滋賀大学経済学部研究年報Vo 1.8 200ユ 一71一
ワイマール期の金融構造における貯蓄銀行・振替銀行の位置
一「金融分業」体制の展開一
三ツ石 郁 夫
はじめに ワイマール期ドイツの経済構造は,第二帝政 期の急速な資本主義発展を前提とし,第一次大 戦とドイツ革:命,その後のインフレによる国内 政治経済の混乱ならびにこれに関連して成立し たヴェルサイユ体制によって大きく規定されつ つ,独自な構成をもって形成された。この構成 を規定する国内的国際的要因のなかでも,国内 的にもっとも重要な一局面は大銀行と産業独 占,およびその関係のあり方である。ワイマー ル経済の分析はこれまで金融資本の性格規定を 中心としてなされてきたといえるが,なかでも 加藤栄一氏は,帝政期の金融資本が銀行と産業 との問における交互計算業務と証券発行の有機 的結合という戸原四郎氏の規定を継承しつつ, それがワイマール期になると巨大独占の自己金 融とそれ以外の産業企業と銀行との交互計算業 務を通じた結びつきという「斜行的関係」ぺ変 化したと捉えた。1) この金融資本分析においてベルリン大銀行 の性格変化がすでに指摘されている。加藤氏は この時期の信用銀行が資金構成からすれば預 金銀行化し,また与信面においてもイギリスの 商業銀行ないし1890年代以前のドイツ地方銀 行に類似性を求めている。しかも問題は資金構 成における外資を中心とした短期化と資産の 1)加藤栄一『ワイマル体制の経済構造』東京大学 出版会,1973年,213∼269頁。本書の問題提起を 受けつつ,1931年金融恐慌の原因を考察したもの として,加藤國彦『1931年ドイツ金融恐慌』御茶 の水書房,1996年,がある。 固定化が信用銀行の危機の震源を作り出した とされていることである。2)この点について大 矢繁夫氏は,銀行集中の形態が1920年代には従 来の地方銀行系列化からその吸収・支店化へと 変化し,これによる支店のネットワークを通じ て預金拡大と振替・決済が可能となり,大銀行 は「信用創造・預金創造という商業銀行機能を 十分に展開する」ことになったと述べている。3) このような信用銀行の性格変化は,産業にお ける資本蓄積のあり方と証券市場,そして何よ りも国際的な資金楯環の構造に関係するもの であるが,他方でこの時期に金融部門に登場し てきた貯蓄金庫は,信用銀行の活動自体に大き な影響を与えることになった。それは何より も,信用銀行の性格変化が「預金銀行化」であ る以上,貯蓄預金をめぐって競争へと向かわざ るを得なかったからである。生川栄治氏はこう した関係についてM.ポール(Manfred Pohl)に よりながら,ワイマール期に信用銀行,貯蓄銀 行,そして信用協同組合がユニバーサルバンク として成立し,三者間で「セクター問競争」が 激しくなることを指摘している。4) このような研究史の関連で,ワイマール以前 のドイツ金融構造には,次のような二重の意味 での「分業」的階層的構造が指摘されねばなら ない。第一に,信用銀行のなかでもベルリン大 2)加藤栄一,前掲書,258∼259頁。 3)大矢繁夫「ドイツ・ユニバーサルバンキングの 展開』北海道大学図書刊行会,2001年,118頁。 4)生川栄治『ドイツ金融史論』有斐閣,1995年,主 に第6章。Pohl, Manfred, Entstehung und Entwicklung des Universalbankensystems. Konzentration und Knse als wichtige Faktoren, Frankfurt am Main 1986.一72一 滋賀大学経済学部研究年報Vol.8 2001
第1表
ドイツ金融業における金融機関別資産割合の変化 (90) 金融機関 1860年 1880年 1900年 1913年 1930年 1932年 発券銀行 22.4 ll.6 6.3 4.4 信用銀行 9.2 10.0 172 24.2 26.8 21.9 個日銀行 35.3 18.5 8b 4.4 5.3 3.6 貯蓄金庫 12.0 20.6 233 24.8 353 38.7 信用協同組合 0.2 44 4.1 6.8 9.4 9.6 抵当銀行 16.9 26.7 28.5 22.8 126 13.8 その他 4.0 8.2 11.8 12.6 7.4 10.4 計 100 100 100 100 100 100 注:1930年と1932年の数値には「発券銀行」は含まれないので,1913年以前の数値と単純に比較できない。 「貯蓄金庫」には貯蓄金庫と振替銀行,「その他」には地主金融組合およびそれに類する公法的土地金融機関 が集計されている。 出典:1860年∼1913年=J.Edwards and S. Ogilvie, Universal・banks・and・German・industrialization:areappraisal, ln: Economic History Review,49−3, 1996, p.431.;1930年と1932年=Deutsche Bundesbank(Hrsg.),Deutsches Geld−und BankWesen・in・Zbhlen・1876−i975, Frankfurt am Main 1976, S.121.から作成。 銀行は完全な独占体制を築き上げているわけ ではなく,地方銀行は地方の産業構造に即した 形で信用構造を形成し,わずかにベルリン大銀 行はこれらを系列化していたに過ぎないこと である。5) さらに第二に,帝政期までにおいてたしかに ベルリン大銀行は金融の独占的地位にあるζ されてきたが,実際にはベルリン大銀行は金融 の一定領域を占めているにすぎないという点 である。 第1表にみられるように,ベルリン大銀行を 含む信用銀行は金融機関が持つ資産全体のなか で第一次大戦直前の1913年においても24.2%を 占めるにすぎず,他方で貯蓄金庫はそれをわず 5)大矢,前掲書,参照。またこの点で大野英二氏 が1895年以降,「中央集権的であると同時に地方分 権的な組織網を有し,工業上の金融業務の完全な遂 行のだめのすべての属性が具体化されているベル リン六大銀行の独占体系が尊上される階梯」を指摘 していることは興味深い(同『ドイツ金融資本成立 史論』有斐閣,1956年,50頁)。さらに,拙稿「第 一次大戦前におけるドイツ金融構造の地域的性格 ヴュルテンベルク地域経済を例として 」 『彦根論叢』第331号,2001年6月もあわせて参照さ れたい。 かに上回って24.8%,抵当銀行も22.8%の割合を 占めているのである。だが帝政期においては, これら金融機関はそれぞれ独自の業務領域を 持っていたのであり,相互間の「金融分業」体 制が明確である限りで問題は生じなかった。6) この「関係」を崩すきっかけとなったのは 1907年恐慌とその後の一連の金融関係諸法で ある。1890年代以降における基幹産業と新興産 業の急速な生産拡大は,ベルリン大銀行からの 信用供与を拡大しつつ,手形流通と商業信用だ けでなく固定資本投資の大幅な拡張をもたら していた。そしてこのことはしだいに現金通貨 に対する需要の増加とライヒスバンクレート の引き上げを昂進させることになり,1907年に 6) Hoffmann, Walter, Die Arbeitsteilung zw,ischen Sparkassen und Depositenbanken, in: Zeitschriftftir die gesamte StaatswrssenschaLftten, B d. 7 i, 1915, S.39ff、また,拙稿「第一次大戦前ドイツの金融構 造における貯蓄金庫の機能転化 社会政策手 段から「経済主体」へ 」『彦根論叢』第326号, 2000年8月,61∼8i頁,参照。 なお本稿で「分業」と言う場合,いわゆる「分業銀 行」の「分業」とは異なった意味で使うことをこと わっておきたい。ワイマール期の金融構造における貯蓄銀行・振替銀行の位置 (三ツ石 郁夫〉 一73一 いたって流動性問題から恐慌を引き起こすこ とになったのである。7) これを契機として1907年から翌年にかけて 設置されたアンケート委員会の議論の中心は, 経済発展に必要な流動性をいかにして確保し 高めるかであった。