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(1)

書写山の一遍上人

著者

竹村 牧男

著者別名

TAKEMURA Makio

雑誌名

東洋学論叢

38

ページ

1-25

発行年

2013-03

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00004169/

(2)

 

講演筆記〉

 

書写山の一遍上人

竹 

村 

牧 

はじめに

 

法燈国師心地覚心と一遍上人など

  姫路市はお城で有名ですが、実はそれと並んで書写山という重要な歴史遺産、文化遺産があります。私はこちら も 大 変 貴 重 だ と 思 っ て い ま す。 書 写 山 が 開 創 さ れ た の は、 平 安 期 の 康 保 三 年( 九 六 六 )、 古 さ で い え ば も ち ろ ん 書 写山の ほ うが姫路城よりずっと古いわけです。ここは西の比叡山と呼ばれ、天台宗の学問と修行の道場でした。ラ スト・サムライで有名になった大講堂や食堂等は、若い僧らの学問の場でした。ここで弁慶が修学していたことは 有名です。宮本武蔵もいたようです。このことはかつて大河ドラマでも紹介されていました。また、今日の臨済宗 の源流を形成した大燈国師も、若い時にここで勉学していたということです。私にとっては、このことも興味深い ことです。   では、この書写山で若い学生を指導したのは、どのような人だったのでしょうか。おそらく、当時の一級の学僧 らが指導に当たっていたことと思います。そうした教師の一人に、法燈国師心地覚心(一二〇七〜一二九八)がい たといいます。覚心は当初、密教を学び、宋にわたって、有名な禅籍『無門関』の著者・無門慧開に就いて修行し

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て印可を受け、 日本に帰ってからは和歌山県由良の地に興国寺を開創しました。 径山寺味噌を伝えたことで有名で、 また虚無僧の普化宗に関係あるとも言われています。   実は、この法燈国師心地覚心と、時宗の開祖 ・ 一遍上人(一二三九〜一二八九)との間に、面白い話があります。   宝満寺にて、由良の法燈国師に参禅し給ひけるに、国師、念起即覚の話を挙せられければ、上人かく読みて呈 したまひける。 「となふれば仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏の声ばかりして」 。国師、 此歌を聞きて 「未徹在」 とのたまひければ、上人またかくよみて呈し給ひけるに、国師、手巾薬籠を附属して印可の信を表したまふとな ん。 「となふれば仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏なむあみだ仏」 。   こ の 話 は 一 遍 の 念 仏 思 想、 浄 土 教 思 想 の 本 質 を 非 常 に よ く 伝 え る も の で す が、 最 近 の 学 界 で は、 後 世 に 作 ら れ た 話 だ と い う こ と で、 実 話 で は な い よ う で す。 し か し 一 遍 が 覚 心 に か な り 関 心 を 抱 い て い た こ と は 事 実 の よ う で、 『播州法語集」には覚心にふれた言葉が見出されます(四〇) 。なお、宝満寺は神戸市長田区にあり、文永三年 (一二六六) 、覚心が再興した寺院であるということですので、覚心が近くの書写山で教えたということもあったの でしょう。   今の一遍は、念仏札の賦算のために諸国を遊行し、また踊り念仏を始めたことで有名ですが、晩年、書写山にお 詣りしたとき、 「諸国遊行の思ひで、ただ当山巡礼にあり」と語ったということです。 『一遍聖絵』の絵巻の文章に 出てくることです。一遍がそれ ほ どまでに格別の思い出であったともらした背景には、一体、何があったのか、私 は大変興味深く思うのです。今日は、このことを考えてみたいと思うのですが、それには、まずはこの書写山を開 創した性空上人(九一〇〜一〇〇七。異説あり)のことを知っておくべきでしょう。

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性空上人の伝記

  性空は橘氏の家系で、もとより宗教者の資質を持って生まれた人のようです。いろいろと神秘的な話があるので すが、幼少の日よりなくなるまで、常に微笑をたたえ慈悲深い表情でやさしい言葉遣いであり、けっして粗暴な言 葉を吐かなかったといいます。早くから出家したいという希望を持つようになったのですが、両親は許しませんで し た。 承 平 七 年( 九 三 七 )、 父 が 亡 く な り、 母 に 従 っ て 日 向 の 国 に 下 っ て い ま す。 数 年 後、 母 に 文 殊 菩 薩 の 化 身 が 現れ、子どもの出家を妨げてはならないと諭されて、ようやく出家を許されたといいます。この時、三六歳になっ ていました。   比叡山に上って、天台宗中興の祖と言われる慈恵大師良源(九一二〜九八五)について学問と修行に取り組みま す。しかしその後、間もなく、どういうわけか九州の霧島の地に入り、人里はなれた山奥で修行しました。食べ物 もままならぬような場所でしたが、その環境にもよく耐えて仏道修行なさったということです。あるときは、夢に 御馳走をいただいて、それで覚めた後もおなかがすかなかったといいます。また夢に誰かが食事を運んでくれるの を見て、覚めるとそのとおり実際に置かれていたとのことです。あるいは読誦している経典から、美しいお米がぱ らぱら飛び出してきたり、窓の下に温かいおいしいお餅があったりしたことが伝えられています。なんとも神秘的 な方です。   着ているものはぼろぼろだったようで、きわめて寒い夜に寒さを耐えるべく経典を読誦していると、温かそうな 蒲団が上の方から自然に降りてきたといいます。それで、身体は立派で光輝いていたとのことです。

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  二、三年の後でしょうか、福岡県と佐賀県の境あたりの背振の山に移って、さらに修行します。それが一八年 ほ ど 続 い た と の こ と で す。 三 九 歳 の と き に は、 『 法 華 経 』 の す べ て を 暗 誦 さ れ た と い う こ と で す。 あ る と き、 神 秘 的 な 老 僧 が 現 わ れ、 一 枚 の 紙 を 性 空 に 渡 し ま し た。 性 空 が こ れ を 握 る と、 老 僧 が 耳 元 で、 「 福 報 遍 照、 法 華 光 蔵、 応 正等覚」とささやいたとのことです。背振山での修行のあいだ、若護法・乙護法の二人の童子が世話をしました。     実 は 一 遍 も 再 出 家 し た の が 三 六 歳 で 、 当 初 、 山 岳 霊 場 に こ も っ て 修 行 し て い ま す 。 ま た 性 空 は 名 門 の 出 な の に 、 常 に 清 貧 を 守 り 、 権 力 か ら 遠 ざ か っ て い ま し た 。 そ う し た 生 き ざ ま は 、 ど こ か で 一 遍 と 共 通 な も の が あ る と 思 い ま す 。

書写山における性空上人

 

