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(1)

國恩記の私的検討

Rev.1 2017年3月31日 (

吉岡町の奥州街道図の修正)

2017(平成29)年3月15日

菅原 政治郎

1

1. 概要

2. 「國恩」とは

3. 地理的・歴史的背景

4. 時代的取り扱われ方

5. 詳細展開

6. 備考

註:本資料の内容の殆どは、「國恩記覚」(平成13年7月 1日、編著者吉田勝吉、非売品)より引用した。

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1. 概要

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江戸時代の、仙台藩黒川郡吉岡町(現宮城県黒川郡大和町吉岡)の篤志家、 菅原屋篤平治と穀田屋十三郎が、傳馬使役で疲弊した吉岡の町を何とか再生 したいと願い、二人の茶飲み話から話が展開し、藩に千両の金を差上げ、その 利子にて町民を救済した実話である。 時は明和三年(1766)から安永二年(1773)までの七年間(実際に町民が利金配分 の文書に最終署名したのは安永拾年(1781))で、この間、千両の金を工面する 際に願心仲間(篤志家)を如何にして増やし最終的に九人にしたかや、その過程 での篤志家達たちの苦労を、龍泉院榮洲瑞芝和尚が後世にその美挙を残こす べく記したものである。 その後、この遣り方は文化十一(1814)年に一度消滅するが、弘化二(1845)年再度藩に千両の金を納付して、その利子にて町民を救済している(國恩再興)。 それが大正時代に、仙台叢書第十一巻の一部「國恩記」として取込まれ、活字 出版された(仙台叢書刊行会、大正十五年(1926)出版)。 ちなみに 「國恩記」の内容は、既に磯田道史氏の著「無私の日本人」(文芸春秋、 2012年10月初版)の中の「穀田屋十三郎」と云う題名で出版されている。

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2. 國恩とは

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「國恩」とは、 (1) 「その国に生まれて生を全うし、身を安んじ得る恩。国家の恩」 (広辞苑) (2) 生まれ育った国から受ける恩。 (三省堂大辞林) 現代の人に取って理解が上手く出来ないのは、「国」と言う概念が「日本国」と捉 えるからと思われる。当時は幕府が政権を掌握し行政を執行していたため、 「日 本国」が一般庶民に福祉行政を行ったと言う事例が極端に少ないため、「国から 受ける恩」のイメージが湧かないためと考えられる。 このため、大和町史下巻から、対応する部分を抜粋すると以下の様ではないか と推察する。 「篤志家たちの義捐金一千両を藩庫(仙台藩陸奥国)に納付し、その(陸奥国から の)利金を下付してもらって窮民救済にあてたことを以て、國恩に潤って生を安ん じたものであり、この國恩は後々までも記録に留め伝えねばならぬ、という趣旨 に出たものであった。」 (朱記部分:菅原加筆)

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3. 吉岡町の地理的・歴史的背景 (國恩記覚 P52より引用)

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(1) 仙台藩を縦断している奥州街道は、五街道* 1に対し脇街道といわれた。 (2) 脇街道でも、街道の宿駅の制度が簡素で、宿場町の伝馬役*2や助郷役*3の負 担が軽いというものではない。 (3) 参勤交代で仙台藩領内の奥州街道を通過する大名は、国元の伊達氏のほか盛 岡の南部氏、八戸の南部氏、弘前の津軽氏、松前の松前氏などで、同じ奥州街 道でも羽州街道が合流する今の福島県内の奥州街道の通行量に比較すれば少 なかったと言えるが、それでも宿場町の発達が不十分な所では使役負担は大変 であったと言える。 (4) 奥州街道の吉岡宿(現:黒川郡大和町吉岡)もそのひとつであった。 (5) 吉岡町が黒川地方の中心になるのは、伊達政宗の三男宗清が吉岡入りをして から。彼は慶長十六年(1611)に黒川郡三万石の知行地を与えられ宮城郡松森か ら黒川郡下草に入る。下草には多賀城から北上する中世の奥大道(おくたいどう/おく のたいどう)*4の道沿いに城舘があったようである。 *1 五街道:江戸時代、江戸を起点とする東海道、中山道、日光道中、奥州道中(白河迄)、甲州道中(下 諏訪迄)の五街道は道中奉行の管理下におかれた *2 伝馬役: (宿場の居住者は、宿場を利用する人、物資のために馬と労役を負担していた。これを伝馬 役と言う。 *3 助郷役:しかし通行が多く宿場の伝馬役だけで不足した場合、宿場付近の農村から補助人馬を出さ せた。これを助郷役と言う。

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3. 地理的・歴史的背景(國恩記覚 P52より引用) (続き)

石巻 岩沼 中新田 岩出山 三本木 古川 名取 奥州街道 仙台 出羽街道 吉岡 富谷 松森 (現:仙台市 泉区松森) 下草 多賀城

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(6) 仙台城下町が設けられ整備されてくるにともなって、藩は藩の幹道を南の岩沼か ら真っすぐに北上させ仙台城下町に導入し、さらにこれを北上させた。これが近 世の奥州街道である。 (7) この街道に慶長後期から元和期(1615~1624)にかけて新しく宿駅が設けられた。 南から、増田宿(名取市)、中田宿(仙台市)、長町宿(仙台市)、七北田宿(仙台市)、 富谷新町宿(富谷町)、吉岡宿、三本木宿と設けられ整備された。 (8) 伊達宗清が下草から吉岡の地に移ったのは元和二年(1616)のこと。 宗清は居 舘・侍屋敷・足軽屋敷などを設け、また寺社の移転もおこなった。小城下町の建 設といってよいが、この小城下町は行政的には、今村という村のなかに設けられ たものである。村のなかの町というのは現在の行政制度からみるとおかしいと思 われるが、仙台藩では城下町以外は町があっても行政的には村のなかの町で あった。黒川郡今村の小城下町吉岡には、はじめ上町・中町・下町の三町が設け られ、伝馬町となったようである。 (9) 江戸時代街道筋の宿場町の町は、町役として伝馬役を負担していた。

3. 吉岡町の地理的・歴史的背景 (國恩記覚 P52より引用) (続き)

