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Title 血脇守之助伝

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Academic year: 2021

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(1)

Posted at the Institutional Resources for Unique Collection and Academic Archives at Tokyo Dental College, Available from http://ir.tdc.ac.jp/

Title 血脇守之助伝

Journal , (): ‑394

URL http://hdl.handle.net/10130/917

Right

(2)

第 十 六 章 試 練 と 栄 光 と

震災そして劫火

大正十一年二月二十日から使用し始めた鉄筋コンクリート三階建百八十七坪の新築部門は、現在の基礎別館の位置

にあって'1階が技工実習室、二階が治療室'薬室へ三階は充填室、外科室'X線室へ病室等で、旧治療室は改装の

うえ、義歯窒'継続架工室'予診室その他に使用された。大正十1年四月からは、院内に本邦最初の都制診療システ

ムが施行され、臨床実習の教育効果が格段に充実したという。

奥村学監はこのシステムについて以下のような説明をしている

「従来学生は附属医院内において患者を取り扱うことあたかも一般の治療所においてするが如く予診室より配布

せられたる一人の患者を終始担当して治療より補綴等に及び'学年中に規定の総得点あるに非ざれは進級すること能

はざるの定めなりき'新制度においては院内に七部を設け、各部の主任は部内の整理及び指導を司り、これに助手及

び副手若干名を配置し、且つ其の部に関係ある教導は日を定めて実施せり'また生徒は数組に分れて各部において一

定期間専門的なる施術に従事し、主任教員は間断な‑之を督励すると共に生徒の勤怠並びに実習の成績を審らかにし、

徹底的なる教授を行なうこととなれり、故に得点の制を廃止したり、過去数カ月の経験にょれはこの制度は成績極め

252

(3)

白山通 りより見た震災前の東

京歯科医学専門学校 佳て良

にし て 学 生能の力、 (注 )1

2

3 科部 X4 線部 有5

67医院 の能率は格段なる増進を来したり」。

斎矢 堀照西高遠

藤崎江内村橋藤 姓豊至

万 一 昇 魔 郎 そし

て 新 制 度 発

足 後 一 年四大正カ月の 十二年九一月はだ夏ま日' 季 休 暇は者患登数半生習実床臨で数少なん院'中ものび‑ムり'、 ー ド で あっ た。

治 療 室の入で口 福島 秀策に会た西村豊出治は、っ

「ま だ 少し 早 い が 飯でも 食二か」声療歩三かけ、おを室と治う、 を 出よとうし たそ の 瞬間のこ

と である。 異 様な 轟 音と 共に建 物全体 ゆかごり が 揺 藍にのよう 振忽動混大乱は周囲ちに陥た。治療室に残しっっ、 てい た 患 者立術者場物落土壁み、すちにのそもがもち、器が転‑' 倒電し' 灯下避て辛落笠がで末始けてのをのた。るるくあうじしっ

「 あっ、 砲 兵 工廠の 煙 突が 折 れる

」西北窓外奪砲のにえていた。 兵 工 廠 (現在の 後 楽 園の 位 置 )の 煙 突はまるで‑リック

(4)