如意輪観音との出会い

  性空はひととおり修行がなって、化他のために山をおり、都に向かいます。二人の童子も一緒です。常に五色の 瑞雲が性空の前方にたなびいて道案内したといいます。 ところが、 播磨の今の書写山近くにきて雲が消えてしまい、 ここは釈尊が説法した霊鷲山と同じ山で、ここに入れば六根清浄を得るとのお告げがあります。そこで性空はこの 山に入り、 さらに修行していくことになります。性空の書写山入山は、 康保三年(九六六) 、 性空五七歳の時であっ たということです。   性 空 は 山 中 で 日 夜、 『 法 華 経 』 を 読 誦 し つ つ 修 行 し て い ま し た が、 動 物 た ち が 性 空 の も と に や っ て き て、 慣 れ 親 し ん で じ ゃ れ て い た よ う で す。 食 事 の 時 は た く さ ん 集 ま っ て き て、 性 空 は ま ず 動 物 た ち に 食 べ 物 を 施 す の で し た。 しかし、身体にのみ・しらみはいなかったといいます。着るものは常に紙衣で、すまいも粗末なものでした。胸に

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は阿弥陀仏像を彫顕してあったというのですが、入れ墨のようなことをしていたのでしょうか。この性空に、近き も遠きも、男女・老少を問わず、帰依しない者はありませんでした。多くの学僧や当時の優れた知識人等も、性空 の評判を聞いて、書写山に来て結縁したとのことです。性空に会えた人は仏に会った思いをし、一言でも聞けば仏 説をきいたかと思うのでした。性空は出家以降、ひとときも病気にかかったことがなく、生涯、一心に誦経したの で し た。 非 常 に 寡 黙 の 人 で あ り、 高 僧 や 重 要 人 物 と 会 う 際 も、 先 方 が 種 々 話 を し て も 一 言、 二 言 し ゃ べ る だ け で、 あとは瞑想するがごとくであったといいます。   よく良寛とアッシジのフランシスコが対比されるのですが、性空もアッシジのフランシスコに似たところがある ように思います。   入山して数年後、 書写山の今、 摩尼殿のあるところ、 急な崖のところですが、 そこに大きな桜の木がはえていて、 ある日、天人が降り立って、次の詩をうたって礼拝しているのに出会いました。   稽首す、生木の如意輪に。能く有情の福・寿の願を満たし、亦た極楽に往生せん願を満たす。百千倶胝の心の 念ずる所なり。 (稽首生木如意輪、能満有情福寿願、亦満往生極楽願、百千倶胝心所念。 『元亨釈書』では、一切 衆生心所念)   そこで性空は枝をはらい、その生木の太い幹に弟子の安鎮に命じて如意輪観音菩薩像を彫らせ、やがてそれをお 祭 り す る お 堂 を 建 立 し た と の こ と で す。 像 の 高 さ は 一 尺 五 寸 と 伝 え ま す。 こ の と き、 美 し い 鳥 が 集 ま っ て お 祝 い の鳴き声を発し、お堂の下には清泉が湧出して、病気の者がこれを飲むと治ったといいます。こうしたことも、性 空 は 天 人 と 感 応 道 交 で き た 方 だ っ た と い う こ と を 表 わ し て い る わ け で す。 そ れ は 性 空 の 入 山 間 も な い、 天 禄 元 年 (九七〇)のことといいます。

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  こ の こ と が 事 実 だ と し て、 そ の 観 音 像 は 今 日 存 在 し て い ま せ ん が、 し か し 最 近、 性 空 上 人 一 千 年 御 忌 の 折 り ( 二 〇 〇 六 年 ) に、 鎌 倉 時 代 の 作 と い う、 桜 の 木 で で き た 如 意 輪 観 音 像 が 発 見 さ れ た よ う で す ね。 小 学 館 ウ イ ー ク リ ー ブ ッ ク『 古 寺 を 巡 る 』 の 第 二 四、 『 円 教 寺 』 に 掲 載 さ れ て い る の を 見 ま し た が、 截 金 模 様 も 鮮 や か な、 大 変 た おやかな、美しい菩薩像でした。ちょうど一尺五寸くらいに見えます。性空の原作を模したものなのかもしれませ ん。実は一遍は、あとで述べるように、この性空が作った如意輪観音を拝みたかったのです。

性空上人に帰依した人々

  性 空 は 入 山 一 〇 年 後、 書 写 の 最 高 峰・ 白 山 で、 『 法 華 経 』 読 誦 の 功 徳 に よ り 六 根 清 浄 を 得 ま す。 そ の 清 ら か な 人 と な り と 優 れ た 境 涯 と に よ っ て、 多 く の 人 々 の 帰 依 を う け ま し た。 も っ と も 有 名 な 人 は、 花 山 法 皇( 九 六 八 〜 一〇〇八)でしょう。花山法皇は寛和二年(九八六)と長保四年(一〇〇二)の二度、書写山を訪れています。花 山法皇は性空と結縁ののち比叡山や熊野に参籠修行し、長谷寺の徳道上人が創始した西国三十三所巡礼が途絶えて いたのを、性空らとともに再興したとされています。この巡礼は観音巡礼で、書写山円教寺も二七番札所となって います。   ま た、 『 日 本 往 生 極 楽 記 』 の 作 者・ 寂 心( 俗 名 は、 慶 よし 滋 しげ 保 やす 胤 たね 。 一 〇 〇 二 年 寂 ) も 書 写 山 に し ば し ば 通 い、 性 空 と 親しく交わった人です。寂心が沐浴する湯釜が ほ しいと思っていたところ、湯釜が性空から届いたという話もあり ます。ちなみに、長徳元年(九九五)冬のこと、多武峰の増賀上人が上質の紙を ほ しく思っていたところ、播磨の 杉原紙が贈られてきたということです。

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  性空の生前ではないのですが、 後白河法皇 (一一二七〜一一九二) も書写山に詣でています。承安四年 (一一七四) 四月、厳島神社参詣の帰途、七日の間、参籠したといいます。そのとき、書写山の本尊であるかの如意輪観音を拝 んだということです。この観音像はめったに拝めないものなのです。ちなみに、摩尼殿の名は御白河法皇から贈ら れたものといいます。如意輪観音が右の第二手にお持ちの如意宝珠、すなわち摩尼宝珠に由来します。   後白河法皇は『梁塵秘抄』の撰者として有名ですが、 『梁塵秘抄』には、何回か書写山のことが出てきますから、 法 皇 に は き っ と 深 く 性 空 を 信 仰 す る お 気 持 ち が あ っ た こ と で し ょ う。 中 に、 「 聖 の い ま す 山 は ど こ そ こ ぞ。 そ れ は 箕面に書写の山」という歌謡もあります。

