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八丈島から旧南洋群島・ミクロネシア・北マリアナ諸島への「農場移民」--動態的民族誌として 利用統計を見る

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(1)

八丈島から旧南洋群島・ミクロネシア・北マリアナ

諸島への「農場移民」--動態的民族誌として

著者

對馬 秀子

雑誌名

白山社会学研究

13

ページ

13-27

発行年

2005

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00007553/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

(2)

白u刷会者蹄E第13号 2005

八丈島から旧南洋群島・ミクロネシア・北マリアナ諸島への「農場移民

J

一 動 態 的 民 族 誌 と し て 一

封 馬 秀 子 *

構 成 1 はじめに 2 問題の所在と意義 3 本研究の理論的枠組および概念の定義

4

八丈島と南洋の島々との関わり

5

日本の委任統治領南洋群島・ミクロネシアへの移民の歴史的背景 1) 日 本 の 統 治 以 前 (-

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年)

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日本の統治時代(1

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年)

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)

日本の統治以後(1

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年一) 6 八丈島民の移民の事例分析 1) 初期の開拓移民

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)

南洋興発の「農場移民j 3) 生活戦略としての「農場移民J 7 まとめ

1.はじめに

本稿は、大正末期頃から敗戦(1

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年頃""'-'

1

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5

年)までの問の、八丈島から日本?委任 統治領であった南洋群島・ミクロネシア・サイパン・テニアン島への「農場移民J を動 態的に描き、日本社会の地域研究における伊豆諸島南部の文化について考察を試みること が目的である。

2

.

問題の所在と意義

かつての八丈島は、 「鳥も通わぬ八丈島」と誼われたように、本土から隔たっている という地理的条件ゆえに幕府から流人の受入地とされたことは周知の事実である。しかし その一方で、近代までの八丈島が、小笠原諸島や南大東島の開拓と深く関わっていたこと 字 放送大学大学院修了 キl八丈島から南洋群島への移民は、その多くが南洋興発の開拓した農場への移民であるため、本 稿では「農場移民」という言葉を用いた。 何 ぺ υ ー

(3)

八丈島から旧南洋群島・ミクロネシア・北マリアナ諸島への「農場移民」 封馬 や、大正末期頃から敗戦までサイパン島、テニアン島なと、へ多くの「農場移民」を出して いたことは、流入に関する研究ほどには取り上げられることが少なかったようである。 また、伊立諸島は「日本社会の地域類型論」において北部(三宅島・御蔵島まで)と南 部(八丈島、青ヶ島)では、蒲生正男らによってその文化に違いがあることが示唆され、 近年の大林太良による文化領域説では日本社会を

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分類し、奄美と伊豆諸島南部は「ルー ス(l

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な社会構造を伴うJ地域と分類された。大林は、これを年齢階梯制の一変種と して、さしあたり特殊な地位を認め、より正確な位置づけは将来に期すとしている[大林 太良 1996:30-32J。本研究は、この「ルースな社会構造を伴うj と称される八丈島の 社会構造を明らかにしたいと考えたことに端を発する。 八丈島と大東島、小笠原、サイパン、テニアンなどの島々は、海流が強いことで知られ る黒潮の影響を受けるという地理的条件、日本の歴史における小笠原諸島の領有権問題、 南洋群島支配という植民地政策、日本の製糖業の開発・発展という経済的問題、戦争等々 によって関係していた。ここで述べる南・北大東島やサイパン島・テニアン島への「農場 移民」は、サトウキビ栽培のための労働力としてである。このような労働力の移動の歴史 は、国家という視野に立てば資本主義世界経済の成立や植民地形成と深く関わってきた。 ゆえに、現代の人の移動の形態を、ウォーラーステイン.Iが提示したように世界全体を 一つの社会システムとして中心・周縁という分析概念を利用して把握しようとした立場も ある。また、人の国際移動は、時代とともに増加し、移動の方向が、ヨーロッパ諸国から オーストラリアなどの被植民地へ、逆に被植民地であった諸国からヨーロッパ、中東の石 油産出園、オーストラリア、米国なと、へと多様化していると言われている[カースルズ、

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.

1996:1-106J。これは、人の移動が、ヨーロッパを中心とした場合、中心から周縁へ、 逆に周縁から中心へ、周縁から周縁へと変化してきているともいえる。ミクロネシアの島 々は、第一次世界大戦以後、日本が植民地として支配し、移民の送り先となった地である。 八丈島と南洋の島々の関係を、人の移動という視点から明らかにすることは、向島の地域 社会を考える上で意味があると考え、本論では移民を取り上げることにした。 また、従来八丈島関連の研究において、小笠原諸島、大東島、南洋群島への移民を動態 的にとらえた研究がほとんど見あたらないということからも、太平洋に点在するこれらの 島々を結ぶ移民について記録しておくことは、移民経験者が高齢であるという状況下では 重要かつ急務であると考える。このことは八丈島の移民史への貢献という実践的な意義も あるといえる。 以上のようなことから、本研究では八丈

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から日本の植民地・南洋群島への「農場移 民J を山下晋司の述べる「動態的民族誌」 として描き、かつ島の地域文化について考察 するのが目的である。 八丈島との関わりは、 1990年頃から東洋大学、松本誠一教授を代表とした八丈島研究会 に加えてもらい、 1991年11月23日の向島・三島神社の大祭に参加したのが最初である。以 本2時間的にも空間的にもマクロなシステムを射程に入れ,そのなかで社会と文化の動態を検討す る民族誌をめざしている。このマクロなシステムを視野に収めつつ,民族誌的理解を進めていく作 業を,私は動態的民族誌と呼ぶJとしている[山下、 1988:6J。 -14

(4)

-白Ll尉会朝派宛第13号 2005 来、年に2'"'-'3度、 3'"'-'4日という短期の調査を重ねてきた。本稿に関しては、 2002'"'-'2003年 にかけて短期間の聞き取り調査を

