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「マルクス的過渡期」・「レーニン的過渡期」論批 判

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「マルクス的過渡期」・「レーニン的過渡期」論批

その他のタイトル On Theory of "Marx's Transitional Period" and

"Lenin's Transitional Period"

著者 長砂 實

雑誌名 關西大學商學論集

巻 20

号 3‑5

ページ 349‑373

発行年 1975‑12‑25

URL http://hdl.handle.net/10112/00021073

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「マルクス的過渡期」・「レーニン 的過渡期」論批判

長 砂 賓

は し が き

硯代社会主義(現存の社会主義諸国)は,すぐれた長所・成果とともに多 くの欠陥・限界をもっている。一面的議論に陥いることなしにこれらの両側 面を統一的に把握することをつうじて,先進資本主義国にとっての正しい社 会主義像をうちたてることが,硯在の科学的社会主義に課せられた重要な理 論的課題である。そして,この課題と取りくむにあたっては,資本主義社会 から共産主義社会への過渡期,および共産主義社会の第1段階としての社会 主義にかんする科学的社会主義の古典的諸命題を正しく理解することが,ま ずなによりも重要である。実際に,現代社会主義の評価を試みる人は例外な

く,古典的諸命題についてのなんらかの解釈に依拠している。

だが,残念ながら,現代社会主義に対する自らの評価に都合のいいよう に,古典的諸命題が恣意的に理解される場合がある。われわれは,いままで 古典的諸命題の内容とその現代的意義を論じたさいに,そのような誤りにつ いてその都度指摘してきた。そのさい,検討は国際的諸見解に限定されてい

*長砂賓「「社会主義社会」の古典と現代」「経済評論」196611月;長砂寅「社会主義 経済法則論」, 1969, 青木書店, 4章第1節;長砂買「社会主義にかんする古典 的諸命題の現代的意義1「唯物論」,創刊号, 197312月,汐文社。

(3)

た。わが国の見解には独自に検討を要するものは見当らなかった。だが,ぃ まは事情が異なる。 1970年代に入って,わが国の若千の論者がほぼ同一の新 しい見解, しかも無視できない有力な見解をくりかえし表明している。斉藤 稔(法政大学),門脇彰(同志社大),および佐藤経明(横浜市大)の三教授 の見解がそれである。

斉藤氏を主唱者とするこの見解の主要特徴は,「マルクス的過渡期」と「レ ーニン的過渡期」のそれぞれを独得な内容において理解し,両者を峻別する ところにある。そのさい, 「マルクス的過渡期」によって「資本主義から共 産主義(狭義の)への過渡期」が理解されており, 「レーニン的過渡期」に よっては主として「資本主義から社会主義への過渡期」が理解されている。

このような見解はたしかに新説でありユニークである。しかし,われわれは この新説をうけいれるわけにはいかない。この新説は科学的社会主義の創始 者たちの過渡期論をいちじるしく歪めて解釈しており,現代社会主義の評価

にも一定の歪みをもたらしている。

本稿の課題は,過渡期論の古典的賭命題についてのわれわれ自身の理解を

* * 

より精確なものにすることをつうじて,この新説を批判的に検討することに

* 

ある。

**検討すべき主要な文献にはつぎのものがある。本文中での文献からの引用は, 文献 ナンパーによってなされる。

1]斎藤稔「マルクス・エンゲルスの社会主義経済論について」 「経済志林」第38 巻第3• 4 19711月;[2J斉藤稔「レーニンにおける社会主義経済論」「経済 志林」第40巻第4 1972年11月;[3〕門脇彰「過渡期論の古典的系譜」「同志社商 学」第254• 6 1974年3; [4J宇高基輔絹「社会主義経済論」 1975 有斐閣,第2章(門脇彰) ; 5〕門脇彰「ネップヘの移行の意義について」(門脇彰・

荒田洋編「過渡期経済の研究」 1975, 日本評論社,所収) ;6J佐藤経明「現代の 社会主義経済」 1975年,岩波書店[佐藤氏は,ほとんど同一の見解をつぎの文献でも 展開されているが,ここでは省略する。 「マルクス・コメンタールV」1973年,現代 の理論社, pp.276286;佐藤経明「現代社会主義の構造」 (正村・吉家・佐藤•井

汲著「資本主義と社会主義」 1974, 日本評論社,所収) ;佐藤経明「過渡期論と「発 達した社会主義」論」(「過渡期経済の研究」前出,所収),ほか〕

(4)

マ ル ク ス の 過 渡 期 論

1.  『ゴータ網領批判』

マルクスが過渡期を明確に論じたのは,周知のように『ゴータ綱領批判』

(1875年執筆)においてである。 「資本主義社会と共産主義社会とのあいだ には,前者から後者への革命的転化の時期がある。この時期に照応してまた

. . . . . . . . . . . . . .  