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*4奥大道 (おくのたいどう/おくたいどう) 古代の陸奥国の幹線的官道は、下野国から白 河関をこえて陸奥国に入り、陸奥国を縦に貫く 道である(東山道)。そのコースは,中世にも〈奥 大道〉などと呼ばれて、基本的に変わることなく 受けつがれた。それはまず阿武隈川の谷を北 上し、宮城・福島県境の厚樫(あつかし)山(阿津 賀志山)をこえて国府の多賀城に達し、そこから は奥羽山脈の東麓を北上して平泉に出、北上 川沿いに北進して蝦夷地に達する。 栖屋(せいや)郷(古代) 「宮城県地名考」では官道は宮城本郷,岩切,利府【り ふ】町菅谷【すげや】を経て黒川郡に入ったので,多賀国 府の駅家は菅谷の地であると述べている栖屋から菅谷 になったとするのがよいかと思われる 玉前(たまさき)郷(古代) 現在の岩沼市玉崎 篤借(あつかし)郷(古代) 現在の白石市越河 図及び文章は、渡辺信夫編『東北の交流 史』無明舎出版、1999年より引用 (世界大百科事典より引用)

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(10) 江戸時代初期から三町で構成される宿場町は、仙台藩では大きい方の宿場町。 それが江戸時代中期の安永三年(1774)の『今村風土記御用書出」によると、こ の三町に新田町と志田町が加わり、吉岡町(宿)五町となっている。三町から五 町への拡大は吉岡町の発展を考えるうえで重要である。 (11) 重要なもう一点。吉岡宿は奥州街道の宿駅だけでなく、当時出羽街道とよばれ た吉岡宿を起点とし中新田、岩出山を経て出羽の国(秋田県・山形県)に至る街 道の宿駅でもあった。 (12) 両街道が合流するため、吉岡宿はそれだけ宿駅の負担が大きくなった。江戸時 代後期に入ると一般の商品輸送が盛んになり、宿民の駄賃稼ぎの機会も増え たが、御定賃銭といって幕府が定めた駄賃で輸送する幕府や藩の官物輸送も 増えた。 (13) 一般商品や農村の商品が幹道の街道を通らず、脇道を通って輸送されることも しばしばで、幹道の宿駅の宿民は駄賃稼ぎの機会を相対的に失って行った。こ のようなことで次第に吉岡の宿駅も宿財政が窮乏し、宿民の生活も困窮して 行った。その時期は五町体制ができたころからのようである。

3. 吉岡町の地理的・歴史的背景 (國恩記覚 P52より引用) (続き)

(14) 他の宿と違い、吉岡町は仙台藩の宿老但木氏が采邑する土地であったため藩 からの伝馬補助が出なかった。

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3. 吉岡町の位置関係

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国道 4号 仙台方面 龍泉院 志田町 新田町 吉祥院 旧奥州街道 天皇寺 (宗清公 菩提寺)

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4. 時代的取り扱われ方 (國恩記覚 P14より引用)

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(曹洞宗)宝珠山龍泉院八世栄洲瑞之和尚が、 8年掛りで関連資料を収集し、安永二(1773)年3 月より「吉駅國恩記序」、「國恩記自序」を書き始め、「國恩記五巻」、「題國恩記後」とを記録した。 栄洲瑞之和尚の記録終了は安永三(1774)年1月である。 これ等は上下二重の文庫に納められた。上の重には國恩記正編五巻、帙入(ちついり)の袱紗(ふく さ)包。下の重には軸物三巻、それに起請文加代証文と願主九人への賞与のものなどで、これも 袱紗包。藩からの賞与は別袱紗とした。 これらを上下の重に組み重ねて、かけ蓋をする。真糸袋さなだ紐でこれを結ぶ。その上に錦の袱紗 をかけ、さらにその上に鍛子の袱紗で包み、木綿さなだで結ぶ。これを溜塗の箱に入れ、木綿風呂 敷に包み、さらに黒漆の箱に包む。こうして箱袱紗共に七重にして保管することにした。 (以下は栄洲瑞之の保管作業) これらの軸物・巻物は一応用済み のもので、また使うというものでは ない。けれども九人の願主たちの 浅からぬ志に感じて、これを粗末 に扱っては申しわけないと思って、 老いのつれづれのすさびに、この 様に営んで後世に残すことにした。 上の重 下の重 國恩記正編五巻 …… 軸物三巻 起請文、 加代証文、 賞与 藩よりの 賞与 帙入の 袱紗 袱紗 袱紗 かけ蓋 真綿袋

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4. 時代的取り扱われ方 (続き)

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修身図鑑 下 明治26年11月28日 発行 「吉岡義侠傳」大正13(1924)年4月 25日 発行 仙台叢書第十一巻の一部として「國恩記」 が大正15(1926)年 3月12日発行 吉岡町長(吉田潤吉氏)が(明治26(1893)年 12月28日)浅野屋の当主遠藤弥兵衛殿 より原本を借受、写本したものを佐澤 香雪氏が編集記載したものと思われる もの 保管者*5(最大の出資者:浅野屋甚内の子孫か?)の下に門外不出で、厳重 に保存されていた。 (目が潰れると言われ、一般には公開されて来なかった。) (年月日は、「国恩記覚」(平成13年7月1日、 吉田勝吉(非売品))より引用。) 願うところは、この文庫を預る人は、盗難に合わない様くれぐれも注意し、年々夏の土用には風 入れをし、防虫のための薬なども盛り替えるようにすべきである。小破にも手入れをし、大破した 時には、願主九人の子孫は、大金を投じてもこれを修補し、この老僧の願いを永く千載に伝えて 欲しい。そうして頂ければ、この老僧も草葉の陰で喜んでいるだろう。 *5:現在の保管者は、町長の様に読み取れる。

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4. 時代的取り扱われ方 (続き)

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修身図鑑 下 明治26年11月28日 発行

菅原篤平治等村民ノ為ニ儲金(ちょきん)ヲ 議ル図

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5. 詳細展開 (国恩記覚P15~より引用)

