理科教育における観察の機能に関する実験的研究(第29報)
一観察における観点の意味(2)一
理科教育研究室 高 野恒 雄
§1研究の 意 味 §2認識の枠組としての観点と観察
太研究の第2嘲仮説形成に果す観察機能の役割,211 観察におけ纈点は揃熱おし、てのべたよう噸察 においてのべたように,観察という行為は,たとえどん の枠組としてはたらく。そして,観点がより本質的,一 な場合においても,観察対象のあるがままの姿をすべて 般的なものであるほど認識の枠組といった方がよいよう 眺めるといった網羅的なものではない。明瞭に観察を行 な広いはたらきをもつといえよう。
うということは,実は一種の選択であり,感覚の上に投 このように,観点は非常に重要なはたらきを演じるわ 影された観察可能な像の中の何かに着目して,それを明 けであるが,適切な観点,すぐれた発想による観点をと 瞭な観察対象として抜き出すことである。 ることができるか否かが観察内容の豊かさ,適確さを決
またわれわれは,多かれ少なかれ,あるすでに獲得さ 定する。
れたものの見方でものを見ている。つまり,すべての観 ところでこの観点は,人間の観察行為そのものをどう 察事実は,多かれ少なかれ,観察者のものの見方の束縛 とらえるかによって,その意味が違ってくる。以下にそ を受けている。観察事実はものの見方に束縛され,もの の観察行為についての卓見と筆者に思われる考え方をあ の見方は,観察事実に束縛される。このようなからみあ げ,参考にしてみたい。
いが成り立っている。 2)
@前28報(観察における観点の意味,1)においては, (1)見ることと見えること
観察を促進するために,「ものの見方」をどう形成すべ われわれがものを見ることにおいて大切なび はものが きかという問題意識のもとに考察を進めてみた。まず, 確かに「見えること」である。つまり,「見えること」
この問題の背景となる科学観を展望し,代表として,カ (seeing as),または「様相に気づくこと」が問題であ ルナップ的科学観とハンソン的科学観を比較し,観察の る。物の見方は,人の生活の形式や物に対する考え方と 本質を考える手がかりとした。 複轍からみあっている。このことは前軸こおいてのべ
そして,観察における「観点」の果す役割を,本研究 たハンソンの科学観などにもふくまれる考え方である。
の1〜27報において,実例について検討し,観点の持 このことについて,ロンドン大学の石黒英子氏(哲学)
3)
チている選別の機能と有機化の機能を柱に,11種の観点 はつぎのようにのべている。
を分類した。さらに,観察における観点の形成を「認識 「厳密さと科学性を標榜する近年の認識論の多くは,
● ●
の枠組」という立場からとらえ,東野芳明氏,フォン・ 見るという現象を原始的なものとしようとした。見ると ユスクキュル,コンラート・ローレンツ等の説を参考に いう現象は,人の視覚器官と外界の事象の間にある特定 しながら考察し,意図的な認識の枠組の形成をねらった の因果関係がなければ生じない。だから,見るという現 手立てが必要であると考えた。 象が成立する必要条件と充分条件を客観的に定め易い。
● ● ●
本報においては,以上の考察に重ねイ,観察において これに反し,見えるという現象は,外界にあるものと人 なにものかを見い出す生産的な過程の場合,観点の意味 との因果関係によって定めることは出来ない。乙がそこ と効果はどこにあるのかを考えてみた・ になくとも(甲が)乙に見えることもあるし,乙を見て
いても乙に見えぬこともある。見る者と見られる物の間
に存在する因果関係は,見える現象の充分条件でも必要
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条件でもないのだ。だから,人に何が見えるか,我々は な感性もあれば,防御的ないやらしい感性もあり,鋭い 通常,その人の報告又は行動北振舞によって知る。感覚 知的な感性もあれば感傷的でいいわけがましい感性もあ 所与説は,その様に同定された,人の見える経験一一つ一 るのであろう。」
つに,見る対象と同じ様な,対象を当てがう。もともと このように,物の見え方,物の感じは,純粋に感性的 無理な説の,無理さが,様相に気づくという経験(つま なものではなく,思弁や,慣習・技術等と結びついてい り外界に変化がないのに,新しいふうに物が見える経験) るのだという考察は,観察を思考と分断して考えるべき の説明の場合に,特にあらわに出て来る様に思われる。 ではなく,一つの視点で全体的に考えるべきことを示し
甲が乙に見えるという経験は,甲を見るという経験と ているといえよう。
様相に気づくという経験の複合物だという説,又,甲を
見るという純視覚的で中立的な経験にある解釈を下すご (2)知覚に対する感覚の埋没
とだという説のいずれもが維持出来ぬことを私は示そう ものを観察ナるとき,当然知覚がはたらくわけである とした。では,見るという現象をどう理解すべきか。 が,同時に感覚が関連してはたらくと考えられている。