政治上の過渡期がある。この時期の国家は,プロレクリアートの革命的独裁 以外のなにものでもありえない」(『マルクス・エンゲルス全集』邦訳,大月 書店,第1928 29ページ〔以下では『全集』⑲pp.28 29というふうに略 ここにマルクスの過渡期論の核心が表現されている。

この命題を正しく理解するには,つぎの賭点に留意しなければならない。

1は,この命題が直接には国家死滅過程論として述べられているにもか かわらず,同時に,結果的に社会構成体移行論ともなっている,ということ である。この命題は, 「われわれは『今日の国家制度』について,それの今 日の根底をなすプルジョア社会が死減した将来と対比して語ることができ る」し,また, 「国家制度は共産主義社会においてはどんなふうに変わるか

?……言いかえれば,そこでは今日の国家機能に似たどんな社会的機能が残 るか?」という「問題」を提起することができるとして,マルクスがそれに

「科学的に答え」たものである(『全集』⑲ p.28)。 そして,マルクスはこ の命題にすぐつづけて, 「ところで,この綱領は,この後者〔プロレタリア ートの革命的独裁の国家—引用者]についても,共産主義社会の将来の国 家制度についても,なにも論じていない」(同上, p.29), と批判している。

***なお,三教授の新説にたいしては井手啓二氏がすでに適切な批判を加えている。井 手啓二「現代社会主義と科学的社会主義の古典」「中国研究」No.55,  197410

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ここからあきらかなように,マルクスは,国家死滅過程を,資本主義社会に おけるプルジョア国家—一シ「革命的転化の時期」=「政治上の過渡期」におけ

. . . . . . . . . . . . . .  

る「プロレタリアートの革命的独裁」の国家一→「共産主義社会の将来の国 家制度」,として把握している。同時に,この命題は,資本主義社会‑‑‑‑‑+「革 命的転化の時期」ー→共産主義社会,という社会構成体移行論でもある。

2は,この命題における「資本主義社会」が,まさに資本主義社会一 般,すなわち理論的に想定された「純粋な」資本主義社会である,というこ

. . . . .  

とである。マルクスは,この命題のすぐ前に,『綱領』が「『今日の社会』と いうことばを乱雑に誤用」していることを批判して,つぎのように書いてい る。「『今日の社会』とは資本主義社会である。それは中世的なまぜものから 多かれ少なかれ解放され,それぞれの国の特殊な歴史的発展によって多かれ 少なかれ修正され,多かれ少なかれ発展した状態ですべての文明諸国に現存 している」(同上, p.28)。したがって,現実の資本主義社会にどれだけ前資 本主義的要素が存在しているか,どれだけ「この社会の資本主義的発展の度 合に大小の差がある」(同上, p.25) さらに一国資本主義であるのか世 界資本主義であるのか,といった諸問題を捨象して把握した「資本主義社会」

なのである。そのような意味で,この命題は「すべての文明諸国に硯存して いる」 「資本主義社会」にひとしくあてはまる抽象的かつ普遍的な性格をも っている。

第 3は,この命題における「共産主義社会」は広義のそれ,すなわちその 1段階としての社会主義をふくむ「共産主義社会」である,ということで ある。マルクスはおなじ『ゴータ綱領批判』のなかで,この命題に先立っ て,「共産主義社会」の二つの発展段階を区別した。すなわち,「いまようや

. . . .  

く資本主義社会から生まれたばかりの共産主義社会」=「長い生みの苦しみの のち資本主義社会から生まれたばかりの共産主義社会の第1段階」と「それ

. . . .  

自身の土台の上に発展した共産主義社会」=「共産主義社会のより高度な段 階」との区別(同上, pp.19 21)である。 マルクスはそのさい, 「共産主 義社会」(広義)を「生産手段の共有を士台とする協同組合社会」(同上, p.

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19)として,すなわち無階級社会として特徴づけている。すでにみたよう に,社会構成体としての「共産主義社会」への移行が問題とされており,し かもその「共産主義社会」が第1段階である社会主義(われわれはレーニン にしたがってそう理解する一後述)をふくんでいるかぎり,マルクスの命題 における「革命的転化の時期」=「政治上の過渡期」とは,内容的にいって,

. . . .  

資本主義から社会主義への過渡期にほかならない。マルクスの過渡期にかん する命題と共産主義社会の二つの発展段階にかんする命題とは,このように 統一的に理解されるし,理解されねばならない。

4は,この命題でいう「革命的転化の時期」,

.

これに照応する「政治上

. . . . . . . . . . .  

