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19世紀イギリスにおける市場機構の発展

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(1)

19世紀イギリスにおける市場機構の発展

その他のタイトル The Development of Market Organization in the Nineteenth Century England

著者 原田 聖二

雑誌名 關西大學經済論集

巻 13

号 4‑6

ページ 565‑585

発行年 1963‑12‑20

URL http://hdl.handle.net/10112/15432

(2)

T.S

・アシュトンは︑その著﹃産業革命﹄の中で︑いつの時代にも存在し得る発明が分業の十分な発展をとげ

ていた一八世紀のイギリスで初めて実を結び︑かの﹁産業革命﹂をなしとげたのであり﹁産業革命は専業化の原理

( 1 )  

が高度化し発展したことの原因でもあればその結果でもあった﹂と強調している︒さらに

N . s . B ・

グラースも

﹁定住商人と商業資本主義とは︑教会の対立︑アダム・スミスの批判︑重農主義者の反対によって︑また更に一般

的な声なき不平不満と反抗によって崩壊したのではなく︑むしろ内部からの分解した専門化と︑外部からの産業革

( 2 )  

命︵少くとも部分的には︶によって崩壊した﹂と述べている︒

( 3 )  

わたくしは︑先に小論の中で︑マンチェスター綿花売捌商人︑リバプール綿花仲買人及びダービーシャーの紡績

業のそれぞれが、リバプール綿花市場の形成•発展のために果した役割について考察した。そして、とくに綿花仲

買人の役割に注目し︑その仲買機能の近代化と原料

1 1

綿花流通機構の専門化は混同すべきではないことを指摘し︑

経営的専門化の傾向について触れておいた︒

.~

ま え カ

九世紀イギリスにおける市場機構の発展

(3)

さえいわれるのである︒ このようにイギリスは︑ る ︒

産業革命を世界の他の国々に先がけて逸早くなしとげ︑ アシュトン︑グラースの言をまつまでもなく︑︵﹁特化﹂と﹁専門化﹂︶の洗礼を受けたのであった︒﹁社会的分業の経営的専門化の具体的姿としての媒介的企業の発展は︑当時のイギリス経済のほとんど全面に顕著であり︑それがやがて世界市場に君臨するようになったイギリ

( 4 )  

ス商人の企業力︑機動力の源泉となっていた︒﹂それは︑原料

1 1

綿花流通機構におけると同様に︑綿製品の販売II

市場機構もその例外ではありえなかった︒すなわち︑イギリス産業革命の推進力となったといわれる綿工業につい

一連の技術革新に基づいた生産力の発展とその販売市場の拡大が行なわれたのであるが︑それはまた逆にそ

れらに甚づいた取引量の増大を基盤とした社会的分業

1 1

経営的専業化の現われに外ならないと考えられるわけであ

門化﹂と﹁特化﹂︶を通して﹁世界の工場﹂としての地位を確立したのであったが︑その専業化そのもの︑とくに商

業機構における専業化そのものの故に一九世紀末から︑二

0

世紀にかけてのイギリス経済の停滞を引き起こしたと

このイギリス経済に停滞が現われたのは︑およそ一八七

0

年頃だといわれてはいるけれども︑

やはり事実上優位を保っていたのであって︑第一次大戦を経て初めてその地位をアメリカにゆずるこ

ととなったのであった︒しかし︑イギリスの転落はただちにアメリカの有利な地位の絶対的確立ーー一九世紀にお

けるイギリスのようなーー'を意味しないのである︒アメリカが世界経済の上で指導的地位を占めるに至ったのは︑

第二次大戦終了後のことであった︒つまり︑第一次大戦と第二次大戦の間の時期は︑資本主義世界経済における指 産業革命を経験したイギリスは︑ 賜西大學﹃網済論集﹄第十三巻第四・五・六合併号

その結果としての専業化︵﹁専 あらゆる分野において専業化

(4)