ヴィトゲンシュタインは,我々の見ている図が,何か このことについて哲学者の市川浩氏は,知覚以前にはた に見えるとき,我々はその図と他のものとの内的関係ウ らくはずと思われる純粋感覚の存在に対して否定的であ 知覚するのだ,と書いている。「内的関係」という表現 る。むしろ,感覚の存在の大きさは,知覚以後に感性の は余りはっきりしない物であるけれども,私は次の様に 拡大としてあらわれるところにあり,そこには,芸術的 考えてみたい。図は色々な性質,たとえば黒インキで書 直観の広い土壌としての機能を見い出すことができると かれているとか,曲線でできているとか,を持っている 考えている。したがって,ふつういわれる感覚・知覚と し,外のものとの色々な(外的)関係 たとえば,頁の いう一対の言葉として,ものの認知にはたらくものとし 端から五センチの所にあるとか,北斎によって描かれた ての感覚に対しては否定的なのである。市川氏の説くと
4)
ニか,に立つ。図の内的関係とはこの様な性質や関係と ころをみてみよう。
違って,図自体に属するものでなく,色々な概念を持ち, 庭に目をやると赤いバラの花が風にゆカている。し 物の見方をする人が図を見たときに見える図と他のもの かし日常的な関心を去って虚心に眺めれば,そこにみと との関係である。平面図が立方体に見える為には,我々 められるのは,赤いバラの花でも緑色のパラの葉でもな は立方体を知らなければならない。」 く,何とも名づけようのない無意味で中性的な赤や緑の そこで,石黒氏は,われわれの考え方をつぎのように 斑にすぎないであみう。このようなわれわれに直接与え 方向づけるべきであると主張する。 られる感性体験の基本要素が感覚と呼ばれる。この純粋
「我々は,見えるという現象を,見ることと様相,又 感覚を解釈する仕方はさまざまである。たとえば感覚は は感性的と思弁的な構成要素に分析しないで,原初的な 瞬間的かつ点的な,未分化の衡撃としての純粋印象であ
ものとして受け入れる必要があるのではなかろうか。人 る(1)とされたり,生理学的な解釈を加えて,感官に対
イキモノ
は,物を見る生物であるのみならず,物が色々に見える する外部の刺戟の直接的結果である(2)といわれたり,
イキモノ
生物でもあることを原初事実として認め,それを,他の 感覚するとはある性質(赤とかドの音とか)を持つこと 意識的事象に還元しようという試みを思い止まるべきで である③ と考えられたりする。
はないか。」 感覚から『赤いバラの花』のような日常的な知覚が構
「思弁を疑い,特に言語を,何か生命力を殺す機械的 成される仕方についてもさまざまの解釈がある。類似し なものの様に考える風潮が最近一頻り盛である。物の見 た感覚や時間的・空間的に接近した感覚が連合すること
● ●
え方,物の感じは,しかしながら,純感性的なものでな によって(4)構成されるとか,感覚に過去の経験の記憶 く,我々の思弁,会得した慣習や技術,偏見,から独立 がむすびつくことによって(5),あるいは判断や推理や に生じるのではない。推論の結果でないから,又言葉を 解釈が加わることによって(6)構成されるとかいわれる。
使って得たものでないから,物の見え方,物の感じは, ところで,もし知覚の成立に連合や,記憶・判断・推 純粋だと考えるのは愚かである。我々の言葉や思弁が, 理などの関与を必要とするなら,そのいとまがないくら 又生活の知恵と偏見が物の見え方,我々が受ける生な物 い短い時間に対象を把握させれば,純粋の感覚をみい出
ナマの感じの中にも既に染み込んでいるのだ。だから,正直 すことができるのではないだろうか。じっさい高速度シ
ヤッターのついた瞬間露出器で,被験者に造花の赤いパ 蔵氏(哲学)のつぎのような考えが鮮明に印象づけられ 奄フ花を瞬間的に見せると,被験者はr何赫、、もの』 る )
しか感覚しない。露出時間を少しのばすとまず『赤いバ 「日常の言葉はゆたかな描写能力をもっている。それ ラの花』が知覚され,さらに露出時間を延長すると『造 は一般的事態(r世はすべてそらごと」といったように)
花の赤いバラの花』が認知される。 も抽象的事態(「2と3で5」)をも描写ずる。しかし,
このような要素論的感覚論は感覚生理学においても, ここでは,個別的で具体的な事態に話を限って考える。
踏襲されている・感覚受容器が刺戟されて発生したイン いま,私はありふれた風景の中にいる。机,ランプ,
パルスが,大脳皮質の感覚領に達すると感覚を生じ,さ 窓,壁………。それらはすべて「物」である。それら らに連合領を刺戟して,記憶とむすびついたり,判断が 「物」の風景には一つの根本的条件といいたい特性があ 下されたりすると知覚が成立するというわけだ。連合領 る。その条件とは,「風景はかならず特定の一つの視点を に障害のある患者が対象を感覚することはできても,そ もつ」ということである。一つの視点からでなけれぽ風
● ● o ● ●
