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ゴールズワージーの「斗爭」とわが演劇への示唆  ―主としてその構成を通じて―

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奈良教育大学学術リポジトリNEAR

ゴールズワージーの「斗爭」とわが演劇への示唆 

―主としてその構成を通じて―

著者 伊ケ崎 賢一

雑誌名 奈良学芸大学紀要

巻 4

号 1

ページ 49‑57

発行年 1954‑11‑25

URL http://hdl.handle.net/10105/5072

(2)

ゴールズワージーの「斗争」とわが演劇への示唆

−主としてその構成を通じて−

伊 ケ 崎 賢 一

一、歌舞伎の伝統が日本演劇の本体

日本に生れた歌舞伎は、この日本の環境が生んだ溝軌である。これ以外に、日本が日本でなくなれば とにかく、いな、そうなった場合でも、日本の山河、気障風土、地理、人情、風俗というものは、木に 竹を細いだようにはなり得ないものだから、従って、日本から生れる日本新は、在来の歌舞伎の伝統を 緒ぐことは自然の成り行きである。

二、外国の要素

歌舞伎は魔物と調われる。だから、その中に、如何なるものをも取り入れる可能性がある。尤も、そ れには限界はあるだろう。その限風を越えれば、歌舞伎ではなくなる。謂いかえれば、日本の溝軌では

なくなる。そしてそれは、日本の生活と密接な関係があって、日本人の生活が洋化すればするほど、歌 舞伎一一即ち日本劇も洋化の途を辿るであろう。だが、日本人が日本人でなくなることがないならば、

日本刺もまた、その本性を失わないだろう。このカブキは、それ自身の内にそうした新しい要素を加え て、時代と共に発展して行くが、また一方、浮動を主としたものも、カブキ的要素を自然に加え、結局、

カブキも洋卿も、壊後には相接近して一見同様になる場合もあるが、その場合、一体、どちらから進ん だ方が正しいといえるであろうか。築地小判場の場合は後者の場合である。業東ぼにして倒れた小山内 薫氏をして、更に毒を貸すとすれば、あれはどうなっていただろうか。合成酒のような風味やコクのな いものになっていただろうか。氏は信念を持っておられたに達いないが、けど、氏の寛極の目的は、新 しい日本劇の創造にあったであろう。いいかえれば、日本の横断というものがないから、それを作ろう ということにあっただろう。新国刺の遠方は、芸よりも熱によって看客をとらえる、というところにあ った。それで伝統に甘えていたカブキが刺戦を受けざるを得なかったことは当然だろう。渾劇を見て、

その好さを知り、これをカブキに生かそうとしたことの苦悶揉わかる。左団次の新軌道動は、その陣痛 の苦しみだった。けど、それらから何物かを生んだ、身につけた、だろうか。装置、照明、こういった

ものは取入れられた。劇そのものの本質にプラスしたものがあっただろうか。テンポが早くなったとい うことが、果して、本質的のそれだっただろうか。

要之、カブキからも、渾劇からも、まだ、日本劇は生れていない。そんなら外に生れ出そうなところ はあるまいか。それはある。そして、それは、あく迄カブキの伝統の上に立たなければならない。私は それを

三、社会劇の出現

に求めるものである。日本には、見渡すと、雑然たる生活の中にも、うごめくものの隼に、何かを認 める。それは、カブキの世界のもので揉ない。西洋劇の中のものともちがう。とにかく、現在生活して いるものの中に、日本とも西洋ともつかない雑然たるものの中にではあるが、その雑然たる実体を感す る。時代というものは、今後はいつもこうかも知れない。今迄はそうではなかった。その心配もなかっ た。(新関良三箸「日本演劇論」中の「日本横部の革乗」参照。)それは、鎖国の夢円かなる中に自由

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(3)

に日本的なるものを思う存分延ばすととが出来たからである。ところが、接塊の国象同士の西欧は、絶 えず相互の影響があって、いつも「雑然」たる生活体をたしていた。従って、その国独特なるものが、

日本のカブキのように確立する暇もなかったのである。それかといって、独乙のものは独乙のものであ り、イギリスのもの、フランスのものは、それぞれの国のものであり得た。そうして、影響によって、

新らしいものを相互に取入れたため、碑即は巾広く力強く、そうして、単なる娯楽に終らないまでに高 まった。ということは、人生そのものともつと密接なる関係にあった。だがそれが、人に愛好されるに は、愛好されるだけの芸術としての純化があった。日本には、現代社会を取扱った劇はボツポッあり初 めた。山びこ学校、基地の子、村八分、赤線雀地、狂宴、(何れも映画ではあるが)一一一こういったも のは、何れも、思想丸出しの、決して、芸術作品とは申されない。だが、そこに、新しい生活−社会 一一Jが示されている。よしますくとも、これから出発しなければならない。

日本は元来、役者に自由を許していた。そして、役者各自が各自の工夫によって役を生かして来た。

七月の大阪歌舞伎座の「椀久」の松山の大夫姿となって現われた場合の如きそれである。これがカブキ 教の長所だろう。これも、新しく生れんとする劇に取入れるべきカブキからの一つの遺産だろう。

