梵天を所縁とする認識
木 村 紫
1.はじめに
『婆沙論』は仏教外では人格主体として我を構想していると述べ,「我・有情・ 作者等は存在しない」「有情は仮設に過ぎない」と論じる1).このことは,有身見 とは自身と他者との区別なく,我や有情等の人格主体と呼ばれるものを把握する ことであり,究極的には仮設の把握が問題となることを考えさせるが,有部は自 らの身体のある自界自地での我・我所の把握だけを有身見としている.世親は 『倶舎論』で,欲界にいる者が上界の梵天を「有情である」「常住である」とみな す認識について我見・我所見ではなく,有身見が成立しないため辺執見も成立せ ず,阿毘達磨論者は「見ではないが,邪智である」と言うことを採り上げる.そ して,上界を所縁とする場合に,有身見と辺執見は成立しないが,邪見・見取・ 戒禁取の三見は成立する理由を問い,「定説を判断根拠とすべき (pramāṇayitavya) だから」と答えさせている2).見ではない邪智に基づいて,三見は成立するのか という指摘である.欲界で梵天を所縁とする認識は『梵網経』の「我や世間の一 分は常住である」という誤った見解をもつ者の記述に見出せる.『発智論』と 『婆沙論』は,この一分常住論者ではなく,その過去世の,梵天と梵天により化 作されたと考えた梵衆天の認識を見取と戒禁取として論じている.本稿では,世 親が採り上げた,見とされない邪智を,『発智論』と『婆沙論』の『梵網経』に 対する考え方と,梵天と梵衆天の悪見に関する記述を概観した上で,考察する. 2.『婆沙論』と六十二見趣
『婆沙論』は,『梵網経』の六十二見趣は全て有身見を根本とすると説いており, 見趣が諸煩悩の,諸煩悩が業の,業が異熟果の根本であり,異熟果により一切の 善・不善・無記の法が生長すると論じる.そして,仏は生死の道を永断させるた めに苦の遍知を説き,苦を遍知する時有身見は断じるとする3).但し,有部は有身見を見苦所断としている.見趣については,『発智論』は五見のいずれかとい う自性と対治から,『梵網経』は見の起こった理由である等起から説いていると 述べる.そして,自性・対治・等起の三点から考察すれば,聖道により永断した 聖者と同様に,異生も見趣を起こさないと結論するが4),このことは,有身見の 断ではなく,見趣の断により業等に繋がる悪しき道筋を離れるあり方を示唆す る.等起には,(1)世間の直接経験による,(2)世俗の定による,(3)悪友の教 えによるという三説を概ね挙げているが,いずれにしても如理に尋思しないこと に帰着する.業の果は生じるまでの時間に長短があり,為した業の順に生じるの ではなく,その終始の因果は,それ自体は誤っていない直接経験や定に拠ったと しても,正しく判断できるとは限らないのである5). 3
.梵天と梵衆天の悪見
『婆沙論』は『梵網経』を適宜引用しながら梵天と梵衆天の悪見を論じている. 概要は,この劫の成立時にまず生じた梵天宮に,極光浄天で没した一有情(梵天) が生まれ,長い間一人で過ごし,仲間が欲しいと愛を起こすや,極光浄天で没し た他の有情達がその梵世に生まれたことにより,梵天は彼等を化作したと考え, 生じた彼等は梵天により化作されたと考えたというもので,これが悪見の等起に 当たる.『発智論』は悪見を「説いた」とし,梵天の「私は梵である,大梵であ る,自在を得ている」という発言は劣法を勝れているとする見取,「私は世間を 創造し,生み出す,その (世間の) 父である」は非因を因とみなす戒禁取であり, いずれも見苦所断とする.また,梵衆天の「これは梵である」等の同内容の発言 もそれぞれ見取と戒禁取とする6).『婆沙論』は,彼等の見取と戒禁取は五取蘊 という苦果を正しく理解しないことによるもので,苦知が生じる時に断じられる から,見苦所断であると解説する7).梵天と梵衆天は同じ梵世で同じ誤認をして いるが,梵天は自らについて,梵衆天は梵天という他者についてである.苦諦を 見れば有身見も断じられるが,我や有情の把握には言及がない. 4.欲界の一分常住論者
