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源氏物語 本文研究と古筆切研究のあわい

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『 源 氏 物 語 』 の 本 文 研 究 に は す で に さ ま ざ ま な 方 法 が 試 み ら れ て い る 。古 筆 切 と の 相 性 は ど う で あ ろ う か 。実 際 上 、 写 本 の 欠 片 と し か 思 わ れ て い な い 、 文 字 ど お り の 断 簡 の 本 文 が 、 研 究 に 資 す る と す れ ば 、 ど の よ う な ア プ ロ ー チ が 考 え ら れ る だ ろ う か 。 い ま だ 確 立 さ れ た 方 法 が あ る わ け で は あ る ま い 。 ひ と つ ひ と つ 手 探 り で 検 討 し て ゆ く し か 、 少 な く と も デ ィ レ ッ タ ン ト Dilettante の 稿 者 に は 手 段 が な い よ う に 思 わ れ る 。   阿部秋生の本文研究 阿部秋生博士

といえば、小学館から出版された旧版 の日本古典文学全集、そして現在最も広範に使われている とおぼしい新編日本古典文学全集、それぞれの本文校訂を 担当したことは、周知のことであろう。さらに明治書院の 校 注 古 典 叢 書、 『 完 本 源 氏 物 語 』 な ど の テ キ ス ト も 手 が け ている。小学館の両全集、あるいはそうしたテキスト類の 校訂作業の過程で、おのずと本文にかかわるさまざまな問 題が浮上してくるわけで、阿部はその間、かれこれ二〇篇 を超える論稿を公にし た ( 1 ) 。それらを精選した単著『源氏物 語の本文』があることも、斯界にはよく知られている。阿 部 が 没 し て、 二 〇 一 八 年 の 本 年 で 二 〇 年、 『 本 文 』 が 上 梓 されてもはや三〇年を経ており、もはや最新の研究とはい いづらい。 しかし、にも拘わらず、そこに開示された阿部の見解は ほぼ一貫しており、そのまま現在の本文研究のひとつの到

源氏物語

本文研究と古筆切研究のあわい

 

 

 

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達点を示している、と見てよいように思える。 『 源 氏 物 語 』 の 本 文 は、 青 表 紙 本・ 河 内 本 共 に『 源 氏 物 語 』 の 原 典 そ の ま ま の 本 文 と は 考 え ら れ な い こ と、 つまり校訂者がそれぞれに手を加えているらしいと考 えられるものである、なまじ、その校訂の事情が伝え られているだけに、そういうことの全く知られていな い他の作品の伝本の場合のように、多少崩れてはいて も、原典の本文の姿を残しているのではないかという 夢を持つことができないということである。 (「伝本状況につい て ( 2 ) 」) たとえば、等しく青表紙本とは称しても、奥入を有す ることによって定家の家の証本と考えられているもの と、奥書によって青表紙証本と考えられているものと の間には、誤写・誤脱とみるだけでは処理しきれない 本文の異同・対立が系統的にあるようだ。どうして一 つの青表紙本がそんなことになるのか、殆ど、手のつ けようもないかに見える難題である。 (「矛盾する本 文 ( 3 ) 」) 定家や親行が見た諸伝本には、古伝本系別本という名 を与えて一括することはできるが、その括られた伝本 個々の本文は、普通の作品の伝本の本文のように、同 系統の本文ではない。一つ一つの伝本がそれぞれに異 な る 本 文 を も っ て い る。 つ ま り、 『 源 氏 物 語 』 と い う 一つの原典の本文(表現)を原拠として尊重し、それ を忠実・精確に書写することを心がけて作業が重ねら れてできた伝本群ではなかったのである。従って、そ のような古伝本系別本諸本の中に、 原典以来の本文 (表 現) の姿を保っている伝本が存在していたであろうか、 たとえ、存在していたとしても、定家や親行がこれを 見 分 け る 術 を も っ て い た で あ ろ う か と 考 え さ せ ら れ る。 (「別本の本 文 ( 4 ) 」) 定家は、この一本一本がまちまちの本文をもっていた 古伝本系別本諸本の中からある一本を選んで、それを 家の証本としたと言われるのだが、どういう本文を選 んだのであろうか。……本文以外に、原典に近いこと を知りうる客観的徴証があるわけでもない。たとえば 定家は『土左日記』を書写する時、貫之自筆本を採っ た ら し い が、 『 源 氏 物 語 』 の 場 合 は、 そ の よ う な 原 著 者 自 筆 本 を 採 っ た わ け で も な い。 と す る と、 定 家 は、 その作家としての見識とでもいうものによって、これ

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という一本を選んだと考えるより外にないのであろう か。 定 家 の 作 家 的 見 識 の 高 さ は 評 価 し う る と し て も、 結局それは定家の目であって、それを紫式部のそれに 振りかえることはできない。 (同)   かつて、そしていまもそう信じている(あるいは、信じ よ う と し て い る ) 研 究 者 が い る よ う に、 「 青 表 紙 原 本 は、 あ る 一 本 を 忠 実 に 書 写 し た の だ 」「 定 家 が 校 訂 を ほ ど こ し た も の で は な い の だ 」「 だ か ら 青 表 紙 本 は 原 典 に 至 近 な の だ 」、 そ し て「 九 帖 の 明 融 本 は 定 家 本 の 臨 模 本 で あ り、 五三帖の大島本は定家本を受け継いだ本だ」 、だからこそ、 現存する大島本は青表紙原本たる定家本に遡源し、さらに 平安期写本の「ある一本」をとおして紫式部の原典を透か し 見 る こ と が で き る

と い う“ 夢 ” が あ っ た。 し か し、 阿 部 は、 こ こ で「 夢 を 持 つ こ と が で き な い 」「 原 典 以 来 の 本文(表現)の姿を保っている伝本が……存在していたと しても、定家や親行がこれを見分ける術をもっていたであ ろ う か 」「 結 局 そ れ は 定 家 の 目 で あ っ て、 そ れ を 紫 式 部 の それに振りかえることはできない」と、現在の本文の伝存 状況を見据え、冷徹なまでの言辞の数々で一刀両断したの である。 現在でこそ「青表紙本」という用語をつかう研究者は少 なくなったが、その契機をつくったのが、阿部博士の「源 氏物語の諸本分類の基準」 (『国語と国文学』第五七巻第四 号、一九八〇年四月)だったことは衆目の一致するところ であろう。現存諸本を分類整理するにあたって、中世以降 の 文 献 に 見 え る「 青 表 紙 本 」「 河 内 本 」 と い う 呼 称 に 依 拠 したのは、研究手順としてまちがいではなかったか、と池 田亀鑑の『源氏物語』の諸本調査の基本理念に対して、根 本的な疑問を呈したのである。それ以後、別の角度・方法 から 「青表紙本」 を点検したり、 現行の活字本の底本になっ ている大島本を再検討するなどの動向が生まれたこと、周 知のとおりである。 しかしながら、阿部秋生という研究者は、池田亀鑑のよ うに平安時代文学の作品について、諸本を渉猟したり、現 存写本の本文・形態の調査など、いわゆる本文研究に主軸 をおいて研究生活をまっとうしたひとではなかった。諸写 本を渉猟し本文を整定してゆく作業

阿部のことばを借 りれば「本文作 り ( 5 ) 」

は、もとより阿部の専門とすると ころではなかった。 『源氏物語研究序説』 『源氏物語の物語 論』 『光源氏論』 など博士の主要著書をならべてみても、 「本 文作り」を特化させた研究方法を採っていたわけではない ことは一目瞭然であろう。 『 源 氏 物 語 の 本 文 』 の「 あ と が き 」 に、 こ の よ う に 記 さ

