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ツーア・オペレーターの濫觴とその活動

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(1)

ツーア・オペレーターの濫觴とその活動

その他のタイトル Tour operator, its origin and business

著者 河村 宜介

雑誌名 關西大學商學論集

巻 3

号 6

ページ 513‑533

発行年 1959‑02‑28

URL http://hdl.handle.net/10112/00021777

(2)

旅行業に活気を与えることになった︒

レーターの濫縞とその活動

かつては︑旅行は富裕な階級だけに限られていて︑旅程は個人個人の必要や希望に応じて特別に作成されること

になっていた︒このような﹁註文仕立﹂の旅行は︑今でも旅行業にあっては重要な一部門であり︑将来とても変り

があるとは思われないが︑近年の傾向としては所謂

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(請負旅行︶なるものが著しく拾頭して来て︑

蓋し︑今日の旅行は︱つの革命に対応している︒単に旅行の仕方においてでなく︑旅客の構成においてもまさし

くそうである︒金もあり暇もあるという社会階級は姿を消してしまった︒或は例外としてしか生き残っていない︒

勿論︑生活の楽な人︑金持ち︑それどころか非常な金持ちといってよい多数の旅客がいることは事実である︒しか

し︑彼等は資本から生ずる規則正しい収入という形で蓄積された金をつかうというよりは儲けた金をつかうという

形で金をつかっている︒むしろ︑今日では国民各層に亙って大衆の客がふえた︒これらが︑休暇︑転地︑旅行に主

調をみせている︒旅行はこのことから決定的に昔の悌を失ってきた︒今後は旅行に新しい道具立てがいり︑専門化

した要員がいる︒生活習慣が完全な革命の洗礼を受けているのだからどうしてもそうなる︒閑暇の心理がそれ自身

ツーア・オペレークーの濫瘍とその活動

ツーア

.  オペ

︵ 河 村 ︶

︒ ハ ッ ケ ー ジ

・ ツ ー ア と ツ ー ア

・ オ ペ レ ー ク ー

河 村

(3)

いると共に︑費用も手頃であることが必要である︒ これら新しい旅行層こそ︑

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r が

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然その販売対象とするも

ツ ー ア ・ オ ペ レ ー ク ー の 濫 瘍 と そ の 活 動

変化を蒙っている︒今日寒暑を避けて転地する客は人格をもった個人であるよりは︑大衆心理に支配される社会的

番号であるという印象をうける︒二十世紀の旅行者は︑収入の高低における彼の水準如何にかかわらず︑過去の時

︱つの新しい種族を形成しているといってよい︒それにまた季節がひっくり返されてしまった︒

冬はスキー場へ出かけて行って冬の一番寒いところを追いかけ︑夏は南海の灼熱の太陽の岸辺に出かけて一番暑い

ところを満喫する︒人々の話題に上るのは︑海水浴だのスキーだの登山だのということばかり︒山の滞在地の標高

はだんだん高くなるばかりである︒更に飛行機が距離を抹殺したので︑人びとは今日日本をたてば明日はホノルル

ここで特に問題としたいのは︑就中︑旅行の構成である︒即ち︑今日の旅行は計画された

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がそ

の特質をなしている︒これは全く﹁速度﹂と﹁デモクラシー﹂の息子︑ しかも産業進化の中にぴったりと組みこま

れていて︑大量生産及び大量消費の時代にはこの

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が対応するのほ論理にかなっている︒

さ て

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の発達とそれが旅行促進において果している重要な役割とは︑次の二つの要因に由来する

ものと考えられる︒その一は︑最近︑各国における経済事情の変遷であって︑その結果として中位所得者の層が活

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(旅行請負業︶が

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に探求し開発したことである︒まず国民の大部分を占める中位層の所得が増加するに連れて︑遠距離旅行が極めて

多くの人々にとって可能になってきた︒

のである︒もちろん︑販売成績を挙げるためには旅行の内容が魅力に富んでいなければならないし︑旅程が優れて

ここに於いで

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の登場と活動が必要となってく 発に旅行し得るようになったこと︒その二は︑ の可能性を熱心 なり︑香港なりにいることができる︒ 代との関係では︑

︵ 河

村 ︶

(4)

︵ 河 村 ︶

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は旅行を志冗ってくれたサーヴィスに対し︑ 旅行料金の通常一 o·~ ーセントに相当する額を travel

最 後

に ︑

るわけである︒大衆がどのようなものを求めているかを見きわめ︑それを基にして最も魅力ある旅行内容を作り出

すのが彼等の任務である︒更に︑旅行を売った上に︑それに附随する約束や義務を完全に果すだけの力董を持って

そ の 上 に

まだ開発の余地が残されている旅行の分野を求めて絶えず心をくばり︑新しい

可能性を開拓するために常に研究︑調査︑実地検査などに意を用いなければならない︒

従って︑これらの役目を果すには︑当然︑大規模で複雑な機構と大きな資金を必要とする︒

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は 世

界中いたるところに事務所を設け︑通信員を配置し︑情報︒資料の莫大な数量を蒐集し︑旅程作成の熟練者を常時

麗傭し︑あらゆる種類の旅行に関する見積りを提供し︑旅程を完全なものに仕上げ︑宣伝印刷物を作成配布するこ

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(旅行代理業︶の要求や不満や提案を処理する業務係員を置いてサー

ヴィスの向上に努め︑顧客の負担を軽くするためには︑絶えず料金表を検討して費用削減の余地を見出そうとし︑

ホテルやその他の業者と折衝して有利な契約を結び︑自社の取扱う旅行を実地に踏査して施設を検討するために

展々自ら旅行もしなければならない︒これらの要素をすべて網羅して︑始めて︱つの旅行を全き﹁パッケージ﹂とす

ることが出来るのである︒旅行を客に売った後には︑その旅行が完全に遂行され条件が約束通りに果されることを

保証し︑必要な切符や書類を取揃えて客に渡し︑客につけるガイドや通訳の手配をし︑あらゆる突発事態に応じ得

る 準 備 を な し

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t に 保 有 さ せ る

すべて取扱う旅行はこれを斡旋した業者の名において行うのである︒

ツ ー ア ・ オ ペ レ ー ク ー の 濫 瘍 と そ の 活 動

とが必要なのである︒

更 に

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r は ︑

いなければならぬ︒

言 う ま で も な く ︑

(5)

