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真宗研究56号 007北畠浄光「証空における法然浄土教の継承とその内実」

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証空における法然浄土教の継承とその内実

龍谷大学

はじめに

建 永 二 三 二

O

七︶年二月の専修念仏停止令以後、専修念仏集団は、朝廷・幕府からそれぞれ京都追放︵一二二 七年︶・鎌倉追放︵一二三五年︶に処されているように、 た被弾圧の状況のなかで法然門下は、自身の専修念仏理解に基づく活動を各地で展開していくこととなる。なかで も、法然の没後に、その墓所を中心としながらも流動的に伝道していた門下は、嘉禄三二二二七︶年の停止令を 契機に、二疋度の活動を黙認される集団と追放される集団とに分化していった。本稿では、嘉禄期の専修念仏弾圧 に至るまでの専修念仏集団に焦点をあわせ、法然を中心に成立した専修念仏集団が、法然没後にその信仰をどのよ うに継承し、当該状況の宗教・社会秩序といかなるかかわり方をしたのかを取り上げる。そこで、法排出没後の主流 集団であり、嘉禄期の専修念仏弾圧後もなお、洛中や比叡山諸領内で結縁活動を続けた証空とその門下に注目する 一貫して国家によって弾圧される存在であった。こうし こ と と す る 。 法然の段階で専修念仏が被った弾圧の事実は、﹁顕密体制論﹂の登場によって﹁異端﹂的性格の証左とされ、体

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制を支えるイデオロギーであった諸行往生を否定したところに、法然浄土教の特徴が見出された。また、法然と証 空の関係を扱った従来の研究では、念仏と諸行に対する両者の理解に注目するものが多く、証空の念仏と諸行を往 生行として共存させる理解や、天台への近親性を根拠に、法然からの変化を指摘する見解と、念仏と諸行の関係に ついて、証空が法然と同様の理解の上でそれを具体的に理論化したとする見解が挙がっている。 確かに、諸行往生をみとめるかどうかは法然と門下との異同の指標になると考えるが、信仰がもたらす社会的立 場の検討を抜きにして、両者の質的関係をあきらかにはできないであろう。 つまり、筆者が念頭におきたいのは、 それぞれが成立させた信仰の総体的把握による両者の関係性の解明である。その点に注意を払いながら、以下では 証空による法然浄土教の継承の内実をあきらかにしたい。

法然の信仰

法然と門下との信仰がどのような関係にあるのかを検討するために、まず法然の信仰の基本的性格について確認 しておきたい。法然の信仰は、周知のように称名念仏の専修によって、﹁西方極楽世界﹂である浄土への往生を日 ︵ 4 ︶ 指すものであった。そしてそれは、﹁称名念仏是彼仏本願行也。故修レ之者乗二彼仏願一必得一往生一也 o ﹂というよう ︵ 6 ︶ に、﹁彼土教主阿弥陀如来﹂の本願に対する帰依に貫かれていた。つまり称名念仏は、本願への帰依を自覚するこ とによって成立する宗教的実践と理解されたのであった。では、この宗教的実践は信仰主体に如何なる社会的立場 をもたらすものであったか。 法然によれば、本願に帰依することでなしうる浄土往生は、末法である当代において万人が本来有している仏性 ︵ 8 ︶ に目覚めて成仏するための唯一確実な﹁路﹂といわれる。そして、成仏は念仏者の﹁当益﹂として往生を経て成立 証 空 に お け る 法 然 浄 土 教 の 継 承 と そ の 内 実

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証空における法然浄土教の継承とその内実 するとされた。つまり法然は、万人の成仏を実現するための根拠は、﹁外道相善﹂・﹁声聞自利﹂・﹁無顧悪人﹂・﹁願 ︵ 凶 ︶ 倒善果﹂に陥らざるをえないような衆生にはなく、

四 設 我 得 レ 仏 、 十 方 衆 生 、 至 心 信 楽 欲 レ 生 一 我 国 ﹂ 乃 至 十 念 、 若 不 レ 生 者 、 不 レ 取 一 正 覚 0 ・ : ︵ 巾 略 ︶ : ・ 本 誓 願 不 レ 虚 、 衆生称念必得二往生 4 という阿弥陀仏の﹁不レ虚﹂の﹁誓願﹂にこそあるとした。このような理解に立つ法然は、 念仏易故通二於一切 J 諸 行 難 故 不 レ 通 二 諸 機 J 然 則 為 レ 令 一 一 切 衆 生 平 等 往 生 一 捨 レ 難 取 易 為 二 本 願 一 歎 。 ・ : ︵ 中 略 ︶ : ・ 然 則 弥 陀 如 来 法 蔵 比 丘 之 昔 被 レ 催 二 平 等 慈 悲 J 普為 ν 二 於 一 切 一 不 下 以 一 一 造 像 起 塔 等 諸 行 一 為 中 往 生 本 願 凶 唯 以 二 称 名 念 仏 一 行 一 為 二 其 本 願 也 。 として、称名念仏を唯一の﹁正定業﹂|﹁本願行﹂とした。なぜなら、称名念仏は、一切衆生の平等な往生を成立 ︵ 日 ︶ させるという基準で、﹁聖意難レ測﹂い阿弥陀仏が選択した行いだからであった。ここで注目したいのが、法然が阿 弥陀仏の本願の本質と、それにもとづく称名念仏の被選択理由を一切諸機に通じるはたらきに見出していることで あ る 。 まず、法然は称名念仏が一切諸機に通じることについて、﹃無量寿経﹂・﹃観無量寿経﹂に説かれた三輩と九品を 例 に 挙 げ て 説 明 し て い る 。 こ れ ら の 諸 機 は 、 ﹁ 為 レ 立 三 品 一 而 説 一 諸 行 一 也 。 ・ ・ ︵ 中 略 ︶ ・ : 讐 巻 経 三 輩 亦 不 レ 出 レ 此 。 ﹂ 、 ﹁随二其勝劣−応レ分九品イ然経所レ説九品行業是一不一一端。﹂というように、諸行の勝劣に応じて立てられたという。 しかし法然は、それぞれ﹁本願中更無一一余行﹂三輩即共依一上本願一故、云一一一向専修念無量仏一也己、﹁初麿説定散 之行普一迫一衆機一後廃一定散二善帰一念仏一行ごとの理由で、﹁三輩通一皆念仏一﹂、﹁九品行唯在一念仏﹂と説く。こ こでは、本願を根拠として、経文の諸行や定散二善が称名念仏を勧めるために廃されるべき行と解釈されている。 つまり、諸機を立てた諸行の本来的役割が﹁是所一以為一一向念仏一﹂であることを理由に、称名念仏のみが三輩・

