農業保護の色 彩を強め,生産過剰問題を深刻化させていった14.日本が例外ではなく世界的に も,1920年代から1930年代にかけて進行した世界的農業不況への対処として,
米国をはじめ多くの国で価格支持制度が開始され,長期間にわたって特に先進国 における農業政策の主要ツールであり続けてきた.しかし,1987年に開催された 第26回OECD閣僚理事会において,「農業政策のコストは,政府予算にとって も,消費者にとっても,また経済全体にとっても大きい.更に,行き過ぎた助成 政策は,世界市場における競争を一層歪曲し,国際貿易の根源である比較優位の
12 量的には,国民1人・1日当たり供給熱量が1996年度に2,670kcalとピークを迎えたものの,その後緩や かな減少傾向で推移し,直近の2012年度には2,430kcalまで落ち込んでいる.
13 戸田(1986:p.27)によれば,明治43年のコメの不作による米価高騰に対し,大正2年に朝鮮米の移入税 廃止等米価抑制に努める中,大正3年の豊作による米価下落するといった米価大幅な平価変動を抑制すべく 政府部内で検討が開始された.さらに空前の第一次世界大戦景気によるインフレに加えて,コメの不作が大正 6年,7年に連続し,需要増と投機的なコメの買占め等による価格高騰を引き金にして,富山県で始まった米 騒動が全国に広がり,政府は穀類収用令や輸入税減免でも事態を収拾できず,大正10年に政府の買入れ,売 渡しによる需給調整を骨格とする米穀法(大正10年法律第36号)が成立した.米穀法の主な制度は,食料 不足を前提として,戦時中の1942年に成立した食糧管理法(昭和17年法律第40号)に引き継がれた.
14 一方で,例えば御園(1977:p.277-278)のように,農産物価格政策を「国家独占資本主義の譲歩の政策」
として,不足基調にある場合の機能を「安定した低農産物価格=低賃金の体系」の維持,過剰基調にある場合 の機能を「国内生産者農民の不満を可能なかぎり宥和もしくは緩和」することと捉える見方もある.
14
原則に逆行し,また,多くの開発途上国の状況を著しく害している」,「農業改革 は,OECD加盟国にとり,大きくかつ困難な問題である.これらの克服のために は,国際協力の強化が必要である.OECDは,その作業を一層掘り下げることに より問題の解決に貢献し続けるであろう」との内容を含むコミュニケが採択され た.これを受けてOECD(1994)がとりまとめた報告書や,ガット・ウルグア イ・ラウンド交渉の結果,価格支持政策が削減すべき黄の政策と位置づけられた ことなどを背景として,近年,各国の価格支持政策は市場への影響度が低いとさ れる直接支払制度などへ,換言すれば消費者負担から納税者負担の農政へと移行 しつつある.農産物の財の特質から,市場の失敗の問題を内在しており,価格の 著しい変動を抑制するため政府の介入等による影響緩和が必要である15.しかし 介入の手法・程度によっては国民福祉の向上に逆行して「政府の失敗」を招きか ねず,食料・農業に関連する様々な市場が不完全性を有することに留意した安定 性と,市場経済を前提とする経済政策としての効率性との調和も必要である.
食料の量的リスクの発生と広がり,またリスクへの対応策には,商品経済や物 流の進展等の経済的要因と,実効性のある統治・共同体単位の拡大や支配システ ムの変容等の政治的要因の両面が関連しており,家族単位の自給に始まって,地 域単位,藩単位,国単位へとリスク管理の範囲が次第に広がってきているが,貿 易の拡大等国際化が進展した現代でも世界全体で見れば,実効性の伴う国際協調 の取組による食料需給の安定化が図られ,食料不足が解消されたとは言い難い状 況にある.なお,中世以降,既にセンが指摘した権原の問題が表面化している.
食料問題からは離れるが,猪俣他(2011)は,貿易を通じた国際生産ネットワ ークの緊密化と経済危機等の負のショックの連鎖との関係を,アジア国際産業連 関表を用いて定量的に分析している.アジア・環太平洋地域における貿易の「三 角構造16」の下で,2008年のリーマンショックを引き金とする経済危機が,震源
15 食料・農業・農村基本法第30条において,「国は,消費者の需要に即した農業生産を推進するため,農産 物の価格が需給事情及び品質評価を適切に反映して形成されるよう,必要な施策」及び「農産物の価格の著し い変動が育成すべき農業経営に及ぼす影響を緩和するために必要な施策」を講ずることとされている.
16 猪俣他(2011)によれば,①日本を含む東アジア諸国が部品や原材料を生産して中国へ輸出し,②中国は それらの中間財を用いて最終財を組み立て,③最終消費地であるアメリカへ輸出するという財の流れを指して いる.