4

回行い、その後も継続的に調査を続けている。

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本研究の理論的枠組および概念の定義

人の国際移動に関するこれまでの理論には、 「プッシューフル」理論、 「世界システ ムJ論、 「労働市場の二元化j 論などがある[江淵一公 2000:299J。ミクロネシア・北 マリアナ諸島は、 16世紀初頭以来、ヨーロッパ諸国、日本、そして米国の自治領ιこして他 国の支配下におかれ、現在に至るも植民地状況下にある島々である。このことは、世界シ ステムからみると、ヨーロッパ、あるいは東京など大都市を中心とした場合にともに周縁 に位置し、資本主義形成期における中心、周縁という関係が成り立つといえるだろう。

①人の移動を表す用語について

移民とは、労働を目的に国境を越え他国に移り住むことである。ところが、移民 (migr an t)に関する用語には、入移民(immigrant)や出移民(emigrant)、あるいは、出稼ぎや在 留民(一時的滞在者)、移住者などの用語があり、その用法も暖昧なところが多い。江淵 一公によると、移民とは移住先を「本住まい」の場所に選んだ人であり、在留民とは「仮 住まい」の人々をいうとして概念的に区別し、 「本住まい」は祖国をすてて他の国に渡り、 その国の市民権を得て永住しようとする人々であり、 「仮住まい」は祖国を一時的に離れ るもので、いずれは帰還することを前提としている。だが、定住から一時的滞在へ、また その逆もあり両者の区別が近年暖昧になってきたと述べている[江淵一公、 2000:315J。と はいえ、移住に際して人は必ずしも永住であるのか、一時的滞在であるのか明確な目的を 持っているとは限らない場合もある。また、本論のように自国の統治権内の植民地や未開 拓地に移り住むことは植民とも呼ばれていたが、移民との区別はそれほど明確ではないと されている[若槻泰雄 1998J。本論では、本住まいか仮住まいかなどの区別もあるが、 これまでの資料に移民とされているのが多いため「移民」の用語を用いることにする。

②「プッシュープル」理論

移民に関する最初の体系的アプローチは、 19世紀の地理学者ラペンスタインの研究から 生まれ、そのなかで統計的に移民現象にみられる諸法則を発見したとある(Ravenstein,18 85;1889)[カースルズ、

s./

ミラーM.J,1996:20J。このアプローチの仕方が、今も残っ ている「フ。ッシュープル理論J として知られるものである。一般的に人の移動は、国家間 の経済格差や人口の問題があると考えられるが、人口過密な地域から人口まばらな地域へ、 開発の最も遅れている国の最貧者が最も金持ちの国に移動するのはまれであり、むしろ、 移民の多くは、経済的・社会的変動を経験している地域からの社会的地位が中流の人々で あり、宗主国・植民地の関係の他に政治的、貿易・投資、あるいは文化的結びつきなどの 宗主国と受け入れ固との聞の以前からの紳に基づいて発生する、と述べている[カースル ズ、

s./

ミラーM.J, 1996・22J。この文化的な要因とは、移民の当事者たちが同じ地域の 出身者、同じ文化的背景や宗教を持つ人々を求めるような場合であり、文化と政治経済学 との問には、相互作用が認められるという[イーズ.J.

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.

1996:99J。そして、本国と移 住先をインフォーマルなネットワークが鎖のように形成されることを「連鎖移民(chainm igration)Jとも呼ぶ、と述べている[カースルズ、

s./

ミラーM.J,1996:22J。 E d l

(5)

八丈島から!日南洋群島・ミクロネシア・北マリアナ諸島への「農場移民」 封馬

③「世界システム」論

本論で述べる「中心と周縁」とは、ヨーロッパ諸国を中心とした資本主義的「世界経 済j の生成史を追求する上で、ウォーラーステインが唱えた「世界システム」論の基軸と なった概念である。 それは、資本主義の拡大と浸透によって世界各地に広汎な分業体制が形成され、 「中 心J

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周縁J

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半周縁J という 3つの構成要素があり、そのなかで強大な国家機構を作り 上げた中心諸国は、それを利用して周縁や半周縁の余剰を吸い上げるという[ウォーラー ステイン. 1 2002:28卜282]。ヨーロッパ諸国は、周縁地域の労働や資源の収奪を正当 化することによって植民地を形成し支配してきたのである。世界システムで形成された旧 宗主国と旧植民地との経済的従属関係、文化的・言語的関係、血縁や地縁のネットワーク は、また国際移動の出現を促すことにもなる。イーズの述べるように、血縁や地縁関係を 頼つての移動や呼び寄せは、連鎖的にネットワークが形成されていくことになる。このよ うにして形成されたネットワークは,そのなかで人や物,資本が動くことにもなり、経済 的にも空間的にも大きく発展する可能性がある。世界システムにおける中心,周縁の関係 を一つのネットワークとしてみると、島慎地域を積極的に繋ぐということは、地理的制約 条件のマイナスへの作用要因をカバーできることにもなると考えられる。 次に、八丈島がどのようにして南の島と繋がっていったのかを島の歴史からみることに する。

4.

八丈島と南の島との関わり

まず地理的に、伊豆諸島は三宅島・御蔵島と八丈島の聞に古くから航海の難所と呼ば れた黒潮が流れることによって、南の島との関係が示唆されていた。それは近世の記録に ある漂着や漂流船からも考えられる。