銀行券発行は発行割当額と これを超える場合の発行税,そして何よりも金 本位制のもとでの3分の1準備規定によって規 制されていたから,アンケート委員会はその条 件のなかで銀行の流動性を高める方法を提案 した。第一には預金と貯蓄資金の受入れ,管理, 運用のための標準規定,第二に銀行バランス シートの公表,そして第三にライヒスバンク最 低準備の供託Hinterlegungであった。1908年に ライヒスバンク総裁に就任したハーフェン シュタインHavensteinはライヒスバンクの金準 備を強化し,国際金本位体制の変動から銀行制 度を守るために,現金節約的な取引方法,つま り振替取引を促進しようとしたのである。この 振替取引はi875年に設立されたライヒスバン クが中心的に担ってきたもので,地域経済の発 展,とりわけ地域問の商品流通を促進するため に,鉄道等の輸送手記の整備や商業組織の発達 とともに大きな役割を果たしてきた。8) こうした議論の中から生まれてきたのが, 1908年のライヒ小切手法,1909年の郵便小切手 制度設立,そして同年に帝国議会で成立した銀 行法改正であった。前2者は振替取引を促進す るもので,とくに郵便小切手制度はその後急速 7)居城弘「ドイツ型金融システムとライヒスバン ク 『バンク・アンケートBank−Enquete 1908/09』 を中心として 」(九州大学)『経済学研究』第 66巻第3号,1999年,とくに35∼38頁。 8) Hardach, Gerd, Zwischen Markt und Macht: Die deutsche Banken 1908−1934, in: Wilfned Feldenkirchen (Hrsg), VliirtschaLft, Gesellschaft, Unternehmen, Stuttgart 1995, S.915.;居城弘「第一次大戦前ドイツ の通貨と金融」酒井一夫・西村閑也編著『比較金 融史研究 英・米・独・仏の通貨金融構i造1870 ∼1914年 』ミネルヴァ書房,1992年,とくに 94∼95頁。 に拡大した。銀行法改正の内容は,積立金限度 撤廃,免税発券限度額引き上げ,ライヒスバン ク紙幣を法定支払手段とすること,見換規定改 正,そして小切手買入れ権限と保証発行準備へ の繰り入れ,ロンバード貸付対象証券の範囲の 拡大であり,それらは1910年からll年にかけて 発効した。こうして強化されたライヒスバンク は,その後の割引政策と直接的統制を手段とし て信用銀行の「条件カルテル」結成を要求した。 ベルリン大銀行による集中を促進することに よって銀行業の競争を制限し,それによって銀
行制度の「コーポラティズム的安定
(korporatistische Stabilislerung)」(ハルダッハ)を 作り出したのである。9) ところでこれら金融法によって制限を解除 された貯蓄金庫は,第1表に見られるように, 第一次大戦とワイマール期において金融資産 割合をさらに伸ばし,銀行危機直前の1930年に はそれは353%に達することになったのであ る。ドイツ金融機関全体の三分の一にも達する 資産を有する貯蓄銀行・振替銀行グループは, 資本不足と外資導入によって特徴づけられる ワイマール金融市場においていかなる意義を 持っていたのだろうか。これを明らかにするた めに本稿は,第一次大戦直前の時期からしだい に銀行業務に参入しはじめた貯蓄金庫と振替 銀行が通貨安定後に本格的に銀行業務を開始 し,そのことによって従来の「独占」的地位を 占めていたベルリン大銀行を中心とする銀行 業が相対的安定期に大きく構造転換を遂げて いる過程を明らかにしょうとするものである。 その場合,この時期の銀行業には上記の二つの 業態のほかに,個人銀行,抵当銀行,信用協同 組合があるが,銀行業の構造転換の意味では信 用銀行と貯蓄・振替銀行が主要な二つの形態で 9)藤瀬浩司「第一次大戦前夜のライヒスバンクと 銀行統制」藤瀬浩司,吉岡昭彦編『国際金本位制 と中央銀行政策』名古屋大学出版会,1987年,171 ∼213頁;Hardach, a.aO., S,918.一74一 滋賀大学経済学部研究年報Vol.8 2001 あるので,本稿では主に両者を考察の対象とす ることとし,それ以外の業態については必要な 限りで触れることとする。 1.「貯蓄銀行」の成立 1.貯蓄金庫における機能の拡大 無現金的支払い取引を進めるために制定さ れた1908年のライヒ小切手法は,貯蓄金庫のそ の後の転換にとって決定的に重要な意義を もっていた。この立法が承認する負債型小切手 支払能力(passive Scheckf註higkeit)によって,貯 蓄金庫は自己宛債務の設定に基づいて小切手 を発行できることになり,さらにここから振替 業務を拡大することで「銀行」の領域に参入可 能になったのである。振替業務としては,それ までの地域別貯蓄金庫連合を基盤にして,まず
1909年1月1日ザクセンにおいて振替銀行
(Girozentrale)が設立された。会員貯蓄金庫は ここに口座を設置して,貯蓄金野間で振替取引 をおこなったのである。こうした仕組みは1912 年にはポンメルンでも模倣され,1916年目なる と12の地域振替連合の上にドイツ中央振替連 合(Deutsche Zentra1−Giroverband)が成立するこ とになった。ワイマール期における貯蓄金庫の 「銀行」的発展の基礎がここに敷かれたのであ る。10) このため,貯蓄金庫は貯蓄預金とは別に振替 預金の口座を設置し,それでもって振替取引, 交互計算取引,そして小切手業務を行うように なったのであるが,当初はこの預金総額は貯蓄 預金の10%に制限されていた。しかし,その制 限は1917年になると25%に引き上げられ,つい 10)前掲拙稿「ドイツにおける貯蓄金庫」参照。; Wysocki, J., Die ”bankmaBigei’ Entwicklung der Sparkassen (1908 bis 1931), in: J. Mura (Bearb.), Die Entwickiung der Sparkassen zu Universaikreditinstituten, S 39. に1921年にいたると撤廃され,同時に各州政府 の布告(Erlass der Landesregierungen)によって 貯蓄金庫は純粋な投機取引と外国為替業務を 除くすべての銀行業務を行うことが可能と なったのである。こうして貯蓄金庫はワイマー ル期初頭においてユニバーサルバンクとして 完全に「銀行」に転化したのである。11) しかし形式的には銀行としての体制を整え たとしても,実態として貯蓄銀行はなお不安定 な性格を残していた。第一に,貯蓄金庫が金融 機関として独立した存在になっていないで,な お個別自治体に付属した金融部門のままで あったことが指摘される。したがってその活動 は,たしかに一方で各地域組織ないし全国組織 によって方向付けられているとはいっても,他 方で各自治体の活動方針と財政事情に大きく 左右されていたのである。 第二に戦中からインフレ期にかけて,多くの 公的銀行が設立されたことである。まず,前述 の振替銀行は振替取引だけでなく,各貯蓄銀行 間での資金移動,自治体信用,さらに交互計算 業務をも行い,やはり1921年までに独自の金融 機関としての性格を持つことになったのであ る。さらにこれとは別に市町村は独自の財源調 達のために自治体銀行(Gemeindebank)を設立 し,いくつかのプロイセン諸州と諸邦は州営銀 行(ランデスバンク)を設置したが,これは振 替銀行の機能をも兼営する場合があった。こう してこの時期に多種多様のいわゆる「公法銀行 (6ffentlich−rechtliche Banken)」が設立されて,貯 蓄金庫自身の競争相手が「身内」の側にも生じ 1 1)Bom, K, E,, Vom Beginn des Ersten Weltkrieges bis zum Ende der Weimarer Repubhk (1914−1933) in: Deutsche Bankengeschtchte, Bd. 3, Frankfurt am Main lg83,S.51f.ここで貯蓄金庫に関する立法が帝国法 ではなく,州法で規定されていることは注目され るべきである。