跡見学園女子大学国文学科報第二十五号(平成九年三月十八日)
鴎 外 1 そ の終 焉 を め ぐ る 考 察
山崎一穎
はじめに
(注1)(注2) ヨ 今度正岡子規の子孫︑正岡明氏所蔵の加藤拓川宛賀古鶴所書
簡が︑津和野の森鴎外記念館に入った︒この大正十一年(一九二
二)六月二十九日から八月十三日までの賀古鶴所書簡九通十一
点は︑鴎外臨終前後の様子を伝えている︒この書簡は従来の近
親者の日記や知友達の追悼文をも裏付ける︒さらに︑欠落した
事実を補綴する点でも重要な内容を持っている︒ なかんずく︑鴎外口述︑賀古筆受の鴎外遺言の口述︑筆記の
現場の状況が︑初めて明らかになった点である︒この新事実を ん伝える新資料は︑すでに本年六月のテレビ︑新聞等で紹介され︑
研究者の注目を集めている︒
本稿ではこの書簡を紹介しつつ︑鴎外臨終の様子と遺言の意
味について考察する︒まず鴎外終焉の年の事蹟を時間軸に配列
ら し︑それに対応する資料(書簡)を次に記す︒
月日事蹟囲圃太字は森鴎外記念館主な資料
所蔵 の書簡(新資料)
銅 ▼英国皇太子の正倉院御物参観のため奈良に出張 ︒奈良では病臥することが多くなる ︒
跚▼朝
方 ︑
黒い痰の固まりが出る ︒▼大正11年5月2日
付 ︑
志げ宛鴎外書簡
湘 ▼﹁医薬を斥くる書﹂を書き上げ賀古に送
付 ︒
▼賀古による写(大正11年5月26日
付 ︑
賀古宛鴎外書簡)
大正11年7月29日加藤拓川宛賀古書簡 に同封
明 朋 ▼この日より欠
勤 ︒
㎜ ▼妻志げに泣きつかれ ︑初めて検尿を
賀 古
に届け
る ︒
▼大正11年6月19日
付 ︑
賀古宛鴎外書簡
湘 ▼部下の吉田増蔵に﹁元号考﹂のことを託す ︒▼﹁委蛇録﹂大正11年6月20日の条
湘 ▼ベルリンの長男於菟へ書簡を送る(志げ代筆) ︒▼大正11年6月26日
付 ︑
於菟宛鴎外書簡
湘 ▼初めて額田晋博士の診察を受ける(萎縮
腎 ︑
肺結核の病
状 もあったが家族のため結核は伏せられる)︒
﹁
森非常 二やせタレ トモ気分ハヨシト申候﹂
▼大正11年6月29日
付 ︑
加藤拓川宛
賀 古
書簡
跚 ▼この日より日記は ︑吉田増蔵が
代 筆
︒▼﹁委蛇録﹂大正11年6月30日の条
田 ▼電話で親友賀古鶴所を呼び ︑遺言ロ述 ︒
﹁
森病重 けれとも断然医薬を避
く﹂ ▼鴎外遺言書
▼大正11年7月6日
付 ︑
加藤拓川宛賀古書簡
四▼天皇皇后両陛下より葡萄酒を下賜され
る ︒
夜より昏
睡 ︒
▼天皇皇后両陛下からの見舞い状
田 ▼摂政宮殿下(昭和天皇)より御見舞い品を下賜さ
れ ︑
従
二位 に叙せ られる ︒
﹁
森之病況一進一退 二候へとも漸々危篤の境二 入 らんといた しあり﹂
▼大正11年7月8日
付 ︑
加藤拓川宛賀古書簡
用 四 ▼午前7時死去 ︒病名は萎縮腎と発表 ︑法号は貞献院殿文
穆 思斉大居士 ︒ 防腐剤を注入 ︒ 新海竹太郎がデスマスク作成 ︒
午後8時
に納棺 ︒ 遺族 ︑ 博物館 ︑ 図書寮の関係者で通夜 ︒
㎜ ▼遺族及び鶴田禎次
郎 ︑
矢島柳三
郎 ︑
入沢達
吉 ︑ 姉 崎
正
治 ︑ 馬淵冷佑 ︑ 桂 湖村氏夫人 ︑ 辰野政雄 ︑ 蟲明久平 ︑
山田常
治 ︑日下部重太郎 ︑
浜隆一郎 ︑ 溝 口禎二郎 ︑ 吉田増蔵 ら が通夜 ︒
田 ▼最後の通夜は賀古 ︑永井荷
風 ︑ 与謝野寛の連名の通知状