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江戸時代の八丈島』によれば、八丈島から出た船 が漂流した場合、そのほとんどが伊豆半島、紀伊、四国、九州など西南の方へ流され、逆 にこれらの地域からは伊豆諸島に流れ着いたことが記録されている[東京都, 1990: 15ト1 62]。気候は、温暖多湿、亜熱帯性の気候であることから農業や漁業にも共通性がある。 さらに、頭上運搬や高倉など文化の面にも南の島との共通性がみられる。 政治 ・経済的にみると、近世における八丈島は凶作と飢餓の繰り返しであり、人口政策 と食料問題は島にとって死活問題であったために、幕府は早くから移出民を奨励していた。 最初の出島は、.1792年内地への出百姓であるが、次が小笠原の開拓である。 1593年に小笠 原貞頼によって発見されたとされる無人島が小笠原島と名付けられ、 1862年に幕府はこの 島の開拓のために八丈島から移民を募集したのである。最初は、 15組の夫婦が選ばれたと ある。政治的な配慮から、一時移民の引き上げがおこなわれたこともあるが、 1876年に移 民が再開され、明治末期頃には小笠原島民の大半が八丈島出身であったといわれている [八丈島誌、 1993:404-408]。また、当時の小笠原島は、無人島であったため土地は、肥料 を施さなくても作物が採れ、気候もよく、明治末頃までは移民の天国であった、といわれ ている[永久保満、 1973:99-100]。 次に八丈島出身の玉置半右衛門という人物による南・北大東島の開拓がある。南大東 -16

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-自は尉会学切開第13号 2005 島は

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年に日本の領土として正式に宣言され、彼が郷土である八丈島や小笠原島から

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名の開墾移住者を募り、開拓に着手したのが

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日であった。彼は、鳥島のアホ ウドリの羽毛で巨万の財を築いたことで知られている人物である。この南・北大東島は、 現在でも砂糖キビが主産業の島である。 大正末期になると,八丈島でサイパン、テニアン島への「農場移民」が始まった。 『八丈島誌』によれば八丈島から初めてサイパンへ渡ったのは、

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年、大賀郷村の浅沼 伝之助氏(単身)である。翌年には樫立村の大津徳右衛門氏他

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家族が移住していった。

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年、サイパン島のサトウキビの栽培に成功した南洋興発の「農場移民」の募集が 八丈島にも伝わり、その時の募集で南洋に行ったという人が多い。その後、敗戦までの聞 に多くの人が親戚を頼りに移住して行ったのである。こうして、八丈島と小笠原諸島、南 大東島という関係が形成されたことになる。 次に八丈島と南洋との関わりをミクロネシアに焦点をおき、歴史をたどりながら明ら かにしたい。

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日本の委任統治領南洋群島・ミクロネシアへの移民の歴史的背景

八丈島民の移住先の多くは、サイパン、テニアン島などである。向島と日本からの移 民の関係は、日本が

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年に南洋群島を委任統治領とし、

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年の敗戦までのことである。 このミクロネシアは、

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世紀初頭に西洋諸国に発見されて以来、植民地統治、委任統治、 信託統治の時代と他国に支配され続け、現在なお北マリアナ諸島は米国の自治領となって いる。ミクロネシアとは、西太平洋の赤道のほぼ北の海域に散在するマリアナ諸島、マー シャル諸島、ギルパート諸島とナウル島など、その数約

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の島々の総称であり、その 内の

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島に人(1

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年で約

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万人)が居住している。同島がどのように統治され移民が どのような状況であったのかを歴史をたどりながら明らかにしたい。 1)

日本の統治以前

移民の人達が「島には、裸の島人と服を着たチャモロが住んでいた」と言われるこれら の島を日本が委任統治するまでは、スペイン、 ドイツと二つの国の支配下におかれていた。 まず、スペイン時代(1

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年)は、

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年にマゼランがグアムを発見して以来、

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世紀までにこの周辺の島々がほとんど明らかにされた。北マリアナ諸島は、

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年にレガ スピが上陸し、翌日年スペインが領有宣言し、

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年、カソリックの布教活動が始められ た。このマリアナ諸島に、いつ頃どこから人が来て住み着いたのかについては、

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万年 頃前に南西アジアからフィリピンを通ってやってきたのではないかというのが通説とされ ている。このようにしてやってきた人達が、魚も果物も豊かな島に住み着き、何世代も経 て今日のチャモロ人と呼ばれる独特の集団になったとされている

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。さて、彼らに対するスペインの統治は、カソリックの布教が主であった。だが、 強制的な布教活動のために先住民との聞に争いが起り、スペイン政府は殺裁や、グアムや ロタへの強制移住を行ったのである。無住の地となった島に、

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年代初めにやってきて サイパンに村(後のガラパン)をつくったのはカロリン諸島からやってきたカロリニア人 (カナカ人)であった。 このようにしてスペインは、

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年の米西戦争に破れるまでの約

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年間にわたり、こ 円 48 1

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八丈島から旧南洋群島・ミクロネシア・北マリアナ諸島への「農場移民」 封馬 れらの島を支配下に置き、米西戦争に破れた結果、これらの島々のうちグアム島を米国に 譲渡し、その他をドイツに

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ペセタで売却したのである

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。 スペイン時代は、初めて西洋と接触した現地住民にとっては、宗教というイデオロギー の支配によって強制移住をさせられたり、その上西洋からもたらされた天然痘や梅毒など の病気によって人口が激減したり、被害が大きかった時代である。 次のドイツ時代は、

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年とわずか

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年と短いが、流血のなかった時代といわれ ている。

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年のマリアナ諸島には、チャモロ族

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人、カナカ族

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人、その他少数の 外国人を含めても約1,

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人であったと推定されている。ドイツ政府は、島の経済の中心 に農業をおき、島の生活基盤を整備した。そして、コプラ(ココヤシ)のプランテーショ ンを開発するために土地調査を実施した。土地の私有化を図ったのであるが、その際に母 系社会であったこれらの島を男性中心の小家族へと分割所有させたのである[須藤健一

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。さらに、燐鉱石の開発にも着手し、道路や用水、水路、港を整備し、病院や 学校などの諸施設を作った。ドイツの行政官フリッツ (G.Friz)は、チャモロやカナカ人 に対して、 「彼らは稼ぐ事も蓄財することも強く望まず、そのことが彼らの発展を妨げる。 彼らが生活で望むものは自然のなかにあり、わずかの労働しか必要としないj と記してい る

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。 このようにして、長期間にわたる西洋の支配を受けたのであるが、チャモロ人は徐々に 西洋の影響を受けたのに対し、カナカ人は西洋の影響をそれほど受けなかったようである。