な る

上げる

ツ ー ア ・ オ ペ レ ー ク ー の 濫 瘍 と そ の 活 動

﹁パッケージ・ツーア﹂を客に 大旅行請負業者は高度の技術によるサーヴィス網を完成しているので︑小規模の機構をもってしてこの事業を行 わんとしても甚だ困難であり殆ど不可能である︒

t o u r

i s t   i n d u s t r y

  (餌守光事業{)は今日では非常に発展し完備された段階に達しているので︑顧客である一般大衆

に事業を隈なく知って貰う義務があると言える︒観光事業が今日の大をなすに至ったのは互に関連する幾つかの機

能が徐々に形成されたからである︒即ち︑旅行の促進に努めた政府諸機関︑輸送手段を提供する交通業者︑宿舎を

提供するホテル業︑小旅行や観光遊覧の手配に当る請負業者︑以上の諸要素を纏め上げて一貫した請負旅行を作り

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︵ 旅 行 請 負 業 者 ︶

それに旅行業と旅行者の仲介をつとめ︑ 商品としての﹁旅行﹂を売る

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(旅行代理業︶ーこれらが協同して観光事業が育成されたのである︒まことに巨大な事業である︒  

﹁パッケージ・ツーア﹂とは何であるか︑これを作り上げるにはどれだけの努力が払われているかを適確に知る

人は少ないであろう︒また︑

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を買うことは旅行者としての自分の無経験と俗っぽさを示すものだと

いう誤った観念を抱いている人がまだ少なくない︒このような考えが事実とは正反対であることはいうまでもない︒

また︑今日楽しい気楽な旅行をするには熟練した計画と事前の綿密な準備が必要であり︑最も豊富な経験を持つ旅

行者でも旅行の細目については専門家の手に委ねなければならない︒

なお旅行請負業と一般大衆との仲介者としての旅行代理業の役割は︑もし後者の業務がホテルの予約や交通機関

の切符の代売のみであったら︑仕事は単純であるが︑同時に限られたものになる︒

売ることによって旅行代理業は顧客を多く獲得できるし︑収入の増大も容易となり︑利潤も自然に増加する︒

J

と と

︵ 河

村 ︶

(6)

︵ 河

村 ︶

﹁トーマス・クック︵旅行業者︶一八 0 八年にここに生まる︒ ︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑ 彼は世界の旅行を一層容易ならしめた︒﹂ の一信者であったメルボルンのバプティスト教会の牧師︑ 宣教師であり︑

を愛し︑人々のすることにあらゆる関心を持たなければならない︒

い ま

︑ t o u r o p e r a t o r

の使命と重要性を知るには少しく歴史を振り返ることが必要であろう︒それには︑まず︑

旅行業者の父と呼ばれるトーマス・クックー彼は旅行を容易にし、パッケージ・ツーアを創案せるが故にー~と、

トラペラース・チェックを発明したアメリカン・ニクスプレスにつきその濫崩と活動とを素描して︑そのうちに泌

み出た近代的旅行産業の特質を探ってみることにしよう︒

ツ ー ア

・ オ ペ レ ー タ ー の 濫 腸 と そ の 活 動 トーマス・クックー旅行業者の父

トーマス・クック社

( T h o m a s C o o k  

S o n  

L t ' d )  

英国ダービーシャーの一小都市メルボルンにおいて︑

メルボルソ教区会長︑およびトーマス・クック&・サン の創業第百十一周年にあたる一九五二年七月半ばのこと︑ トーマス・クックの家の入口の上に据えつけられた額の除雖

式を行うというささやかながら興味ある式典が挙行された︒トーマス・クック

( T h o m a C s o o k  

1

80 81 18 92

がそ

)

旅行社を代表してセシル・ガースクング氏がこの式を司会した︒この額には簡単に次の如く記されている︒

トーマス・クックの名は今日では殆ど伝説的にさえなっている︒今日の旅行者は世界中何処へ行っても︑その名

ツ ー ア ・ オ ペ レ ー ク ー の 濫 篤 と そ の 活 動

( A

)  

t o u r   o p e r a t o r

は或る意味では︑教育者であり︑ また社会改革運動家でもある︒彼等は︑人々

(7)

ツ ー ア ・ オ ペ レ ー ク ー の 濫 腸 と そ の 活 動

を耳にする︒ことに︑英国に於てはその旅行者の両親も祖父母も︑自分達はやほり﹁クックの旅行﹂で出かけたと

語 り

クックの案内所にその息子や孫達の旅行の斡旋を依頼したという︒

した人物か︑それともガリヴァーのようにお伽噺に出てくる旅行家であるか﹂或はまた︑

勿論︑これに対する答は︑ ﹁隊商の群に身を投じて

遥か地球の端まで旅行したマルコ・ボーロのような中世紀の旅行家なのか﹂というような質問を時々受けることが

トーマス・クックとは︑商標にされているようなそんな空想の人物ではなく︑立派に

実在した人物であり︑その名を馳せた多くの人々と同じように︑その前半生は逆境と苦闘との連続であった︒たま

たま︑トーマス・クックが成年期に達した時が丁度英国における鉄道の揺藍時代であった︒トーマスは当時︑レー.