の過渡期」,および「この時期の国家」である「プロレタリアートの革命的 紐威」は,なぜ必然的であるか,ということである。それはすでに『共産党 宣言』に述べられている。 「本来の意味の政治権力は,他の階級を抑圧する ための一階級の組織された強力(ゲヴァルト)である。プロレクリアート は,プルジョアジーにたいする闘争のなかで必然的に結合して階級をつく り,革命をつうじてみずから支配階級となり,そして支配階級として古い生 産諸関係を強力的に廃止するとしても,他方では,彼らは,この古い生産諸 関係とともに階級対立の存立条件,階級一般の存立条件を廃止し,それによ ってまた階級としての自分自身の支配をも廃止する」 (『全集』④ p.495) また,マルクスは,バクーニンに反論して「プロレタリアートを支配階級の 地位に高めること」(同上, p.494)の意味を説明したさい, 「プロレタリア ートが政府権力をにぎっても,彼らの敵と古い社会組織はまだ消滅していな ぃ」こと,および、「階級闘争と諸階級の存在との基底をなしている経済的諸 条件がまだ消滅していない」ことを指摘している(『全集』⑱ p.641)。なお

「階級差異一般の廃止に,階級差異の基礎であるいっさいの生産関係の廃止 に,これらの生産関係に照応するいっさいの社会関係の廃止に,そしてこれ らの社会関係から生じるいっさいの観念の変革に到達するための必然的な過

. . . . .  

渡点としてのプロレタリアートの「階級的独裁」(『全集』⑦ p.86)というマ ルクスの命題は問知のところである。これらはすべて,プロレタリア社会主

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義革命の特質にかかわる。すなわち,プロレクリアートは国家権力を掌握す ることによってのみ古い生産諸関係の廃止と新しい生産諸関係の創出とにと りかかることができるということ,またプロレタリアートがめざすのはあら ゆる階級対立・差異の廃止であり「本来の意味の政治権力」を不必要にする ことであるということ,である。これらの課題の解決にとっては,プロレク リアートによる国家権力の掌握はただ出発点にすぎず,階級闘争の継続と一 定の歴史的期間とによってのみ解決されうる,ということはあきらかであ る。マルクスの過渡期とは,古い生産関係・社会関係・観念形態の現実的残

. . .  

存を前提としつつも,新しい生産関係・社会関係・観念形態の創出およぴ確 立によってそれらを最終的に消減させる過程が進行する歴史的時期であり,

階級対立・差異の硯実的残存を前提としつつもそれを廃止していく過程であ り,なおー階級が他の階級を抑圧するための政治権力の存在が硯実に必要で あることを前提としつつもそれをしだいに不必要にしていく過程である。そ のような過渡期およびその時期のプロレクリアート独裁の国家が,共産主義 社会およびそこでの「国家制度」のなかに含まれないことは明確であり,前 者のあとに後者がやってくるのである。マルクスにあって「共産主義社会」

とは,その第1段階をふくめて無階級社会であり,「本来の意味の政治権力」

が存在しない社会である。そして, 「プロレクリアートの独裁…•••そのもの は,いっさいの階級の廃絶と無階級社会とにいたる過渡をなすにすぎない」

(『マル・エン選集』第5巻,大月書店, p.488)。 ここでも, マルクスの 過渡期は資本主義から社会主義への過渡期にほかならない。

2.  「マルクス的過渡期」論の問題点

では,斉藤氏らが主張する「マルクス的過渡期」とはどのようなものか。

それには三つの要点がある。一つは, 「一国的過渡期」でなくて「世界史的 過渡期」であるとする点であり,二つは,資本主義から社会主義への過渡期 でなくて資本主義から共産主義(狭義)への過渡期である,すなわち,社会 主義が過渡期であるとする点であり,三つは,プロレクリアート独裁は共産

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主義社会の第1段階である社会主義の国家であるとする点である。一見して わかるように,このような新しい見解は,すでに述べたわれわれの見解と正 面から衝突する。よりくわしくこれらの論点を検討しよう。

1の点について,斉藤氏は, 「マルクスもエンゲルスも,全世界的な規 模での資本主義から全世界的な規模での共産主義への移行を問題にしていた のであって,一国あるいは数力国の規模での部分的地域的移行の可能性は最 初から排除していた」と述べている (OJp. 116,  122)。門脇氏も 「マルク スは全世界的な規模での,あるいはすくなくともすべての文明国……におけ る同時的革命によって,この移行がなしとげられると考えていた」と述べ CC4J p.24),佐藤氏も同様の見解を述べながらもいっそう断定的につぎのよ うに主張している_「マルクスにおける資本主義から共産主義への過渡期 というのは,いわば『世界史的』あるいは『普逼的』過渡期であって,その ままの形で個々の国に『一国的』に適用できるものではない。……したがっ て『ゴータ綱領批判』でいう共産主義の『第

. . . . . . . . . . .  