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九品に通じる行であると結論づけられている。このように法然は、一切の諸機に称名念仏のみが通じているという ことを、本願のなかにそれ以外の余行がないことから説明したのであった。したがって、三輩・九品といった諸機 は、諸行によって固定的に差別化された結果として、あくまでも称名念仏のみが往生行であることを証明するため に引用された表現にすぎないといえよう。 また法然は、﹁観無量寿経﹄の下品に至って初めて説かれる称名念仏を、﹁念仏之行於−九品中是何日間摂。答若如 レ説行理当一上上一﹂と、上品上生に当たる行だとして、既存の浄土教における階層的な往生理解を転倒させた。こ こからわかるように、法然が理解した阿弥陀仏の本願のもつ平等性

l

緒機に通じる性格は、 加之下品下生是五逆重罪之人也。而能除一減逆罪一所レ不レ堪二余行 J 唯有二念仏之力能堪レ減二於重罪寸故為二極重 悪 下 之 人 一 所 レ 説 一 極 最 上 法 一 と、﹁下品下生﹂の往生に照準があわされていた。 つまり法然は、最も往生に遠く劣るとされた存在を救済すると いう阿弥陀仏の願いに、 一切衆生の平等な往生を保証する本願の本質を見出したのである。したがって、ここには 本願の利他的性格が、帰依すべき根拠となっていることを理解できよう。このことは、﹁極重悪下之人﹂を往生さ せる称名念仏こそが﹁極最上法﹂だという認識を行者にもたらすこととなった。要するに、法然の信仰における称 名念仏の専修という宗教的実践は、ク阿弥陀仏は一切衆生を平等に往生させるために称名念仏を本願行として選ん だ ψ という、本願に誓われた往生の平等性に対する信順を軸としていたのである。さらにそれは、﹁本願成就﹂に よって一切衆生に平等な往生の証が与えられていること つまり一切衆生は平等に往生できる存在だということを 信仰主体に自覚させるような信仰であった。とすれば、称名念仏以外の行は単純に往生にとって無意味だから行わ ないのではなく、一切衆生の平等な往生への信順を妨げるような発想にもとづく行為であるために、往生行として ︵ 鉛 ︶ 否定されたと考えねばならない。 一証空における法然浄土教の継承とその内実

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証 空 に お け る 法 然 浄 土 教 の 継 承 と そ の 内 実

O 六 したがって法然の信仰は、慈円の﹃愚管抄﹄に、 又建永ノ年、法然房ト云上人アリキ。 マヂカク京中ヲスミカニテ、念仏宗ヲ立テ専修念仏ト号、ンテ、 タ千阿弥 陀仏トパカリ申ベキ也。 ソレナラヌコト、顕密ノットメハナセソト云事ヲ云イダシ、不可思議ノ愚痴無智ノ尼 コノ事ノタマ繁昌二世ニハンジヤウシテツヨクオコリツ\:︵中略︶・:尼ドモニ帰依 ︵ 幻 ︶ 渇仰セラル、者出キニケリ。 入 道 ニ ヨ ロ コ パ レ テ 、 と記されたように、諸行による往生を目指せなかった﹁愚痴無智﹂ の階層に受け入れられていく要因をもっていた。 一方で、法然ら専修念仏集団は、政権中枢にいた貴族や武士からの結縁も多く受けていれており、広範な受容層を 有していた。それは、法然が﹃七箇条制誠﹄三二

O

四 年 ︶ で 、 ﹁ 可 丁 停 丙 止 : ︵ 中 略 ︶ : 不 レ 知 一 正 法 J 説 一 種 々 邪 法 J ︵ 勾 ︶ 教 乙 化 無 智 道 俗 申 事 ﹂ と し 、 ﹁ 以 ニ 浄 土 教 一 為 二 芸 能 J 貧 一 一 名 利 一 望 二 檀 越 。 恋 成 二 自 由 之 妄 説 、 証 二 惑 世 間 人 ﹂ と い っ た 行 いを戒める以外に、伝道対象の制約を設けていなかったことに起因している。つまり、誤った専修念仏を説くこと と自身の名利を求めることを除いて、明確な結縁の基準が法然にはなかったため、門下標務者の専修念仏理解と結 縁手段の振り幅にあわせて、その信仰は多様に広がっていくことになったのである。ただし、ここで無視できない のは、支配者層も伝道対象に含めながらも、結果として帯びざるをえなかった専修念仏の被弾圧という性格である。 これは、法然の信仰がもたらした次のような社会的立場と無関係ではなかった。 上述したように、法然は念仏者が蒙る﹁当益﹂を浄土往生の後の成仏だとしたが、﹁現益しとして、﹁人中好人、 人中妙好人、人中上上人、人中稀有人人最勝人也。﹂という﹁五種嘉誉﹂と、観音・勢至の﹁二尊影護﹂の二つを ︵ お ︶ 挙げている。ここでは、本願に帰依して称名念仏を専修する人々が、現世において最も尊い存在となることが強調 さ れ て い る 。 つまり、法然の信仰がもたらす社会的立場は、往生できる存在として他者を尊ぴあう人間関係を根本 に据えるものであったと理解することができる。そのため、法然は本願への不信、 つまり一切衆生の平等な往生を

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疑う世俗的価値観を徹底して否定した。それは自己中心的な往生観に陥ることへの否定であったが、具体的には諸 ︵ μ ︶ 行によって往生を目指すことへの否定となったのである。以上のように、専修念仏によって、自己中心的な往生観 を否定の対象とし、他者と連帯していくような生き方は、仏教を民衆支配の手段とする国家の仏教理解とは異質で あった。したがって、他者を平等に往生できる存在だとみなす人間観が広がりをもったとき、弾圧は必然であった と い え る 。 ただし一方で、専修念仏者の生き方の座標軸とされた本願への帰依が意味するのは、往生の平等性を信じるとい うただ一点であったことも見落とせない。これは、浄土往生を一切衆生が目指すべき﹁路﹂と理解した法然が、浄 土願生者の現実世界でのありようについて理論化したのが、本願への帰依による称名念仏の実践だけであったこと を示している。逆にいえば、行者が本願への不信とならない行為を往生とは無関係な領域に設定した場合、法然は それを放任せざるをえなかったのである。例えば法然は、 コノ世ノイノリニ、仏ニモ神ニモ申サム事ハ、ソモクルシミ候マシ。後世ノ往生、念仏ノホカニアラス行ヲス ルコソ、念仏ヲサマタクレハ、アシキ事ニテ候ヘ。コノ世ノタメニスル事ハ、往生ノタメニテハ候ハネハ、仏 ︵ お ︶ 神ノイノリ、サラニクルシカルマシク候也。 というように、往生の平等性を信じることが貫徹できれば、相対的価値である称名念仏以外の行に条件付けをしな か っ た 。 無 論 、 我ココロ弥陀仏ノ本願ニ乗シ、決定往生ノ信ヲトルウエニハ、他ノ善根ニ結縁シ助成セム事、 ︵ お ︶ ワカ往生ノ助業トナルヘキ也。 マタク雑行トナ ル ヘ カ ラ ス 。 と説く法然によれば、専修念仏者のすべての実践は﹁決定往生ノ心﹂の延長上でなさなければならないとされた。 さらにそれは﹁悪業をもは冶からす、行すへき慈悲をも行せす、念仏をもはけまさん事ハ、仏教のおきてに相違す 証空における法然浄土教の継承とその内実

