■弘前大学哲学会 (公開講演)
最終講義
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年間をふ りかえって‑五 十嵐 靖 彦
最終講義 と銘打 ちましたが、学期の授業 日程も終わ ってい る時期ですので、ある担 当科 目の文字通 りの最終回の講義 とい うわ けではな く、従って学術的な内容 とい うよ り思い出 話めいた雑駁 な ものになることを予め ご了解頂 きたい と思 い ます。
私は、昭和51年1
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月1
日付けで弘前大学 人文学部 に倫理学担 当の専任講師 として着任い た しました。 人文学部 は 当時文学科 と経済学科の2
学科制で、文学科の哲学教室 とい うと ころに所属 しました。以来31年 と半年近 くが経過 し、 この3
月65歳で定年退職 を迎 えるこ とにな りました。 この間大 きな改組が2
度あ り、人文学科 人文基礎論講座 (昭和55
年)、人 文学部思想文芸講座 (平成10
年) と所属名称が変わ り今 日に至ってお ります。 出身大学で1年半 ほ ど助手 を勤めた後の、当時33歳で したが、最 初の赴任地が弘前大学だったわ けで、
いわば人生のほぼ半分 を当大学で過 ごした ことにな ります。
ご承知 の よ うに大学教 員 の場合、異動 は、病 気 は別 として、不行跡 に よる免職 か依願 転 ・退職 しかあ りませ ん。幸い大過 も大病 も無かったので、32年間の勤続 は私 自身のたっ ての希望で もあ りました。 ど うして弘 前や弘前大学が気 に入ったのかを考 えてみ ます と
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つ ほ どあったのでは、 と思いいた ります。(1
)一つ はなん といって も弘前 とい う町の 自然環境のす ぼ らしさです。 中 ぐらいの程 よ い大きさの町 並みで桜、岩木山、お城 と揃 ってお ります。四季折 々それぞれ風情があ りま すが、 とりわ け花見の頃本丸広場 に立ち西の岩木 山を眺める としみ じみすぼ らしさを感 じ ます。それ にこの地 区 にはほ とん ど自然災害 もあ りませ ん。 この32年間で記憶 に残るのは 昭和52年で したか、大 雨による洪水位です。土淵川 の氾濫では本町地区の医学部で相 当被 害があった よ うですが、文京地 区は無傷で した。 この他秋 田沖地震 もあ りま したが、 本棚 か ら本が何 冊か落 ちる程度で済みま した。天災ではあ りませ んが、火事は 当地で もよ くあ ります。 けれ ども大火 とい うほ どではあ りませ ん。私の出身地は大火で有名な秋 田県の能 代市で直接被災 した訳ではあ りませ んが、千軒以上 も焼 けた大火を2
度経験 してお り恐 さ は身 に泌みて解 ります。( 2)2
番 目には、今 申 しました よ うに出身地が能 代市だった ことです。 高校を出るまで 住んでいま した。ここか ら1 0 0
キ ロほ どの距離ですので移動 には2
時間もかか りませ ん。弘 前 は高校生の頃 にも1
、2
度花見 に来た ことがある旧知の土地で した。 出身校の能代高校 か らは昔か ら結構 入学 してお ります。能 代市には今では両親 も実家 もも う存在 しませ んが、親戚や 友達はた くさんお ります。墓参 りや同窓会出席 にはたい‑ ん便利ですD これでは声 がかか って も余所の土地‑ は行 きた くな くな ります。
(3) 3
番 目には、弘前の人たちの人情や気風が肌 に合 うとい うか、 しっ くり来 ることで す。鍛 冶町 にはたい‑ んお世話 にな りま した。頑 固 ・強情 と堅い節操 との 中間 くらいの「じょっぼ り」 とい う特 有の徳 目を備えているの も当地の人々です。余所か ら来た人が よ く閉 口す る津軽弁 も、
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割方秋 田弁 と共通ですので抵抗 はあ りませ んで した。 「まいね」とか 「ほ じない」 とかは初めて聞きま したが。 また、 「犬をたてる」 (犬を飼 う) とか 「車 を引っ張 る」 (車 を運転す る) とかの表現 は面 白いな と思 いま した。なん といって も職場 環境が抜群 によかった ことは幸せで した。私の側では同僚 との間で不快感を感 じた ことは 全 くあ りませ んで した。他の学部は しか とは解 りませんが、人文学部 には沖縄、九州か ら 北海道、外国まで実 に多彩な出身地 の人たちがお りま した。インターナシ ョナル とまでは いきませ んが全国区であることは確かですC従って古 くか らの しきた りとか、一部の人 し か解 らない流儀や隠語はあ りません。言ってみれば理性の府 らしく議論の末、 事を民主的 に進める慣行があ りま した。学生 も純朴で よく講義は聞いて くれ ました。 こ うした ことな ども居座れた理由の一つで したC