1段階』(社会主義) とは, ルクスが想定した世界共産主義の第1段階のことであり,そのようにとらえ たばあいのみ完全な妥当性をもつものと理解すべきであろう」 (C6J p.9) 要するに,マルクス,エンゲルスは世界革命を構想したのであるからその過 渡期も「世界史的」過渡期だ,というわけである。

このような見解には賛成できない。まず,前述したような抽象的・一般的 性格をもった過渡期の本質にかんする命題を,ーカ国(あるいは数力国)革 命か世界同時革命かという社会主義革命の具体的形態の視点から解釈しよう

とする点に,そもそもの誤りがある。すでにみたように,マルクスの命題 1カ国(あるいは数力国)革命にも世界同時革命にも当てはまるもので あって,後者だけに, しかも文字通りの「世界同時革命」にだけに妥当する とするいかなる論拠もない。その意味はこうである。資本主義社会はそれぞ れの国でブルジョア国家によって総括されている。資本主義社会で「世界」

プルジョア国家なるものは存在しないし,存在しえない。プロレタリアート の階級闘争は,したがって政治権力をめざす闘争も,直接的にはそれぞれの

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168 (356) 

民族国家(あるいは多民族国家)の枠内でおこなわれるのであり,その闘争 の勝利の結果として生みだされるプロレクリアート独裁の国家もなお民族国 家(あるいは多民族国家)でないわけにはいかない。 「世界」プルジョア国 家なるものが存在しえないのと同様に, 「世界」プロレタリアート独裁国家 なるものも存在しえない。もともとプロレクリア社会主義革命は,それぞれ の国の相対的に独立したプロレクリアートの歴史的事業であり,世界革命と いえども,その一定の「積み重なり」にほかならないのである。 「全世界的 な規模」あるいは「世界史的規模」での体制間移行といえども,実際には必 ず「一国的規模」での移行を前提としているのである。だから,どうしても 移行形態的観点から過渡期の本質を理解しなければ気がすまないとすれば,

それを「世界史的」過渡期と読み込むよりは「一国的」過渡期と読み込む方 が,誤りははるかに少ない,といわねばならない。

マルクスの過渡期がもし世界同時革命を不可欠の前提として想定した「世 界史的」過渡期である以外でないとするならば,世界同時革命は実現しなか ったとはいえ現実に進行しつつある世界革命過程(「ーカ国」革命の「積み 重なり」としてのそれ)の本質の解明にはまったく無力な命題にそれはされ てしまう。そしてこのような結論はあまりにもばかげている。

2の点について,斉藤氏は, 「マルクスは,共産主義の第1段階への到 達は特別の過渡期を必要とせずに可能であるとみなしていた」と述べ (C1 pp.116117),また, 「全世界的な規模での資本主義の成熟が必然的にその 否定をもたらすという事態を想定していたマルクス,エンゲルスにおいて は,『資本主義的私有の最後』, 『収奪者の収奪』が資本主義から共産主義へ の過渡期の論理的出発点となるのは当然だった」と述べている (OJpp.119,  122,  124)。門脇氏も,「マルクスのいう過渡期とは,資本主義から『共産主 義のより高度の段階』への過渡期のことだと理解するのが正しい」として,

その理由を「マルクスにあっては,そのような世界革命のための物質的=技 術的前提,主体的=文化的=組織的前提の完全な成熟が自明の理とされてい たこと」にもとめている ((4Jp.24,  (3J p.206)。佐藤氏もまた, 「マルク

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スにあっては,過渡期は事実上,第1段階(社会主義)と同義のものとして とらえられていたと解すべきであろう」と述べている 6pp.910,  11,  15)。 要するに,世界的規模の資本主義のもとで社会主義革命のための物質 的およぴ主体的前提の完全な成熟がマルクスにあっては想定されているがた めに,資本主義社会に直接踵を接して「共産主義社会」がつづくのであり,

したがって, 「マルクス的過渡期」とは共産主義社会の第1段階すなわち社 会主義にほかならない,というわけである。

このような新しい見解には同意できない。

まず,ここでも,マルクスの過渡期論の抽象的性格が無視され,あたかも 最高度に発展し成熟しきった具体的な資本主義社会にのみこの命題が妥当す るものであるかのように理解されている。これ以外の資本主義社会には「マ ルクス的過渡期」は妥当しない,ということになってしまっている。このよ うな理解が誤っていることは,もはやいうまでもなかろう。 また, 「全世界 的な規模での」そのような「資本主義の成熟」をマルクスが実際に想定して いたなどとは倒底考えられない。それだけではない。たとえ資本主義社会が 完全に成熟していたとしても, 「資本主義社会」から「共産主義社会」(広 義)への過渡期が避けられない,とするのがマルクスの立場であった。それ が社会主義革命の特質に起因するものであることは,すでにみたとおりであ る。この点で,新しい見解の提唱者たちは,意識するとしないとにかかわら ず,社会主義革命の特質を軽視し,プルジョアジーの反抗を軽視し,社会主 義革命の遂行が困難かつ複雑な事業であることを軽視している,といわざる をえない。 「資本主義的発展の度合に大小の差がある」としても「資本主義 社会」一般にとって「共産主義社会」 (その第1段階)への「革命的転化の 時期」が避けられない,というのが,マルクスの立場なのである。「『共産主 義の第1段階』は,政治的にはプロレタリアートの独裁の樹立を出発点と し,経済的には生産手段の共同所有(国家的所有)を出発点とする」 (C1]  p.119)のではない。マルクスにあっては,「共産主義社会の第1段階」は,

政治・社会的にはプロレタリアート独裁の基本的消減をもたらす根本的な階

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級対立・差異の消滅を出発点とし,経済的には生産手段の社会的所有の確立

. . . . .  