れが何であるかを認知できないのはこのためである。 景を眺あることはできない。風景は遠くからか近くからか しかしよく考えてみると,これらの説明にはおかしい 前からか斜めからか,「一つの特定の視点から眺められ ところがある。もし瞬間的に把握された『何か赤いもの』 た」風景でしかありえない。魚眼レンズを通してみえる が造花の赤いパラの花の要素感覚であるなら,露出の瞬 風景もまた一視点からの風景であり,三面鏡にうつる姿 間は『何か赤いもの』しかとらえることができなくても, もまた一視点(その人が座っている場所)からの風景で
● ● ●
まもなく連合したり,記憶や判断がつけ加わったりして ある。鏡像の風景である。
1造花の赤いバラの花』が知覚されるはずであるが,この この視点を文字通りに視覚に限る必要はない。手ざわ ようなことは起こらない。ここにあるのは,むしろ短時 りは,右手か左手か,掌か指先か,しっかり握るか軽く 間の露出という特定のr知覚』だと考えるべきであろう。 触れるか,速く手をすべらせるかゆっくり撫でるか,と
感覚生理学の説明にもトリックがある。というのは, にゐ・く特定の『触れ方』でしかありえない。一時に二つ ふつうわれわれが見たり,聞いたりしているときには, の触れ方を重ねての手ざわりというものはありえない。
連合領もまたつねに働いている。つまりわれわれが直接 音を聞くにも遠くから近くから,平土間からバルコニー 最初に体験するのは知覚であって,感覚領に刺戟が到達 から,と特定の『聞え方』でしか聞こえない。これら触 した瞬間の「感覚」を体験したことはないのである。感 覚や聴覚それに嗅覚,味覚,それらすべてにおいて『特 覚領に刺戟にのみ投射された純粋の感覚というのは,要 定の触れ方,聞え方等)』でしか触れ,聞え等しない。
素論を前提にして,分析の都合上想定された理論的な仮 その特定の……し方を『特定の視点』に含めた上で,
構物であり,体験に最初に与えられる感性的所与では決 r風景はかならず特定の一つの視点をもつ』といえるの してない。連合領に障害のある患者のいわゆる「感覚」 である。この特定の一視点からの風景のr見え』(『聞 にしても,それが感覚領と連合領がつねに連関して働い え』その他を含んでの)がラッセルの『パースペクティ て・・るふつうの燗の,感覚領レベル硬熱覚を示しブ1)にあたるがフ。サールのr射映(Absch。tt。㎎)』や ているかどうかは,統合の型が変わっている以上,きわ 『現出(Erscheinu㎎)』には正確には対応しない。」
めて疑わしいといわなければならない。 このような「視点」があるからこそ,観察対象の「パ そこでわれわれに最初に与えられているのは「知覚」 一スペクティブ」が得られるのであろう。ここでいう であり,「感覚」は,要素論的な先入見を前提にした根 「視点」なる語は,もちろん,われわれがよぶ「視点」
拠のない仮説であるという批判が生ずる。」 に大部分等しいといってよいと思われる。
このように,一見厳密に分析的な考えである要素論的 この大森氏の考えによって,われわれは,ますます見 なとらえ方は,見るということの真実に遠いと考えられ ることの全体性,見ることと考えることの不可分性,見 るのである。 ることキ知識・概念との強い関連性を認識することがで
きる。
(3)知覚風景と視点
以上のような見ることの全体的把握の線上に立ちなが (4)知覚と認識の風景
ら,「視点」に焦点をあててみると,東京大学の大森荘 上の大森氏の考えに,じゅうぶん通ずる考えとして,
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慶応大学の沢田允茂氏(哲学)の説明がある。沢田氏は, 方法の下でそのものの構造や機能をより正確に知ること 知覚の風景を指摘するとともに,認識の風景を考え,知 が必要である。これは丁度,ある集団が合目的的な行動 oと購,見ることと思考.思想の結びつきを主張織を行なうとき,あらゆる側面からの専門的ではある醐
「現在の瞬間に私に現われている知覚について,その 片的な情報を集めることが必要であるが,このようにし 瞬間にそれが『ほんとう』か『間違いか』ということ鵬 て断片的に集められた情報をたとえば作戦本部の全体の 問題にならないが,それがつぎの瞬間に記憶のイメージ 地図のなかに組織的に書き込み,その相互の関係を全体 として私の風景の一部を形成するとき,この二つの瞬間 的に眺めることによって,始めて取ろべき行動が決定さ に私がもった知覚が同じ風景を与えてくれるぽあいには れるのと同じである。そしてこの地図は,常に新しい断 問題ないとしても,もし二つの風景が異なり,うまくつ 片的な情報によって訂正されねぽならないだろう。私の ながっていないときには,いずれか一つが正しい知覚で いう環境の風景は私の心のなかにあって,このような全 あり,他は誤った知覚であるとして,その決着をつける 体の地図のような機能を果しているのである。」
ために第;の知覚が求められ,それにしたがって第・一の,