寒はそれは、新派や、家庭刺に取入れられているかも知れない。ととろが、彼等は、カブキの皮相な 画しか取入れていない。現代人にない所作、身のこなし、ことば、きまりというか見え、というか、そ ういった思入れ、というようなところで、安価なカブキを見てコハるようで、むしろ本物のカブキを見雇 い気分を起させる。だから、新派の中にカブキの劇中劇があると、ほっとした思いがする。また、家庭 軌でも、カブキの所作やセリフをまねて看客をよろこぼせたりする。けれども、それでも、新派、家庭 剃、新劇が人を引くのは、この、斬らしい社会生活を取入れている面があるからである。レ、いかえれば、

われわれの日常の問題を問題として取扱っているからである。より、われわれに切実な山びと学校以下 の一連の刺は、脚本そのものが庶い点もあってか、技術がそれに添わない点も添って、現在、行どまわ の形にある。だが、進むべき道はここに示されているわけではあるまいか。

演劇は社会と共に進み、更にまた、社会に魁けるべきである。イプセンは、少くとも社会解放の先駆 をなした。然らば、社会と共に進むよりも、社会に−渉先んじたものが、民衆を虞に引くものではある まいか。社会におくれたり、社会と共に進むのでは、社会に訴え、社会の興味を引くものを失っており にせぬか。

シェークスピア時代は、人間像を措くことでよかった。何んとなれば、その時代は、近代社会という 唖獄相がなかったから。然るに現代は、単なる人性を描くだけでは、われわれの生活に入り込んでいる

雷大なる社会を喪失していることになる。いやでも、それなしには、現代のす化は考えられない。だか ら、現代の日本演劇を救う唯一の道は、商葵主義を離れでも、一応この道を拓いて行くより外仕方がな い。そしてこの道は、カブキの伝統に続く。それを如何に生かすかだ。

四、古典の回顧

こういった場合に於ては、古典の研究が役立つ。そうして、浄化せられた現代の日本人の生活には、

西洋的要素が多分に入込んで来ていて、それによって、按摩吋も或る程度理解出来るし、また、如上の音 暁に於で、洋劇のすぐれた古典を研究して見ることによって、何かを取入れることが出来得れば、幸い だし、また、それが可能であろう。この意味に於で、カブキの伝統に立ちつつ、渾劇の社会劇が取入れ られ、かくて、社会劇という言葉は喪失していいほど、漬劇とは社会劇ということになってこそ、演劇 は確立されるのである。

兄乗、カブキは、時代別という名称があるように、その時代の現代世相劇であった。事件があるとす

(4)

ぐそれを即に仕組んだ。わが唯叫の社会郡である佐倉業艮伝は、その事等があってすぐそれも取入れで 劇に仕込んだ。どこかで心中があると、直ぐそれを上演した。これが、カブキの主流であり、お家騒動

も、仇討も、結局、武家生活の限られたる範囲内のそれであるが、作者達は、何れも、大衆を引くため に、武士の義理と人情とを窪とし、愛慾の世界を膵と・して、当時の社会㌧一一般社会である町人の社会

を措いたものだった。だから、民衆は、自分達に、いな、自分達を取扱った都に熱愛を感じ、単なる人 性のみを二取扱った高村なる能の世界鐙離れて行ったのである。

私は、如上の意味から、歌舞伎では佐倉義民伝を、洋刺では、試みに、ジョン・ゴールズワージーを 研究して見て、その中に、もし取ってもって他山の石となすべきものがあったなら、徒爾ではなかろう と考え、少し許り考察の歩を進めて見たいと思う。ただ、私は、芸術に於けるその社会性の限界を諭す る小文に於て、(詰、昭和廿八年度、奈艮学芸七学紀要)その限界なきまでの所論を発展さした関係上、

ベルトールト・ブレヒトの作品について諭する必要があるが、それは、まだ、その劇を読まないし、従 って、それについて云々することが出棄ないので、他日、稿を改めて諭することとし、取敢えず、社会 凱作家として偉大なるゴールズワージーを諭する方が、目下適切と考えるからなのである。

五、ゴールズワージーの作劇的技巧と佐倉義民伝

ゴールズワージーといっても、それは作劇衝についてだけである。佐倉義民伝は、吉右衛門の敬遠を 先登聞いがまだしもというだけである。英国に行って英国の俳優の慣するそれを見れば少しは解るが、

そうでない現在にあっては、今迄見聞した搾乳や、映画なぞを通じて、単に、それらが舞台で濱ぜられ る有様を想像して見るに過ぎない。すると、甚だ頼りない、諭するにしても価値のないものになってし まう危険があるが、また一面、筆者は、多少に係らずカブキを見て、筆者なりに理解している点を叔拠 として、ゴールズワージーの脚本が脚光左浴びる様子を、少しでも想像出来ると思っている者である。