しかも厳密にいうならば「社会主義的生産の歴史的前提としての社会的所

. . . . . . . . . . . . .  

有」の確立にとどまらず「社会主義的再生産過程の結果としての……社会的

※ 

所有」の確立を出発点とし,さらに思想的には科学的社会主義の基本的勝利 を出発点とするのである。この意味で,マルクスが述べた「革命的転化の時 期」と「共産主義社会の第1段階」 (=社会主義)とは一致するはずがない のである。

3の点について,斉藤氏は, 「生産手段の所有形態は,プロレクリア革 命によって急速に私的所有から共同所有に転化し」ていることを前提とし 「生産力の発展のためには生産関係の強行的変革が必要であり,それを 保障するものとしてのプロレクリアートの独裁が必要である」,と述べてい ((1)p.117)。 門脇氏にも同様の叙述がある ((4) p. 24,  (3) p. 192) 要するに,すでに社会的所有が確立しているもとで「生産関係の根本的変革 を実際に保障するものとしてのプロレクリアートの独裁」 ((1)p.118) もともと「共産主義社会の第1段階」 (=社会主義)の国家として必然的で ある,というのである。

この点についてもわれわれは同意できない。

このような見解は,プロレタリアート独裁のもっとも主要な政治的任務

_プロレタリアートによるプルジョアジーの抑圧ーーを事実上無視し,「生 産関係の根本的変革」という経済的任務に一面的にその任務をわい小化して

. . .  

とらえ,しかも,その経済的任務さえも,すでに「社会主義的生産の前提条 件としての社会的所有」が確立しているもとで生産力をいっそう発展させる ための社会主義的生産関係の改善にさらにわい小化している。ところが,マ

. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .  

ルクスにあっては, 「プロレクリアートを支配階級の地位に高めること」す なわち「プロレクリアートの革命的独裁」は, 「他の諸階級,とくに資本家

*このような概念については, ≪KypcIIOJIHTecKOA9KOHOM皿≫,T.  II,  1974, l13JI.. 

3KOHOMHKa,  crp. 83 89(, 「社会主義経済学」上巻,協同産業出版部, 1975 pp.183199)をみられたいe

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階級がなお存在するかぎり,プロレクリアートが資本家階級とたたかうかぎ

  . .

り……,プロレクリアートは暴力手段を用い,したがって政府手段を用いな ければならない,ということを意味する。プロレクリアート自身がまだ一階 級であり,階級闘争と諸階級の存在との基底をなしている経済的諸条件がま だ消減していないとすれば,それらは暴力をもって排除または改造されなけ ればならず,その改造過程は暴力をもって促進されなければならない」(『全 集』⑱ p.641)のである。新しい見解がマルクスの思想を乱暴にゆがめてい

. . . . . . . . . . . . . .  

ることはもはやあきらかである。 「プロレクリアートの革命的独裁」はやは り「資本主義社会」から「共産主義社会の第1段階」 (=社会主義)への過 渡期の国家なのである。マルクスにあっては「共産主義社会の第1段階」

(=社会主義)では,「公的権力はその政治的性格を失う」(同上,④ p.495)  のである。マルクスにあっては,ことの性質上,資本主義から社会主義への 過渡期とプロレタリアート独裁の時期とは,完全に照応している。新しい見 解におけるようなマルクス誤解は,客観的には,プロレタリアートが国家権 力を掌握したあとの階級闘争継続の意義を軽視するものにほかならない。

こうしてわれわれは,新説のような「マルクス的過渡期」論に組みするこ とはできない。

レ ー ニ ン の 過 渡 期 論

1.  『国家と革命』(「10月」以前)

レーニンの過渡期論は, 10月革命の前後を分けて考察すべきであろう。 10 月革命以前のそれは,『国家と革命』 (19178 9月執筆)第5章に代表さ れる。まず,この第5章を中心に, 10月革命以前のレーニンの過渡期論を検 討しよう。 (以下での『国家と革命』からの引用およぴページ数は,国民文 庫版による。)

5章「国家死減の経済的基礎」は, 「国家が死減するさいの政治と経済 との関係」を「主題」とするものであって (p.82), この主題がすべての節

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を貫いている。われわれのみるところ,その第1節「マルクスの問題提起」

はいわば序論であり,第 2節「資本主義から共産主義への移行」は主として 資本主義社会から共産主義社会への過渡期を論じており,第3節「共産主義 社会の第1段階」および第4節「共産主義社会の高い段階」はそれぞれの標 題を論じているが,第 4節は標題の展開にとどまらず第 5章全体を総括する 部分をもふくんでいる。各節の主要内容および節のつながりをあきらかにし

よう。

1節「マルクスの問題提起」の結論は,マルクスの「発展理論」が「資 本主義から共産主義への移行の特殊な時期が,歴史上うたがいもなく存在す るにちがいない」ことを「正確に立証」している (p.109), と す る 点 に あ る。われわれにとっての関心事は,ここでの「共産主義」が広狭のいずれで あるか,ということである。だが,このことはしばらくおいて,つぎにすす もう。