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れている。 十 五、 六 年 前、 極 く 一 般 的 読 者 の た め の 本 文 を 作 る こ と に な っ た の が、 『 源 氏 物 語 』 の 本 文 を 実 際 に 扱 う こ とになったはじめである。それまでにも、本文研究は むずかしいものだと、話としては承知していたが、実 際に手をつけてみると、開かずの扉とはこんなものか という思いがした。爾来、今日まであれこれやって来 たが、解決のめどがついたという思いはまだない。五 里霧中であることに変りはない。   しかし、これは手を束ねて傍観していていい問題で はない。誰かが解きほぐす努力をしなければならない ことだが、 なまじな考えで手を出すと、 解決どころか、 却って問題を混乱させてしまうおそれがあるように思 う。私は、本文研究を自分の仕事にすると決心したこ とはなかったが、せめて問題にどんなものがあるのか だけでも拾い出しておこうと思って書いたものが、こ こに収めた論考である。これらは、いずれも、いくつ かの条件を前提において、その前提に立つならばこの よ う な こ と を 考 え う る の で は な い か と い う 議 論 で あ る。こうして、段々と論を詰めてみると、時には、前 提条件をはずしても成立しそうなものが見えて来たか に思われることもあったが、レンズ(作業方法)の解 像力が不足なのか、操作が拙劣なのか、いまだに定か な像が結ばれたことはない。……(後略)…… (二三一~二三二頁)   稿者は、これまで阿部博士の驥尾に付して、その仕事ぶ りを瞥見する機会があったが、旧 稿 ( 6 ) でものべたとおり、右 のような発言は、論文本体ではごくごく慎重な仕事ではあ りながら、 同時に、 いつも率直な(あるいは率直に読める) 見解を表明するのを常としていた、 。「極く一般的読者のた めの本文を作ることになった」というのは小学館の日本古 典 文 学 全 集( 旧 版 ) の こ と で あ る こ と は い う ま で も な い。 そ し て、 請 わ れ た と こ ろ や 自 ら の 問 題 意 識 に よ る も の に よって築かれたのが、右にふれた本文研究の論考の二〇篇 余 だ つ と と い う の で あ る。 そ の 結 果、 「 解 決 の め ど が つ い た と い う 思 い は ま だ な い 」「 い ま だ に 定 か な 像 が 結 ば れ た ことはない」という。もちろん、一書の「あとがき」とい う場での発言でもあり、謙辞でもあったろうが、右の一覧 の 諸 論 の ほ と ん ど は『 大 成 』 と「 『 大 成 』 以 後 」 に 対 す る 疑義の提出であったのだと思われる。 にもかかわらず、本稿冒頭に掲げたような阿部の『源氏 物語』 本文に対する見解が、 三〇年も経過した現在まで 「ひ

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とつの到達点」を示しつづけているのだろうか。阿部の指 し示すところをきっかけとして、この物語の本文研究のお か れ て い る 現 状、 そ の 問 題 点 を、 Dilettante の 目 で 見 直 し てみようと思う。   本文研究の現実 本 節 も 旧 稿 ( 7 ) に の べ た こ と と 重 な る。 『 源 氏 物 語 』 研 究 の 場における本文への意識の希薄さについての不安を述べた ものだったが、紙幅が限られていたため、踏み込みが十分 でなかった。ここに稿をあらため、出直し再説したい。そ のため、以下の内容はそれと行文上、まったく重なるとこ ろがある。意のあるところをお汲み取りいただき、ご寛恕 願いたい。          * 二 〇 一 四 年 一 一 月 一 五 日( 土 )、 佛 教 大 学 の 二 条 キ ャ ン パス(京都市中京区西ノ京東栂尾町)で中古文学会関西部 会 主 催 の シ ン ポ ジ ウ ム が 開 催 さ れ た。 題 し て「 源 氏 物 語   本文研究の可能性」 。 基 調講演   陽明文庫・名和修氏「陽明文庫別本源氏物 語について

その書誌的観点から」 を筆頭に、シンポジストとして、 岡 嶌偉久子「鎌倉写本に見る様々な情報

主として 河内本から」 加藤洋介「河内本・別本から見た定家本源氏物語」 新 美哲彦「定家本『源氏物語』の諸問題

大島本と 明融本の比較から見えるもの」 という当代の俊秀をならべ、 しかも題目からわかるように、 当時も現在も本文関係ではもっとも先鋭な話題ばかり。 『源 氏物語』だけではなかったが、中古文学会が二〇〇三年度 秋季大会を同志社大学で開催した際、大会校・廣田收と陽 明文庫長 ・ 名和修の両氏のほか関西部会の方々の計らいで、 第 三 日 目( 一 〇 月 一 三 日〈 月 〉) に「 陽 明 文 庫 見 学 」 が 挙 行された際、見学者を六回も入れ替えるほどの盛況だった ことを思えば、貴重きわまりない宝庫の話題には関心をも つ方が大勢いるはずだと思われた。 ところが、事前の打ち合わせが不十分だったせいか、司 会(不肖・横井がつとめた)の力量が足りなかったせいも あってか、やや盛り上がりに欠けた。シンポジストの方々 の発表も「先鋭な話題」であっただけに、行論の問題点や 視点・方向性が各自にまかされていてすりあわせがなかっ たため、司会の技量のあまさも相まって議論が散漫になっ てしまった。いまだに慚愧の念を払拭できないでいる。し かも、 題目と概要は事前に公表されていたにもかかわらず、

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かなりの空席があったように記憶している。 こ の シ ン ポ ジ ウ ム は、 二 〇 〇 八 年 六 月 七 日( 土 )「 源 氏 物語千年紀」 の年に同じ中古文学会関西部会が開催した 「大 島本源氏物語の再検討」の第二弾として企画されたもので あろう。前回は時宜にかなっていたせいか、一般の関心も 高く、 会場の京都市文化博物館の旧館は満席の状態だった。 大島本は古代学協会の所蔵であり、同博物館の目玉商品で もあったため、京都近辺の一般の方々も大島本は展覧会で 目にしたことのある写本だったからでもあろうか、会場の 選択も理に適ったものであった。 そ れ に く ら べ て 二 〇 一 四 年 の 場 合 は ど う し た こ と だ ろ う。非力な司会者は、シンポジストの繰り出す発表内容が 河内本・別本・定家本と拡散してゆくのに対して、大島本 の時のようなテーマの絞り込みができず、きりきり舞いさ せられながら、しきりと既視感のような感慨にとらわれて いた。 それは、先達もまた同様の体験をしていたということが あったから だ ( 8 ) 。 一九九二年の中古文学会春季大会のことというから、さ ほど以前のことではない。先ごろ物故した野村精一が、大 会初日に出席すると満席にちかかったという。翌日は早め に会場に赴いたところ、午後の研究発表のころには空席が 目立つ状態であったとのこと。そこには本文研究の発表が プログラムとして並んでいたからなのであって、野村はこ う 慨 嘆 し て み せ た。 「 本 文 研 究 の と こ ろ で、 聴 衆 が 減 っ た ということの意味は、考え直してみると、いささかおそろ しいことではないのか」