によ り多くの文士が来訪 ︒
㎜ ▼谷中斎場で葬送 ︒﹁森ハ覚者として没したり﹂▼大正11年7月12日
付 ︑
加藤拓川宛賀古書簡
㎜ ▼向島弘福寺に埋
葬 ︒
湘 ▼﹁森は九日午前七時二絶息いたし候﹂▼大正11年7月14日
付 ︑
加藤拓川宛賀古書簡
朋 ▼﹁森家之
仏 事
も今明両日にて済み可申候﹂
し
よ と
▼大正11年7月15日付 ︑加藤拓川宛賀古書簡
㎜ ▼﹁森の医薬を避くる書牘今晩漸く写し候ま︾拝呈仕候﹂ ▼大正11年7月29日
付 ︑
加藤拓川宛賀古書簡(大正11年5
月26日付 ︑ 賀 古宛鴟外書簡の写を同封)
明 蝦▼各文芸雑誌鴎外追悼号を発
行 ︒
▼雑誌﹁明星﹂﹁新小説﹂﹁三田文学﹂
躙 ∀ ﹁別紙森の遺言ハ乍遺憾充分にガンバル事能ハざりしが其筋へ不敬二渡らぬ程度二切り上げ申
候﹂ ▼大正11年8月2日
付 ︑ 加藤拓川宛賀古書簡(遺言の写を
同封)
湘 ▼﹁かたらむ友ははや失せ行きて﹂▼大正11年8月13日付 ︑加藤拓川宛賀古書簡
0医薬を排する鴎外
鴎外は大正十一年(一九二二)春から体調を崩していたが︑英
国皇太子の正倉院参観のため四月三十日から五月八日まで奈良
タンへ出張した︒五月二日付志げ夫人宛書簡の中に﹁けさは黒い痰
のかたまり出る気管支がよくないのではないかとおもふ﹂と報
じている︒五月二十六日付で鴎外は賀古鶴所宛に上野博物館か
ら速達を出している︒全文を次に翻刻する︒
昔支那二神トガアツ
タ人ヲ見テ其人ガ何年
何月何日二何事デ死ヌ
ルト云﹁ガワカツタ若シ人
ガソレヲ聞クトソレガ・10ノ全幅ヲ占領シテソレヨリ
外ノ事ハ考ヘラレナイ医
者ノ診察モ之二似テヰル 例之ハ胃嵒トキマルイカナ
ル聖賢デモ其時カラ胃
嵒ト云﹁ヲ念願ヨリ遠
ザケル﹁ハ出来マイシカシ
胃嵒ナドバカマハズニオカゥ
トシテモアバレ出スカラ自然
ニワカル必ズシモ医者ヲ
マタナイ千万人ノ老若
男女ガ皆平気デ其日々
々ヲクラシテヰルノハ自己
ノ内部ト未来トヲ知ラヌ
カラデアルトコロガ内部二
何物カガ生ジテアバレ出ス
ノンキナ凡夫モ平気デハ
ヰラレナクナルソコデ人二話
ス医者ニカカル真ノ勺㌣
9︒δひq雪び再甲︒N①ωωヨリ心持
ガ大挫折ヲ蒙ルコ≧二
病人ノ極印ガ打タレル
シカシ医者二其即oN①ωω
ガワカル﹁モアルワカラヌ﹁
モアル名医デ掌二指ス
ゴトクニワカツタトスル前途
ノ経過モワカツタトスルサウ
スルト上ノ神トニ見テ
モラツタト同一ノ場合ガ
生ズルコレガ人生ノ望マ
シイ事デアラウカ仮二
僕ガ明日電車カラオ
チテ頭ヲワツテ死ヌル﹁ヲ
前知シタトスルソシタラ
半出来ノ著述ヲドウシヨ
ウトカ子供ノ﹁ヲ誰ニド
ウ云ツテタノマフトカ非
常二忙シイ考ガ動クデ
アラウソシテ虚心二考
ヘルトソレガナンニモ用立
タヌデアラウ前知セズニヰ
テ死ヌルト同一デアラウ 僕ノ左智二何物カガア
ル卒業ノ年二智膜炎
.ヲヤツタアトデ寒ゴトニチクくイタムソレガ時≧
ω︾彗ニヨヲ出ス気管
支炎ニナル近年ハマレニ
︾ω夢白9ラシイ咳嗽ニナ
ル﹁モアル腎ニモ何物
カガアルダラウ今コレヲ医
者ニミセル智モ腎モ健全
ダト云ハヌ﹁ハ明白デアルコ
レマデ何物カガアツタノガ一変
シテハツキリ何々ガ何ノ程
む 度ニアルトナル仮二医者
ハエライ.トスル間違ハナイト
・スルソコデ僕ノ精神状態
ガヨクナルカワルクナルカ
僕ハ無修養デハナイ.