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日本の統治時代(1

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年)

日本は、

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月、ドイツ領であったミクロネシアを日本帝国陸海軍が無血占領し て以降、敗戦までの問、委任統治領として支配した。この約

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年間は、日本陸海軍が占領 した初期、日本経済繁栄のため日本人で、膨れ上がった中期、太平洋戦争激化によって戦時 体制に組み込まれていった末期と大きく 3つに分けられる。

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年代、日本は初期の軍政 から民政に移行し、財政基盤の安定と日本人招致による産業振興を目的とする経済開発に 着手し、農業移民への土地提供のため、土地測量と登記制度を行い、島の人の共有地を南 洋庁の土地にしていった。

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年代になると日本政府の移民施策を受けた南洋庁は、本格 的な移民受け入れを始めた。その主要な事業は①産業試験場と水産試験場の新設、②大企 業に随伴する原料生産者としての農業移民の受け入れ、③島民の個人所有の土地調査を行 い、それ以外の土地の没収である[須藤健一、

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。 日本政府による南洋群島の統治は、島民には同化政策を強い、砂糖やリン、コプラな どの原料資源を生産するために移民の受入先としたのである。 ところで、日本人がミクロネシアに注目したのは

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年代頃からであるとされて いるが、当時は貿易が目的であった。

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年代後半には、アガニヤ商会、南洋貿易、清水 兄弟社などの商社が、グアムやサイパン、 トラック、パラオ、ヤップなどに支庖をおいて いた[今野敏彦

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。 しかしながら、サイパン、テニアン島が多数の日本人移民を受け入れることができた経 済的基盤は、なんと言っても南洋興発株式会社の功績が大きい。これには松江春次という 傑出した人物が存在する。松江は、 SugarKingと呼ばれるように砂糖の研究者でもあり、 一

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8-白UJl主会者旅先第13号 2005 企業家でもあったことにより、それまでサトウキビや綿花などの栽培で失敗していた南洋 の島を、南洋庁の財政を潤すほど栄えさせることができたのである。 松江がサイパン、テニアン島の開拓に乗り出すまでには、大阪の綿花王、喜多又蔵に よるヤシ栽培(1916年)、山口の豪商、西村惣四郎一族による製糖業(1917年)、これは 後に西村拓殖と改められている、南洋殖産株式会社による製糖業(1917年)などがある。こ のときに、それぞれの地元などから労働者を募ったのである。喜多は、島民約300人と山 形から労働者100人を入れた。次の西村は、山口、長崎から連れて行った。だが、このと きの労働者は漁夫上がりだ、ったため、半日漁業、半日百姓となったために、後に朝鮮から 400人の労働者を入れたとある。南洋殖産は、渋沢の同族会社や川崎肇らによる会社であ るが、この時の労働者を、小笠原から80戸、その他300人を入れたとある[今野敏彦 199 6:33-36J。これは八丈島から初めて南洋にわたったとされる1917年の記録と一致するの である。 しかしながら、これらの企業は、ことごとく失敗に終わり、松江がサイパン、テニアン 島開拓のための現地調査に訪れた時には、この初期の移民約1,000人が、餓死す前の状態 であったといわれている。松江の南洋開拓の決意をさせたものに、向島が鳥糞などで土地 が肥沃であることなど糖業に適しているという確信を得たことと、前述の移民の惨状があ ったといわれている。 この南洋の惨状をラジオで訴えた松江は、東洋拓殖会社の投資を得ることができ、資 本金300万円で南洋興発株式会社(以後興発と称す)をサイパンに設立した。こうして、 1 921年11月29日、近代的製糖・アルコール製造業が開始されたのである。松江は専務に就 いた。だが興発はすぐに成功したわけではなく、虫害にやられたり、港区にある砂糖の倉 庫が関東大震災で火災にあうなどの苦難を乗り越え、軌道にのるまで

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年の年月を要し ている。ところで松江は、労働力として前述のし000人の移民の他は、沖縄県から募集し た。松江には、最初から島民を使うという頭はなかったといわれている。 八丈島など沖縄以外から移民を募集することになったのは、一説によれば、 1927年

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月、 沖縄の労働者が賃金(当時の日当 1円20銭)の不払いをめぐりストライキをしたから、とい われている[野間口カリン 1996:89J。この事件が、 1927年頃に八丈島に募集がやって きた時期と重なるのである。その上、興発の農民募集は、 「畑が5""'6町歩もらえるという もの」であり、移住に際する渡航費や当面の生活費などの面倒をみるといった好条件であ ったことも移民の増加につながったと考えられる。 一方、南洋までの航路は、日本郵船株式会社(1885年創業)の船が担っていた。日本郵船 は国の保護の下、多額の補助を得ていたために、命令航路として南洋までの航路が開拓さ れたのである。そして,日本とミクロネシアまでの航路の重要な拠点となるのが小笠原の 二見港である。前に述べたが、小笠原には八丈島出身が多いのである。昭和7""'8年頃には、 八丈島にも直接寄航することになった。 こうして日本にとっては最後の植民地となった南洋群島は、下図に示したように最盛 期には日本人の人口が先住民の倍近い10万人近くまで膨れ上がった。そのうちの半数48,0 刊日本の法律に基づき1908年に朝鮮で設立された農業拓殖を主とする植民地統治のための国策会 社。 -19

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-八丈島から│日南洋群島・ミクロネシア・北マリアナ諸島への「農場移民J 封馬

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人ほどが興発関係の人であったとされている。当時の「農場移民」の数を、

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年南洋 興発が発行した「農場移民」の農場別名簿に基づいて計算し、表1.