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(1)明和三 (1766)年3月5日の夜、町内穀田屋(高平)十三郎(47歳)が菅原屋篤平治 (35歳)宅に出かけて、茶呑み話のついでに、「世上浮沈、世の盛衰」など、あれこ れ話し合い、町内再興の方策を知恵者篤平治に聞いた。 (2)菅原屋篤平治の考えは、以下のもの。 千四五百両の金子を藩庁に差上げ、思召の利息を下賜されたいと願上げる。先年よ り他の宿駅(中新田、三本木宿等)には伝馬合力も下されている例もあり、利息のほ かに多少の加恩の可能性も有る。そうなれば、右の利息に取り合わせて、町内の伝 馬勤仕の屋敷に平均して配分することによって、永年宿場御用も滞りなく勤めること ができる。 (3)明和3 (1766)年8月、江戸幕府から関東地方の河川改修工事の命を受けた仙台 藩は、その費用を賄うために、領内の百姓まで借上(貸し上げ)を命じるに到った。 (4)篤平治と十三郎の両名は、計画に基く上納金の時期到来と考えたが、それに必 要な大金を工面する手立てが無かった

5.1 事の起こり

合力(ごうりき):共同労働の一形態。大きな荷物,道具の積出しや狩猟の場合に多くの労働者が 同種の労働をすること。金銭や物品を恵み与えること。 ブリタニカ国際大百科事典 貸し上げ:大名などに貸すという名目で金品を献上すること。

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(5)篤平治は大肝入(大庄屋)千坂仲内に願心を打明け、仲内はこれに全面的に賛 意を表した 。 (6)明和五 (1768)年5月、十三郎は養家督の音右衛門をつれて穀田屋十兵衛宅に 赴き、この願心を打明けて、これにも賛同を得た (7)十三郎・篤平治・肝入幾右衛門の三人が、浅野屋(遠藤)周右衛門方の振舞に 行った帰途、肝入宅で、篤平治が願心を幾右衛門に打ち明けた。幾右衛門は「こ れは希有の大願心である。自分の家財衣類を売り払い、その上夫婦で年季奉公 に出ても、それに加わることにしたい」と申し出た。 (この時点で、賛同(篤志)者は十三郎・篤平治・大肝入千坂 仲内・肝入幾右衛門・穀田屋十兵衛、寿内の6人。) (8)明和五 (1768)年7月末、石巻鋳銭御用を拝命した城下柳町の三浦屋惣右衛門は、 知り合いの穀田屋十兵衛と同十三郎に協力方を依頼した。 特に十三郎に対して は、家督の音右衛門を「座方締まり」のために派遣してくれるように懇請した。 (9)三浦屋の要請に応じて、11月3日、鋳銭場に到着した音右衛門は、同年12月1日 付の書状で、諸普請その他で出費が増大し、とくに当月の職人や材木等の諸支 払いに5OO両余の不足が見込まれ、その上、当年中に銭の吹きはじめが命令さ れるとさらに2OO両も不足するので、何とか55O両を工面して欲しいと、十三郎と 篤平治に頼み込んだ

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(10) 音右衛門は、利息はいくら高利でも結構だし、また希望とあれば、大願のため の基金を出資しても良いと申し出た。 (11)書状を受け取った十三郎と篤平治は、千坂仲内・幾右衛門・十兵衛・寿内に何 とか金子を工面して、大願成就の糸口としたいと説得した。その結果、1800切 (450両)を用意した。 (4切で1両) (13)明和六 (1769)年1月下旬、篤平治と十三郎は、鋳銭大目付鈴木伝兵衛の仮証 文を座元の直手形に引替えるために石巻に出張した。 (12)金の貸借に関して、鋳銭大目付鈴木伝兵衛との間で悶着が起きたが、伝兵衛 は「加金(くわえきん)請取」の仮証文を出し、鋳銭座元はこの金子を借用した (14)鋳銭座方の面々が惣列座の席で、伝兵衛から列座の衆中に仮証文の引替の 件が伝えられた。一同から「加金の儀」は座方の御法度であり、何故仮証文で 「加金の始末」にしたのかの詰問が発せられた。 (15) 伝兵衛は、「この時節に借用金が遅滞しては、鋳銭場の諸普請に支障が生じる し、又、吉岡の金主方は加金外の始末では一向承知しないので、加金にした」 と弁明した。 加金(くわえきん):或る事業の運用資金に対して、有志が出資すること

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(16)篤平治と十三郎は、「座方御法度は当方の存ぜぬ事。加金の始末、早速相出 ださるべきの由」 と厳しく申し立て、一先ず石巻の旅館へ戻った。 (17)三浦屋手代と音右衛門が篤平治と十三郎の説得に遣って来たが、逆に座元の 三浦屋惣右衛門に「加金證文」を出させる確約を取って吉岡へ帰った。 (18)二人は石巻の事情を篤志仲間に説明し、「加金證文」を受け取り、各々方へお 金をお渡しするので安心する様に説得した。 (19)明和六(1769)年春、鋳銭事業が日増しに盛んになっていることを聞き付け、篤 平治と十三郎は石巻へ下向し、三浦屋惣右衛門と対面。かねて念願していた吉 岡三町の救済計画について話をした。これに必要な大金は、吉岡だけでは調達 不可能なので、惣右衛門から借金し、その返済には毎年藩から下賜される金を あて、皆済した後に町中に配分したい、と申し出た。 申し入れを惣右衛門は了承して、金子を用立てることにした。 又、「鋳銭事業が盛んになれば規定の利付けで元利を手前に受け取る。 その上で改めて三浦屋惣右衛門に借金を申し入れる。その金を藩府に上 納、下賜される利息をもって、年々無利息で惣右衛門に返済する。 そうす れば、惣右衛門の方も余計な苦労をせず、また、仲間の志願の方もうまく いくと思うが、このような考えは如何であろうか」と説明した。 一同、賛同