開わぼ、異った気候風土に生れて育った任木である彼の作品ではあるが、その異質のものも、わが本土 に育成した草木を理解し鑑賞することが出乗ることによって、それは、想像の世界に於てではあるが、

その、本土のそれらを理解鑑賞出来ないものよりは鑑賞能力がある。シェークスピアは解るが、カブキ は解らないということはあり得ない。カブキが解らない著に、どうして、イギリスの古典であるシェー クスピアが解り得ようか。カブキが解っておってこそ、シェークスピアも見て解るのである。そして、

読んでも、その舞台が頭に浮んで、理解出来る上に大きい助けとなるのである。だから、私は、こうい った考え方を拠点として、大胆ではあるが、単なる柳本の字句の解釈よりも、夏に、或る程度、私の頭

の中に舞台を再現せしめて、彼の郡に対しようとするものである。

ゴールズワージーの作品中、彼の才能の渡如たるものは、勉女作「鎌の箱(Silver Box)」であって、

もゆ ●●°°

若鮎のはつらつさが感ぜられるが、この作品は、個人村社会を扱ったもので、それはまだ、イブセニ/の 域を僅かに出たものである。彼の彼らしい特色を発揮したものに於でこそ、彼の価値に誇ぜらるべきで あろう。即ち、彼によって初めて、階級対階級の問題が取扱われたものであるべきであって、それは、

°°°

彼の「斗季(Strife)」に於てであろう。そして、この「斗争」が持つ特色は、烈日をつらぬく火の如 き強い労働者の決音と拐牡の精神に対し、これに屈しない頭迷なる企業家の不擁なる君恩との白熱せる 戦いを措いたものであって、当時の労働争議の型を示している。その手法は、彼独特の、労資何れにも 肩を持たない、双方の言分を言尽きす常套的なものだ。賓客は、両方の言分を万遍なく聞く。そして、

結局、どっちがいいか解らなくなるが、解らなくなるで敬っておけないものを赦している。看客は苦し みを買いに行くようなものだ。だが、決して、損したとか、不敵快になったとか不平を言わない。そう

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(5)

いった!=こ7.:1∴こ。Tr.r.?ォf・.,蝣;.蝣、こrT+;,‑.・‑.J、、

それは、取扱われた問題が、民衆の問題であると共に、その構成が美事であるからである。これ按言

・‑・、T:ド‑f‑'f‑‑、、、‑;̲て'∴::.、百、1.'i."、「、':'‑I.㌻r::・∴「.ト・lJこ'.'̲I*‑.:・rtサ:笠で'・・・.・'.・;‑‑:蝣蝣:一一:、丁.Ll 鍵に於ても戯曲的生命を有する原因である。乍然、これは、諭詮によっても取扱われ得る点であること

・!*t"∴、丁子・が、‑H:}.'こ."V.1...ナーti'¥‑t‥:臣ト;:.∴・'"r‑V'I'I"

t‑一一'tサ0‑・tf'・'・}‑f‑!‑‑い【こ

のLlいr,'r‑、、て・A...二‥i"トv;.^‑一蝣.、・>:I.I,i、・;・!.'f̲¥:・二言;T‑"nv;'‑̀ト三が、こK:T、

大朝ミ'、.‑'蝣pj'トII‑

I.Il∴工IMこL':‑・こ.1*'‑・ ‥:、、'*'t'∴∴蝣一・'*蝣:.'!!一.lJ二.上・'<I二^7‑‑・!∴蝣f‑‑.*:〆、.1日.

釆上りは、実用にも、装飾用にも役立たぬものになってしまったoゴールズワ‑ジャンZ:謂われれぼ、

チtL・サv・・・ノIllで"‑"..*‑、'7‑∴如:こ:て(蝣蝣'‑.チ:すP.(.1.・一・;r.vます7̲‥・‑:、ご)'‑.'?、‑・'!"蝣:蝣・蝣'**ォ蝣*I二、日7.、.'、"n.号.I もって絵具に代えて措いた絵、とでも言うべきものなのである。だから、そこに、理論などからの偉物

に見られない血が適うているのである。勿論、そこには、女性の登場はあるが、そして、例えば、畢 謂妾#・背の一天ロバーツ(Roberts)の賓アニー(Annie)の如く、守議の銭牲となって滞死するが、

そして、それは、フランス敢曲に暦てだったら、単にそれだけだが、磯身は、もつと深い人性につたが

;i.*i‑1;‑‑I.、蝣‑ォ'jI'蝣>‑、T"*蝣*・I…:.'.'蝣'・I!∴‥、二、日'、日l:∫̲∴I・‑1:・*・蝣蝣・・:.

