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こぺる No.201(2009)

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インタビュー この国で生きて七十一年 東原清子+藤田敬一 ひろば⑫ いのちいっぱい学びたい 一夜間中学生の f学びのカ

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吉岡千代美 自分史のこころみ④ :5日(毎月1回25日発行)ISSN岨194843 こぺる刊行会 「在日」から見えてくるもの(1) 一民族との出会い 金 光 敏 いのちを生きる⑧ 職員室に大声が響く 長 谷川洋子 映画の現場一写真と文 小 林 茂

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写 真 ・ 吉 回 泰 三 文 ー 小 林 茂 「彼らは自分の思い、境遇、本当のことを語ろうとはしない。偽名を使って 街で暮らす子も多い。でも、肉体・表情が「生きている」ことを語っている。 言葉としては出てこない彼らの想いを、皮膚を透かして見たい一心で、息を詰 の ぞ めてファインダーを覗き込む日々が続いた

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(吉田泰三カメラマン) 一一「チョコラ!」(タバコを吸うアンドリュ一、 2006年) ケニアの首省日ナイロピの近くにある人口10万のi地方都市ティカ。ストリートで暮らす子 どもたちは「チョコラ」(スワヒリ語で拾うという意味)と呼ばれる。貧困、エイズ被害、 シングルマザー、暴力、都会へのあこがれなど多様な原因を背負って、子どもたちは附へ 出てくる。地にまみれ鉄くずやプラスチックを拾い、カンフー映画を楽しみ、夜は軒下に 限る。 アンドリュ一(14)は気のいいやつだった。シンナーが離せない。小きい時から父親に ののし 反抗して家出を繰り返した。農村部の実家に同行した。父親はキクユ訟で彼を罵った。 「議っきめ。 ll[Jで野垂れ死にか!」。「お前が舗にいなくて私に何ができる」と嘆いた。 アンドリューは踏みしめるように、ゆっくり庭を歩いた。小さな甥っ子と犬と「いっしょ に娠ってよ」と言った。そして、おみやげの小さなネックレスをその子の首につけた。

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この国で生きて七十一年

東原清子︵スナック経営・大阪市在住︶十藤田敬一 藤田敬一去年、この店に寄せてもらい、飲むうちに、 な か っ ち む た り 長野県の中土とか小谷といった地名が出てきてびっくり しました。コ一十数年前、ガイドブックに女印がついた小 谷温泉が眼にとまり、国鉄大糸線中土駅で下車して、タ クシーで向かいました。以後、何回か出かけたことがあ る ん で す 。 東原清子小谷温泉の山田旅館は父がよくお世話になっ た と こ ろ で す 。 藤田わたしにとっては気ままな旅で出かけた場所にす ぎないけれど、あなたにとっては・: 東原ふるさと。長野県北安曇郡小谷村中土宇高知です。 私は韓国人だけど、ふるさとは小谷村中土です。このア ルバムを見て!この景色、姫川の流れ、山や木の姿。 い や この景色に癒されて、元気をもらって大阪でがんばるん で す 。 一 藤 田 土 石 流 が よ く 起 こ る と こ ろ と か 。 一 東原その工事を父がほとんどやっていたんです。父は一 韓国の慶尚南道出身で、昭和天皇と同い年、明治コ干四一 りえいきく ︵ 一 九

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こ年の生まれです。李栄作。栄作は通称名や一 ぼくとくふん一 けど。十九歳で日本に来たと言ってました。母は朴徳粉。一 藤 田 あ な た は 何 年 生 ま れ で す か 。 一 東 原 昭 和 十 三 年 ︵ 一 九 三 八 ︶ 年 四 月 二 十 九 日 。 一 藤 田 わ た し と 同 年 や 。 一 東原七人きょうだいの二番目、姉が小学生の時死んだ− の で 長 女 と し て 大 き く な り ま し た 。 一 藤田お父さんの仕事は? 東原土木の仕事です。白いダブルの背広を着て。その一 ゐ め か 当時としては垢抜けた、ハイカラな人ゃった。黒部ダム F こべる 1

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藤田敬一編集長 の建設にもかかわっていたみたい。親方として飯場を張 って。がんばった人ゃった。 藤田経済力があったんだ。 す ご 東原もの凄い人ゃったね。男兄弟九人の末っ子。財産 つ ま よ う じ なし。爪楊枝一本もない。だから日本にやってきた。字 もわからん、言葉もわからん。その中を生きたんです。 帳簿をつけるにも日本の文字がわからないから絵でかい ていました。軍手・地下足袋・長靴・タバコ、みんな絵。 電球はピカピカと光を放っている絵:・。 藤田お父さんはいつ亡くなられたんですか。 の う い っ け つ 東原わたしが中学三年生のとき、脳溢血で。五十二歳 だったかな。それからは生活も苦しくなりました。 黒田ダムの建設が始まる少し前のころやね。 まかないさんなどたくさんの人が働いていて。大 東 藤 原 田 黒柱が亡くなったんだから、そら大変ゃった。母は数年 前、八十八歳で亡くなりましたが、物静かな、上品な人 で し た 。 藤田中学校を卒業してからは? 東原東京の朝鮮学校へ行きました。けれど学校に火を つけられたりして、こわい思いをしたこともあります。 藤田朝鮮戦争の休戦協定が締結されてちょっとあとぐ らいかな。学校ではどんな勉強をしたんですか。 東 原 マ ル ク ス ・ レ

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ニン主義や北朝鮮の歴史など。 藤田いまでも覚えてることがありますか。 東原うーん、あまり覚えてないなあ。一緒に勉強して いた弟は北朝鮮に行ってしまいました。 藤田いまでも連絡はありますか。 東原あります。 藤 田 そ の あ と は ? の ぷ し ろ 東原結婚して延城清子から東原清子へ。 藤 田 結 婚 は い つ ? 東原昭和三十四年に北安曇郡松川村の農家へ嫁ぎまし た。同じ韓国人の人でした。息子がひとり。いろいろあ って夫とは別れ、大阪にきました。稼ぎ頭がいない。夫 がいないから私が働いて子どもを育てました。