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証空における法然浄土教の継承とその内実

人 ︵ 幻 ︶ る也﹂というように、自己の煩悩を否定的に踏まえた実践であった。しかし、法然の信仰の本領は、称名念仏によ って来世の往生が平等に実現することへの信順に収飲するものであったため、否定の対象は平等な往生への疑いに 集中せざるを得なかった。そのために、法然の信仰は往生とは無関係な行を放任する余地を残したといえよう。 このように、法然は、本願への不信とならない限りの、 つまりは称名念仏以外の行を各自に委ねた。このことか ら、帰依者が往生行とならない範囲で余業を保持する可能性が残されたといえる。しかしながら、この問題は法然 にとって重要ではなかった。法然が一貫して広範な伝道対象に対して説いたのは、あくまで平等な往生を自覚する ことによる称名念仏の専修だったのである。そして、このような法然の信仰が、実質として専修念仏者同士が相互 に尊ぴあう連帯を成立させたことを見逃してはならないだろう。

初期専修念仏集団の弾圧への対応

法然没後、法然の伝道拠点であった京都で活動を続けようとした門下にとって、大谷の法然墓所は活動の中心地 と呼べる性格をもっていた。門下はこの地を一つの拠点としながら、西山往生院や長楽寺、四天王寺西門などの比 叡山所領内部に留まって各自の集団を形成していった。この時期、法然在世時と同様に被弾圧の状況下にあった専 修念仏集団は、宜秋門院や西国寺公経、徳大寺家などの皇族・政権中枢貴族に対する私的な結縁活動や、比叡山上 層部、特に慈円との近接な関係によってどうにか存続を果たしていたといえる。しかし、門下の一部は比叡山諸領 内で活動するため、延暦寺衆徒との緊張関係を不可避としていた。延暦寺衆徒は専修念仏者に住居破壊などの圧迫 を加え、朝廷に対しては専修念仏停止の強訴を起こした。嘉禄期に至ると、延暦寺による武力弾圧はついに大谷墓 の印判焼却に及び、さらに専修念仏集団は宣下によって法然以来の流罪処分を被る 所の破却、﹁選択本願念仏集﹂

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こととなったのである。ここではまず、嘉禄期の専修念仏弾圧に至るまでの専修念仏集団と被弾圧との関係をみて い く こ と と す る 。 延暦寺衆徒による専修念仏者への武力弾圧が、建永二ご二

O

七︶年に発布された専修念仏停止令を法的根拠と していたように、専修念仏弾圧は朝廷の裁定をともなって執拘に繰り返された。つまり、既成仏教教団の強訴に応 じて専修念仏停止令が発布され続けたのは、支配の安定化を図ろうとする国家にとって専修念仏が一貫して放置で きない存在とみなされたからにほかならない。したがって、ここで焦点をあわせるべきは、延暦寺をはじめとする 既成仏教教団による弾圧要請の理由のどの点を、最終的な裁定の権限をもっ朝廷が採用したのかということであろ ぅ。この間題について平雅行氏は、﹁顕密仏教﹂にもとづく既成仏教教団と同様に朝廷が危険視したのは、専修念 仏の﹁偏執という思想性﹂だったと論じた。氏はそれを、﹁持戒者・高僧への畏敬感情を失わせ、宗教領主への畏 敬の念を喪失せしめて、寺社勢力の基盤を解体﹂させる思想性だ左述、べ、﹁弾圧の主因﹂とみなした。さらに、中 世田家は、元久三三二

O

六︶年におこった安楽らと後鳥羽院の女房との﹁密通事件﹂以降、﹁専修念仏の異端的 相貌を鮮烈に印象づけ﹂た﹁破戒という行為を指標とすることによって、異端思想を断罪﹂したと説明している。 ︵ お ︶ つまり氏は、専修念仏弾圧は﹁行為を媒介とする異端思想そのものへの弾圧﹂であったと理解するのである。 氏の指摘にある通り、当該国家は破戒を取り締まる場合に、破戒そのものではなく、専修念仏者による破戒を処 罰の対象としたことはあきらかである。また、弾圧要請理由に必ず挙げられている破戒という行状が、弾圧者から みた専修念仏者の実態をあらわす指標の一つであったことも確かであろう。そうなると、この場合に確認しなけれ ばならないのは、専修念仏者の破戒が、国家にとってどのような問題として認識されていたのかである。 貞応三︵一二二四︶年五月に延暦寺大衆が朝廷に提出した解丈をみると、 可被停止一向専修濫悪停止興隆護国諸宗事 証空における法然浄土教の継承とその内実

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証空における法然浄土教の継承とその内実

右 仏 法 王 法 、 互 守 互 助 。 聡 如 一 一 烏 二 趨 J 猶 同 ご 車 両 輪 4 ・ ・ ︵ 中 略 ︶ : 仏 法 有 二 五 戒 J 世 間 有 一 一 五 常 J 其 言 難 レ 異 其 ︵ m m ︶ 旨 惟 向 。 若 破 一 一 仏 家 之 戒 行 一 者 、 争 守 一 王 者 之 律 令 一 乎 。 とされ、元久二二二

O

五︶年の﹁興福寺奏状﹂と同様、﹁王法仏法相依論﹂が弾圧要請理由に挙げられている。 そして、専修念仏者の破戒が﹁王者之律令﹂、すなわち俗法に抵触するという理由で糾弾されていることがわかる。 換 言 す れ ば 、 延 暦 寺 は 自 身 の 俗 法 遵 守 と 矛 盾 し な い 立 場 を 、 ﹁ 造 レ 悪 必 堕 レ 獄 。 修 レ 善 定 生 レ 天 。 自 業 自 得 之 報 、 不 一 一 亡 失一之理也。﹂というように、持戒を往生行に位置づける仏教理解を通して主張しているのである。したがって、固 家と同質の立場で延暦寺が批判しているのは、あくまで俗法における﹁悪﹂を問題としない生き方を成立させる信 仰であったと考えなければならない。要するに、俗法における﹁悪﹂を問題としないことが、王法を守り助ける ﹁仏法﹂の役割を妨げるものと認識され、それが専修念仏の社会的性格として問題視されたのである。このことは、 専修念仏が一切衆生を平等に往生できる存在とみなし、既存の価値観にとらわれない新たな人間関係をつくろうと する信仰であった以上、国家を鎮護する役割とは異質な立場をもたざるを得なかったことを逆射していよう。そう であるがゆえに、専修念仏は一貫して国家から弾圧にさらされ続けたのであった。 ところで、建永二年二月の専修念仏停止後、同年一二月に四天王寺別当に補任した慈円の要請によって、建暦元 ︵二一一二年に﹁四天王寺念仏﹂が停止された。当該期において、﹁太子信仰﹂・﹁仏舎利信仰﹂・﹁四天王寺念仏﹂ などの雑多な信仰を有し、身分を問わず多くの参詣者を集めた四天王寺は、空阿弥陀仏ら法然門下の念仏聖が盛ん に勧進を行う場所でもあった。そのなかで、王法仏法の興隆を志向し、寺域内に伝統の宗義を守ろうとした慈円が、 専修念仏停止に同調して四天王寺の念仏行を粛清したのは当然であった。したがって、建保五︵一一一一七︶年の ﹁延暦寺大衆解﹂のなかで空阿弥陀仏が糾弾されているのは、鎮護国家を担うための清浄な僧侶を生むという、天 台の伝統的教義から逸脱する存在、だとみなされたからであったといえる。その伝道によって様々な身分の浄土願生