( L e i

c e s t

e r )  

で黒檀細工師を職としていた傍ら︑禁酒︑禁煙の運動に専念していた︒ ヴィクトリア朝時代

の清教徒的・自由主義的・宜教師的イデオロギーが︑悉くこの伝道者の魂を持った熱烈な洗礼教徒のうちに表現さ

れていた︒そのため彼は常に︑村から村へと何哩も歩き廻らねばならなかったので︑鉄道が英国の中部地方へ次第

に建設されて来るに従って︑

たまたま︑彼は︑ミッドランド・カウンティーズ鉄道が新たに中部諸州にまで延長されて︑途中︑

ルーボローを通って︑ダービーからラグビーまで開通するということを知った︒そこで︑

運動の一大示威集会がルーボローで開催されるや︑彼は︑団体列車を借り切ってレースクーの人々をこの集会に運

ぼうという劃期的な計画を考えついた

9

この旅行計画は︑鉄道による往復︑それに参加者の食事の手当を含むもの

であった︒当時創業なお日の浅かったミッドランド鉄道会社と協定して︑臨時の特別切符を発行するとともに一列車 ス

ク ー

あ る

一そう関心を深めるようになった︒

︵ 河 村 ︶

レースクーと

一八四一年七月五日禁酒 ﹁一体トーマス・クックという人は実在

(8)

519 

︵ 河 村 ︶

一方彼の妻は禁酒ホテルを開いた︒こ 体旅行がミッドランドで死刑執行を見物するために行われたといわれている︒それにもかかわらず︑新風導入の名 誉のすべては︑この驚くべき黒檀細工師に︑また﹁月刊禁酒雑誌﹂及び﹁反煙﹂の発行者であるクックに帰したの である︒ルーボローの集会は大成功を収めたので各方面からクックに向って︑更に同じ方法で︑禁酒運動のほかの 集会も組織してほしいとの要望があった︒しかし︑それだけではまだ何でもないことのように聞えるかも知れない が︑その時代には多くの人達は鉄道をまるで悪魔が発明したもののように考え︑時速約一八哩か二 0 哩で走る汽車

に乗るのは手足や生命までも失うような危険を冒すことだという不安を持っていたということを想起しなければな

らぬ︒このことからして︑観光旅行のためにこのような怪物を利用することを考えつくということは︑全く︑革命

的なことであった︒しかも︑彼は︑当時公衆に対する演説家として種々の経験を持っていたと同時に︑また広告や

案内書をつくるかなりの才能を持っていた︒それはとにかくとして︑ 一八四二年以来︑彼の時間のうちで最も明る

い時間は︑彼の指揮のもとでの集団輸送を伴う禁酒運動の示威と日曜学校の子どもの遠足を実施することに過され

︑ ︑

︑ ︑

た︒かくてレースクーには

E x c u r s i o n A g e n t

  ( 旅 行 代 理 店 ︶ が 設 立 さ れ ︑

の企図はよく時代の新しい要求に答え︑自然に膨張していった︒最初は比較的限られた行動半径の鉄道による集団

旅行であったが︑僅か十年のうちに︑更に広範囲に亙る英国人に旅行する興味を抱かせた︒即ち︑

グラスゴー︑グロースクー︑プリストルそしてまもなく︑この制度はイギリス全土に拡大された︒

めて万国博覧会がロンドンのハイド・バークにおいて開催された時には︑

ツ ー ア ・ オ ペ レ ー ク ー の 濫 瘍 と そ の 活 動

リ ヴ ァ プ ー ル

一八五一年︑初

ク ッ ク は 一 六 五 ︑

0 0

0 人を下らない見

物客を斡旋したといわれている︒これ以来︑彼は国民的規模を掌握することになり︑やがて︑この事業は大陸に向 ︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑ が編成せられた︒これが︑世界最初の宣伝募集による団体旅行である︒尤も︑これより先き︑すでに同じ性質の団

(9)

に於いて︑旅行の斡旋は一そう重要な事業となったのである︒

ツ ー ア ・ オ ペ レ ー ク ー の 濫 瘍 と そ の 活 動

運動の旗印を掲げていたが︑同時に︑

の切符やクーボンのおかげで人々は至る所へたやすく行くことができる︒﹂

ようとほ夢想だにしなかったような中産階級の英国人に︑

イ ク リ ー

一 八 六 五 年 って進出するに至った︒即ち四年後の一八五五年に︑彼は第一回.ハリ万国博覧会見物を実施した︒相変らず︑禁酒

よき理想主義者として︑世界平和と諸国民の接近とに貢献したいと考えての

'

T h e E x c u r s i o n i s t ' ̀

︵旅行者︶という雑誌を創刊した︒かくして︑それは欧州大

一八五六年にトーマス・クックは最初の﹁国際旅行券﹂をさらに最初の﹁国際ホテル・クーボン﹂を世間に紹介

した︒それは英語と行く先々の国の国語で印刷されたものであって当時のロンドン・クイムスの記事にも﹁これら

ックの仕事は既に︑息子のジョン・メースン・クック

( J o h n M a s o n   C o o

k   99) 183~

によって援けられ、多くの

異なった案内所や代理店が設置されていた︒間もなく﹁クックの欧洲周遊大旅行﹂は今までそんな所に実際に行け

スイス︑ラインランド︑ベルギー︑オランダ︑

フランス等の各名所を紹介し始めた︒旅行は容易になったのみならず︑またトーマス・クック&・サン社で発行さ

れた多くのボケット型小冊子を通じて︑更に一層興味を唆るものとなり︑人々の見聞を広めるものとなった︒ここ

このように︑彼の事業が漸次竪固な地盤を占めるに至ると︑トーマス・クックは更にアメリカにその注意を向け

た︒彼はアメリカを欧洲への旅行者の生産者として考えたのみならず︑また欧洲人が見物に出掛けて喜ぶであろう

場所と観じたのであった︒南北戦争勃発のためこのアメリカ行の案は一時延期せざるを得なかったが︑

にその戦争が終了するや直ちに︑彼はインマン汽船会社の﹁ボストン市号﹂にのって大西洋を横断した︒この船は 陸における

t o u r i s m

の途を拓くものとなった︒ ことであった︒その間に彼は

︵ 河 村 ︶

と称賛していた︒勿論︑この頃にはク

(10)