と。 この、本文研究の 人気のなさ 0 0 0 0 0 という現実に直面して、野 村は、研究者の間に「さまざまな活字本、注釈、翻刻、そ し て そ れ を 補 う 影 印 本、 複 製 本、 手 も と に 置 け る 紙 焼 本、 マイクロコピー等々、 あらゆる資料が、 既にととのえられ、 そ れ さ え よ め ば 0 0 0 あ ら ゆ る 研 究 が 可 能 だ、 と い う 幻 想 」( 傍 点野村)があることを指摘し、 この幻想者たちがむしろ多数派であることを明示して おり、それを善意の過信とみなすにせよ、せいぜいか れら多数派は、非幻視者たちの、その研究成果を まち 0 0 わ び 0 0 て い る の だ、 と い う こ と に な ろ う か。 と す れ ば、 この「幻想」をいくつか持たぬ人々の 責任 0 0 は、より重 かつ大なるものがあるはずだ。目下のところ、せいぜ い定家校訂本の源氏物語(悪くすれば故池田博士校訂 本)をもって、平安期のそれとみなして、せっせと源 氏物語論や紫式部論を生産しているその現状に対する 責任 0 0 である。それが多数であればあるほど、その少数

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者たちの責任は、重くなるはずである。……いってみ れば、未成年者に対する保護者の社会的責任に近いも のかもしれない。 と い う。 皮 肉 と い う ス パ イ ス が 効 き す ぎ て い る け れ ど も、 言わんとするところは明白であろう。この「未成年者」た ちへ辛辣な訓誡である。野村のこの発言以後も、陽明文庫 の典籍を大がかりな展覧会でなく学会会員限定で、まのあ たりにできる機会を、あえて無視できる一団の存在があっ た、ということなのだ。 さらに野村は、 「しからば、 その少数派はどこにいるのか。 源 氏 に つ い て い え ば、 本 文 研 究 を 専 業 と し て い る 向 き は、 はたして だれ 0 0 か?」と迫る。いうまでもなく、ここからが 野村の評論の入り口なのである。 こ こ で い さ さ か 非 礼 な 言 辞 を 弄 さ せ て 頂 け れ ば、 『 源 氏 物 語 の 本 文 』 の 著 者 も、 『 源 氏 物 語 の 文 献 学 的 研 究 序説』の著者も、それをもって自ら任じておられぬよ うに拝察する。そういう思いでみてみると、いまいさ さかことにかかずらわっている故山岸博士の旧蔵書を 調べてみると、同博士の研究の総体の中では、源氏物 語の本文研究など一局部にすぎない、という印象を受 けることも確かである。   この一節については、稿者もまた同感の思いを禁じえな い。阿部秋生の場合については、前節にすでにその言説を 引用しておいた。山岸徳平博士の場合、戦前・戦後まもな く の こ ろ に は、 資 料 そ の も の は 手 に す る こ と が で き て も、 写本の本文自体が錯雑して、みずから校訂をほどこさねば 読 み 取 れ ぬ も の が 多 か っ た。 本 文 の 校 訂 を す る た め に は、 眼 前 の 本 を 離 れ て 諸 本 を 見 な け れ ば な ら な い。 そ う し て、 山岸文庫には諸方の現写本が残されたのであり、それには 過 眼 の 証 と し て、 ほ と ん ど に 校 訂 の 朱 筆 が 加 え ら れ て い る ( 9 ) 。 野村は、こうした実例をもとに、 ……源氏物語の本文研究の専門家なるものの存在もま た「幻想」そのものだったのかもしれない。古来そん なひとは一人も存在しなかったのだ。 真の 0 0 源氏物語の 研究者たちは、必要に応じて 自ら 0 0 その本文研究に従事 したのである。右の阿部・池田両先覚しかり、さかの ぼれば玉の小櫛四の巻を見ればよい。結果は惨憺たる ものだったにせよ、 そこで宣長が湖月抄の本文対手に、 い か に 四 苦 八 苦 し て い る か。 お そ ら く こ れ な く し て、

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中世源氏学批判も もののあはれ 0 0 0 0 0 0 論も自立しえぬかにま で執していることは、一読直ちに知られよう。……裏 を返せば、真の源氏物語研究とは、この本文研究を必 然的に伴うものなのであって、 それを他者に依存して、 どこかに本文(善本)提供者がいるというかの幻想の 持主たちの研究が、真の源氏物語研究などになりよう はずがない、という苦い真実を逆証していることとな るのではあるまいか。 という。こうして野村は、先人たちが「必要に応じて自ら そ の 本 文 研 究 に 従 事 し た 」 に 過 ぎ ず、 「 真 の 源 氏 物 語 研 究 と は、 こ の 本 文 研 究 を 必 然 的 に 伴 う も の な の 」 で あ っ て、 それを他者に依存することの不毛を指弾したのである。野 村のいうところの「幻想」の持ち主が「せっせと源氏物語 論や紫式部論を生産している」現状のうそ寒さ

と。 野村は、 この多数派を「未成年者」呼ばわりしながらも、 だ か ら こ そ、 と い う べ き か、 「 非 幻 視 者 た ち の、 そ の 研 究 成果をまちわびている」と評するが、これとても少しく好 意的に見すぎていやしまいか。三次産業の従事者が一次産 業の人たちを見る、あるいは臨床医学が基礎医学を下に見 るといった都市伝説めいた譬え話ではどうだろうか。比喩 が間違っている、言葉が過ぎる、ということであれば撤回 するにやぶさかではない。が、自分たちの研究を本文研究 な ど よ り さ ら に 高 次 の そ れ だ と い う 思 い が、 「 本 文 研 究 の ところで、聴衆が減」る要因なのではなかろうか、と私な どは邪推するのである。 野村精一が右の評論を掲載したのは一九九二年。それか ら四分の一世紀を経た二〇一八年の現在、野村の指摘した 段 階 よ り も 事 態 は さ ら に 深 刻 化 し て い る。 『 源 氏 物 語 』 研 究の多数派の人々は小学館の新編日本古典文学全集からほ と ん ど 一 歩 も 出 な い 有 様。 「 …… 新 編 全 集 に よ っ た 」 と か 「 …… 新 編 全 集 に よ り、 表 記 を 改 め た 」 と か い う 注 記 を 免 罪符にしているのではなかろうか。大島本が一写本として シンポジウムの熱い議論の俎上にのぼったのは、はるか過 去に思えるような状況なのだ。中古文学の研究といえばど れもこれも源氏物語という状況を「源氏帝国主義」と称す る向きがかつてあったが、 その伝でいえば、 今はまさに「新 編全集帝国主義者」の時代なのではないか。 もっとも、誰もが諸方面の機関に納められている写本等 に 簡 単 に ふ れ る こ と が で き る わ け で は な い、 『 源 氏 物 語 』 のような膨大な詞章量を誇る作品の本文を、皆が皆、一か ら調査・校合・整定の手続きをとるわけにもゆかない、と いう反論があることは十分に考えられる。現に、工藤重矩 のいうように、

