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グレァム・グリーンに1・・ける‘Lost Childhood’ その(1) 初期短篇小説を中心に

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(1)

その(1)

初期短篇小説を中心に

久  野  幸  子

Graham Greene:His Lost Childhood (1)

Sachiko Kuno

〔序  論〕

 Graham Greene(1904〜  )は罪,愛,憐れみ等のいわゆる宗教的主題に取り組む現存 カトリック作家として知られている。しかし, childhood 即ち「幼年時代」の主題も又グリ ーンの作品世界を構成する一つの大きな要素である。

 尤も,この幼年時代という主題が何も一人グリーンのみに限ったものではないのは言うまで もなかろう。何故ならこれは元来tinnocence やbriginal sin 等の主題と重なりあい,絡み あい,しかもさまざまに形を変えつつ,古今東西の文学に流れ続ける重要な主題の一つである からである。例えば,純粋で無垢な子供の世界と経験に汚れた大人の世界という,相反する二 つの異質な世界の間に起こるべくして起こる対立,衝突,葛藤は,文学作品の主題として恰好 なものの一つであったし,子供から大人への精神的成長,即ち「無垢」から「経験」への変化 の過程は,いつの時代にあっても多くの文学者達の興味を引き付けたに違いない。

 しかしながら,それでいて,グリーン程,幼年時代に強い郷愁を抱き,奇妙な位とらわれ続 ける作家もそれ程多くはいないのではないか。確かにグリーンはその作品世界に子供や子供の ような大人を数多く登場させているし(1),その上,彼の描く多くの作中人物はともすれば幼年 時代にまつわる思い出に執着し,自らの幼年時代を後生大事と引き摺って歩く。ところでこの

ことは無論,グリーンの描く作品世界そのものの持つ偏向性と決して切り離して考えることは 出来まい。何故ならグリーンは殆ど常にいわゆる Greeneland 「グリーンランド」( seedY な法なき捉なき無秩序世界)をその背景,舞台に選び,如何にもグリーンらしい,裏切り,失 敗,逃亡,追跡のサスペンス・ドラマを飽くこともなく繰り返し展開させているからである。

となれば,そこに描き出される作中人物達も,「グリーンの家系」に属していることを示す何 らかの印を帯びているに違いなく,この印の一つこそ,この幼年時代への奇妙な心理的傾斜で あったと推察される。

(2)

グレアム・グリーンにおける Lost Childhood その(1)

 そこでこの小論では,まず〔1〕でグリーンの幼年時代へ傾斜したその人間観形成の過程を 彼の自伝及び自伝風作品に辿り, 〔1〕ではこの幼年時代の主題が最も明解に表現されている

1930年代半ば執筆の短篇小説三つを中心に,グリーンの「幼年時代」の特徴を探り出し,そし て〔正〕では,グリーンのこの幼年時代観が人間として作家として批評家としての彼にとって 持つ意味を検討し,あわせて彼の描く幼年時代が, 「幼年時代」を主題とする文学伝統の流れ にあって占める位置を考察してみたい。

〔D

 そこで,ここではグリーン自身がどのような幼年時代を過ごし,その幼年時代の記憶をその 後の体験によってどのように肉付けし,普遍化(2)していったのかを探ることにする。勿論この

ようなアプローチには,作家個人と作品とをむやみに混同視すべきでないという非難の声が聞 かれよう。が,敢えて試みるのは,グリーンがどちらかと言うと,自らの体験を素材に創作を 行なうタイプの作家であったから,その内面世界と作品世界とを平行移動は出来ないにして

も,並列に論ずることはそれ程見当違いではないと思われるからである。しかもグリーンは,

自らの現在については余り語りたがらない作家ではあったが,自らの幼年時代については,例 えぱPryce−∫onesが

He writes insistently and recurrently of his unhappy childhood,...(3)

と述べているように,実に度々言及しているからである。

1

 自伝や自伝風エッセイ,旅行記等でグリーン自らの語るところに従うと,彼の幼年時代の体 験は一般の人々のそれに比べて,かなり不幸なものであったらしい。勿論立派な両親の下で,

優れた兄妹に囲まれ,恵まれた幼年時代を送っていたグリーンが,外面的,物質的に不幸な体 験を持つはずはなかった。不幸な幼時体験とは,グリーンの鋭敏過ぎる感受性が受けとめた,

内面的,精神的それを指しているのである。この意味において,グリーンのこの異常とも言え る幼年時代観を解く鍵として特記したい出来事はかなり多い。がそれらの中でもまず第一に取 りあげたいのは,多くの研究者の指摘を待つまでもなく,父が校長をしていたパヴリック・ス クーノレでの寄宿舎生活が皮肉にも,人間とは本来二つの世界にまたがって生きなければならな いパラドクシカルな存在であり,しかもその人間を取り囲むのは,次の引用に述べられている ような残酷な世界であるという現実を幼い彼の心に深く植えつけたとグリーン自身が述べてい る点である。

(3)

 In the land of the skyscrapers, of stone sta丘S and cracked bells ringing early, one was aware of fear and hate, a kind of lawlessness−appalling cruelties could be practi㏄d with皿t a second thought;one met for the first time characters, adult and adolescent, who bore about them the genuine quality of evil.... Hell lay abOut them in their infancy.(4)

 One began to believe in heaven b㏄ause one believed hn hell, but for a long while it was only hell one coUld picture with a certain intimacy.._(5)

 第二にあげたい点は,このように自らを取り巻く世界を地獄と捉え,絶えずこの地獄のよう な世界で生き続けることへの絶望の意識に苛まれていたせいか,グリーンが早くも8歳の頃か ら度々自殺未遂を起こしているという事実である。グリーンが次のように,

 Ithink the boredom was far deeper than the love. It had always been a feature of childhood:it woUld set in on the second day of the school holi−

days.(6)