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藤田どんな仕事を? 東原最初はね、京橋のパチンコ屋さんに住み込みまし た。お風目屋さん、パン屋さんとかに働こうとして行っ て 、 書 く で し ょ 。 藤田書くというのは、履歴書みたいなものを書くとい う こ と で す か 。 東原そうそう。ところがね、書くときにわかる。私が 日本人じゃないということが。全部蹴られるわけ。 藤田在日ということがわかるんですか。 東原差別を感じまじたね。それに、米屋で米を買うと きにね、他の人は顔見知りで、すっと売ってくれるのに、 私は初めてだったので、﹁米穀通帳は?﹂って。持つて ないから外国人登録証を出した。そしたらさらに冷たい 視線で見るんです。それまでお米を買った経験がなかっ 東原清子さん クラブで働いたこともあります。何にも知らなか一 ったの。右も左もわからんかった。田舎もんやから。で一 ね、お客さまがないわけ。客のない人は五時出勤。五時一 出勤ということは、もう四時、四時半から行っとかなあ一 かん。着るものがないから、貸衣装をその日に五

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円 、 一 七

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円とか九

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円で借りるの。ずらつとならんでい一 る 。 ﹁ こ れ 今 日 、 借 り た い ﹂ 、 ﹁ こ れ 七

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円﹂。当時では一 高 い の よ 。 ﹁ 五

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円はここからこっち﹂。やぶけている一 ものがある。くりかえしクリーニングするから。私はお一 金がない、子連れだし。五

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円のを借りたらやぶけて一 たりしていることを知らなかった。ホールに出て働くと、一 お見えになったお客さんがうちの顔ばっかり見てるなと一 思ったら、この襟元が洗い切れしてるの。擦り切れて。一 ﹁君、手を出しなさい﹂。手を出すと、丸めた紙切れ。私一 がそれを灰皿に捨てると、また手にとって﹁はい﹂。﹁え一 つ﹂と思って開けてみると、あら一万円札。﹁君にあげ一 るわ。そこの襟がやぶけている。この金で明日、服を買一 東原 藤田 の冷たいまなざしは今でも忘れられません。 の大変さをつくづく感じ、本当にわびしかったです。そ たし、米穀通帳のことも知らなかったし、米を買うこと う j ん 。 こぺる 3

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いなさい﹂。そんなお客さんがいました。﹁でもこれ、い ただいていいんですか。うれしいけど﹂。﹁すみません、 ありがとうございます﹂ 0 藤田自分のお店を始めはったのは? 東原あれは、昭和四十六年六月一日。コーヒーにタマ ゴとパンをつけて一

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円のモーニング。女きょうだい 三人で始めました。店の名前グ杉の子 d はふるさとのこ とを考えてつけました。いろんなことをしましたね。十 五万円の中古車を手に入れ、真夜中に古紙回収をしたこ と も あ り ノ ま し た 。 藤田子どもさんを育てるうえで大事にしてこられたこ と は 何 で す か 。 東 原 ウソをついたら承知せんと。どんなに小さいこと でもね。息子はもう五十歳。 藤田子どもさんご夫婦の国籍は? 東原韓国。 藤 田 お 孫 さ ん は ? 東原男の子二人です。上は大学生、下は高校生。みん な韓国。当然です。 藤 田 いま、こうしてスナックを聞いていて、日本と韓 国の関係についてどう思っていますか。 東原そうですね、いろんな人がおられますね。うちの ギ A F B し 店は割り箸を使わない。割り箸は使うとゴミになるし、 経費がかかります。わが国のこの箸はけつこうな値段は しますが、傷まないし、洗えば何回でも使える。でね、 この箸を出すと、﹁あてなんやこれ。ママ、朝鮮か﹂ っ て い う 人 も い る 。 藤固まだ﹁朝鮮か﹂ということがあるんですか。 東原あります。あります。﹁私は、韓国です﹂と答え る。プライドを持っていますから。私が店で食事してい る時、入ってきたお客さんが、キムチを見て﹁俺も食べ たい﹂と。それが始まりで今ではキムチの商売もしてい ま す 。 藤田この箸は韓国語では? 東原チヨツカラッ。スプーンはスカラッ。別注して福 とか書とかの漢字を入れています。すると、持って帰っ てしまうお客さんがいる。珍しいから。 藤田あなたのいうプライドというのは? 東原ずうっと子どもの頃から持っていました。私をど んなに見下げようが、私はきっちり心の中に韓国だとい うこと思って生きてきました。

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韓国の経済成長にともなって、日本人の韓国を見 る 目 も 変 わ っ て き た ん じ ゃ ・ な い で す か 。 東原それ、私は感じないのよ。 藤 田 感 じ な い ? 東原日本人の見方が変わってきたとおっしゃられでも、 ピリッとも思わない。元から、最初から、こちらはプラ イド持っている根性の人間ですから、途中から変わりま したといわれでも、うれしいという気持にはなれない。 藤田今、日本では韓流ブ l ムが起こっていますが。 東原ああ、全然。﹁ころころ変わんな!﹂と思うだけ。 藤田大阪の環状線鶴橋駅を降りると、静館酢コリアタ ウンがあり、たくさんの観光客が集まっています。 東原私はそういうのも特別には思わない。 藤田自信を持っているから? 東原自信というよりも、最初から韓国人なんだから。 ま な ざ 藤田でも日本人の目差しを感じることは? 東原﹁目は口ほどに物を言う﹂といいますけど、そう い う お 方 も い る し : ・ 藤 田 だ か ら 韓 流 ブ

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ムとかについてはどうのこうのと 思うことはない? 東原少しも思わない。 藤 田 藤 田 小 谷 村 に 帰 る こ と は あ り ま す か 。 − 東原同窓会でみんなと再会したりもしています。中学一 校を卒業してから随分同窓会に行かなかった。久方なが一 ら初めて行ったんです、松本へ。卒業当時は四十二人。一 同窓会参加者は二十二人でした。事情で来ない人とか、一 亡くなった人とか。戦後にブラジルに移民した人もいる。一 藤田大阪から松本まで行く気になったのはどうして?一 東原なつかしい思いで行きました。