『倶舎論』の 釈書が引用する『梵網経』の記述によれば,梵衆天の一人が没後 この世に生まれ,定により過去世を見て自分を化作した梵天を常住と,梵天に化 作された自分を無常と考え,「我や世間の一分は常住である」とする一分常住論 者となるが,この悪見は欲界を所縁としている8).衆賢は,我が二つあることはなく,欲界で我を把握している時に上界でも我の把握があることはないと述べ, 梵天を所縁とする認識について,(1)直接知覚する欲界の五取蘊を「我」とみなし 常住とする把握から,直接知覚しない上界にも推理により我や常住の把握があ る,(2)梵天に対して「我とは大梵である」「梵天とは我所である」とは言わない から有身見は成立せず,辺執見も成立しないとする.これは,我見を断じる際の 〈有執受の蘊に対する無我の把握→非執受に対する無我の智〉の逆に当たり,我を 「私」に限定し,欲界の我見から,推理により上界も常住とみなす邪智が導かれる ことになる9).しかし,衆賢は,自在神等を原因と見なす戒禁取は,常住で単一 な我,作者であるという思い込み,常顛倒と我顛倒から起こるとする『倶舎論』 の記述に対しては,「我とは自在神である」と言わない等とは論じていない(A 282, 11–14. N 606a28–b9).この一分常住論者は,自身は無常であると考え,常住と も断滅とも考えていないが,定に基づき梵天は自分と異なり常住であると考えて 一分常住を唱えるのであり,衆賢の言う我見に基づく推理とは異なる.しかし, この戒禁取の記述の常顛倒と我顛倒は,世親が有身見について,仏は刹那的な諸 行を常住な一個体と把握する想を捨てさせるために説いたと述べたことと対応す る.我も作者も勝義には存在しない.有身見は常住な一個体という構想,即ち仮 設による把握であり,この顛倒した仮設に基づき誤った見解は説かれている10). 一分常住論者が「無常である」と言うのは,私達凡人が自覚なく顛倒した認識に 基づいて「無我である」「無常である」と言うのと変わりない. 5
.我見と邪智
ところで『発智論』は五見を論じた後,存在しないものを存在するとみなす認 識を「見ではない.邪智である」と提示する.『婆沙論』は,この認識について 五見に当たらず,(1)杌に対して人の想を起こすような,無覆無記の邪行相の智 とする説と,(2)梵王が「大梵である,世間を創造する,世間の父である」と言 うことは慢等を起こすので染汚とする説を示し,不染汚とする前説を採ってい る.後者を採らない理由は,見所断心は身業・語業を起こせないからである11). 見取や戒禁取も有身見も見所断心であり,この邪智から排除されるが,見趣は有 身見を根本とするという『婆沙論』の説に基づけば,有身見→悪見→何らかの煩 悩→身業・語業という過程が考えられる.しかし,ここでは我の把握は明示され ていない.自界自地での我以外の把握,すなわち有身見とされない邪智の把握に 基づき,悪見や他の煩悩が生じることを暗示する.有情も我と同様に存在しないことは経に説かれ12),仮設であると『婆沙論』は論じながら,我と我以外を区別 する.世親はこの不染汚の邪智の記述を念頭に置き,阿毘達磨論者は経に拠らず に,「定説を判断根拠とすべき」と言うと述べたのである. 6
.不染汚と仮設
『婆沙論』は,不浄を浄とみなす見取を論じる中で,不浄とは有漏法であるが, 有漏法にも浄があると説法されると述べる.有漏には煩悩によるものと,境界に よるものとがあり,染汚はこの両方によるが,境界のみの場合は少分浄であるか ら不染汚と論じる.また,完全に浄であると言うのではないから顛倒ではないと する.その理由には,(1)煩悩と違い,煩悩をまじえず,煩悩を壊すから,(2)無 漏法は勝義の浄であり,有漏の善法は無漏法を引き,無漏法に順うからという二 説を挙げる (MV 40b1–c4; VB 29b25–c23).存在しないものを存在するとみなす認識は, 煩悩を伴わない不染汚であり,邪行相は有漏の境界にあたる13).我も有情も勝義 には存在せず,仮設に過ぎないが,「私がいる」や「有情である」等と言うこと は世間的には正しく,梵天たちの悪見や煩悩の断を説くことも可能にする.悪見 はもとより世間的に正しい見解や無我等の正しい教えの説示も,この邪行相を伴 う邪智に基づいている.世親は言語表現の前提となる,『婆沙論』が不染汚の邪 智とした仮設そのものを問題とするが,聖者もこの常住な一個体とする想により 説くとも述べている14). 7.むすび