してこれは、カブキ‑、従って、適する道である。人間的なる日本人を対象とする作凱術には、当然、

世襲すべき財産であD、そしてこの先縦を、貨多カブキに求むべきであるOここに、ゴールズワージー の秘密があり、そして、そこに、新しい社会劇の可能性‑の途が見出せるので按あるまいか。

帯二碁碍一場、ロバーツの小舎の台所のところを見ると、ロバーツが率璃場に出かけようとすると、

餓えて屈む要が、石表のない台所で寒さによるえている.PJヾ‑ツが帽子だけ被って出かけようとする。

Mrs.Roberts.〔Followingwithhereyessoftly.〕Takeyourovercoat,David;it

must be bitter cold.

Roberts,

〔Coming up to her his eyes are furtive.〕 No,no! There, there, stay

quiet arld warm. I won't be long, my girl.

Mts. Roberts. 〔with soft bitterness.〕 You'd better take it.

・2バーツの棄 (日で追いながらやわらかに)外套を着てお出でなさいな、貴方。外は寒さが

° ° °

ひどV、に決って:いますわ。

pノヾ‑ツ (妾に近すく‑日放ともすればそらす)いや、そこえじっと静かに援くしておい で。わし直ぐ帰って来るよ。いいかね。

ロバーツの宴 (やさしく気の毒そうに)貴方それを着た方がようございますわ.

といって、箕アニーが外套を持って立上るOが、ロバーツはそれを充のように義・のからだにかけて旬

^て"1之.畑.i.‑i蝣‑‑蝣;‑HT:三・一I・一・.'II

‑illT見遣、・こか、s‑n.1/‑、.llt'**''/こ的.・.、:‥/..‑・・̲。軒*」JI>てto.‑r‑i:ヤーノ ているロバーツの許に、喪の死が報ぜられるO

こ..'i.!1i,・:":+、・FIT'.i‑vt.∴、!i:.∵二/,対:tr.‑. ;二jL湾.約°:、.、た、.、こ・、‑̲のリii;i一溢れた‑寸し .+二言ナ'蝣"J.*:;ト'I∴賂iJV<J'こ・∴・"蝣‑'.・J*、モt*J十、二:・;tr̲I.、7‑.・・・。・サー=':./心疎さ.{L、

蝣蝣fir.紺一一∴こ∴'.?r‑>∴‑・tl、;VAf:.".‑、‑:‑い)'iフな‑‑''¥'lJ群・・:V!.,いざも・∴′∴「・V.‑.'Tli'l'Jここも のがここに活かされている。試みにフ1)ジアの著の座しさを示したものとL/C

Dearthewelcomedone

TohisFrisianwife,whanhisFloater'sdrawnonshore,/Whenhiskeelcomes back,andhermanreturnstohome,/Hers,herownfood‑giver./Andsheprays himin,/Washesthenhisweedycoat,andnewweedputsonhim!/Olytheitis onlandtohimwhomhisloveconstrains.

r>2

(6)

いとし待たれし人 フリジアの宴には

「賠」が岸に近すき そが、泡に入り

事・      や

彼の人、わが豪に帰り来りし時こそ

彼の女のもの、彼の女に食べ物を与うる讃なれば

かくて彼の人とわが家に入り      . 塩たれし衣服を洗い

新しの衣服を彼の人に着せる

くもt

あわれ、陸地の宝よと、

いとしの人の心ははずむ

というのがある。カブキの世界にある義理人情は、こうした形町於て生かされ得ぬか。封建制慶と共 に亡び去るには会狛こ惜しい中世の遺産ではある。まだ、義理人情の琴線には懸れるものを赦しており、

勝木に於ても、日本独自なものとして存在価値を有している。

ここで一寸、所沢を振返って見る。とにかく、慣劇の一隅に有産を保っている。・をうして、それが、

一応の観客暦の支持を得ていることも尊宅である。それは何によるかと言えば、僅かに限られた、黄と して新橋の芸者の世界をしか演じないのに、芸者の世界の義理と張り−これあるが散に、日本人の胸 に訴えるものを、その放尿として持っておるのだと考えでいい。それ上▼外には、丁髭と両刀のない世界 に過ぎない。勿論、芸はある。だが、その芸も、現代風ではあるけれども、要所々々を、思い入れとか、

とんと極ったといった型で、カブキの下昔きをなぞらっておる。時々、今でも繰返される「金色夜叉」

° ●° °

や「不如帰」が、その択本に持つ魅力は、同様に兼理人情のしがらみに、うまく観客をかけるからであ る。家庭部は、五九即断から新書刺に至るまで、皆、筋按、悉く義理人情にからましてある。世の中を 義理人情で割り切ることは、現代生活は余りに複雑ではある。けど、何等か、そこに義理人情の筋のな いものは、日本人の胞にはピンと乗ない。アメリカの西部即が、無条件に喜ばれるのは、そこに、日本 人を喜ばす荒くれ男の魂の奥底に、何か、こういった共通の精神が発見せられるからに外ならない。

この封建時代の申し子、といっても、それ骨、日本人が生んだので、それを生む日本人には、売裾、

そういった国民性を持っていなければ、かくまで、国民性が生んだ潰断が、それに貫かれているわけは ないし、また、日本人が日本人でなくなればともかく、そうでない以上は、脾乗とても、演劇に於で、