その他によって補いつつ考察してみたいと思うのである︒

委託販売制度の発達

導的地位がイギリスからアメリカヘ移行しつつあった過渡期であると考えることができるのである︒そして﹁第二

一九世紀及び両大戦間の世界経済の特質と対照させていえば︑第一に︑単

一世界経済あるいは世界市場の崩壊︑反面からいえば︑社会主義世界経済の成立という事実であり︑第二に資本主

( 5 )  

義世界経済におけるアメリカの指導的地位の確立という事実である︒﹂

このように︑世界経済の中における指導的地位を交替しなければならなかったイギリス経済を停滞せしめた原因

の一っといわれる商業機構における専業化の過程を︑本稿では︑主として綿工業における製品販売

11

市場機構を中

︵第一巻﹁現代世界経済論﹂︶三四ベージ

( 1 )

T .S .  A sh to n, T  he   In du st ri al  R e v ol u t io n

,  

1 7 6 0

  1  1 8 3 0 .  

p . 

15 , 

中川敬一郎訳﹃アシュトン産業革命﹄一六ページ︒

( 2 )  

N. S. B.  Gras, 

Bu si ne ss  a nd   Capitalism; 

An 

I nt r o du c t io n .  t o   B us in es s  H is t o ry .   p . 

169

植村元覚訳﹃グラース経営

史﹂二ニ三ベージ︒

( 3 )

原田聖二﹁リバプール綿花市場の形成と企業者の機能﹂︵関西大学﹃経済論集﹄第十二巻第三号︶二六

l

五四ページ︒

( 4 )

中川敬一郎﹁一九世紀イギリス経営史の基本問題ー自由貿易体制下の企業経営とそこに現れた﹃自己破壊﹄の様相ー﹂

︵﹃社会経済史大系﹄

V l l

(5)

赤松要・堀江蒸雄・名和統一・大来佐武郎監修﹃講座国際経済﹄

周知のようにグラースは資本主義を小資本主義︑商業資本主義︑産業資本主義︑金融資本主義及び国家資本主義

というように極めて興味深く分類しているのであるが︑本稿での焦点は︑この中でとくに商業資本主義から産業資本

主義へと発展してゆく時期に置いて考えてゆかなければならない︒そこで︑更にグラースによれば︑商業資本主義

一九世紀イギリスにおける市場機構の発展︵原田︶ 次大戦後の資本主義世界経済の特質は︑

(5)

ち ︑

マッコネル・ケネディ商会は︑ 代の価格下落が︑交通︑製造業︑銀行業及び商業における専業化の急速な成長を促し︑それが一八四

0

年代中期か

( 3 )  

ら一八六

0

年代中葉の繁栄と価格騰貴の時代に完全に確立されたところの専業化の出現へと導いたのであった︒

このような観点から︑販売

11市場機構をみるならば︑製造業者は低価格で大量に生産した商品をすみやかに売捌

く市場を当然欲していたのであって︑.それを満すための海外市場については︑通信の困難な当時にあっては︑製造

業者が商品を代理商に送り︑

いう﹁委託販売制度﹂の成立へと導いたのである︒こうした販売制度はイギリスにおいては一八世紀末頃にはすで

に現れていたと考えられるのであって︑ その商品を手数料で売り︑

それはマッコネル・ケネディ商会の例からみても明らかであろう︒すなわ

一八世紀末頃すでに二︑三人の代理商をグラスゴウにもち︑それに綿糸を﹁委

託﹂し販売せしめていた︒この委託された綿糸については販売月から六ヵ月の信用が買手に与えられ︑代理商に五

︒ハーセントの手数料が与えられた︒場合によっては代理商が︑その信用期間が終るよりも何日かあるいは何力月か

マッコネル・ケネディに対して代金を支払うことがあったが︑ 更にグラース及び

H.M

の衰亡の徴候は一九世紀の二︑j

︱‑ 0

年代に現われたイギリスやアメリカにおける手数料代理業

(C

om

mi

ss

io

n

ag

en

cy

) 

( 1 )  

の非常に急速な成長であったといわれるのであって︑この手数料代理業の成長︑つまり委託販売制度

(C

on

si

gn

me

nt

sy

st

em

)