ようや‑戸外に避難した人達は'地上にあるあらゆる物の形相が一変したのを見て驚博と極度の興奮に荘然自失の

有様で'鳴動がとぎれた一瞬には‑つろな静寂があたりを支配した。

ほどな‑、ざわめきの人声と共に避難民の群が右往左往し、恐怖と混乱の輪は果てしな‑広がっていった。この混

乱に追い打ちをかけるように、教条の黒煙が天空に舞い上がり、人々を一そう不吉な予感に駆りたてた。いつの問に

か水道橋駅際に避難集合した本校関係者は、佐藤義三の指揮で散乱状態の校内に引き返し、重要書煩や器物の搬出に

あたった。余震が何度も襲って‑るため作業はしばしば中断されたが、西村豊治、福島秀策、高橋寛'正木正、兵藤

弥夫らは学生達と共に、人力の限りを尽‑して搬出に当たった。数条の黒煙はいつの間にか空一面に広がり校舎の上

空を覆い'魔の煩がその後から迫ってきた。日本大学'神田劇場はすでに猛炎に包まれ、ついに本校木造校舎の一角

にも飛火した。木造校舎が類焼しているさ中'福島秀策、高橋寛は、勇敢にも新館内に再び飛び込んで、防火シャッ

ターを降ろそうと試みたが、地震の歪みで作動せずやがて劫火にのみこまれていった。神田川の対岸に避難して、

ほっと一息ついたのも束の間、飯田橋方面から砲兵工廠に迫る猛火に身の危険を感じた群集は北へ向って移動し始め

た。ちりじりになりながらも最後に残った数人の本校関係者は携行できるだけの重要物品を背に小石川植物園を目指

して避難していった。三十四年にわたる血と汗の結晶の数々と校長の外遊先から寄贈された歴史的貴重書その他は、

あとかたもなく消え失せてしまった。

別邸

大正十二年の夏は守之助の家族にとって、楽し‑過ごせる予定であった。というのは'守之助が神奈川県下曽我に

‑ 254

(5)

新築の別荘を購入したからである。

曽我兄弟の故事で有名な場所で、兄弟の墓地は城前寺にある。このお寺の東南に別荘地があった。高台なので晴れ

た日には富士山が間近く見え'見晴らしはすこぶるよかった。お隣りには政友会の総裁鈴木喜三郎が住み、各界の名

士の別邸が立ち並ぶ別荘地であった。

土地は柏木常次郎が所有していたので'借地であったが、広さは二

〇 〇

坪弱で'その上に四部星三

坪程度の平屋

が建っていた。

八月はじめ、小田原の広瀬武郎の案内で、守之助、妻そで'長男日出男'次男芳雄、次女英子、三女政子'四男道

夫へ五男靖夫は人力車を連ねて下曽我に向かった。別荘に到着した子供達は歓声をあげ、別荘を持つのは無理とあき

らめていたそでは望みが急に叶えられたので、これまでの苦労が一度に解消する心持であった。守之助は'別荘を持

つことにあまり乗り気でなかった。歯科医学の殿堂建設に夢中で、まだまだ先のことと考えていたからである。しか

し、常日頃公務に追われて家族にほとんど何もしてやれなかったし、そでが購入に熱意を示したので、思い切って買

い取った。

到着の知らせを聞いて、長谷川敬一、同委さともかけつけて、「遠路はるばるお疲れでしょう」と挨拶をした。

長谷川家はこの近くに居を構える土地の旧家で、さとと、広瀬武郎の妻こうとは従姉妹の関係にあった。購入の話

は、したがってさとから広瀬を経て守之助に持ち込まれたのであった。

お手伝いは'長谷川の紹介で決まっていて、早速'新しい主人の前に連れてこられて挨拶をした。守之助は、部屋

や庭の造りをみて廻り、長谷川に「思ったよりよくできているね」と満足そうであった。別荘を持つことに最初乗り

気ではなかったとはいえ'やはりよかったと思えてきた。

‑ 2551

(6)

翌日広瀬は小田原へ帰った。守之助は専門書を播‑よい機会だと思って、数冊の図書を携行してきた。奥村、花沢

の鼻をあかしてやろうという'いたずら心も働いていた。しかし'それは単なる期待でしかなかった。休養のつもり

できているのに、来る日も来る日も来客が絶えず、それに一寸一盃というおまけがつくから'東京にいるよりも反っ

て忙がしいとそでは思った。幸い近くに「さか家」という料理屋があったので、仕出し料理を注文し、数日ですっか

りお得意様になってしまった。このような状態なので、守之助の方も'八月中に東京へ帰るつもりが、もう十日延長

して九月十日まで滞在することにした。今度は本当に休養するつもりになったらしい。日出男と政子は一足先に帰京

したが、休暇延長に子供達も大賛成であった。

九月1日午前十一時五十八分、突然襲った上下動の大地震にょって盛土の崖が‑ずれ落ちると共に'新築の別荘が

ペシャンコに潰れてしまった。

守之助と芳雄と英子は茶の間で昼食をとっていたが、芳雄だけが間一髪、戸外に逃げ出せた。芳雄は'屋根瓦を剥

がし'父と妹を倒れた家の隙間から引っ張り出した。

靖夫はそのとき七才(満六才)になっていたが'客間にいたそでにしがみついて離れなかったため'母子共倒壊家

屋の下敷きになってしまった。守之助は一瞬、戸惑った。大声を出して、「ソデ、どこだ」と呼びかけた。「どこだ'どこだ'返事を」と叫びながら'守之助と芳雄は手当たり次第天井板を除き始めた。そではその時'喉