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者からの結縁を受けた空阿弥陀仏は、延暦寺による念仏行の粛清によって排除され、さらに嘉禄一一一︵一一一一一七︶年 には流罪処分となった。こうした流罪処分を伴う嘉禄三年の専修念仏停止令は、特に延暦寺の諸領内で活動してい た専修念仏者に対して発布された。 以上のように、専修念仏集団は法然の没後も執揃な弾圧にさらされたが、法然門下を代表する一人であった証空 ︵ お ︶ は、慈円の善知識であったという理由から、嘉禄期の専修念仏弾圧で張本から免れた。証空が慈円に重用されてい たことは、法然の没後、慈円の要請によって西山往生院に入り、建保四 ︵ 斜 ︶ いることからも窺える。また、証空は慈円と関係の深い畿内の講所で建保三 もはじめた。ただし、証空はその﹃観経疏﹄の講説において、 カ ニ リ テ ニ ス ル ル コ ト ヲ レ チ ノ シ テ テ ク ナ ル ク カ ニ ヲ 仏法不レ背王法。依二王法一釈レ有二仏法一也。此則在家不レ捨二如 ν レ 水 機 J ル ニ ヲ ン ル ︵ お ︶ レ 有 二 王 法 一 機 U 可 ν 知 。 ︵ 一 一 一 一 ム ハ ︶ 年にはその往生院を譲られて

年から ﹃ 観 経 疏 ﹂ の講説 ム ル 収心也。 レ ハ ノ ニ 然仏法之中、 ル コ ト ナ ル 取下為 というように、衆生の﹁機一は﹁王法一 ︵ 幻 J べ て い る 。 の内にあるとし、それを肯定した上で﹁仏法﹂が﹁王法﹂にはたらくと述 つまり証空の伝道は、慈円や既成仏教教団が主張する﹁王法仏法相依論﹂を受容したそれであり、結果 として比叡山による念仏粛清に沿うような役割を果たしたと考えられる。であれば、証空の活動は、法然浄土教を どのように理解した上でなされたのだろうか。 この際に注目したいのが、西山往生院に入った後の証空による結縁活動である。その中心にあったのは、天台浄 ︵ お ︶ 土教の行法であり、往生を目指す上での積善を念仏に期待する不断念仏であった。この他にも、授戒などの諸行や 臨終の念仏を通して貴族に結縁し、さらには後嵯峨天皇に対しても﹁党網経﹄の転読、授戒を行った証空は、﹁天 ︵ ぬ ︶ 台をも加味した浄土の念仏修行に専念した﹂といわれる。特に不断念仏は西山往生院を代表する勧進行でもあった が、証空の先代である観性の没後に断絶した経緯がある。そのため、不断念仏を証空が始行したことは西山往生院 証空における法然浄土教の継承とその内実

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一証空における法然浄土教の継承とその内実 における天台行法の再興という意味をもっていた。またこの再興は、不断念仏の勧進対象を観性院主期の有力な壇 ︵ 伺 ︶ 越であった徳大寺家としたことや、善峯寺の仏眼と観性への報恩講の用途も含めて団地を買得したことから、入山 以前の西山往生院の伝統を継承しようという証空の音山志に支えられていたことが理解できよう。したがって、証空 は天台教団に身を置きながら法然浄土教を継承しようとしたといえるが、その継承はどのような内実をもつもので あ っ た か 。

証空における法然浄土教継承の内実

ここでまず取り上げなければならないのが、証空の不断念仏は、安貞二︵一一一一一八︶年二月四日の﹁徳大寺政所 下 丈 ﹂ に 、 愛自一去承久三年之冬此 J 依二善恵聖人之興隆 J 於二彼往生院﹂修二不断念仏 J 其行忽難 ν始、用途無足之問、専 為 レ 結 一 一 浄 土 之 業 困 A 則 勧 二 進 有 縁 之 担 那 斗 先 公 為 一 其 一 八 刀 J 与 一 彼 普 願 J 因 レ 藷 改 一 件 護 摩 用 途 J 宛一此念仏供料 J ︵ H U ︶ 凡 念 仏 永 不 一 退 転 一 者 。 とあるように、施主の公継・実基父子に対して、それまで護摩用であった供料を不断念仏用に改めさせるという勧 進であったことである。 つまり、徳大寺家への勧進は、護摩修法と不断念仏を並修していた観性の時期から、証空 に至って不断念仏のみに変えられたのである。この点に関して菊地勇次郎氏は、被弾圧状況のなかで﹁専修念仏の 思想﹂を往生院に実現することが困難だった証空は、﹁天台の範障を越えない念仏業﹂である不断念仏を修するこ とを通して﹁内外の環境に調和﹂しようとしたと述べる。そして、そのような伝道が結果的に﹁観性を中心とした 青蓮院系の僧等﹂とは別個の念仏結衆を成立させたと評価している。氏は、﹁かつて天台宗寺院としての往生院を

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支えた公家社会は、ここに念仏集団の背景として切り替えられてゆく﹂と述べ、証空が成立させた信仰集団のそれ 以前との差異に注目するのである。 確 1 1多 か 行セに 止ン証 H寸 ハ 升3

二工二 必 はス 、

縁ノ 法二 百

I

キ 行ス 此ヲ 也 モ ク タ ル モ ス ニ ヲ 是 広 似 レ 許 一 諸 宗 、 ン ハ レ チ ノ ヲ ム ヲ 志思一今念仏勧レ此。 ニ フ ナ リ ト ︵ 必 ﹂ 故調一一少用功労多得益也。 と、有縁の行法は念仏をすすめるための手段としており、白身の専修念仏理解にもとづきながら西山往生院に新た な念仏伝道を展開させたといえる。ただし、不断念仏再興の際に横越であった徳大寺公継が、賀茂杜に対しても田 ︵ 叫 ︶ 地の寄進を並行させていたように、証空の勧進は貴族の﹁二世安楽信仰﹂を充足させる役割の一部を担っていたと いえるだろう。このことは、貴族を壇越とした専修念仏者全般にみられる傾向であった。だが、貴族の要請に応え るかたちで不断念仏を積極的に勧進した証空の伝道には、自身の死後安楽のみに関心をかたむける往生理解を変革 する可能性が希薄だったといわなければならない。とすれば、そのような伝道における制約を踏まえた上で、証空 が法然から継承しようとした専修念仏が如何なる内実をもっていたのかを、その信仰に即してあきらかにしなけれ ばならないだろう。 助(工 業竺:ュ Lーー に と