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ちゃんから電話一 もかかり、手紙も葉書もきました。﹁おいで!﹂って。一 その子は日本人やけど、お父さんが戦争で死んで。どこ一 の家もそう変わらないのに、子どもの心ってね。いじわ一 る に な っ た り す る : ・ 。 ︵アルバムを見ながら︶この担任の先生はね、すごく キリッとした先生ゃった。

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ちゃんはどこにおるかなあ。一 え え 子 な ん だ け ど ね 。 い ろ ん な 子 が お っ た ね 。 一 藤田

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ちゃんは見るからにしっかりした娘さんやね。 E こ の 先 生 か 。 男 子 生 徒 は 丸 坊 主 で 。 草 履 ゃ な あ 。 − 東原そら昭和二十五年ゃからね。みんな貧乏ゃった。一 同窓会で集まっているところへ入っていったらね、ある一 あ い さ つ 同窓生が、目をそらすんです。二、三回くらい挨拶を試一 こベる み た ん で す 。 5

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二 、 コ 一 回 挨 拶 し た ん で す か ? 挨拶したけど、聞こえない態度をとるんです。 わたしにも、そんないじめをした体験があるから つ ら い 話 ゃ な あ 。 東原二十二年ぶりでも、﹁オツ﹂と言ったらね、わか ってるはず。わかっているのに聞こえてない態度をする の。座敷の向こうに十一人、こっちに十一人、並んで久 しぶりの乾杯。でも、そのうち気分がほぐれて、ことば を交わすようになりました。﹁清子、ょう来たな。久し ぶ り ゃ な 。 ど こ に お る ん ﹂ ﹁ 大 阪 ﹂ 。 藤田彼が何十分かたってから﹁清子、ょう来たな﹂と 声をかけてくれたとき、あなたの気持ちはどうでしたか。 東原互いに頭に白髪が出てるんやから、そんな幼いと きのことをいったってしゃあない。どう生きるかや、人 藤 田 東原 藤 田 生 は 。 藤 田 何十年かたって同窓会を通して気持ちが通じるよ う に な っ た ん だ 。 東原わかってあげたらええねん、私が。気持ちよく会 え ば え え ん や か ら 。 藤田小さい頃に味わった体験はなかなか消えない? 東原消えてますよ。だって、そんなことを言ったのは 一人か、何人かだから。私の店には今、何千人という日 本の方が、来てくださっている。すごく幸せ。だからそ んなことはあまり思わない。 藤田今は忘れたいと? 東原私自身、ひとりの人間としてプライドを持って生 きてきました。何人︵なにじん︶とか言われたくない。 ウソもつかない、正直に生きる。 藤田人︵じん︶で人︵ひと︶を決めないこと。 東原だけど、そういう考え方をする人がたまにいる。 そのとき、私は、もういっぺん、相手の目を見直す。目 をそらす人もあるし、そらさん人もいる。 藤田個人的な体験につながるわだかまりは消えること もあるだろうけれど、民族や国家の聞の歴史を背景にし た体験・経験に根ざす感情の和解は、そうたやすいこと ではないということやろね。今夜は、ありがとうござい ま し た 。 ︵ 二 OO 九 年 六 月 三 日 、 ﹁ PUB 杉 の 子 ﹂ に て ︶

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ひろば⑫

いのちいっぱい学びたい

夜 間 中 学 生 の ﹁ 学 び の 力 ﹂ 吉岡千代美︵中学校教員・大阪 府 羽 曳 野 市 在 住 ︶ 夜間中学校は学齢期に戦争や障害や差別や貧困のせい で、学ぶ機会を奪われた人たちのための学校です。そこ では、年齢も国籍も背景も生きてきた道のりも全く違う、 多種多様な人達が一緒に学んでいます。 ちなみに、私が勤める東生野中学校夜間学級は生野 区・東成区に住んでいる在日朝鮮人の生徒さんがたくさ ん通ってきているので、在日韓国・朝鮮人が九一%、女 性が九五%、平均年齢六五歳。おおよそ、こういう構成 に な っ て い ま す 。 夜間中学校は社会的な側面から言、っと、地域のみなら ず、この国、いや世界中の矛盾や問題が集まってきてい る場所です。また、他方面から考えると、仏教室一言うと ころの﹁四苦生・老・病・死﹂の全てが、日常的に身 近に存在している所だとも言えます。 実際、生徒さん達は生まれ落ちて以来、苦労苦労の連一 統で、年老いては様々な時に死に至る病を抱え、また子一 どものこと、孫のこと、夫のことで頭を悩ませながら、− 日々登校してきます。そして、まれに卒業を待たずして、一 亡 く な る 方 も あ り ま す 。 一 数年前、ある新入生の方が担任の所へ来て、言ったそ一 が ん うです。﹁末期癌で余命三ヶ月と言われたので、学校を一 やめます﹂と。担任が﹁そんなこと言わずに、学校に来一 たらどうですか。年齢から言って、病気の進行はそんな一 に早くないでしょう。実際、生徒さんの中には三ヶ月と一 言われて、一年、二年がんばっている人が何人もいてま一 すよ。がんばって卒業して、卒業証書を棺おけの中に入一 れたらよろしい﹂というと、生徒さんの顔がぱーっと明一 るくなり、再び登校するようになりました。結局、半年一 ほどで亡くなったのですが、お悔やみに行った私たちに、一 娘さんはおっしゃいました。﹁母はいつかまた元気にな一 って、学校に行くのを楽しみにしていました。そして、一 最後の最後まで希望を持って、生ききりました。悔いは一 な か っ た と 思 い ま す ﹂ 。 一 生徒さん達は、口をそろえて言います。﹁学校へ行く一 のが子どもの頃からの夢だった﹂と。頭の柔らかい学齢− こべる 7