まもな く弘前大を去 るわ けですが、別 に弘前 を離れ るわ けではあ りませんので、格 別思 い詰める程の感慨 はないのですが、多少は これまで何度 とな く迎 えた年度末 とは違 う思い が涌 いて きます。一日に言えば、あ りきた りです が、 「嬉 しさ半分、淋 しさ半分」 とい っ た ところで しょうかC
大過や 大病 もな くよくや って来れたな、 これで ゴー/レインだ、 これか らはス トレスのな い晴耕雨読の生活 に入れ るな、 とい うのは嬉 しい ものですQ一つ の ことを仕上げた達成感 も感 じます。加 えて1
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歳人 口の減少 ・大学設置基準の大綱化 ・国立大学法人化の流れのな かで大学間 に働 く競争原理がい よい よ激 化して くるこの時期、従 って、外部資金獲得競争、義務づ け られている認証評価 に耐えられ るよ うな厳 しい 自己点検、否応 もない教員任期制 の検討等 といった課題が山積す る大学 に とっての多難の暗 に、 これ らと向き合わないで済 む とい うのは、残 る人たちに悪い よ うな、 しか し自分で逃 げるわけではない とい う意味で はほっ とす るよ うな気持ち にな ります。 これ らが 「嬉 しさ」の中味で しょうか。
だが反面では、 これで用済みだ よ、社会は も うお前 を必要 としない と言い渡 された よ う な気 もし、 一抹の淋 しさを覚えることも事実です。 だが、 これ については、何事 にも終わ
りがあることですか らやむを得ないもの とし、潮時なんだ と割 り切って今後の生活設計 を すべ きなんで しょう。 「淋 しさ」 とはち ょっ と違 う感情です が、心残 りとい うか、残念 と 思 うこともあ ります。 大きな レベルで言 えば、近年の大学教 育の レベルはかな り下がって きているのではないか、 とい うことです。例えば、昔は入試科 目に して も
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教科7
科 目が 普通だった し、外国語 も2
科 目16
単位必修、卒業所要単位は138
単位 とい うもので した。今 は、入試科 目に関 しては昨年度あた りか らこれではいけないん じゃないか とい うことで5
教科7
科 目に戻 りつつ あ りますが以前は数科 目のいわゆるつ まみ食いが可能で した。 要するに受験生の負担軽減 による志願者増 を願 っての ことで した。外国語 に関 しては
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科 目8 単位必修、 1 2 4
単位が卒業 に必要 となってお ります。私 もある時期 までは ドイツ語 をテキス トに演習 を行ってい ましたが、次第 に履修生が減 り1、2
名に落 ち込 んだのには情然 とし ました。 しかたな く英訳本 を使った こともあ ります。逆 に 「ゼ ミ生 を取 りた くなけれ ば、ドイツ語かフランス語をテキス トにすれ ばいい」 と噴かれた こともあ ります。つ ま り開店 休業で負担減 となる とい うわ けですC勿論昔の ことでブラ ックジ ョー クめいた話 しです。
今時 こんな不心得 な ことをいった ら懲罰 もので し ょう。水準低 下 とは言い きれないか も知 れませ んが過保護ではないか、 と思われ る こともあ ります。授業時間 ・回数厳守、 シラバ ス ・採点基準の明示、秀 を加えた 5段階評価、答案添削返却、 平均75点前後等 々が推奨 さ れています。昔は必ず しも半期1
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回まるまる授業す る とは限 らなかった し、アカデ ミック クオーター といって15
分近 く遅刻す る先生 もお りま した。成績評価 に して もず さん とまで はいかない に して もかな りおお らかで した。 これ らの ことは説 明責任 (アカ ウンタ ビ リ テ ィ)か らして至極 当然であって従来がおか しかったのですが、教員 としては仕事量が実 質的 にかな り増 えた訳で高校以 下の先生方の苦労が思 いや られ るこの頃です。小 さな レベ ルとい うか、個人的な ことで心残 りに思 うのは、昨今 全国の大学で事情 は似た りよった り ですが、人文系特 に哲学倫理 の教員定員の減少 とい うことがあ ります。つ ま り定年退職な どで空席が出る と補充せず に他のポス トに回す ことです。 6、 7年前 には哲学系教員は全 学で1
1人、人文 に6