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に示した。沖縄の次 に多いのが東京府(ほとんどが八丈島)で、当時は八丈島から南洋の移民が急増した時期 でもある。

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日本の統治以後(1

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日の対日講話条約の締結によって、日本は南洋群島に関する全ての在外資 産を喪失した。興発は、東拓という国策会社の援助を受けていたために、半官半民という 立場から、製糖業のための鉄道や工場が、すべて日本軍に徴用されていたが、それらのす べての財産を失った。松江の名は、

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からの「公務従事に適せざる者の公 職よりの除去に関する件Jという覚え書きの中の、公職追放者の名簿に記載されていた [野間口カリン,

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。 一方多くの移民は、サイパン、テニアンが、主戦闘地となったために戦時体制に巻き 込まれ「玉砕」した。民間人の死者は、引揚げ途中の死者も含めて「二万人近く」にのぼ ったとされている。そして、米軍収容所生活を経て帰還した日本人は、

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人であり、 そのうちの沖縄出身は

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人であったという[今泉裕美子,

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。 戦後のミクロネシアは、

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年に米軍の占領下におかれた後、

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年までは国 連の太平洋信託統治領として米国が信託統治した。

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年以緯は北マリアナ、パラオ、マ ーシャル、その他が、それぞれ個別に相互交渉した結果、

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年に現在のミクロネシア連 邦が発足した。以下、マーシャル連邦、パラオ共和国となったが、北マリアナ諸島は、 (グアムを除くサイパン、テニアン、ロタなど南端の

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の島からなる)米国の自治領とな った。人口は、約

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万人

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年)である。 日本とっては、この地から

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が飛び、原爆を搭載した爆撃機が飛んだという皮肉な運 命もある。 図1南洋群島の人口推移 10(001) 90000 80000 7ω00 60。曲 き棚田 .0000 30000 2岡 田 10000 日 本 人 ( 左 ・ 青 ) 、 ミ ク ロ ネ シ ア 人 ( 右 ・白) 注:横軸のト

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は、

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年から

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年である。

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年である。出典: (財)沖縄県文化振興会公文書館管理部資料編集室所蔵、

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の資料を転載。資料の出

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-自民国持訪問第13号 2005 所は、南洋庁『南洋庁施政 10年史~ 1932、11-12頁、玉城五郎「沖縄県人の海外移住発展史J W移 住あっせん所案内~ 1966、32頁とある。 表1.サイパン農場別人口 農場/人口 薦作人数計 八 丈 島 現 地 人 人 第一農場 288 17 第二農場 222 30 第三農場 222 55 7 第四農場 108 12 計 840 108 24 表2 テニアン農場別・県別人口 県 名 ¥ 第一農場 第 二 農 場 第 三 農 場 第 四 農 場 計 農場別 ソ ン ソ ン マ ル ポ ー ア シ カ ー カ ー ヒ 及 び チユーロ 沖縄県 40 82 29 57 208 福島県 22 30 6 39 97 宮城県 東京府下 26 18 3 19 66 山形県 15 29 4 16 64 栃木県 鹿児島県 15 39 2 27 83 宮崎県 4 岩手県 熊本県 2 愛媛県 朝 鮮 不明 14 1 5 計 122 204 44 174 544 資 料 :1932年南洋輿発株式会社の開拓記念写真帳を元に筆者作成。 東京府下は、すべて筆者が確認した八丈島出身者の数である。 1 0 y u

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八丈島から旧南洋群島・ミクロネシア・北マリアナ諸島への「農場移民J 封馬

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八丈島民の移民の事例分析

ここでは、移民経験者18例の事例から「農場移民」の概要を示す。

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)初期の開拓移民

筆者が聞いた最も初期の南洋との関係は、菊池E氏の父(明治21生)が、第一次世界大 戦直後の25、6歳頃の独身時代にリン鉱石を採りに南洋へ向かったという話である。この 時は、船の中で病気になり、父の兄が迎えに行き、途中で島に戻ったということであるが、 大正初期にすでに南洋の情報が八丈島にもたらされていたことがわかる話である。 滝川J氏(現在80歳代男性)の事例は、興発の前の西村殖産の時代である。 1915年に父 方の叔父が樫立村から初めてサイパンに渡った。その親戚を頼って1923年長男であった父 は、家を処分して、両親と子ども3人でサイパンに行った。当時の航海はlヶ月ほどかかっ た。サイパンの土地は、祖母の親戚の叔父の紹介で南洋庁の官有地・最北端にあるマッピ 第3農場、約5町歩半を1,000円ほどで払い下げてもらった。最初は炭焼きをしながら開拓 し、

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年後にサトウキビを作るようになった。島の人2人を雇ったが、当時の賃金はお金で はなく米なと、で支払った。その叔父は、マタンシヤ(サイパン島の地名)で庖を持ってい た。後には、母方の祖父もサイパンにやってきた。父方の叔父の 1人に、サイパンでグア ムの人と結婚し、グアムへ行った人がいる。彼は、 1939年に郵便局に勤め、 1944年に八丈 島の人と結婚し、 6月の米軍の上陸によって3ヶ月ほどその攻撃から逃げ回ったあと、捕虜 となり21年3月に八丈島に戻ってきたという。 2)

南洋興発の「農場移民」

南洋興発の「農場移民」の様子を、実際にサトウキビ栽培に従事していた菊池 I氏 (80 歳代男性)の事例でみることにする。 1927年の興発の募集で、彼が8""'9歳頃に両親と子ど もでテニアンに行った。船は宮城丸 (6,000トン)で、約 1週間かかった。 1940年の徴兵 検査を期に、島に戻るまでの13年間をテニアンで過ごした。出発するに当たって要した費 用については、子どもだったのでわからない。テニアンの土地は、着いた時にくじ引きで 決められた。すでに区画整理された土地、 6町歩を家族でもらえた。 6町歩の本小作になる には、大人の働き手の人数が決まっていたので不足の労働力は人夫を雇った。興発からは、 農場指導者が回ってきて、作付けや刈り取りなどの指導をしていた。ネズミ捕りlヶ月20 匹というノルマもあったという。畑を借りられるのは50歳までと決まりがあったが、父に は自分がいたので53歳まで借りることができた。農場を興発に返すと、畑の作柄や家の状 態を見て買い取ってくれた。彼の場合は、当時のお金で6,000円ほどであったという。 同じく興発の募集による移民で、菊池M氏(70歳代女性)の場合、両親と兄と母方祖父の5 人でテニアンに行った。父の兄がすでにサイパンに移民していた。 M氏の家族は、ソンソ ン(テニアン島地名)にある6町歩の畑をもらい、祖父と父、沖縄の人を人夫として砂糖 キビの栽培をした。父の兄弟や母の妹夫婦もテニアンに来て、それぞれ家を建てるまで一 緒に生活をしていた。八丈島の家は、父が土地の税金をテニアンから送金していたのを記 憶しているので、そのままだ、ったと思うという。 大津R氏 (80歳代男性)の事例では、 1914年頃、興発の募集で親戚関係15""'6人でテニア ンに向けて横浜港から八幡丸4,000トンで出発した。中之郷村だけでも20家族以上が乗っ q r u o r u