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(20)明和六(1769)年4月、十三郎は、仙台城下柳町の三浦屋惣右衛門方へ出かけ、 近日中に「吉岡町御伝馬御合力願」を差し出す、ついてはその準備のために金 子を借用したいと申し入れた。 その結果2250切(562両2分)の受合証状を得た。尚、旧冬に鋳銭方に 用立てた18OO切の金は、利息を添えて惣右衛門から返済された。 (21)明和六(1769)年4月13日、十三郎と篤平治は、浅野屋周右衛門の父甚内方へ 出向き、合力願の進展の様子を話し、かつ、三浦屋惣右衛門の受合証状を見 せて、甚内にも出資を呼びかけた。甚内は殊の外喜び、「このことは亡父も生前 心がけていたことであった」と言って加代500貫文の受合証状を認めて両人に手 渡した。 (22)翌日4月14日、仲間が話し合い、三浦屋惣右衛門と浅野屋甚内の出資だけでは 藩への上納額に不足することが分り、甚内に更なる出資を依頼した。甚内は更 に500貫文を加えて、都合加代1000貫文(250両)の受合証状を認めた。 寛永二(1625)年の金相場、 金一両 = 銭四貫文 (この時点で、賛同(篤志)者は十三郎・篤平治・大肝入千坂仲内・ 肝入幾右衛門・穀田屋十兵衛、寿内、浅野屋甚内の7人。)

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(23)藩庁への御合力の出願に着いて、吉岡の采主「但木山城」の家中の大友軍次 に頼んで、首尾を内々調べて貰った。その結果、まちまちであった。 ― 古今無双の願なので正式に願出れば採納されるとみる役所もあり ― 余りにも立派な願なのでかえって心配だとみる役所 ― 永年「御上の御不益」になるので取り上げられないとみる役所 (24)明和七(1770)年10月8日、篤平治は富谷町の穀田屋八郎平に御合力願につい て城下の出入御屋敷方(侍)にそれとなく聞いて貰う事を依頼した。 (25)同日、千坂仲内宅で寄合い相談したところ、願通りに採納された場合に、下賜さ れる金を如何に処分するかという問題が出てきた。 ―下賜された金はすぐ町内に配分するのが最良である。 ― しかし、それでは、債権者の三浦屋惣右衛門に約束通り借金を返済できな くなる ― 町内に配分しないとなると、三浦屋への返済条件を知らない者は、合力金 が一銭も届かないなどと言い出しかねない (26)台所で話を聞いていた中町の伝五郎と下町の平八が口を挟み、「町内の事は 自分達で了簡する。心配なく相談するように。近日中に惣百姓から連判の証状 を受取って、篤平治達に見せる」と約束してくれた。 室町時代,農村で自衛上自治団体を形成したが,惣中掟,地下 (じげ) 掟など惣 (→郷村 制 ) の制定した規定に服属する一般農民を惣百姓といった。江戸時代は、本百姓のこと。

5.2 藩庁への出願準備

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(27)後日、吉祥院(智積院派寿福寺)に下町の平八・卯兵衛、中町の喜右衛門・伝五 郎・幸右衛門・利助、上町の利兵衛・忠右衛門の八人と篤平治が寄合った。三 浦屋惣右衛門への返済が終った後に、御合力の配分にあずかることに決定 (29)明和七(1770)年11月1日、穀田屋八郎平より篤平治へ回答有り。 ― 早速願書を提出した方が良い ― 6000貫文を上納すること (1500両) ― そのうち4000貫文は即座に差上げる (1000両) ― 残りの2000貫文は冥加として、来春の参勤前に上納する手はずで 願出るように (500両) (28) 篤平治が寄合の結果を浅野屋甚内に話し、加代證文に不備があったので書直 しをお願いしたところ、更に500貫文を出すと言った。篤平治が一人の加代とし ては多すぎると断ると、「亡父が年来志願していたこと」として、都合1500貫文 の受合証状を認めた。 (375両) ⇒ この時点で 937両準備 冥加:冥加金の事。江戸時代,商工業者に課せられた営業税。本来,営業に対して特別 の恩典を与えられた報恩として,業者から幕府,藩に献納するものであったが,金 納で永続的であったため,税の一種とみなされ,一定の率を定めて毎年課せられ ることも多くなり,運上と混同されるようになった。

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(30)篤志者を募る中で、新たに穀田屋善八が2OO貰文の出資で願主仲間に入れて くれるように十三郎方へ依頼して来た。その他に、早坂屋新四郎を3OO貫文の 出資で願主仲間に入れることにした。⇒ 1062両準備 (31)明和七(1770)年10月11日、穀田屋善八と早坂屋新四郎から「加代証状」が提 出された。 申 合 証 状 の 事 一 代 三 百 貫 文 此 度 各 方 御 大 願 成 さ れ 、 吉 岡 町 三 カ 町 御 百 姓 中 潤 い の 為 、 永 御 合 力 代 御 上 様 へ 献 納 成 さ れ 候 に 付 、 拙 者 事 も 加 代 仕 筈 申 合 候 。 右 願 相 済 候 わ ば 、 早 速 献 納 仕 る べ く 候 。 末 々 三 カ 町 よ り 御 返 済 申 受 候 儀 御 座 な く 候 。 右 代 御 手 伝 仕 候 。 仍 て 件 の 如 し 。 明 和 七 年 寅 歳 十 月 早 坂 屋 新 四 郎 (この時点で、賛同(篤志)者は十三郎・篤平治・大肝入千坂仲内・肝入幾右衛 門・穀田屋十兵衛、寿内、浅野屋甚内、穀田屋善八、早坂屋新四郎の9人。)

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(32)近日中に願書を作成して、藩に提出する運びとなり、千坂仲内は、同志を自宅 に呼び集め、厳粛に以下の様に申し伝えた。 願書を提出した後に、万が一にも金銭上に間違いが生じた節は、それぞ れ「家財衣類は申すに及ばず、家屋敷妻子までに相別れ候事」もある。そ の際、妻子に二心が生じないように前もって納得させた上で、願書を提出 しなければいけない。私の場合は妻子にもよく言い聞かせて、たとい年季 奉公人になっても異存のないことを確認してある。各人もその点をよく考慮 して、それぞれ間違いなく協力するように。 同志はそれぞれ家内の覚悟のほどを口上書にして仲内に提出す ることになった。 如 何 成 難 儀 の 上 、 本 家 末 家 ま で 相 禿 れ 候 共 少 も 愁 え ず 、 如 何 様 の 貧 苦 仕 候 共 、 少 も 後 悔 御 座 な く 候 。 急 度 覚 悟 仕 候 十 兵 衛 口 上 書 の 例