この特徴が失われるわけのものでもなし、そして、また、これに立脚しておってこそ、日本の麟卿とい えるのである。

X X

だが、蓑哩人情は、謂わば、油極的な画も考えられる。即ち、菜埋人情に外れたことをしないという ことが、その元菊の精神であることから考えると、これのみに頼ることは、どうだろうか。さいぜん、

王月代生活を義理人情で割り切ることは余りに複雑であるといったのはをれであって、ここに、もつと強 い精神を必要として乗ることは勿論であろう。強い精神は、退去の日本人の生活に授らでも求められ、

そして、何時の時代に於ても必要であるが、現代及び滞乗の日本人の生活に於て必要だし、そして、そ の必要を痛感しているべき現代だ。特に現代に教ては、この強い構神なしには一日も生きて行けない状 勢にある。義理人情だけで放っておられないところに、当然、強い精神を表現した戯曲が要求される筈

° ° °

だ。ここを狙って、尋こ衆にこびるのが、やくざを取扱った暴力劇だ。だが、暴力軌も、酋部劇が、他愛 もなく喜ばれる程安にはその存在の価値があるといえる0こういった程度のの大衆は、文明が如何に発

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(7)

ミn‑ナ二・':‡、.こ・¥.:′'.‑‑/t.‑サ̲、・H、.さ.+二、蝣*lv:K':Wせ、‑rl、い ノ‑・L:fihv^いす.・.蝣.';;,':千..,[I[*y.,irへ けれども、これは本格劉ではないO心ある大一蝣‑Kは、直ぐ、暴力の壁にぶつつかる。そうして、その無価

偵を悟った場合、精神的な偉大なる力む求める。

こ・t・、、、・:・'‑.一

・W∴、・\llこヤドサfi・・、こ・:̲l了二.?.:‑'蝣?:‑・''蝣'∴・‑‑‑<¥LV.‑i'l.11!!・*こい''・¥いi∴和白、ト たト1‑>'.:*‑;".'.、・二・が、イ孝一い蝣'・'・rlif‑・一十一V*;7、へ一一卜'.*:'VJ二.:ご*".'*二I'‑

lltL.‑'蝣‑‑蝣>、H'.‑e

‑7:黄后まで次龍と雄々しく載う精神は、マキアベl)ズムのvirtd精神を取入れたマ‑ロー(Marlowe') の戯曲Tamburlaineとなり、シュークスピアに於で、マクベスの、例え窓人にしろ、よろめき狂いつ つも、不敗の精神をもって戦うこととなる。この精神が、ジョン・ブルといわれるアングロ・サタリン

・・・・I.の構、ナ̀L'ざ・i.,v‑い、j、・コ・蝣・*‑¥..こ∴、、.、一十一・!.'iT,て,:.・",f'.∴・二'li川一丁.・こそ、‑l‑J1

‑‑、‑'一二、‑の、∴ 、二Ii・;蝣:蝣!蝣一・'.・"'''一・蝣・・・・n∴!'!こ.二、.;:、∴して‥(蝣v.:∴∴・、:‑サr.‑#!flら 41"斗」‑li*¥‑・‥軋、誉;.・:・v一・;.‑;・‑I̲‑:言.I..∴.*蝣'蝣I、・二'二、二、号ケ:j、.:̲廿圭r..ォ.:‑.+二./ep二:・・j‑

働讃‑譲歩の余樵なきに王らしめられるアンソユーも、共に、銘々、戦には敗れたりとは言え、われわ れはそこに、何か正解たものさえ見る。

こ*''Il・ごW;・‑、Itこ付し:S・.::ll.::行く.I:し、こても. サT'Il̲二j‑.‑t‑:・T,両丁・;!‑‑‑;:'.・Oit芸tAわ::‑.<し‑‑?<

り田されたのだ.

R。berts.ThenyouarenolongerChairmanofthisCompany!〔Breakinginto

half‑ mad laughter.〕Ah ha, ‑ ah, ha. ha! Theyve thrown ye over‑thrown over their Chairman : Ah ‑ ha ‑ha ! 〔With a sudden dreadful calm.〕 So ‑ thev've done

us both down, Mr Antony?

ロバーツ そんなら、あんたはもうこの会社の社長さんじゃあ、なくなったんだね。 (牛ぼ狂 凡の如<"<:V>7‑ツ、‑)I‑‑ツ.一・/,た「‑ あ.・ミf‑・・'てx蝣'Ilr.I..た^+三。f!:ん・¥jl.与・⊃::一蝣!.','ll したんfccアッ‑ツ‑ツo(急K,だまる)ところで‑みんなして、あっし連二人を迫つぼり出