そのことは,実態として各州の貯 蓄金庫の制度と業務範囲が全国で一律ではなく, したがって事実上,全国的に貯蓄金庫の活動を規 制できなかったことを意味している。ワイマール期の金融構造における貯蓄銀行・振替銀行の位置 (三ッ石 郁夫) 一75一 てきたのである。12) さらに第三に,貯蓄金庫は戦時期に戦時公債 の引き受けにおいて大きな役割を果たしたので あったが,戦後からインフレ期にかけてそれら の戦時公債は大幅に減価して経営状態を悪化さ せていた。 インフレ期になると,金融機関では,資金が 銀行から遠ざかって実物価値に置き換えられる, いわゆる「換物運動」が沸き起こっていた。13)こ れは貯蓄銀行に対しても影響を与え,貯蓄口座と 預金はこの時期に急速に減少したのである。1913 年末にプロイセン貯蓄金庫(旧領±)で1“O万 あった貯蓄口座数は,1920年末に2㎜万まで増 加していたのであるが,1924年末にはわずか110 万まで減少したのである。ドイツのなかでも,プ ロイセン貯蓄銀行の1924年における貯蓄預金総 額は,13年のそれのわずか約3%足らずへと減少 してしまった。14)そうした事情が改善して,再び 貯蓄銀行の預金残高が増加し始めるためには,通 貨安定が前提であった。それゆえおよそ貯蓄銀行 が本格的にユニバーサルバンクとしての活動を 12)Born, a.a.O., S.89f. W後からインフレ期にかけて, このように多くの「公法銀行」が設立された背景に は「社会化」の問題が伏在している。言うまでもな くこの「社会化」は戦争末期にレーテ運動のなか から要求され,その後の展開のなかで石炭・鉄鋼 業部門の「シンジケート化」へと倭小化されてし まったのであるが,「公法銀行」が金融部門に参入 し,逓貨安定後に民間銀行を圧迫するようになる 過程は,たしかに「社会化」が金融部門において 部分的に展開したとみることは可能である。しか しそれは,「部分的社会化」によって金融部門の組 織化が進行する過程と理解されるべきではなく, むしろ反対に混乱が深化する過程と捉えるべきで ある。この解釈については,後述H.および皿.参 照。なお社会化についてはさしあたって,田村信 一「『相対的安定期』におけるドイツ社会民主党の 経済政策の特質 『組織資本主義』と『冷たい社 会化』問題を中心にして 」『立教経済学研究』 第32巻第1∼2号,1978年,参照。 13)加藤栄一,前掲書,223∼231頁。 14)Die deutsche Banken 1924 bis 1926 in; Ein− zelschriften zur Statistik des Deutschen Reichs, Nr. 3, Berlm 1927, S. 62. 開始したのは,何といっても1923年11月の通貨 改革以降のことである。
各種公法銀行のそれぞれの中央組織で
あったドイツ貯蓄銀行連合会(Deutscher
Sparkassenverband),ドイツ中央振替銀行連合 (Deutscher Zentral.Giroverband),ドイツ自治体 銀行連合(Deutscher Verband kommunalen Banken)が1924年,中央レベルにおいてドイ ツ貯蓄銀行・振替連合(Deutscher Sparkassen. und Giroverband:以下DSGVと略記)へと結集・統 合されると,DSGVは一方で「貯蓄銀行業務の 全国的標準化」を目指しつつ,他方で個別貯蓄 銀行の支援体制を整えていくことになった。そ こで次に,これら貯蓄銀行と振替銀行の資金と 信用の特徴を相対的安定期について検討しよ う。 2.貯蓄銀行の資金構造 預金政策 貯蓄銀行の資金構造(貸方)にとってもっと も重要な項目は言うまでもなく貯蓄預金で あった。第2表下段に示されるように,通貨安 定後直後の一時期に交互計算預金がこれを上 回ったことはあったが,前者が1920年代後半を 通じて微増したにとどまったのに対して,貯蓄 預金は著しい回復を示すことになった。それは ドイツ全国で,1924年末から銀行恐慌直前の 1930年末までに約18倍にまで伸張している。こ うした急進の理由は,もともと貯蓄銀行が全国 の隅々まで支店を展開し,所在地自治体による 公的保証を背景としていたことに加えて,多様 な貯蓄種類を用意した少額貯蓄制度が展開し たことによる。 少額貯蓄制度も本来は貯蓄銀行に固有の制 度であった。貯蓄銀行では一般的にIRMから貯 蓄口座を開設することができたのであるが,こ の時期にはさらにさまざまな形でこの限度が 引き下げられた。 もっとも普及していたのは「家庭貯金箱」一76一 滋賀大学経済学部研究年報Vol.8 2001 第2表相対的安定期の貯蓄銀行 資 産(百万Mないし百万RM) 年末 貯蓄 竝s数 計 手形 保有有価 @証券 当座貸越 産業 金融機関 対物信用 自治体 M用 1913 3,133 20,802 122 4,056 505 一 13,116 2,396 1924 2,601 1,536 玉18 21 779 319 78 60 1925 2,622 2,875 229 63 1,314 518 372 178 1926 2,656 4,829 玉64 573 1,637 775 995 367 1927 2,663 7,238 193 889 1,951 、 758 2,020 604 1928 2,651 10,038 255 1,142 2,149 1,271 3,044 956 1929 2,609 12,149 236 1,413 2,259 1,161 4,058 1,512 1930 2,583 13,746 2重5 1,755 2,197 1β91 4,851 1,754 1931 2,580 13,823 106 1,903 1,989 859 5,248 1β42 1932 2,530 13,756 90 1,781 1,829 1,039 5,446 ユ,856 負 債(百万Mないし百万RM) 年末 振替件数i千件) 借 入 金 計 貯蓄預金 交互計算 @預金 国内金融 @機関 計 準備 その他 1913 ? 20,802 19,689 65 一 19,754 955 93 1924 一 1,536 596 643 84 1,323 55 158 1925 7,004 2,875 1,693 811 147 2,651 97 127 1926 7,832 4,829 3,182 1,094 155 4,431 143 255 1927 10,287 7,238 4,839 L235 264 6,338 212 586 1928 13,038 io,038 7,205 1,423 269 8,897 256 733 ig29 15,000 12,149 9,224 1,401 248 10,873 301 822 玉930 17,115 13,746 10,670 1,497 247 12,414 370 789 1931 19β82 13,823 10,064 1,292 356 11,712 455 1,495 1932 ? B,756 10,164 1,l12 243 1L519 523 1,556 (出典)GAshauer, Entwicklung der Sparkassenorganisation ab 1924, in=Deutsche Bankengeschichte, Bd.3. Frankfurt am Maln 1983, S.281.およびDeutsche Bundesbank, Deutsches Geid−und Bankwesen in Zahlen 1876−1975, S.102− 103から作成。 (HeimsparbUchse)制度であって,たとえばベル リン貯蓄銀行では43ライビスマルク(以下RM と略記)まで入る「貯金箱」が家庭内にあって, 家族は日常的に小銭をそこに貯めこみ,一杯に なるとそれを貯蓄銀行の窓口に持っていって 通帳に記入するのである。 またおもに国民学校に導入された「学校貯蓄 金庫」(Schulsparkasse)は,その時点での貯蓄 額増加にあまり寄与しなかったとはいえ,子供 たちに貯蓄の習慣をつけさせ,成人してから貯 蓄銀行の顧客になることを期待する点に意義 があった。 1924年にプロイセンではじめられた「貯金通 帳プレゼント」(GeschenksparbUcher)は,当該 貯蓄銀行が管轄する地区で生まれたすべての 新生児に対してIRMを記入した通帳をプレゼ ントするもので,これは本人に対する貯蓄習慣 の慣用というよりは,親に対する貯蓄機会の提