ある、,轄第二の知覚(何れにせよそのときには記憶のイ (5)見ることと科学の操作的思考
メ_ジとして残されているのだが)の何れかが『正しい』 上のように,見ることと思考・思想の関係を考えると あるいは『ほんとうの』知覚であり,他が『誤った』知 き,つぎのようなM・メルロ・ポンティ(Maurice 覚であるかが決定される。したがって,つぎのようにい Merleau Pmty)の思索は鋭い展望をわれわれに与えて
8)
、ことができるだろう。そのときどきの知覚は,まさに くれる。
知覚されたとおり私に与えられたものであり,それにつ 「科学は物を巧みに操作するが,物に住みつくことは いて『ほんとうの』とか『誤った』などという形容詞を 断念している。科学は物の内在的(観念的、モデルを作 つけることには意味がないだろう。しかし,そのときど り上げ,そしてその指数とか変数に,それらの定義から きの個々別々の知覚の風景は,時間的にも空間的にも, 許される範囲の変換操作を加えるだけであって,現実の イメージによって拡大されたより大きい環境の風景の部 世界とはほんの時たまにしか顔を合わせない。科学とは 分として,その全体のなかで組織化され位置づけられる。 この見とれるほど活動的で,器用で,割りきった思考で そして,この全体的な風景のなかへの組織化という点で, あり,全存在を『対象一般』として,つまり,われわれ それが不可能な知覚像を私たちはr誤った知覚像』と感 にとっては無にも等しいものでありながら,やはり同時
じ,組織化され位置づけられた知覚は『ほんとうの正し にわれわれの人為的技巧に合わせて作られているとでも い知覚像』と感じるのである。別なことぽでいうならば, いうかのように扱おうとする態度のことである。そして ほんとうの,正しい(あるいは正常な)知覚像は,その また,科学はいつもそうしたものであり続けてきた。
周囲をとりまくイメージの全体の風景をもっており,ご もっとも,古典科学はなお,世界が不透明だという感 の全体のイメージの風景のなかに組織化され位置づけら 情をいだいていた。つまりそこでは,世界とは,ほかな れている,といえよぢ.」 らぬ科学がその構築作業によって辿りつこうと望んでい
「ある知識をよりよく理解しているということは,そ るものだったのである。古典科学が,その操作のための
の知識のイメージが私の風景の全体のなかでよりよく組 超越的ないし超越論的基礎づけを求めなければならない
織化されて位置づけられている,ということにもなる。 と信じていた理由もここにある。ところが今日一科
いいかえれぽ私たちの諸々の専門的領域における知識の 学とは言わないまでも,かなり普及している科学哲学の
活動は,私の環境の風景のなかにフィードバックされ, なかには まったく新しい考え方があって,そこで
そのなかに位置づけられることによってのみ,始めて私 は,科学の構成作業は自らをそれだけで自律的なものと
の行為の決断を決定する要因となることができる。同時 思い込み,またそうなりすましており,そして思考とい
に私の環壕の風景をより拡大しようとしたり,また既存 うものも,自分の案出した一群の捕獲術や隔着術にきれ
の風景のなかの多くのイメージをより正確にし,それと いに還元されてしまっている。そこでは,〈考える〉と
他のイメージとの関連をより明確に,より多く発見した いうことは,試験し,操作し,変換することにほかなら
上で全体のなかに適切に位置づけるためには,私たちは ないが,それも,高度に『処理された』現象しが・つま
それを環境の風景から抜き出して論理的な思考や科学的 りわれわれの装置によってく記録される〉というよりは
むしろく作り出された〉現象しか入りこあないように実 氏は,自然科学において見る事象はふつうの知覚風景の 験を調整しておいての話なのだ。かくて,ありとあらゆ 世界ではなくて,「自然科学的事象」としてとらえてい る当てどもない企てが生じてくる。けだし,今日ほど, るのであるという。つぎに,その論の骨子をあげてみよ ネ学が知的流行に縣だったことはカ、つてない。 琴)。
或るモデルが,或る問題の次元でうまくゆくと,科学 「私は自分の部屋の中で机にむかって腰をおろしてい はいたるところでそれを試みようとする。現代の発生学 る。机の上には,私になじみの深い古びた小道具が雑然
● ●
や生物学はいまいろいろな『勾配』(Gradient)で溢れ と散らばっている。その向うには,色のあせたカーテン そうになっているが,この勾配なるものが,古典科学に の隙間から狭い庭がみえる。すべてが,私の熟知した風 よって秩序とか全体性と呼ばれていたものとどこがどう 物である。箱の中に何があり,石の向うがどうなってい 違うのかということになると,誰もきちんとは知ってい るか,私はよく知っている。時々,聞きなれた夜の町の
