• 検索結果がありません。

一家の譜義 二家の本義

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "一家の譜義 二家の本義"

Copied!
32
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)
(2)

第繍はしがき 第ご家の概念  一家の譜義  二家の本義 第三家の喪徴  ﹂氏  二族  

 三家   紋馳 第四家の存績  一系譜の保護  ご祭麗の奉仕 第五崇瓢と家  一祭麗の起源  二家名の尊重 第六む す び

(3)

第顯 は し が き

 明治維新農繁︑西洋文化の輸入によって︑あらゆる事物に非常な憂革を來たし︑目浅ましい獲展をなしたこ

とは驚異に値する︑鞭近に至り︑思想︑政治︑経濟の各生活の形式が一大躍進を途げた爲に︑更に就會事象に

柔して︑根本的の動掘を持ち來たしつ玉あることは︑否むことの出來ない事實である︑余がこ玉に取扱はんと

する﹁家﹂なる観念についても亦この例に漏れない︒

 我が貸家就會を紐織する特色ある﹁家﹂に封ずる槻念の清長は︑將來の嘉言の凡ての生活に至大の影響を持

・つものであるから︑就禽講者︑経濟墨者︑倫理墨者︑法律學者等によって︑既に研究論議せられて居る︒而し

て一部の墨者を除いては︑多く︑家は文明への過渡期に存した家族制度の淺津に外ならぬもので︑漸次進歩し

て行く導管の磯蝦上︑早晩壊滅の蓮を還れぬものである︑と見るのが一般である︒河田嗣郎博士も亦家族制度

崩壊の盛運として︑其原因を家族制度の三大基礎たる婚姻關係︑親子關係︑家族の経濟的基礎に求めて論究せ

られて居る︑勿論國民の自畳︑人格尊重に俘ひ︑個室主義が勃興して︑家と家族との聞に有する紐帯を虐める

こともあらう︒.叉グ獄ツセーの説くが如く︑経濟上の形態は直に家族制度の形態に反映することも否まれぬ︒ゴ

然しながら︑各民族には夫々特有の歴史があり︑多年漏養し獲達して來た風俗習慣があるので︑さう簡箪に崩

壊し去る諜のものではない︒この黙では編田博士の奮著﹁臼本経濟史論﹂にも︑﹁深く社民生活を研究し︑思を

     家に醒する硝考察       五九九

(4)

       宍○○

潜めて是が實惰を繹ぬるものは︑日本國民が経過せる外形上の攣動は固より頗を大なるものありと難も︑之に

厩する各個人は極めて徐々たる翌翌を維過し行くものなるを梅見すべし︑⁝⁝⁝若し縛れ組先崇鐸の念に至り

ては︑維新の啓蒙時代に於て亦動揺を挿せりと難も︑今日術ほ常識を逸せざる日本人の倫理的基礎を.成し︑一

方に於ては逝き古へより痺はり來れる日本特有の家族的精瀞によりて代表せられ︑他方に於ては叉耳鳴的輩位

として家族の存績を援助すしと導べてある︒穗積陳重博士の﹁組先祭祀と日本法律﹂の緒論に﹁歌雑業國では

組先祭祀の習俗は嘗て存在したが早く混滅して仕舞つたのに︑特り我日本にては殆ど一切の文明的施設が確立

したにも拘はらす︑祭祀の俗は今倫ほ倣然として存し︑親署の法律︑習慣の上に偉大なる勢力を及ぼしつ瓦あ

る︑蓋し此習俗は遠く荘遡たる太古よりあり︑建國以降支那文明︑印度交明︑西洋交明の三箇の外國的元素を

輸入し︑我國の法律︑風俗︑習慣に絶大なる影響を及ぼしたが︑廣く且つ深く根ざしを固めた此國民的信念に

博しては︑終に之を防毒することが馬鞭なかった﹂との意味を詳述されて居る︒今是等の諸説に封ずる當否は

暫らく措き︑現在存する﹁家﹂に濁する槻念並にこれに属する制度に關する一面の考察を常識的に述べて見た

いと思ふ︒

第二 家 の 概 念

繍 家 の 語 義

(5)

      む       む ﹁束雅﹂によると﹁家即いへは紅海等の字並に囲む事また同じ︑﹁萬葉集抄にイとは論語の詞也へといふが家に

       ノベノヵミ      ヘ        ナホト てあるなりし︑といひけり︑さらば大戸之邊榊など云ひしその邊といふ詞は家の義にて︑後に戸の字護みてへと

いひしは即事也︑又イへともイハともイホともいふ皆同じ︑叉イ累痩とも云ひし也といふ也﹂とあり︑叉和訓

       イへ      むむ      イへ 葉には﹁イへは五家の義なるべし︑孝徳記に五家相保といへる是なり︑光仁記童諜に﹁國ぞ昌ふる五家らぞさ        へ かふる﹂と見えたりしとある︒何れにしても︑家は戸だといふに過ぎない︒なる事事は家を戸と言って居った