したわけだね、アンソユーさん。

こV‑*:、う、>.」‑r<¥ifH"のmT!・*:、lLサs.&・敬.恥1ミカ:、二!..二l't>b>.'・汀''nil

.'...‑I.*.Iこも̀Jこ'.;汁・、汗1:'tR両で、柊軍'*^‑'‑ji:iZi、ド・::v'‑<t‑: !こ¥'i∴r*ノ・!こぐ∴トt?"!ニ':岨ri‑、iKftf のt.fこh‑iWo二Jjさけo・蝣"‑<I'‥、子蝣蝣>ii.il吋fFトL.ニ∴丁:'i'.・"∴、‑jr!.!..'‑ォ、守、‑JこそこU;、

'>;tfMi.ォ.職;・>;‑*.に∴∴:I:i.Yrト?,も∩‑・*サ*∴:'蝣>".・'‑‑>t'‥ナ11‑iサ.t│III;‑さら'.<Lv・‑,が、

要子までをその牽き日にあわさんことの切なさに心にもない愛想尺かしを言い、女房子との練を切らん とするをさとった女房おさんは、たとえ火の中水の中‑でも共にと夫をはげまして立たせるその愛情と t.,1‑

蝣frxも‑・けなげごI""**蝣、Tllナ・IlfT‑iVl'fc!‑t:、・.ぐるす.・O.i:.f..‑i。こ.†こを・、‑・ノJ‑蝣Vのy^^'v.iこにi・二・・°、

E∃SB外1、iL・(ト''.;二かけ・一:‑t'‑t."バーい':'>卓}Vi‑‑.:'c‑こてiTI∴、一・.・.‑'Vr1‑iv;in「i‑f^'vv'‑"1‑:‑!>・**・‑。

それとも、余りに封建的であると言えようか。私は、まだまだ速い輝乗はいざ知らす、少くとも現轟に 於では、かくする方が、賓客にぴったりとすると思っているO

私は、異質なるもの‑の肝捉条件として、かかる用昔が常に必聾であることを信するO無条件なる迎 +<‑

・ir.?、^^蝣IjFb‑1こ‑X‑J・:、Jt‑.・・..マイナv,,'‑*‑'・、∴:から、i'C至jlv:咋:一一こ..‑II、晶でK."ら,':、、

わが国民性をも顧みず取入れことは、意味をなさない。これに対しては、先ず、自国の優れた作品を、

大きく:t、十fi‑.t.Kこ岬ウ、,、'".‑‑r‑、tI、‑.J・ォK‑i‑:‑.‑fLi''ト削<tXたIT:†'.つ、'II.')'こ:‑'*‑/。札三V.

,+:Ir̀桝三術J詛オi.J.rj/,こいて糾い‑/.こ.'/蝣tノ‑)..Vこ.4言t.'t:.トrl.、∩ン.t一・""*サヒγはi"rJ.」,が、*蝣・>:.:斬 らないということは、事実上あり得ない。淑石、鴎外、造造虻、外国文学に入る帝に、日本史学を知っ

ていた。だから、外国文学を日本に活かし得たのだった。

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(8)

私は、日本の社会部とイギリスの社会劇とを比較したのも、こうした考えからであった。そして、こ れは、演劇だけに限らないで、あらゆる分野に於でなさるべきであることは如上の説明の通りであるが、

この苗が、巽は、会わに気付かれなさ過ぎているのが実情であるようである。中には、日本人は、如何 にしても日本人だから、自然に放っておいても日本人に帰る、というような考もあるが、それ軒余りに も楽観的過ぎる考え方である。無数の関心を通の酎ノた無関心ならよい。われわれはそこに至るを理想 とする。けど、関心的努力も、そこには方法論が白から存在することは当然だし、それに拠るべきこと も当然だろう。これは制縛ではなくして、正しさを指し示すことである。

六、劇表現のあり方

社会部のあるべき立場から、現代の社会制変下にある優れたものと、他は、封建制度下にあるものと を持って栗たが、勿諭、技法に於て学ぶきものは他に無数にあろうし、そしそれを研究することが、劇 の構成にどれほど役立つことか言うを侠たない。世話物には世話物の構成があり、仇討物、お家腿動物

にも、夫々、それらに遣切な表現方法がある。

世話物揉、人情の纏綿たるものが喜ばれ、仇討物は、その苦心惨胆、やがてその本懐が遽げられるこ とを本筋とし、御家臨動物は、探偵趣味的なものから、速に正が邪に勝つ経緯が編まれる。わが国に於 て家々たる社会凱まこれらに比較して、その筋の発展がなく、社会事情にもよったのであろうけれども、

その上頓がはげかられた。だが、それを貫いているものは、義理と人情である。構成に於で、印幡沼の 雪の夜の演場を一晩入れているが、構成上の当然の立場から、これは活きである。これが無ければ、唯の

はなのてもさくらのあrナは−の

平凡な刺になり下ってしまう。確か、「花雲佐倉曙」にはこの場が無いようだが、それだけでもこ れは凡刺になっている。しかも、寒い夜領であるから、この悲劇重体を象徴しているかに見え、作者は 不詳ではあるが、とこにカを篭めて名文を背いている。