産業資本主義時代の販売

11

市場機構の発展の第一段階を画するものであった︒

﹁定住商人は工業家の前に︑そして商業資本主義は産業資本主義の前に屈した︒世界は︑資本主義の最も安定的な

( 2 )  

型とそして高い地位にあって最も偉厳があり又有能である召使の一人とを失った﹂のであったわけである︒

一八一五年から一八四三年の時期においてアメリカでは︑ 隔西大學『稗済論集』第十三巻第四•五・六合併号

その時

そのかわりに為替手形を送り返してくると

その残金の期間についての

まさに

(6)

一九世紀イギリスにおける市場機構の発展︵原田︶ e^ ad 

v e n t u r i n g "

によっていたのであって︑

一九世紀初期においてさえも︑有力な製造業者はこの方法をあまり好まなかったし︑

ルトン・ワット商会のように︑次の段階にいたって初めて現れてくる方法であるところの海外から直接注文をとっ

・てそれにしたがって生産していた製造業者さえあったのである︒こうした方法は製造業者が全世界的な規模での信

用をもち︑高度に特殊化された優秀な商品を作っている場合には当然のことであったにちがいない︒

て︑あるいは需要のありそうな市場を見越して︑

( 4 )  

マッコネル・ケネディから代理商に支払われたのであった︒

それのみならず︑当時の中国貿易においても重要な要素の︱つであり﹁委託販売制度は東洋とのマンチュスター

( 5 )

貿易の基本的な部分であり︑代理店舗はそのくさびであった﹂といわれるところである︒このことはイギリスの対

アメリカ貿易においても決して例外ではなかった︒

N.S

・バックによるとイギリス・アメリカ貿易に従事してい

る大ていのものは委託販売に従事している手数料商人であった︒そして︑

連のある事柄であるが

1

独立勘定で何らかの業務に従事し︑この時期の終りに至っては独立勘定でリバプールに

( 6 )  

アメリカ製品を船積みする

B r i t i s h H o u s e

へと成長する傾向があったのである︒そして︑

であったといわれる委託販売制度は、

J•H

・クラッ。ハムによれば、大体一八五0年頃を中心として衰退あるいは

消滅した︒これは代理商が各地に散在していたこと︑さらにより大きな︑

発達であった︒すなわち︑

これらの手数料商人はーー後述の点と関

そして決定的と考えられる理由は電信の

それまでの委託販売制度は︑製造業者が直接あるいは代理店を通じて商品を輸出商に手

数料前渡しで委託したのであった︒そして輸出商はそれらの商品を海外の支店︑代理店及び取引先の注文に応じ

商品を出荷し︑その上で現地で買手を求めるという︑いわゆる

( 7 )  

それは商品が売れた場合にのみ清算するという方法であった︒したが

ウエッヂウッドやボー 一九世紀に特徴的形態

.  ‑ ‑ ‑‑̲ ̲  :  ー ' ̲ ̲ ̲ ̲ ̲ '

(7)

みたいと思っのである︒ てきた︒そこで︑本節では︑当時の代表的な紡績業者の営業文書にしたがった諸研究を中心としてこの点を解明し すでに述べてきたように︑ ようになった︒

紡績業者の委託販売状況

ところが大体一八五

0

イギリスの大ていの製造業者は商人の注文によって生産するという方法をとる

いわゆる注文生産

(W or ki ng to o  rd er )

が支配的となったのである︒したがって︑商人も以前のよ

うに需要を見越して送り込むという方法ではなくて︑海外の支店︑代理店あるいは取引先からの注文を受けそれを

集計してはじめて製造業者に注文するという方法で取引をしたのであった︒

( 1 )

N. S. B.  G ra s,   op .  c i t . ,   pp .  19 56 . 

( 2 )  

I b i d . ,   p .   1 74 .

 

(3 )  N .S .B .  Gr as   an d  H .M .  Larson, 

Ca se bo ok  i n  A me ri ca n  B us in es s  H i st o r y.   pp. 

66 17 44 . 