人お りま した。少 しづっ減員 され今では全学で6
人、人文で4
人です。私 が辞めた後 もす ぐには補充 されず更 に 1人減 とな ります。財政上 とか社会 のニーズ とかの 種々の事情でやむ を得ない よ うですが、 当該分野の継承 とい う点か ら言 って先細 りの よ う で淋 しい限 りです。残念つ いで にも う一つ言わせていただ くと、本 日の会合は、弘前大学 哲学会 の第4 1
回大会 を兼ねてお るのですが、先 ほ ど行われた総会で今年度 をもって閉会す る事が決 ま りましたC41回 目ですか ら1 9 65
年斎藤武雄教授 の頃の創設で したO私の会長 の 代で閉 じる事 にな り、代々支えて きた先輩たちに申 し訳ない気がいた します。以上、 「嬉 しさ半分、淋 しさ半分」 と言いなが ら、 どち らか と言えば 「淋 しさ、残念」
の方を多 く言いす ぎたか も知れ ませ ん。
さて、 この32年間の私の仕事で弘前大 に何 を残せたかですが、あ くまで私な りの見方で すのでかな り手前味噌 となるだろ うことを予めお断 りして総括 してみ ます。払 どもの勤務 評価は、 ご承知の よ うに教育、研究、社会貢献、管理運営 と4分野 に分かれてお ります。
それぞれの分野で若干振 り返 ってみます。
管理運営 に関 しては、管理職 は拝命す る機会 はあ りませ んで したが、 この間色々な学内 委員 ・学部内委員 を間断な く務 めて来ま したのでそ こそ こだった と思います。講座 代表 と か学務委 員は半ば ローテー シ ョンです ので別 として、組み換 えDNA実験安全委員会委員、
遺伝子実験運営委 員会委員、医学部倫理委員会委員、人文学科人事調整委員長、拡大人文 学部開設準備委 員会委 員、人文学部初代人事委員長、人文学部就職対策委員、社会連携委 員会委員、評価室室員等 を歴任いた しま した。 中には比較的長 く務めた委 員会 もあ ります。
最後の年 とい う事で今年度は倫理 員会委 員以外 はすべて免除 して頂いています。
社会貢献 に関 しては、倫理学 とい う専攻分野 のせいか県 ・市町村行政や企業の仕事はほ とん どや る機会はあ りませんで した。社会 貢献 にはい るか ど うか解 りませんが、1
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年 ほ ど 前 に品川信良先生 (本学名誉教授 ・医学部) を代表 として 当地 を拠点 に全国で550
名程の会 員を擁す る 「セ ミナー医療 と社会」 とい う研究組織が結成 され、毎年3
、4
回市民 も参加 す る例会 を開 くと共に機関誌 を年 に2回 コンス タン トに発行 して きました。昨年12
月 には 30号が出ま した。私 もこの会 の事務局の一人 として立ち 上げの時か らお手伝いを し、寄稿 もして きました。社会貢献度 は別 として医療系の方々 と交流できた ことは実 に自分の勉強 にな りま した。その ご縁 もあってか、4
、5
年前か ら国立弘前病院 (今は、独立行政法人 国立病院機構弘前病院 とい う長い名称です)で、受託研 究審査委員会委員 とい う役 目を仰 せつかってお ります。いわゆる新薬開発の治験や臨床研究の適切性 をチ ェ ックす る仕事で す。 また、 これ も社会貢献 とは言わないのか も知れ ませんが、頼まれて近隣の多 くの他大 学で非常勤講師を務めて きま した。青森保健大学、弘前学院大学、黒石農業大学校、国立 弘前病院看護学校等があ ります。現在なお継続 中の もの もあ ります。教育 と研究ですが、研究成果 を教育 に生かすのですか らこれは一体の ものです。実はつ い先 日数 えてみたのですが、 自分が指導教官 ・指導教員 として世 に送 り出 した学部学 生は 昭和51年度か ら平成17年度までで1
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人お りま した。今回3月に 7
人が無事卒業す る と158
人にな ります。哲学系志望の学生がそ う多 くない一般傾 向の中での年平均5
人ですか ら、多少誇れ るのではないか と思 ってい ます。尚、平成元年設置の人文科学研 究科、 平成11年 拡充改組 の人文社会科学研究科、平成1
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年新設の博士後期3
年課程地域社会研究科の3
つ の大学院教育のいずれ にも関わ ってきま したが、 こち らの方では確か18
名の修 士、博士の 誕生 に寄 与できたはずです。大学院生 は社会 人入学の方が多 く、既 にキャ リアを積 んでき た上での学位取得ですか ら、今では大学教授、助教授 として活躍 している方が何人 もお り 喜 ば しい限 りです。異色の人材 として印象 に残 ってい るのは2人の 中国か らの留学生で、