と語るこの「倦怠」とは,実は彼の抱く絶望の仮のマスクであったらしい。さて,第三にあげ たいのは,グリーンの研究者によって実にしばしば指摘される点でもあるが,彼が14歳の頃 Marjorie Bowen(1 882−1 952)のメロドラマ風な歴史小説The Viper of Milαn『ミラノの 頓』に感動し,文学に開眼し,作家となる決心をし,しかもこの本によって作家として終生不 変の根本的主題:

 一perfect evil walking the world where perfect good can never walk again,

and only the pendUlum ensures that after all in the end justice is done.(7)

に巡り合ったと語っている点である。つまり表面的にはどれ程陽気に見えようと,実は内 攻型の少年であったグリーンは,書物の世界に自らの将来(といっても彼の場合人生とは,

t{鰍盾浮窒獅?凵@towards death でしかなかったが)を探っていたが,この小説によって,既に学 校生活で開眼させられていた

Human nature is not black and white but black and grey.(8)

という人間への知識を思想として促え直し,人間及び作家としての自らの生涯を一度かぎり永 久に決定したのである。いや,決定したとグリーンは回顧しているのである。

(4)

グレアム・グリーンにおける Lost Childhood その(1)

2

 以上簡単に辿ったような幼年時代を過ごしたグリーンはオックスフォードのBalliol College を卒業し,家庭教師,新聞記者等を経験した後,1929年処女作The Mαn Within『内なる私』

出版を契機に作家生活に入り,以後次々と作品を発表していった。がここで,それらの作品の 中から特にJourney Without Mαps『地図のない旅』(1936年出版)をグリーンの幼年時代 観形成の検討の材料として取りあげるのは,彼がこの旅行記の中でしきりと自らの幼年時代に 思いを馳せ,自らの個人的な幼年時代体験を一般的,社会的なコンテクストの中でもう一度大

きく捉え直そうとしているらしい,と思われるからである。

 ところでグーリンは何故,まだ地図にも載っていない前人未踏の密林地帯を350マイノレも,

しかも約40日間もかかって旅行したのであろうか。まず旅行への衝動,といった漠然とした意 味では,あるインタビューに答えたグリーン自身の次の言葉

tNo, I think it s to escape claustrophobia, to escape bOredom,....ノ(9)

がその動機を間接的に説明しよう。つまりこの危険窮まり無いアフリカ奥地旅行へとグリーン を駆り立てたのは,少年時代の彼を度々自殺未遂へと追いやったあの倦怠であったらしいので ある。しかもグリーンには子供の頃から早くも生涯変らぬアフリカへの憧れが芽ばえていたの であり(10),一方,小説にふさわしいドラマの場を見い出したい,という作家らしい野心もあ ったことは否定出来まい。が実はそれらの気持以上の深い動機があったのである。ところでグ リーン自身は旅行記の冒頭の部分でまず,旅行への動機を知的に跡づけることは避け,ただ 精神分析医が精神分析を願う患者に向かうように,ひたすら自らの内面に目を向け,それらの アフリカでの反応をじっと見守るという姿勢を示している(11)。そしてこの手探りで何かを求 めるようなグリーンの姿勢こそ,私達が最も注目しなければならないものであろう。何故なら アフリカには彼が幼年時代に自らの回りに見い出した世界に極めて近い世界があったからであ

る。

 One had the sensation of having come home, for here one was finding as−

sociations with a personal and a racial childhood, one was being scared by the same old witches.(12)

 従って,この『地図のない旅』とは,度々指摘されるように,第一のレベルでは文字通り,

まだ地図もないアフリカ奥地への現実の旅であり,第二のVベノレでは私達の現代文明の発祥の 地へと遡る旅であり,更に第三の象徴のレベルでは,グリーン自らがその幼年時代の持つ意味 を探る内面世界への旅であったのである。

(5)

 それでは何故アフリカはそれ程彼をひきつけ,彼をくつろがせるのだろうか。既にヨーロッ パ文明に毒されたアフリカ海岸地帯には seediness 「みすぼらしさ」がいたる所にあった。

 There seemed to be a seedness ab皿t the place you couldn t get to the same extent elsewhere, and seediness has a very deep appeal:even the s㏄di−

ness of civilisation, of the sky signs in Leicester Square, the  tartS in Bond Street, the smell of oooking greens off Tottenam Court Road, the little tight−

waisted Jews in the Strand It seems to satisfy, temporarily, the sense of nostalgia for something lost;it seems to represent a stage further back.(13)

 尤も,このアフリカに見られる seediness についても,グリーンは如何にも彼らしい屈折 した態度をとっている。つまり同じ seediness であったとしても,アフリカのそれは始まっ たばかりであり,

 It is nearer the beginning;1ike Monrovia it has begun to btiild wrorig, but at least it has only begun;it hasn,t gone so far away as the smart, the new,

the chic, the cerebral.(14)

とまだ救いようがあると考えた。しかもアフリカには,一度奥地に踏み込めば,原住民達をと り囲む good evil ではなく Power に支配された,超自然的なinnocentの世界も現 存していたのである(15)。これに比べ,ヨーロッパ文明の持つ seediness は救いようのない程 遠く隔たったものであり,その上私達現代人には,原住民たちの持つあの存在するはずのな いttwitch に怯え,満月の光に狂喜する子供のように純粋で鋭敏な感受性が明らかに欠如して いるではないか。

 One was back, or, if you wi11,0ne had advanced again, to the seedy level.