後にハリファックスと英国の間で行方不明になるという不吉な運命に見舞われたが︑

立ち︑常に有放な宜伝に気を配っているクックは︑

﹁アメリカとわが英国並に欧洲大陸とを結ぶ旅行斡旋機関を計画する仕事の開始に当り︑北米大陸における

一般大衆の指導的立場にあられる貴下にまず御挨拶を申述べる︒過去二十五年間私は英国において︑英帝国の各地

並にフランス︑

の援助と協力をしてくれたのは常に新聞と雑誌であった︒イングランド及びスコットランドの主要新聞の各編集者

や 寄 稿 家 は ︑

スイス︑イクリーの凡ゆる地域に旅行する種々の旅行斡旋事業の発展に尽痒してきたが︑私に最大

一般にこの事業を人類進歩に貢献する偉大な仕事であると見倣して書いてくれた︒私の努力が実を結

ぶに至ったのほ︑ ひとえに︑これらの人達の寛大な援助の賜物である︒﹂と︑

欧洲へ︑また欧洲からアメリカヘの旅行を斡旋し︑更にこの国際的旅行を世界の涯まで促進したい﹂と強調した︒

彼 は 最 後 に ︑

﹁アメリカには他に比類のないほど発展の可能性を有する市場がある﹂といって︑その挨拶状の結尾

としている︒この頃には未だ︑米大陸の大西洋側と太平洋側とを結ぶ最初の大陸横断鉄道は完成していなかった︒

郵便はまだ小馬速達便でカリフォルニアまで運ばれており︑西海岸まで旅行するといえば︑駅馬車に揺られてゆく

か︑或は海路マジェラン海峡を廻るか︑パナマ地峡を通るかしなければならなかったのである︒従って︑

クックにとっては︑先ずアメリカの東部地方にその努力を集中することが必要であった︒そこで彼は一哩あたり二

セントという劃一料金でアメリカの鉄道四千哩以上に亙る旅行に"

t h r o u g h   t i c k e t "

  (通し切符︶の組織を紹介し︑

斡旋を行った︒翌年彼の息子ジョン・メースンはアメリカとカナダに向けて最初の英国人観光団を送った︒

三 十 五 人 で ︑

っ た

ニ ュ ー ヨ ー ク

リッチモンド︑南部の戦場︑

ツ ー ア ・ オ ベ レ ー ク ー の 濫 瘍 と そ の 活 動

︵ 河

村 ︶

マ ン モ ス ・ ケ イ ヴ ︑

ワ シ ン ト ン ︑

フィラデルフィア︑ナ

一 行

アメリカに向け出発するに先

アメリカの主要各新聞の発行者に対し︑次のような挨拶状を送

クックは更に続けて︑﹁アメリカから

ト ー マ ス

(11)

の王侯の一人は︑二百人の召使︑

象 十

頭 ︑

ツ ー ア ・ オ ペ レ ー ク ー の 濫 腸 と そ の 活 動 こ の

頃 か ら ︑

クックの活動は実際︐に全世界的な性格を帯びて来た︒

ンやシリアのベドウィン族の酋長と協約を結んで︑徘徊するアラビア人の群によって邪魔されることなく︑彼の観 七二年に彼は世界一周旅行を計画し︑自らコンダクターとなって︑完成したユニオン・パシフィック鉄道により西

部米大陸を横断し︑

日 本

︑ 中 国 ︑ マ レ ー ︑ 印 度

ンスを経てニニニ日間で世界一周を行った︒

に関する限り︑トーマス・クックはこの世界を﹁︱つの世界﹂にした︒そして一八九二年に彼が世を去るまで︑旅

︑ ︑

︑ ︑

︑ ︑

行を一層容易にする

なお︑彼は一八八二年︑プリンス・オブ・ウェールスの東洋旅行を準備し案内する役を引受けたり︑

|—これは旅行業の思いがけない方向への発展であるがーーゴードン将軍救援のためにカルトウームヘ向けて出発 する遠征隊の補給の責任を引受けたりした︒また︑

ィクトリア女王やウィンザー公となった﹁プリンス・オブ・ウェールス﹂の南仏への転地︑

タリー旅行︑更らに︑

ニドワード七世の二人の王子︵そのうちの一人がのちのジョージ五世︶の世界一週旅行︑ヴ 一 八

八 七 年 ︑

クック・合・ソン会社は王室の旅行を世話することを特技とす ヴィクトリア女王の金婚式の祝典に︑インドよりの王侯の旅行を引受けた︒そ

五十人の側近二十人の料理人︑ 虎 三 十 三 頭 ︑

一 八

八 四

年 ︑

マーガレット女王のイ

トランク一千個のための るにいたった︒即ち︑

( H

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r a v e

l   e a

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)

望みを懐いていた︒

一 八 七 九 年 に は ︑ オーストラリアにも案内所を開設した︒ツーリズム

セイロン︑バレスタイソ︑ エジプト︑ギリツア︑

イタリー

フ ラ

光団が聖地を訪問することができるようにし︑近東︑聖地︑

エジプトをも観光旅行のために開拓した︒遂に︑

一 八

一八六八年及び一八六九年には︑バレスタイ

イヤガラ瀑布︑トロント︑モントリオール︑ケベック︑ボストンを歴訪した︒これこそクック父子の宿望たる︑米

︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑

大陸と欧洲間におけるツーリスト往来の嘴矢であった︒

︵ 河

村 ︶

1 0

 

(12)