がかすれて声を出すにも出せなかった。所在は、はっきりしなかったが'客間のあたりを目標にして救出作業を続け

た。幸い重い棟の下ではなかったので、約三十分後に母子共に救出された。そでの頭髪はほつれ、壁土と峡にまみ

れへまるで幽霊のようであった。その日から以後、余震が続いたため、近所の竹薮の中に蚊帳を吊して露営生活をす

ることになった。全員無事を確かめた守之助は、東京のことが気掛りとなってきた。

ー 256

(7)

長男日出男と三女政子は代々木山谷の家にいる筈であるLへ水道橋の状況も皆目見当がつかなかった。その夜はほ

とんど寝つかれず、東京へ帰る道筋ばかりを考えていたが'音信は全‑途絶えていて'三日間足止めとなり、

朝'近所の農家から荷車を借りてそれに食料品などを積み込み徒歩で帰京することにした。二宮あたりまで来ると横

浜方面から避難してくる人々の群に出会った。その人達は、東海道線は不通'横浜も惨状を呈し、東京もおそら‑同

じであろうと話していた。守之助は'このまま東京へ向かうべきかどうか迷ったが、ひとまずへ二宮の奥村歯科分院

に止宿することにした。子供連れでこれ以上進むことは無理と思ったからである。

災厄の九月一日に水道橋校舎に居合わせた先任者は、西村豊治と佐藤義三で、奥村鶴書は募金のため九州方面遊説

中、花沢鼎と斉藤久は帰国する遠藤至六郎を神戸に出迎えるため出張中であった。第一日目の恐怖からさめた人々

は'下曽我へ連絡をとる必要を痛感した。「大島は二分し、江の島は水没した」という流言がまことしやかに広まっ

ていた。関係者は代々木山谷の校長留守宅を連絡所とし、三日夜八時、校名入りの堤灯三張を手にした七名、西村'

福島、佐藤'吉田(学生)、向井(学生)、用務員為さん、大工芳さんの救援隊が徒歩で出発した。戒厳令下、各所で

「誰何」を受けながらやっとの思いで五日朝藤沢に着き'そこで奇蹟的に小山田照雄に出会い'校長一家の消息を聞

くことができた。属人川の鉄橋は崩壊していたので渡し舟をつかまえ対岸に渡り、大磯を通り二宮の奥村歯科医院分

院に夕刻到着した。七名が玄関先で「先生」と連呼すると、「オー」と答えてまず校長が現われ、そで夫人や令息、

令嬢が次々に姿をみせた。救援隊の一行も校長一家も感激のあまりtとめどなく流れ落ちる涙を拭おうともせずお互

いの顔を見合わせた。屋内に招じられた七名は勧められて入浴し、連日の汚れを洗い落とし'はじめて人心地を取り

戻した。救援隊の七名は、かわるがわる隈災当時の模様を校長に報告した。校長もまた家族の遭難時の模様を語り、

お互いの無事を喜びあった。

257 ‑

(8)

同じ頃、奥村鶴書は秦野の一歩手前まで到達していたが、馬入川に阻まれ途方に‑れていた。急報を聞いて二日

朝、別府を出立、瀬戸内海を航Lt神戸に上陸、陸路'名古屋を経て中央線、信越線を利用し、四日夜高崎に到着'