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(33) 千坂仲内は、町内から異心の者が出てくることを恐れ 藩から金が下賜されても、それはまず三浦屋への借金の返済にあてられ、 町内に配分されるまでには年数もかかるので、その間に、町内から異心 の者が出てくることを恐れた。そこで、このような心配をなくすために、町中 から連判の証状を出させることにした。 此 度 各 様 御 願 心 に て 、 三 町 潤 の た め 御 上 へ 差 上 金 成 置 か れ 、 御 利 足 頂 戴 配 分 成 し 下 さ る べ く 御 吟 味 、 惣 御 百 姓 何 も 添 き 次 第 に 存 じ 奉 り 候 。 右 指 上 金 足 目 通 に 、 三 浦 屋 惣 右 衛 門 殿 よ り 金 二 千 切 、 各 様 御 借 用 成 さ れ 、 返 済 の 儀 は 、 毎 年 上 よ り 下 さ れ 候 御 利 足 を 以 て 無 利 足 な し 崩 し に 成 置 か れ 、 皆 済 の 後 、 三 町 内 へ 配 分 の 御 吟 味 、 委 曲 承 知 仕 候 。 右 品 々 疾 と 相 心 得 居 、 返 済 相 成 ら ざ る 内 、 万 一 往 還 の 御 役 人 様 方 な ど 、 御 合 力 金 の 儀 御 尋 も 御 座 候 わ ば 、 相 違 な く 下 置 か れ 、 町 内 潤 に 罷 成 、 諸 人 快 く 御 伝 馬 御 用 相 務 め 、 有 り が た き 仕 合 に 存 じ 奉 り 候 趣 、 申 上 ぐ べ く 候 。 右 相 違 な き 為 、 三 町 内 御 百 姓 連 判 を 以 て 、 此 の 如 く に 御 座 候 。 以 上 明 和 七 年 十 月 二 十 三 日 三 町 惣 御 百 姓 連 中 千 坂 仲 内 殿 幾 右 衛 門 殿 周 右 衛 門 殿 寿 内 殿 篤 平 治 殿 十 三 郎 殿 十 兵 衛 殿

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5.3 藩庁への出願 その1

(34)千坂仲内・幾右衛門・篤平治の三人は、願書に代官の末書を受けるべく、中新 田村の代官屋敷に出向いた。ここで代官橋本権右衛門の末書を付けて、同役 の八島伝之助へ願書を提出した。この願書は、明和七 (1770)年12月、代官⇒ 郡奉行⇒出入司の順で上達された。 (35)この願書は、明和八 (1771)年1月7日、特別の理由もなく、吟味なりがたしとして、 郡奉行今泉七三郎の付書をもって、返却されてきた。 (36)翌日1月8日、千坂仲内は、急ぎ篤平治を呼び相談。その結果、「大願の儀一度 二度申上候とて」すぐ採納されるはずもなく、また願主仲間(他の篤志者達)に知 らせて直訴などされては、今後願書を提出する際の支障ともなるので、仲間に はもちろん町内へもこのことは伝えないことにし、仲内と篤平治の二人だけで善 後策を講じる。 (37) 4月に仲間が聞きつけ、又6月には町内にも知れ渡ったが、町の老人たちの説 諭によって事無きを得た。 末書:基の本を祖述した本。また、 それを注釈した書

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5.4 藩庁への出願 その2

(38)明和八 (1771)年6月3日、千坂仲内は代官橋本権右衛門の役所に出かけ、前 記のような「吉岡町御合力願」の内情を訴えた。代官もこれを了承し、再び郡奉 行の今泉七三郎と内談する運びとなった。 (橋本権右衛門は、本願心については非常に好意的・協力的であった) (39)橋本権右衛門は出府して、城下逗留中に出入司の萱場杢(もく)と会見。 (40) 萱場は「此の御時節柄を見込み、徳取勝手その様に相聞え候に付き、御吟味 成させられがたく、願書を相返」したと却下の事情を説明。 (41) これに対し、代官の橋本はそのようなことはないと明確にこれを否定し、かつ、 これは願主仲間が数年来心掛けていたことであるとして、特に、浅野屋周右衛 門の亡祖父の存命中の願心とその準備の様子などを詳しく話し、萱場は感動。 出入司(しゅつにゅうつかさ):仙台藩の職 名で、領内の財政・民政を司った (42) 萱場の対応⇒「 年来心願致し候儀、願主共の親切、申すべき様之なく候。早速 願相調べ差出申すべく候 」⇒事態は大きく動いた。

(25)

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5.5 藩庁への出願 その3

(43)明和八 (1771)年11月、代官橋本の内示に従って、願主仲間は吟味し、その結 果、「五千貫文の高に献納代仕り、右代御貸付成共成下され、何程にても御利 足通を以て、永々吉岡町御用捨に下置かれ候様、成下され度、願上奉り候」と、 再び願書を提出した。 (44)ところが、「銭にては御上にて、御取扱も御難しく思召され候間、金子にて千両 の高に差上申候様は罷成るまじきや、右候わば、御吟味も成下さるやと、出入 司衆、仰談られ候問、吟味仕り申すべし」という内意が代官から伝えられた。 (45)明和九 (1772)年1月12日、 「銭にて指上候ては、御取扱御難しく候問、金に直し 千両の高に差上候様」にと、付札をもって願書が返却された。 銭で1000両の額にするには、当時の銭相場が一切につき1450文であることから、なお 8OO貫文不足であった。その不足分のうち、5OO貫文は又々甚内が負担することを申し 出た。そこで残りの300貫文は願主仲間が何とか工面することになった。こうして、浅野 屋周右衛門と父甚内は、前後通計して実に2000貫文の出資(500両)を約束したことにな る。