( 4 )  

G. W.   Da ni el s, T  he   Ear ly R  ec or ds   of   a  Gr ea t  M an ch es te r  C ot to n  , S pi nn in g  F ir m.  (Economic

  Jo u r na l ,  V oL .  X XV ,  19 15 )  p .   1 83 .

  中川敬一郎﹁イギリスにおける綿糸・綿布市湯組織の発達﹂︵﹃経済学論集﹄第二十三巻第四号︶︱二

l

三ページ参照︒

( 5 )  

Sh ei la   Ma rr in er ,  Ra th bo ne s  o f  L iv er p 00 

I,

 1

84 5 73

.  p 

5 4

.  

( 6 )  

N. S.  Buc k, T  he   Dev el op me nt   of h  t e Organisation o

f  A ng lo

  , A

me ri ca n  Tr ad e, 8  1 00

 

,I850•(1925).

pp .  6 ,   1 0 1,   6 

17•

3 9.   qu ot ed   by   Ma rr in er ,  o p.  

cit••

p .   54  

• •

(7)J•

H.   Cl ap ha m,

  An 

Ec on om ic   History

  of o  M de rn   Br i t ai n ,  V oL . 

l I .  

pp .  31 33 15   an d  V oL .  I .   p .   2 56 .  

一九世紀初頭以来の販売

1 1

市場機構の発展は︑委託販売制度を中心としておこなわれ 開西大學『網漬論集』第十三巻第四•五・六合併号

(8)

( 1 )  

当時の紡績業者の綿糸販売市場は︑まったく広範囲にわたっていたのであって︑夫々の地方に代理商を置くか︑

あるいは直接販売をも行なっていたことは当然であった︒大ていの場合代理商には手数料が支払われていたが︑そ

( 2 )  

れらは必ずしも一定してはいなかったのである︒例えば︑ある代理商は︑年俸を二

00

ポンドに決め︑貸倒れ金の

1 0

︒ハーセントを保証することを条件として︑商品が全部売れた時には売上げの

0

・ニ五︒ハーセントの手数料の支

( 3 )  

払を受けていたのである︒

一七九五年から一八一五年に至るマッコネル・ケネディ商会の主な市場は︑ペイズリーをも含んだところのグラ

スゴー市場であった︒そこにおける販売方法は︑比較的富裕な製造業者への直接販売と委託販売の二つの方法であ

った︒直接販売の場合は﹁ニカ月の信用貸で︑ニカ月手形での支払い﹂が建て前であったが︑未発達な当時の運輸

状況では︑実際はその信用期間は短かかったといわれている︒したがって︑この直接購買者はかなりの資本を所有

( 4 )  

している製造業者が大部分を占めていたのであって︑彼らは長期信用で少量づつ転売することさえ可能であった︒

一方の委託販売についてみると︑製品が代理商に委託されたその月から六カ月の信用が与えられて︑

は五︒ハーセントであった︒その場合︑ その手数料

その半分は販売の報酬としてであり︑他の半分は負債全額保証の報酬として

与えられたのである︒すなわち︑代理商は委託物の販売業務とともに未払い債務の取り立て︑及び︑疑わしい取引

先に絶えず油断のない注意をはらうためには時間と忍耐を必要としたからであった︒したがって︑代理商が現金で

販売する時は︑負債に対する保証は不必要であったから︑手数料は販売の報酬としてのニ・五パーセントだけであ

( 5 )  

エバンズ家の場合についてみると︑その支払は他の場合と同様に現金か手形によるものであった︒ところがその

一九世紀イギリスにおける市場機構の発展︵原田︶

(9)

般に行なわれている種類の綿糸を作るに必要な機械を購入するまで︑われわれが送付する番手の綿糸を受入れると

いう状態の下では︑当然あなたのご好意に報いるべきであると考えまして︑以前にお送りした綿糸の割引を一

0

ーセントまでいたしませう︒あなたが申し出た信用期間は︑以前にわれわれがあなたに与えたものと同様であり︑

それはわれわれが一般に与えているものよりも長いけれどもあなたのいった通りにしましよう︒われわれはあなた

が申し出た時期の終りに現金で支払うことを考えていると推断いたしました︒

一︑ニカ月の手形振出しについて便宜をはらう努めましよう︒﹂またその割引率についても︑信用期間と同様に支

( 6 )  