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期に、本当は学習を保障されるべきだったのです。しか し、その時点から、生徒さん達の多くは、家族の生活を 支えるために働かざるを得なかったのです。その後は結 婚して家事をこなし子どもを育て、ある人は孫のめんど うまでみて、そして夫を見送り、人生の一番最後になっ て、やっと学びに出合えたわけです。 学びたいという思いを、人生のスタート地点から終わ り近くまで、半世紀以上も持ち続け、実現すること自体、 奇跡のようなことです。しかし、本当の寄跡は、﹁学び の力﹂でもって、人間の大命題である四つの苦悩と果敢 に闘う、生徒さんたちの日々の姿にあるのではないでし ょ 、 っ か 。 一昨年の暮れ、私のクラスの生徒さんが

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型肝炎から 肝臓癌になり、亡くなりました。亡くなる数ヶ月前まで、 毎日ほとんど休まず登校していました。﹁点滴と注射で、 こんなになってしもた﹂と、パンパンに腫れ上がり黒紫 に変色した腕を見せて、﹁情けないなあ﹂と笑うのです。 一三歳から年齢をごまかして働き、その後、夫とカバ ンの工場を起こして地域に根を張り、食いつめて祖国か ら密入国してくる人たちを何人も助けてきた人です。密 入国の途中で生まれた赤ん坊を自分の籍に入れてまで守 っ た こ と も あ っ た そ う で す 。 一 病気が進んで体が思うように動かず、放課後、教室を一 出るのはいつも一番最後でした。勉強道具をゆっくり片一 づけ、そろりそろりと教室を出ていきながら言うのです。一 ﹁ さ あ 、 家 に 帰 っ た ら 、 ま た も う ち ょ っ と 勉 強 し ま す わ ﹂ 。 一 ﹁体調悪い時は、そんなに無理せんといてくださいね。一 ゆっくり、ぼちぼちゃりましょ﹂と、私が言うと、﹁い一 ゃあ、あんまりゆっくりもできませんねん。残り時聞が一 短いよって・:﹂。そして、大きな口を開けて、力なく一 ﹁あはは﹂と笑うのです。それから数ヶ月足らずで、亡一 くなりました。死の床で、息子さんに言っていたそうで一 す。﹁死んでも、すぐには学校に知らせんように。お通一 夜やお葬式の行き帰りに、生徒さんらが転んで骨動でも− したら、えらいことや﹂ o そして、一段落したら学校に− 連絡して、丁寧にお礼を言って欲しい、と。こうして、一 最後まで、夜間中学の仲間の心配をして、逝かれました。一 それから、今年になって、また一人亡くなりました。一 その方も、人の子も含めて、沢山の子や孫のめんどうを一 みてきた人です。リヤカーに手作りのキムチを載せて、一 人

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歳まで売り歩き、地域亡も有名な﹁キムチ崖のおば一 ちゃん﹂でした。八

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歳を過ぎて、その節くれた誇り高一

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い手にキムチの代わりに鉛筆を握りしめ、ものすごい集 中力で学び始めました。 三年前に私が担任を持った時、子どもの頃の聞き取り をしたことがあります。家族で飯場を回り、肉体労働を する両親に代わって小さい弟妹の世話と家の仕事をして いたと言います。ご一歳でお母さんを亡くした時のこと を、細部まで日に浮かぶように話してくれました。お母 さんはいつも白いチヨゴリと黒いチマ、色物一つ身につ けるでなく、身を削るようにして働いて働き続けて、三 五歳で生涯を閉じたそうです。 おそらく、学校へ一度も行ったことがないその生徒さ んは、いつも穏やかな賢そうな表情で教師の話にじっと あ い づ ち 耳を傾け、深く相槌を打っていました。 ところが、その人がいつからか、やけに漢字を書くこ とばかりに執着するようになりました。漢字のプリント を配ると、教師の説明も授業の流れもお構いなしで、机 に顔を埋め、一心不乱に漢字を書き込んでいくのです。 ﹁・なんでそんなに慌ててるんですか?﹂と、一度聞い てみたことがありました。﹁さあ、なんでやろ。なんか しらんけど、気がせいてしゃあないんですわ﹂と、笑っ ていました。亡くなったのは、それから一ヶ月ほどたっ た頃でしょうか。米寿を祝う会を子や孫に聞いてもらい、一 大きな花束をもらった翌日のことでした。それにしても、一 人生の最後に気がせくほどせずにおられなかったのが、一 漢 字 の 勉 強 だ っ た と は ・ : 。 きっとどの人も、明日はまた元気になって、もっとも一 っとがんばろうと思い、最後の眠りについたのではない− かと思います。学ぶことは自分を磨くことです。今日よ− り明日さらに成長する自分自身を信じることです。明日一 を信じる限り、最後の一瞬まで人は輝けるのだというこ一 と を 、 身 を 持 っ て 教 え て も ら い ま し た 。 一 亡くなった方の話ばかりではありません。今年、私の一 クラスに七九歳の新入生が入ってきました。聞けば一

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一 年前に高校生の孫を落雷で亡くしているそうです。それ一 から、その子の父親、自分の夫、そして、つい最近その一 子の母親つまり自分の娘を、長い看病のあげくに亡くし一 た と 言 い ま す 。 そ し て 、 今 は 一 人 暮 ら し で す 。 − 話を聞くうちにこちらが辛くなってきて、自然、頭が一 下がってきました。多分、今はそれどころではないだろ一 うけど、一応、今後のことも聞いておかねばなりません。一 ﹁ で 、 ど う で す か r?高校進学を考えておられますか?﹂。一 その人は力強い声で、即座に答えました。− こべる す る と 、 9