性空上人と普賢菩薩

  『 古 今 著 聞 集 』 に よ り ま す と、 い つ の 頃 か 性 空 が 法 華 経 を 書 写 し て い る と、 閻 魔 王 宮 よ り 使 い が 来 て、 性 空 が 写 経することにより、罪業で地獄に堕ちた衆生が皆、人間界や天上界、または浄土に生れるので、地獄も荒廃してい る。 ど う か 性 空 上 人、 写 経 を や め て く だ さ い、 と 頼 ん だ と い い ま す。 こ れ に 対 し 性 空 は、 「 こ の こ と は 私 に は 関 係 ないことです。釈迦牟尼仏にお申しなさい」といったということです。   ところで、性空は遊女を通じて普賢菩薩に出会ったといいます。そのことは種々伝えられていますが、 『十訓抄』 十五の説を見てみましょう。   書写の性空上人、生身の普賢を見奉るべきよし、寤寐に祈請し給ひけるに、ある夜、転経に疲れて、経をにぎ りながら、脇息によりかかりて、しばしまどろみたる夢に、生身の普賢を見奉らむと思はば、神崎の遊女の長者

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を見るべきよし見て、夢さめて、奇異の思ひをなして、かしこへ行き向ひて、長者が家におはしつきたれば、た だいま京より上日の輩下りて、遊宴乱舞の ほ どなり。長者、横敷に居て、鼓を打ちて、乱拍子の次第をとる。そ の詞にいはく、   周防室積の中なるみたらひに風は吹かねどもささら浪立つ と。上人閑所に居て、信仰、恭敬して、横目もつかはず、まもりゐ給へり。この時に、たちまちに普賢菩薩の形 に現じ、六牙の白象に乗りて、眉間の光を放ちて、道俗、貴賤、男女を照らす。すなはち微妙の音声を出して、   実相、無漏の大海に五塵六欲の風は吹かねども随縁真如の波の立たぬ時なし と。 感 涙 お さ へ が た く し て、 眼 を 開 き て 見 れ ば、 ま た も と の ご と く、 女 人 の 姿 と な り て、 周 防 室 積 の 詞 を 出 す。 眼を閉づる時は、また菩薩の形と現じて、法門を演べ給ふ。   かくのごとくたびたび敬礼して、泣く泣く帰り給ふ時、長者、にはかに座を立ちて、閑道より上人のもとへ来 りて、 「このこと口外に及ぶべからず」といひて、すなはちにはかに死す。異香、空に満ちて、はなはだ香ばし。 長者の頓滅のあひだ、遊宴興さめて、悲涙することかぎりなし。上人、ますます悲涙におぼれて、帰路にまどひ けりとなむ。   かの長者、女人、好色のたぐひなれば、たれかはこれを権者の化作とは知らむ。仏菩薩の悲願、衆生化度の方 便によりて、形をさまざまに分ちて、示し給ふ道までも、賤しきにはよらざること、かやうのためしにて心得べ し。   性空は普賢菩薩をも大変、 尊敬していたようです。六牙の白象については、 『法華経』 「普賢菩薩勧発品」に、 「此 の経を読誦せば、我、爾の時、六牙の白象王に乗り、大菩薩衆と倶に其の所に詣りて、而も自ら身を現し、供養し

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守護して、其の心を安んじ慰めん」とあるのによるものです。ここの主題は、仏・菩薩の悲願の深さです。普賢菩 薩が謳った「実相、無漏の大海に五塵・六欲の風は吹かねども、随縁真如の波の立たぬ時なし」は、大変深い内容 を湛えているものです。仏の深い広大な心は、無明・煩悩の影響はまったく受けないけれども、苦しみに沈む衆生 という機縁に随って、ひとときも休むことなく救いの活動のために働いてやまない、という意味です。清浄無垢の 存在である仏は、その自分のあり方を消して、自ら苦海に降りてきて、衆生済度に余念がないというのです。この こ と は、 性 空 の 把 握 し た 仏 道 の あ り か を 示 し て い る も の で し ょ う。 ち な み に、 こ の 伝 説 が お 能 に 取 り 入 れ ら れ て、 謡曲の「江口」となっています。   参考までに、 『梁塵秘抄』には、 「草の庵の静けきに、持経法師の前にこそ、生々世々にも値いがたき、普賢菩薩 は見え給う」 「行住坐臥にこの経を、 読む人あらば隙もなく、 普賢遙かに尋ね来て、 縁をば結びたまいけり」といっ た歌があります。   こうして性空は実際に普賢菩薩に出会ったということになっているのですが、そのことにつながる次の話もあり ま す。 『 往 生 要 集 』 の 作 者 と し て 有 名 な 恵 心 僧 都 源 信 は、 や は り 性 空 を 尊 敬 し て い て、 二 人 の 間 柄 は 大 変 親 密 だ っ たようです。源信は 『往生要集』 の作者であり、 称名念仏でも救われることをはっきりさせた人といえます。なお、 『源氏物語』 の宇治十帖に出る、 浮舟を救った横川の僧都のモデルとして知られています。 その源信と性空との間に、 次のようなことがあったといいます。   此 の 上 人 は 無 智 の 人 な り。 法 文 い ひ て き か せ む と て、 恵 心 僧 都( 九 四 二 〜 一 〇 一 七 )・ 檀 那 の 僧 正( 覚 運。 九五三〜一〇〇七)などおはしまして、 「住果の縁覚は仏所へはいたるか」ととはれけるを、 「到るもいたらぬも い か に も 侍 り な ん。 無 益 な り 」 と い は れ け れ ば、 「 法 門 を 沙 汰 し て こ そ、 恵 眼 は 開 く 事 に て 侍 れ。 か や う の 田 舎

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に は 候 は じ と て 参 り て 侍 る 也 」 と い は れ け れ ば、 上 人、 「 か や う の 法 門 は、 普 賢 の お は し ま し て 解 脱 せ し め 給 ふ なり」と答ふ。時に恵心帰敬のおもひに堪へず、礼拝して、檀那に、 「此の聖 ほ め申させ給へ」と申されければ、 「身色如金山、端厳甚微妙、如浄瑠璃中、内現真金像」 (『法華経』 「序品」 )と伽陀を誦してをがまれけり。   源信らが教理の議論をしてこそ悟りの眼も開けてくるというのに対し、性空は普賢菩薩が問題を解決してくれる というのでしょう。普賢菩薩に出会えば、議論も何も要らないということだと思います。このような言葉は、実際 に普賢菩薩に出会っていたからいえる言葉だという感じがします。   ちなみに、性空は晩年のことですが、源信を書写山に呼んで、自分の持っていた書物を供養させています。性空 は源信に書物を供養させて、源信が帰っていく途中、亡くなるのでした。