(宗吾)願いのために江戸に出て、思いの外に日数を経、忍んで帰る故郷も、去年の各に引換て、

田畑も其健荒一県で、村里にシンシンと、人気も目すと絶えたるは、多くの人も誰散じ、他国に立返 し物なるか…‥…・

これで、久し振りに忍んで帰った故郷の窮乏を叙して、まのあたり看客にそれを想像さし、夏に渡し 守甚兵席の口からその実状を聞いて、妻子に別れとは言え、会いに帰るとは私情に過ぎぬ、今またすぐ に江戸に取って返さんとするを甚兵衛おしとどめ

(甚兵術)これは仕たりお騎様も、只今私のかどを叩いて舟を頗むと伸しやたじゃ御座りませぬか

どの

と、仮令跡で向ような難能にあって罪受けようと、

些とも厭わぬといって、舟の縄を切って宗吾を渡す。

払よう払ようと渡る印幡沼の彗風。宗吾が義人なら、それに劣らぬ甚兵衛。何にも言わぬ辱けないと、

手短かな心からの礼は、一第の詩をなしている。

私はこれと対比さすものに「斗争」に求むると、葦二幕筍二貴に、冬の夕方の.真東を以てしたい。午 後四時通と.いえば、ロン′ドンの場末は攻筍に蒲晴れて行く。基地に労働者達が集っている。背景には、

この広場との間に有利線条の箆がしてあって、蓬河らしい水路の土手が見えて、そこに一隻醇舟がつな がれている。更に向うに按、紹機と雪を被った連岡がある。そして、そこで、労働者達の畢議に関する 会合が今行われようとしている。好の水夫達も労働者の合会を眺めてい・C、折々笑ったりする。卑語相 接についての激しい講諭となる。そこへ、ロバーツの妻の死が報ぜられる。彼は演説台から飛び下りで 土手の方に歩いて行く。常は道を拓く。見ていた好の水夫たちも獣って道を拓き、船灯を灯ける準備に かかろうとする。そして、船町をつけるとそれを頭の上にかざし、ロバーツの去ったあとの講諭を面白

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(9)

がつて聞いている。

たったこれrt!けの.lil貴で、如何.=もロンドンのIll‑一七03‑+il'..T‑い蝣*"蝣サた漬し#i畏性;こ.L臣こい<^。だから、

節の、.7パーツが裏と別れる場面、ここの情景としか、此校的長い三幕の卿には出ていない。勿論巧に 絞り会された工場卓二の娘のイーエツド(Enid)とロバーツの要との間の交社の筋合もあるが、杢幕を 通じて暴風雨のような争議の、しかも試論なのであるo作者の常套手段である、理論を救う意味に於て のl'lこ.;.*・・"*.・,*、.'‑''‑.'.,∴‑∴.''・'.‑.・'‑>十:̲I.'日.‥」㌧‑/蝣:*>、トー・∴一一こ:I・' 恐れがある。硬のこの作品は、これをその儀、ベルトールト・ブレヒト(BertoldBrecht)の演劇理

論を具体化したものと言い得ないかo(註、小論「演劇美学‑の窓」奈良学大学紀要、昭和27‑3、第 二号参照)

ブレヒトは、外部から大衆を措こうとしないで彼等の中にはいつJL̲行き、娘等が何を問題としている か、従って何を欲するかを知ってそれを表現することをその根本原理としている。だから、舞台に上横

丁*¥i蝣蝣∴、ごり憶、..̲.,,,,.,...̲..,.:/"'一・'、、I:.∴・'.VCi‑≡.Y‑V‑r‑.・r・†..'I二一・°:‑・Il二r二一二 はなく、余裕をもって、自分達の問題として考える。この点が、実は、故が他の左翼作家から、会りに

芸術的であると批判されている主要な点の一つであろう。

昔の、思想的統一を求めた封建時代や軍国主義時代は、‑柾のカタルシスとしての墳軌を求めたが、

現代は、単なるカタルシスの時代であってはならない。「考えること」が失われたら、その瞬間、現代

rtr:.''1主上W‑ミ1・‑:しこ・ O:現.!'.'!;;:、言:‑{蝣・',一蝣‑ミIP・.一・:、!ニー干し'・Ilユ̲I:・∴'夕.?;.;:が I、こ^Lo・̀'C、\¥>.i>相蝣}<一・;蝣察ミ,*/.‑ォ*.*‑I.、鋸:!:・':・・:‑W‑tH・し:い・T.∩

この点から言えば、ゴールズワージーの作品こそは、「考えさせる」作品である点に於で、多分に、

プレヒttの理論を実践したものといえるO勿論、ブレヒトの塀割美学が、その生成に、現在ここにその

証旭はTJ.I,,I;、/‑/:‑:l'‑:、、‑蝣・・!!:*.':蝣・‑.亡.:・二・t二二'."*.*′;r一・・‑V‑:・・・ニー′‑、'.v'‑I*)'*二・O猿 は夢に、そこに、唯物史観を取入れているところが、左翼作家である所以であろうが、そこにIt、埋諭