『婆沙論』は,我も有情も勝義には存在せず,仮設に過ぎないと論じるが,我 と我所の把握だけを有覆無記の煩悩である有身見と限定し,有身見を断じること により,輪 に繋がる他の悪見や煩悩を起こさなくなると説いた.一方,我見と 我所見を除いた,存在しないものを存在するとみなす認識である仮設の把握は, 有漏の邪行相を伴うが,不染汚の邪智とした.仮設により煩悩を断じ無漏を導く 法を説くことができるからである. 有身見は見苦所断であるが,『婆沙論』はこの邪智を欲界修所断とし,仏は起 こさないが,習気を断じ切れていない独覚・声聞には起こることがあるとも述べ ている.世親は有身見を我の把握に限定せず,仮設の構想作用そのものを捨てさ せるために,我見,我所見である有身見が説かれたと言う.苦の遍知により有身 見を永断できると仏は説いたともあり,有身見と不染汚の邪智の断,この邪行相を有漏の境界と論じた点については更に考察を重ねたい. 1)木村(2016, 27–29)を参照されたい. 2)A 287, 14–18. 遠藤2008はNの記述にも触 れて見と智の側面で論じる.木村(2016, 42–43)では意識の問題とするに止まった. 3) 有身見が根本であることはMV 38a19–26;VB 27c4–9, MV 243b28–c3; VB 188c17–20; VS 424c8–9, MV 996b26–c3. 異熟や輪 と苦の遍知についてはMV 238b28–c3; VB 184a24–26; VS 420a23– 26, MV 406c11–17; VB 304b29–c4; VS 476c28–477a5. 4)MV 38b7–25; VB 28a10–29, MV 507a28–b21は梵天と梵衆天の悪見の記述を三点から考察し,この三事を考察すれば異生で あっても聖者と同様に悪見趣を現行しないとする. 5)MV巻198–199は悪見を等起か らも 釈している.世間の現見によるとするのは世友の説であり,若干の異説もある.VB とVSはこの部分を欠いている.A 478, 9–12は,業とその熏習による果を仏だけの認識対象
としている. 6)MV 507a17–509b15. JX 956a11–22; JS 817c24–29, 819a29–b5. VBとVSはこの
部分を欠いている.Vy 448, 2–449, 16; Up D Ju144b1–145b5, P Tu166a6–167b3の引用はMVと ほぼ一致するが,「説いた」とはない.Cf. 小谷・本庄(2007, 29–30); 本庄(2014, 371–372). 但し,JX, JS, MVの「我是梵,是大梵,得自在,我於世間能造化,能出生,是彼父」に対 し,Vy, Upは「我是梵,是大梵」を欠き,あるのは「自在者(īśvara)」のみと後半部分で あるが,DNと,梵天が諂・誑により同様の発言をする『堅固経』にはある(DN I, 17–19. A 59, 12–13; Vy 495, 17–18; Up D 64a3–4, P 71a5–6. Cf.本庄(2014, 187–188)).また,DN, Vy 等はkartṛ等動作者名詞で示し,『堅固経』を論じるMV 670, 25–26も「我是大梵,是自在 者,作者,化者,生者,養者,爲一切父」である.JX, JS, MVは「梵」を「尊いもの」と し,表現も変えて人格主体の把握の問題を回避しようとした可能性もあるが,漢訳では明 確にならない.表現が異なる場合,逆に人格主体の構想の問題に止まらないと示すことに もなりうる.尚,DNにある「全てを見る者(aññadatthu-dasa)」は,Vy, Upや『堅固経』の 引用にもない.また,Jsは「我於此梵天大梵」であり,『堅固経』を引用するA 59, 12–13も asmiをasminとし「ここで」と示している.細田1992はこの一分常住論者の記述の典拠と して『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』の「アートマンの世界創造」の可能 性を論じる. 7)MVは見取について,梵天は梵世での五取蘊という果を清浄で寂静で 安楽なものと思い込んでいるとする.真に安楽なものは滅諦と道諦であり,最も勝れてい るものは法の中では涅槃だけであり,有為法では聖道,有情では仏である.また,仏は心 と法に自在を得,声聞と独覚は法には自在を得ていないが,自らの心には自在を得てい る.梵天はどちらも得ていないが,「自在を得た」と言うとする.戒禁取についても,有情 世間はそれぞれの業と煩悩から生じ,器世間は一切の有情の増上力が引き起こすと論じて いる.但し,苦諦の四行相は,無常・苦・空・非我であり,苦諦を見るだけで因でないと知 ることができるのかという問題もある.MV 993b13–26は,自在の変化を原因と見なす悪見 について,諸法が生ずるのは次第にであり,単一で恒常な自在は因ではないと論じ,A