2節「資本主義から共産主義への移行」は,マルクスの過渡期命題の引 用から始まっている。レーニンはここで,プロレタリアート独裁の本質を,

「独裁と民主主義との関係」の側面およぴ「国家の死減」の側面との二つの 側面からあきらかにしている。すなわち, 「資本主義社会」における「富者 だけのための,少数者だけのための,切りちぢめられた,片輪な,にせもの の,民主主義」ー~「プロレクリアートの独裁,すなわち共産主義への過渡 期」のもとでの, 「少数者,搾取者にたいする必要不可欠な抑圧」とならぶ

「人民のための,多数者のための民主主義」~「共産主義」のもとでの

「ほんとうに完全な民主主義」およびその民主主義の「死減」 (pp.110  115)  が第1の側面であり,資本主義のもとでの「本来の意味の国家」(=「少数者 が多数者を抑圧まるための特殊な機構」) ~「資本主義から共産主義へ移 行するさい」の「すでに本来の意味の国家ではない」プロレクリアート独裁

(=「多数者である被搾取者が少数者である搾取者にくわえる抑圧……のため の……特殊な機構」およびそれと「両立する」ところの「抑圧のための特殊 な機構の必要が消減しはじめるほど圧倒的な,住民の多数への民主主義の拡

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大」)~「抑圧すべき相手がだれもいない」「共産主義」のもとでの国家の

「死滅」の完了 (pp.115  116),が第2の側面である。レーニンは『国家論 ノート』においてもおなじように問題をあつかっている(村田陽一訳,大月 書店, pp.34 35)

この節でも「共産主義」が広狭のいずれであるかが問題である。われわれ の見解によれば,ここでの「共産主義」は広義のそれである。すなわち「社 会主義」をふくむ「共産主義」である。なぜか。まず第1に,この節でレー ニンは「共産主義」のもとでの国家と民主主義の「死滅」過程の完了につい

. . .  

て述べたあとで,最後に,次節への橋渡しとして, 「マルクスは……この将 来にかんして現在規定できること,すなわち,共産主義社会の低い段階(階 段,時期)と高い段階との区別を,より詳しく規定している」 (p.116),  と 述べている。第2, レーニンは第5章以外のところでも「資本主義から共 産主義への移行の時期, プルジョアジーを打倒し,彼らを完全に絶減する時 期……は,不可避的に,未曽有に激しい階級闘争の時期であり,階級闘争が 未曽有に鋭いかたちをとる時期である」こと,およびこの「資本主義と『無

. . . . .  

階級社会』, 共産主義とをへだてる歴史的時期全体」になお「一階級の独裁」

. . . . . . . . . . .  

すなわち「プロレタリアートの独裁」が必要である,と論じている (pp. 48  49およびpp.36 39)が,これと内容的にまったく同一の議論を, レーニ ンは, 『国家と革命』以前の著作でしばしば「資本主義から社会主義への過 渡期」とそこでのプロレクリアート独裁の必要性として展開しているのであ る(『全集』邦訳,大月書店, p.309,  pp. 18,  70,  71,  177,⑳ pp.  33,  52,  7071,  107,  136,  248,  496)。 この節のレーニンの議論のなかに

, レーニンがマルクスの過渡期を資本主義から共産主義(狭義)への過渡 期と解したり,社会主義こそが過渡期であると解したりしている,とするい かなる論拠も含まれていない。そしてこのことは,次節以下においてさらに 明らかになる。

3節「共産主義社会の第1段階」では,共産主義社会の二つの発展段階 の区別にかんするマルクスの叙述を引用したあと,マルクスのいう「共産主

(15)

義社会の第1段階」とは「ふつう社会主義とよばれている」ものであると述 ベ,この段階のもっとも重要な特徴をなす「ブ)レジョア的権利」について詳 細な説明がおこなわれている。そして,レーニンによれば,この「プルジョ ア的権利」が存在するかぎりは「国家の必要はなおのこっている」 (p.120)

「資本家はもはやいない,階級はすでになくなっている,したがってまた,

. . . . . . . . .  

どんな階級にせよ階級を抑圧することはできないというかぎりでは,国家は 死滅する。/しかし,国家はまだ完全に死滅したのではない。なぜなら,事 実上の不乎等を是認する『プルジョア的権利が依然として保護されているか らである。国家が完全に死滅するためには,完全な共産主義が必要である」

(pp. 120121)。これがこの節の結論であり, 次節への橋渡しともなってい

本節で注目に値することは,「共産主義社会の第1段階」(=社会主義)の もとでいかなる階級対立・闘争の残存も,したがってプロレタリアート独裁 の存在も予定されていない,ということである。 「ブルジョア的権利」とい えどもブルジョアジーの完全消滅を前提とした概念である。また,その「プ ルジョア的権利」が存在するがためになお必要な「国家」もまた,ブルジョ アジーの残存を予定していない。そのような「国家」はプロレタリアート独 裁とは範疇的にまったく別物なのである。資本主義から社会主義への過渡期 のプロレタリアート独裁の物質的基礎は「階級闘争と諸階級の存在との基底 をなしている経済的諸条件」(マルクスー前出)の残存であるのにたいして,