同窓磯茂雄の世話で自動車にガソリンと食糧を満載'五日早朝高崎を出発して入京、さらに水道橋'代々木の守之助

邸を経て夕刻には馬入川まで到着した。しかしそこから奥村歯科医院のある秦野までは意外に遠‑自警団に「誰何」

されたり、苦難を砥めたりして'実家の焼跡に到着し、家族に出合ったのは六日午前三時であった。そこで校長一家

の消息を聞き、随行の運転手にガソ‑ン補充の手配を命じたが疲労のあまりそのまま寝込んでしまった。六日昼頃眼

を覚ました奥村は分院のある二の官に到着したが、1足早く校長一家は東京を目指して出発していた。驚いた奥村は

その後を辿り平塚で追いついた。奥村から事情を聞いた1行はもうl日出発を延期し、平塚の奥村歯科分院で自動車

の準備の整うのを待つことにした。

八日朝平塚を出発した一行は鳥人川を渡り'藤沢まで馬車で進み'そこで待ち合わせた迎えの自動車に乗り、疾駆

三時間夕刻代々木の血脇邸に到着した。

廃姓の中から

三十四年にわたり蓄積された地上の資産はほとんど壊滅した。六百坪の校舎も'一万冊の図書も、五万七千の標本

模型も、一万三千点の器械器具も今や消え失せ'残るは三層の鉄筋コンク‑1トの残骸'屍体庫、金庫(金庫の内部

の物品は無傷であった)'暖鮭の煙突それに高山紀斉の胸像のl部だけであった。

九月十日以後'職員会議、理事会がしばしば開かれ、善後策を談じ、併行して十一日からは焼跡整理が始まった。

‑ 258

(9)

大正12911日か ら焼跡整理始 まる 之奥花守助'村沢、

は 終

始、

蒜落かつ愉 快そに事運だをんのう で、

周囲の 教 職 学員'与奮気建再立安に生をぎの力をいえ'ら た せる の に 大いに役 立容かわ笑に易間、のそかた。なっししっ たの は 佐 藤 義

三である。

果たて復でかか、所旧きる台をしどう あ ず かる 佐 藤は気 ぜ お算盤を弾いていた。くし 大 正 十 二 年

八月

十四現在'基金受入の日 額は三十五五千万 五 百 九 十 六円 五 十 八 銭新や費築建館が、たてのいな通と白山っ 向 か い 側の 敷 地四 百六 十 五 坪 六 合 三 勺 ( 愛 光 合から 東洋高等 学 校た)金のあり 額八外購一十百六千万十遊四に円のて入費、し 費 等 に 支出し た 結 果

、 十万を少円し 上

廻る 額か残てかいなしっ っ たのである。 こ の 災火にてょっ、 学

生、教

職員に死 者はない伝れてえとら い た が、

時 間 が 経 過する に つ れて 用 務 員 徳田と 学 生 二名の死 者 が出 たこと が 判

明し

た。

表 面は笑ていてもっ 学 校首脳部苦の 脳 は

大き

かっ

た。

守 之 助 はそ

の 頃のをこと 次のよう に 述 懐ていし

る。

「 私は 八に日

漸く

東 京の 宅に 帰ましり

たが、

学 校に 行のに‑ 二里ばか歩かねはり

ならぬ、そしてま

(10)

るとがっかりして翌日はもう歩けない、一日休んで翌日また出掛ける。その間に無数の人が訪ねてくる。その上自宅

には三十八人の羅災者が泊っているので'私達家族のものは板の間に座布団を敷いて寝た。この状態は一カ月続い

。一日に何十遍とな‑地震の話が繰り返される。この間に冷静に考えをまとめようということはほとんど不可能に

近い。この際学校はどうしたちょいだろうか'これで前途が立ちゆ‑であろうか、しかし九死に一生を得た命がある

限りは何とか分別をつけねはならぬ、理事の方ともしばしば相談を重ねたが'幸いに、いかに損害を蒙ったとはい

え'多数の力強い校友が全国におられる、また学校の計画も中途であるからこれをこのまますてるのは残念であり'

むしろ、あいすまぬことと決心して十月二十日から慶応義塾大学医学部教室を借用して授業を開始することにした」。

それと同時に焼残りの新館を修理して至急臨床実習を再開することを決め'この通知は、直ちに学生'父兄に発信

された。新館二階に急造された九坪の臨時事務所は日一日と多忙になっていった。守之助にとって二重の重荷となっ

たのは校長であると同時に日本連合歯科医師会の会長であることであった。従って七百に及ぶ隈災歯科医の救援策に

ついても同時に考えていかねはならず、これまた緊急を要することであった。九月二十五日午前十時、校長は全職員

を劫火が砥め尽‑したままの新館三階に招集した。守之助の全身にはいつになく緊張感が漂っていた。「今回の未曽有の災害はあらゆるものを破壊し尽‑しました。本校も甚だ心許なき状態に立ち至りました。しかし