性空上人と和泉式部

  性空を慕った有名な人に、和泉式部(生没年未詳。生年は九七七年ごろか)がいます。和泉式部がまだ若い頃の ことのようですが、一乗天皇の中宮である上東門院彰子(藤原道長の娘)が書写山に性空を尋ねたところ、性空は 行の最中だからということで、会わなかったといいます。そこで彰子の侍者であった和泉式部は、歌を残して山を 降りました。その歌は、   暗きより暗き道にぞ入りぬべき遙かに照らせ山の端の月 と い う 歌 で し た。 こ の 歌 は、 『 法 華 経 』「 化 城 喩 品 」 の、 「 衆 生 は 常 に 苦 悩 し 盲 冥 に し て 導 師 無 く、 …… 冥 き 従 り 冥 き に 入 り、 永 く 仏 名 を 聞 か ず 」 に 基 づ い て い る と 言 わ れ ま す。 こ の 歌 は、 鴨 長 明 に よ っ て、 「 言 葉 も 姿 も、 殊 の 外

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た け 高 く、 又 け し き も あ り 」( 『 無 名 抄 』) と 評 価 さ れ た ほ ど の 歌 で す。 仏 道 が 関 係 す る 歌 で は、 月 は、 一 般 に 真 如 を意味したりしますが、ここではいうまでもなく、その真如を体得していると見なされる性空その人を意味してい ます。性空は和泉式部にとっても尊敬のまとだったのです。   性空は、残されたこの歌を見て、一行を呼びもどして、種々教えを説き、和泉式部に対しては次の歌を返したの でした。   日は入りて月まだ出でぬたそがれに掲げて照らす法の灯   余談ですが、当時、熊野詣が盛んになっていました。特に後白河法王の熊野詣好きは有名です。当時の流行にあ やかったのか、和泉式部がのちに熊野に詣でたとき、月の障りとなって、私はお詣りできないと言い出したことが ありました。このとき熊野の神から、浄不浄を問わずお詣りしてさしつかえない、私はどんな人でも救うのだとい うお告げがあったといいます。   実は一遍もあとで述べるように、熊野の本殿に籠って、信不信を問わず念仏で救われるという極意をさずかりま す。ここで和泉式部と一遍とが結びつくので、のちに謡曲「誓願寺」が生れることになります。そこに性空は出て きませんが、私は性空を介しても、和泉式部と一遍とが結びつくように思います。そのことは、のちに述べたいと 思います。

一遍上人の伝記

  一 方、 一 遍 は 法 然 ─ 証 空 の 流 れ に 出 た 浄 土 教 家 と い え ま す。 一 遍 は 延 応 元 年( 一 二 三 九 )、 河 野 通 広 の 子 と し て

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伊 予 道 後 に 生 ま れ ま し た。 河 野 家 は 河 野 水 軍 と し て 世 に 名 高 い、 武 家 の 家 柄 で し た。 以 下、 『 一 遍 聖 絵 』 に よ っ て 記述しますと、宝治二年(一二四八) 、母の死に会い、のち仏門に入ったようで、さらに建長三年(一二五一) 、太 宰 府 の 聖 達( 証 空 門 下 ) に つ き、 以 後 一 三 年 間、 浄 土 教 を 学 び ま す。 弘 長 三 年( 一 二 六 三 )、 父 の 死 に あ い、 い っ たん伊予に戻ります。還俗して結婚もしたようですが、親類間にむずかしいことがあったようで、再度、仏道を志 し、また聖達についたと見られます。このとき、聖戒(実弟か義弟と見られる)と一緒でした。その後、弘長八年 ( 一 二 七 一 ) 春、 信 州 善 光 寺 に 参 詣 し、 こ の と き 二 河 白 道 の 図 を 写 し て、 伊 予 に 帰 り ま し た。 こ の 年 の 秋、 伊 予 の 窪寺にて念仏三昧の修行をし、そこで得た一つの深い肯き(己心領解の法門)を、 「十一不二頌」に表わしました。 そ れ は、 「 今・ こ こ で の 一 念 の 念 仏 の 中 に、 十 劫 の 昔 の 弥 陀 の 正 覚 と 一 体 化 し、 娑 婆 と 極 楽 も 一 体 化 し、 ま さ に 無 生 の 生 と い う 真 理 を 証 す る 」 と い う 意 味 の も の で す。 さ ら に 弘 長 十 年( 一 二 七 三 )、 伊 予 浮 穴 郡 菅 生 の 岩 屋 寺 に 参 籠します。このとき、聖戒は随侍して給仕するのでした。   これらの修行ののち、弘長一一年(一二七四)二月八日、超一・超二・念仏房を伴って伊予から摂津の四天王寺 に向かい、ここで参籠、自誓授戒し、以後、念仏札の賦算の旅に出ます。自分が納得し得た弥陀の救いを人々に伝 えようと、遊行に出立したのです。この四天王寺は聖徳太子が建立したものですが、その西門が極楽浄土に直結し ていると考えられていました。 『梁塵秘抄』にも、 「極楽浄土の東門は、 難波の海にぞ 対 むか へたる、 転法輪所の西門に、 念仏する人参れとて」 (一七六)とあります。そのような了解をふまえて、四天王寺を出発点に選んだのでしょう。   一 遍 の 旅 の 目 的 は 念 仏 札 の 賦 算 に あ り ま し た。 そ の 念 仏 札 に は、 「 南 無 阿 弥 陀 仏 決 定 往 生 六 十 万 人 」 と 書 か れ て います。この六十万人というのは確定した数字ということではなく、要は一切衆生という意味です。この六十万人 ということは、一遍の「六字名号一遍法、十界依正一遍体、万行離念一遍証、人中上々妙好華」という詩の各句の

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一番最初の字を取ったものともいわれますが、一方『一遍聖絵』 (橘俊道・梅谷繁樹『一遍上人全集』 )によれば、   仏力観成の要門は諸仏の大悲、ひとへに勤苦の衆生に ほ どこし、無常超世の本誓は如来の正覚、しかしながら 常没の凡夫にとなへて三祇の起行功を衆生にゆづり、六字の名号証を一念に成ず。かるがゆゑに、十劫の成道は 凡聖の境界を尽くし、万徳の円明なることは報仏の果号よりあらはれて、頓教の一乗、十界を会して凡をこえ聖 をこえ、一遍の称名、法界に遍じて前なく後なく、有識含霊みなことごとく安楽の能人、無極の聖と成ずる、他 力難思の密意をつたへて、一切衆生決定往生の記 をさづくるものなり。 とあります。記 とは、その人の未来について、必ずこうなると予言し保証するものです。つまり、一切衆生の往 生は決まっているということを伝えようとするのが、念仏札を配る意味なのでした。