15
地のアメリカよりも東アジア諸国の景気後退をより深刻化させた.この負のショ ックの伝達メカニズムとして,国境を越えた相互依存関係を著しく深化させた高 度な連関構造を生み出したがために,逆説的に需要ショックの伝播が非常に速く,
かつ広域に及んだことを解明している.とりわけ不測の危機に際して,経済の国 際化,ボーダレス化による負の影響を緩和・遮断する,何らかの国際協調システ ムや国内での備えが整備されることが望ましいことが示唆される.
第2節 1970年代前半の「食料危機」への対応
高度経済成長期の国際収支黒字幅の拡大を背景として,とりわけアメリカから 農産物輸入自由化の要求がエスカレートする一方,工業製品の輸出振興体制維持 の観点から政府内部,財界,言論界等から,さらには消費者物価安定の観点から 消費者団体等からも,農産物の市場開放を求める声が高まり,1972年には,輸入 制限品目数を1968年の73品目から22品目まで減少させ,大豆,大豆粕,なた ね等の関税を無税とし,輸入制限品目の輸入枠を大幅に拡大することで日米合意 に達した(戸田1986:p.145-160).貿易自由化問題に加えて,コメの過剰問題,
列島改造ブームによる農地転用需要の増大という「農業の三重苦」により,日本 農業撤退論が俎上に上る状況下にあって食料の海外依存度を急速に高めた17.こ のような中で,国際農産物需給のひっ迫を要因とする国民生活に大きな混乱に陥 れる「危機」が日本を襲った.1972年のソ連の不作と大量買付け18に端を発して 穀物及び大豆の国際価格が徐々に高騰する中で19,1973年6月には突然アメリカ が大豆輸出禁止措置を発動し20,さらに同年10月の第4次中東紛争勃発と資源ナ
17 1965年の供給熱量ベース総合食料自給率73%,穀物自給率62%が,1973年には55%,40%まで急落した.
18 1970年にはソ連の穀物輸入量は80万トンと世界の穀物貿易量の1%にも満たなかったが,1972年には
2,280万トン,世界の貿易量の18%に急増した.
19 当時の食料価格高騰について,アメリカ政府当局は1972年夏の段階でソ連が買付けに出る情報を得ていた にも関わらず,農地の15%に相当する6千万エーカーを休耕させるため,農民に補助金を払っていたとして,
当時のバッツ農務長官も飼料会社出身だったように,歴代の農務長官や農務省高官と穀物メジャー等関係会社 の重役との「人事の交流」を背景とした,「つくられた食糧危機」(ジョージ 1980)であるという見方もある.
20 1970年には,アメリカ一国が世界の大豆生産量の66%,輸出量の94%を占める寡占状態にあった.こう
した状況下で,大豆価格(シカゴ,期近,各月とも第1金曜日のセツルメント価格)は,1970年まで概ね110 ドル/トンで推移していたが,73年4月に219ドル/トン,5月に284ドル/トン,6月に417ドル/トンに跳ね 上がり,その後も200~300ドル/トンの水準で乱高下し,輸出先国にも大きな影響を及ぼした.輸出禁止措 置は,海外市場の拡大を必要とする農業者,穀物商社,農務省にとっては反対であった.アメリカ側の発動理 由を,小倉(1987b:p.26)は,「アメリカでもその当時,大豆の価格が高騰して,飼料価格に及び,市民生活 への影響がおそれられたのである.しかも,この大豆価格の高騰の裏には日本の商社の買付競争があった」と
16
ショナリズムの台頭による産油国の供給制限が拍車をかけて,石油と食料の価格 高騰と供給不安により,一種のパニック状態ともいえる経済的混乱,狂乱物価と いう事態が生じた.当時のエンゲル係数が約30%であること,近年の高騰した食 料・原油価格水準と同程度まで急上昇したこと等を考慮すると,国民生活への影 響は近年の価格高騰の影響を上回るものであったと考えられる.また食料価格の 高騰が,主要生産・輸出国における,生産制限解除と増産のインセンティブにな り,タイムラグの後に価格は低下すると当初想定されていたものの,同時に進展 した資源価格の大幅上昇が肥料,農薬,燃料等の農業生産資材の価格高騰に繋が り,増産の障害になったことが,結果的に世界的な食料価格の均衡点の切り上げ に繋がったと分析されている.
「食料危機」と喧伝された世論について,大賀(2001:p.20)は,大豆輸出禁止 措置の発動は3ヶ月間のみで,我が国の大豆輸入量は十分確保されていたにも関 わらず,「世論は一転し,食料の国内自給論が強まり,農業の見直しが主張され,
農産物の国際分業論は影をひそめた」と当時を振り返っている.戸田(1986:p.199)
も,「日本農業撤退論が,いかに身勝手な思い上がりであったかを多くの国民が知 ることができ」,「食料の大切さや農業の重要性についての国民の認識が高まる」
一方で,「混乱がおさまってみると,いたずらに国民の恐怖心を煽った一部の食料 不足論や飢餓説がいかに根拠のないものであったかを知った」と回顧している.