ながら'何としてもこの仕事を再び継続したいと思うのであります。この大打撃から立ち直る一条の活路は極度の経

済緊縮であり、これはやむを得ぬところであります。そのためには永年協同した諸君と此の際お別れしなければな

りません。ご一同に一度退職していただきたいのであります。そして本校のために努力して下さる方々には改めてご

相談いたします」。

このようにして校長は別室で一人一人に相談をかけ、各人の希望や方針を聞き'再建の人事を決定した。

ー 260

(11)

十月1職員会開催十月十1日復工事資材搬入三日点灯十五日病院組織故構発表と再建策は急速に実

施に移された。それによると'病院長花沢鼎保存部長西村豊治、外科部長遠藤至六郎、補綴部長矢崎正方の下に三

部制をし‑ことになり本格的都制が発足した。

因みにその後の部の推移をみると'年四月に矯正部が補綴部から独立し昭和三四年四月には放射線部

が口腔外科から独立昭和四一年四月には児歯科が保存部から独立'さらに、昭和四十三年四月には口腔外科か

ら歯科麻酔が独立し'現在では七部となっている。

月二'愈々学校再開の当である。全国各地から陸続として学生が集まってきた。その数四百五

刻十時校長は新館三階にこれら学生を集め災害の状況を報告し再建の方途について決意を披渥し、

この事業が完成しない内は私は死にません。どんなことがあっても病気になっても死にませぬ」と結んだ。

十月二十、敷地のl角に九坪の、、ハラックが落成し、事務所がこ転'月二日から慶応義塾大学医学部

基礎系教室の三重を大十三年三月まで借、一、二三年級の授業を再した。

一月四日午前十時から第八回法人評議員会が開かれた。本校の損害額は約七十万円に逢していたが復興は急を

たので'の日震災復興特別予算案が成立した。総額は十万九千九百で、内訳は校舎修理費及び部設術修

理新設に九百'四百三坪の校舎建設および設備資金に八万二となっていた。

1万㌧経常予算の編成は当時の学校の主脳部にとってかなり厳しい内容を余儀なくされた.当初の経常予算は十四

万五千円で'教職員の俸給が七万一円であったが、二四名の教職員の職と残留者の俸給の一割から三割カッ

トで合計三万六円に削減することに成功た。大正二年一月二日には新館の修理が一部落成し、属医院を

‑ 261

(12)

再開'十三年二月十五日には修理が完了した。一方西校舎は十二年十二月二十日に完成し'三年級が慶応からもど

り、大正十三年三月二十日には二百五十坪二階建の東校舎が完成し'卒業式以後これを使用することになった。した

がって慶応での間借り生活は'三月二十日をもって終わりをつげた。なお本校は私立学校に対する文部省の震災応急

施設費三万八千円を大正十三年三月交付されている。

の救援

大正十二年九月二十一日'エル・イーパーラーは血脇守之助を訪ね、曜災歯科医の国際的救済策について協議

し'同月二十四日には.バトラIの肝入りで帝国ホテルで日本連合歯科医師会会長血脇守之助、奥村鶴書(東京歯科医

専)'川合渉(日本大学歯科)'森田五郎(森田商店)が米国代理大

C.N.ジ ョソ ソ ソ ア メリカ歯科 医師会 会長 , デ

ンタル コス モス主 筆を務 めた (米談会)使国とソフしジンァェ、

国 務 長 官 宛に'

「 大 震 災により 一 千歯の 科医師おび七よ 校五中 校

の 歯 科医 学 校と 六 社中 五 社の 歯 科 商 店 が 全

滅し

たをてるもっ 米国 歯 科医師 会 におい て 何 等 か の 救 援 策 を 講れを望むるこらとじ

」と

打電時に欧州同Lt の 歯 科団 体に 対て同もし 様な 要 請 が 行 わ れ た。

バラト は 一 八 八 八 年 生

れで'