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﹁ 弘 願 ﹂ リ シ ヲ ニ ス ノ ニ シ ノ ︵ 必 ︶ 白 一 一 観 門 乗 一 一 弘 願 一 往 生 此 外 無 二 出 離 正 門 o ﹂という表現に端的にあらわれている。 ノ ナ ル ︵ 灯 ︺ ケ テ ノ ヲ シ ヲ ム ル ヲ と﹁其体一﹂定散二善十六観門のことであり、﹁助一弘願念仏 J 成 レ 之 、 勧 レ 此 ﹂ 証空の信仰は、 レ チ ノ ﹁ 此 則 一 切 凡 夫 、 また観門には、﹁十方一二世の仏﹂が﹁弥陀一仏の功徳を種々に顕はして衆生を教化す﹂る ︵ 仰 ︶ ﹁智﹂が備わっており、証空はそれを﹁三心﹂とも表現している。証空によれば﹁三心﹂は、﹁領解心者、 ︵ 叩 ︶ 三心即正困也。﹂と﹁領解心﹂だとされるから、 つまるところ ﹁観門白り弘願に乗じ﹂ る と は 、 行者が 領 三 解ノ心 心 也 をおこして本願に帰依することを示していると理解できよう。したがって、証空の信仰は、 ン テ ノ ニ ソ レ ハ ク シ ト ヲ ハ レ ヲ シ 卜 シ キ フ ニ ラ シ テ ニ ル キ ニ ソ ノ ヲ 帰二別意弘願 J 意司得説レ可レ得一往生調い無二行而可 v襲。唯一向専帰二弘願、為レ可レ立二念仏行 J ニフゾリ 故 言 一 一 一 向 証 完 工 に お け る 法 然 浄 土 教 の 継 承 と そ の 内 実

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土 教 の 継 承 と そ の 内 実 四 というように、本願に帰依して称名念仏を専修し、往生を目指すことであったといえる。ここからは、法然の専修 念仏理解を引き継ごうとした証空の立場が窺える。ただし、ここで注目すべきなのは次のような証空独自の念仏理 解 で あ る 。 知んぬ、今憶念を以て弘願の念仏と名づくと云ふ事を。・・︵中略︶:・此の仏は真実に凡夫を度する仏なりと意 得て、帰命して信ずるを憶念とは云ふなり。・:︵中略︶:・憶念すれば体が名に顕はる、故に口に南無阿弥陀仏 と云はるるなり。此の義の故に、称名念仏を本願と釈するなり。 ここでは、行者が修すべき念仏とは、凡夫を往生させる阿弥陀仏への帰依を意味する﹁憶念﹂だとされている。 また、﹁憶念﹂によって阿弥陀仏の﹁体﹂がその﹁名﹂にあらわれることから、阿弥陀仏に対する﹁憶念﹂は称名 念仏という行為に結実するとしている。さらに、こうした﹁憶念﹂と称名念仏との関係について証空は、 念仏といふは、仏を念ずるなり、仏を念ずるといふは、其仏の因縁をしりてその功徳を念ずるを、真の念仏と ︵ 臼 ︶ は い ふ な り 。 ニ シ テ シ ヌ レ ハ ニ リ テ タ ノ ミ キ ル ン ナ リ ? ? タ シ テ ニ ス ル ト ︵ 別 ︶ 三心既具、相 1 仏 願 J 知 下 唯 阿 弥 陀 仏 可 レ 奉 二 帰 命 仏 日 出 一 一 口 業 一 称 一 南 無 阿 弥 陀 仏 一 也 。 と、仏を念ずるとは、阿弥陀仏の因縁を知った上でその功徳を念ずることだとし、称名念仏もその自覚を前提とす る 行 為 だ と 説 く 。 つまり、念仏を﹁憶念﹂と解釈する証空にとって重要なのは、あくまで念仏を裏打ちする阿弥陀 仏への帰依の﹁意得﹂、すなわち﹁一二心﹂|﹁領解ノ一心﹂なのであった。では、証空は阿弥陀仏の因縁とその功 徳 を ど の よ う に 理 解 す る 、 べ き だ と し た か 。 今観経に説き給う阿弥陀仏の名号をば南無阿弥陀仏と申すなり。南無というふは凡夫の願を成じ給う義、阿弥 陀仏と云ふは、我等往生の行に替って成じ玉へる義なり。此の仏の名号を衆生が唱ふる時、本より凡夫の為に

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成じ給へる願行の功徳が、此の唱ふる者の往生の願行となるなり。故に意に領解すといふは仏の願と行とは凡 夫の願行なりと領解し、 口に南無阿弥陀仏と唱ふるも仏の願行が我往生の願行なりと唱へ、身に礼するにも願 行具足する故に、此の外に別の安心といふものもいらず、横に万徳を摂め、竪に過去未来現在三世を括り入れ て成じ給へる願酬因の名口すなり。故に唱ふれば過去遠々へ上り未来永劫まで至る功徳なり。故に相続不断の謂 れも自ら一の名号に具足するなり。 ここでは、行者自身の往生への願いと、阿弥陀仏の一切衆生を往生させるという願いがともに成就し、それらが 結合したことを意味するのが﹁南無阿弥陀仏﹂という名号だと述べられている。そしてそれを理由に、名号を唱え れば阿弥陀仏の願行の功徳が行者のそれになるという。したがって、何より行者に求められるのは、自らの称名念 仏には阿弥陀仏の願行の功徳が付与されていると自覚することであった。要するに、証空の信仰の本領は、﹁衆生 ︵ 弱 ︶ の往生を以て彼の仏の成仏の体と心得る時、往生は決定するなり。﹂というように、阿弥陀仏の願成就によって衆 生と阿弥陀仏の願行が一体になったと理解し、自らの往生を確信することであったといえよう。 以上のごとく証空は往生を目指す上での行者の内面の問題を重要視したといえるが、その信仰は如何なる現実杜 会との関わり方をもたらしたのだろうか。それを検討する上で注目すべきなのは、一証空における正固と正行との関 係 で あ る 。 例 え ば 証 空 は 、 ノ ニ テ ヲ ク ル ニ ノ ノ ヲ ニ テ テ ノ ニ シ ヲ ノ モ ク シ ス テ 正因領解心、仏体万徳皆悉得上、此万行行体一々顕、随二各々衆生機根一施二利益 J 仏果無上功徳悉可レ顕。の正 ノ イ ル ノ ニ ス ニ テ キ ス ノ ノ ヲ シ ン ハ ソ ン ノ ヲ ︵ 貯 ︶ 困謂窮レ之上、必正行面可レ顕一一次位階級覚悟不同一也。若不レ爾者何顕二仏果功徳哉 と い っ て 、 自身の往生の確信!正因を得た後の信仰主体の実践は、 その機根に応じてなされるべきであり、 それら を正行と位置づけている。このような証空の信仰について中西随功氏は、 衆生の往生は、すべて阿弥陀仏の側で設えていてくれたとする領解心が得られると、その阿弥陀仏が成就した 証空における法然浄土教の継承とその内実 五

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証空における法然浄土教の継承とその内実 ム ノ、 願力を、自らの三業を通して各々の機根に即応して具現していこうとする願いと報恩実践行がでてくる。それ ゆえに、法然が凡夫往生にとっては雑行として退けた種々の宗教的・社会的実践、つまり、定散二善の諸行に ︵ 日 ︶ 対して、証空は再び価値観の高揚をもたらしてくる。 と説明している。氏のいうように、証空にとっての正行は、﹁領解心﹂を得ることを条件になされる行者の一切の 行為を指していた。このことは、 − ﹂ 牛 ﹂ 阜 、 l l 一切の善根は、皆、雑行と云ふべき事は、 一切の善根は、皆、正行と云ふべきなり。自力修行の人の心 一宗の大事なり。其の中には、猶、種々に分別するなり。所 観門の解を発し弘願に帰する人の心には、実に、 謂、弘願の正体と云ふは憶念なり。然るに、此の憶念の体の色に出づる時、行者の三業に出でて有るなり。此 の三業に出づる時を、正行とは云ふなり。 と、証空が﹁憶念﹂のもたらす行為として、称名念仏と同様に全ての三業を正行に位置づけたことからもあきらか であろう。ただし、注意しなければならないのは、証空が正行であるかどうかを、善根の内容ではなくて本願への ﹁憶念﹂の有無によって判断していることである。上述したように、証空のいう﹁憶念﹂は、衆生の往生を確信す ︵