政府が「食料の量的不安はない」と力説してもパニック状態は収まらず,これら を助長した「ジャーナリズムの報道姿勢にも反省の余地は多かった」とも指摘し ている.川島(2009:p.172-176)は,近年の食料危機説の源流をローマクラブの
『成長の限界』と捉えているが,食料・エネルギーの国際需給を巡る混乱事態が 発生する直前に,1972年に公表された『成長の限界』が,世界人口,工業化,汚 染,食料生産,および資源の使用の現在の成長率が不変のまま続くならば,来る
記している.ただしアメリカは,輸出禁止措置が大豆価格の沈静化に働かず,国内の不安解消に繋がらなかっ たこともあり,事後,日本に農産物市場開放を迫る際には,輸出禁止が誤った政策であり,二度と採用しない と主張した.なおアメリカ国内法である,1979年輸出管理法(Export Administration Act of 1979)に基づ き,国家安全保障,外交政策,物資の不足等を根拠として,大統領が輸出規制を行使する権限が担保されてい る.原油・石油製品等と並んで,農産物については,不足物資の過度の枯渇から国内経済を守る等の目的に限 定され(いわゆる「武器」としての輸出規制等は対象とされていない),関連規定に照らして農務長官及び商 務長官の承認を事前に得た上で,大統領が輸出を制限することとされている
(http://www009.upp.so-net.ne.jp/kgm1_ear/EAR_J/EAA.pdf(輸出管理法邦訳)を参照).
17
べき100年以内に地球上の成長は限界点に到達するであろうと警告し,マルサス の人口論を想起させていたことも,消費者のパニック心理に拍車をかけ,
「spiritualな飢餓」感を増幅させたと推察される.
あるべき政策対応として,小倉(1981:p.179-190,初出は1973年9月の『農 業構造問題研究』第84号)は,アメリカの大豆輸出禁止措置発動の直後に,「国 内農業の生産≒国民食料の供給」という図式からは実態が懸け離れており,国民 食料の供給を食料政策と定義すれば,「日本農業は重要な役割を果たしてきたが,
いまではその役割は日本農業以外にかかわるところが多い.それは流通であり,
輸送であり,加工であり,また海外農業である」として,「総合的な食料政策」の 必要性を訴えるとともに,こうした課題に「対応するような機能をもつ組織も機 関もない」ことを憂慮していた.また「食糧と飼料の隔離,とくに米と米以外の 穀類の隔離政策」を進めてきた体質のもとで,諸外国との比較において「規模と 機械化の二つの点でおくれをとるところでは穀作は困難」であり,「日本農業は穀 類の生産には適格ではない」し,「穀類を増産に向かわすことはほとんど不可能だ ろう」と述べ,耕畜連携としては草地開発をより重視すべき旨指摘していた.
「食料危機」事態に対して実際にとられた政策を,主に戸田(1986:p.179-199)
に依拠して整理しておく.国民が「一種のパニック状態を起こし」ている状況の 中で,「国の政策としては,穀物価格の高騰にいかに冷静に対応するかが最も重要 な課題であったが,それとともに国民の不安感を取り除く対策が必要であった」
と述べている.農林省は,「昭和50年度において講じようとする農業施策」にお いて,食料の安定供給の確保のために,「国内で生産可能な農産物については,極 力これを国内で賄う体制を整備するとともに」,新たに「輸入の安定化の方策を進 めていく」ことを提示した.具体化された政策として,まず1975年8月に当時 の安倍農林大臣とバッツアメリカ農務長官の間で,小麦300万トン,飼料穀物800 万トン,大豆300万トンの取引目標数量を含む安定取引について,権利義務を伴 う行政協定ではなく,あくまで実現に向けた努力を約束する紳士協定に合意した.