一 九 二 二 年スノ

ウ エ スタン 大 学 歯 科

部を

業し、

保 存 学 教 室 に 勤 務し' 一 年 後 青

雲の

志を抱いて来日

L

(13)

した。しかし'若き日のバトラーはこれに屈せず、救済の国際的キャンペーンを守之助と共に開始し、日本連合歯科

医師会に設置された日本歯科救済福利委員会委員長血脇守之助の下で副委員長を務めた。そして、これが横縁となっ

て以後歯科界の渉外方面で功績が大きかったので'守之助は大正十四年七月六日付で東京歯科医学専門学校教授にバ

トラーを任命した。

1万'日本連合歯科医師会は'各地の歯科医師会に対し義損金募集を開始し、関西で事務所窒兄都市烏丸

の堀内徹方に設置した。

シカゴのシー・エヌ∴ソヨンソンは'九月十九日付けの発信で守之助に、「貴下の要求何なりと申し出られたLt目下極力準備中に侯」と海外からの第一信を送った。

英国からは書記長ライPッ‑から守之助に見舞状が届き、九月二十三日発行のブ‑テッシュ・デンタル・ジャー

は、「血脇氏およびその同僚が如何なる災害に遭遇したるかは不明なれど、無事を祈る」との記事を掲げた。

フランスのプラッテ‑連合歯科医師会長もまた守之助宛に見舞状を寄せた。

ドイツのロェ‑マI教授は花沢教授に見舞状を寄せた。

このように'国際的な反響を呼んだ関東大震災に対する救援活動は、その後一年間に米国および英国の歯科医師会

および開業医から一万七百五十二円四十三銭の救援資金と、その他歯科材料の送付となって結実し、救援品受領委員

会によって羅災歯科医八百六十三名に対し、一人十円宛配分し'残金二千百二十二円十三銭は'東京歯科医学専門学校、

日本歯科医学専門学校、日本大学歯科専門部、東洋女子歯科医学専門学校、明華女子歯科医学専門学校へ配分した。

義損金送付者としては有名な矯正家アングル'口腔外科医ブロー7ィなど、団体としては米国歯科医師会'英国歯

科医師会'ニューヨーク州歯科医師会、ロスアンゼルス日系歯科医師会などの名前が記録されている。

ー 263‑

(14)

五等瑞宝章

大正十三年1月二十六日'皇太子裕仁殿下が久遡官良子殿下と成婚の式をあげられた。この慶事にあたり、二月十

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勲五等瑞宝章 (大正132月11日)

1・. 一日、血脇守之助は勲五等瑞宝章の栄誉を‑けた。歯科教育に

対する永年の功労が認められたものである。

学生代表星野憲作は、

「昨日の新聞に私学に礼を厚‑したと書かれていたが'これ

を読まれた先生は恐らく苦笑を禁ずることができなかったろう

と思う。勲章よりも文部当局が私学の何たるかを認めへ之に覚

醒してきたことが何よりも嬉しいことである」と述べ、

奥村鶴書も'「過去三十年間の苦闘に対し'無位無冠であることは一向に

差し支えない。人爵は先生に何の光明も与えない。勲五等はな

くてもよいが'当局が遅蒔きながらみとめて‑れたことに意義

がある」と述べている。

守之助はこれに対して、

「この勲章は学校が戴いたものであって私が頂戴したもので

‑ 264‑

(15)