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(46)しかし、金での上納は不可能であったので、当時の銭相場を勘案して、銭で 5800貫文(金千両分)納めることにした。そのうちの2500貫文は下知次第に上納 し、残りの3300貫文は、四月初めまでに皆済する旨の願書を作成して、明和九 (1772)年1月に提出した。 (47)2月になり、代官橋本権右衛門から大肝入千坂仲内宛てに願主のうち一人を至 急仙台屋敷へ出頭させるようにとのことで、早速幾右衛門・十三郎・篤平治の三 人が派遣された。 (48)2月18日朝、幾右衛門・十三郎・篤平治の三人が代官橋本に面会すると、「願書 中の「献納代」を「指上代」と訂正することと、時相場をもって上納すること」、の 二点が命ぜられた。 (49)書面を訂正し、金1000両分の銭のうち、1620切分は下知次第、2120切分は4月 初まで、残りの260切分は7月末から8月中旬までの間に、分割して上納するこ とにした。 (計4000切)

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(50)明和九 (1772)年2月22日、 四度目の願書を代官に提出。 (51)願書は代官から仮郡奉行へ上申され、さらに郡奉行から出入司へ、出入司から 奉行へと伝達された。

5.6 藩庁への出願 その4

「 右 千 両 分 の 代 上 納 仕 候 わ ば 、 御 貸 方 倍 金 の 利 分 を 以 、 当 暮 よ り 永 々 御 町 中 へ 御 用 捨 下 置 か れ 、 御 百 姓 相 続 仕 り 永 く 御 町 役 も 相 勤 申 様 成 下 さ れ 度 願 上 奉 り 候 。 い よ い よ 以 て 願 の 如 く 成 下 さ れ 候 わ ば 、 今 村 吉 岡 町 御 年 貢 金 の 内 を 以 て 、 御 用 捨 に 下 置 か れ 候 様 成 下 さ れ 、 若 し 同 村 御 年 貢 通 に て 不 足 の 儀 も 御 座 候 わ ば 、 近 村 御 年 貢 金 の 内 に て 下 置 か れ 候 様 成 下 さ れ 度 願 い 奉 り 候 」

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(52)待望の、大町将監ら五奉行連名の下知が届いた。 「 追 々 申 聞 趣 に 異 儀 な く 候 条 、 願 の ご と く 代 相 納 め さ せ 、 御 蔵 元 へ 相 預 け ら れ 、 倍 合 の 御 始 末 成 下 さ れ 、 御 蔵 元 よ り 利 潤 、 年 の 暮 直 々 御 代 官 に 引 渡 、 村 方 御 用 捨 成 下 さ れ 候 首 尾 之 あ る べ く 候 」 この下知はまず出入司に伝えられ⇒勘定 奉行⇒郡奉行⇒代官⇒仮大肝入の順で 地元に順達されてきた。 この下知によって、藩に上納する1000両分の銭は、月八厘の利息付き で蔵元に預けられ、毎年、その利息が年の暮に蔵元から村方へ下賜さ れることになった。 毎年、約96両払い下げの計算 (= 1000×0.008×12) 下知が病気中の大肝入千坂仲内に伝達されたのは、明和九 (1772)年7月 1日。願主仲間の六年間に亘る努力が報われた瞬間であった。

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(53)上納金1000両の調達が当面の問題となる。

5.7 上納金の調達

①願主仲間の内、貯えを以て上納出来るのは浅野屋周右衛門・新四郎・ 善八の三人だけ ②残りの六人は「兼て困窮、貯も之れなき者共」であった。彼等は鋳銭座 元の三浦屋惣右衛門から借金して上納する手はずになっていた。 (54)明和九 (1772)年7月3日、千坂仲内は篤平治と十三郎を呼び、三浦屋惣右衛門 から借用する金の件について話し合った。 ①若し三浦屋が無利足2000切貸与の件を違約した場合には、石巻の旅宿 で三人ともに自害する覚悟を決めた。 ②三人連署の肝入宛遺書を石巻へ持参ることになった。但し、仲内は病気 のため、肝入幾右衛門に替わった。 明和九 (1772)年7月8日、召使2人を連れて、都合5人決死の覚悟で、三 浦屋惣右衛門の旅宿へ行った。 (55)去る明和七 (1770)年11月に約束した金子の恩情を願い出た。三浦屋惣右衛門 は「何時にても御用次第、御城下にて2000切御手渡仕るべく候」と即答。

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(56)三人は、2000切借用の件については安堵した。しかし、銭相場の下落によって、 なお125両不足であった。 (57)更に三浦屋へ無心を申し出た。ところが、当時、鋳銭座方の遣り繰りも甚だ困難 であって、約諾した2000切もやっと都合つけるような状態であったから、三浦屋 とてもその申し出は受け入れかねた。⇒仙台の音右衛門を紹介。 (58)音右衛門に面会して石巻での様子を話し、金子用立てをお願いしたが期待空し く断られた。三人は必死になって申し込み、ようやっと借り受けることとなった。

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(59)明和九 (1772)年8月27日、仙台の三浦屋惣右衛門から借用金の一部を受取っ て上納。九月に入ると、残り少ない上納金の皆済を厳命された

5.8 上納金の納入

(60)明和九 (1772)年9月17日、篤平治の依頼を受け、十三郎が音右衛門に無理矢 理に無心した125両の金と、その残り全額は三浦屋から借用するために上仙し た。 ①125両(5OO切)のうち、その半分は願主仲間が吉岡で何とか調達するこ とに方針変更。 250切の工面を三浦屋に申し入れた。 (61)鋳銭座大目付の鈴木伝兵衛の話では、「鋳銭の方は出来次第藩が買上げるこ とになっているのに、その代金は一向に渡されないので、三浦屋の仙台と石巻 での遣り繰りは大変難しい」、とのことであった。しかし惣右衛門は、そのような 内情については少しも口にしないで、十三郎の申し出を了承した。 このような三浦屋惣右衛門の好意ある協力の下に、願主仲間は9月22日には、 願い出た通りに、金1000両分の銭を藩に上納することが出来た。

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(62)明和九 (1772)年9月29日、願主仲間は、これまでの三浦屋惣右衛門の厚恩に 報いるため石巻へ出向くことを話し合った。これとは別に、仲内と篤平治は以下 を密談した。