ワイマール期の金融構造における貯蓄銀行・振替銀行の位置 (三ツ石 郁夫) 一77一 供の意味を持っていた。 以上の3つの制度はドイツ全国のなかでもっ とも普及したものであり,1920年代末には「家 庭貯金箱」が75.4%,「学校貯蓄金庫」が48.3%, 「貯金通帳プレゼント」が36.99。の貯蓄銀行に導 入されていた。 しかしこうした少額貯蓄はたしかに預金総 額を引き上げることには貢献したのであるが, 必ずしも貯蓄銀行の収益性を高めることには 貢献しなかった。たとえば貸出金利が8%で預 金利子が55%である場合,20RMの貯蓄口座は 利ざやが25%あるから05RMの利益を生むこと になる。このとき記帳には0.45∼0.55RMかか り,それは2回必要だから,コストとして計1RM が必要になる。したがって20RMの口座では 0,5RMの損を出すことになるのである。プロイ センの貯:蓄銀行では20RM以下の口座が1929年 末で全体の28%にも達していたのであるが,し かし貯蓄銀行は公共ないし中下層の必要性の ために,この少額貯蓄制度を継続したのであ る。15> 3.与信政策 以上でみられた「公共的性格」は与信(借方) の面においても見出される。貯蓄銀行の与信政 策は伝統的に収益性よりも安全性に重点を置 いたものであり,したがって戦前では対物信用 と自治体信用,そして公債を中心とした証券信 用に業務の中心があった。しかし戦時中には戦 時公債引受による証券信用が拡大し,インフレ 期になると証券・対物信用は急落し,代わって 15)Jahrbuch des Deutschen Sparkassen一 und Giroverbandes 1931/32, Berlin, S,14−16. (L L/5/1, in: Sparkassenhistorisches Dokumentationszentrum Bonn).なお,同史料は,同所(ボン貯蓄銀行史料 センター)研究奨励部のK.クルムリッヒ(Klaus Krummrich)氏とBヒレン(Barbara Hillen)氏のご 厚意により閲覧利用することができた。ここに記 して謝意を表したい。 対人信用が大きな割合を占めていた。 貯蓄銀行における対人信用は歴史的には19 世紀前半まである程度の広がりを見せていた が,世紀後半に入ると安全性の問題からほとん ど行われなくなり,この業務は産業企業につい ては信用銀行が,中間層については信用組合が 分担する「分業体制」が形成されていた。しか し前述したように,第一次大戦直前から貯蓄銀 行に交互計算業務が認められるようになると, しだいにここでも対人信用が始まるように なったのである。 貯蓄銀行における対人信用とは,交互計算信 用,定期貸付(feste Darlehen),そしてわずかな 割合であるが手形割引の形で貸し付けられた。 土地を担保としない信用ではあったが,まった
く担保がないわけではなく,保全抵当
(Sicherheitshypotheken)や動産抵当(Faustpfand) がとられた。第2表ではこの信用は,上段の産 業向け当座貸越によって表される。それは通貨 安定直後には信用全体のおよそ半分近くを占 めて,1925年には13億1400万RMであり,その 後20年代後半に一定増加した結果,29年には22 億5900万RMに達している。しかし信用全体の 急増に比べれば割合として相対的に減少し,25 年の45.7%から29年には18.6%へと大幅に減少 することになった。 これに対して貯蓄銀行の伝統的業務である 対物信用は,インフレ期の縮小の後,20年代後 半に急速に増加することになった。1926年には 貯蓄銀行の全国大会で対物信用が貯蓄銀行の もっとも重要な業務であることが決議され,預 金の40%までがここで運用されることが推奨さ れた。このような対物信用の具体的な目的は, 中下層向けの戦後復興・住宅資金供給である。 1929年末の調査によれば,ドイツ全体で対物信 用額は37億5千万RMであり,このうち都市の 不動産には79.89。,農村の不動産には20.2%が 与えられ,当然ではあるが大都市の貯蓄銀行で あるほど,都市不動産への信用割合は高くなつ一78一 滋賀大学経済学部礒究年報Vo 1.8 2001 ている。このうち都市での抵当信用平均額は 7,450RMであり,農村でのそれは3,090RMであ る。この種の業務を扱う銀行としては,貯蓄銀 行とは別に民間の不動産抵当銀行があるが,こ れは貯蓄銀行と比べておよそ3倍の平均与信額 であり,比較的大規模な信用を与えている。貯 蓄銀行の対物信用は都市の小規模個人住宅建 設を促進したのである。16) 他方で住宅建設金融は,この対物信用だけで まかなわれていたのではなく,さらに第2表に 示された自治体信用も長期信用として結局こ こに資金が回っていくことになった。すでに第 一次大戦中から政府は住宅建設に対して介入 していたが,1921年には住宅建設投資をはじ め,24年からは家賃税(Hauszinssteuer)を通じ て政府資金がここに注入されることになった。 1924年から29年までに住宅建設に投入された 政府資金は75億RM弱と推計され,当時建設さ れた住宅の85%までが,建設費の50%以下では あるが政府資金援助に負っているのである。17) さらに自治体に対する貸付はけっしてこれ に限られず,有価証券保有による経路も存在し た。ここには個別自治体というよりもうイヒと ラントの公債が大部分を占めるが,いずれにし ても貯蓄銀行を通じた公的資金調達が1920年 代に急速に膨らんだといえよう。 ここでわれわれは貯蓄銀行と自治体との結 びつきを検討しようと思与が,その前にワイ マール期になって本格的に登場し,貯蓄銀行を 統合しつつ貯蓄銀行自体との関係を強化した 16)Jahrbuch des DSGV 1931/32, S.30−32. Piorkowski, Jens, Die deutsche Sparkassenorganisation 1924 bis 1934,Stuttgart l 997, S.29 この時期の住宅問題につ いては何よりも,後藤俊明『ドイツ住宅問題の政 治社会史一ヴァイマル社会国家と中間層一』未 来社,1999年を参照されたい。 17)Pohl, Hans, Die Wohnungsbaufinanzierung der Sparkassen von den Anfangen bis zur Gegenwart, in: Die VVohnungsbaufi’nanzierung der Sparkassenorgani− sation 一 historische Entwicklung und Zukunftsperspek− tiven m, Stuttgart 1998, S. 40. 振替銀行の展開にpいて検討しておこう。
H.振替銀行の機能と役割