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……執筆者個人が自ら一本を選ぶとなれば、選定と校 訂だけで一生が終わる。   研究を支える環境。個々人の興味。得手不得手。一 生の限られた時間。何もかもはできない。単純な理屈 であ る )(1 ( 。 まさしくそのとおり。反駁の余地もない。しかし、物語の 表現をあげつらうものであれば、工藤自身が右の後文にい う ご と く、 「 注 釈 書 の 底 本 お よ び 本 文 整 定 の あ り 様 へ の 留 意は必要なことだから、それへの対応をしておいた方がよ い の も 事 実 」 で あ る。 研 究 者 で あ る 以 上、 「 …… 新 編 全 集 によった」 「……新編全集により、 (自分好みに)表記を改 めた」のレベルで済ませてよいのか、ということなのであ る。 さ ら に 工 藤 が 言 葉 を 継 い で、 「 本 文 に つ い て 遠 慮 せ ず に発言すべきなのだ」という。これまた、まさしくそのと おり。もちろん「遠慮せずに発言」するからには、それな りの用意が必要なことはいうまでもなかろうが。   本文研究としての古筆切研究 「多数派」は措くとして、 しからば、 「少数派」 「非幻視者」 たる者が「幻想」であり実際には存在しないとしても、そ うあろうとする者、そうありたいと思う者たちはどうか。 野 村 精 一 の い う よ う に、 「 源 氏 物 語 の 本 文 研 究 の 専 門 家 なるものの存在もまた『幻想』そのもの」だとしても、よ り多くの機会に本文について「遠慮せずに」発言する研究 者 が あ る こ と も ま た 事 実 で あ る。 そ の ひ と た ち に よ っ て、 新編日本古典文学全集の底本のおおもとである大島本再検 討の機運が一時期高まったことがあった。前節に言及した 二〇〇八年の中古文学会関西部会主催のシンポジウム「大 島 本 源 氏 物 語 の 再 検 討 」 が、 そ の 象 徴 的 な 事 件 で あ っ た。 同部会の編集による 『大島本源氏物語の再検討』 (和泉書院、 二〇〇九年一〇月刊)も上梓された。 二〇〇八年は「源氏物語千年紀」のイベントにあわせる か の よ う に、 『 源 氏 物 語 』 古 写 本 の 発 見 が 相 次 い で、 斯 界 の話題としては珍しく、賑々しく各メディアで報道された の で あ る。 三 月 に 角 屋 本( 別 本 )、 七 月 に 飯 島 本( 別 本 )、 八 月 に 大 沢 本( 別 本 ) と い う ぐ あ い に。 そ の 数 年 前、 一九九九年に文化庁が購入した平瀬本、二〇〇一年には大 正大学本が公表されはしたが、さほどの話題にならなかっ たのと対照的ではあっ た )(( ( 。 しかし、こうしたマスメディアを通じての話題というの は、一過性で終始することがすくなくないことは世間の常 識であり、斯界もまた研究者たちの関心が同様に引き潮に

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なったかに見える。大島本をめぐる議論は、その淵源と見 なされている定家本に転位し、それについての発言も途絶 えたわけではないけれども、二〇一四年のシンポジウムが 象徴するごとく、テーマの絞り込みができず、相対化され て見えてしまうという現状がありはしまいか、と危惧する のである。 一揃えの古写本の発見は、それなりに重い出来事で衝撃 的ではあるのだが、それすらも一過性の出来事として世間 では消費されてしまう。古写本といえども、所詮は紫式部 の原本ならざる一写本に過ぎず、しかも五四帖をかかえる 『 源 氏 物 語 』 の 常 と し て、 取 り 合 わ せ 本 で し か な か ろ う。 と す れ ば、 何 年 に 一 度、 何 十 年 に 一 度 の 僥 倖 を 期 待 し て、 日本中・世界中を探索してまわるのは、あまりにも非効率 であり、非生産的である。 これまで私たちが素材にしてきたテキストは、大島本に せよ三条西家本にせよ室町期の写本が主体であることを鑑 みれば、冊子の古写本と同等に鎌倉期なりの価値を有する もの、室町期のそれを相対化しうるもの、といえば、古筆 切のほかには考えられないのではなかろうか。   一首だけでも鑑賞可能な和歌とちがって、物語などの散 文は、ある程度の本文の量がなければ 作品として 0 0 0 0 0 享受する 方法がない。われわれの業界の「研究」という営為も、享 受の方法の一端であるとすれば、まったく同様な事情にあ る。 藤井隆・田中登の先駆的研究によって、古筆切の存在が 市 民 権 を え た 今 日 に あ っ て も、 『 源 氏 物 語 』 の よ う な 質 量 の膨大な作品は、片々たる本文の断片=古筆切を検討する に値する対象としてまともに扱おうとする研究者の数はま だ ま だ 稀 少、 「 少 数 派 」 の な か の「 少 数 派 」 と し か い い よ うがない。古写本が市場に出たとしても、鎌倉期の『源氏 物語』写本であれば、一揃い五四帖で三億二〇〇〇万円の 値づけされたものを実見したこともあるし、たった一帖で も六五〇万円などというのもあった。それにくらべて古筆 切は、高価になったとはいえ、物語切などは貧書生でもか ろうじて手の届く価格帯であり、一枚二枚と所蔵している 研究者も少なくない。また、右記したごとく片々たる形態 であるために、どうしても趣味的な対象として見られがち であった(あるいは、現在も) 。 しかし、その断簡も、ひととおりの収集作業を経て、ツ レを集積してみたとしら、どうだろうか。 たとえば、藤原為家(一一九八~一二七五)を伝称筆者 とする大四半切『源氏物語』 〔図版1〕 。 所掲の図版は、縦三二 ・ 九㎝、横二六 ・ 三㎝という大型本

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の断簡で、ツレの多くはもと大和綴であった痕跡の孔が四 つのこされているのが特徴。軸装されたもの、未表装のも の、形態はさまざまだが、もとの本の形がそのまま保存さ れている貴重な資料である。 内容は河内本の本文であり、その大型本である形態と書 写年代からも、河内本の代表的本文とされる尾州家本と比 較されることが多い。尾州家本は、おおむね縦三二 ・ 〇㎝、 横 二 五 ・ 五 ㎝ で あ り、 本 断 簡 の 寸 法 と ほ ぼ 同 じ く、 や は り 大和綴である。尾州家本がさまざまな修正・改訂の書き入 れ な ど を 経 て「 河 内 本 」 の 本 文 に な っ て い る の に 対 し て、 一連の断簡は、 修正 ・ 改訂の手が加えられない、 純粋な「河 内本」の本文なのである。尾州家本よりもこの断簡群にこ そ注目すべきだ、より古さを感じるという指摘があ る )(1 ( 。 当該断簡のツレとして、花宴・賢木・真木柱・薄雲・竹 河 な ど の 諸 巻 の 本 文 が 残 さ れ て お り、 薄 雲 の 巻 だ け で も、 一九葉の存在が確認されている。その一覧を次に表示して おこう( 〔表一〕 )。 古 筆 切 研 究 の 要 諦 の ひ と つ に、 と に か く「 ツ レ を 探 す 」 ということがあっ た )(1 ( 。この残存状況をみるかぎりでも、ま だ発見されることが期待できるように思われる。現に、昨 年二〇一七年に本学が購入した古筆手鑑『筆陣』には、ツ レ の 賢 木 の 巻 断 簡 が 押 さ れ て い る の を 発 見 し た。 し か し、 現在知られるものだけでも薄雲の巻全体のほぼ三割二分程 度であり、しかも隣接した本文を繋ぐことができ、初期段 階の河内本の相当な部分が現存することになる。 端倪すべからざるは、古筆切による本文研究である。別 の例を次にみてみよう。   伝寂蓮筆六半切若紫の巻 ここに、寂蓮を伝称筆者とする、一蓮の古筆切がある。 〔図版1〕伝為家筆大四半切薄雲の巻(実践女子大学蔵)

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〔表一〕伝為家筆大四半河内本『源氏物語』薄雲の巻切一覧 当該断簡の『源氏物語大成』本文相当頁行数(冒頭~末尾) 所在・掲載文献等 1 六〇四頁 10行目「たとらめあ」~六〇五頁3行目「これはやむ」 実践女子大学図書館 2 六〇五頁3行目「事なき御か」~六〇五頁9行目「とをしさに」 実践女子大学図書館 3 六〇五頁9行目「しゐてもえ」~六〇六頁2行目「なき事さへ」 国文学研究資料館 4 六〇七頁8行目「とめてたく」~六〇七頁 14行目「かれいつか」 個人蔵 5 六〇八頁7行目「よりはなや」~六〇八頁 13行目「こえたまふ」 実践女子大学文芸資料研究所 6 六〇八頁 13行目「やまさとの」~六〇九頁5行目「れにたり又」 国文学研究資料館 7 六〇九頁 12行目「人めのとよ」~六一〇頁3行目「うつくしき」 『平成新修古筆資料集』 8 六一〇頁5行目「にまいりつ」~六一〇頁 10行目「なとやうに」 鶴見大学 9 六一一頁3行目「くしものさ」~六一一頁 10行目「かけて中将」 個人蔵 10 六一五頁 13行目「おほししら」~六一六頁6行目「きりさふら」 実践女子大学文芸資料研究所 11 六一六頁6行目「ひてこまか」~六一六頁 12行目「もほの