一遍上人の熊野参籠

  そ の 後、 一 遍 は 高 野 山 か ら 熊 野 へ と 向 か う 途 中 で、 あ る 一 人 の 僧 に 念 仏 の 信 心 を 勧 め、 念 仏 札 を 受 け 取 る よ う 言 っ た の で す が、 そ の 僧 は 信 心 が 起 き な い か ら と 言 っ て 断 固 受 け 取 ら な か っ た の で し た。 し か し ま わ り に 人 が 集 まってきたりして、一遍はついに強引に手渡してしまったのでした。しかし一遍にとってはこのことが大きな問題 となり、ついに熊野本宮に参籠したわけです。以下、 『一遍聖絵』によって見ておきましょう。   この事思惟するに、ゆゑなきにあらず。勧進のおもむき、冥慮をあふぐべしと思ひ給ひて、本宮証誠殿の御前 にして願意を祈請し、目をとぢていまだまどろまざるに、御殿の御戸をおしひらきて、白髪なる山臥の長頭巾か け て 出 で 給 ふ。 長 床 に は 山 臥 三 百 人 ば か り 首 を 地 に つ け て 礼 敬 し た て ま つ る。 こ の 時、 「 権 現 に て お は し ま し け

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る よ 」 と 思 ひ 給 ひ て、 信 仰 し い り て お は し け る に、 か の 山 臥、 聖 の ま へ に あ ゆ み よ り 給 ひ て の 給 は く、 「 融 通 念 仏すすむる聖、いかに念仏をばあしくすすめられるぞ。御房のすすめによりて一切衆生はじめて往生すべきにあ らず。阿弥陀仏の十劫正覚に、一切衆生の往生は南無阿弥陀仏と決定するところ也。信不信をえらばず、浄不浄 をきらはず、その札をくばるべし」としめし給ふ。後に目をひらきて見給ひければ、十二三ばかりなる童子百人 ばかり来たりて、手をささげて、 「その念仏うけむ」といひて、札をとりて、 「南無阿弥陀仏」と申していづちと もなくさりにけり。   このように一遍は、信不信を問わず、一切の者がすでに救われているという世界があることを、ここにあらため て自覚したのでした。 『一遍聖絵』によれば、このあとで一遍が、 「大権の神託をさづかりし後、いよいよ他力本願 の深意を領解せり」と語ったということです。   こ の 体 験 は、 一 遍 に と っ て 画 期 的 な も の で あ り、 の ち に、 「 我 法 門 は、 熊 野 御 夢 想 の 口 伝 な り 」 と も い い、 あ る いは次のようにも言っています。   熊 野 権 現、 「 信 不 信 を い は ず、 有 罪 無 罪 を 論 ぜ ず、 南 無 阿 弥 陀 仏 が 往 生 す る ぞ 」 と 示 現 し 給 ひ し 時、 自 力 我 執 を打払ふて法師は領解したりと云々。常の仰なり。 (『播州法語集』 、五一)   したがって一遍の法門は、信によらず、意識の分別によらず、ただひとえに名号によって救われる道であり、そ の救いは一念の念仏のうちに機法一体となって、阿弥陀仏と成就するという独特のものとなっています。ちなみに 「頭の弁殿より念仏の安心尋ねたまひけるに、書きて示したまふ御返事」の中には、 「わが機の信不信・浄不浄・有 罪無罪を論ぜず、ただかかる不思議の名号をきき得たるをよろこびとして、南無阿弥陀仏をとなへて息たえ命をは らん時、必ず聖衆の来迎に預りて無生法忍にかなふべきなり」とあります。

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一遍上人の浄土教思想

  一遍においては、信不信を問わず、南無阿弥陀仏と唱えれば救われるされるのですが、なぜ名号を唱えれば救わ れるのでしょうか。それは、浄土教というものを詳しく解説しなければならないのですが、簡単に言いますと、ま ず、 『無量寿経』によれば、阿弥陀仏の本願に四八願がある中、第一八願に次のようにあります。   第十八願   たとい、われ仏となるをえんとき、十方の衆生、至心に信楽して、わが国に生れんと欲して、乃至 十念せん。もし、生れずんば、正覚をとらじ。 ですから、一〇回でも念仏すれば、極楽往生は間違いないはずです。 さらに、 『無量寿経』巻下冒頭に、次のようにもあります。   十方恒沙のもろもろの仏・如来は、みなともに無量寿仏の威神功徳の不可思議なることを讃歎したもう。あら ゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、ないし一念もせん。至心に廻向して、かの国に生れんと願わ ば、すなわち往生することをえて、不退転に住すればなり。 ですから、一回の念仏ですら、救われるはずです。 しかし『観無量寿経』には、次の句があります。   上品上生とは、もし衆生ありて、かの国に生れんと願う者、三種の心を発さば、すなわち往生す。なにをか三 心とす。一には、至誠心、二には、深心、三には、回向発願心なり。三心を具うれば、必ずかの国に生まる。   こ の こ と を ふ ま え て、 前 の 第 十 八 願 に 返 っ て 見 ま す と、 そ こ に も、 「 至 心 に 信 楽 し て、 わ が 国 に 生 れ ん と 欲 し て

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( 至 心・ 信 楽・ 欲 生〔 我 国 〕) 」 と あ っ て、 確 か に こ の 三 心 を そ な え て 念 仏 す る と き と あ り ま す。 実 は こ の 三 心 の こ とこそが、浄土教で大きな問題になっていくのでした。一遍もこのことを深く尋ねて、ついに次のような了解に達 し ま す。 善 導『 観 経 疏 』「 散 善 義 」 の 三 心 の 説 明 に 基 づ き つ つ、 至 誠 心 は、 自 己 の 心 を 捨 て て 弥 陀 の 本 願 に 帰 す る ことであり、深心は、自己の身を捨てて弥陀の本願に帰することであって、この二心はすなわち自己の身・心を捨 てて本願に誓われた名号に帰することだと解します。こうして、至誠心・深心と、心とあっても実はそれは名号に 帰することだというのです。   さらに廻向発願心も、名号を唱えるとき、それまで自力修行による多少の善根と名号に具わるあらゆる功徳とが 一つとなり、自己と阿弥陀仏が一体となることだといいます。ここも、名号に帰すること以外ではないということ が要点でしょう。   こ う し て、 三 心 を 具 え る と い う こ と は、 実 は 名 号 に 帰 す る こ と な の だ と い う の で す。 こ の よ う な 三 心 の 了 解 に よ っ て、 「 し か れ ば、 三 心 と い ふ は 身 命 を 捨 て、 念 仏 申 よ り 外 に は 別 の 子 細 な し 」( 『 播 州 法 語 集 』 一 五 ) と い う こ とになり、凡夫が至純の三心を具えなければならないという問題を解決したのでした。   以上のように、一遍は信不信を問わず名号さえ唱えれば往生できるのだという、単純でしかも力強い救いを強調 していたことを見ましたが、その様子を説く一遍の言葉を一つだけあげれば、次の法語があります。   又云、或人、浄土宗の流々の異義を尋申して、 「何にか付べき」と云々。上人答ていはく、 「異義まちまちなる 事は、我執の前の事なり。南無阿弥陀仏の名号には義なし。義によりて往生する事ならば、尤此尋は有べし。全 く往生は義によらず、名号によるなり。たとひ法師が勧むる名号を信じたるは往生せじと心には思ふとも、念仏 申さば往生すべし。いかなるえせ義を口にいふとも、 心に思ふとも、 名号は義によらず、 心によらざる法なれば、