社会主義の「国家」の物質的基礎は,階級(対立)の消滅ののちにもなお残 存する「プルジョア的権利」なのである。レーニンが,マルクスにおける

「長い生みの苦しみ」と「共産主義社会の第1段階」とを明確に区別し,前 者のみを過渡期としてとらえたことは『国家論ノート』からも知られる(前 掲書 pp.36,  104)

4節「共産主義社会の高い段階」は内容的に二つの部分からなってい

1の部分では,レーニンは標題に即してマルクスを引用しつつ, 「国家

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の完全な死減の経済的基礎は,精神労働と肉体労働との対立が消滅するほど に……共産主義が高度の発展をとげることである」ことをあきらかにしてい

. . . .  

(pp.121123)。この部分は, 「共産主義の高い段階」そのものの特徴づ けにあてられている。

2の部分では, レーニンは,かなりの程度来たるべきロシア革命を念頭 におきつつ,一定の側面から第5章全体の総括を試みている。しかもこの部 分はさらに二つの小部分からなる。

最初の小部分でレーニンは, 「共産主義の『高い』段階がやってくるまで

. . . . . . . . . . . . .  

は,……労働の基準と消費の基準にたいする,社会と国家のきわめて厳重な 統制」が必要であるが,それは「資本家の収奪,資本家にたいする労働者の

. . . . . . .  

統制から始められ,……武装した労働者の国家(すなわちプロレタリアート 独裁ー引用者)によっておこなわれ」 (p.123), しかも「共産主義社会の第 1段階」である社会主義でも, 「ブルジョア的権利」が存在するために「プ ルジョア国家」によるそのような「統制」は必要であり,したがってそこで

. . . .  

はまだ「民主主義は形式的な平等を意味するにすぎない」, ということをあ きらかにしている (pp.125  127)。この小部分では,以上のことを説明する ために,「社会主義と共産主義との科学上の差異の問題」をとりあげ,「ふつ う社会主義とよばれているものを,マ)レクスは共産主義社会の『第1』段階

あるいは,低い段階とよんだ。生産手段が共有財産になるのであるから,こ

 

れが完全な共産主義でないことを忘れなければ,『共産主義』という言葉は,

このばあいにも使ってさしつかえない」と述べるとともに,両者の差異の本 質を「共産主義の経済的成熟の諸段階」にもとめている (pp.124  125)。ま 「社会主義をなにかある死んだ,硬化した,一度与えられたらそれきり のものと考える」ことは「際限もなく誤っている」 (p.126), という重要な 指摘もある。

つぎの小部分では, レーニンは, 「共産主義社会の第1段階を『軌道にの

. . . .  

せる』ために,これを正しく機能させるために必要とされる主要なものであ

. . .  

「計算と統制」について,まず資本主義の発展がそのための「経済的前

(17)

176 (364)  「マルクス的過渡期」・「レーニン的過渡期」論批判(長砂)

提条件」をつくりだしていること,したがって国家権力を掌握したプロレク リアートはただちに計算と統制にとりかかることができること,そのような 統制はしだいに「真に普逼的・一般的・全人民的なもの」となっていくこ と,同時にそれは国家と民主主義の死滅過程につながること,共産主義社会 の高い段階でそれが完成すること,を論じている。

要するに,この第 2の部分は,全体として,計算と統制というさしせまっ た実践的課題が, 「共産主義社会の裔い段階」がやってくるまでは,資本主 義社会から共産主義社会の第1段階(=社会主義)への過渡期においても共 産主義社会の第1段階(=社会主義)そのものにおいても共通して必然的に 存在する,という具体的問題をとりあげて,第5章を総括したものである。

ここでは確かに,資本主義から社会主義への過渡期と社会主義とが共産主義 にくらべてもっている同質性と連続性が前面に押しだされている。しかし,

このことは, レーニンが過渡期と社会主義とを区別せずに両者を同一のもの とみなした,ということではない。過渡期と社会主義とが共産主義にくらベ て有している同質性と連続性については,過渡期のプロレクリアート独裁に おける「多数者のための民主主義」と社会主義のもとでの「プルジョアジ一 がいない」「プルジョア国家」における「完全な民主主義」,という民主主義 の発展についてもみられるのであり,両者がともに一一程度の差こそあれ ー「死減しつつある国家」・「もはや本来の意味の国家ではない国家」 (p. 