This journey, if it had done nothing else, had reinforced a sense of disap−

pointment with what man had made out of the primitive, what he had made out of childhood.(16)

 つまりこの引用の示す失望感こそグリーンにとってのアフリカ原体験とも言えるものであ り,そしてそれは同時に彼が内面世界における自らの幼年時代の測り知れない価値を再認識す ることでもあったと言えよう。グリーンはこのアフリカ旅行において,自分が如何に幼年時代 のinnocenceから遠く離れているかと,そして喪失したそのinnocenceが如何に尊いもので あったかを痛感したのであり,換言すればこれはグリーンにおける lost childhood 意識の誕

(6)

グレアム・グリーンにおける Lost Childhood その(1)

生であったのである。尤も原始社会に対するこのような積極的肯定の態度や原住民の持つ鋭敏 な感受性への憧れは勿論グリーンのみに限ったことではなく,20世紀初頭のヨーロッパにおい てかなり有力で支配的な思想の一つであった(17)。が原住民達の間で現在も続行されているい わゆるイニシエイションの儀式を描くグリーンの不思議な程生き生きとした言葉は,そこに Sir James Fraiser(1854−1941)のThe Gotden Bough『金枝篇』(1890−1915)等にみら れる「原始社会における呪術的要素への憧憬」の影響を認めるとしても,背後にグリーン自身 の強い感動のあることを感じさせる。

They terrified us with their power, but we㎞ew all the time that we must not eミcape them. They simply demanded recognition:flight was a weak−

neSS.(18)

ttkiberian Devi1 の目前で,その悪魔がどれ程の恐怖を呼び起こそうと,逃走が弱さを意味 するのであってみれば,原住民の少年も少女も必死に踊り狂って難を逃れようとする。グリー ンがMosambolahumで偶然出くわした,原住民の行なう儀式に受けた衝撃とそれへの感動 は,彼が旅行の最終行程でかかった熱病の床で自らの内にはっきりと認めた apassionate interest in living, a love for life と共に,その後の彼にとってかなり重要な意味を持った

と推察される。何故なら,言わば生死を賭けた大きな賭でもあったこの旅行でグリーンは,

tlost childh∞d の意識を確立すると共tこ,真の信仰受容をし,この世の悪と死に直面し絶望 しつつも生き続けるという,逆説的な生き方を学んだと思われるからである。

〔皿〕

1  AChance for Mr. Lever

 まず最初にとりあげる1935年に執筆されたこの作品は,三十年間もセールスをやってきたの に不景気の為破産してしまった老セーノレスマン,Mr. Leverが,題名にあるように生涯最後 の賭けのつもりでアフリカ奥地までセールスに出かけ苦労したあげく熱病であえなく死んでし まう姿を描いている。ところでこの短篇がリベリア旅行の副産物と言われるのはJourney l・Vithout Mαpsの正章に描かれている太った年寄り・の商業セールスマン Younger が明らか にリーパー氏のヒントになっているのと,旅行記中にみられる記述の多くが殆ど生のままでこ の短篇にも用いられているからであろう。しかしながら,この作品には「幼年時代」について,

考える私達が決して見落レてはならない点が少くとも三つはあると思われる。

 その一つは,まずここに描かれている自然がWordsworthやHausmanの描く豊かで美

しい自然と全く異質であり,

(7)

 Forest conveys a sense of wildness and beauty, of an active natural for㏄,

but this Liberian forest was simply a dull gr㏄n wilderness. You passed, on the path a foot or so wide, through an endless back garden of tangled weeds;

it didn t seem to be growing round you, so much as dying.(19)

しかもこの密林を通り抜ける時に味わう倦怠は,その熱帯特有の酷暑より耐え難かった点であ る。二つめは,それでいてこの過酷な自然環境の中に住む黒人達が人の幼年時代に似て,盗む ことも欺くこともせず,子供達に優しくあくまで純真であった点である。そして三つめの点 は,次のような引用部分

 ....Mr. Lever had to be carried on a man s back. At first he had disliked the strong bitter sme11(it reminded him of a breakfast food he was made to eat as a child), but he soon got over that.(20)

 It was as if he were expected to do business beside a hole a child had dug in an overgrown and abandoned back garden;__(21)

等に見られるリーパー氏の子供の頃をしきりと思い出す姿勢が,リーバー氏が死ぬ前の三日間 を生きた客観的な子供の世界への伏線となっているということである。何故なら, It wasn t fair,... It seemed to him unfair・… というリーパー氏の正と邪では割り切れない大人 の世界への憤慨の言葉は,最終的には,探し歩いたDavidsonの黄熱病によるみじめな死に直 面した時点で彼の悟る次のような

 Honesty is the Best Policy:he saw quite suddenly how false that was. It was an anarchist who sat happily over the typewriter, an anarchist who rec.

ognized nothing but one personal relationship, his affection for Emily.(22)

アナーキーな認識にまで到達してしまったのである。つまりアフリカの自然がリーパー氏の それまでの道徳観を打ち砕いてしまったとも言えよう。元来単純でinnocentな人間であった リーパー氏には,その不合理な大人の世界が耐えられず,彼は子供の頃生きた世界に戻ってし まったのである。リーパー氏がアナーキストに変容してから味わったあの異常なまでの幸福 感,あれは人がその幼年時代においてのみ味わうことの出来るものではなかっただろうか。

2 The Basement Room

 さて次tCとりあげるζの短篇(1935年執筆)には・7歳の幼い少年Philipが如何にしてユ ダの如く最愛の友Bainesを裏切り,その結果如何に自らの幼年時代を永久に喪失してしまっ

(8)

グレアム・グリーンにおける Lost Childhood その(1)

たか,という悲しい物語が展開されている。ところでこの短篇もグリーン自らが序文で「この 作品はりベリア旅行からの帰国の途中の貨物船上で航海の退屈を紛らわそうとして思いつい た」と述ぺているように, AChance for Mr. Lever とは又違った意味で,作者グリーン のアフリカ旅行の影響が著しい。まず少年が全面的信頼を寄せる召使頭ベインズにアフリカ時 代の男らしい思い出話を語らせているのは,そのほんの一例であろう。がそれまで平穏無事に 子供部屋に閉じ込められていた少年が,両親の旅行中生まれて始めて降りていった地下室の世 界,その中にあってMrs. Bainesというwitchが暗躍し,少年を恐怖の奈落へと突き落とす 暗闇の世界,これはアフリカ原住民たちを取り囲むあの世界と殆ど同じものであった。しかも 付け加えればこれはグリーンがその幼年時代に垣間見た,黒と灰色とからなる地獄のような世 界を作品の中に再現したものであったと言えよう。