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称すれば決定往生すると信じたるなり。たとへば、火を物に付んに、心にはやけなとおもひ、口にはやけそとい ふとも、此言にもよらず、念力にもよらず、只火のおのれなりの徳として物をやくなり。水の物をぬらすも、是 に同じ事也。然のごとく名号もおのれなりに、往生の功能をもちたれば、努々義にもよらず、心にもよらず、言 にもよらず、唱ふれば往生するを、他力不思議の行と信ずるなり。 (『播州法語集』 、八〇)   一遍はここで、教えの解釈(義)によって往生するのではまったくないといい、人がどのように考えあるいは言 うとしても、名号の「おのれなり」の徳もしくは功能によって、名号を唱えさえすれば往生するのだと強調してい ます。それは自己の思い・はからいを徹底して放下した、すがすがしい境地でさえあったでしょう。一遍と親鸞と は、名号と信心という違いはあるものの、どちらも自己の計らいを徹底的に放ち捨てて、弥陀の大悲に一切まかせ るという点では、共通のものがあると思います。

一遍上人の遊行の跡

  熊 野 で の 宗 教 体 験 を 経 て、 そ の 後 は、 一 所 不 住 の 教 化 の 旅 と な り ま す。 一 遍 の 最 晩 年 の 頃 の 歌 に、 「 旅 衣 木 の ね かやのねいづくにか身のすてられぬところあるべき」とある ほ どです。その間、次第に一遍についてともに旅する 者も増えてくるわけです。   熊野からいったん伊予に戻り、 それから九州の聖達のもとに行き、 以後、 九州をまわります。聖達にはこのとき、 前の「十一不二頌」の内容について、説明しています。また、大隅八幡宮(鹿児島県)に詣でて神示を受けてなっ た歌に、 「とことはに南無阿弥陀仏ととふればなもあみだぶにむまれこそすれ」があります。弘安元年(一二七八)

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以後は、中国地方から京都を経て、信州に向かいます。弘安二年、信州小田切の里で初めて踊り念仏が自然発生的 に行われ、 以後、 生涯にわたってこの踊り念仏を行じています。信州から東北に入り、 やがて弘安五年(一二八二) に は 鎌 倉 に 入 ろ う と し ま し た が、 時 の 幕 府 の 方 針 に よ り 果 た せ ま せ ん で し た。 そ の 後、 三 島 に 出 て、 尾 張、 近 江、 京都とまわり、さらには山陽地方にも足を伸ばしています。   弘 安 九 年( 一 二 八 六 )、 再 び 四 天 王 寺 に 参 詣、 さ ら に 磯 長 の 聖 徳 太 子 廟( 大 阪 府 南 河 内 郡 太 子 町 叡 福 寺 ) に 三 日 間参籠、不思議の事もあったといいます。   そのときのことを、 『一遍聖絵』によって見ておきましょう。   さて、太子御墓に参りて、三日参籠し給ふ。第三日、日中の後、御廟を拝し給ふ時、奇瑞ありければ、他阿弥 陀仏一人にしめしてかさねて日中の礼讃を勤行し給ふ。 ……高野大師の御記に云く、 「西土之三尊、 垂権跡於馬台、 東家之四輩、成菩提於安楽」と侍る事、おもひあはせられ侍りけり。   高 野 大 師 の 御 記 と い う の は、 空 海 の『 上 宮 太 子 廟 参 拝 記 』 と い う の が あ る の で す が、 実 際 は 空 海 の 作 で は な く、 後世の仮託のようです。その言葉の意味は、西方極楽浄土の阿弥陀仏三尊は、阿弥陀仏が聖徳太子の母、観音菩薩 が聖徳太子、勢至菩薩が聖徳太子の妃となって日本に現れ、この廟にお祀りされた。この国の出家 ・ 在家の男女は、 その導きのおかげで、極楽浄土に往生しそこで仏となることができる、ということです。   実は一遍がお詣りしたこの磯長廟から、平安時代中頃、大体一〇〇〇年の頃に『廟窟偈』というものが発見され ま し た。 そ れ は、 「 大 慈 と 大 悲 は 本 誓 願、 衆 生 を 愍 念 す る こ と 一 子 の 如 し 」 か ら 始 ま っ て、 や は り 太 子 自 身 は 救 世 観音、妻は勢至、母は弥陀である。真如と真実はもと一体であり、それが弥陀・観音・勢至の三つの姿になって現 われても、もともと同一の身である、と述べているものです。日本での縁が尽きたので西方浄土に帰るが、末世の

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衆生を救うために父母から受けた肉親を磯長の廟窟に留めておく。この地に一度参詣するものは必ず悪道を離れて 極 楽 に 往 生 す る と も い う の で す( 赤 松 俊 秀『 親 鸞 』 人 物 叢 書 六 五、 吉 川 弘 文 館、 昭 和 三 六 年 )。 実 際 は、 そ れ が 発 見されたといっている頃に、作られたものなのでしょう。とにかく聖徳太子は、極楽往生を実現してくださる観音 様として信仰されていたのでした。   そ の ほか 、 聖 徳 太 子 と 浄 土 教 に つ い て 、 少 し ま と め てお き ま す 。 前 に も 申 し た よ う に 、 聖 徳 太 子 の 建 立し た 四 天 王 寺 は 、極 楽 浄 土 と 対 面 して い る と 考 え ら れて い ま し た 。 ま た 、『 一 遍 聖 絵 』 に も 出 て く る の で す が 、『 四 天 王 寺 御 手 印 縁 起 』( 本 願 縁 起 と も い う ) と い う も の が あ っ て 、 そ こ に 、「 も し は 一 香 一 華 を さ さ げ て 恭 敬 供 養 し 、 も し は 一 塊 一 塵 を 以 て 此 の 場 に 抛 入 し 、遙 かに 寺 名 を 聞 き 、 遠 く 見 て 拝 忝 す 、斯の 如 き 等の 者 は 、 一 浄 土 の 縁 を 結 ぶ」 と あ り ま す 。 も ち ろ ん 本 当 に 聖 徳 太 子 が 印 を 押 し た も の で は な く 、 や は り 一 〇 〇 〇 年 前 後 の 頃 に 作 ら れ た も の ら し い で す 。   な お、 一 遍 が 比 較 的 早 い 時 期 に 参 拝 し た 善 光 寺 も、 聖 徳 太 子 と 結 び つ い て い ま す。 善 光 寺 の 本 尊 は 弥 陀 三 尊 で、 伝説によれば、聖徳太子と善光寺如来とが詩のやりとりをしたということです。その詩の内容によると、聖徳太子 も浄土教信者であったということになります。こうしたことから、善光寺と聖徳太子は一体となって、人々の極楽 往生を助けるとの理解が生れたようです。なお、寂心の『日本往生極楽記』でも、筆頭に聖徳太子があげられてい ます。   そのような理解もあって、やがて聖徳太子は信者どころか、弥陀三尊の一、救世観音の化身であるとさえ考えら れていったのでしょう。救世観音は衆生を極楽浄土に導いて下さる方で、親鸞も、 『皇太子聖徳奉讃』の和讃には、 「救世観音大菩薩、聖徳皇と示現して、多々のごとくすてずして、阿摩のごとくにそひたまふ」 「聖徳皇のあはれみ て、仏智不思議の誓願に、すすめいれしめたまひてぞ、住正定聚の身となれる」等があります。親鸞は聖徳太子の