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﹁はい。高校へ行きたいです!﹂。﹁そうですか!がん ばりましょうね!﹂。思わず生徒さんの手を取って私が そう言、っと、七九歳の新入生は、少女のようにはにかん ひ ら で笑いました。﹁学びの力﹂で人生を切り拓いていく、 さ わ 爽 や か な 笑 顔 で し た 。 ここで言う﹁学びの力﹂とは、﹁学んだ結果、得た 力 ﹂ と い う よ り 、 ﹁ 学 ぼ う と す る 力 ﹂ の こ と で す 。 もちろん、﹁学んで得た力﹂で自らを表現し、識字の 文学賞を受賞した人もいます。その人は、文字を得て、 自分らしさに自信が持てるようになり、﹁体まで一回り も二回りも大きくなったように感じた﹂そうです。夫を 亡くし、仕事に行き詰まり、﹁もうだめだ﹂と思った時 も、﹁そうだ。私には書くことが残っている﹂と立ち直 あ ふ り、卒業された今も溢れるような思いと言葉を書き続け て い ま す 。 もちろん、それはすばらしいことです。しかし、そこ までいかなくても、﹁学ぼうとする力﹂だけで、充分す ご い で は あ り ま せ ん か 。 ﹁さっき覚えたこと、後ろ振り向いたら忘れてるが な﹂と生徒さん達はなげき、去年できたことが今年でき なくなっていることにショックを受けています。それで も、遠足、フィールドワークと聞けば、痛い足腰をだま しだまし参加し、美しい景色や下水道の仕組みに感動し ます。外国の子ども達の悲惨な現状に息を飲み、﹁私ら つ ぶ や もそうやったなあ﹂と肱き合います。とにかく、見る もの聞くもの興味を持ち、どこへでも行きたい、なんで も し て み た い の で す 。 ﹁学ぼうとする心﹂にとって、この世界は学びの宝庫 です。知識の海です。知恵の泉です。ただ、返す返すも 残念なのは、﹁体がついていかん﹂﹁命がたらん﹂ことな みずみず のです。この生徒さん達の思いを、若木のように瑞々し い体を持つ子ども達が引き継いで、明日を生きていって くれたら、どんなにすばらしいでしょう。これが私たち の 心 か ら の 願 い で す 。

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自分史のこころみ④

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︶ ー 民 族 と の 出 会 い 金光敏︵京都市在住・保育士︶ 在日コリアンであることを自分の真ん中に据えて生き 始めたのは、ちょうど二十歳の頃でした。今自分の子が 同じ歳になり、やっと私自身、少し周りの景色も見えて、 人との関わりに柔らかきを求める年代になりました。山 の中腹で立ち止まり、一度深呼吸して、自分の来た道を 振り返ったら何が見えるだろう、そんな思いで書いてみ ま す 。 大学生の頃は、自己を確立しようと無我夢中でした。 他者との関係の中で自分を見つめる余裕はなく、﹁私は 何者?﹂﹁在日コリアンであることの意味は何?﹂﹁社会 をどう位置づけ変革するのか﹂と常に自分からのベクト ルで反復し続け、いつも肩に力が入っていたように思い ます。今思えば、未熟だけど青く瑞々しい季節でした。 一 九 八

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年当時、韓国で長く続いた軍事独裁政権に対し一 ての民主化闘争が光州を始め全国に広がり、その闘いの一 壮絶さは日本にも伝えられました。私達在日コリアンの 学生は、本気で祖国の統一を自己の解放として位置づけ、一 韓国民主化闘争を日本で支援し闘っていたのです。しか一 し時代は既にキャンパスに政治の風を吹かしてはいませ一 んでした。そんな中で知り合った在日コリアンの先輩、一 仲間達、私達を理解しようとしてくれた日本人の友人達一 の存在は、私の人生の﹁︷主であり﹁誇り﹂です。夫と一 出 会 っ た の も こ の 頃 で す 。 一 私は自分が﹁在日﹂を背負うかのような気で過ごして いました。縁があって師岡佑行先生が所長をされていた 京都部落史研究所で一年間アルバイトをさせてもらった 時、ひとつの言葉に出会い衝撃を受けたのです。﹁自分 ひとりを代表して﹂。それはある意味で私を楽にさせて くれましたが、一方で自分に対する責任が厳しく問われ る言葉だと理解しました。在日コリアンが六

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万人いた ら 六

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万人の人生、生き方があります 0 年代、育った地 域、家庭環境が違えば、同じ在日コリアンといえども感 じ方も異なるでしょう。もちろん﹁在日﹂ということで こぺる 11

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共感し合い、﹁課題﹂を共有することも少なくはありま せん。学生の頃、私は﹁在日はこうあらねばならない﹂ と自分にも他者にも強要していました。今振り返ると、 ご う ま ん 他者を理解しようとしない自分の倣慢さ、短絡的な思考、 幼さに赤面してしまいます。ただそれは、民族という問 題で悩み、または避けてきたことへの反動から来る過剰 な自己表現でもあったのです。自己肯定感を取り戻すた めには、当時の私達は民族について溢れるほどのプラス 材料が必要でしたし、そこからしか始まらなかったので す 。 一九六一年大阪市生野区で私は生まれました。両祖父 母は戦前、日本統治下の済洲島から生活の糧を求めて渡 日しています。父方の祖父は当時では珍しく日本でタク シーの運転手をしていたこともあり、技術や言葉に優れ ていたようです。母方の祖父はガラス工場で働いていた そ ぱ 頃、ガラスで大怪我したことがあり、傍にいた日本人が 誰も助けてくれなかったことへの悔しさを口にしていた と、母から聞かされています。私はここで日本人の朝鮮 お お げ さ 人に対する差別を大袈裟に訴えたいのではありません。 実際私の友人の祖父で﹁親切にしてくれた日本人﹂の名 を通名にしているケ l スもあります。ただ多くの朝鮮人一 がこの当時、貧困と厳しい差別の中で生活していたこと一 は事実ですし、祖父の受けた屈辱は歳月によっても癒さ れることはなかったのです。私の母は十一人きょうだい一 の次女で、子供時代は弟妹の子守と母親の行商を手伝う− 日々でした。﹁オモニは雨になると行商を休もうとする。一 & 弘u z つ 私は雨の日は商売敵が休むから儲けるチャンスやとオモ一 ニを無理やり引っ張っていった。雨の日のほうがよく売一 れた﹂と私に利口な子供時代を自慢します。母は一九四− 八年の朝鮮学校閉鎖令の後に開設された公立の民族学校一 ︵大阪市立西今里中学校。一九六一年廃校。中大阪朝鮮一 初中級学校へ改編︶に通っていたことがあります。その一 当時の日本人教師が、コ干年後に自分の息子︵私の弟︶一 の担任になるという縁もありました。しかし母は家計を− 支えるために、中学を中退し働きに出ています。貧困の一 ために中学を卒業できなかったことへの無念さを抱え一 ﹁学校さえ出ていたら﹂が母の口癖でした。でも私の知一 る多くの在日のオモニたちがそうであるように、母の苦一 労話に悲壮感はなく、常に明るく生きる力がみなぎって一 いるのです。その後、母は生野のへツプ︵履物︶産業の一