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白Ll尉会事帰E第13号 2005 ていた。彼はそのときは歳頃で両親と子ども5人の7人家族だ、った。すでに母方の祖父母が テニアンに渡っていた。移民するにあたっては、旅費や当座の生活費を支度金として貸し 付けてくれたのでお金はほとんどいらなかった。到着後は、抽選で土地を決められ、カー ヒー農場に6町歩の畑をもらった。家を建てる場所も決められていた。 6町歩の畑の内1町 歩を休ませて野菜などを植えた。沖縄の人を人夫として雇い、一年間1,000円ほどの収入 があったという。人夫の日当は当時 1円から l円20銭であった。 沖山 I氏 (80歳代女性)は、小笠原で生まれ6歳の時に八丈島に戻り、すぐに南大東島 に移住した。南大東島には、親戚の人が移住していた。 20歳の時に、八丈島の人と結婚し、 1928年21歳の時に夫の親戚がテニアンにいたので夫婦でテニアンに渡った。 I農場移民」 募集によるものであった。畑はカーヒー農場であった。生活は、 「酒保J (売庖)で帳面 で買えたので現金はいらなかった。果物が豊富で食べ物には困らなかったという。 沖山

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氏 (70歳代女性)の場合、彼女の父は、八丈島から36番目の大東島の開拓で、 193 2年に八丈島に戻り、 10年ほど後、彼女が15歳の時に大人が2人いれば畑が6町歩もらえる というので兄が

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人で行こうといったが、最終的に家・屋敷は親戚に預けて家族でいくこ とになった。 テニアンでは、彼女と兄で6町歩、両親と兄弟で6町歩の12町歩もらった。 興発から支度金を借りて、収穫から支払った。年に1,000円くらいの収入にはなった。 193 8年に八丈島の人と結婚してポナペへ行った。ポナペは、何を作るのも自由で夫婦で野菜 を作ったが、本当にいいところだ、ったといわれる。 浅沼T氏 (70歳代男性)の事例では、大東島で砂糖キビ栽培をしていたが、テニアンに いる伯父からの、同じ畑をやるなら南洋の方がいいという強い誘いの手紙で、大東島の家 を処分して渡った。土地をもらうまでは、親戚の家にやっかいになり、興発から6'"'-'7町歩 の畑をもらって、家を建てて独立した。確かに伯父の言うように、砂糖キビの太さが違い、 テニアンの方が立派だ、った。大東島での稼ぎがあったので興発の資金援助は受けてなかっ たようだという。米軍が上陸した後は、空襲のなかを親戚で一緒に逃げ回った後、収容所 生活を経て島に帰る。親戚の中には崖から飛び降りた人もある。チユーロにある収容所は、 食べ物も豊富で、収容所内に学校も作られ、彼の家族は興発の社宅寮に入れられたので生 活はよかったという。さらに、捕虜でも仕事をすれば賃金をもらえたのである。 伊勢崎0氏 (70歳代女性)の事例では、 1928年の募集で両親と子ども(本人の9歳頃)と 祖父と伯父夫婦でテニアンに行った。家・土地・畑は親戚に預けていった。第3農場カー ヒーに6町歩の畑がもらえた。祖父と伯父夫婦は、同じ農場に2軒分の12町歩をもらえた。 そこには中之郷村の出身者が大勢いた。 6町歩の内5反歩は必ず休耕地として、そこは自家 用とし、豚の飼育や某物や野菜などを植える。学校卒業後、興発の主任宅に住み込みで仕 事をしたあと、 19歳の時にサイパンにいた八丈島の人と結婚した。最初は畑をl町歩もら って夫婦でやっていたが、それを返してサイパンにいた夫の両親と住んだ。 13年間を南洋 で過ごし、夫の病気を期に1940年八丈島に戻ってきた。 最後にロタ島にいた太田氏 (70歳代男性)の例では、彼が2歳の時、 1934年に両親と3人 でロタに直接きた。最初は、興発の畑で砂糖キビをつくったが、オサゾウムシにやられ、 畑が駄目になったので、興発に返し1940年頃にタルガー海岸に移動した。そこは、大洋興 発という企業がパパイヤを栽培していた。パパイヤの液が石鹸の材料になる。ミツワ石鹸 n ︽ υ O F h

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八丈島から!日南洋群島・ミクロネシア・北マリアナ諸島への「農場移民J 封馬 であったので、盆と正月には石鹸がl箱12ヶ入り、小学生は半箱もらえた。 1941年頃に日 本の兵隊が上陸してきて野菜を作るようになったが、いい値段で売れた。サイパン、グア ム、テニアンにも野菜を送っていた。ロタは、米軍が上陸してこなかったので、サイパン やテニアンのような悲劇はなかったが、戦争当時小学生だ、った彼は、兵隊で軍にいた父に 会いに行き、飛行場で座って話していた所を空襲され、隣に座っていた父が殺されたとい

3)