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本地とされる如意輪観音を本尊とする六角堂に百日籠って、一つの夢告を得て、比叡山を下り、法然のもとに通い 始 め て、 つ い に 浄 土 教 へ と 入 っ た の で し た。 な お、 如 意 輪 観 音 は 救 世 観 音 の こ と と も 救 世 観 音 の 化 身 と も い わ れ、 この辺は若干錯綜していますが、ともあれ救世観音と同じ存在と見てよいのでしょう。

一遍上人の書写山参拝

  この磯長廟参拝の後、再度、山陽方面に旅をし、弘安一〇年(一二八七)に播磨(姫路市)の書写山に参詣した の で す。 で は 書 写 山 で、 ど の よ う な こ と が あ っ た の で し ょ う か。 よ う や く、 『 一 遍 聖 絵 』 の そ の 段 を 読 む 準 備 が で きたと思います。そこには次のようにあります。   弘 安 十 年 の は る、 播 磨 の 国 書 写 山 に 参 詣 し 給 ふ。 こ の 寺 の 縁 起 に 云 く、 「 大 聖 文 殊 異 僧 に 化 現 し て 性 空 上 人 に 誘へて云く、 「山名書写、 鷲頭分土、 峰号一乗、 鶏足送雲、 踏此山者、 発菩提心、 攀此峰者、 清六情根、 云々」 。又、 天人紅桜の木を礼して唱偈云く、 「稽首生木如意輪、能満有情福寿願、亦満往生極楽願、百千倶胝心所念」 。まこ とにこれ一乗純熟の勝地、 六根清浄の霊場也。ひじり渇仰のあまり、 本尊を拝したてまつるべき所望ありけるに、 「 久 修 練 行 の 常 住 僧 の ほ か、 余 人 す べ て こ れ を 拝 し た て ま つ る こ と な し。 後 白 川 法 皇、 承 安 四 年 に 七 日 御 参 籠 の 時、 本 尊 並 び に 香 水 の 巌 崛 叡 覧 あ り し ほ か は、 尊 貴 高 徳 を 論 ぜ ず、 か つ て 其 の 例 な き 」 よ し、 寺 僧 申 し け れ ば、 聖、 冥 慮 を あ ふ ぎ 祈 請 を い た し て、 四 句 の 偈、 一 首 の 歌 を た て ま つ り 給 ふ。 其 の 詞 に 云 く、 「 書 写 即 是 解 脱 山、 八 葉 妙 法 心 蓮 故、 性 空 即 是 涅 槃 聖、 六 字 宝 号 無 生 故 」「 か き う つ す や ま は た か ね の 空 に き え て ふ で も お よ ば ぬ 月 ぞすみける」 。本尊納受し給ひけるにや、寺僧ことさら評定して、 「この聖のことは他に異なり、所望黙止しがた

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し」とて、ゆるしたてまつりければ、紙燭さしてひとり内陣にいり給ふ。本尊等を拝したてまつり、落涙してい で 給 ひ け り。 人 み な お く ゆ か し く ぞ 思 ひ 侍 り け る。 聖 の た ま ひ け る は、 「 上 人 の 仏 法 修 行 の 霊 徳、 こ と ば も お よ びがたし。諸国遊行の思ひで、ただ当山巡礼にあり」とて一夜行法して、あくれば御山をいで給ひけるに、春の 雪おもしろくふり侍りければ、 「世にふればやがてきえゆくあはゆきの身にしられたる春のそらかな」 。   これによりますと、一遍は如意輪観音とも感応しうるような性空の霊的な高さを尊崇して、しかもその如意輪観 音像をどうしても礼拝したいと考えたようです。和歌の「かきうつすやまはたかねの空にきえてふでもおよばぬ月 ぞすみける」は、どこまでも性空を讃えるとともに、性空を月で表現したことは、やはり和泉式部の歌をふまえた ものでしょう。漢詩でも性空を大いに讃えていますが、後半に「性空即是涅槃聖、六字宝号無生故」というところ に は、 性 空 も ま た 名 号 に 基 づ い て 往 生 を 果 た し た 方 だ と 見 た よ う で す。 性 空 は ど ち ら か と い う と 法 華 行 者 で あ り、 『 日 本 法 華 験 記 』 に よ っ て も、 亡 く な る 時 は『 法 華 経 』 を 誦 し て 示 寂 し た と 伝 え て い ま す。 し か し 一 方 で 性 空 は、 胸の間に阿弥陀仏を彫顕していたともあり、如意輪観音に関するお告げから考えても、極楽往生をも心にあったこ とを推測してもけっして間違いとは言えないと思います。当時の天台宗の僧らの大半は、朝題目に夕念仏であった り、現世は法華に依拠し後世は弥陀を頼んだり、という仕方ではなかったかと思われ、死後については極楽往生を 望んでいたものでした。その代表が性空と親密な間柄にあった源信でしょうし、性空の弟子の平願もそうでした。   こ う し て 一 遍 は、 「「 上 人 の 仏 法 修 行 の 霊 徳、 こ と ば も お よ び が た し。 諸 国 遊 行 の 思 ひ で、 た だ 当 山 巡 礼 に あ り 」 とて一夜行法して、あくれば御山をいで給」うたのでした。この一遍の感銘の内容やその背景をあらためて考えて みますに、 私の考えですが、 もし性空が如意輪観音を感得した人でなくひたすら法華の行者であるだけであったら、 ど ん な に 霊 的 な 境 界 が 高 か っ た と し て も 一 遍 が 尊 崇 す る こ と は な か っ た で し ょ う。 や は り、 「 亦 満 往 生 極 楽 願 」 で