はない。この勲章をコマ切れにして皆さんに分けるわけにも参りませんから、学校の金庫に奉安して永‑記念にした

いと思う。もし私が二十代の若者なれば、得意になったかも知れないが、五十五歳の今日では、このしなびた漠に得

意の色を浮かべる気にもなれない。ただそれだけのことであるが、官史や軍人の専売特許であった勲章が私如きもの

まで授けられるようになったことは政府が人民と益々接触しょうとしている証拠で甚だ喜ばしいことである。だんだ

ん人民本位になってきたが'今後もこれで進まねはならぬと思います」と挨拶している。

奥村鶴吉の言葉をかりれは'血脇守之助は、当時において歯科界崇敬の的であり'その後時代の経過とともにます

ます別格化される傾向にあるが'叙勲、栄誉に臨んでの本心の吐露をみると'極めて平民的であり、福沢諭吉の訓え

に忠実な使徒であったことが窺われる。

ときあたかも大正テモクラシーの最盛期であり、時代思潮の影響を反映した発言とも受け取れるが、現在のわが国

では想像しにくい官・民の隔たりの中で受けた栄誉であった。

名誉法学博士

大正十四年六月十日米国シカゴへロヨラ大学の第五十五回学位授与式において'ー総長から血脇守之助を

含む四名に対し名誉法学博士の学位記が贈られた。

米国歯科医師会長シー・エヌ∴ソヨンソソは'この日の様子を早速書簡として守之助宛に発信した。「小生'只今tPヨラ大学の学位授与式にのぞみ'帰宅いたしました。貴下は既にドクター・オブ・ローズとなら

れた。このご通知を差し上げることは、私にとって欣快の極みであります。もし貴下が'来臨されていたならば、

‑ 265

(16)

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● 鮫 : 1

血脇守之助の名誉法学博士学位記 (大正 146月 10日)

L.L.D学位授与 渡総長にた接直かおでのまこらきニグとしュー、

に 残 念 に 思 いま す。 総 長 は、

駐日 米国 大使から日 本で 学位記をお 渡す予定であ申るるとし さ れ涯い嬉ほ与授位学今て通生生おた。小全回ののをまこしどしじり と は な かっ たと 申あげてもし 過 言では あまり せ ん‑‑

」。 守 之助 へのLDL・・ 学位授与推進の 者は外'

なら ぬジンソンョ そ の 人 であてロヨラっ、 大 学に対守し 之助 の 功 績を 上申たし。

「 血 脇氏は日 本におけ有名なる 歯科医であり'

現 在 東京 歯 科医 学 専 門 学 校医学科歯に職要会長科本校長歯報合連のにの師あさら日り、、 の 主 筆であり' 歯 科文献に関 する 有力な 寄 稿家であそてるし。 教 授と し て' 仁 徳家設校学主世救界科歯て立のて、のととしし' 者て、とし 語 学 者て'とし 紳 士てとし、 東 京市民てとし 有名 人であり' 氏を 知る 人にてし 尊 敬念のを 払わざる 者なし

」学位記授与式場紹介演説のでと を 行なているっ。 L・ L・ D 学 位,はgooとcDmueLaswLfrotcoDt

o r ( 名 誉 法学 博 士)の 略 称で米国では最高名誉の' 学位れと、 前ド イツ 皇 帝第' 一次世界大戦の連 合 軍総司令官元師なフツシュォ ど日' 本では 公 爵 伊 藤 博 文 (元 総 理 大臣 )、

法 学 博士 鳩山 和 夫 ( 東 京 帝国 大 学 法 学部 教 授 )'公 爵松 方正 義 (元 総 理 大臣

)、侯爵小村寿太

(17)

(日露戦争当時の有名な外務大臣)、伯爵金子堅太郎等が授与されたに過ぎず、野口英世が何加に有名でも'授与の

対象にはなっていなかった。

名誉学位授与の推薦から受領までの間が、あまりにも急なことであったので、東京側でも大急ぎで授与式の準備が

進められた。

六月二十六日に式典を行なうというのに、六月十五日付で招待状が発送されるという忙しさであった。

この招待状の発起人には、政、財、官、医、歯界の超一流メンバーが名前を連ねるという豪華さであった。

大正十四年六月二十五日午後五時から、帝国ホテル演芸場で学位記授与の盛典が挙行された。

来賓には各界を網羅する二百余名を迎え、急なこととはいえ'全国各地から参集した歯科医は四有名を突破した。

そのほか、この盛儀に是非参加をということで'在校生五首余名が全員式典に参加したので、さしものホルも満席

となり'後方周囲は着席できない人々で埋った。

定刻、エーバンクロフト米国大使が、ロヨラ大学総長代理としてステージに姿を現わすや全員起立

してまず米国国歌が、次いで君が代の斉唱が行なわれた。五首の健児はこの日のために米国国歌の特訓をうけたと

いう。斉唱が終わり、全員着席するや'ステージ左側から東京慈恵会医科大学長・貴族院議員医学博士金杉英五郎

を先頭に、この日の立役者血脇守之助、そのあとに前内務大臣子爵後藤新平、前文部大臣・貴族院議員鎌田栄吉、東

京歯科医学専門学校評議員代表富安晋へ京都帝国大学総長代読武藤登喜次郎、式典主任守屋賢吾が入場した。参列者

の眼は一斉に学位服、学位帽に威儀を正した守之助に注がれ、守之助の栄誉をわがこと、わが歯科界の栄誉として喜

び万感胸に迫る面持ちであった.やがて金杉英五郎が1歩前に進み出で、ポケットから草稿をおもむろにとり出し'