修了後帰 国 し、 1人は北京の積水搾病院附属看護学校で、 も う一人は西安交通大学で教鞭 を取 ってお ります。その縁で
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度ほ ど中国に出か け学術交流 を してきま した。学部の卒業生 に絞 って話 しを進めます と、名前を数 え上 げたついで に、彼 らの卒業論文 の題 目もざっ と調べてみ ま したO大 きな区切 りで申せ ば最初の1
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年間は、 シェーラー、ハ イデ ッガー、ヤ スパース、キエルケゴール、ニーチ ェ、 ジェームズ、フ ロイ ト等 といった オ ー ソ ドックスな哲学者 ・心理学者 を扱 った ものが ほ とん どで した。 中で はマ ックス ・ シ ェ‑ ラーが圧倒的 に多いテーマで した。(今弘大同窓会で ご協 力頂いているJTS
社長の 小笠原潤氏 もその頃マ ックス ・シェ‑ ラー論 を書いて卒業 してお ります。) シェ‑ ラー と い うのは私が以前か ら取 り組 んでいた ドイツの倫理学者であ り、授業で もたびたび彼の価 値倫理学や哲学的人間学 を取 りあげてい ました。私 の研究内容が授業 を介 してそのまま学 生の卒論テーマ に結びついた もの と思われます。次の10
年間 には、 これ まで同様特定の哲 学者 を重点的 に論 じる論文 に混 じって 「死生観 の研究」 とか、「生命倫理学研究」、 「安楽 死問題」 とい った どち らか とい うと生 と死 とか医療倫理 に関連 したテーマを選ぶ学生が出てきました。折 しも世間や学会で脳死 とか臓器移植 とかが話題 にな り、学際的 に論議 され 出 した時期であ りましたので倫理学 に携わ る者 として私 も 「日本医学哲学倫理学会」 とい う学会 にはい り、医の倫理 、生命倫理 の研究 に手を染 め出 した頃です。 ちなみ に医学部倫 理委員会 の学内委 員に任命 され 、生体肝移植や生殖 医療 の倫理審査 に タッチ し出 したのや、
先述 のセ ミナー医療 と社会 の設立 もこの頃で した。講義で もこれ らの問題 を頻繁 に話題 に した ことを覚 えてお ります。最後の ここ
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年は専 ら、生命倫理、環境倫理 、情報倫理 に関 連 した ものばか りになって きま した。例 えば、 この3月に卒業するであろ う7人のテーマ は、「クロー ン人間」「い じめ と自殺」「高齢 化社会 にお ける年金 と介護」「ケアの倫理」「 安
楽死」 「医療事故」 「臓器移植」 に関す るもので した。私が、 前期現 代倫理学Aでは生命倫 理 を、後期B
では環境倫理学 を、ゼ ミでは主 としで 情報倫理 を とい うよ うに、それ ぞれの 授業で現 代社会特有の応用倫理学 を講義 してい る関係で こ うした世相 を反映 したテーマ設 定 となったのだ と思います。 こ うして送 りだ した学生達が社会でそれ な りに活躍 し、 さす が弘大 はきちん とした学生 を育てているな と評価 して もらえることが今の私 の望んでいる ところです。最後 に課外活動 の事で触れてお きたい ことがあ ります。実は私、室内遊戯 の将棋が大好 きで して、子供の頃か ら趣味 としてお ります。大学生時代 もレギ ュラー として部活動 を行 っ ていま した。 文学部将棋学科卒業 と言 って もいい くらいです。弘大 に着任 して本務以外で 早速取 り組 んだのが、地元の愛棋家たち との交流 と将棋好 きの学生の掘 りお こしで した。
昭和
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年 には将棋愛好会がで き、同5 4
年 にはきちん とした将棋部が設立 され ました。以来2 5
年以上 に渡 り顧問 としてバ ックア ップ して きま した。 バ ックア ップ とい うより自分 も好 きだか ら鍛 え合って きた といった方がいいか も知れませ ん。私 自身選手 として将棋大会 に 出場 し津軽 名人を 1期獲得 した こともあ ります。 この間弘大将棋部は東北 リー グ団体優防 とか幾人 もの東北名人就任 とかの足跡 を残 して きました。 こ うしたいわ ば手塩 にか けた将 棋部 が退職後 どうなるか心残 りで、顧問を どなたかお引き受 けいただ けないか と案 じてい る次第です。とりとめのない内容だったか も知れ ませ んが、 これで32年間をふ りか えった思い出話 を 終 えることに しますO長 い間有 り難 うございま した。弘前大学の益々の発展 を祈念いた し ます。 ど うもご静聴あ りが とうござい ました。
(弘前大学人文学部教授)