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中の貼り工として働き、十九歳で父と結婚しています。 私は幼い頃、母の仕事道具である木製の靴のかかとをオ の り に あ モチャにし、糊とシンナーの臭いに包まれて遊んでいた 記憶があります。母は家でヘツプを作りながら、私の話 をよく聞いてくれました。ただ母から民族的な話を聞く のは大学生以降のことで、この頃、私はまだ﹁民族﹂と 出会っていませんでした。 私に朝鮮人であることを教えてくれたのは小学一年生 の時のクラスメートでした。朝礼で前に並んでいたクラ スメートがいきなり振り返り、﹁あんたチョ

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センや ろ﹂と指差したのです。民族との初めての出会いは、幼 い心に対応不可能な混乱をもたらしました。家で母に ﹁私、日本人ゃんな?﹂と問いただすと、母は困った顔 をしながら否定したのです。人生の中の大きな試練が六 歳の少女に押し寄せてきました。世間的には﹁真面目で 賢い子﹂だった私は、﹁チョウセン人﹂であることが自 分の唯一の汚点であり、隠すべき事実だと思っていまし た。生野区は在日コリアンの密集地区で特に済洲島出身 のコリアンが多く、中心部では過半数が在日の子弟とい う小学校もあります。私の地域は生野の中でも比較的日 本人が多く住む学区だったのです。日本で﹁日本人が多 く住む﹂という表現も奇妙ではありますが。たぶん私に 朝鮮人であることを知らせてくれたクラスメートの家の う わ さ 食卓では、悪いイメージで朝鮮人の噂が語られていた のでしょう。彼女の発する﹁チョ

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セン﹂という言葉に ぺ つ し お ご は、明らかに私に対する蔑視と自分に対する騎りがこめ か 仙 歩 合 られていました。それから私はだんだんと、批りのきつ い話し方をする祖父母の存在や毎月のように行われる祭 儀が﹁日本人でない﹂ことの証明だと気付くようになり ました。ある日、両親が立派なガラスケ

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スに入った朝 鮮人形を買って来て、長屋の狭い平屋のわが家に飾った のです。その日以降、私は友達を家に呼ぶことは小学校 を卒業するまでありませんでした。友人にも教師にも両 親にも心を開くことを忘れていた時期だったように思い ます。生野に住む私ですらこんな状況ですから、在日コ リアンが少ない地域で育った友人達の苦悩は私以上に深 かったと想像できるし、実際、大学時代の仲間からよく 聞いています。高学年になると、社会科の授業で触れら れる朝鮮史の時聞が私には地獄でした。心臓が激しく鼓 動し、私はずっとうつむいていました。先生が私の﹁秘 こベる 13

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密﹂をみんなの前で明かすのではないかと、とても不安 だったのです。目に見える明らかな差別を受けていたわ けではないけれど、わざと私に朝鮮人の悪口をこっそり 言いに来る友人がいたり、自分の出自が﹁いつばれる か﹂とピクピクする中で、学校は私にとって居心地の悪 い場所となっていました。だけど周りからは﹁なんの心 配もない﹂子供だと思われていたのです。私にわざと朝 鮮人の悪い情報を提供してくれた友人はその後両親が離 婚し転居しました。もしかすると彼女が私に執着し、暗 にいじめた背景には、家庭の困難さの中でのストレスが あったのではないかと思ったりもします。その子も表面 上﹁真面目で賢い、いい子﹂でした。在日コリアンの一 世は姿形、言葉全てが﹁朝鮮人﹂で、日本の中で﹁下等 民族﹂のような扱いを受けていました。母たち二世も露 骨な差別を受けていたし、まだ生きることに精一杯の時 代でした。母は小学校まで日本の公立校だったので、朝 鮮人と知られてから日本人の友人からきついいじめを受 けたそうです。でも﹁いじめる奴らみんな殴ってやった ら誰もいじめなくなった﹂と自分なりの武勇伝を持って います。私たち三世になると﹁差別﹂は地下に埋まって しまったかのようですが、それが足元を揺らし、私は自 分に自信が持てない不安定な心のままで成長してしまい ま し た 。 私は現在保育土をしていますが、この頃の経験はとて一 も貴重で、子供達と接する上で役に立っています。子供 は小さいなりに大人を観察しているし、大人が思うほど一 ら ん ま ん − ﹁無邪気﹂で﹁天真嫡漫﹂ではないことを私が身をもっ一 て知っているからです。特に私は一年だけ通った幼稚園﹃ か ん も く では﹁場面紙黙﹂だったので、ものを言わない分、耳が一 研ぎ澄まされていて、先生達の悪意にも好意にも敏感で一 した。先生達はおとなしく自己主張できない私の前では一 無防備だったからです。先生達にとって私は﹁無﹂に等一 しく、実際、幼稚園の卒園アルバムの誕生日月に私の写− 真がないことを彼女達は気付かないまま私を卒園させま一 した。子供達は一歳を越えるとだんだんと自我が目覚め、一 大人達にぶつかり成長していきます。甘やかされたり、一 厳しくされたり、接し方に違いがあっても、子供達は常一 に﹁本気﹂で向き合ってくれることを望んでいます。一 ﹁私を私として見て﹂、この欲求はきっと大人になっても一 変 わ る こ と が な い で し ょ う 。 一