生活戦略としての「農場移民」

八丈島の「農場移民jの事例からは、以下のようなことが考えられる。 ①島から島へと世代を経ての移動:小笠原で生まれ、八丈島、大東島に行き、さらにサイ パン、テニアン、ロタ,ポナペなと、へ移動している例が多い。筆者が調べた事例では、 7 例ある。このようなケースでは、始めに小笠原の開拓に就いた人(家族)に多く,その後 大東島、サイパン、テニアン島へと渡った傾向があり、世代を超えて移動が行われている。 ②親族の呼び寄せと強い相互扶助の関係:興発の募集如何に関わらず、ほとんどの事例で、 親戚を頼って移住し、また、親戚に頼られ面倒をみるというように親戚関係が鎖のように 繋がっていく。土地をもらい独自の家を建てるまでは、どこかの親戚宅に同居するという 親族問の相互扶助は重要である。 ③親族ネットワークの形成:年項になった子ども達の結婚相手は、同じ島の出身同士がほ とんどである。親戚関係を増やし、畑を増やし、サイパン、テニアン、ポナペなと、へ移動 が行われる。条件が良ければ、親族関係を頼って、場所(畑や島)を変えるなど活発な移 動が行われている。 ④永住か,定住かについて:移民に際して,永住することが目的かどうかは,本籍にある 財産や家をどのように処理するかの問題でもある。八丈島の事例では,財産や家,田畑を 親戚に預けていった場合や処分していった場合がある。また、次三男だけとは限らず,長 男も財産を処分して出て行った場合もある。特にここでは、小さい子どもまで連れて家族 での移住がほとんどである。そのために、残された家族に仕送りしたという話はほとんど なかった。家族で移住の要因には、南洋興発の「農場移民」募集は、大人2人で5'"'-'6町歩 の畑がもらえるということがあった。家族で移住について、小宮山

T氏 (

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歳代男性)に よると、徴兵検査の時に、結婚して南洋へ行けば畑が6町歩もらえるということで、南洋 へ行った人が大勢いた、といわれる。親子、兄弟、伯父・叔父などと組んだり,不足する 労働力は人夫を雇ったり、あるいは子どもが大きくなると親と子で独立して畑をもらった りしている。 また、戸籍は日本の植民地であったために八丈島においてあった。戦争が激化するま では,徴兵検査を八丈島に戻って受けていた。また、南洋興発の「農場移民」には定年 (52'"'-'3歳)があったために、それを機に商売に変わる人、八丈島に戻った人などがある が、興発は、畑を返すにあたり、家や畑を買い取ってくれたのである。 ⑤子どもの教育:植民地であったため、日本人の教育環境は整っていた。男の子は畑を継 いだという例は、事例のなかでは3例しかなく、実業学校を卒業して興発関連の会社に勤 める例がほとんどである。その外にもサイパン、テニアンを結ぶ航路の機関士、南洋ラジ オ新聞社、郵便局など仕事は多かった。また、高等教育を受けるために、子どもを積極的 -24

(14)

-叫 脳 消 腕 第13号 2005 に本土に戻している例もある。東京の大学に入り、八丈島で教員になった人が

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人いる。 子どもの教育に熱心であったこともあるが,これを可能にしたのは農場の収入がある程度 安定していたからといえる。佐藤T氏(70歳代男性)によると、戦前東京の大学で寮生活 をしていた自分に年

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円のお金を送ってくれたという。稲熊

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歳代男性)の 例では、祖父が和歌山出身、父が小笠原で生まれ育ち、本人も小笠原からサイパン、テニ アン、ロタと渡り、八丈島に戻ってから後に大学に入り教員になった例もある。菊池

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歳代男性)は、サイパンで実業学校卒業後、 「酒保jに就職、徴兵検査で八丈島に戻 り、そのまま同島で兵隊になった為に命が助かった例もある。 以上のように、本論での事例からは、生活の糧を得るための移動であっても、条件が良 ければ移動先はどこでもいとわないという態度が窺えるのである。これを筆者は八丈島民 の進取の気風、積極性の表出と考える。これは、生活戦略としての移民であり、それを可 能にしていたのは、カースルズが連鎖移民と呼ぶ親族関係のネットワークがあり、南洋と いう暖かい気候で食べ物が豊富であったこと、日本の植民地であったなど、様々な好条件 が重なっていたからと考えられる。

7

.まとめ

本研究では、 「農場移民j という人の移動形態を切り口に、八丈島というミクロな周 縁社会を山下の述べるマクロなシステムを射程に入れて考察を行ってきた。日本の植民地 への移動は、個人の自由意志か否かにかかわらず国際間の戦争や国家の移民政策とは切っ ても切れないことであるが、八丈島という地理的環境に根ざした要因が、時代の政治・経 済的な事情に影響されて人を送出してきた。さらに、その移動は、周縁から中心へ向かう だけでなく、周縁から周縁へと移動の範囲は広く、かつ積極的、発展的であり、島は決し て閉じられた空間として存在していたのではなかったといえる。このように、人の活発な 移動によって、年齢階梯制となる年齢集団組織が形成されにくかったのではないだろうか とも考えられる。また、八丈島の「農場移民jの事例からは、次三男はいうまでもなく長 男をも含め、世代を超えた人の移動であること、父方・母方双方の緊密な親族集団が人の 行動を促がす重要な要素であることが浮かびあがってきた。 以上のようなことから、本事例の「農場移民」に即していえば、大林が、年齢階梯制の 一変種として「ルースな社会構造」とし、そのより正確な位置づけは将来に期すとした八 丈島の地域文化をとらえる上で、社会組織のみならず親族集団の関係を詳細に見ること、 島の出来事をマクロな視点でとらえることの重要性が指摘できると考えられる。さらに、 伊豆諸島北部の人の移動、満州やその他の植民地の移民との比較ということが考えられる が、今後の課題としたい。 く 謝 辞 > 本稿は、