一明星を紹介するの任に当たりLは欣快の極みと前置きしながら血脇守之助の功続を紹介し'日本歯科界の恩人であ

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学位記授与式 (帝国 ホテル宴会場にて 大正14年6月25日)

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ると結んだ。

金杉英五郎が畦を返すと、不動の姿勢で満場の視線を浴びていた血脇守之助が米国大使の前に進み出で'大使の式

辞を受け'ついで学位記を受けた。この時、満場'割れるはかりの柏手が湧き上がった。介添えを務める後藤新平、

富安晋は、守之助の両側に歩み寄り'手にした学位綾を胸にかける。大使もこれを手伝い着装を整える。コバルト色

の学位綬がひときわ鮮やかに、学位帽のフサも金色燦然と輝いた。

か‑て学位記を手に、学位服に身をかためた守之助は、中央に進み出て謝辞を述べ、

「今回の学位受領は、私個人の栄誉であるのみならず、日本の歯科界の光栄である。ここにpヨラ大学'バンクロ

7‑閣下のご厚意に感謝すると共に、米国歯科医師会、日本歯科医師会に満腔の謝辞を呈する次第である」と挨拶

し'再び嵐のような拍手をあびた。

鎌田栄吉'荒木寅三郎の祝辞の後で、守屋賢吾式典主任から内外の祝電二百五十余通が披露された。この後'後藤

新平が前面に進み出で、万歳三唱を唱え'全員これに唱和した。

式典後'大食堂に舞台を移し、祝賀会が開催された。人波をかき分けてメーンテーブルに歩む守之助に'両側から

握手の手が差し出される。「お目出とう」「やあこの度は‑‑」握手攻めにあいながら、手の痛さをこらえながら、

守之助の顔は喜びに輝いていた。

メーンテーブルには'バンクロフト、高山紀斎'後藤新平'枢密院顧問官有松英義、血脇守之助、これと向かいあ

わせに、富安晋へ政友本党総裁床次竹二郎'鎌田栄吉、司法大臣・貴族院議員小川平吉が着席した。

大正の世'フォックストロットのモダンな調べが流れる中'六百余人が一斉に会食を進める宴会は'帝国ホテルで

も稀にみる大集会で、守之助の親友帝国ホテル支配人犬丸徹苦心の演出による大盛会となった。

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やがて恒例のテーブルスピーチが始まる。まず鳴矢を切ったのはバンクロフトで、守之助の背後に廻り両肩に手を

置き'親しげに語りかけた。これに続いて後藤新平'三井信託会社社長米山梅吉、慶応義塾大学医学部長・医学博士

北島多一が栄誉を称賛したが'床次竹二郎は'

「‑‑世の中には≡幅対というものがあるが、今夜は何如なる因縁によるものか、まことに不思議な三幅対が並ん

でいる。医者から出て医者に非ざる後藤新平、鼻の医者であるのに'これまた鼻の医者らしからぬ金杉英五郎へそし

てその真申に歯科医らしからぬ同額の血脇君(米山梅吉のスピーチで、血脇君が歯科医になったのは誠に不思議であ

る。われわれ友人は天下の経給に任じたらどうであろうかと勧めているという話をうけている)'まことに面白い三

幅対であると思って眺めている‑‑と満場を笑わせた。

後日談になるが'バンクロフト大使が在日中'公式行事に出席したのはこれが最後で'七月二十八日軽井沢で静養

中胃濃癌のため逝去し'遺体は軍艦多摩で米国に送られた。八月五日の告別式'六日の葬儀には、本校はじめ日本連

合歯科医師会、東京市歯科医師会から代表を派遣し、生花を贈って弔意を表した。

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参照

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