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ある如意輪観音と感応道交した方だったから、そこに感銘を深くしていたのだと思います。   その観音菩薩の礼拝は、六十万人決定往生、実は一切衆生決定往生を訴えようとした一遍を側面から支えたこと でしょう。しかも如意輪観音は、聖徳太子の本地と考えられているのです。聖徳太子もまた、一切衆生の極楽往生 を助ける存在であったわけです。   また、この如意輪観音を感得した性空は、六根清浄の修行者であるだけでなく、源信と深い交わりを持ち、また 和泉式部の精神的な支えでありました。その和泉式部は熊野の神に救われるのでしたが、その救いは一遍の信不信 を問わない救いとどこかでつながっていて、ゆえに一遍はそのような縁を性空に感じていたとしてもおかしくはあ りません。一遍は、書写山の僧以外では、後白河法皇のみがその本尊を拝したことを告げられたわけですが、その 後 白 河 法 皇 は、 聖 徳 太 子 が 始 め た と も い わ れ る 今 様 の 愛 好 者 で あ り、 『 梁 塵 秘 抄 』 は 遊 女 の 救 い、 ひ い て は 一 切 衆 生の救いが一つのテーマであったことをも、一遍は知っていたことでしょう。一遍はそうした、さまざまな、歴史 的に重層的な文化を背景に、書写山の本尊・如意輪観音をじかに礼拝したのであり、そのことが「諸国遊行の思ひ で、ただ当山巡礼にあり」という言葉になったのだと思うのです。   一遍はここで、一夜行法したとあります。念仏三昧に入る中で、ひそかに性空と対面したのかもしれません。あ るいは、読経し念仏してねんごろに供養したのでしょうか。翌朝、書写山を後にすると、春の淡雪がちらついたと のことです。そこで詠まれた歌が、 「世にふればやがてきえゆくあはゆきの身にしられたる春のそらかな」という、 どこまでも透明な、この世への執心をまったく離れてしまったような心境を示すのでした。このこともまた、書写 山のお詣りが自分のこれまでの生涯のすべてと ほ とんど同じ重さのものであったことを、示唆しているように思わ れます。

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最後の一遍上人

  こ の あ と、 一 遍 は 姫 路 市 白 浜 町 に あ る、 京 都 の 石 清 水 八 幡 宮 の 別 宮 で あ る 松 原 八 幡 宮 に お い て、 「 別 願( 弥 陀 の 第一八願)和讃」といわれる念仏の和讃を作り、弟子たちに与えます。その和讃は、   身を観ずれば水のあは、きえぬるのちは人ぞなき、命を思へば月のかげ、いでいるいきにぞとどまらぬ、…… ではじまるものです。無常感が、非常に美しい、透徹した文で語られています。時宗でもっとも重んじられる和讃 です。中に、   名号酬因の報身は、 凡夫出離の仏なり、 十方衆生の願なれば、 ひとりももるるとがぞなき、 別願超世の名号は、 他力不思議の力にて、口にまかせて唱ふれば、声に生死の罪きえぬ。 とあります。   そ の 後、 正 応 元 年( 一 二 八 八 ) に は 伊 予 に 渡 っ て 菅 生 の 岩 屋 寺 を お 詣 り す る な ど し て い ま す が、 一 二 月 に 愛 媛 県と広島県の間にある大三島の大山祇神社にお詣りしました。一遍の祖父も深く信仰した神社です。その翌年一月 に な っ て、 こ の 大 三 島 社 に お 仕 え す る 僧・ 長 観 に 夢 の お 告 げ が あ り ま し た。 そ れ は、 「 古 へ は 書 写 の 上 人、 こ の 処 にまうでて説戒ありしによりて、鹿の贄をとどめをはりぬ。今、一遍上人参詣して、桜会の日、大行道にたち大念 仏申す。この所にして衆生を済度せしめむとするなり。これに値遇、合力せざらん輩は後悔あるべからず」という ものです。しかもその地域で同じ夢のお告げを受けた人が、数人は出たといいます。そこで一遍はこの社に二月九 日 と い う こ と で す が 桜 会 に 招 か れ、 神 に 魚・ 鳥 な ど を 供 え る こ と を や め る べ き こ と な ど 説 き ま し た。 そ の 言 葉 は、

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人々が夢に見た言葉と寸分違わぬものだったのです。そこで人々は、   昔をおもへば、永観二年に叡山の湛延ならびに性空上人あひともに参詣し給ひて、七日説戒し、不殺生戒を授 けたてまつられし時、御宝殿振動して「随喜随云不殺」と唱へ給ふ御音ありき。それよりこのかた恒例の贄を留 め給ひて、仏経供養を行はるるところなり。いままた霊夢のつげ、昔にかはらず感応のおもむきあらたなるうへ は、…… といって、あらたな禁止事項を記録にとどめたということです。あらゆるいのちを大切にする精神が、性空と一遍 とによって強調されていますし、性空と一遍とが霊的に通い合っている、深い関係をみることができます。   このあと一遍は、 最終的に、 兵庫の観音堂に滞在します。すでに大三島社にお詣りする前、 正応元年(一二八八) の年に繁多寺にお詣りしたとき、三日参籠して、父からゆずられた、証空の訓点を記録した浄土三部経をこの寺に 奉納していますが、この観音堂でも、たまたまいたのかついてきていたのか、書写山の僧に持っていた少しの経典 をわたします。前に、磯長の太子堂におまいりしたあと、当麻寺にお詣りしていますが、このとき、かの当麻曼荼 羅を一夜にして織り上げたという中将姫が自筆で写した千巻のうちの一つ、 『称讃浄土経』 (阿弥陀経の異訳 ・ 玄奘訳) をその当麻寺の僧からもらっています。このとき書写山の僧に渡したものは、主にそれでした。さらに経典以外の 他 の 書 籍 等 は 焼 い て し ま っ て、 「 一 代 聖 教 み な つ き て、 南 無 阿 弥 陀 仏 に な り は て ぬ 」 と 言 っ た と の こ と で す。 そ れ は正応二年(一二八九)八月一〇日のことでしたが、その後、八月二三日に禅定に入るが如く往生したと伝えられ ています。今日の真光寺が一遍終焉の地とされています。神戸や姫路等、この地域一帯が、一遍と大変深い関係に あることがお解りいただけたかと存じます。

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むすび

  以上、書写山の一遍上人ということで、書写山を開いた性空上人と、一遍上人の若干の事績を中心に、ご紹介さ せていただきました。そこには、 法華と浄土、 観音と聖徳太子等々、 仏教思想 ・ 文化をめぐるさまざまな話題があっ た り、 『 今 昔 物 語 』 や『 十 訓 抄 』、 『 梁 塵 秘 抄 』 や お 能 の 謡 曲 な ど の 文 学 も 大 い に か か わ っ て い た り し て、 興 味 尽 き ないものがあります。しかも性空上人以来、特に一遍上人の劇的な参拝によって、書写山は実に一切衆生極楽往生 の祈りの場であるのであり、一切衆生の救いの祈りの場であるというべきです。その意味でも、書写山は姫路城に 勝るとも劣らない、貴重な文化遺産・歴史遺産だと思うのです。   本日は、雑ぱくなお話で恐縮ですが、以上にて、私のお話しを終わります。   ご清聴まことにありがとうございました。 (東洋大学文化講演会 in姫路、二〇一〇年一〇月一六日、姫路市市民会館)  

参照

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