 尤もグリーンは,この短篇よりも早く,1929年執筆の The End of the Party 「パーティ の終り」において,鋭敏な感受性に恵まれた子供を死に到らせる人生の恐怖という主題を展開 させているし,1930年執筆の ISpy 「見つけたぞ」という短篇には,大人の世界と子供の 世界との間に横たわる巨大なギャップを暗示的に描き出している。しかしながら問題なのは,

The End of the Party の双生児や I Spy の少年がそのinnocence故に大人の世界の 腐敗と混乱を殆ど理解できないでいるのに対し,この The Basement Room の主人公フィ

リップは,彼に理解能力が無いにもかかわらず,その大人の世界への態度決定を迫られている 点であろう。

 Life feU on him with savagery:you couldn t blame him if he never faced it again in Sixty years.(23)

 ここでフィリップは幼さ故に大人の世界における嘘や裏切りや悪意に耐えられず,自分もベ ィンズを裏切ることによって,心の平安を生涯喪失してしまう。つまりこの短篇にはinnocent な子供を襲う人生の恐怖が如何に耐え難いものであるか,という点と,子供のそのinno㏄nce は幼年時代において早くも喪失の危険にさらされているという点とが強調されているのであ る。換言すれば人の一生はその幼年時代に決定されるということでもあろう。ところで,この 幼年時代に人を見舞う重大危機という発想が,原始民族の間で行われるイニシエイションの儀 式や,カbリック教徒が子弟に行なうコンファメイション即ち堅信礼の儀式と密接な関係にあ

ることは言うまでもなかろう(24)。無論これは又,G. J. GoldbergがThe li αte of lnnocence

(1965)の中で,

 Among the structural devices used in the literature of innocence is the encOunter.(25)

(9)

と解説する encounter 即ち「還遁」のドラマのグリーン的解釈の一つを提示しているとも 言えよう。がいずれにしろ,フィリップはその㎞㏄enceを7歳にして失い,以後の人生を 本質的に生きる道を見失ったのである。ところで次に引用する部分はこの短篇を更に深く理解 するもう一つの手掛りを提供していると思われる。

 Akind of embittered happiness and self−pity made him cry;he was lost;

there wouldn t be any more s㏄rets to keep;he surrendered responsibility once and for all. Let grown−up people k㏄p to their world and he would keep to his, safe in the smaU garden between the plane−trees.  In the lost boyhood of Judas Christ was betrayed ;you could almost see the small皿一 formed face hardening into the deep dilettante selfishness of age.(26)

何故なら,この下線を引いた the small garden between the plane−trees とは,物語の 中ではベィンズ夫人の遂落死を目撃したフィリップが恐怖のあまり逃げ込む小さな庭を指して いるが,象徴的にはフィリップにとってのいわゆる「内なる楽園」を意味していると考えられ るからである。このように推論する論拠として次の二点を挙げてみたい。その一つは,まずス ズカヶに囲まれた庭とは伝統的に楽園を暗示しているという点であり(27),もう一つは例えば Mark Twain(1835−1910)の描くHuckがフロンティアに楽園を求めるという空間的前進を 行なっているのに比ぺ,グリーンは大抵の場合「子供の無垢=楽園へのパスポート」という,時 間的遡行を行なおうとしていると思われる点である(28)。このグリーンにみられる楽園探求へ の時間的遡行が,次に引用するマタイ伝の聖句をその原点としているのは疑うべくもなかろう。

 Unless ye become as little as children ye shaU not enter the kingdom of Heaven.(29)

 従ってその後のフィリップの生涯が人間としての生気を欠いた不幸なものに終始したのは当 然であった。何故なら,inn㏄enceを永久に喪失したフィリップにとって逃げ込むことの出来

る楽園など,実は存在しているはずのない幻影でしかなかったからである。しかしながら,短 篇全体を眺めた場合,この幼年時代を失ってしまったフィリップに対する作者グリーンの態度 は決して冷たく非難するようなものではない。グリーンの描きたかったのは,フィリップの裏 切りと責任放棄の必然性であり,フィリップへの悲しい人間的共感であったと思われる。つま

りこの短篇はグリーンの lost chl,ldhood への一つのエレジーであったとも言えよう。

3  The lnnocent

 ところで,この¶lost childhood への郷愁という主題を更に鮮明にかつ印象的に描き出した のが,1937年執筆の The Innocent と題する短篇である。この中で作者はしきりと自らの

(10)

グレアム・グリーンにおける Lost ChildhoOd その(1)

幼年時代とアフリカとを二重写しに焼き付けようとしている。といっても,この作品にはアフ リカについての言及は見当たらず,まして AChance for Mr. Lever におけるようなあの 直接的な関係は存在していない。書かれているのは,行きずりの女友達Loraをつれて何の気 なしに故郷の町を訪れた中年の主人公が the smell of innocence に誘われ,その町で過ご した12歳までの特別変ったこともなかった平凡な幼年時代を探し求めてさまよう話に過ぎない からである。がしかし注目しなければならないのは,この町でみつけた自らの幼年時代に対し て主人公の抱く屈折した感既が,実はグリーンがアフリカ旅行の際原住民達に感じたそれと殆 ど同質であったということである。駅に降り立ち,まず思い出す自らの幼年時代は,次に引用 するエピソード㈹に象徴的に示されているように,不幸と挫折にまとわりつかれたものであ

った。

 We came up over the little humpbacked bridge and passed the almshouses.

When I was five I saw a middle−aged man run into one to commit suicide;

he carried a knife, and all the neighb皿rs pursued him up the stairs.(31)

 しかもこの短篇の中でグリーンが繰り返し述べる子供に具わる繊細で鋭敏な感受性,これも 先に検討したように彼がアフリカ原住民の間に認め讃美したものであったのである。主人公は 大人は決して異性に対する子供の愛情を侮ってはならないと次のように繰り返す。

 110ved her with an intensity I have never felt since, I believe, for anyone.