ば名誉の戦死をとげた︒即ち︑

︵ 河 村 ︶

C o n d u c t e d   t o u r  

(宏 念内

A

っ 姿

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牢 行

打 ︶

を 申

' 次

〜 ん

だ ︒

ま た

カイザーの御供連は︑ ウイルヘルムニ世の︒^レスチナ訪問は︑

クックは一方においてデモクラシーの表現としての鉄道の役割を︑ クックの手で行

われた︒二十五人の新聞記者を含めて数百人のお供をつれたこの公式行列に﹁随行﹂したジョン・メースンはいわ

ふんだんにブドウ酒その他のアルコールを用いた︒しかし︑

父親のよき息子として︑彼ジョン・メースンは旅行中︑水しか飲まず︑悲運にも却ってチフスにかかって死んだと

さて︑この巨大な企業のうちで︑老クックは提唱者であり︑創始者であった︒しかし︑その世界的組織を確立し

たのは息子のジョン・メースンである︒彼らは︑運輸業者ではない︒ホテル業者では勿論ない︒旅行の組織者であ

り︑鉄道会社乃至船会社︑ホテル業者︑料理飲食業者の間の仲介者である︒

f o r   t h e   m i l l i o n )

を持つべきであるといい︑最大限の旅客を低廉な運賃をもって運送する方が高い運賃︑小人数を

運ぶより利益があるという鉄道の開拓者たちの意見と一致していたし︑またいま︱つ別なことも理解していた︒即

ち︑旅行に伴う手続上の面倒が最小限に少なかった時代においてさえ︑本来︑繁雑を厭う旅行者達は︑

が自分に代って引き受けてくれることを求めるものだということを理解していた︒例えば︑ 一八四一年七月五日の

レースクーからルーボローまでの﹁ミスクー・クックス・ニキスカーション﹂の参加条件に︑鉄道の往復運賃︑

シリング︑五百七十人の旅客とオーケストラのための無蓋車九台︒停車場につくと一同は行列の隊形をつくり︑楽

隊を先頭に町を通る︒

して群衆は遠足の終りにこの団体旅行の﹁先駆者たち﹂にかっさいをあびせる︒用いられた方法はしかく単純であ

ツ ー ア ・ オ ペ レ ー ク ー の 濫 瘍 と そ の 活 動

い わ れ て い る ︒

一千人前のお茶とサンドウィッチが用意された︒遊戯︑演説︑音楽︒帰りは夜の十時半︒そ われわれは百万人のための鉄道

一 切 を 誰 か

( R

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(13)

れからわたくしが個々にお客さんたちと交渉する︒﹂ る ︒

( 1 )  

し か

し ︑

( B )  

鉄道会社または船会社に向かってクックはいう︒

ツ ー ア ・ オ ペ レ ー ク ー の 濫 腸 と そ の 活 動

E x c u r s i o n   T i c k e t

"

  (

廻 遊

切 符

となって表われた︒

は今度はホテル業たちの方に向う︒彼は彼らのところにお客を送りとどけ︑自分ではお客を泊すことは引受けない︒

それにまた彼は費用が決まるとすぐにその支払いについての保証人となる︒お客はクックのクーボンで払う︒大部 分のホテル業者たちは喜んでそれを現金化することを受諾する︒このようにして︑旅行は容易となり︑あまり裕か でない人たちにも手の届くものとなったのである︒それにまた︑どんな場合でも先駆者であるクックは︑彼の事業 の創設期からすでに︑見落してはならない景色や︑珍らしいものや︑記念碑などのことを需いた小さな案内書を出

版することをやっていた︒ここにおいて

p a c k a g e t o u r   (

請 負

旅 行

ても︑少なくともその本質的な特徴をみつけだしたのである︒

英国の鉄迫は一八二五年

S t o c k t o n

│ D a r l i n g t o n

の間に於て始めて開通したが︑この鉄道は鉱物の運搬のみに止ま

り 一

八 一

1 ‑ 0

L i v e r p o o l │ M a n c h e s t e r

鉄追により︑始めて社会公共に対し開放されるに至った︒

アメリカン・ニクスプレスーーートラベラース・チェック

アメリカン・ニクスプレス

( A m e r i c a n E x p r e s s )

は広く世界の各地に事務所を設け︑恰も︑眼に見えぬ巨人の

如く︑旅行するアメリカ人の約九 0 形︑それにまた各国人がそのサーヴィスを利用する︒広く世界に亙っている点

から言えば︑同社は世界最大の

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で あ

る ︒

︵ 河

村 ︶

イ ク リ ー

の技術はすぐさまその完璧とまではゆかなく

イ ス

ス ︑

イ ギ リ ス

フランス及びドイッ等の 一度この協定が運輸業者との間に締結されると︑ それからさまざまな工夫が始まる︒

ク ッ ク

その発展の結果が遂に ﹁わたくしは切符の全部をまとめて買う︒ さてそ

(14)

ツ ー ア ・ オ ペ レ ー ク ー の 濫 篤 と そ の 活 動

︵ 河 村 ︶

かくして︑彼はその翌年トラベラース・チェック

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を案出したのであるが︑ それにほ所 他のものにも容易に替えることのできるもの︑且つ︑それは現金よりも都合のよいものでなければならない︒紛失 したり盗まれたりした場合に所有者がその金を払戻して貰えるように﹂と彼は考えた︒ の で あ る ︒ 即 ち ︑ ︵この人は三十四年間に亙って鉄腕をふるっ 西欧諸国に於ては︑それは一種の銀行の機能を果している︒しかもまた世界最大の私設郵便物送達機関でもある︒

そしてこれら一切の活動の背後には

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として知られた一小紙片が

︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑ 花謁岩の岩盤のように翠固に使用されているのである︒これは電球の発明以来最大の発明の︱つである︒トラベラ