生死ノ問題モ多少考
ヘテヰル又全然無経験
デモナイ死ヲ決シタ﹁モ
アルシガシ内部ノキタナラ
シイモノト其作用ノスス
ム速度トヲ知ツタラ之
ヲ知ラヌト同ジヤウニ平
気デハヰラレマイ即チ精
神状態ノワルクナル﹁ハ
明デアルソンナラ之ヲ知
ツテ用心スル廉≧デモアル
カ女︑酒︑烟草︑宴会
皆絶対ニヤメテヰル此上ハ
役ヲ退ク﹁ヨリ外ナイシ
カシコレハ僕ノ目下ヤツテ
ヰル最大著述(中外元
号考)二連繋シテヰル
コレヲヤメテ一年長ク呼
吸シテヰルトヤメズニ一年
早く此世ヲオイトマ申
ストドツチガイイカ考物
デアル又僕ノ命ガ著
述気分ヲステテ延ビル
カドウカ疑問デアルコ
コニドンナ名医ニモ見.テモラハナイト云結論
ガ生ズル
大正十一年五月二十六日 森林太郎
賀古鶴所様(文京区立鴎外記念本郷図書館所蔵)
賀古はこの書簡の封筒に貼紙をし︑そこに﹁医薬ヲ斥クル書﹂
と墨書した︒賀古はこの鴎外の延命治療を拒否する考え方に感
ずる所があって︑この書簡を拓川へ送付した︒当時鴎外はすで
に﹃帝謚考﹄を完成し︑﹃元号考﹄を執筆中であった︒鴎外書簡
の眼目は賀古の要約したごとく︑﹁医薬ヲ斥クル書﹂であること
は言を俟たない︒鴎外のこの態度は今に始まったことではなく︑
若き日から一貫としている︒
鴎外は明治十四年(一八八一)卒業の時︑肋膜を患い︑明治三
十八年(一九〇五)日露戦争の時︑右眼弱視を自ら発見する︒明
治四十年(一九〇七)陸軍軍医総監︑医務局長に就任する直前︑
﹁胸膜炎再発の徴あり︒増悪するに至たらざりき﹂と記す︒鴎外は人生の重大な節目に何らかの病を患っている︒それを医薬に
頼らず︑摂生に努め自力更生で病を克服してきた︒
すでに﹃北条霞亭﹄の続稿﹃霞亭生涯の末一年﹄(大正九年+月
〜+年+一月﹁アララギ﹂掲載)の執筆中︑霞亭の死因を従来いわれ
ていた脚気衝心ではなく︑萎縮腎であると特定する︒鴎外は自
らの身体の状況と霞亭のそれとが同一であることから︑死因を
判断している︒鴎外はすでに自己の疾患を自覚している︒
弟の潤三郎は﹃鴎外森林太郎﹄(昭租十七年七月三+日︑森北書店)
の中で︑﹁兄は前年(大正十年‑山崎注記)秋頃から時々下肢に浮腫
があり︑家族は腎臓病ではないかとの疑を抱いて尿の検査を薦
めたが︑平素医者の診療は絶対に受けぬ主義を固執して︑相変
わらず博物館之図書寮とに出勤してゐたが︑今年(大正十一年‑山
崎注記)春流行性感冒に罹り︑それがこちれて癒えず︑遂に六月
十五日から引籠﹂ることになったと記している︒
妻志げの懇願︑賀古の勧めもあって︑六月十九日検尿を賀古
に届ける︒この日の賀古宛書簡に﹁僕ノ尿即妻ノ涙二候笑フ可キ
﹁二候始テ体液ヲ人ニミセ候﹂と記した︒翌二十日図書寮の吉田
増蔵⁝(一八六六‑一九四一)に︑現在執筆中の﹁元号考﹂のことを
託した︒
六月二十九日付︑加藤拓川宛賀古鶴所宛書簡の一部を次に示
す︒(傍線︑ルビ山崎︒以下同じ)
説文解字森二示
し候︑珍本なれども
此ノ書中こも誤字
アリテ後人ノ匡シタル
ものアリト申候︑謝