ない。そうした問題は立てられもしないし,また立てら 音がきこえてくる。犬の吠え声,車の音,風の音,それ れてはならないのだ。勾配というのは,言わぽ,それに とともに,私の中にも様々な想念の風が吹いている。昨 よって何が獲れるのかもわからずに海へ投げこまれる網 日のこと,明日のこと,星のこと,食事のこと,しかし なのである。あるいは,その上にどんな結晶が生ずるか この事もないありふれた情景が,この時点での私のすべ 予測しがたい小枝のようなものである。もし,われわれ てであり,私の住む世界のすべてである。
が時折りにでも事態をはっきりと見きおめ,なぜ或る手 このとき,この情景の中から,一つの関心の向きを選 段が或るばあいにはうまくいくのに,ほかのばあいには 別する。すなわち,ランプや机や車の音,つまり(普通 失敗するのへということを考えてみさえするならぽ,要 の意味で)私の外にある事物や事に関心を向ける。更に,
するに,この浮動する科学が本当のおのれを自覚し,自 これらの事物や事にまといついている私の憶い出や情感 分は〈生まの,あるいは現実の世界〉を土台にした構築 を関心の外におく。現象学の言葉を借りれば,しかし現 物なのだということをわきまえ,そして,かつて観念論 象学とは反対の方角にその言葉を使えば,一切の私的な 哲学のなかで『自然の概念』がもちえたような構成的価 もの,一切の私の心情と想念とをエポケーし,カッコに 値を,おのれの盲目的操作に認めようとしたりさえしな 入れるのである。そして,ただ,ランプが如何に安定し,
ければ,そうした科学的操作のもつこの自由も,やがて 箱の重さはいくばくであり,音はどこにある何から聞え ●
はきっと多くの空しいディレンマを克服することになる てくるか,このようなことにのみ関心を向け}そこに関 であろう。〈それに反して〉世界とはその名目的な定義 心を限るのである。この限られた関心においては,私の からして,われわれの操作の不定の対象Xでくある〉な 体(手足,眼,神経,内蔵)もまたランプと同様の物体
どと言い出せば,それは科学者の認識の地位を絶対的な として眺められる。このような関心を選別したとき,私 ものにまで高め,まるでかつて存在し現に存在する一切 は科学の土地,特に物理学の土地に足を向けたのである。
のものが実験室に入りこむためにだけ存在してきたとで そして,ただ一歩踏みだせば,そこは科学の地,具象の も言うようなことになるであろう。かくて「操作的」思 地に他ならない。
考は,サイバネティックス思想に見られるような一種の その一歩こそ科学に入る決定的な歩みと言えよう。そ 絶対的人工主義になってしまう。そこでは,人間のさま の一歩とは,私の知覚風景を現出するものとしての物理 ざまな創造的活動も自然的な情報過程から導き出される 的世界の定立である。それは,私がそれを見る見ないに ことになるわけだが,しかし,実は,この過程そのもの かかわらず存在し,私の生死にかかわらず過去の果てか が人間機械をモデルにして考えられたものにほかならな ら未来のきわまで持続する世界であり,その逆天文学的 らないのである。」 に微小な部分を知覚の風景として私にかいまみせる世界
科学が,いかに人工主義的にものをとらえているかを である。私の部屋を,机を,ランプを,その世界の些細 痛烈に指摘しており,見ることの基本にひびくものを持 な一部の「見え」としてながめること,それがこの物理 っている。 的世界の定立という一歩を踏み出さなければならなかっ
た。 「今」「ここ」での「私の」経験をこえて,地の果
(6)自然科学的事象と自然科学的描写 て,時の果てにまで連なる「世界」を定立したのである。 ナマさきに知覚風景と視点についての論をあげた大森荘蔵 それとともに,私は,この世界をその生のままで見,生
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のままで聞くことはできなくなる。この物理的世界は, (現象)によってのみ,それを『超越』する物理的対象 現代物理学が描くように,色もなく,音もなく匂いもな について語っているのである。」
い世界なのである。そこには,或る波長の電磁波または 「私が見,私が聞き,私が考え,私が感じること,こ 光子はあるが,色はない。空気の疎密波はあるが音はな れを自然科学が,その世界像の中で描写することはでき い。神経の電波パルスはあるが痛みはないのである。そ ないのである。自然科学が描写できるのは,私がランプ
● ● ●
れゆえ,私が古びた色のランプを眺めているとき,私は を見るときに,私の肉体の内外で生起している自然科学
● ● ●
生のままの物理的ランプを見てはいない。私に見えてい 的事象である。しかし,それが『私がランプを見る』こ るランプは無色の物理的ランプ(素粒子の集り)ではな とではない。前に述べたように,自然科学は,この私の
● ● ●
く,それによって引き起こされた,あるいはそれに対応 なまの経験に,その自然科学的描写を重ねて描くのであ する一つの姿なのである。」 って,このなまの経験を描くのではなく,また描くこと
「科学者は1またわれわれも)色を語り,寒暖を語り, もできない。」