1. 振替銀行の展開 前述したように,振替銀行は,1908年のライ ヒ小切手法を契機とする貯蓄金庫問での無情 金的振替取引の開始に伴って,その保証団体で ある自治体によってドイツ各地で新たに設置 された銀行である。本来は地域内の決済所の機 能をもって発足したのであるが,同時に預金・ 信用業務を併せ持つことによって,銀行として 機能することになったのである。その意味で振 替銀行は,第一次大戦前の貯蓄金庫の性格を転 換させる重要な要素をはらんでいた。 1909年1月2日,振替.を利用する取引を主張 したエベルレ(Eberle)の努力によって,ドイ ツで最初となる貯蓄銀行間の振替取引がザク セン銀行(S註chsische Bank)の事務引受によっ て開始された。しかし当初,これに参加した貯 蓄銀行はおよそ地区内の半分の163金庫にとど まり,また実際の振替取引数も1909年で5万6 千件と低調であった。しかしこのシステム自体 はその後急速にドイツ全体に広がっていった。 1912年4月にポンメルンで,1913年1月にポー ゼン,同年9月にシュレスヴィヒーホルスタイ ンで,1913年1月にシュレージエンで振替取引 が開始され,前述したように1916年までに12の 地域振替組織が設立され,これらによって同年 10月ドイツ中央振替連合会が設立され,1918年 2月には地域振替銀行を統合するドイツ中央振 替銀行が設立されたのである。18) 振替銀行の業務内容としては次の3点におい て共通していた。それは第一に,振替取引の仲 介,第二に地区内貯蓄銀行の奨励,そして第三 18)Jursch, H., Zehn Jahre Deutsche Kommunal− Gtroorgamsanon, Berlin 1926, Repr., Stuttgart 1998, S.20−60.ワイマール期の金融構造における貯蓄銀行・振替銀行の位置 (三ツ石 郁夫) 一79一 第3表:振替銀行の名称と資産(1930年末) (百万RM) 分類 名 称 本店所在地 資産 Girozentrale Sachsen Dresden 251 Girozentrale Hannover Hannover 292 Kommunalbank fUr Niederschlesien Breslau 175 1 Bayerische Gemeindebank−Girozentrale Mdnchen 373 Girozentrale(Ko㎜unalbank)釦r die Ostm飢k K6nigsberg 149 W賦tembergische Girozenta}e, Wu震tembergische Landeskommunalbank Stuttgart 158 Badische kommunale Landesbank ■lannhelm 164 Landesbank der R血einprovlnz Dusseldorf 948 2 Landesbank der Provinz West制en MUnster 531 Nassauische Landesbank Wiesbaden 214 Landeskreditkasse Kasse1 Kassel 165 Provinzialbank Grenzmark Posen−WestpreuBen, Girozentrale SchneldemuhI 17 Provlnzlalbank Pommem, Girozentrale Stettln 158 Provinzlalbank Oberschlesien, Landesbank und Girozentrale Ratlbor 112 3
Brandenburglsche Landesbank und Glrozentrale Berlln 2i4
Mitteldeutsche Landesbank−Girozentrale fUr Provlnz Sachsen, ThUnngen und `nhalt Magdeburg 363 Landeskommunalbank−Girozentra互e fur Hessen Darmstadt 190 4 Girozentrale Berhn(Berhner Stadtbank) Berlm 172 Niedersachsische Landesgewerbebank Braunschwe19 3 出典:Jahrbuch des Deutschen Sparkassen−und Giroverbandes 1931/32, S.43f. und 98. に自治体への安定的な信用供給である。しかし 振替銀行は当該地域の自治体によって設立さ れたがゆえに,全国的に共通した形態をとった わけではない。1932年掛報告書によれば,DSGV の振替銀行部門に加盟する振替銀行は次の4種 類に分類され.る。すなわち,第1に上述の意味 での純粋な振替銀行,第2に既存のランデスバ ンクに振替機能を併設した銀行,そして第3に 既存のランデスバンクとは別に振替銀行を設 置し,後に両者が合併した共同銀行,そして第 4にこれらいずれにも分類できないものであ る。第3表は,それらのリストと各振替銀行の 1930年末の資産を示したものである。19) ここにあげられた振替銀行19行のなかで, デュッセルドルフに本店を置くライン州ラン デスバンクは最大規模の振替銀行であり,これ とヴェストファーレン州ランデスバンクをあ わせれば,その資産はそれだけでベルリン大銀 行の下位行に匹敵する規模になる。従来の個別 分散的な貯蓄銀行を統合する振替銀行は,ワイ マール期になってドイツ金融業のなかで大き な位置を占めることになってきた。それらの資 産を分析しよう。 19)Jahrbuch des DSGV l 931/32, S.43−45,表における 「分類」は本文中の4分類に対応する。
一80一 滋賀大学経済学部研究年報Vol.8 2001 第4表:振替銀行のバランスシートとその変化 (百万RM) 資 産 年末 現金等﹁ 手形・ ャ切手 ノストロ @債権 ルポール・ 茶塔oード 保有有価 @証券 当座貸越 長期貸付 計 1925 447 125.9 173.9 23.7 24.8 520.5 i72.7 1,133.4 1926 44.1 1525 163.0 16.9 103.6 480.3 855.6 1.8945 1927 596 124.7 202.4 249 135.4 592.4 1,237.7 2,514.8 1928 60.6 186.1 349.4 34.7 1785 1.1515 1,692.9 3,822.6 1929 575 159.2 248.1 47.8 174.8 1,230.6 1,940.4 3,999.8 1930 71.5 227.4 409.9 12.3 182.8 971.1 2,553.0 4,560.6 負 債 ・ 資 本 (短期)借入金 年末 資本金・ @準備 銀行 その他 計 うち3ケ月 @ 未満 長期債借 @ 入 計 1925 82.5 137.8 851.5 989.3 815.3 32.1 1,133.4 1926 115.0 107.9 1,051.9 1,159.8 952.3 577.3 五,894.5 1927 158.0 198.3 1,105.6 1,303.9 1.0005 949.8 2,514.8 1928 188.1 1,133.1 7289 1,862.0 1,694.7 1,657.8 3.8226 1929 197.5 1,225.9 6288 1.8547 1,742.0 1,855.1 3,999.8 1930 206.5 1,406.0 538.1 1,944.1 1,773.9 2,304.0 4,560.6 出典:Jahrbuch des DSGV 1931/32, S.101.から作成。 2.バランスシート分析 (a)資金構造 まず振替銀行全体のバランスシート構成と その変化を第4表で示しておこう。ここでもま ず資金から検:鼓したい。 振替銀行において自己資本はきわめて低い。 20年代後半を通じて資産は約4倍に増加してい るが,資本金・準備は2.5倍に増加しているの みで,自己資本比率は25年号7.3%から最悪の 1929年には45%へと急落している。資本金と準 備金は地域の貯蓄銀行・振替連合会総会で決め られるのであり,したがって連合会はこうした 自己資本比率の低下を容認していたのである が,その背景には貯蓄銀行に対すると同様に, 自己資本を超える債務に対して連合会に加盟 する自治体が税収と自治体資産をもって全額 を保証するという公的金融機関の特徴があっ た。 銀行からの借入金のなかでほとんどを占め るのは貯蓄銀行からの預入金で,それは1928年 に急増している。その理由は1927年にプロイセ ン模範定款が制定され,これにしたがって貯蓄 銀行は預金全体の10%を管轄振替銀行(ランデ スバンク)に預け入れることになったためであ る。20)またその他の借入金に算入してある交互 計算預金は28年以降,全体として政策的に減少 させていたのであるが,ただし,ベルリンとド 20>プロイセン以外についても同様の規定が制定さ れて,貯蓄銀行は預金の一定割合を振替銀行に預 けた。なお1931年の金融危機後,同年10月6日の 緊急令によってはじめて全国的に統一され,貯蓄 預金の10%,振替預金の20%が準備として預けら れることになった。Jahrbuch des DSGV 1931/32, S.50.