At least I have never made the mistake of laughing at children s love. It has aterrible inevitability of separation because there cαn be no satisfaction.(32)

 One wasn t able to express much, I thought, in those days;but because the expression was inadequate, it didn t mean that the pain was shallower than what one sometimes suffered now.(33)

その繊細で鋭敏な感受性故に,子供は烈しい喜びも感じ得るが,脆く,傷つき易くもある。大人 の主人公はもし一人の女につれなくされても,別の女と遊ぶという方策がとれる。が,少年の 頃の主人公にはそんな逃げ道は閉ざされていたのである。ところでこの主人公がこの町で探し あてた幼年時代とはどのようなものであったのか。これこそタイわレの示すinnocenceであっ た。が,ここで私達はこのinn㏄enceなる言葉に瞳を凝らす必要があろう。何故なら,主人公は,

彼が少女への美しい恋文だったと記憶していた紙切れを門の木の穴から見い出し,・そこに描か れていた稚拙な男女の裸体画に一度は失望しながらも,ローラとの愛の行為の後,その画にか えって幼年時代の deep inn㏄ence を悟るからである。それ故,私達はinn㏄enceを辞書

(11)

的にはsin, guiltに対立する概念として「無垢」「無実」「潔白」等と訳し得るとしても,こ の短篇においては「無邪気さ」あるいは「童心」とでも訳されなけれ摩なるまい。つまりこの inn㏄enceは罪の意識発生直前の状態, Carolyn D. Scottの言葉を借りれば Eden at the moment the apple is to be plucked (34)を示しているのである。従ってこの物語は,天地創 造の楽園でアダムとイブが知恵の木からりんごをもぎ取って食べ,始めて彼らの裸体に恥ずか

しさを覚えたという,あの聖書のエピソードを原型としているとも説明出来よう。だが勿論,

聖書の世界にあっては,人は堕落した,即ち楽園を追われた時点から,自らの罪深さを悟った が故の真の人間的成長への道を歩み出す。これが Felix Culpa (=Fort皿ate Fall)という 伝統的パラドックスの本義である。それ故,グリーンのinn㏄enceに対する態度も作品世界全 体を眺めた場合,かなり複雑で,逆説的なものになっている。がこの The Innocent とい

う短篇ではグリーンは,ただJ.Atkinsが述べている次のような意味で,

 Childhood is capable of more than suffering. It has the biessed gift of innocence denied to adults, a gift that transmutes even the most sordid experiences and circumstances・(35)

幼年時代のinnocenceを測り知れない価値があると考えているのであり,又このように考えて いるからこそ,この短篇の主人公が,

Th・・e is s・m・thi・g・b・・t inn㏄・nce・n・i・neve・q・it・・9・igri・d t・1・・e・㈹

とその喪失を恐れ,存続を願っているのであろう。尤もこのことは,裏を返せば,この inn㏄enceが実は喪失されるべく運命づけられていたことを証明してもいるのである。

 グリーンはその独創的な批評 Henry James:The Private Universe 「ヘンリー・ジェイ ムズの内面世界」(1936)の中(i,

 In all writers there occurs a moment of crystallization when the dominant theme is plainly expressed, when the private universe becomes visible even to the least sensitive reader.(37)

と述ぺているが,この言葉はグリーン自身に関しても多くの真実を語っていると思われる。そ して,この「幼年時代」という主題については,以上三つの短篇を分析,検討してみたように,

1935年のりペリア旅行直後に一つの「晶化の時期」を迎えたと考えられよう。そこでここでは 便宜上,その「晶化」された彼の幼年時代観を次の3つの点に要約してみたい。

(12)

グレアム・グリーンにおける Lost Childhood その(1)

(1)子供には大人には既に失われた繊細で鋭敏な感受性が具わっている点

(2)そういう子供を取り囲む世界がtHell のような世界である点

(3)それ故,子側こは,その幼年時代}こおいてさえ,そのi㎜㏄enceを喪失させ,その後の運  命決定を迫る恐怖に満ちた重大危機が訪れるという点,即ち人はその幼年時代に自らの将来  を決定する,という点である。

〔皿〕

1

 ところでグリーンは〔1〕で見たように,自らの幼時体験を不幸なものと考え,自らの一生 もその幼年時代に決定されたと語り,その意味を遠く深くリベリア奥地旅行に探った。そして そのような経過を辿って確立した幼年時代観 lost childhood を〔1〕で分析,検討したよう に,1930年代半ば執筆の短篇小説の中に見事に主題として「晶化」させている。

 しかしながら,私達が最大の論点としなけれぱならないのは,グリーンが不幸な幼年時代を 体験しそれで彼の一生が定まった,と言うことではなく,むしろ,グリーンがそのように考え ている,いや考えようとしているということではないのか。何故なら,確かにグリーン自身が The Basement Room のフィリップのような危機に実際に出会っているのかどうか,これ はJ.Atkilsの指摘(38)を待つまでもなく,極めて微妙な問題であって何とも答えようがない からである。しかしながら,K. AllottとM. Farrisが

 _.and the most cursory reading of Greene s novels and entertainments is enough to establish that everything he writes is discoloured by an original hurt to his sensibility.(39)

と述ぺているように,何らかの幼い頃の不幸な経験が彼の感受性に大きな影響を与えたらし いことだけは否定できまい。つまり,いずれにせよ,最も重要なのは,グリーンがこのtlost childhood を信念に近いものとし,そのような意識,姿勢でその生涯を生き,かつ書いてい

る,ということを強調したがっているという事実なのである。

 ではこのような,初期短篇小説の世界に見られた,人はその幼年時代に既にその将来を決定 するというグリーンの幼年時代観即ち人間観は,自伝,長篇小説,文学批評等を含めた作品 世界全般に渡っては,どのような意味を担っているのであろうか。

 まず第一に指摘したいのは,このようなグリーンの人間観が,彼の過去,現在,末来を促え る時間意識と極めて密接な関係にある,という点である。例えばグリーンは殆どの著作におい て過去の出来事と現在のそれとを同じ語り口で語ろうとしているが,それは,現在の自分が過

(13)