肌ざわりを語る。しかも科学の中でこれらの知覚を語る。 このように大森氏は,事象というものを自然科学的事 このとき,彼等は二枚舌を使い.二つの世界,物理的世 象としてとらえたとき,見ることは結局は自然科学的描 界と知覚風景の世界をダブって語っているのである。色 写なのであることを示しているのであるが,この見るこ
もぬくみも持たない物理的ランプと共に,色とぬくみを との総合的把握の一つとしてつぎのような考えもある。
持つランプの見え姿をそれにダブらせて語っているので それは精神医学の木村敏氏と哲学の中村雄二郎氏の対
ある。」 談「文化としての感性}であり,相当箇所はつぎのとこ 10、
@「自然科学は,実は二つの世界を重ねて語っているの ろである。
である。無色無音無味無嗅,完全不感症の物理的事物の 「中村:在来人間には五感があるといわれてきた。現 世界に重ねて,感覚に溢れる眼耳鼻舌身意の世界を語る 在では五感だけではなくて,もっといろいろな感覚が考
o ●
のである。そして,この重ね具合は,そのずれを含めて えられているようですけれども,古典的にいえぽ人間に 極めて整合的であるにせよ,物理理論から導き出される は五感がある。そして五つの感覚の間の共通感覚という
ものではない。 ものが考えられる。そしてr見る』ことについてもいろ したがって,自然科学は端的な日常経験の世界から一 いうな形で論じられてきた。ことに近代になると美術な 歩踏みだして,それとは別途の土地を造成したと言えよ どでも遠近法というものの見方が駆使されたり,また,
う。この造成された埋立地が自然科学が測量し,区画し 哲学上でも主観,客観という促え方が強く出てきて,
開発している土地に他ならない。そして,哲学の土地は r見る』もの『見られる』ものという関係が強調される この埋立地の崖下にある。哲学は,科学者がその上で創 ようになった。ところが∬鼻る』という働きは確かに人 造的に駆け廻っているこの造成地自体の身分を崖下から 間の感覚作用のなかではもっとも高度の働きだと考えら 検討するのである。この埋立地の由来,その造成法,そ れている。高度なものとして,聴覚とも対立させられる。
の合法性,その地層,それらを時にもぐらのように嗅ぎ その他の触覚とか味覚とか嗅覚とかとも対立させられる。
まわり,時には建設規準局の吏員の目で眺めるとき,哲 しかし,実は,普通r見る』といわれている働きのなか 学が動き,哲学的議論のざわめきが生まれるのである。」 には,他のもろもろの感覚を含んでいるんじゃないかと
「物理的対象は,それが物理的対象であるということ 思うんですよ。たとえば『花を見る』というような場合 自身によって,現象,すなわち知覚像を超越している。 も,実はただ視覚的に,主体一客体関係でr見て』い われわれは,物理的ランプを端的に見ることはできなしh るんじゃなくて,私たちが花と場所と共有するようにな
をどうして『見る』ことができよう)。われわれが見る からいえぽ,たとえば遠くの花を見ている場合には,距 のは,その知覚像である。その見も,触れもできない物 離があるわけですけれども,場所を共有することが完全 理的ランプについて言々すること,また言々したことが にできれぽ,同時に花のぞぽにこちらがいるわけですよ。
正しいか否かを決めること,それはどのようにしてでき 木村:花の場所にいるわけですね。
るのだろうか。物理学者が実験と言い,観測というのも 中村:花と同じ場所にいる,花と場を共有するわけですも
つまるところは知覚像に他ならない。つまり,知覚像 場が完全に共有されれば,それは『われが花を見る』と
いってもいいし,『花がわれを見る』といってもいい。 上の運動法則とを,万有引力の観点から統合する古典力 木村:私も全くそう思います。 学をつくり上げたこと,またアインシュタインが力学と 中村:だから問題は,あくまで場の問題であろうし,ま 電磁気学を,ローレンツ変換で統一しようとして相対性 た,共通の場というのは狭い意味での『見る』こと,つ 理論をつくり上げたことなどはこの例である。
まり視覚だけでは成立たないと思うんです。そこでまた ③極限化一経験的事実の理想的な極限を考えて,そ 私は,『共通感覚』という考え方をもってくるんですけ こに法則を発見すること,たとえばガリレオが物体の斜 れどもね。」 面上の運動の極限として,斜面の傾角零の場の理想的状
以上のように見ることの意味は,誠に複雑で,ただ単 態として,慣性の法則を発見したのはこれである。
に目という感覚を働かすにすぎないものではなく,巾広 ④システム化一個々の事実をある観点から組織づけ,
く,奥深く関係するものが多い。 そこに新しい関係を見い出して法則を樹立すること。
たとえば,メンデレーフがさまざまの元素を原子量の順
§3観察における発見と観点 にある関係に従って並べそこに周期率を発見したこと これまでみてきた諸意見を頭に置きながら,筆者の研 などはそれに属する。
究にかなり直接結びつく論をみ,その立場から「観点把 そして,①と②はA群に,③と④はB群に分けること 握」の問題を考えてみたい。 ができる。なぜなら,A群において新しい理論の提知を