ワイマール期の金融構造における貯蓄銀行・振替銀行の位置 (三ツ石 郁夫) 一81一 レスデン,そしてヴィースパーデンの振替銀行 は貯蓄銀行のような支店網をもって例外的に 交互計算業務に力を入れていた。21) 短期借入金に対して,長期借入金は20年代後 半に大幅に増加して29年には短期を凌駕した。 これは第一に地方債(Kommunalobligation)と
抵当証券(Pfandbrief)のための債務証書
(Schuldverschreibungen)の発行,第二に債務証 書発行による貯蓄銀行からの借入,そして第三 に特別信用からなっている。それぞれの割合と しては,債務証書が全体の6割を占め,あとは 約2割前後ずつの割合となっていた。第一の債 務証書はあとで述べるとして,まず特別信用は 1920年代の東部農業救済に関わる政治的資金 である。22)また4年から10年ものである貯蓄銀 行からの借入は28年3月にはわずか2000万RM 弱であったのが,31年3月には2億6000万RM弱 へと急増したのであるが,それは振替銀行の資 金需要を貯蓄銀行が補充する関係になってい たといえよう。 (b)信用政策 振替銀行の与信では自治体に対する信用が もっとも重要であったために,民間に対する信 用は二義的である。第4表にある当座貸越には, ドイツ中央振替銀行に対する預入れが算入さ れている。対民間産業企業に対する当座貸越は 正928年3月の2億4690万RMから29年9月の2億 8530万RMを最高にして,その慰しだいに減少 した。i件あたりの信用額はほとんど1万RMま でのいわゆる小信用である。この場合でも信用 はもっとも安全であると審査されたものに限 21) Jahrbuch des DSGV 1931/32, S.50. 22)Jahrbuch des DSGV 1931/32, S.52f特別信用とは 1925年から28年にかけてドイツ・レンテンバンク 信用会社が東部ドイツ農業振興のためにアメリカ から約20億RMを借り入れ,これを貯蓄銀行の支 店網を通じて農民(さらに中間層)に貸し付けよ うとした計画に基づくものである。ポーゼン・ヴェ ストプロイセン振替銀行では,この資金だけで全 体の24.5%にも達した(a.aO., S.53)。 定され,また不動産担保がとられた。平均額は 地域によって異なり,マクデブルク,ブランデ ンブルク,シュトゥットガルトの振替銀行では より高額の信用が与えられた。利子は通常ラィ ヒスバンク割引率に1%上乗せした水準であっ たから,信用銀行の場合の1590上乗せよりは有 利であった。他方で,手形割引は3000万RM前 後からしだいに減少した。総じて民間信用は28 年3月に資産に対して9%だったのが,31年6月 には38%にまで減少した。23) 証券保有については定款で制限されており, 原則としてライヒスバンクにおいて適格とさ れる(担保能力のある)証券のみ保有が認めら れた。第4表によれば,20年後半に証券保有は 増加してはいるものの,資産に対する割合は4 ∼5%で目立った動きは示していない。有価証 券の約4分の1はうイヒ国債と州債であり,残り の半々はライヒスバンク適格証券と取引所適 格証券からなっている。24) 第4表での残る大きな項目は長期貸付であ る。これは何よりも自治体信用を意味してい る。そこで前述の借り入れとあわせて,次のこ の業務を検討しよう。 3.長期自治体信用業務とその資金 自治体に長期信用を与える業務は,前述した ように振替銀行にとってもっとも重要な業務の 一つである。第一次大戦前において自治体は通 例個別に資本市場で債券を発行して資金を調達 したのであったが,それはまったく個別的分散 的であったために費用が高くつき,利率も均一 ではなかった。しかし戦後,振替銀行において はじめられた一括債権(Sammelannleihe)によっ 23)Jahrbuch des DSGV l931/32, S.65f.後暴説.2.(b) を参照。 24)Jahrbuch des DSGV l931/32, S.67.この業務におい て重要なのは,証券保有よりも証券委託業務であ る。このことによって振替銀行は,貯蓄銀行に代 わって証券の売買・管理を行うことができた。一82一 滋賀大学経済学部研究年報Vol.8 2001 て事情はまったく変化した。通貨安定後に個別 地方債を発行するのは,ほとんど人口50万人以 上の大都市だけとなり,それ以外の都市と自治 体は一括債権による資金供給を受けることに なったのである。この場合振替銀行は個別自治 体の信用需要の緊急性と使用目的を審査し,他 方で資本市場に購買力があると認められた場合 にこの証券を発行するのである。これらの審査 は,債券が証券取引所で通用し,ライヒスバン クからロンバード能力(証券担保貸付における 適格性)を承認されるために必要な手続きで あった。さらに購入者側から見れば,この証券 は個別自治体の保証ではなく,振替銀行とここ に加盟する自治体全体の保証であるから,それ だけ非常に大きな安全性を持っているわけであ る。こうして一括債権は「資本不足」の相対的 安定期にあってきわめて魅力的な投資対象とな り,また自治体側にとっても,これなしには必 要な資金需要を満たすことができないものと なったのである。25) この事情は外国に対しても同様であった。中 小自治体は振替銀行を通してはじめて外国資 本市場に接触することができたのであった。さ らにその一括債券の高い信用性のために有利 な利率で販売できたから,しばしば大都市もこ こに参加した。もっともこうした証券発行を実 際に行ったのは第5表にある7の振替銀行で,そ れ以外の地域の自治体はより上位組織である ドイツ中央振替銀行(DZG)による統一債権 (Einheitsanleihe)に参加したのであり,とりわ け外国での発行の場合,その意義はしだいに高 まっていった。26) 第6表は,1929年3月末時点におけるドイツ全 国の地方自治体における長短債務(通貨安定以 前に借り入れられた債務残額を除く)に関して, その債権者,債務種類,そして自治体側での債 25) Jahrbuch des DSGV 1931/32, S.54. 26)A.a.O. 第5表:振替銀行による地方債発行残高 (1930年6月末) 振替銀行 流通額(百万RM) 割合(%) MUnster 129.8 霊9.9 一 Dusseldorf 1640 25.1 一 MUnchen 1349 20.6 一 Mannhei皿 29.5 45 一 Kassel 19.5 3.0 一 Wiesbaden 31.2 4.8 一 Darmstadt 58.2 8.9 一 計 653.1 100 54.1
DGZ
5536 一 45.9 総計 1,206.7 謄 100 出典:Jahrbuch des DSGV 1931/32, S.S8£ 務の用途を示したものである。その総額は67億 2800万RMに達するのであるが,まず(3)の用 途からみていくと,前述の住宅関係がもっとも 多く,全体の22.2%に達している。ここには前 節でみた貯蓄銀行からの借入も算入されてお り,通貨安定後に自治体が活発に住宅建設に乗 り出していることが表われている。道路・水路 の建設または整備には14.8%の資金が利用され ているが,これはいわゆるインフラに関わるも ので,帝政期以来の傾向が続いている。同じく 14.8%を占めている電気・ガス事業はワイマー ル期になってはじめて現れてきたもので,ほと んどの場合自治体が直接運営するのではなく, 独立した公営企業の形態をとっていた。27)この ような公営企業としては,同坐にある交通営団 のほか,本稿が扱う貯蓄銀行,さらに公営保険, 農林業事業がある。その他,自治体の事業とし て,福祉や健康,衛生と教育制度のための経費 27)電力事業については最近の研究として,田野慶 子「1920年におけるライン・ヴェストファーレン 電力株式会社の発展一公私混合企業としての蓄 積を中心に一」『土地制度史学』第162号,1999 年,を参照されたい。なお同論文では対象企業が 公営企業ではなく,「公私混同企業」として扱われ ているDワイマール期の金融構造における貯蓄銀行・振替銀行の位置 (三ツ石 郁夫) 一83一 第6表 通貨安定後の自治体(自治体組合)債務構成(正929年3月末) (1) (2) (3) 債権者 GZILB 貯蓄銀行 抵当銀行 無記名 リ券 その他 不明 外国 計 金額(百万RM) 1,916 803 515 797 1,282 477 738 6,728 割合(%) 28.3 lL9 7.7 11.8 191 7.1 11.0 100 国内債務 外国債務 債務種類 債務証書 一括公債, 他の キ期債務 抵当貸付 他の中短 厓ツ務 個別公債 一括公債 その他 金額(百万RM) 644 1,193 1,236 477 2,240 456 198 85 割合(%) 9.6 17.7 18.4 7.1 33.3 6.8 2.9 1.3 債務用途 一般行政 教育関係 福祉・
注N
住宅・ A民 道路・?H
電気・ Kス 交通営団 その他 金額(百万RM) 117 306 414 L446 966 966 5玉2 2,001 割合(%) 1.8 4.7 6.3 22.2 14.8 14.8 7.8 276 出典:Wirtsch4ft und Statistik,10Jg., Nr.23,1930, S.955−957,11.Jg., Nr 2, S.69−73,から作成。 は,ワイマール社会国家の形成にとって重要な 役割を果たした。 第6表(2)にあるように,そうした支出のた めに自治体・公営企業は多額の信用を必要としたのであり,それは単独地方債,共同公債