去の自分によつて既に決定されていると感じ,一方,逆に過去の自分の思い出とは現在の日々 の生活によって流動的に書きかえられ得る,と考えていたからに他ならない。ところでこの彼 の時間意識が最も明確な形で表明されていると思われるのが,グリーンが66歳になって始めて 書いた本格的自叙伝と呼ばれるASort of Life『ある人生』である。まずこの作品が・扱う 範囲を青年期の挫折の頃までに限り,扱う事柄をその幾分病的でさえある鋭敏な感受性に訴え

るもののみに限った,極めて文学的な自叙伝であったのは実に興味深い。グリーンは巻頭の一 節で次のように執筆の姿勢と動機とを述べているが,

 An autobiography is only a sort of life 一一一it may contain less errors of fact than a biography, but it is of necessity even more selective:it begins later and it ends prematurely...... In another sense too a book like this can only be a sort of life , for in the course of sixty−six years I have spent almost as much time with the imaginary characters as with real men and women.._

And the motive for recording these scraps of the past〜It is much the same motive that has made me a novelist:adesire to reduce a chaos of experience to some sort of order, and a hungry curiosity.㈹

つまり,グリーンは自伝と小説とを一緒にとりあつかっているのであり,いじわるな見方をす れば,彼はより正確に捉え直すという大義名分のもとに自らの過去にかなりな粉飾を施すこと も出来たはずである。しかし,このようなグリーンの自らの過去に対する姿勢には,上の引用 に続く部分に見られる,

 Those emotions〔in our youth〕were real when we felt them. Why should we be more ashamed of them than of the indifference of old age?(41)

という幼年時代への幾分理想主義的ではあるが,極めて謙虚な態度が隠されていることを私達 は忘れてはなるまい。成程グリーンには,詣誰を好む一面もあるが,F. Wyndhamが主張す

るように彼の誠実さも決して疑えないのである(42)。

 さて第二に指摘したいのは,上に指摘したような時間意識を抱いているからこそ,当然のこ とではあるが,初期短篇小説の世界に描かれた幼年時代観が,殆どそっくりそのまま,本格小説 であれ,娯楽用読物であれ多くの長篇小説の世界にも通用している,という点である。この点 を証明する例は数多くグリーンの作品世界に散在している。がここでほんの数例をあげれば,

1929年出版の『内なる私』の主人公Andrewsは現実の自分とは違ったもう一人の内なる自 分,言い換えれば¶lost childhood に追われているし,1940年出版のThe Powerαnd the

(14)

グt/アム・グリーンにおける Lost Childhood その(1)

GtOTy『力と栄光』には

 There is always one moment in childhood when the door opens and lets the future in.(43)

のような警句的表現が見られる。又1943年出版のThe Ministry of Fθαγ『恐怖省』の主人 公Arthur Roweが病床で苦しむ妻を憐れみ(?)の情から毒殺したのは,彼がごく幼い子供の 頃瀕死のネズミをその苦痛を見るに忍びず打ち殺した過去を持つからであり,彼が幼年時代に ひかれるのは,その頃の彼がまだ妻を毒殺するという罪に汚れていなかったからである。

 The fete called him like inn㏄ence:it was entangled in childhood, with vicarage gardens, and girls in white summer fr㏄ks, and the smell of her−

baceous borders, and security.(44)

又,例えば,次の一節には,

 In childhood we live under the brightness of immortality 一一 heaven is as near and actual as the seaside. Behind the complicated details of the world stand the simplicities:・God is good, the grown−up man or woman knows the answer to every question, there is such a thing as truth, and justice is as measured and faUltless as a clock. Our heroes are simple:they are brave,

they tell the truth, they are gocd swordmen and they are never in the long run really defeated.(45)

と,innocence喪失以前の子供を取り囲む単純で明るい世界が描かれ,この引用には続けて,

子供の抱く人生への期待と,大人の挫折や悲しい諦観が印象的に語られている。この他,1961 年出版のABUTnt−Oect Cαse『もえつきた人間』に描かれているPendeleが幼年時代の主 題の流れの上に位置することは,多分誰れの眼にも明らかであろう。ところでこのようにざっ

と長篇小説の世界に眼を通して見て気付くのは,この幼年時代という主題が短篇小説にあって はしばしば支配的なものであるのに,長篇小説にあっては副次的なものになっている点であ る。これは何故か。多分,グリーンの場合,長篇にあっては作中人物はその(lost childhood 即ちinn㏄ence喪失を出発点にとにかく現実の世界で生き続けなければならないからであろ う。つまり,フィリップが放棄した「責任」それを負うところから,長篇小説の世界が多くの 場合始まるのである。

(15)

 次に第三に指摘したい点、に移ろう。それは,グリーンが,この幼年時代の経験が人の将来を 決定するという人間観を,文学批評の分野にまで持ち込み, The Lost Childhood をタイト ルエッセイとした作品集(出版は1951年だが,そこに載せられたエッセイや批評の多くが1930 年代前後に書かれたと言われる)の中では,その人間観を作家や作品を論ずる殆ど最大の尺度 としている点、である。つまり,これらの批評的著作が新鮮で且つ刺激的であるとはよく言われ るが,現在の私達にとって最も興味深いのは,これらの作家,作品論が,グリーン自身の生き 方や文学に解明の光を投げかけているからであろう。例えぱ,グリーンは先にも引用したヘン

リー・ジェイムズの内面世界を論じた批評の中で,

 It was just because the visible universe which he was so carefUI to treat with the highest kind of justice was determined for him at an early age that his family background is of such interest.(46)

とジェイムズへの幼年時代の家庭環境の重大な影響を語り,次のようにinn㏄enceの価値を説 いている。

 For to render the highest justice to corruption you must retain y皿r in−

nocence:you have to be conscious all the time within yourself of treachery to something valgable.(47)

 このinn㏄enceを重要とする主張は Herbert Read 「ハーパート・リード」(1941)の中 でもリードの言葉を引用しつつ次のように繰り返されている。