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いのちを生きる⑮

職員室に大声が響く

長谷川洋子︵大阪府小学校教員 三 島 郡 島 本 町 在 住 ︶ 復職して一ヶ月、ようやく理科室の住み心地もよくな ってきた。運動会の練習たけなわの休み時間、突然ゃん は だ し ちゃな子が裸足で理科室に駆け込んでくる。組立体操の 練習の延長で、一日を裸足で送る子どもがいる。 セ ン セ

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男子からどうやって赤ちゃんができる

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先生も

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私、ケツ か話してもらってん!本当なんっ? 先生も、そうやって子どもができたん? コンするの、いややわ jo 嬉し恥ずかしそうに話すのは六年の女子だ。﹁おいお い、コ一年生の﹁すばらしい成長︵男女共生教育︶﹂で勉 強したやろ?﹂と突っ込みたくなったが、やめた。教員 と子どもの認識は必ずズレルと思っていた方が健全な関 へ ん ぼ う 予想はしたものの、教員の変貌に少し驚く。文科省の− 学 力 テ ス ト ︵ 六 年 生 実 施 ︶ も そ の う ち の 一 つ 。 一 以前、学力テストに対し私が働く

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市の大方の教員は一 否定的だった。テスト結果を優先していけば、子どもの一 対応に成績の部分が必要以上に重視されていく。一方、一 ら ち が い 一 ハンディを持った子どもたちは、坪外とされる差別的な一 世界だ。成績を短期間であげる手法が歓迎され、長い間、一

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市の教員が求めてきた、ゆったりと人間性を育む教育一 は二の次になってしまう。これが私の学力テストを疑同一 視 す る 理 由 だ 。 一 四

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年の長い中断のあと、数年前に学力テストが再開一 された。私が入院する前年ぐらいだっただろうか。一 係 が 結 べ る 。 ﹁恋をしたら、気持ちも変わるもんよ﹂というような 話ができるのは、教員の数少ない楽しみである。よっぽ どコワイ先生でない限り、小学生は音楽や理科の専科教 員にリラックスする傾向があり、いろいろ楽しい話や担 任 に は ニ = マスコミなどでなんだかんだといわれるが、子どもは きして昔と変わらない。変わるのは大人の方なのだ。 こぺる 15

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そ そ 初年度は、楚々と実施され、テスト結果に担任たちが 念 品 向 W 眉を曇らせたあと、子どもや保護者に知らされ、校長が 報告書を書いて終わったと思う。 大阪府知事の音頭で、市や町の成績が公開されたあた りから、教員の意識が変わり始めたような気がする。私 は、情報公開制度自体は賛成だ。

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市もホ lムベl ジ で 市全体の成績結果を公表しているが、それならば各校の 校舎の恐るべき耐震強度調査結果も併せて載せてほしい と思う。こちらの方が生命に関わる重大事だ。子どもの 利益ではなく、府知事の一喝を優先していることが見え 見えの状態に腹が立つ。 ある小学校の校長は、算数の学力テストの結果が府の 平均点を上回り、区内で一番であったことに有頂天にな り、校区内の校長に次々と電話し、教職員に自慢げに報 あ き 告したという。報告を受けた教職員は呆れ怒ったそうだ が、懸念するのは、この噴飯物の校長と同質の危険性を、 私も含めた教員がみな持っているのではないかというこ とだ。反対していた事項さえ、いったん受け入れたら最 後、成績を上げるために刻苦勉励してしまう雰囲気が私 の 職 場 に も 漂 う 。 点数があがったことに対しては子どもたちをほめるべ きだが、平均点を評価する先には落とし穴が待っている ことを十分わきまえなければならない。 より良い点数を子どもたちに求めるとき、かつて自分 が学力テストに反対していたことを思い出し、点数アッ プに熱を上げすぎないようク l ルさを保つことが、私た ち教員にとって何より大事だろう。 復帰してまもなく、職員室に響く、 な教員たちの声がやけに気になった。 以前の私もそうだつたのだろうか。若い人たちは学力 テストに疑問を持つこともなく、素直に精を出して働い ている。大声の持ち主たちは自分の言い分を通せず、方 向を見失い、空回りするかのような声を出す。彼らは、 私と同世代のひとだ。声は自由を求めて外へ発するもの だ。ひとと理解しあうのに大声はいらない。 やぶれ太鼓のよう 一

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月 一

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日、学力テストを以前の抽出方式・隔年実 施の方向で検討とのニュースが流れた。教員は再び学力 テスト批判の姿勢に一民るのか。シニカルな気持ちを抑え 切 れ な い 。

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鴨水記 目にとまった投書三通︵朝日新聞名 古 屋 本 社 版 ︶ 。 マ﹁少年期のわれをかばいし亡き友の 著書読み返す﹁有島武郎論﹄/朝日歌 壇 ︵ 8 月刊日︶に掲載された私の短歌 である。民族差別が激しかった少年時 代、学校生活は苦の連続で、仮病を使 って欠席を繰り返した。そんな私を気 丈な母は﹁耐えて強くなれ﹂としかっ た。朝鮮人の私をかばい、力づけてく れたのが N 君 、 だ っ た 。 中 学 2 年 の 時 、 父の仕事の関係で私は兵庫県から京都 府の山村の中学校へ転校することにな った。寂しがる私のために N 君は、皆 に呼びかけて送別会を開いてくれた。 四十数年たち、関西の国立大学で近代 文学を教えていた N 君の消息を新聞で 知った。再会し再び交流が続いたが 3 年前、病に倒れ急逝した。改めて﹃有 島武郎論﹄など幾冊かの著書を読み返 し た 。 私 の 入 選 歌 を 読 ん だ と 、 N 君 の 奥さんから電話が入った。新聞を切り 抜き、仏壇に供えたとの奥さんの報告 に胸が熱くなった﹂︵無職・金忠亀さ ん 。 大 阪 府 忠 岡 町 、