129)である点にもみられるのであって,計算と統制についてだけ奇異なこ とではないのである。

こうしてわれわれは,レーニンが第1節末尾に述べた「資本主義から共産 主義への移行の特殊な段階,あるいは特殊な時期」 (p.109)とは, 「資本主 義から社会主義への過渡期」にほかならない,と結論することができる。

2.  10月 」 以 後

10月革命以後のレーニンの過渡期論の展開過程を詳細に跡づけようと思え 1) 191710月から1918年前半, 2) 1918年後半から1921年春, 3) 19 

(18)

  21年春以降,という段階区分が必要である。しかし,ここでは,このことを 念頭におきつつも,これらの全段階を通じてレーニンがどのように首尾一貰 した過渡期論を展開し,マルクスの過渡期論をさらに発展させたか,に焦点 を合わせることにしよう。

1に,レーニンは, 10月革命によってロシアが「資本主義から社会主義 への過渡期」に入ったことをくりかえし述べている(⑳ p.473,  pp. 129 

131,  247, p.122, p. 29, p.18,ほか)。

2 レーニンは, ソヴェト政権がロシアにおけるプロレタリアート独 裁の「形態」である,と述べている(⑳ p.388, pp. 153,  267  268,⑳  p. 65, p. 91,  580,ほか)。

3に,レーニンは,「資本主義から社会主義への過渡期」およびプロレタ リアート独裁の多様性を認めるとともに, ロシアにおける過渡期の特殊性を 強烈に意識していた(⑳ p.465, p. 131, pp. 211,  209211,  271   272, pp. 173174, p. 95, p. 29,⑫ pp. 226,  246,  377,な お ⑳ p. 71, p.445,もみよ)。そのさい, ロシア的特殊性は,優勢な小ブルジ ョア的・農民的要素の存在,労働者階級の「脱階級化」状態,機械制大工業 の不十分な発展,低い文化水準,旧搾取階級の激しい反革命志向・行動,

国社会主義革命・建設という国際的条件,などに規定されていることを,レ ーニンはあきらかにしている。

4に,レーニンは,過渡期経済の特徴を多ウクラード状態にもとめ,過 渡期の基本的諸勢力もそこから説明した(@pp. 338339, pp. 9596, 

pp. 355356)。周知のように, レーニンはロシアの場合五つのウクラー ドをみいだし,「国家資本主義」の意義を重視したが,「どの資本主義国」の 過渡期にとっても,資本主義,小商品生産,共産主義(=社会主義)の三つ のウクラード,および,ブルジョアジー,小ブルジョアジー(とくに農民),

プロレタリアートの三つの階紋・勢力が基本的に固有であることを強調した

p.95)

5 レーニンは, 「資本主義から社会主義への過渡期」はかならずは

(19)

178  (366)  「マルクス的過渡期」・「レーニン的過渡期」論批判(長砂)

げしい階級闘争の時期であり,その解決には長期間が必要であり,そのため にプロレタリアートにはプロレタリアート独裁が不可欠であることを,終始 一貫して強調している(⑳ pp.411,  481, pp. 320,  444, 479,pp. 91,  268269,  496 497,⑳ pp. 91,  354,  382,  391392,  423428,  523, ⑳   pp. 94,  102  103,  534, pp. 8,  395,ほか)。代表的な文章を,いくつか 引用しておこう。 「われわれは,社会主義を『導入』することはできないこ と,社会主義は,もっとも緊張した,もっとも尖鋭な,狂暴なまでに,死に ものぐるいであるまでに尖鋭な階級闘争と内乱の過程で成長するものだとい うこと,資本主義と社会主義のあいだには, 『生みの苦しみ』の長い時期が あり,……プ)レジョア社会から社会主義社会への過渡期には,特殊な国家・・・

…すなわちフ゜ロレクリアートの独裁が照応しているということを,つねに知 っていたし,そう言ってきたし,また,そうくりかえしてきたのである」(⑳ p.441 091712月])。「プロレタリアートの目的は,社会主義をつくりだ し,社会の階級分裂をなくし,社会のすべての成員を勤労者に変え,人間に よる人間のあらゆる搾取の基盤をとりのぞくことです。この目的は,一挙に 実硯することはできません。それには,資本主義から社会主義へのかなり長 い過渡期が必要です。それは,生産を組織がえすることが困難な仕事だから でもあり,生活のすべての分野における根本的な転換のためには時間が必要 だからでもあり,また,小プルジョア的およびブルジョア的な経営方法に慣 れた習慣の大きな力は,長期の,ねばり強い闘争を通じて,はじめて克服で きるからでもあります。だから,マルクスは,資本主義から社会主義への過 渡 期 と し て , プ ロ レ タ リ ア ー ト の 独 裁 の 一 時 期 が あ る , と 述 べ て い る の で す」(⑳pp.391392 09195月])。「資本主義と共産主義のあいだに一定 の過渡期があることは,理論上疑いをいれない。この過渡期は,この二つの 社会経済制度の特徴または特性を一つに結合したものとならざるをえない。

この過渡期は,死滅しつつある資本主義と生まれでようとする共産主義との 闘争,言いかえれば,打ちゃぶられたが絶滅されていない資本主義と,生ま れはしたがまだまった<弱い共産主義との闘争の時期とならざるをえない」

参照

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