The only real experiences in life, writes Mr. Read, being those lived with avirgin sensibility…so that we only hear a tone once, only see a colour once,

see, hear, touch, taste, and smell everything but once, the first time.  One of the differences between writers is this stock of inn㏄ence:.....(48)

 一方,このグリーンの人間観は《The Burden of Childhood 「少年時代の重荷」(1950)

では,

 There are certain writers, as different as Dickens from Kipling, who never shake off the burden of their childhood._. All later experience seems to have been related to those months or years of unhappiness.(49)

(16)

グレアム・グリーンにおける Lost ChildhoOd その(1)

とttburden という言葉を用いて論じられ,1948年執筆のtWalter De La Mare s Short Stories 「ウォノレタ・デ・ラ・メアの短篇小説」では,各々の幼年時代に決定された作家達の 人間観,現実認識を obsession 即ち「強迫観念」として捉え,

 Every creative writer worth our consideration, every writer who can be called in the wide eighteenth−century use of the term a poet, is a victim:a man given over to an obsession.(50)

とはっきりとした主張を行なっている。勿論ここでの私達には,

しく問う余裕はない。が,グリーンにおける強迫観念の一つが,

hood であったことだけは,再度確認しておきたい。

グリーンの主張の正否を詳 この 10st unhappy child一

    2

 さて,最後になったが,ここではグリーンが 10st childhood という強迫観念}ことらわれ続 けているために,彼の描く作品世界が,他の現代作家達のそれに比べてどのような特徴を呈し ているかと,「幼年時代」を扱った英文学の系譜の中でどのような位置を占めているかについ て,若干考察してみよう。

 幼年時代を主題とした作品ということで英文学史を辿った場合,私達にまず思い浮かぶの は,17世紀の形而上詩人Henry Vaughan(1 622−95)のttThe Retreat 「後退」とThomas Traherne(16370r 9−74)の ¶Inn㏄ence 「無垢」とであろう。しかし, Peter Coveneyが その名著The Imαge oアChildhood(1957)の序文で説くところによると,子供が大人の世 界を構成する付随的要素であることを止め,幼年時代がイギリス文学における支配的な主題の 一つとなったのは,18世紀の終り,即ちロマン派復興運動以後であったらしい(51)。ところで この小論の序論でふれた幼年時代と original sin, 《innocence とのかかわりあいについて は,G. J. Goldbergが先に挙げた同じ本の中で簡潔,明瞭に要約しており,その中には多く の有益な指摘が含まれているので少々長いが次に引用してみたい。

 There have been times formerly in literature when the period most closely associated with innocence was childhood. ttHeaven lies abOut us五i our infancy! says Wordsworth in his℃de:Intimations of Immortality, believ−

ing as does his contemporary Blake that Shades of the prison−house begin to close/Upon the growing Boy_  And still today, in spite of the fact that we have been somewhat dis皿usioned by modern psychology and are reluctant to equate grace with childhood as does Wordsworth, the ass㏄iation of in−

nocence and youth is found in our literature. But it is essentia皿y the in一

(17)

n㏄ence of the immature, the inexperienced, the unworldly, and characteristic of that genre that has as its protagonist the y皿ng man who is apprentice to life, the Bildungsromαn.(52)

 さてこのGoldbergの言葉の内容の中に,私達が今まで検討してきたグリーンの幼年時代観 を嵌め込んでみた場合,彼の作品世界の特徴を示すものとして,次の四つの点が浮かび上がっ てこよう。まずその第一の点は,グリーンが今世紀にあっても,t grace と tchildhood とを 同等に扱い, innocence とttyouth とを関連させて考えることの出来た作家の一人であった と言うことである。第二の点はところがグリーンの子供の場合,この小論で何度も述べたとお り,ワーズワスの描く子供を取り囲む,希望に満ち,幸せに輝いた{tHeaven とは全く対照的 Hell と呼べるような,みじめで残酷な現実世界におかれていることである。第三の点 は,それ故,グリーンの子供のinn㏄enceは,その幼年時代に早くも喪失されてしまうという

ことである。そして第四に挙げたい点は,成程グリーンも好んで immature inexperienced

tt浮獅翌盾窒撃р撃凵hな少年や青年を主人公とした小説を書くが,それらの主人公はギリシャ悲劇の主 人公のように,人生への姿勢が前向きであると言うより後向きであり,精神的成長を遂げるこ

とが珍しく,このことだけを考えても,グリーンの小説をttBildungsromαn とは必ずしも 定義出来ない,ということである。何故なら,元来¶tBildungSTomαn とは「無垢」から「経 験」への成長を描く教養過程小説であるのに比べ,グリーンの描く主人公達の性格や運命は物 語の始めから定まっているのであり,彼らは試行錯誤を繰り返し,人生を摸索したあげく,最 終的に本来の自己の姿を探り当てる場合が多いからである。勿論,この主人公達に性格変化が みられないという点,彼らの運命が前もって決定されているという点等が,グリーンにおける 視点の問題と深い関連を持っていることは言うまでもなかろう。

 ところで以上述べてきた特徴と思われる四つの点,これらはすべて,グリーンが¶lost child−

hood をその強迫観念としていることに起因していたとも言えよう。そして,私達はこれらの 点から,更に次のような二つの重要な事実を導き出すことが出来よう。その一つは,グリーン のこの幼年時代のirmocence喪失を嘆く,という姿勢には,幼年時代のごく初期と Golden age とを同等に扱っている点と,その「嘆く」という点において,幾分感傷主義的であり,且 つ少々ロマン主義的な傾向が感じられるという事実である。勿論,その幼年時代のinnocence が必ず喪失されるぺく宿命づけられていた,という意味では,かなり屈折した,複雑なものに

なっており,グリーンのこういう考え方をR.W. B. Lewisが perverted romanticism,

(53,Pryce−Jonesが despairing romanticism 《54)と述べているように,この perverted であり  despairing である点も又,実は問題なのであろうが。さて二つめの重要な事実と は,グリーンの「人はその幼年時代に自らの将来を決定する」という人間観は,表現において は多少の差異こそあれ,CoveneyやGoldberg等の研究者の証言を持ち出すまでもなく,