(G。mei。、ch。ft、anl,ih,)28),一括公債,統一公債, 抵当証券などの方法で調達された。そのために 公的金融機関,とりわけ振替銀行は重要な役割 を果たしたのである。同表(1)をみると,ド イツ中央振替銀行(DGZ)を含む振替銀行はこ れら債務の28.3%を占め,さらに貯蓄銀行の 1Lg%をあわせれば,公的機関だけで4割の部分 を占めていることになる。 さらに問題であったのは,こうした債務の多 くの部分を外資が占めていたことであった。第 6表(1)にあるように,自治体が直接外国から 資金を調達した割合は11%であるが,さらに例 28)1929年3月末の残高では,プファルツ共同市債が、 1,470万RM,バーゲン共同市債が1,790万RM,ヴュ ルテンベルク共同市債が3,000万RM,オルデンブ ルク都市地方共同債が180万RM,クロッペンブル ク郡連合会債権が30万RM,計6,480万RMとなっ ている(VVirtschafi und Statistik,11.Jg., Nr2, S.71)。 えば振替銀行から自治体に貸し付けられた資 金のうち,17.8%は外資であった。こうした経 路をたどれば,自治体債務の少なくとも2割以 上は外資を起源としているといえるだろう。 こうして1931年6月の銀行危機iまでに公的金 融機関と自治体の債務関係は大幅に肥大化し ていた。1930年末に貯蓄銀行と振替銀行から自 治体に与えられていた信用残高は,長期一括債 券によって33億1600万RM,長期地方債(債務 証書)に基づく貸付(Schuldscheindarlehen)に よって29億7700万RM,そして短期自治体信用 が15億9600万RMにも達していたのである。29) ここまでの分析から明らかになることは,一 方で貯蓄銀行は貯蓄預金を収集し,これを域内 の住宅建設と民間(とくに中間層)企業向けに 貸し付けたのであるが,そうした資金はさしあ たって域外に流通することはなかった。ワイ マール期に新たに出現した振替銀行はこうし た貯蓄金庫の地域的限界を突破し,振替によって新たに貯蓄資金を域外に流通させたので
29) Piorkowski, a. a. O., S.33−35.一84一 滋賀大学経済学部研究年報Vol.8 2001 あったが,さらに新たにきわめて有利で安全な “括債権を考案して,貯蓄とは別の方法で資金 を吸収することになったのである。こうした資 金は今では地域的に限定されず,全国的そして 国際的な規模で調達され,それが地方自治体に 優先的に供与されたのであった。 このような貯蓄銀行・振替銀行の資金調達機 構は相対的安定期の金融構造・証券市場に大き な影響を与えることになった。すなわち公的団 体の長期資金需要が民間企業の資金需要と競 合し,証券市場全体として外資に依存せ.ざるを えない状況を作り出したことである。30)この問 題状況を念頭におきながら,次節ではドイツ金 融構造全体における公的金融機関の位置を検 討することにしたい。
III.資本形成と金融機関一信用銀行と
貯蓄銀行・振替銀行を中心に一
1. 貨幣資本形成と貯蓄 (a)国内貨幣資本形成 ’これまでに考察してきた貯蓄銀行と振替銀 行による資金調達が相対的安定期ドイツの国 内貨幣資本形成においてどれほどの大きさを 示しているのであろうか。資本形成については いくつかに推計があるが,ここではまず個別バ ランスシートと財政統計に基づいて当時作成 された準公的な推計として第7表を示しておこ う。 この表の合計で示された数値は,外資分や証 券担保貸付であるロンバード貸付等の重複分を 差し引いて,その年に新たに資本形成に利用さ れうる純増資金の合計を示している。この表だ けでは他の時期や地域とと比較できないため, 必ずしも数値の大きさを評価することはできな いが,いわゆる相対的安定期といわれる1920年 30)加藤栄一,前掲書,238∼23g頁。 代後半,とりわけ26年には新たに多額の資金が 形成されたと見てとることはできる。期間内の 貨幣資本増加額計は429億3600万RMに達する。 その内訳をみると,1924年において信用銀行 は新規貨幣資本形成総額の57.8%を占めて,こ こに最も大きく関わった。ただし,銀行預金で は差引分が大きいので数字をそのまま受け入 れることはできないが,それでもその意義の大 きさは変わらない。しかしその後になると,信 用銀行の役割はしだいに後退している。25年以 降の割合は45.2%,25.3%,29.7%,23.3%,そし て29年には14.9%にまで落ち込んでいる。期間 内の累積額は132億9100万RMであり,全体の 31.09。を占めているが,外資分とルポール等の 重複分を考慮すると,次の貯蓄銀行寄与分とほ とんど変わらないと考えられる。 その貯蓄銀行預金は1924年の10.2%からしだ いに増加し,以後19.0%,14.7%,23.1%,28年 には31.9%と信用銀行の割合を凌駕し,29年で も30.1%と3割を占めている。期間内の貯蓄預 金増加合計は92億4900万RMとなり,それは全 体の21.5%となる。ワイマール期における新規 資金形成に関して,貯蓄銀行の貯蓄が非常に大 きな意義を持ち,それが高まっていることを確 認できる。 ところで前節で考察した振替銀行の分はこ の貯蓄には算入されていない。それは第7表で は「有価証券」に合算されていると考えられる。 第5表で示した振替銀行による地方債発行残高 12億670万RMは,通貨安定以降に発行された 債権総額で,期間に半年のずれはあるが長期債 であるゆえ償還された分はごく僅かであり,お およそのところはこれで比較可能である。そこ でここから外国調達分を差し引いた9億9200万 RMは,第7表の期間内有価証券発行累計額145 億9900万RMのうちの6.89。を占めることにな る。それゆえこの期間内に貯蓄銀行・振替銀行 が寄与した新規資金形成は全体のおよそ3割で あり,しかも期間内に目立った増加傾向を示しワイマール期の金融構造における貯蓄銀行・振替銀行の位置 (三ツ石 郁夫) 一85一 第7表 相対的安定期におけるドイツの新規国内貨幣資本形成 (百万RM) 1924年 1925年 1926年 1927年 豆928年 1929年 1.民間資金形成 1.貯蓄預金 貯蓄銀行 569.4 1.0981 1,488.4 1.6572 2β859 2,050.0 その他 226.8 356.9 495.3 622.4 743.1 632.2 2.生命保険 1158 126.1 198.0 306.6 444.2 408.至 3.有価証券 471.8 1.5819 3,515.2 3,403.2 3.6345 1.9925 4.銀行預金 株式銀行 3,229.3 2,607.8 2,565.0 2,134.6 1.7388 1,015.1 その他 1.2886 1,335.9 159.3 4562 一5999 一33.6 5.貯蓄銀行・信用 ヲ同組合の手形類 7806 366.9 432.2 236 307.3 41.9 うち差引分 外資 一1,220.0 一L930.0 1,150.0 一2,100.0 一2,000.0 一700.0 ロンバード等 一300.0 一400.0 一9000 一800.0 一600.0 0.0 小 計 5,162.3 5,143.6 9」03.2 5,917.0 6,053.9 5.4062 H.社会保険 151.6 1663 299.6 4,082.0 5755 563.8 皿、公的資金形成 270.Q 4600 720.0 850.0 8400 845.G 合 計 5.5839 5,769.9 10.i228 7,175.2 7,469.4 6.8150 出典:Gセnther Kciser und Bernhard Benning, Kapitalbildung und lnvestition in der deutg. chen Volkswirtschaft 1924 bis 1928.m:ViertelJahrshefte ittr KonJunktuijrorscht{ng, Sonderheft 22, Berlin 1931,S.29.から作成。 注:1929年の数値には発券銀行の分が算入されていない。 ていたのである。 銀行と貯蓄金庫は第一次大戦前まで分業関 係にあった。一方で信用銀行は産業との関係で 交互計算業務と証券業務,外国業務を行ったの に対して,貯蓄金庫は中下層民から貯蓄預金を 受け入れ,これを域内の対物信用と自治体信用 で運用したのであった。こうした分業関係が ヴェルサイユ体制の新たの枠組みのなかで再 編されつつあったのであるが,その第一の焦点 は何よりも資本不足を解決するための貯蓄預 金をめぐるものであった。 (b)ベルリン大銀行の資金構造 貯蓄金庫が文字通り設立当初から社会中下 層の小口貯蓄預金を対象として営業をはじめ たのに対して,ベルリン大銀行が最初にそれに 着目したのはすでに1870年代のことである。し かし第一次大戦前は取り扱い支店も少なく,銀 行の貸方のなかでもその割合は大きくなかっ た。さらに第一次大戦中の戦時公債による資金 吸収とインフレ期における銀行からの預金逃 避によって,20年代前半には銀行と貯蓄金庫両 者において,預金は急激に減少していた。 第8表には第一次大戦前からの1913年とワイ マール期におけるベルリン大銀行の資金構造 が示されている。ベルリン大銀行は通貨安定後 1926年には戦前水準の資産を回復し,29年まで に相対的安定期初期の約3倍の資産規模を達成 している。この理由は第一に,産業との関係を 回復して交互計算業務が拡張したことによる のであるが,第二にベルリン大銀行が地方銀行