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︶ つまりは、﹁機の方よりとかう心得て、仏の御心に相応せんなんど思ふべき事にはあらず﹂と ることを意味した。 いうように、徹底して行者を被救済主体であることの自覚に向かわせるものであった。したがって、﹁憶念﹂を伴 って正行となる三業の性格は、行者自らが往生を確信することで完結する﹁憶念﹂にではなく、行者の機根によっ て基礎付けられたのである。そうであれば、中西氏がいう﹁領解心﹂を得た者による﹁阿弥陀仏が成就した願力﹂ の 具 現 化 と は 、 ﹁ 領 解 心 ﹂ を 保 ち な が ら 、 それとは無関係に行者各々が ﹁ 願 力 ﹂ と理解する ﹁善根﹂をそのまま実 践 す 正 る 因ノと 位ニい

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九 日 不 同ヲ 是ヲ -i::. 正 行ト 也 ノ ニ ノ ヲ 正 因 上 所 レ 顕 行 、 即 -i::. 正 行ト 也り

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というように、﹁正因領解ノ心﹂を保てれば、諸行は称名念仏と同じ正行に位置づけられ、したがって正行には ﹁九品ノ不同﹂があらわれると理解されたのである。このことから、現実との関わりをあらわす正行において、﹁弥 一切の諸仏一仏なり。故に、余仏を礼するをも、即ち万全を成じ往生の因となる o ﹂と、法然 陀 に 帰 す る 上 に は 、 が往生行としなかった天台教義の受容が結果されることとなった。 つまり、証空の信仰は、信仰︵正因︶と実践 ︵正行︶を二元的に理解することで、称名念仏の専修を保持しながらも無原則にそれ以外の行為を正行とする論理 を調達したといえる。したがって、証空による法然浄土教継承の内実は、法然浄土教が成立させる生き方の根本に あった、万人の往生の平等性を信じるがゆえの称名念仏の専修を抜け落ちさせたといわなければならない。

おわりに

嘉禄三年、朝廷は専修念仏停止令を発布するとともに、延暦寺に対しても次のような宣旨を発した。 宣下重畳之上倫尚興行之篠更非公家之所知食。偏為有司之怠慢。早任先符可被林一市遇。其上 ︵ 山 山 ︶ 於衆徒之蜂起者、宜令加制止給者依天気言上如件。 ここでは、専修念仏興行の責任が延暦寺の怠慢によるとされている。つまり朝廷は、専修念仏を停止すると同時 に、延暦寺に対して衆徒の蜂起を禁じ、専修念仏が興行しないような処置を自ら講じるように命じたのであった。 したがって、延暦寺所領内における専修念仏者の活動はさらに困難を極めていき、﹁王法﹂を支える仏教理解と矛 専修念仏事。停廃 盾しない教義の展開が結果された。そこで中心的役割を果たしたのが、証空による専修念仏理解であったことは疑 え な い だ ろ う 。 証空は、信仰︵正因︶と実践︵正行︶を二元的に理解することで、法然浄土教において問題として残っていた、 証空における法然浄土教の継承とその内実 七

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往生と無関係な実践を容認する余地を往生行に取り入れた。その意味で証空は、専修念仏者の現実との関わり方を 一 証 空 に お け る 法 然 浄 土 教 の 継 承 と そ の 内 実 J¥ 問題に据えていたといえる。しかしながらその信仰は、法然が正行|往生行として認めなかった諸行を、正因の獲 一切衆生の平等な往生を信じることと表裏であるが故に唯一 得後に正行として位置づけるものであった。これは、 の正行|﹁正定業﹂であった、法然の称名念仏理解を変質させた。要するに、正行を機根に相応させた証空の信仰 は、専修念仏者において成立する相互の尊厳を自覚するという方向性を喪失させるものであったといえよう。以上 のように考えるなら、後の﹁西山義﹂が、既存の宗教秩序の肯定によって被弾圧の性格を喪失した出発点に、機根 の差異と往生行との相関を受け入れた証空の信仰をみなければならないだろう。 註 ︵ I ︵ 2 ︶ ︵ 3 ︶ 代表的な研究に、平雅行﹁日本中世の社会と仏教﹄︵塙書房、一九九二年︶、佐藤弘夫﹃日本中世の国家と仏教﹄ ︵古川弘文館、一九八七年︶がある。専修念仏を﹁中世的異端﹂と論じた研究の端緒は黒田俊雄﹁日本中世の国 家と宗教﹂︵岩波書店、一九七五年︶であったが、黒田氏の専修念仏理解を批判的に継承した平氏によって、諸 行 往 生 の 否 定 が 専 修 念 仏 の 本 質 的 特 徴 と さ れ た 。 例 え ば 、 黒 田 ﹁ 前 掲 童 日 ﹄ 、 菊 池 勇 次 郎 ﹁ 源 空 と そ の 門 下 ﹄ ︵ 法 裁 館 、 一 九 八 五 年 ︶ 0 例 え ば 、 康 川 嘉 敏 ﹁ 法 然 門 下 に お け る 専 修 念 仏 義 の 展 開 ﹂ ︵ 浄 土 宗 総 合 研 究 所 編 ﹃ 浄 土 教 文 化 論 ﹄ 、 山 喜 房 仏 書 林 、 一 九 九 一 年 ︶ 、 中 西 随 功 ﹁ 証 空 浄 土 教 の 研 究 ﹄ ︵ 法 裁 館 、 二

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九 年 ︶ 0 ﹁ 一 念 之 頃 往 レ 生 二 西 方 極 楽 世 界 ι 故 一 百 一 一 往 生 一 也 o ﹂ ︵ ﹃ 往 生 要 集 釈 で 石 井 教 導 編 ﹃ 昭 和 新 修 法 然 上 人 全 集 ﹂ 、 平 楽 寺 書 店 、 一 九 五 五 年 ︿ 以 下 ﹁ 昭 法 全 ﹄ ﹀ 、 一 七 頁 ︶ 、 ﹁ 一 心 専 念 弥 陀 名 号 、 定 得 一 一 往 生 必 無 レ 疑 也 o ﹂ ︵ ﹁ 選 択 本 願 念 仏 集 ﹄ ︿ 以 下 ﹁ 選 択 集 号 、 ﹃ 昭 法 全 ﹄ 、 一 一 一 一 一 二 頁 ︶ 0 ﹁ 選 択 集 ﹄ ︵ ﹁ 昭 法 全 ﹄ 、 一 一 一 一 四 頁 ︶ 0 ﹁ 無 量 寿 経 釈 ﹄ ︵ 同 上 、 九 八 頁 ︶ 0 ﹁ 取 一 信 於 一 念 、 尽 行 於 一 形 、 疑 一 一 一 念 往 生 者 、 即 多 念 皆 疑 念 之 念 仏 也 o ﹂ ︵ ﹁ 三 心 料 簡 お よ び 御 法 語 ﹄ 、 五 三 頁 ︶ 0 4 ︵