ース・チェックはアメリカン・ニクスプレス社がかなり成長した頃に現れた︒

この会社の誕生は︑ カリフォルニア州のゴールド・ラッシュの翌年︑

アメリカン・ニクスプレスとは当時アメリカで小荷物︑金銭︑貴重品等の送達を業としていた三つの有名な馬車通

運会社の合同したものに与えられた名称であった︒

一 八

五 0 年の三月十八日のことであった︒

うことが現代ほど一般化していなかった時に︑特に迅速なる送達という点を強調したものであった︒その翌年︑ウ

ェルズ・ファーゴ小馬通運会社が買収せられた︒アメリカン・ニクスプレスは一八九一年には未だ単に国内のみの

貨物運送会社であったが︑その当時の社長ジェームズ・ C

・ フ ァ ー ゴ

て同社を牛耳っていたのである︶は欧洲に旅行をしたのであるがこの旅行は同社にとっては全く︑歴史的なものと

なった︒即ち彼は信用状を持って出かけたのであるがそれを現金化するのに余りに手間どりすぎたので︑彼はどん

な人でも簡単に取扱うことができる上に︑その場で現金に換えることのできる国際的な通貨を創ろうと思いついた

﹁正金のドルを代表する一の紙片︑それはフランにも︑

リ ラ

に も

ループルにも︑ボンドやその ﹁ニクスプレス﹂という社名は︑その創業の頃︑スピードとい

(15)

務中最も世に知られているものは︑ 室だけの事務所であったが︑旅客はなだれこんで来て︑現金引出しの手続きが行われている間に︑旅行に関する各 種の情報を求めた︒かくしてアメリカソ・ニクスプレス社は︑大衆の要求に従って︑

一九一八年︑第一次世界大戦中に総ての国内の通運会社が統合せられるに至ったため︑同社はそも

そもの使命としていた業務を断念し︑その国内通運業務をレイルウエイ・エクスプレスに譲渡し︑代りに海外通運

業務を引受けそれ以来全力を挙げて世界的に金融︑旅行斡旋及び外国向け船舶サービス業に尽痒してきた︒その業 で

あ る

︒ 即 ち ︑

を現金に引替えることを要求した︒ 人々は一八九一年その発足以来トラベラース・チェックを買ってアメリカン・ニクスプレスの機構を今日のよう なものに仕上げたのである︒人々が欧洲へ旅行する場合︑彼等はアメリカン・ニクスプレスの事務所でその小切手

一たびこの会社が事務所を開設すると︑尤も最初は一八九五年︒ハリに於ける一

一八九一年に始められた旅行小切手と一九一五年以来行われている旅行斡旋で

っ て

い る

事 務

所 ︑

万一所有者がその小切手を紛失した場合には︑ アメリカン・ニクスプレス社から払戻しを受けられる︒購入者は

小切手額面の百ドル毎に対して七十五セントを払うのである︒今では︑

レイルウエイ・ニクスプレスの事務所︑或いはホテルなどでこの小切手を求めるアメリカ人は数百万に上 であるから︑盗難にかかるという恐れは殆どない︒

ツ ー ア ・ オ ペ レ ー ク ー の 濫 瘍 と そ の 活 動

有者が二重に署名するという簡単なしかも極めて賢明な工夫が凝らされている︒旅行者はこの小切手を求める際に︑

発売者の注意深い眼の下で署名する︒そして現金を引出す際には支払者の眼前で再び署名するのである︒この小切

手にあるいま︱つの照合の印としては右上の隅に番号が附されている︒署名を偽造しようとする盗人は殆どないの

︵ 河 村 ︶

一年の間に国内の殆どの銀行︑西部聯合の

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一 四

になったの

(16)

社にもどるのである︒かつて︑

︵ 河 村 ︶

諸外国で実に八十億ドルをつかったといわれている︒ そして︑今日では︑

一 五

かつて一室に過ぎなかったアメリカン・ニクスプレスの︒^リ事務所ほ六階建の堂々たる事務

所となり︑あらゆるツーリストの目印となっている︒米国人旅行者にとってはエッフェル塔よりも貴重な︒ハリの目

印なのである︒また世界中に散在する三四 0 の事務所の外に︑世界の隅々にまで幾千という﹁ビューロー﹂或いは

代理店が設けられかつての一小事務所は遂に一大巨像となるに至った︒公衆の要求によってである︒

これと同時に︑観光客の数も次第に厖大なものとなった︒既に一九 00 年までに観光事業は極めて重要なものと

なっていたので︑欧洲諸国の政府中にはそれを担当する部局を設け︑これを﹁大いなる見えざる輸出﹂と称して保

護育成した︒しかし︑その頃までは極めて富裕な階級だけが旅行したのに過ぎなかったのであるが︑二十世紀に入

ると︑経済事情の変化︑旅行制度の発達とによって中産階級の人々が多く移動するようになった︒その結果︑第一

次世界大戦の終憶とともに史上空前の国際旅行時代を現出した︒第一次︑第二次大戦の間にアメリカ人の観光客は

さ て

アメリカン・エクスプレスは今まで面倒な払戻しの要求で困ったことはなかった︒旅行小切手が掏摸にや

られた場合︑これは掏摸の失策で︑彼等は直ぐそれを最寄の郵便函に拗り込む︒するとやがてはニューヨークの本

︱つの大きな脹れあがった封書が本社にとどいたことがあるが︑それはデトロイド

の消印があった︒中から出て来たのほ二十二通の

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(旅行小切手︶であったが︑恐らく掏摸が

処置に窮した結果送って来たものであった︒このような盗んだ側の思いやりにも拘らず︑

スは二十五人の探偵を雇っており︑彼等は行衛不明となった小切手の捜査に専念している︒十五人はアメリカにお

ツ ー ア ・ オ ペ レ ー ク ー の 濫 篤 と そ の 活 動

あ る

アメリカン・ニクスプレ

(17)