払の速さや取引状況によってまちまちであった︒

以上のようなエバンズ家の取引方法と対照的と考えられるのがストラット家のそれである︒すなわち︑

ト家にあっては︑決められた原則をまったく事務的に守っていたのであって︑しばしば代理商からの不満が出された

ことがその手紙から読みとることができる︒例えば価格の変動︑とくに値下げが行なわれた時ーー︑それは随時発行さ

れていた価格表によって示されるのであるがー│古い価格表にしろ新しい価格表にしろ︑値段の安い方を請求すべ

きであると考えている人々から起された不満がある︒というのはストラットは﹁品物の注文を受入れた時の価格に

( 7 )  

おいてのみ売るという原則﹂を決して少しなりとも曲げようとしなかったからである︒さらに︑

万束の注文をしたとこるで︑われわれがすべて一定に決めた価格といかなる他の価格とも区別できません﹂と一八 に述べられているように︑非常に寛大なものであった︒

あなたの都合次第で特別の場合は ﹁先週お送りした綿糸の送り状を同封すると共に︑普通 信用期間については他の場合と異なって取引状況あるいはその評判などによって種々異なってきたのであった︒ノッティンガムの

C o x a n d   S o n s

のような商会は︑一七九三年四月一七日付で彼らに送られてきた次の手紙に簡潔 開西大學『網済論集』第十一_一巻第四•五・六合併号

(10)

0

七年に代理鹿をグラスゴウやペイズリーに七 二七年四月一九日付でリバプールの

G . B . B r o w n

に書いているように︑大量購入者に対しても特別割引を許さな

かったのであり︑これも綿糸五

0 1

0 0

梱以下の少量注文を拒否することと共に代理商の不満を引起す原因とな

( 8 )  

ったのである︒このような強い態度で臨むだけあってストラットはその綿糸の品質保持のためには大いに努力した

(9 ) 

のである︒したがって︑綿糸の品質についての不満は代理商から少しも聞かれなかったといわれているC

委託販売制度はマッコネル・ケネディ商会についてみると︑

その中の幾人かは製造業者であり︑他は単なる手数料代理商であった︒しかし彼らは単に綿糸

(10) のみの委託販売代理商ではなかった︒それは丁度リバプール綿花仲買人の場合と同様に︑綿糸の委託販売以外に付

加的業務をもっていたのであった︒すなわち︑彼らは綿花市場の状況について商会に報告し︑見本を送り︑また必

要な場合は購入せしめさえしたのであった︒それのみならず︑

達にとっては良き相談相手でもあったのである︒例えばナポレオン戦争終結後のイギリスの長期的好況時代のまさ

に絶頂を画するといわれる一八二五年以来の原綿の高騰という事情によって綿糸の値上げが不可避となった時︑

そのあまりにも激しい継続的値上げに悩んで市場を見極めるためにマンチェスターの有力な代理商

T .  

Sh

ut

tl

ew

or

th

に一八二五年四月二日次のように書き送っている︒﹁⁝・・・われわれにこの価格を維持すべきであ

るか︑あるいは値上げすべきであるかの見込みについてお教え下さい︒というのは︑われわれの価格表はもっと高

( 1 1 )  

くすべきでしようが︑少し高すぎるのではないかとの懸念をもっているからです︒﹂更にストラットは︑上昇する

綿花の価格の中で﹁アークライト氏は今でも旧価格で販売している﹂という﹁漠然とした噂﹂を聞きノッティンガ

ムのある代理商にその真偽を確かめている︒このように当時の代理商は︑単に綿糸の委託販売に従事するだけでな

一九世紀イギリスにおける市場機構の発展︵原田︶ その地方地方での景況に明るい代理商は︑製造業者

(11)

v1付加的業務をしていたことは勿論であったが、~製造業者にとっては、

あったわけである︒ その他の点においても便利な存在で

( 1 )

をしていたのである︒

( 2 )