」 実践女子大学文芸資料研究所 12 六一六頁 12行目「きこゆるに」~六一七頁5行目「ん事ものこ」 実践女子大学文芸資料研究所 13 六一八頁5行目「はのこすゑ」~六一八頁 12行目「もおもき所」 国文学研究資料館 14 六一九頁 11行目「かく心にこ」~六二〇頁4行目「はへるなり」 実践女子大学文芸資料研究所 15 六二〇頁4行目「若君はらま」~六二〇頁 11行目「すゝみそう」 実践女子大学文芸資料研究所 16 六二四頁9行目「みかとはあ」~六二五頁1行目「るところに」 『筑波書店古書目録』八三号 17 六二五頁1行目「うつりてさ」~六二五頁8行目「もてかしつ」 実践女子大学文芸資料研究所 18 六二八頁1行目「うちゆきか」~六二八頁7行目「ちなるとも」 『古筆学大成』二三巻 19 六二九頁 14行目「まさりため」~六三〇頁7行目「なによせて」 国文学研究資料館

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寂 蓮( 一 一 三 九 ~ 一 二 〇 二 ) は、 い う ま で も な く、 『 新 古今集』の撰者にして、藤原俊成の養子となった歌人。三 夕の歌「さびしさはその色としもなかりけりまき立つ山の 秋の夕暮」で知られる。その人を伝称筆者としてもつもの に、 『新撰古筆名葉集』には『古今集』の右衛門切、 『和漢 朗詠集』の大坂切を見出すが、物語類の名は見えない。た だ し、 国 宝『 寝 覚 物 語 絵 巻 詞 書 』、 京 都・ 観 音 寺 蔵 古 筆 手 鑑の『源氏釈』切などの筆者に擬せられてもいる。 『 源 氏 物 語 』 断 簡 と し て 知 ら れ る も の に『 古 筆 学 大 成 』 第二四巻におさめる明石の巻切があるが、一連の若紫の巻 の切とは別種の古筆切である。むしろ『大成』同巻の伝小 大君筆の若紫切こそが、一連の寂蓮切とツレであるかと思 われる。 まず、次の 〔図版2〕 がその一葉。 こ姫君は十二にて殿にをくれたま    1 へりしほといみしうものをもひし    2 りたまひきかしたゝいまをのれみ    3 すてたてまつりては如何てか世に    4 おはせむとすらんとてうちなき     5 ぬるはみたまふにすゝろにかなし    6   光源氏が、まだそれと知らぬまま紫の君をのぞき見する なか、尼君が紫の君の黒髪の美しさを愛でながら、その母 の 思 い 出 語 り を す る。 『 源 氏 物 語 大 成 』 一 五 七 頁 ⑩ ~ ⑬ 行 に 相 当 す る 場 面 だ が、 『 大 成 』 を 見 て も 細 か な 異 同 が は げ しい箇所と読み取れる。 以下、校異のおもなものを示した。パーレン内の数字は 断簡の行数、諸本の略号は『大成』に準拠した。 ①十二にて(1) a   十二にて

明・公・榊・肖・証・三・湖 b   十二 ◦ はかり にて

池 c   十二はかりにて

〔国〕 d   十 は 二イ かりにて

幽 e   とをはかりにてそ

(河) f   十はかりにてそ

〔陽〕 g   十にてそ

〔中〕 〔図版 2〕 〃 〃 〃

(14)

h   とをはかりにて

〔麦・阿〕   ②殿に(1) a   殿に

御 ・ 大 ・ 横 ・ 榊 ・ 池 ・ 肖 ・ 三幽 ・〔麦 ・ 阿〕 b   とのに

公 c   とのには

(河)   ③たまへりしほと(1) a   給ひしほと

御・大・横・榊・池・肖・三 b   給しほと

明・公・幽 c   給へりしかと

(河) 〔別〕   ④もの(2) a   物は

公・幽・御・榊・ 〔中・麦・阿〕 b   ものは

明・大・横・池・肖・三〔陽〕 c   もの

(河)   ⑤たまひきかし(3) a   給へりしそかし

明・大 b   給へりし そ 4 かし

御・横 c   給へりきかし

榊・ 〔麦・阿〕 d   給へりしかし

池・三 e   給へりき

(河) f   給しそかし

公・幽   ⑥みすてたてまつりては(3) a   みすてたてまつらは

定   明・公幽 b   みすてたてまつりては

(河) c   見すて奉ては

〔麦・阿〕   ⑦うちなきぬるは(5) a   いみしくなくを

公・大池肖三 b   いみしうなくを

明・横幽 c   いみしふなくを

〔陽〕   ①②は定家本系と河内本・別本が対立するところではあ るが、④⑥⑦は断簡と河内本の共通点が見出せる。 次の断簡 〔図版3〕 は、 〔図版2〕の一、 二頁ほど後、光 源氏がのぞき見をする僧坊に僧都が現れ、源氏が瘧病を療 〔図版 3〕

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養 に 来 て い る こ と を 告 げ る 場 面 で あ る。 『 源 氏 物 語 大 成 』 一五八頁⑤~⑥行に相当する。 かみの 聖 ヒ シ リ 人の房に源しの中将       1 わらはやみましなゐにものし給け     2 るをたゝいまなんきゝはへりつる     3   たった三行ではあるが、この短い本文にも異同が見出せ る。 1 行 目「 源 し の 中 将 」 は 河 内 本 系 と 肖 柏 本 が 一 致 し、 定家本系の多く、大島本・横山本・池田本・三条西家本が 「 源 氏 の 中 将 の 」 と す る。 3 行 目「 き ゝ は へ り つ る 」 も 河 内本の「きゝ侍つる」としているのに対して、定家本系諸 本は「きゝつけ侍る」としている。 4〕 は、 源 氏 が 紫 の 君 の 素 性 を 知 り、 そ の 後 見 を 申し出、僧都がそれに応える場面。 うれしかるへきおほせなるをまた     1 いといはけなきほとにはへめれはた    2 わふれにても御覧しかたくやはへ     3 らんそも女人はひとにもてなされて    4 おとなにもなりたまふ物なれはくは    5 しくはえとり申さしかのおはきたの    6 かたにかたらひはへりてきこえさせ    7 むとすくよかにきこえなしたまへは    8 『 源 氏 物 語 大 成 』 一 六 二 頁 ④ ~ ⑦ 行 に 相 当 す る 場 面 で、 こ こでも定家本に対する異同が多く見出せる。 1行目「おほせ」は河内本と一致し、 定家本 ・ 別本は「お ほ せ こ と 」。 2 行 目「 い と 」 も 河 内 本 と 一 致 し、 定 家 本・ 別 本 は「 む け に 」。 3 行 目「 は へ ら ん 」 は 河 内 本 と 別 本 の 麦生本・阿里莫本と一致し、定家本にナシ。4行目「そも 女人は」は河内本と同じく、 定家本 ・ 別本は「そもく女は」 、 5行目「とり申さし」も河内本と別本の陽明文庫本・麦生 〔図版 4〕