ンス人である︒通例︑事務所の所長一人だけがアメリカ人である︒ ﹁我々の努力は各事務所にアメリカ的な空気を 果彼は逮捕され︑投獄されたのであった︒

ツ ー ア ・ オ ペ レ ー ク ー の 濫 瘍 と そ の 活 動

り︑残り十人は他処に配置されている︒この捜査の副産物として他の犯罪者を発見することがある︒例えば一時社

会第一の敵と目されたジェラルド︒チャップマンの逮捕の如きそれである︒彼は窃盗から殺人に至るあらゆる犯行

の廉で捜査されていたが︑

ならば︑尚逮捕されるには至らなかったであろう︒彼は迂闊にも︑身に着けられるだけの現金と一しょに可なり多

くの旅行小切手を奪い去ったのが運のつきであった︒大いに怒った社の探偵達は︑チャップマンの人相書をアメリ

力にある同社の全事務所に送り︑同時に彼が奪った小切手の番号を通告した︒この兇悪犯人がそれで現金を引出す

毎 に

ナイアガラにあるアメリカン・ニクスプレスの事務所を襲うという誤謬を犯さなかった

アメリカソ・エクスプレスは地方警察当局に彼の所在を通報し︑遂に五つの州に亘って小切手を跡づけた結

アメリカン・ニクスプレス社の固守している政策の一っほ︑事務所を設けている国の国民を雇うということであ

る︒例えばパリの大事務所では二二 0 名の職員中アメリカ人はただ四人である︒それ以外は全部英語の達者なフラ

保有することに向けられる﹂と社長リード氏は説明している︒事務所以外の所に於てさえも︑

プレス社は一種アメリカ的な雰囲気を作り出している。ー—世界中のあらゆる国際列車や飛行機はその到着地に同

社 の

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(案内人︶を見出す︒彼はネーヴィ︒プルーの制服を着用し︑英語を含めて四カ国語を話す︒世界各地

の空港︑駅及び港にはこのような案内人一四 0 名が配置されており︑誰か面くらっている乗客でもあると直ぐ駈け

つけて通関手続を済ませ︑面倒な荷物の扱いや心附けをやることまで代って引受け︑

ってやる︒これも亦無料サーヴィスである︒ アメリカン・ニクス

ククシーヘ乗せてホテルヘ送

ニューヨークの埠頭では着いただかりのヨーロッパ人はアメリカン・

村 ︶

一 六

(18)

ク ス プ レ ス は

ニクスプレス社の案内人を生きた参考書のように扱うのである︒

旅行中のアメリカ人は祖国を遠く離れても必ずアメリカ的な場所を求める︒そして彼等が最も好んで訪れる所は

依然としてパリである︒そのパリにおけるアメリカはアメリカン・ニクスプレスの事務所である︒パリでは一万数

千人にも及ぶアメリカ人が︑お互に﹁アメリカン・ニクスプレスで会いましょう﹂といって︑

地にある有名な事務所にかけつける︒ここで彼等は故郷からの便りを受取り︑次の旅先に廻送して貰うよう手続を

取り︑また旅行者同志で挨拶をかわす︒それから机上の旅客名簿を開いて︑

るかどうかを調べてみる︒支払係の所で旅客は

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(旅行小切手︶をフランに替える︒案内係の

所へは夢中になって押しかける︒

それにありとあらゆる質問を放つ︒名所見物について尋ね︑

について尋ねまた香水を何処で求めたらよいかを聞く︒太りたくない人には︑その目的に叶ったレストランヘ連れ

ていってくれ︑高官筋の令嬢方のお相手も探してくれれば︑欧洲でなら子守番︑

までやってくれる︒退屈し︑困惑している人達のためには︑

防止役︑郵便局︑警察署︑心の友︑

し か

し ︑

一 カ 月 平 均 一

ドラ乗船料︑物品販売税︑

ツ ー ア ・ オ ペ レ ー ク ー の 濫 瘍 と そ の 活 動

︵ 河 村 ︶

1 0

0 件の旅行を取扱っているのである︒

一 七

一度同社から︑最後のククシ 9 代︑ゴン

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を作

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t す スクリブ街の十一番

アメリカ人の知人が︒ハリに滞在してい

フランス語の手紙を翻訳して貰う者もあり︑トランクや家具類を預ける者もあり︑

ホテルやボートについて尋ね︑医者や歯医者︑美容院

アジアでなら壕詰の飲料水の供給

アメリカン・エクスプレスは︑解決の相談役︑事故の

クラブ︑尋ね人︑承り所として奉仕するのである︒

アメリカン・ニクスプレスの最も得意とする業務は F I T 即 ち

ることである︒凡そ煩雑なこと︑監督を要することや現金の心配などをしたくないと希望する旅行者のために︑

チップに至るまで凡そ旅行者が必要とする一切のサーヴィスを受けるための料金支払済

(19)

この旅費後払制は︑

ツ ー ア ・ オ ペ レ ー ク ー の 濫 篤 と そ の 活 動

みとなったクーボン券を手渡されれば︑その客は︑最早理窟の上では現金は置き去りにして来てもよいのである︒

この場合ニクスプレスは運輸業者やホテルから﹁卸﹂としての手数料を申受けている︒またこの

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を利用しな

正規の引率者のついた旅行

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のほか︑ジーン・サラーゼン主催の下に四カ国の十九のコースを巡るゴルフ同好者旅行︑更にアフリカの古老の引