0

一ー七年エリザペス・コプソ

ン、一八 0

八—一八年ダピッド・ハリス、一八一九年エリザペス・ハリス、一八二

0 ー八年ジョージ・ペエリース、ロ

0

0

0

0

0

0

0

I

T

・マーシャル

J

.シュットルワースを除いて他のすぺては一・五︒ハーセント手数料を受取っていた︒手数料はストラット家が一・

五。ハーセントから一・ニ五パーセント、エパンズ家が一•五パーセントそしてマッネル・ケネディ商会がニ・五パーセ

ントで販売を委託していた︒

( 3 )  

Je

an

  Li

nd

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An  

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y  I n du s t ri a l   C

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L.

 

XXXIV•

No

. 

3) 

p .  

29 0.  

( 4 )

証人の紹介が必要であった︒

R.

S .  

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P.  W

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, 

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s   a

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  th e   Arkwrights, 

1 7 5 8  ,  1

8 3 0 ,  

p .  29 8.  

( 5 )  

D an i e ls ,

  o p

cit••

.  

p .  

18 4.  

( 6 )  

Je

an

  Li

nd

sa

y,

  op .  c i t . ,   p p.  

2923. 

西

一九六

(12)

外国市場についていえば︑

( 7 )

 F

it to n  an d  W ad sw or th ,  o p .  c i t . ,   p . 

30 5.  

( 8 )  

I bi d . ,  pp . 

306•

31 8.  

( 9 )  

I bi d . ,  p . 

30 8.

 このようにストラット家と対照的なエバンズ家の阪売状況をみる時︑われわれはエパンズ家を取扱った研

究の最後に述べているリンデツイの次の言葉を企業者活動研究の観点から味わい深く読みとることができるのである︒

﹁エパンズ家が富裕な家族であったという事実が︑ダーリイ・アピイ工場の所有と経営の態度に影響を及ぽしているの

である︒彼らは︑その身分を認めさせるぺき社会を確立し︑一九世紀あるいは二

0

世紀の初期においてさえも︑彼らの役 職と社会的優越を保つのに注意を払ったのである︒ストラット家やアークライト家が初期の実業界の巨頭であったのに 反して︑エパンズ家は︑上流社会の一員としてのその伝統的な地位を実業界に拡大したところの

Ge nt le me n fa ct or y  ow ne rs であった︒この相異はダーリイ・アピイにおけるその機構そのものの中に示されている︒そこでは︑原料に対 してのみでなく︑また同様に労働者の道徳的精神的な福祉に対しても注意がはらわれたのである︒この工場が決して大 規模のものとはならなかったのは︑一つには野心の欠除であり︑また︱つにはエパンズ家の人々が温情主義的で啓発的

な労働政策を行なおうと欲したからでもあった︒﹂

Li nd sa y, o p.   c i t . ,   p . 

30 1.  

( 1 0 )

前掲拙稿︑三リパプール綿花仲買人の機能参照︒

( 1 1 )

F

 

it to n  an d  Wardsw

or th .,   op .

cit••

 

p .  

30 1.  

外国市場との関係

年にはハルを通じてドイツヘ輸出したということであるが︑

だジプラルクルの代理商

E . V i a l e   a n d  

C o

.   との関係については少しく触れておかねばならない︒すなわち︑

0

六年八月二三日

E .

V i a l e

は二五六ボンド相当の三個のトランクをストラットより委託されたが︑三年後の一八

一九世紀イギリスにおける市湯機構の発展︵原田︶ ナポレン戦争中は非常に少なかったようである︒ ストラット家の最初の記録は一七八四

l

七年及び一七九

0

(13)

れについてのストラットの抗議によって︑

0

七年二月二日のリバプール価格で四七七ポンド相当の

の損失という結果になった︒ ストラット家は結局この取引で二四ポンド

0

九年にニ︱六ポンドを支払ったにすぎず結局ストラット家の四

0

ポンドの損失となったわけである︒これはスト

ラット家が海外事情に不案内のために生じた捐失であった︒同様に一八

0

八年にはマディラ諸島の白プドー酒とス

ストラット家によって初めて行なわれたアメリカ貿易は︑

( 1 )  