101, 18–102, 14の記述に繋がる. 8)Vy 449,12–15; TA D 107a1–2, P 240a4–5; LA D 93a5–6, P 116b3–5≒Up D 145b3–4, P 167b1. A 281, 10–15は一分常住論者の記述で,見所断の煩悩を仏 教外の離欲者も断じているかを問題とし,退失に言及するが,本稿ではこの点には立ち入ら ない. 9)N 612c17–613a12. この記述に部分的に沿った形でTA D 124a2–b3, P 258a3– 258b5とLA D 104b2–7, P 120a8–121a1は 釈している. 10)木村(2016, 44–49)を参照 されたい. 11)MV 42b5–24; VB30c29–31a20. JX919b2–3; JS772c19–20. Cf.木村(2016, 55–
59). 12)A 465, 9–466, 16は有情が仮設にすぎず,存在しないとする経を挙げて論じて いる.Cf. 本庄(2014, 890–897). 13)邪行相を伴う認識については,(1)実際に杌を
れるように仮設の把握が考えられる. 14)木村(2016, 44–49)を参照されたい. 〈略号〉
A Abhidharmakośabhāṣya of Vasubandhu. Ed. P. Pradhan. Patna: K. P. Jayaswal Research Institute,
1967. LA Abhidharmakośaṭīkālakṣaṇānusāriṇī (Pūrṇavardhana): D Chu 4093, P Ñu 5594. TA Abhidharmakośabhāṣyaṭīkātattvārtha (Sthiramati): D Do 4421, P Tho 5875. Up
Abhidharmakośopāyikā nāma ṭīkā (Śamathadeva): D Ju 4094, P Tu 5495. Vy Sphuṭārthā Abhidharmakośavyākhyā (Yaśomitra) Ed. Unrai Wogihara. Tokyo: Sankibo Buddhist Book Store, 1971. DN Dīghanikāya. Pāli Text Society, 1890. N『阿毘達磨順正理論』T1562. 衆賢
造,玄奘訳. JX『阿毘達磨發智論』T 1544. 玄奘訳. JS『阿毘曇八犍度論』 T1543. 僧伽提婆,竺佛念訳. MV『阿毘達磨大毘婆沙論』T 1545. 玄奘訳. VB 『阿毘曇毘婆沙論』T1546. 浮陀跋摩,道泰等共訳. VS『 婆沙論』T1547. 尸陀槃尼 ,僧伽跋澄訳. 〈参考文献〉 遠藤信一 1998 「『 舎論』における邪見と邪智について」『東洋学研究』 35: 53–64. 小 谷信千代・本庄良文 2007 『 舎論の原典研究 随眠品』大蔵出版. 木村紫 2016「『 舎論』を中心とした有身見の研究――刹那的な諸行を常住な一個体(piṇḍa)と把握する想 と 聖 者 の 諦 ――」 立 正 大 学 学 位 論 文, http://repository.ris.ac.jp/dspace/handle/11266/5749. 細田典明 1992「『梵網経』と『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』」『印度哲学 仏教学』7: 24–39. 本庄良文 2014『 舎論 ウパーイカーの研究』訳 上・下,大 蔵出版. 〈キーワード〉 有身見,不染汚,邪智,仮設,『婆沙論』,『倶舎論』,『梵網経』 (立正大学非常勤講師,博士(文学))