率による日程七十三日のアフリカ縦断旅行︵ケープクウン

11

カイロ間︶を組織した︒芸術愛好家のためには︑

ロッパの美術館や寺院を見て廻る四十六日間の漫遊旅行︑音楽愛好家には︑バイロイトからローマ︑

﹈からヴェルディまでを聴く五十日間の音楽行脚の手筈を整えた︒更に一六︑

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0 人の大洋クルーズ客︵平均年

齢六十五オ︶が毎年アメリカン・ニクスプレスの寄港地旅行を行うとか︑

こ の よ う に し て ︑

は じ

め ︑

に団体で出掛ける人々に対してはヨーロッパだけでも︑

一九五六年にはメソディストの牧師が引率する日程五十六日間の聖地巡拝旅行

アメリカ人の旅客の大体九〇彩がアメリカン・ニクスプレス社を利用しているといわれている︒

最後に︑数年前から行われている旅行信用払制度

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一 九

二 0 年代にキューナード汽船会社によって試みられたが︑そのときはかなりな

人気を博して成功を収めたが︑他の船会社がこれに同調しなかったために︑結局一九二九年の大恐慌の際には跡方

もなくなってしまった︒これが最近になって航空会社によって再び陽の目をみるに至り︑最初は︑航空券の売上げ

の増加を目的とする緊急対策として始められたようである︒そして︑今日では全航空券売上高の︱つの大きな部分

を占めるまでに至った︒尤も︑船会社や︑鉄道︑バス会社は︑航空会社の唱導に従って独自の

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旅 一周旅行︵旅行経費二 0 ︑

0 0

0 ドル︶が行われる︒ 七五種類もの旅程を提供している︒ い

で ︑

︵ 河

村 ︶

について一言つけ加えておく︒ ﹁クングスホルム﹂号の九十七日間世界

一 八

つまりヮグナ

ョ ー

(20)

( 1 )  

︵ 河 村 ︶

懸念は︑もはやなくなったということである︒ 発地︑目的地及び旅行の手段︵航空機︑鉄道︑汽船︑バス︶を問わず︑しかも国の内外を問わず︑

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の手配をも含めてー~ができるような方法を編み出した。しかも、このような制度によって、旅費はいくらぐらい

かかるであろうかという不安の要因が︑前もって取除かれることになった︒

このアメリカソ・ニクスプレス社の旅行信用払制度の背後にあってその推論の甚礎となったことは︑旅行に必要

な三つの要素

1

時間︑健康︑金ーのうち前二者︑即ち時間と健康は︑新しい潜在旅行市場の大部分を構成する青年

層にとっては解決し易いものであるが︑第三の要因である大旅行をするためには十分な金を貯えねばならぬという

以前には︑消費者が信用取引をすれば︑その経済状態から出過ぎたことをすると考えられていた時代があった︒

しかし︑これが誤りであると判明してからは︑この考えは︑信用取引は強制された貯蓄方法であり︑しかもその利

用者は強制された貯蓄期間中現物の御利益を十分に受けるものであるという考え方に道を譲るようになった︒

︒^ン・アメリカン航空の推定によれば一九五五年三月までの利用者六一

1 ‑ 0 0

名のうち九〇彩はこの新制度がなかった

ら恐らく旅行しなかった人々であるといっている︵国際観光情報第九二号︶

ツ ー ア ・ オ ペ レ ー ク ー の 濫 瘍 と そ の 活 動

に変化したことを認めて︑ アメリカン・ニクスプレス社は︑信用取引とその消費面における効用に対する米国業界の一般的な見解が根本的

一九五六年より︑中流程度の米国人旅行者が手頃の値段で︑あらゆる種類の旅行ー出 場に殆ど独占的な支配を及ぽして来ている︒

一 九

費後払制︶を確立することはなかった︒ひとり航空会社は︑独立の金融および貸出操作に支えられて︑後払旅行市

(21)

ツ ー ア ・ オ ペ レ ー タ ー の 濫 瘍 と そ の 活 動

以上︑今日世界における最大旅行業者たるトーマス・クック社ならびにアメリカン・ニクスプレス社の沿革とそ

の活動とについて述べて来たが︑前者は︑旅行業者の父として

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の制度を醸成し︑旅行を今日のよ

うに容易にした点において︑また後者は

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を創案して旅行費用を安全に且つ便利に使用し得る

途を開き︑更に

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を採用して︑旅行をしてよく﹁誰でも出来る贅沢﹂たらしめた点において︑

観光業経営の上に劃期的な貢献をしたものということができる︒

いうまでもなく︑観光業は︑製鋼︑あるいは自動車製作といったような単元的な産業でほなく︑各種の観光機関

によって営まれる複合産業への総称である︒

る ︒ 従 っ て ︑

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  o p e r a t o r   (~行請負業)は各種観光業を旅客の往来という唯一

の紐帯で結びつけた綜合的な産業であって︑これによって旅客往来の総量を維持し増大する目的をもったものであ

いはば︑あらゆる観光業のうちで最も中心的であり︑典型的な性格をもったものということができよ

う︒尤も︑多くの

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  (旅行請負業︶は︑同時に

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(旅行代理業︶を兼ねているが 1 ゎ

が国ではこの二つを合せて旅行あっ旋業といっているー~ここでは前者を指していることはいうまでもない。従っ

て︑この両者を一しょにして通常︑ひろく旅行業者といっている︒

しかして︑既述のように今日のあらゆる観光旅行は多くの場合これら旅行業者の手によって行われ︑ここに独立

した産業としての成立をみたことはいうまでもなく︑観光業をして最も重要な輸出産業たらしめた所以である︒今

日では全世界の観光往来の六 0 彩から九〇彩までは旅行業者の手によって扱われている︒もし世界中の旅行業者が

河 村

二 0

(22)

ツーア・オペレークーの濫腸とその活動 (

1 )   わが国では昭和二七年七月十八日 達を図り︑日本人及び外国人の旅

ひいては︑世界人類の文化的経済的

︵ 河 村 ︶

旅行あっ旋業法が公布された︒その第一条に﹁この法律は旅行あっ旋業の健全な発

客の接遇の向上に資することを目的とする﹂と規定されてある︒ 発展をのうえに一大障害を与えるにいたるであろう︒ 一日でもこの機能を停止したならば︑ 恐らく名状しがたき史上最大の交通の混乱を招来することは申すに及ばず︑

参照

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