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︶ ︵6 ︶ ︵

7

︶ 向上、四

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8 ﹁問日一切衆生皆有仏性イ遠劫以来応レ値二多仏 4 何 因 至 レ 今 的 自 輪 一 廻 生 死 不 レ 出 一 火 宅 4 : ・ ︵ 中 略 ︶ : 当 今 末 法 是 五 濁 悪 世 。 唯 有 一 浄 土 一 門 一 可 通 入 一 路 ﹂ ︵ ﹁ 選 択 集 ﹂ 、 同 上 、 一 一 一 一 一 頁 ︶ 0 ﹁往生浄土乃至成仏。此是当益也 o ﹂ ︵ 向 上 、 三 三 八 頁 ︶ 0 同 上 、 三 一 二 頁 。 同 上 、 三 一 七 頁 。 同 上 、 一 二 二

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頁 。 同 ヒ 、 三 一 九 頁 。 向上、三二三

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二 三 四 頁 。 向 上 。 向 上 、 二 一 二 四 頁 。 同 上 。 向 上 。 向 上 、 三 三 七 頁 。 ﹁ 欲 修 正 行 正 助 二 業 中 猶 傍 於 助 業 選 応 専 正 定 。 正 定 之 業 、 即 是 称 二 仏 名 イ 称 レ 名 必 得 レ 生 。 依 二 仏 本 願 一 故 ﹂ ︵ 向 上 、 三 四 七 頁 ︶ 0 慈円﹃愚管抄﹂巻第六︵岡見正雄・赤松俊秀校注﹁愚管抄﹄、岩波書店、一九六七年、二九四頁︶ 0 ﹁ 七 箇 条 起 請 文 ﹄ ︵ ﹃ 昭 法 全 ﹄ 、 七 八 八

1

七 八 九 頁 ︶ 。 ﹃ 選 択 集 ﹄ ︵ 同 上 、 一 二 三 六

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一 二 三 八 頁 ︶ 。 ﹁念仏ノ行ハ、モトヨリ有智無智ニカキラス、弥陀ノムカシチカヒタマヒシ本願モ、アマネク一切衆生ノタメ也。 無智ノタメニハ念仏ヲ願シ、有智ノタメニハ余ノフカキ行ヲ願シタマヘル事ナシ 0 ・ : ︵ 中 略 ︶ ・ : 往 生 ノ ミ チ ヲ ト ヒ タ ツ ネ 候 人 ニ ハ 、 有 智 無 知 日 ヲ 論 セ ス 、 ミ ナ 念 仏 ノ 行 ハ カ リ ヲ 申 候 也 。 ﹂ ︵ ﹁ 津 戸 の 三 郎 へ っ か わ す 御 返 事 ﹂ 、 同 上 、 五

O

一 I I I − , 五

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一 一 頁 ︶ 。 向上、五

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四 頁 。 ﹁ 十 二 問 答 ﹄ ︵ 向 上 、 六 三 三 頁 ︶ 。 ﹃ 念 仏 往 生 義 ﹄ ︵ 向 上 、 六 九 一

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六 九 二 頁 ︶ 。 ︵ 9 ︶ ︵ 叩 ︶︵日︶ ︵ 臼 ︶︵臼︶ ︵ 日 ︶︵日︶ ︵ 日 ︶︵口︶ ︵ 国 ︶︵印︶ ︵ 却 ︶ ︵ 幻 ︶︵辺︶ ︵ お ︶︵担︶ ︵ お ︶︵部︶ ︵ 訂 ︶ 証 空 に お け る 法 然 浄 土 教 の 継 承 と そ の 内 実 一 九

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証 空 に お け る 法 然 浄 土 教 の 継 承 と そ の 内 実

28 また平氏は、中世国家が﹁顕密仏教﹂を荘園制的支配秩序のイデオロギー的支柱としていたということと、﹁王 法仏法相依論﹂にもとづいて﹁異端﹂を取り締まる権利と義務をもっていたことを理由に、﹁顕密仏教﹂を誇難 す る 専 修 念 仏 へ の 弾 圧 は 不 可 避 だ っ た と し て い る ︵ ﹁ 前 掲 書 ﹄ ︶ 0 ﹃ 鎌 倉 遺 文 ﹄ 一 一 一 二 三 四 号 。 向 上 。 川岸宏教﹁四天王寺別当としての慈円||御手印縁起信仰の展開﹂︵石川力山他編﹃日本仏教宗史論集﹄第一巻、 吉 川 弘 文 館 、 一 九 八 五 年 ︶ 0 ﹁ 然 今 有 二 成 覚 空 阿 弥 陀 仏 J 又 源 空 之 余 党 、 久 陶 一 染 邪 風 、 永 不 レ 恐 一 一 罪 露 J ﹂ ︵ ﹃ 鎌 倉 遺 文 ﹄ 一 二 三 五 号 ︶ 0 ﹁明月記﹄嘉禄三︵二一二七︶年七月六日条には、﹁善恵房上人宇都宮随遂之師也、山門訴訟、入其数之由聞之、 周章書誓状、且進公家、妙香院又披陳給云々、吉水大僧正帰依、為臨終善智識、以之為証拠云々。﹂︵国童日刊行会、 一 九 一 一 一 年 、 四

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頁 ︶ と あ る 。 菊 地 ﹁ 前 掲 書 ﹄ 。 中 西 ﹁ 前 掲 書 ﹄ 、 四 六 頁 。 ﹁観経序分要義釈観門義紗﹄巻第三︵仏書刊行会﹁大日本仏教全書﹄第五五冊、名著普及会、一九七八年︿以下 ﹃ 大 仏 全 ﹄ 第 五 五 冊 ﹀ 、 一 六 七 頁 ︶ 0 中西氏は、証空による﹁王法仏法相依論﹂の承認は、﹁王法を止揚して社会の種々相を仏法に納め込んでみてい く﹂という、慈円の仏教理解と共通する視点によるものだとする︵﹃前掲書﹄、四七頁︶。問題は、その仏教理解 が﹁社会の種々相﹂とどのような関係を成立させるものであったかだが、少なくともそれが、現実社会を平板に ﹁仏法に納め込﹂むような性格であったならば、信仰の必然的結果として﹁王法﹂と緊張関係を生じさせたとは 考 え に く い 。 このことは、仁空実導﹁西山国師絵伝﹂︵至徳三︿一三八六﹀年︶にも、﹁上人証空、始為法然上人入室弟子、後 入小僧受法密壇、凡立浄土宗、欣極楽、就顕密縁、思滅罪、外護之友、専在小僧之補助、内薫之儲、又窓十方檀 那、不如唯始不退之行法、遂練若之興隆、以承久第三之暦、臓月三日之朝、於当院弥陀宝前、所始置今一一箇行事、 一不断念仏、二六時礼賛、三問答論議、浄土三経来迎之蓮、決定往生疑於問答、極楽九品弥陀之誓、定念仏之功 徳於現当。﹂と記されている︵浄土宗西山三派遠忌記念事業委員会編﹃西山国師絵伝﹄、西山浄土宗宗務所、 J 九 ︵ 却 ︶︵却︶ ︵ 剖 ︶ ︵ 担 ︶︵お︶ ︵ 担 ︶︵お︶ ︵ お ︶ 37 38