非常二やせタレトモ気
分ハヨシト申候
又日ク十日許前二紅絲
石︑家ノ礎石ニナリ 居りしものトかにて誠
二珍重スベキ研石ナ
リトテ一箇ヲ十万円
ニテ御買ヒ上ゲヲ請フ
ト宮内省二申出タ
者がアリシモ宮内省ニハ
ソンナムダナ金ハ無キ故
コトワツタ云々︑斯く弄
せられてハ石モ泣クデア ロウ歟二候早々
六月廿九日鶴所 拓翁梧下
七月六日付賀古鶴所から加藤拓川宛書簡を次に示す︒鴎外の
死の三日前である︒
拜啓森病重け
れとも断然医
薬を避く親
戚之人々其故を
解せす頻二小生を
ついて責む就而は森が
医薬を避くる ユ書状御手元に
あらハ一寸と御送
り下され度候内々
人々に示し責を
免れ度と存候
彼れ衰へたれども
未た危険の境にハ
入らす精神ハ
如常二候粥⁝ハニ
碗つ﹀朝より食ひ 牛乳は三︑四合を飲
み夜も安眠候由
二候彼日加藤君ハ
酒をのむ故衰
へないのだ︑かまはない
からシガーを吹し
たまへなぞいふ︑元気
に候但し訪問客を
嫌ひ誰にも逢
はぬ趣に候︑(中略)
鶴所
七月六日
拓川翁
梧下
東京けふは快晴
ナカくあつし犢
鼻褌いつちよう
らにて凌き罷在候 以上︻注記︼
①大正11年5月26日付
賀古宛鴎外書簡︒
次に七月八日付賀古から拓川宛書簡を掲げる︒鴎外の死の前
日である︒
ユニ日之御書二陶詩 御認め下され十九郎
に郵送方御命
じの由未だ到
来致さす日〜
まちかねあり申候
森之病況一進
一退二候へとも漸
々危篤の境二入
らんといたしあり ヨ気早き新聞紙
ハ既二﹁死﹂を伝へ
申候︑実ハ死後
之後をも当人
より託セラレタル 件あり旁彼
之医薬を避 ぺくる書状御手
元二有之候ハ穿
此際御送附
下され度重ねて
申請ひ候種
々と彼が親類問二小
うるさき事
相生じ此ヲ解
決する二最必要
を感し候委細ハ
他日拝晤之節二
譲り申候匆々
頓首 七月八日鶴所
拓翁梧下 興津西公ヨリ
ゴモヤウイカゴシン
ツウノイタリヲミ
マヒモウス
との御見舞状到
来︑新聞紙を
見てさつ速投せ
られたるものと察せ
らる家人友人
大二感佩候
飯田町よりハ且ハ後
何の音沙汰も無之候
森ヘハ朝ヨリ晩迄 小生日参之事︻注記︼
①西園寺公望の詩︒号は陶庵︒
②加藤拓川︑ひさの長男
③大正11年7月9日付(7月8日夕
刊)﹁国民新聞﹂
④大正11年5月26日付賀古宛鴎外
書簡
さいおんじきんもち⑤西園寺公望く一八四九1一九四
〇V政治家︒日露戦争後政権を担当︒
鴎外は独逸留学時代に面識があり︑
西園寺が主宰する雨声会にも出席
している︒西園寺の別邸(坐漁荘)
は︑静岡県蒲原郡興津清見寺にあっ
た︒
七月六日︑七月八日の書簡に見えるごとく︑五月二十六日の
鴎外の書簡︑﹁医薬ヲ斥クル書﹂の返却を再度催促している︒医
薬による治療を希望する森家一族の肉親の情と︑医薬を排する
意志を固守する賀古の苦渋に満ちた立場が窺われる︒鴎外の長
子於菟は独逸留学中であったが於菟の妻富貴の実家は医者であ
り︑鴎外妹喜美子の夫は東大医学部教授の小金井良精である︒
鴎外は七月九日午前七時︑自宅で死去した︒七月十日︑午前