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本 と 同 じ く、 定 家 本 は「 と り 申 さ す 」。 6 行 目「 お は き た の か た 」 は 河 内 本 と 別 本 の 陽 明 文 庫 本・ 中 山 本 と 同 じ く、 定家本と別本の一部は「をは」のみ。8行目「きこえなし たまへは」は河内本と別本の陽明本・中山本「きこえなし たま(給)へは」 、定家本の多く(大 ・ 御 ・ 横 ・ 榊 ・ 肖 ・ 三) が「 い ひ て も の こ わ き さ ま し 給 へ れ は 」、 池 田 本「 い ひ て ……したまへ ・ れ は」 。 これらはともに若紫の巻の近接した箇所であり、ほぼ河 内 本 に 一 致 す る こ と、 筆 蹟 の 特 徴、 〔 図 版 2〕 の 寸 法 が 縦 一六 ・ 五㎝(横七 ・ 八㎝) 、〔図版3〕が縦一六 ・ 五㎝(横四 ・ 一㎝)で、これまたほぼ一致し、ツレであることまちがい ない。 続いて 〔図版5〕 。『大成』 一七二頁⑦~⑫行相当の場面。 田中登編『平成新修古筆資料集』第四輯所掲の断簡であ る )(1 ( 。同書から解説の一部を引いておこう。 縦 一 六・ 現 写 本 奥 三 セ ン チ、 横 一 四 ・ 四 セ ン チ の 一 面 十一行詰。場面は若紫巻の帰京した源氏から北山の若 紫に歌を贈るくだり。……一行目の「これはまた」は 定家本「また」で、断簡は河内本の諸系統と別本の一 部と一致。二行目の「つゝけはへらさめれは」は定家 本 「はか

しく (う) つゝけはへらさめれは」 とあっ て、断簡は河内本諸本と一致……七行目の「いとくち をしくて」の「いと」があるのは、やはり河内本の諸 本と一部の別本だけ、といった次第で、以下は省略す るが、総じて断簡は河内本系統に属すると見て差し支 えなかろう。 なくなむこれはまたなにはつをたに つゝけはへらさめれはかひなくなむ 〔図版 5〕

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さても あらしふくをのへのさくらちらぬ まをこゝろとめけるほとのはかなさいと うしろめたくもとあり 僧 そ う す 都 の御返事 もおなしさまなれはいとくちをしくて 二三日ありてこれみつをそつかはす 少 せ う な こ ん 納言 のめのとゝいふ人あるへしそれ にたつねあひてありさまよくかた らへなといひしらせたまふさもかゝら 伝寂蓮筆若紫の巻のツレとして、いま図版は掲げられな いが、ほかにも『古典籍と古筆切―鶴見大学蔵貴重書展解 説図 録 )(1 ( 』に二葉が収められており、   Ⅰとにてさすかにはか

しく人の御け しきありさまもおほしゝるへくも あら す す なかそらなる御ほとにてあ またものしたまふなるなかのあなつ らはしさにてやましらはせたまは むとすきたまひぬるもよとゝもにお ほしなけきつるを心くるしきことお ほくはへるにかくかたしけなきなけ の御ことのはをのちのこともたとる ましくたゝいとうれしきことに思給 へられぬへきをりにはへりなから(一八一頁①~⑥)   Ⅱ    あしわかのうらにみるめはかたくと もこはたちなからかへるなみかは めさましからむとのたまへはけにこ そかしこけれとて よるなみのこ(ゝ)ろもしらてわかの 浦 ウラ にたまもなひかむほとそうきたる わりなきことゝきこゆるさまのなれ たるそすこしつみゆるされたるな そこひさらむとうちすしたまへる をわかき人

はみにしみてめてたし とおもひきこえたりひめ君うへを (一八一頁⑪~一八二頁①) と、ごく近接した箇所の断簡が示されている。同図録の解 説 に よ れ ば、 「 斐 紙。 縦 一 六 ・ 五、 横 一 五 ・ 二 糎。 ……( 注 ― Ⅱ の 断 簡 に ) 飯 島 春 敬 墨 書 メ モ『 寂 蓮 法 師 筆 / 源 氏 物 語 若 紫 / 文 化 一 二 年 初 夏 仲 旬   古 筆 了 意 極 春 敬〔 印 〕』 と 見える」とある。

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さ ら に、 国 文 学 研 究 資 料 館 編『 古 筆 へ の 誘 い 』( 三 弥 井 書 店、 二 〇 一 五 年 三 月 刊 ) に も、 極 め の な い も の な が ら、 ま さ し く 一 連 の 断 簡 の ツ レ で あ る 一 葉 が お さ め ら れ て い る。ここでは同書から引用しておこう。 こひきこえたまひてなきふした まへるに御あそひかたきのこともの なをしすかたなる人おはす宮の おはしますなめりときこゆれは をきて少納言になをしきたりつ らむはいつら宮のおはするかとて よりおはするこゑいとらうたけなり 宮にはあらねとおほしすつへき人 にもあらすこちとのたまふをはつか しかりし人そとさすかにきゝな してあしういひてけりとおほして   こ れ も 解 説 に よ れ ば、 「 一 六 ・ 五 × 一 五 ・ 二 ㎝ …… 雲 母 引 き斐楮交漉紙」という。特に縦の寸法が一致しているとこ ろに着目したい。 またさらに、前に言及した『古筆学大成』所収「伝小大 君筆   源氏物語切」を翻読してみると、これも若紫の巻の 一節で、次のようなものであった。 いとなれかほに御 帳 丁 のうちにかき いたきていりたまひぬいとおもひの ほかにあやしくもとあきれて たれ

もゐたりめのとはうしろめ たうわりなしとおもへとあらましう きこえさはかむもなか

なれはう ちなけきつゝよりゐたり君はいと をそろしうわなゝかれていとうつく しきはたつきをそゝろさむけにお もほしけるもらうたくてわか御心に もうたておほさるれはひとへはかりは   源 氏 が「 六 条 京 極 の わ た り 」 の 紫 の 君 の 邸 を お と ず れ、 一 夜 を 明 か す 場 面、 『 源 氏 物 語 大 成 』 一 八 三 頁 ⑥ ~ ⑩ 行 に 相当するところである。 い ま 我 々 の 手 も と に は 八 葉 の 古 筆 切 が あ り、 計 七 二 行、 一〇九四字の本文を有していることになる。これは若紫一 巻の六%ほどの分量でしかないが、 たった三行の本文でも、 〔 図 版 3〕 の よ う に お お き な 異 同 を か か え る 本 文 が 鎌 倉 期 に遊弋していたことを示す、重要な本文資料となりおおせ

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ているのではないか。 こうした古筆切の集積という作業が、室町期の本文に泥 んでいる現状に、幾分かの警鐘を鳴らしている、と読めな いだろうか。   伝寂蓮筆本の存在 前節でみた古筆切からの知見をまとめてみよう。 ⑴   〔 図 版 2〕 の 切 か ら『 古 筆 学 大 成 』 小 大 君 切 に 至 る まで、若紫の巻の前半から後半に散在しており、もと は六半の冊子本であった。 ⑵   一 巻 の 前 半 か ら 後 半 ま で 散 在 し て い る と こ ろ か ら、 一帖一筆であった。 ⑶   本 文 は、 お お む ね 河 内 本 と 一 致 す る が、 〔 図 版 2〕 の校異に示されたごとく、必ずしも河内本と全く同一 ではない。 ほかの巻にツレが発見されなければ、当然、 ⑷   も と の 六 半 本 が、 若 紫 の 巻 一 帖 だ け で あ っ た の か、 五四帖揃い本であったのかは、今のところ不明。 という項目を追加しなければならない。 本稿を準備していた昨秋、新たな知見が加えられた。 それがこの 〔図版6〕 〔図版7〕 の断簡である。 写真ではわかりにくいが、一枚の表裏、つまりもともと 列帖装だった冊子本の一枚を切り取ったもの。化粧裁ちも ほとんどされていないと思われるので、もとの冊子本の姿 を残存させた形態だと推考される、 貴重な本文資料である。 寸法は、縦一六 ・ 五㎝、横一五 ・ 四㎝。かなり鮮明に雲英 が 紙 の 表 面 に 残 っ て い る。 字 高 一 五 ・ 〇 ㎝ ほ ど。 一 面 一 一 行書き。料紙の端に綴じ穴の痕跡がある。 【図版 6】筆者不明六半切若紫の巻(表)(実践女子大学蔵)