当の靴下をニューヨークの

W i l l i a H m a r r i m a n

への販売であった︒ここで︑とくに注目しなければならないこと

はストラット家が一八

0

五年にアメリカ南部の綿花裁培地帯の人達と委託販売取引を結んだということである︒

ストラット家からサウスカロライナ州チャールストンの

T h o m a s O g i e r

にあてて︑三三一ポンド相

当の靴下を送ってこれの販売を委託したのである︒

ンドのニカ月手形と一八

0

六年八月二

0

日リバプール価格で二四三ボンド相当の綿花一四梱を送り返したのであ

る︒この綿花についての出費がリバプールで五七ポンドであったので︑

一八〇六年三月七日に第二回目の委託販売物として︑六四七ボンド相当の靴下がトランク八個で送られ

た︒かわりに

O g i e

r

は二九ニポンドのニカ月手形と︑

O g i e r

は経費と手数料五パーセントを差引いて︱ニーポ

綿花二七梱を送って来た︒この綿花に対する出費は一〇九ポンドであったので︑差引一三ポンドの利益となった︒

尚︑第一回目の時に交換に送られて来た綿花の中で二梱の中に重量をごまかすために石や土が詰められてあり︑

( 2 )  

︱ニポンドの補償金が支払われている︒

このようにして出発した︑

いわゆる委託販売も︑大陸封鎮令(‑八

0

六年︶にともなう出港停止令

(E mb ag

A c

o

t .  

トラット家の靴下のバ│ター取引を試みたが︑

0

三年から四年の間に二六八ボンド相 ついに白プドー酒は到着しなかった︒ 縣西大學『鯉漬論集』第十三巻第四•五・六合併号

一 九 八

· · · • · - · · · · ' - - -

(14)

の事態を改善しようとして︑ れていることもあった︒ところが︑

0

八年頃から海外事情の影響を受けて︑

マッコネル・ケネディ商会は︑グラス︒コウの一代理商をグラスゴウ市場における総代

︑一九世紀イギリスにおける市場機構の発展︵原田︶ 見込みで大量の製品を代理鹿に送り込み︑数力月︑

時には数年もの間代理商の手元で買手のないまま寝かさ

ロンドンの

J o s e p h D e n i s o n   a n d   C o .

 

振出しの手形がリーズの商会を通じて支

払われた︒リオデジャネイロの

B e n j a m i n a n d   S a m u e l   W i n t e r

商会が一ニカ月とか六カ月とかの長期信用を与え

なかったならば︑リーズの商会はこれらの靴下を売ることができなかったであろうと考えられている︒その販売手

数料は七・五パーセントであった︒しかし︑

一時的ブームに踊らされたという結果になったのであるが︑

国内市場における代理制度に︱つの変化が現われ始めたのである︒

はなはだしくなってきたので︑ らせてきた︒それらについては︑ 少なからず停滞をきたしはしたが︑

( 3 )  

って何とか切り抜けることができたのであった︒

冒険的といわれるほど このような少しの間の苦境の後には﹁過去二

0

年間に消費されたものよりも多くのマンチェスター商品が二︑三

( 4 )  

週間のうちに送られた﹂とマカロックがいっているような一八

0

八年から九年にかけての綿製品輸出ブームが起っ

たのである︒このブームの渦中へはストラット家は少し遅れて参加した︒ストラット家は三三ダース入りの靴下の

トランク三個をロンドンとリーズに得意先をもったリオデジャネイロの

B e n j a m i n a n d   S a m u e l   W i n t e r

商会に

送ったのである︒

0

九年四月商会は一個のトランクを売り︑

た︒八月には第二番目のトランクが︑ 一 八

0

それに対してリーズの商会が一カ月手形を振出し

そして一八一

0

年八月三一日には第三番目のトランクが販売されたことを知

この取引でストラット家は三九ポンドの拍失を蒙ったのであった︒

こうしたプームと大陸制度などとの影響をうけて︑

ストラット家は以前からの

O g i e r

との取引によ

参照

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