● ● ■ ●
刺戟する所与が,主として「理論」であるのに対し,B ● ● ● ●
i1)創造的発見と思考様式 群ではそれが主として「事実」であるからである。その 東京大学の伊東俊太郎氏(科学哲学)は,科学理論の 意味でA群における理論や法則の提起の次元は,B群の 発展を構造的にとらえ,これまでの静的な科学哲学をの ものより一段高いといえる。
りこえて,動的な科学哲学をつくっていこうとの意図を さて,このように理論提起の「発見」の過程を具体的
もって,科学史の創造的発見を検討し,思考様式を明ら に追求しようとするならぽ,それは近時いろいろなとこ 11)かにしようとした。 ろで活発に行われつつある「創造性研究」と結びつくの
「仮説提起の過程は,説明さるべきデータとともに, は当然であろう。たとえぽ,市川亀久弥氏による「等価 そのときまでの説明の体←すなわち理論との関係 変換理論」は,筆者の分類では①の類推に属するもので において考えられねぽならず,そしてこの理論の背景と あるが,この過程を独自な仕方で深化発展せしめ,創造 は.単に特定の科学理論というにつきず,Uましばその の機構の一局面の真相に迫って大きな貢献をしていると 当時の世界観や思想的環境にまで広がる裾野をもってい 筆者には思われる。湯川博士が同様な「同定の理論」を るのである。」というものである。このような観点から, 提唱されているのも,ここに自らの独創的発見の核心を つぎのような四つの様式をあげている。 見てとられたからであろう。」
「新しい理論や法則を提起する,非形式的な創造的発
見の思考様式として,次のようなものが考えられよう。 (2)ヨウ素の観察こおける観点の類似による観察の促進
①類推一ある観点に立って,既知のAB間の関係と 上にあげた伊東氏の論にみられる四つの発見の様式は,
本質的に類似した関係をCD間に見い出し, Cが知らさ 事象との接近の度合いにおいて,筆者の研究してきた観 れている場合にDを発見すること。ファントホヅフの浸 察の場合と少しく異にするかもしれない。しかし,かな 透圧理論における気体論から溶液論への類推,ドゥ・ブ り共通するものを,その様式の中に感じとることはでき
ローイにおける幾何光学と波動光学の関係から,古典力 ると思うので,対応させて考えてみよう。
学と波動力学との関係への類推,湯川理論におけるクー ここでまず本報において,とりあげる筆者の研究例は ロン場における光子のやりとりから核力場における中間 本研究(第11報)一ヨウ素の観察におけるスライドに
E)子のやりとりへの類推など,科学における偉大な理論の よる観察方法の暗示効果 である。この研究が上の伊
発見には,この推理が有効に働いた場合が多い。 東氏のあげた①類推と対応するものと考えるのである。
13) 14)
A普遍化一与えられた複数の理論を,ある観点から 第11報は,箪1および第5報であつかったヨウ素の観 統合する普遍的な理論をつくろうとすること。ニュート 察(少量のヨウ素を試験管に入れてアルコールランプで
ンがガリレオによる地上の運動法則とケプラーによる天 熱したときに現われる一連の現象を,できるだけくわし
50 茨城大学教育学部紀要 第26号
く観察して記録する)を被検者に行わせるとき,このヨ つまり,観点の指示を何もしないで観察させたときに ウ素の観察内容とある程度相似の面をもつ霜についての 比べると,文章による指示もかなり大きな効果があるカ〜
スライドを,予め見せておいた場合において,そのスラ スライドによる暗示は,また一段と大きな効果を示し,
イドが被検者の観察におよぼす効果をしらべたものであ 指示しない場合の実に1.68倍という得点を示したのであ る。すなわち,それまでの文章による観察方法の直接的 る。
指示(第5報,第1表のヨウ素の観察方法の指示)とは この大きな暗示効果は,霜とヨウ素の結晶の類似によ 異なって,スライ幅ドによる観察方法の間接的暗示をした るものと考えられる。霜についてもふつうは,窓につい 場合の効果を吟味したわけである。 た霜とか,土にできた霜柱などのありふれたものしか観
用いたスライドはFFD株式会社製「霜や永はどうし 察していないものであるが,前述のスライドによって,
てできるか」の前半の霜についての部分である。霜のい 27の場合についてそれぞれの霜の姿を見たことは,巾広 ろいうな姿を多角的にかなり巧みに示しているものであ く,また仔細にものを貝ることの大切さを覚らされるし,
り,その内容は項目的に要約すればつぎの通りであるも また同じ結晶であるので,共通性を感じ,ヨウ素の結晶 1.田園の霜の朝,2路面の霜の様子,3.雑草に生じた についても多面的な観点をとらせるに至るものと考えら 霜,4.枯葉にできた霜,5.枯草にできた霜,6,霜のとけ れる。
た後の枯草,7.枯葉の表と裏で霜のでき方がちがう, 前述の伊東氏の①類推とは,事象への距離において,