5.9 三浦屋惣右衛門への返金方法

①今年の暮からの下賜金を以て、直接三浦屋へ返済するには10か年も掛 かるので、それを更に20か年賦に引伸ばすことによって、下賜金の半分 を毎年町内へ配分出来ないかというものであった。 ②この旨、甚内が同道して三浦屋へ申し出ることにした 。 (63) 10月18日、他出不可能な幾右衛門と病中の善八を除き、願主仲間は石巻へ出 向いた。⇒惣右衛門に対面して、これまでの厚恩を心から感謝し、その際、返済 を20か年にして貰う事を申し入れ、了承された。

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(64)大肝入千坂仲内は、篤平治と相談して、三町の検断に申し付け、各町の一軒屋 敷・半軒屋敷・無伝馬屋敷・歩夫屋敷などを書き出させた

5.10 町内への下賜金配分方法の検討

検断: 中世の日本においては警察・治安維持・刑事裁判に関わる行為・権限・職務を総称した語 一軒前:社会・村落の一員に相応しいと認められるだけの家屋敷や田畑を所有し、年貢や村落 内で定めた義務、その他の負担が可能な家 (65)明和九 (1772)年11月1日、大肝入千坂仲内は、三町の検断・村役人・願主仲間 を残らず寄り合せ、配分について慎重に検討を加え、次のごとく申し定めた 配分仕法 当所御伝馬勤仕人の御配分仕法 ①、一軒屋敷へ一割 ②、半軒屋敷へ五分 ③、小半軒屋敷へ二分五厘 ④、沽却明(空)屋敷へも同断但し、右下さる金溜置、利付を以、貸方致し、 代御百姓相立次第、諸役人立合、家作料に相渡申すべき事 ⑤、御外人屋守、御札屋等、百姓山伏南明院屋敷、御蔵守了密小路、御 百姓座頭屋敷。右五人へは、一軒前に八か一割にて一分二厘五毛 この他、全体で⑩の項目が有る。

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(66)当時、願主仲間のうちの六人は、三浦屋から合計2250切を借用していたが、十 三郎が親類であったので、借用証文の提出は来春まで引きのばしていた。

5.11 借入金の返済

一 、 金 二 千 二 百 五 十 切 右 の 通 、 無 利 足 と 年 譜 を 以 て 、 借 用 を 致 し 候 。 吉 岡 町 窕 が ん た め の 金 千 両 の 高 に 上 へ 相 納 置 き 申 す べ く 候 間 、 御 預 け 貸 付 成 下 さ れ 、 右 利 分 を 以 て 、 年 々 同 町 へ 御 用 捨 成 下 さ れ 度 き 次 第 願 申 上 ぐ 。 願 の 如 く 此 度 御 下 知 相 済 候 に 付 、 右 の 納 金 行 当 無 心 申 達 候 。 御 影 を 以 て 大 願 成 就 致 し 候 。 返 済 の 儀 は 、 御 用 捨 下 置 か れ 候 利 足 金 相 渡 り 次 第 、 明 後 年 の 午 暮 よ り 、 前 書 の 通 無 利 足 を 以 、 年 々 滞 り な く 返 済 を 致 す べ く 候 。 仍 て 証 文 件 の 如 し 。 明 和 九 年 九 月 黒 川 郡 吉 岡 町 借 用 人 十 三 郎 印 同 篤 平 治 印 同 十 兵 衛 印 同 寿 内 印 同 所 肝 入 幾 右 衛 門 印 大 肝 入 千 坂 仲 内 印 御 城 下 柳 町 三 浦 屋 惣 右 衛 門 殿 以前の借用證文では「本年暮より」

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(67)安永元 (1772)年1月12日、十三郎が上仙し、借用証文を三浦屋惣右衛門へ提 出。

5.12 借入金の返済

(68)これに対し、惣右衛門より、「明和九年暮から年賦返済の約束であったが、證文 には『明後年の午(安永三年)暮より』となっているのはおかしい」と疑義が出され た。 (69) 十三郎は以下の様に弁明。「願書の提出に関する費用などもすべて借金で 賄って来た。そこで、去年と今年の両年分の利息で、まずその返済に充てたい。 ついては惣右衛門殿への返済は安永三 (1774)年からにして頂きたい」 (70) 惣右衛門はしぶしぶ了承

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(71)安永二 (1773)年の正月を過ぎ、二月中旬になっても去年の暮れに下賜される 利息金について、未だに何の連絡もなかった。吉岡では、願主仲間を始め町中 が心配だったが、藩の遣る事なので、下から催促する訳にも行かなかった。

5.13 下賜金の行方 その1

(72)同2月10日、浅野屋 (遠藤)甚内と篤平治が千坂仲内宅に出かけて相談。その 際、仲内からは、「先頃代官の八島伝之助に会ったところ、『窺にても相立然る べし』とのことだったので、自分一人で窺書を出すつもりである」、と言われた。 (73)同2月29日、仲内は仲間の同意を得て、「去年分御利息は、当年分御利息御一 同、当暮に至り渡下さる御事に御座あるべき哉、御取合御吟味成下され度」き 旨、代官宛の窺書を提出した。 (74) 「去年分利足金高について、四十両余になると勘定所では聞いており、今回下 賜される運びになった。しかし、去年は中途で利金も少ないため、当年分の利 金と合わせて、当暮に渡しても宜しいか」と、出入司木村久馬から問い合せが 来た。 これに対して

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(75)願主仲間は仲内宅に会合し、「当暮一度に受取り候や、又去年分斗此節受取 申すべき哉」を相談した。⇒「初年度のことなので、取りあえず、去年分の利息を 下賜されたいと一決」 (76)安永二 (1773)年3月、大肝入千坂仲内は代官に、「去年分は年中途で利金も町 全体に配分するには少ないけれども、初年度なので、差し支えなければ、去年 分の御利息を下賜下さる様、御吟味下さい」と申し出た。 (77)出入司の但木主膳から「去年分利金両替所に取合、同所より村方へ相渡候様、 首尾之あるべく候」と下知された。 (78)代官八島伝之助から仲内宛てに「両替所へ行って、蔵元の大文字屋手代中西 弥七に対談したところ、明和九 (1772)年分の利息として、小判40両余を勘定所 から受取って渡すとのことであるから、4月9日に受取人を上仙させるように」 と の連絡が有った。 これを受けて