によって構成された、従って、面白さを失ったものを極力排斥する。その環劉本質論に於て彼扶

蝣(蝣ji.'ii上は、;i'間:護.L.主1';‑''∴十二Ijf'!;:‑(.∴,‑・‑:ち.・,.:,!∴一十1・ここ‑・'・'i.蝣・':蝣・'‑'・''''∴∴w;、一蝣・.'i'Vj.V:め に、われわれの静に示すことであるO

と彼の講諭の蔵初に述べている。これと、ゴールズワージーの「芸術についての漠然たる考察(Vague ThoughtsonArts)」の中で、「窓からいつも見え‑Z:おる粒の木が、とても印象的に、審美的に見え る場合がある。これが芸術的感興というものだろうO」と言っているが、更に

LetmeSupposemyselfinthePrasenこeofacarbedmarblebath.Ifmythoughtsbe:

HWhatcouldIbuythatfor?"Impulseofacquisition;or:"Fromwhatguarrydidit come?"Impulseofinquiry;or:'Whichwouldbetherightendformyhead?"Mixed impulseofinquiryandacquisition1amatthatmomentinsensibletoitasawork ofArt.But,ifIstandbeforeitvibraヒingatsightofitscolourandforms,ifeverso litteandforeversoshortatime,unhauntedbyanydefinitepracticalthoughtor impulse‑tothatextentandforthatmomentithasstolenmeawayoutofmyself andputitselfthereinstead;haslinkedmetotheuniversebymakingmeforgetthe individualinme.

〔.I:・lつ・Il:・

;iて丁/.1・・!.‑>石.言MV‑‑.1二、.、、J・*rs、・、:ド: 1三'"V。蝣一二か、‑11日・ォJ*仁irii/t

.那,・三TJ・‑I‑‥、∴・I.!'1;.'";‑ミー:"蝣(';・i一小:K‑‑.'・:限;.は汗∴工・、・、‑′i5".1.1.・蝣蝣蝣蝣?<.;‑n¥二一・八、.1げ丁 たる瞬間は、いかにそれが短かかろうと、その限りに於ては、その対象が私から私を奪って、私の

代りにそこに位畳を占めるのである。かくして、私の中の個人を没却して宇宙に倉せしむるのであ 56

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為。

と布現しているところは、ブレヒトの「先ず娯楽である。」そして、それ以上であってはならない し、それ以下であってもならないと言っておるところとは、勿論、それとこれとは、一方が文学を主と するものであるに対し、他方が動であるのもの芸であって、従って、即が面白いのと、文学の面白いの

とは違うわけである。が、そこに共通なるもの、即ち、理絵のみに頼らない点があることが認められる。

但し、娯楽であると力点を打った彼の言い分には、舞台をよく知っている彼がよく表現され一⊂いる。従 って、その技汝には、象徴も使えば誇張もどしどし遣る。これは大人しい、リアリストであるゴールズ ワージーには殆んどないところで、われわれとして考えて見なければならないというだろう。その為に は、筆葛としても、飼一骨の、この両者への戯曲的研究だけでも必要になって来る。

×      ×

日本には、考えさす作品といって成功したものはない。「山びこ学校」以後一連の映画作品を黄とし たものはあるが、そして、舞台と映画と臥同日に諭ぜられないが、これからというところであって、反 戦映画だといって兎角の許のある「禁じられた遊び」程度のものでも、映画にしろ、一日も早く出現が

●°

望ましい。それこそ新しい日本囁刺の紅い明であり、出発である。だがそれまでには、徒らに、人情風 俗乃至伝統の異った外国の激写しであっではならないのであって、前提条件として、わがそれらを願る 必要が多分にある。木々竹を粗いだってそれは不可能なことである。

一例としてあげた佐倉義良伝以外に、階級と階級の斗撃に似たものが今一つ考えられる。それは、

● e●

「幡随院長兵衛」であって、フk野十郎左衛門のせりふにもある通り 是まで敦盛の喧嘩より、神祇組と町奴は

とあるように、結局これは、旗本の武士という支配階親と、町奴といわれた遊侠の徒の、大きく言っ て武士と町人との斗年と見ることも出奔ようが、確かに武士と町人とではあるが、一方は旗本であり、

他方は遊侠の徒という、何れも、武士や町人の意思を、よく代表していないという点に於て、階級斗雫 というには余りにその階級意識を欠いでいる。それには二百°八十四ケ村の安臆のために、身命を捨てンこ 斗う七人の庄屋は正に、遊民から増ばれた代表者であり、その土塊の支配者と年を富ねて奪うところは、

立派な近代的性格をさえ持つ斗等である。メロドラマ的カブキの中で、一つ光った近代劇の性格をさえ 持ったといえよう。封建的世界の中に、立派な世界に誇るカブキを樹立し得た日本人が、どうして、現 代のせ鼎に於で、それをバックとする演割を打ち立てることが出来得ないと言えよう。それには、先人

の稟額を無税しないことと、広く異質なるものへの研究を怠らないこととである。

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