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極札はないが、この筆蹟と形状から、一連の若紫の巻の 断簡のツレであることはまちがいないと思う。   〔図版6〕 山 さ 寺 と にまかりわたるほとになむかく とはせたまふかしこまりはこの世な らてもきこえさせむとなむありい とあはれとおほすあきのゆふへはまして いとゝ心のいとまなくのみおほしみたる る人の御あたりに心をかけきこえ てかうあなかちなるゆかりもたつね まほしき心のまさりたまふなるへし きこえむそらなきとありしゆふへお ほしいてられてこひしくまたみ ゐとりやせむとさすかにあやうし   〔図版7〕 てにつみていつしかもみんむらさ きのねにかよひける 野 の へ 辺 のわかくさ 十月に 朱 ス 雀 シ ヤク 院の 行 ぎよう 幸 ごう あるへしはへ 人なとやむことなきいゑのことん(も)上達 部 へ 殿 上 せう 人 にん なとそのかたにつき

しき みなえらせたまへはみこたち 大 たいしん 臣 よりはしめたてまつりてとり

のさ えをならはしたまふによの中おも しろくいとまなき心ちしてすこし まきらはし給かの山さとにもひさし うおとしたまはぬはおほしいてゝ人つ 〃 〃 【図版 7】筆者不明六半切若紫の巻(裏)(実践女子大学蔵)

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  若 紫 の 巻 後 半、 『 源 氏 物 語 大 成 』 一 七 九 頁 ⑩ 行 ~ 一 八 〇 頁⑤行に相当する箇所、紫の君邸をおとずれた後、源氏が 尼君に消息を送る場面にひきつづき、桐壺帝の朱雀院行幸 が準備されるうち、尼君が亡くなる直前までの記事が図版 に示されている。 〔図版7〕の3行目末尾「はへ(人) 」とあるのは、諸本 「まひ人」とあり、 「万ひ」の字形が訛伝されたものかと思 われる。また、5行目「 (なと)そのかたにつ(き) 」とあ る下に薄く文字が読めるが、いったん「やむこと那」と書 いたのを擦り消して、上から文字を書き改めたもの。前行 に「やむこと那」とあり、 かつ両方とも直前に「……なと」 とあるので、目移りで書いてしまったものであろう。生々 しい本文の様相である。   なお、まだ公表されたものではないので、ここでは詳細 を 述 べ る の は 差 し 控 え た い が、 『 源 氏 物 語 大 成 』 一 八 五 頁 に相当する、 個人蔵の、 伝寂蓮筆断簡の存在がある。いま、 この表裏の断簡と個人蔵を加えて、われわれはさらに三三 行、五二一字の本文を得たことになる。 それとともに、 〔図版6〕 〔図版7〕の断簡によって、ほ とんど化粧裁ちされていない、列帖装の原形が推定可能に なるという収穫をもたらしてくれている。つまり、鎌倉期 に伝寂蓮筆『源氏物語』若紫の巻、六半本一帖がかつて存 在したことは、これで否定できないであろう。本節のはじ めに記したように、おなじ筆蹟・おなじ体裁の他の巻の断 簡が判明していないため、もとの六半本が、若紫の巻一帖 だけであったのか、五四帖揃い本であったのかは、今のと こ ろ 不 明 と し か い い よ う が な い が、 『 源 氏 物 語 』 が そ の 伝 流の過程で、単独に一帖だけ、あるいは数帖だけ書写され る こ と ま ま あ っ た こ と は、 藤 原 定 家『 明 月 記 』、 三 条 西 実 隆『実隆公記』などに傍証があまたあった。伝寂蓮筆本と ても『源氏物語』の一本であったのだ。 ちなみに、次の 〔図版8〕 のように、当該断簡には表裏 二枚に矧がそうとした形跡がある。古筆切の世界ではまま あるこ と )(1 ( ではあるものの、これまた生々しい様相を呈して 【図版 8】筆者不明六半切の端の 様相(実践女子大学蔵)

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いる。   まとめと展望 以上述べきたったことを簡単にまとめ、近い将来への展 望としておきたい。本稿の表題であるところの「本文研究 と古筆切研究のあわい」とは、その両者にさほどの径庭が ない、ということなのである。つまり、 ⒜   古筆切研究はかつて存在した冊子本の復原作業であ るとともに、 ⒝   それ自体がすでに本文資料なのだ、 ということを確認しておきたい。もとより、研究の立場で の古筆切収集は、趣味的なものでは決してない、というこ とはいうまでもない。 古筆切の示す本文は、現在のような活字本で統一された 画一的な世界ではない。定家本が冷泉家を中心とした権威 社会のなかで確立されてゆく過程とはまるで逆行するよう な、遡行するような作業ではあるが、拠るべき本文の吟味 をせぬまま、特定の活字本にほとんど無批判に依拠しつづ けている現状こそが問題なのだ、ということを反省する材 料になりはしないだろうか。その「特定の活字本」の底本 =大島本でなければならない理由を考えたことはないのだ ろうか。 二〇〇八年のシンポジウムの際、加藤昌嘉は「なぜ、定 家本にこだわるのだろうか?/かりに、定家書写の『源氏 物語』が復元できたとしても、それは、あまたの鎌倉時代 の写本の一つに過ぎないのではないだろうか?」という問 いを発してい た )(1 ( 。根本的な問題発言のはずではあるが、ま ともに応えた意見がその後にあったということを、寡聞な が ら 耳 に し た こ と が な い。 特 に、 こ の 加 藤 の 問 い の 後 段、 定家本も「鎌倉時代の写本の一つ」というのは、古筆切の 世界こそ実感させるアポリアなのである。鎌倉期と目され る断簡の本文は、定家本本文そのものといいうるもの、伝 寂蓮筆と同様に河内本に近接するもの、別本としかいいよ うのないもの、という具合に混沌といってもよい状況なの である。 これらが同時に流通する世界におかれたとしたら、 現在の研究者たちは何を発言するのだろうか。 日暮れて途遠しの感、いまその緒についたのみかも知れ ないというおそれを抱きつつ、あえて本稿の末尾に未完の 文字を刻んでおく。 (未完) ( 1 ) 阿 部 秋 生 の 『 源 氏 物 語 』 本 文 に 関 する 主 な 論 考 に つ い て は 、 横 井 孝 「源 氏 物 語 の 本 文 と 表 現

「『 大 成 』 以 後 」

(23)