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歳 。

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・ l ︶ 。 金さんの短歌をもう一首。﹁学び舎を ひと巡りして帰国せしチヨゴリ姿の教 え 子 忘 れ ず ﹂ ︵ 日 ・ 叩 ︶ 。 マ﹁子どもの頃、朝鮮半島は日本の植 民地であり、朝鮮からは大勢の人が日 本に来ていた。そんな親子が私の町に も住んでいた。普段は遊ばなかったが、 ある日、その子も仲間に入れて遊んだ。 そして、その子の家に行ってみようと い う こ と に な り 、 5 人 く ら い で 行 っ た 。 母親はとても喜んで菓子︵泊で揚げた、 せんぺいのようなもの︶を出して紙に 包み私たちにくれた。もらった友人た ちは表の道へ走って行き、全員そろっ て紙に包んだままの菓子を側溝に投げ 捨てた。私は呆気にとられ、流れゆく 紙包みを見ながら迷ったあげく、子ど もながらその行為に対する罪悪感を感 じて、一人だけ家に持ち帰った。話を 聞くと母は寸それで良かった。捨てな くて。親の心はどこの人も同じなのだ から﹂と言った。人として大切なこと を忘れてはいけないという常日頃の母 の教えのたまものであったと感謝しな がら﹁あれで良かったのだ L と今でも 心が安らぐのである﹂︵主婦・坂田毒 美子さん。高山市、 U M 歳 。 叩 − M ︶ 0 母から子へ確実に伝わった人間観。 マ﹁北朝鮮への制裁転換の時期鳩山 政権には、冷戦時代のイデオロギーに とらわれない柔軟な対応を求めたい。 私には子供の頃、勇気ある行為と勘違 いして朝鮮人へのいじめに加わった苦 い 思 い 出 が あ る 。 一 一 度 と 同 じ 過 ち を 繰 り 返 し た く な い ﹂ ︵ 高 校 教 員 ・ 寺 田 誠 知 さ ん 。 岐 阜 県 各 務 原 市 、 印 歳 。 叩 ・ 叩 ︶ 0 個人的体験から発して国際政治に及ぶ。 甘いと言われようと、わたしにはこう いう発想が好もしい。︵藤田敬一︶ ﹁ 人 間 と 差 別 ﹂ 研 究 会 の お 知 ら せ ロ月ロ日︵土︶午後 2 時より 石 元 清 英 さ ん ﹁ 子 ど も の 虐 待 を め ぐ る 危 う い 言 説 ﹂ 於 京 都 府 部 落 解 放 セ ン タ ー 第 一 一 会 議 室 施 。 七 五 | 四 一 五 | 一 O 二 六 。終了後、忘年会をアサヒピアレス ト ラ ン ︵ 河 原 町 三 条 下 ル ︶ で 開 き ま す 。 ご 参 加 下 さ い ︵ 会 費 五 000 円 程 度 ︶ 0 編集・発行者 こぺる刊行会(編集責任藤田敬一) 発行所京都市上京区衣棚通上御霊前下ル上木ノ下町73-9阿昨社 干6020017 Tel. 075-414-8951 Fax. 075-414-8952 Email: [email protected] http://www1.odn.ne.jp/aunsha 定価300円(税込)・年間4000円 郵 便 振 替01010-7-6141 --40"'2'.' 第201号 ー〆’\之矛 2009年12月25日発行

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教育改革という学校の危機

学 力 低 下 、 セ キ ュ リ テ ィ 問 題 、 い じ め だ け が 危 機

改 革 ま た 改 革 の か け 声 の 中 、 ﹁ 豊 か さ ﹂ を ほ り 崩 さ れ 、 緩 慢 に 、 し か し 確 実 に や せ 細 り つ つ あ る 現 在 の学校の姿 を 浮 き 彫 り に す る 。

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四 六 判 ・ 並 製 ・ 2 3 8 頁 ・ 定 価 ︵ 本 体 一 一 一 OO 円 + 税 ︶ | S B N 9 7 8 E 4

9 0 0 5 9 0 ’ 89

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教育の境界研究会編

目 次 A ’ 学 校 に 人 は 住 ま っ て い る か 1 む か し学校は・:廃校舎と希望/校区と運動会 / ラ ジ オ 体 操 と 生 命 保 険 / ﹁ 山 び こ ﹂ と 愛 の ム チ / 家 庭 科 室 と 西 欧 モ ダ ン / ミ シ ン と お し ゃ れ / 校 歌 と 効 果 / 玄 黄 屋 さ ん と ユ ー ミ ン / 女 教 師 と 看 護 実 習 / 班 ノ l ト ・ 学 級 通 信 と 親 密 さ / 同 窓 会 と ﹁ 学 校 ﹂ 2 豊 か だ っ た : か ? コ ク サ イ と TP O / 上 履 安

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民 主 教 育 / 制 服 と ノ ス タ ル ジ | / 給 食 と 秘 密 / レ ン タ ル ペ ッ ト と 学 校 知 / プ ロ レ ス 遊 び と 表 ・ 裏 ル ー ル / 校 門 と 呼 び 声 / 卒 業 証 書 と イ チ ロ | / チ マ チ ヨ ゴ リ と 援 や か さ / 掃 除 と 落 書 3 教 育 ? 改 革 ? ト イ レ と 太 郎 く ん / 学 期 と メ リ ハ リ / ﹃ 心 の ノ l 卜 ﹄ と 自 分 ら し さ / コ ン ビ テ ン シ ー と OO 力 / 土 曜 日 と 学 力 / コ ミ ュ ニ テ ィ ス ク ー ル と 学 校 選 択 / ア カ ウ ン タ ピ リ テ ィ と 多 忙 化 / 複 合 施 設 と 出 会 い / 切 確 琢 磨 と 学 校 規 模 / 監 視 カ メ ラ と 快 適 さ − モ ノ の 星 座 と 政 治 の 発 見

d

O

一号 二 O O 九年十 二 月 二 十 五 日 発 行 ︵ 毎月 一 回 二 十 五 日 発 行 ︶

司務事

一 九九 三 年 五 月 二 十七日第 三 種郵便物認 可 定価 三 百 円 ︷ 本体 ニ 八 六 円 ︸ F詔 075-414-8952 阿昨社 干6020017京都市上京区衣概通上御霊 前下ル上木ノ下 町73-9Tel 075-414-8951 発売

参照

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