一86一 滋賀大学経済学部研究年報VoL 8 2001 第8表 ベルリン大銀行の資金構造 (百万MないしRM) 資 産 交互計算・ 剪 預金 国内金融機 ヨ預り金 ノストロ・ 謔R者債務 引受手形 長期借入 資本金・ @準備 その他 1913年 8β91 2,254 427 2,469 1,391 1 1635 216 1923年 1,750 一 凹 一 ” / 648 一 1924年 4,439 2,974 481 199 19 / 684 82 1925年 6,141 4,196 544 382 234 / 695 90 1926年 8,016 5,748 726 293 332 / 789 128 1927年 9,825 6,928 763 632 412 189 854 47 1928年 12,673 8,433 1,171 1,380 472 192 897 128 1929年 13,765 9,219 942 1,877 513 189 917 108 1930年 12虜6 7,984 1,033 2,113 701 189 883 73 1931年 9,618 5,555 976 1,292 947 189 627 32 1932年 8,803 4,946 1,285 LO95 769 129 542 37 出典:Deutsche Bundesbank, Deutsches Geld一 und Bankwesen in Zahlen l 876−1975, S.78£ と個人銀行を併合した集中過程の結果でもあ るといえる。大戦後半からベルリン大銀行は, 交互計算業務を活動の中心としていた地方銀 行・個人銀行を次々と吸収し,それらの店舗を 支店に転換しつつ地方の顧客を引き継ぐdと によって,いわゆる「支店銀行制」を形成した のであった。31) さらに第三に外資導入がある。ドイツの銀行 に流入した短期外資は1927年に17億5200万
RM,28年に12億2100万RM,29年でもなお5
31)小湊繁「相対的安定期におけるドイツの大銀行 と産業の資本蓄積」(一)(二)『社会科学研究』第 22巻第1・2号,1970年,とりわけ,(二)の69頁 参照。例えば,ドイチェ・バンクは1924年ヴュル テンベルク最大の地方銀行フェライン銀行を併合 したが,これに伴って既存の15支店.を継承した (Die Wtirttembergische Vereinsbank in Stuttgart 1869− i919, S.38.; Pohl, M., Baden−Vl(derttembergische Bankgeschichte, S.215.). またこの支店銀行制に関しては前掲注4)にある 文献の他,佐藤智三「第一次大戦期,ベルリン大 銀行における支店網の展開と地方公営貯蓄銀行の 動向一ドイツ国家独占資本主義成立過程に関す る.一考察一」『立命館経営学』第20巻第3・4号, 1981年,も合わせて参照されたい。 億4900万RMに達し,これらが交互計算預金の 項目に算入していると考えられる。また長期借 入にある27年の1億8900万RMはドイチェ・バ ンクがアメリカからのドル建で借り入れたも のである。32) こうした資産の増加に対して資本金・準備の 増加は停滞していた。平均の自己資本率は1924 年の15.4%から29年には6.7%へと大幅に低下 し,交互計算信用の固定化とあいまってベルリ ン大銀行の危機の震源を形成していた。すなわ ち,第一次大戦前の銀行と産業の関係において 指摘された交互計算業務と証券発行の両軸は, 相対的安定期にはドイツ国内の株式・社債発行 が低落することによって,交互計算業務のみを 通じた関係へと変化していた。したがって当座 貸越が長期資本投資へと固定されることは,銀 行にとっては大きなリスクを意味したが,さし あたってそれが外資の順調な流入によってカ ヴァーされている限りでは,問題が露呈するこ 32)Deutsche Bundesbank, Deutsches Geld一 und Bankwesen in Zahlen 1876−i975, S.78f, und 328.ワイマール期の金融構造における貯蓄銀行・振替銀行の位置 (三ツ石 郁夫) 一87一 とはなかった。しかし,1925年中頃にそれが一 時的に減少すると,直ちに銀行は信用を制限せ ざるを得なくなり,流動i生恐慌という危機が顕 在化せざるをえない状況が存在していたので ある。33) こうした逼迫した金融市場のなかで,信用銀 行はしだいに回復しつつある国内の貯蓄資金 形成に注目せざるを得なかった。1927年10月の 第3回世界貯蓄デーに「ドイツ銀行業・銀行家 中央連合」は組織的に関わると,地方支部に対 して預金利子率を引き上げることによって小 口の貯蓄獲得に努力することを呼びかけた。そ の目的は,一方で貯蓄銀行に対抗しつつ,他方 で一般的には個別分散的な貯蓄資金を銀行を 通じて集合し,商工業農業の資金需要を充足し て資本形成を促進することにあり,さらにドイ ツ固有の事情として,コストの高い外国資金に 代わって国内資金をできるだけ効率的に収集 して利用することにあった。34) その事情は第9表からわかる。この表は専門 調査委員会の報告書から掲載したものである が,この報告書によれば,ベルリン大銀行に とって工業と商業の預金は戦前に比べて重要 性を失ってしまった。]二業は必要な資金を自己 調達し,それが難しいときはたとえ配当でさえ 銀行に対して信用を要求し,もはや銀行に残高 を残すことをしなくなった。他方で巨大企業は コンツェルンを形成して専門銀行(いわゆるハ ウスバンク)を設立し,ベルリン大銀行と大個 人銀行に対しては大口口座を残しておくこと になった。35) これに対して個人(団体も含めて)は20年代 後半に最も重要な預金者グループとして現れ 33)加藤栄一,前掲書,231∼236,258∼259頁。 34)”Weltspartag. Rundfunksprache auf der Deutschen Welle am 30. Oktober 1927, in: Bankarchiv. ZeitschriLf} fa’r Bank一 und Bb’rsenwesen, 27Jg., Nr.3, Okt 1927, S.37.; Geschaftsbericht des Centralverbandes des Deutschen Bank一 und Bankiergewerbes fur das Jahr 1927, in: Bankarchiv, 27.Jg,, Nr.6, Dez. 1927, S.81 第9表:株式銀行の預金者職業別構成(1926∼28年) (90) 預金者グループ 1926年 1927年 1928年 農業 6.4 7.3 7.7 工業 31.6 31.6 3α7 商業 13.1 13.2 12.3 個入・団体 35.2 38.7 439 保険会杜 3.3 3.2 16 公的団体 104 60 3.8 計 100 100 100 出典:Der Bankkredit, S.73. てきた。リーサー(Jacob Riesser)はすでに戦 前において貯蓄預金の拡大に注目していたの であり,貯蓄金庫は言うまでもなく,信用銀行 においても預金の3分目1は本来の貯蓄的性格 を持っていると指摘していた。36)こうした傾向 は第一次大戦とインフレによって中断された が,通貨安定化後再び明確になってきたといえ る。その場合とくに注目しておいていいのは, 帝政期以降に社会層として拡大しつつあった 新中間層が新たな銀行預金者階層となってい ることである。37) 35)AusschuB zur Untersuchung der Erzeugungs一 und Absatzbedingungen der deutschen Wirtschaft, Der Bankkredit. Verhandlungen und Berichte des Unteraus− schusses flir Getd一, Kredit一 und Ftnanlwesen (V. Unter− ausschuB), Berlln王930, S.72これについては加藤栄 一氏のいわゆる「銀行と産業の一行的関係」に照 応すると考えられる。詳細については,同,前掲 書,とくに231∼268頁参照。 36)Riesser, Die deutsche GroPhanken und ihre Konzentration, im Zusammenhange mit der Entwick− lung der Gesam nvirtschaLf} in Deutschland, Jena 1910, S.86, 37)ただし,ベルリン大銀行による小口預金の収集 は必ずしも目立った成果をあげることはできな かった(Dickhaus, Monika, Innovation im deutschen Bankwesen 1918−1931, in: Scripta Mercaturae, 25.Jg., Ht.1/2,1991., S.100−103.)。新中間層の拡大について は,雨宮昭彦『帝政期の新中間層』東大出版会, 2000年,参照。
一88−