と 「 阿 部 以 後 」 の 模 索 へ 向 け て 」( 横 井 ・ 久 下 裕 利 編 『 源 氏 物 語 の 新 研 究

本 文 と 表 現 を 考 え る 』 新 典 社 、 二 〇 〇 八 年 一 一 月 刊 、 所 収 ) に 業 績 一 覧 を 表 示 し た 。 ( 2 ) 阿 部 秋 生 「 伝 本 状 況 に つ い て 」( 初 出 一 九 七 二年 。『 源 氏 物 語 の 本 文 』 岩 波 書 店 、 一 九 八 六 年 六 月 刊 、 所 収 )、 四 四 ~ 四 五 頁 ( 3 ) 阿 部 秋 生 「 矛 盾 す る 本 文 」( 阿 部 編 『 源 氏 物 語 の 研 究 』 東 京 大 学 出 版 会 、 一 九 七 四 年 二 月 刊 、 所 収 )、 ( 4 ) 阿 部 秋 生 「 別 本 の 本 文 」( 初 出 一 九 八 三 年 。 前 掲 『 源 氏 物 語 の 本 文 』) 、 一 一 三 ~ 一 一 四 頁 。 ( 5 ) 阿 部 秋 生 「 本 文 を 活 字 化 す る こ と 」( 『 日 本 文 学 』 二 二 巻 一 〇 号 、 一 九 七 三 年 一 〇 月 )、 一 頁 。 ( 6 ) 横 井 孝 「 源 氏 物 語 の 本 文 と 表 現

「『 大 成 』 以 後 」 と 「 阿 部 以 後 」 の 模 索 へ 向 け て 」( 前 掲 注 ( 1 ) 稿 )。 ( 7 ) 横 井 孝 「〈 メ ッ セ ー ジ 〉 本 文 研 究 の 近 未 来 と 集 積 の 意 味 と 」 ( 国 文 学 研 究 資 料 館 『 国 文 研 ニ ュ ー ズ 』 № 四 九 、二 〇 一 七 年 一 〇 月 )。 ( 8 ) 野 村 精 一 「本 文 研 究 の 近 未 来

系 統 論 だ け が 本 文研 究 で は な い 、 と い ふ ママ こ と 」( 『 日 本 古 典 文 学 会 会 報 』 № 一 二 二 、一 九 九 二 年 七 月 )。 以 下 の 野 村 の 言 は 、同 文 に よ る 。 ( 9 ) か な ら ず し も 『 源 氏 物 語 』 に 限 定 さ れ る 話 で は な い が 、 そ の 研 究 の 基 盤 と し て の 山 岸 文 庫 本 を通し て 、 お おま か な 見 取 り 図 を 描 い て み た 。 横 井 「山 岸 徳 平 博 士 の 現 写 本 考

実 践 女 子 大 学 図 書 館 山 岸 文 庫 蔵 本 識 語 編 年資 料 か ら 」( 『 実 践 国 文 学 』 第 九 一 号 、 二 〇 一 七 年 三 月 )、 「 山 岸 徳平 博 士 の 物 語 研 究 一 斑

実 践 女 子 大学図 書 館 山岸 文 庫 蔵 本 奥 書 識 語 編 年 資 料 か ら 」(『 実 践 国 文 学 』 第 九 二 号 、 二 〇 一 七 年 一 〇 月 ) な ど を 参 照 さ れ た い 。 ま た 、「 山 岸 徳 平 博 士 の 『 源 氏 物 語 』 研 究 一 斑

実践 女子 大 学 図 書 館 山 岸 文 庫 所 蔵 本 の 識 語 調 査 か ら 」( 二 〇 一 七 年 六 月 一 〇 日 、 中 古 文 学 会 関 西 部 会 、 於 大 阪 府 立大 学 ) で もそ の 一 部 を 発 表 し た 。 ( 10) 藤 重 矩 「注 釈 書 の た め に

源 氏 物 語 本 文研 究 に よ せ て 」( 『 中 古 文 学 』 第 百 号 記 念 号 、 二 〇 一 七 年 一 一 月 )。 以 下 の 工 藤 の 言 は 、 同 論 に よ る 。 ( 11) の 間 の 事 情 に つ い て は 斯 界 周 知 の 事 実 で は あ ろ う が 、 講 演 記 録 な が ら 、 横 井 「 源 氏 物 語 の 一 〇 〇 年

「下 田 講 義 」 か ら 「 阿 部 以 後 」 へ 」( 実 践 女 子 大 学 文 芸 資 料 研 究 所 『 年 報 』 第 二 八 号 、二 〇 〇 九 年 三 月 ) に ま と め て あ る 。 ( 12) 田 信 敬 「 源 氏 物 語 の 古 筆 切   二 題 」( 紫 式 部 学 会 編 『 源 氏 物 語 と 源 氏 以 前 研 究 と 資 料 』 武 蔵 野 書 院 、 一 九 九 四 年 一 二 月 刊 、 所 収 )。 ( 13) 井 孝「 源 氏 物 語 古 筆 切 事 始

筆 者 不 明 の 断 簡 を 読 む 」 (『 実 践 国 文 学 』 第 九 〇 号 、 二 〇 一 六 年 一 〇 月 )、 頁 。

(24)

( 14) 中 登 編 『 平 成新 修 古 筆 資 料 集   第 四 集 』( 思 文 閣 出 版 、 二 〇 〇 八 年 九 月 刊 ) 六 〇 「 寂 蓮   六 半 切 」。 田 中 登 『 古 筆 切 の 国 文 学 的 研 究 』( 風 間 書 房 、 一 九 九 七 年 九 月 刊 ) 二 九 八 頁 に も 掲 載 さ れ て い る 。 ( 15) 古 典 籍 と 古 筆 切

鶴 見 大 学 蔵 貴 重 書 展解 説 図 録 』( 鶴 見 大 学 、 一 九 九 四 年 一 〇 月 刊 )。 ( 16) 文 学 研 究 資 料 館 編 『 古 筆 へ の 誘 い 』( 三 弥 井 書 店 、 二 〇 一 五 年 三 月 刊 )、 九 八 ~ 九 九 頁 。 ( 17) 践 女 子 大学 所 蔵 の 古 筆 切 に も 、 た と え ば 伝 為 家 筆 大 四 半 切 薄 雲 の巻 の よ う に 、 表 裏 揃 っ た も の 、 矧 い だま ま で 洗 浄 ・ 表 装 の 直 前 の 姿 の も の が あ る 。「 実 践 女 子 大 学 所 蔵   源 氏 物 語 古 筆 切 目 録 稿 ( 一 )」 ( 実 践 女 子 大 学 文 芸 資 料 研 究 所 『 年 報 』 第 三 四 号 、 二 〇 一 五 年 三 月 ) 参 照 。 ( 18) 藤 昌 嘉 「 本 文 研 究 と 大 島 本 に 対 す る 15の 疑 問 」( 中 古 文 学 会 関 西 部 会 編 『 大 島 本 源 氏 物 語 の 再 検 討 』 和 泉 書 院 、 二 〇 〇 九 年 一 〇 月 刊 。 の ち『 源 氏 物 語 前 後 左 右 』勉 誠 出 版 、 二 〇 一 四 年 六 月 刊 、 所 収 )。 微 差 あ る が 、 こ こ で は 加 藤 著 の 二 六 二 頁 に よ る 。 (よこい   たかし・実践女子大学教授)

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手話言語研究センター講話会.

【 大学共 同研究 】 【個人特 別研究 】 【受託 研究】 【学 外共同 研究】 【寄 付研究 】.

社会学文献講読・文献研究(英) A・B 社会心理学文献講義/研究(英) A・B 文化人類学・民俗学文献講義/研究(英)

山階鳥類研究所 研究員 山崎 剛史 立教大学 教授 上田 恵介 東京大学総合研究博物館 助教 松原 始 動物研究部脊椎動物研究グループ 研究主幹 篠原

本研究科は、本学の基本理念のもとに高度な言語コミュニケーション能力を備え、建学