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(79)安永二 (1773)年4月9日、 御金使庄右衛門に「御蔵元より受取通牒」と題する 通帳と代官の中西弥七宛金子受取手形を持たせて、上仙させた (80)安永二 (1773)年4月10日、庄右衛門は小判42両2歩と代912文を受け取った。 (81)この金は、今年の正月に、甚内が宮床村への返金を立替えて置いたので、それ への返済にあてられた。 (82)同年5月3日の夕方、九人の願主仲間を上仙させよとの命令が、代官から大肝 入に伝えられた。

5.14 下賜金の行方 その2

(83)極老の寿内と病身の十兵衛の二人は、嫡子を名代に出し、打ちそろって5月6日 に出府した。御用宿の国分町吉田屋清作方に逗留し、9日の朝、出入司萱場杢 宅に参上した。 浅野屋周右衛門は亡祖父代から多年心がけ、自ら先立って残り八人の者たちに も申し合わせ、多額の銭を上納したことを賞され、金三両三分を下賜された。 その他、大肝入千坂仲内・肝入幾右衛門・寿内・十兵衛・十三郎・篤平治・善八・新 四郎の八人にも、それぞれ二両二分ずつが下賜された。 (84)吉岡宿救済事業の褒美として、萱場からそれぞれに賞状と賞金が下賜された

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5.15 下賜金の配分 その1 (賞金の使途)

(85)安永二 (1773)年5月12日、仲間一同は、帰村。翌日13日、甚内と篤平治は、下 賜された賞金の使途について相談 甚内は「町中の小益」にもしたいので、まず、町中の極貧の百姓中 にだけでも少しずつ配分し、若干は子孫に残して「永世家宝」として 貯えおきたいと申し出た。 大肝入千坂仲内にも相談。仲内からは「町内一同に配分候わば、 貧者は今日営に相用い、又相応に相続の者は人の遣い様も之あ るべく候間、三町一体の配分尤に候」と、町中一統への配分が提 案された。 ― この大肝入の提案に、他の仲間もすべて同意。 (86) 同年5月15日、吉岡上・中・下町民へ、各戸約 500文づつ配布。 (87) 同年5月17日、借家一人につき200文づつを手渡し配布。 願主(篤志者)達は、賞金を私用することなく、町民へ全て配分した。

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5.16 下賜金の配分 その2 (配分方法の変更検討)

(88)安永二 (1773)年4月から安永五 (1776)年まで、金1000両に対する利息を、蔵元 の大文字屋から受取り、「配分仕法」(65にて説明)に従って町内の各戸に配分 (90)篤平治は城下勘定所で老役櫻田五郎左衛門と内談。そこで先ず、願書の下書 きを作って提出することを勧められた。 (91)安永七 (1778)年1月20日、 下書きを書いて櫻田五郎左衛門に見せてその了承 を得た (89)安永六 (1777)年から配分方法の変更を検討 毎年12月29日、30日に蔵元から利金が 渡され、各戸には正月7日以降に配分 ⇒年内の年貢上納や越年の足しにもな らなかった (従来) (新方法の案) 「今村吉岡並に近村御年貢金の内」より 直接利息分を下賜されるように、追って 願書を提出することになった (92) 3月8日、合力願の際に協力を得た当時の郡奉行で、現在は出入司の今泉七 三郎の内意を窺い、篤平治が今泉七三郎と会見しその同意を得て提出

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(93)提出された願書に対して、安永七 (1778)年3月13日には、代官菊田五郎大夫か ら12日付けの出入司萱場杢ら四名連署の下知が伝達された (94) この後、約 30年間、この配分が続けられた。 「 此 末 同 郡( 黒 川 郡) 年 貢 金 取 立 の 内 よ り 、 直 々 右 御 利 息 渡 下 さ る べ く 候 間 、 右 の 分 御 蔵 上 納 扣 置 、 直 々 面 々 へ 相 渡 候 。 御 郡 方 に 於 て 納 渡 の 首 尾 之 あ る べ し 」 従来蔵元の大文字屋から渡されていた利息 に代わって、 ①黒川郡の年貢金取立ての内から直接渡さ れることになった。 ②吉岡から金の受取人を上仙させる費用が 節約された。 ③町民に対しても年内に配分可能。 これにより

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(95) 享和期(1801-1803年)の出入司の更迭にともなって下付法が大きく改められた。 従来の利息金下付から、元金済崩し(なしくずし)の法に一変してしまった。

5.17 下賜金の配分終了

(96)文化十一 (1814)年、元金も払渡し済みとなって、この大事業も終息を告げること になった。⇒救済事業の廃絶は、住民をして大いに悲嘆させた。吉岡三町はま さに「暗夜に燈を失なった」様な状態となった。 元金済崩しについての菅原の私的解釈: (3)で記述した通り、明和3 (1766)年8月、仙 台藩は領内の百姓まで借上(貸し上げ)を命じた。実質的に町民が藩へ献上したの であるが、名目上は藩が「借りた」ので、その元金を徐々に返済(済崩)し、借金を 返済したと解釈した。恐らく藩も財政が悪化し、利息金下付の継続が難しくなった ものと思われる。

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(97)救済事業の廃絶を憂いた吉岡の領主但木山城弘行は、家老や村役人らに命じ て、この事業の再興方法を検討させた。

5.18 國恩再興

(98)天保十 (1839)年になってようやく250両を調達し、明和の先例に準じて再び藩に 出願したところ、藩ではその願を採納したばかりでなく、かえって藩主斉邦から 250両の足し金が加えられて、救済基金は500両となった。しかし、この額に対 する利息だけでは、吉岡宿の救済には不充分であった。そこで藩では、この末 五か年間、500両を基金として倍金を加え、元利合わせて1000両の高とした。 (99)弘化二 (1845)年からは、明和・安永の旧に復し、年一割の利息金100両ずつが 毎年の暮に再び下賜されることになった。

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