&年輪にそうてできた霜,9.水辺の枯草にできた霜, はるかに至近であるので,直ちに同質の発見様式と断ず 10地面のすき間にできた霜,11.雪穴にできた霜の結晶 るのは当を得ないという考え方もあるかもしれないが,
12.木花のついた景観,1a木花の拡大写真,針状の結晶 しかし,類推の「推」の面は弱くても「類」の面はじゅ を示す,14.高山の霧氷,15.霧氷の拡大,16.窓霜のでき うぶん強いものをもっており,むしろ,このような場合 たガラス戸,17.小さい窓霜,18.大きい窓霜の結晶, こそ基礎的な様式といえるのではないかと考えるのであ
19.筋状の窓霜,2α縞状の窓霜,21.霜柱,22.池の岸に る。
みる霜柱,2a川岸の砂地の霜柱,24.赤土にできた細い 観察の背景に存在するいろいろのものが「観点」とし 霜柱,25花樹岩の風化した表面にできた霜柱,26.曲っ て働らくことの意味は,ここにその基礎的な一つの様式 た霜柱,27数段になっている霜柱。 を示していると解されるのである。
以上のスライドは,霜の多様な姿を示している。もち
@ §4 結 論 うんヨウ素の結晶とはいろいろな面で異なるが,しかし
結晶のような物を観察する場合には,間接的ではあって (1)観察における観点の背景にある認識の枠組の性格 も,観点が暗示されるのではないかと考えて調査した。 を明らかにするため,人間の観察行為そのものをどうと
まず被検者にスライドを30分間見せ,つぎにヨウ素 らえろかの問題について,諸論を比較した。すなわち,
の観察の材料を配布し,準備を整え(10分間),「ス 見ることと見えることについての石黒英子氏の論,知覚 ライドから同じ霜にもいろいろな姿がみられることがわ 以前にはたらく純粋感覚の否定をのべる市川浩氏の論,
かったが,これから行なうヨウ素の観察においても,い 知覚風景と視点の関係についての大森荘蔵氏の論,知覚 ろいうな多くの現象が見い出される。それらの現象をで と認識の風景の支配性をのべる沢田允茂氏の論見るこ きるだけくわしく観察して記録してほしい。」という意 とと操作的思考の関係についてのメルロ・ポンティの論,
味の指示を与え,ヨウ素の観察を40分間行なった。な 自然科学的事象と自然科学的描写の関係についての大森 13)
ィ観察記録の評価は,第1報,第俵にのべてある採点 荘蔵氏の論木村敏氏,中村雄二郎氏の感性についての 基準によって行ない,一現象を観察できる毎に1点と採 意見等をとりあげ,考えた。
点した(15点満点)。
その結果を,被検者の観察得点の平均値(平均観察得 (2)上の観察についての全体的視点に立った把握を前提
点)で示してみるとつぎのようになる。 に,伊東俊太郎氏の創造的発見の様式を考え,そのうち
指示しない 文章による指示 スライドによる暗示 の一つである類推の基礎的なあり方の例として,本研究
男
3.053.75 5.00 (第11報)のヨウ素の観察におけるスライドによる観点
女計 2.90
Q.98
4.45 S.07
5.04
T.02 の暗示効果を検討した。
(3)その結果,霜の結晶の多様な姿についての視聴覚的 7)沢田允茂:認識の風景,岩波書店(1975),82、103〜
な把握が,ヨウ素の結晶についての観点を示唆するはた 8)Maurice Merleau−Ponty:ElQge de la Philos。
らきを類似による類推の基礎的な様式の例としてとらえ 叩hie LbeiI etゴesprit,Editions Gallimard,
た。 Paris,1953et1964プ滝浦静雄・本田元訳,眼と精 神,みすず書房,253〜.
文 献 9)大森荘蔵:物と心,東京大学出版会(1976),3〜,
5〜, 6〜, 7〜」 9〜, 16〜・.
1)高野恒雄:本研究(第26報)一仮説形成に果たす観 10)木村敏,中村雄二郎:文化としての感性,現代思 察機能の役割(2)一,本紀要,23(1973),15〜. 想,1976年8月号,青土社,142〜.
2)同 上:本研究(第28報)一観察における観点の 11)伊東俊太郎:科学理論発展の構造一動的な科学哲学 意味(1)一,本紀要,25(1975),23〜. へ一,思想,1974年1月号,岩波書店,34〜.
3)石黒英子:見ることと見えること,思想,1974年6 12)高野恒雄:本研究(第11報)一ヨウ素の観察におけ 月号,岩波書店,43〜。 るスライドにょる観察方法の暗示効果r,本紀要,10 4)市川 浩:感覚についての二章,現代思想,1976年 (1961)171〜.
8月号,青土社,100〜. 13)同 上:本研究(第1報)一ヨウ素の実験におけ 5)大森荘蔵:日常言語と科学言語,思想,1972年明 る観察機能の分析一,本紀要,5(1956),89〜.
暑,岩波書店,59〜. 14)同 上:本研究(第5報)一ヨウ素の観察におけ 6)BRussell:011r Knowledge of the External る観察方法の吟味一,本紀要,7(1958),101〜.
World,ch,皿,石本他訳,ラッセル・ヴィトゲンシ ー