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年度放送大学大学院に提出した修士学位論文の一部であり、東洋大学の白 山社会学会修論発表会で報告したものをもとに書き改めたものである。 本稿作成までの10年に及ぶ調査期間の聞に、多くの方々にご協力いただきました。一々 お名前を申し挙げられませんが、何よりインタビューに応じ貴重なお話をお聞かせ下さり、 ﹁ 内 υ o y b

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八丈島から旧南洋群島・ミクロネシア・北マリアナ諸島への「農場移民」 封馬 記 録 す る こ と を 快 諾 し て 下 さ っ た 八 丈 島 の 方 々 に 心 よ り 感 謝 申 し 上 げ ま す 。 貴 重 な 資 料 や ご助言をいただ、いた八丈町役場、八丈支庁、東京都水産試験場八丈分場、南海タイムス、 琉 球 大 学 地 理 学 教 室 、 日 本 郵 船 博 物 館 、 日 本 離 島 セ ン タ 一 等 々 各 施 設 の 方 々 に 深 く 感 謝 申 し 上 げ ま す 。 ま た 、 修 論 で ご 指 導 い た だ き ま し た 放 送 大 学 大 学 院 の 江 淵 一 公 客 員 教 授 を は じ め 諸 先 生 方 や 仲 間 、 本 稿 へ の 機 会 を 与 え て 下 さ っ た 東 洋 大 学 の 松 本 誠 一 教 授 な ら び に 八 丈島研究会の仲間に深謝の意を表します。 <主要参考文献> イーズ、1.S./大出健訳、 1996、 「世界システムの展開と移民」青木保・他編、 『移動の民族誌』 岩波書底、 99-125頁。 飯高伸五、 2002、 「ミクロネシア研究における[植民地状況下の政治意識]J、 『社会人類学年 報』、 28号、 199-217頁。 今泉裕美子、 1993、 「南洋群島委任統治政策の形成j大江志乃夫他編・著『岩波講座近代日本と 植民地4 統合と支配の論理』岩波書庖、 51-81頁。 ウォーラーステイン、 I著/北村稔訳、 2002(1981)、

『近代世界システム論 I 、 II~ 岩波書店

江淵一公、 2002、 「グローパリズムと文化のダイナミズムJ、江淵一公・小野津正喜・山下晋司編 著、 『文化人類学研究一環太平洋のダイナミズムー』 放送大学教育振興会、 11-28頁。 江淵一公、 2000、 『文化人類学一伝統と現代 』 放送大学教育振興会、 298-324頁。 カースルズ、 S./ミラー、 M.J./関根政美/関根薫訳、 1996、 『国際移民の時代』名古屋大学出版 会、 1-70頁。 久米邦武、 1984、 「島人根性 J W 国民之友~ 14: 198-248頁。 今野敏彦・藤崎康夫編・著、 1996、 「南進への眼 J W移民史

E

アジア ・オセアニア編』新泉社、 l 5-41頁。 清水元、 1993、 「アジア主義と南進」大江志乃夫他編・著『岩波講座近代日本と植民地4 統合と 支配の論理』岩波書庖、 85-112頁。 杉原薫、 1999、 「近代世界システムと人間の移動」横山紘一・他編『岩波講座世界歴史19移動と 移民一地域を結ぶダイナミズムー』岩波書店、 3-51頁。 須藤健一、 2002、 「コロニアリズムと文化人類学一文化人類学の思想一」、江洲一公他・編著、 『文化人類学研究一環太平洋地域文化のダイナミズムー』放送大学教育振興会、 29-46頁。 永久保満編著、 1973(1937)、 『趣味の八丈島昔、』南日本新聞社刊行 野間口カリン、 1996、 iSugar King-松江春次の南洋開拓にかけた夢J W恵泉アカデミア』創刊号、 82-103頁。 マーク・ R.ピーティ、 1992、 「日本植民地支配下のミクロネシア」大江志乃夫他編・著『近代日 本と植民地1一植民地帝国日本』岩波書店、 189-215頁。 マーク・ピーティ、 1996、 『植民地』浅野豊美訳、読売新聞社、 276-301頁。 宮本常一著作集5、1978、 『日本の離島 2~ 未来社 山下晋司、 1996、 「序 南ヘ!北へ!一移動の民族誌 」山下晋司・他編著、 『移動の民族誌』岩 波書庖、 3-21頁。 - 26

(16)

-自は刷会明冴究第13号 2005 山下晋司・山下真鳥、 1997、 「植民地主義と文化j山下晋司・山下真鳥編・著『植民地主義と文 化』新曜社、 11-34頁。 山下晋司、 1988、 『儀礼の政治学 インドネシア・トラジャの動態的民族誌』弘文堂、 3-73頁。 若槻泰雄、 1998、 「移民J WCD-ROM世界大百科事典』第2版 日本デジタル平凡社 Hatton,Timothy.J./Williamson,Jeffrey G. 1994,“ What Drove the Mass Migrations from Euro pe in the Late Nineteenth Century?", PopulaUon and Developmenl Review, 20:3, pp.53 5-540. Don A.Farell. 1991,“History of the Northern Mariana Island", Public School Commonweall h of the Northern Mariana Jsland, pp.57-79. Scott Russell. 1999,“A Look Back at German Rule of the Northern Mariana Islands 1899-19 14", N.M.I Division of Hisloric PreservaUon Don A. Fare 11., 1992, “Tinian", Micronesian Produclion, CNMI, pp.11-23. 東京都八丈島八丈町教育委員会、 1993、 『八丈島誌』八丈島八丈町役場 東京都、 1964

r

江戸時代の八丈島一孤島苦の究明一』東京都編・発行、 15ト162頁。 n a t o F 白

参照

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またこの扇状地上にある昔からの集落の名前には、「森島」、「中島」、「舟場

I stayed at the British Architectural Library (RIBA Library, RIBA: The Royal Institute of British Architects) in order to research building materials and construction. I am

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たとえば,横浜セクシュアル・ハラスメント事件・東京高裁判決(東京高

今回のわが国の臓器移植法制定の国会論議をふるかぎり,只,脳死体から