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39 九 六 年 ︶ 0 玉山成元﹁源空門下における証空﹂︵日本仏教史学会﹃日本仏教史学﹄ 一 一 二 二 百 円 ︶ 0 ﹁ 泊 却 私 領 土 官 所 事 在山城国乙訓郡橘前司領号山方庄 副渡本公験・手継証文等 右 件 所 者 、 成 源 師 資 相 伝 之 私 領 也 、 : ・ ︵ 中 略 ︶ : ・ 限 一 永 代 所 レ 奉 下 消 却 渡 中 干 上 人 善 恵 房 J 実 也 、 更 不 レ 可 レ 有 一 一 他 妨ベ仰為一一後日証験、勅一子細一所し立新券文也、抑当庄所当上分米参斗陸升、備供、善峯寺北尾如法仏眼聖井先 師 法 橋 遠 忌 什 日 月 、 報 恩 講 用 途 壱 石 、 事 、 於 − 此 両 係 者 、 限 二 永 代 ﹂ 無 一 慨 怠 可 レ 被 レ 致 其 沙 汰 状 、 如 レ 件 。 ﹂ ︵ ﹁ 三 鈷 寺 文 書 ﹄ 寛 宣 口 元 年 三 月 九 日 条 、 ﹁ 鎌 倉 遺 文 ﹂ 三 八 二 三 号 ︶ ﹁ 鎌 倉 遺 文 ﹄ 一 二 七 一 四 号 。 菊 地 ﹃ 前 掲 書 ﹄ 0 ﹃ 観 経 散 善 要 義 釈 観 門 義 紗 ﹄ 巻 第 三 ︵ ﹃ 大 仏 全 ﹄ 第 五 五 冊 、 三 四 九 頁 ︶ 0 小泉恵子﹁﹁古今著聞集﹄成立の周辺||徳大寺公継のサロンについて||﹂︵日本歴史学会﹃日本歴史﹂第四八 二 号 、 一 九 八 八 年 参 照 ︶ 。 ﹁二世安楽信仰﹂については、家永三郎﹃日本思想史における否定の論理の発達﹄、新泉社、一九六九年︵初出は 弘文堂書房、一九四 O 年 ︶ 参 照 。 ﹃観経玄義要義釈観門義紗﹄巻第四︵﹃大仏全﹄第五五冊、七 O 頁 ︶ 0 ﹃ 観 経 玄 義 要 義 釈 観 門 義 紗 ﹄ 巻 第 二 ︵ 向 上 、 三 七 頁 ︶ 0 ﹃ 観 経 散 善 要 義 釈 観 門 義 紗 ﹄ 巻 第 二 ︵ ﹁ 大 仏 全 ﹄ 第 五 五 冊 、 一 二 四 一 頁 ︶ 0 ﹁所謂、一切の応身と云ふは、此の弥陀の之願を、凡夫の為めに械土に出でて説き顕はすなりなり。今釈尊即ち 其の本なり。十方の応身も皆此の如し。・:︵中略︶・:此即ち、正しく凡夫を格別に教化して、根性の不同に随ひ て、各、種々にて、終に弥陀固に帰せしめらるるなり。此の種々の相を格別に説くを、皆、聖道門と名づくるな り。此即ち、観門の説相なり。故に、十方三世の仏、万行万善の修因、併しながら、弥陀一仏の功徳を種々に顕 はして衆生を教化すと云ふなり。此は、浄土宗の意を顕はす観門の智なり。亦は三心と名づく。:︵中略︶:今 第 一 三 号 、 山 喜 一 局 仏 書 林 、 一 九 七 八 年 40 ︵ 引 ︶︵必︶ ︵ 必 ︶︵叫︶ 45 ︵ 必 ︶︵仔︶ ︵ 必 ︶ ︵ 却 ︶ 証 空 に お け る 法 然 浄 土 教 の 継 承 と そ の 内 実

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一 証 空 に お け る 法 然 浄 土 教 の 継 承 と そ の 内 実

63 62 61 60 59 58 57 56 55 54 53 52 51 50 念仏宗は此の弘願に乗じて凡夫より仏果に至る、蓋し此の謂れ歎 o ﹂ ︵ ﹃ 観 経 疏 大 意 ﹄ 、 森 英 純 編 ﹁ 西 山 上 人 短 編 紗 物集﹄、西山短期大学、一九人

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年、八

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頁 ︶ 。 ﹃観経散善義他筆抄﹄上︵仏書刊行会﹃大日本仏教全書﹄第五七冊、名著普及会、一九七八年、一一一頁︶ 0 ﹃観経散善要義釈観門義紗﹄巻第六︵﹃大仏全﹄第五五冊、四

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1

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五 頁 ︶ 。 ﹃観経疏大意﹄︵森英純編﹃西山上人短編紗物集﹄、西山短期大学、一九八

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年、一五

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一 九 頁 ︶ 。 ﹃ 女 院 御 書 ﹄ 上 巻 ︵ 向 上 、 一 九 五 頁 ︶ 0 ﹃観念要義釈門覧義紗﹄巻第二︵仏書刊行会﹃大日本仏教全書﹄第五六冊、名著普及会、一九七八年、四三頁︶ 0 ﹃ 述 成 ﹄ ︵ 森 英 純 編 ﹃ 西 山 上 人 短 編 紗 物 集 ﹄ 、 西 山 短 期 大 学 、 一 九 八

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年 、 八 六 頁 ︶ 0 向上、八

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頁 。 ﹃観経玄義分他筆抄﹄中︵仏書刊行会﹃大日本仏教全書﹄第五六冊、名著普及会、二二五頁︶。 中西随功﹃証空浄土教の研究﹄︵法戒館、二

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九 年 、 三 三 頁 ︶ 0 ﹃観経疏大意﹄︵森英純編﹃西山上人短編紗物集﹄、西山短期大学、一九八

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年 、 三 三 頁 ︶ 0 ﹁ 述 成 ﹄ ︵ 森 英 純 編 ﹁ 西 山 上 人 短 編 紗 物 集 ﹄ 、 西 山 短 期 大 学 、 一 九 九

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年 、 八 四 頁 ︶ 0 ﹃ 観 経 散 善 義 他 筆 抄 ﹄ 上 ︵ 仏 童 日 刊 行 会 ﹃ 大 日 本 仏 教 全 童 百 ﹄ 第 五 七 冊 、 名 著 普 及 会 、 一 九 七 八 年 、 一 一 一 一 頁 ︶ 0 ﹃観経疏大意﹄︵森英純編﹁西山上人短編紗物集﹄、西山短期大学、一九八

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年 、 三 四 頁 ︶ 0 日向︵一二五三

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二 二 一 四 ︶ ﹁ 金 剛 集 ﹂ ︵ ﹁ 日 蓮 宗 宗 学 全 書 ﹄ 第 十 三 巻 、 一 九 五 九 年 、 二 一 回 頁 ︶ 0

参照

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