アメリカ政府への不信感をやわらげ,国民に対して安心感を与えるという点で大 きな成果があったとされている.対照的に,数量と価格についての取引契約を締
18
結したことが裏目に出たのが,当時投機性が強く,国際価格の変動が大きかった 砂糖に関する1974年12月の日豪の砂糖輸入協定21であった.輸出国は先高を見 越して売り控え,輸入国は供給不安から買い占めて,価格が高騰していく中で,
1973年の国際砂糖会議における国際砂糖協定の改訂交渉が難航し,国際的な価格 調整機能を規定していた経済条項が廃止された.「農林省の積極的な指導」の下で,
日本側の国内精製糖メーカー33社と,オーストラリア側の大手砂糖メーカーCSR 社の間で,年間60万トン,価格は5年間の固定価格とする長期契約が締結され,
両国政府もその円滑な履行を期待する旨の交換公文がなされた.しかしながら,
世界経済の景気低迷による消費減退と2年連続の世界の砂糖生産の豊作により,
国際砂糖価格が暴落し,契約参加精製糖企業は膨大な赤字を計上したとされてい る.消費・輸入国と生産・輸出国の利害が相反している中での,輸入安定化の困 難性を典型的に示す事例である.砂糖,穀物など代表的な一次貿易商品について,
過度な価格変動の防止と需給調整,構造調整などを目的として生産国,消費国双 方が協力し合う商品別の国際商品協定が締結されたものの,次第に経済条項が撤 廃され,2001年に国際天然ゴム協定が失効したことから,経済条項を含む国際商 品協定は現在存在しない.
食料に関する国民生活への影響という視点では,食管制度によって十分なコメ の供給が保障されたこと,高騰する国際小麦価格の影響が食管制度で遮断された ことなど,各品目の価格安定制度の効果により,国際価格の乱高下が緩和された 一方で,備蓄積増し論の台頭と米価の引き上げによる増産によりその後過剰在庫 累増に繋がったとされている(戸田1986:p.187-188).むしろ価格高騰の大きな 打撃を受けたのは畜産業界であった.トウモロコシなど輸入飼料依存度が高く,
かつ生産コストに占める飼料コストのウェイトが高い養豚・養鶏は,光熱費等の 生産資材費の上昇と相俟って経営面で大きな打撃を受け,例えば繁殖豚飼育農家 数は,1973-74年の1年間に12.5%減,74-75年の1年間に20%減と小規模層を
21 当時砂糖輸出国は先高を見越して売り控え,輸入国は供給不安から買い占めて,価格が高騰していく中で,
1973年の国際砂糖会議における国際砂糖協定の改訂交渉が難航し,国際的な価格調整機能を規定していた経 済条項が廃止される状況にあった.このため農林省による積極的な行政指導の下で,日本側の国内精製糖メー カー33社と,オーストラリア側の大手砂糖メーカーCSR社の間で,年間60万トン,価格は5年間の固定価 格とする長期契約が締結され,両国政府もその円滑な履行を期待する旨の交換公文がなされた.
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中心に廃業が相次いだ.しかし生産縮小と生産者団体による自主的な生産調整の 効果により,75年には概ねコスト上昇に見合った価格水準の回復が図られた.
「狂乱物価」への対応として,1973年には,便乗値上げの防止等を図るための 生活関連物資等の臨時物価抑制対策が定められ,生活関連物資の値上げが行政の 事前了承制に移行するとともに,経済企画庁(当時)に物価局が設置され,生活 関連物資等の買占め及び売惜しみに対する緊急措置に関する法律(昭和48年法 律第48号),石油需給適正化法(昭和48年法律第122号),国民生活安定緊急措 置法(昭和48年法律第121号)が相次いで制定され,物価安定が図られた.こ の当時に整備されたこれら法制度は,物価統制令(昭和21年勅令第118号)と 併せて,不測の事態が生じた場合の政府による供給確保,価格・流通の安定等の 対策の根拠法として,「緊急事態食料安全保障指針22」(農林水産省 2012)にも掲 げられている.買占めや売惜しみは,「経済人」の利潤最大化行動とも解しうるが,
社会的厚生の最大化に反することから,行為を規制する国内法は整備しうるもの の,国境を越えた売惜しみに相当する各国の輸出規制措置を有効に規制する国際 法は存在していない.
食料に関して,「狂乱物価」の混乱から比較的短期間で回復した要因を,戸田
(1986:p.188-190)は,「高度成長によって培われた経済力が物価上昇を上回る 賃金の支払いを可能にし」,「個人消費支出や個人飲食費支出の伸びが持続してい たこと」により,「全体の物価水準の上昇に見合った農産物価格水準の実現や行政 価格の引上げが,市場で大きな混乱もなく通用した」と分析している.マクロ経 済が長期低迷し,実質賃金指数が減少傾向で推移し,内外の価格安定制度が廃止 される中で,今後,当時と同じ程度の外的インパクトが生じた場合には,さらに 悪化した事態が長期化する可能性も排除できない.
農政の見直しに関しては,1975年に,農政審議会による「農産物の需要と生産 の長期見通し」の答申と「食糧問題の展望と食糧政策の方向」の政府への建議を 契機として,内閣主催による国民食糧会議が開催され,これらを踏まえた「総合 食糧政策の展開」という政策文書を農林省が公表した.ただし,前出の小倉(1981)
22 2002年3月に,「不測時の食料安全保障マニュアル」として初めて策定され,累次改正されてきたが,2012
年9月の一部改正で改称された.