(18)

   グレアム・グリーンにおける Lost ChildhoOd その(1)

S.Freud(1856−1939)をその始祖とするいわゆる近代精神分析学の影響を受けた,いかにも 現代らしい,従って現代としては少々ありふれた人間観,人間認識の一つであったということ である。換言すれば,この lost childhood の lost は,グリーンが極めて現代的な感受性 に恵まれていた事実を象徴するエピセットなのである。何故なら,この彼のtlost には,ま ずr9−一次大戦後パリを中心に活躍したEHemingway(1899−1961), Dos Passos(1896−

  ),S. Anderson(1876−1941)等のアメリカの知識人や文学者のグノレープに与えられたあ の有名な名称, lost generation 「失なわれた世代」の lost に一脈通じるものがあると充分 推論できるからである。又,22歳の頃パリに遊びThe VVαste Lαnd『荒地』(1921)に痛く 感動したというグリーンの言葉や,『地図のない旅』に『荒地』からの引用句やW.H. Auden

(1907−  )から引用したエピグラムが所々で見られる点等は,グリーンも,『荒地』を発 端とし現代世界の荒廃の有様を病的で不安な感受性によって描き出そうとした現代詩運動から 大きな影響を受けたらしい事実を示してもいる。一方,故国の社会制度や政治体制に懐疑と幻 滅を味わい,外国に向かったC.W. Isherwood(1904−  )G. Orwe11(1903−50)等の 30年代作家に混じって,1929年に文筆活動を開始したグリーンも文明発祥の地アフリカや宗教 的混乱の地メキシコへ向かったという伝記的事実は,彼が他の30年代作家と同様,30年代の持 つ暗い不安な一面をもその作品世界に反映させていたらしいことを窺わせていよう。

〔結 論〕

 グレアム・グリーンが幼年時代に絶えずこだわり続けているのは,彼が自らの幼年時代の不 幸な精神体験をその殆どすべての思想,感情の原点としているからである。更に厳密に言え ば,このように幼年時代を促えようとする姿勢,その lost childhood という人間認識を強迫 観念として生涯貫き通そうとしている姿勢こそ,私達にとってより重要なのである。何故な

ら,彼がこのような姿勢で生き,且つ作品を発表しつづけることは,神不在の不条理な今日的 世界に生きる現代人に,絶えず自らの内にあって既に損われている人間性とinnocenceつまり

「楽園の思い出」とを換起させ続けると思われるからである。

 尤もグリーンがこのようにtlost childhood を強迫観念とし続けることは手放しでは誉めら れないだろう。即ち,それは彼の想像力の自由な飛翔を妨げ,描写の規模を狭め,物語の進展 を図式化し,作中人物を典型へと限定しがちだからである。

 しかし,他面そういうグリーンの狭い現実の切り取り方や偏った人間描写は,狭く偏ってい るが故の深さも感じさせるのであり,人間の存在そのものに悪の根源を見い出そうとした彼の 逆説的信仰と真摯な創作態度には,彼と信仰を同じくしない一般の読者にも常に強く訴えかけ

るものがあると思われる。小説技法の面では,グリーンはどちらかというと,20世紀の作家,

即ちJames Joyce・Virginia Woolf, E・M・Forster等のいわゆる「意識の流れ」的傾向や,

(19)

「内面」小説,「実験」小説を嫌って,19世紀までの伝統に復帰,H. FieldingやDickens等 に倣って,眼に見える世界を客観描写によって描き出そうとした作家であった。しかしなが ら,このtlost childhood という人間認識は,その現代を¶seedy と捉える鋭敏すぎる感受性 や過去,現在,末来を相関的に捉えようとする時間意識と共に,グリーンが現代を証言する作 家の一人であることを立証しているのである。       (1972.12.15)

〔付記〕 この「幼年時代」の主題は話を短篇小説に限った場合,1948年執筆の tA Hint of.

   An Explanation 「説明のヒン}」においては,初期短篇におけるのと殆ど同じと     り扱いがなされている。しかし,1960年代に出版された二つの短篇集ASense of    Rθα1吻『現実的感覚』(1963年),Mαy We BoアTow your Husbαnd ?αnd Other    Comedies of the S¢¢%αI Life『旦那様を拝借一性生活喜劇十二篇』 (1967年)

   においては,そのとり扱い方に微妙な変化が認められる。そこでこれらの後期短篇小    説の世界における「幼年時代」の主題の意味と役割についての検討は,「グリーンに    おけるtLost Childh∞d その(2)」で行ないたいと予定している。

(1)

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〔註〕

Vide., K. Allott and M. Farris, The Aγt of Graham Greene, P.14

 Characters recur in his books:the loneJy, isolated man perpetually engrossed in his own childhood, like Andrews in The Man Within or Arthur Rowe in The Ministry of Fear;

the plain pathetic child−woman, like Milly Drover in It s a Battlefield or He】en Rolt in The Heart of the Matter;……

フvデリック・R・カール『今日の英国小説』(荒木敏彦訳)p・150参照 David Pryce−Jones, Graham Greene, P.3

Graham Greene, The Lawless Roads,(Penguin Books,1971)P.14 1bid.

Graham Greene, The Revolver in the Corner Cupboard The Lost Childhood and Otheγ Essays,(Penguin Books,1962)p.202

Greene, The Lost Childood, The Lost Childhood and Other Essays, p.15 1bid.

John Atkins, Graham Greene, P.184

cf. Greene, oP. cit., p.13,11・6−8

 And later, when surely I ought to have known better, the odd African fixation remain−

ed.

Graham Greene,ノourney Without Maps,(Compass Books,1965)P.10, cf. P.114

1bid., p.109 1bid., P.9 1bid., p.310

∬bid・, pp.214− ・215 1bid., pp.276−277

『ベルジャーエフ著作集3一人間の運命』(野口啓祐訳,白水社,1966年)第二篇第一章参照。

参照

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