    カマド      へ ので︑今臼竈をヘツヒ或はヘツツヒと呼ぶが︑これは戸の火一家の炊煙を現したものであらう︒申越部曲の戸

激を記すに︑大漁令には浦戸とし︑延喜式には何燗として︑戸の代りに燗の宇を用ひて居る︒然し何故に入の

   ム      む         む 住宅を戸と構したかは矢張明かでない︒松岡翻黒氏の日本古語大僻典には﹁イへのイは接頭語︑へは容器で︑

つまの家は入周を容れる器といふ意味で︑居宅をイへといふやうになったものと思はれる﹂と面白く読いてあ

るが︑果して如何のものであらう︒金澤博士は共著﹁言語の研究と古代の丈化﹂に︑家屋の構造上から短身を

試みてある︒インドゲルマン民族の古代の潜居は穴居叉は牛穴居の歌聖であった︑サンスクリットO跨簿︵家︶

とアヴエス露語○︒器簿︵穴︶とが同一の語源から出てみるのは這般の治息を漏してみるものである︒また一方

では草葺の小屋が嚢達して居ったので︑揖シや語で壁を○嵐似費といひ大工を髭◎9涛μといふのは共に男騨低

即﹁編む﹂といふ語と關係がある︒我が國の古代では≦臼本書記巻第一に︵心墨記︶﹁檜可以爲瑞之材﹂といひ︑・        ◎OQ◎○○○○◎︒○︒○◎蕊○%︒  閣 同書雀第三︵紳武記︶に﹁故古語稔之日影畝傍之橿原也太立宮柱於白鷺根峻縛搏風於高天之原而始駅天下之天        レ一一 一譜  矧嵩  剛      家に愛する耐考察       六〇一

(6)

       六〇二

皇﹂と見えて居るから︑木慧建築のあったことは明であるが︑叉同書同じ巻に︑﹁而申洲地無復風塵誠宜恢廓皇        二    一  下 昌       む む む む 都規墓大鵬而今運属此屯蒙民心朴素集胃薬佳習俗惟常﹂とあるのを見ると︑我が上代にも穴居の俗のあったこ 圃 ゆ    上     瓢    一 とが知られる︒︵飯田武郷氏は書記通繹に皇國上古の入民に凡二種ありて一は神代の始より駆落に自ら生れ着け

るもの︑一は天より降れる榊の子孫の蕃息れるものなり︑是人等の佳虞は多くは家屋に佳したるものなるべれ

ど︑共他に土蜘蛛︑蝦夷の類ありて其等は家作の法も知らす︑た穿雨露を凌がむ爲に山腹を顧て穴居し︑ある

は樹上に集を架して住しものならむとおぼえたり︑こ﹂に直謝穴居と云へるは其等を大凡に云へるなるべしと

読明してあるが︑これは天孫民族を始めから︑開明の域に逡したものと見たる偏見ではあるまいかと︶それは

       アメノイハヤダ  アメノイハクヘフ  アメノノコハヤロ ィハか  イハト  イコハリマ ド 古事記︑日本書記及び萬葉集等を見ると︑天石屋戸︑天之石位︑天石窟︑磐戸︑石戸︑石室戸などの語が諸塵

      イロハスねメノカミ  アメノイハトワクノ        ゥ ヅムロ  ォホムロ  ミムはぴノ に記され︑榊の名にも石集比賢紳︑天石門別紳等があり︑無戸室︑大室︑御窟殿等は何れも穴居若しくは牛穴       イハムラ 居の遺風と見ることは出來まいか◎萬葉集に石村といふ地名がある︑これは石屋の多かったから呼ばれたので

あらう︒叉棺梛の構造は︑家屋と關係するところが多いのであるから︑古代に石棺石榔のあったのも︑岩窟に

佳早した一事となるであらうと︑種々の軍扇を引用されて居る︑東雅に見える通り︑家はイハともイホともイ

        イ ハ    イハムロ バロともいふは皆岩窟又は岩室から出たものと考へられる︑朝鮮で街衡の名に洞︵国︒種︶を用ひ︑小房を穴︒丸きσq

︵房洞︶といふのは古代に洞窟に佳んで居ったからであらう︑これ等から推考して佳宅たる家は岩窟から來た

名を襲用したものではないかと思ふ︒

(7)

 漢宇の家は﹁論文﹂た﹁尽︷獺斑条︑周伯濃日︑雲居之二日家︑故久海駅家︑後入借爲室家之家猫沼本牛屋        レ      レ      レ  レ         ニ      一 三 後入露玉牢獄之掌﹂とあって︑もと豪小屋を家としたのだが︑後世蒋じて人の居宅に用ふるやうになったとい    瓢      回 ふ解羅であるが︑ ﹁六書冒しに﹁叢雲人丁合也︑尽霜︑三人聚肖下︑庸之義也︑脅古族字︑指講爲豪﹂と耀い       レ     レ      レ       圃       レ       瓢 て︑︸象はもと族の義である舌の宇が攣化したものであると論いて居る︑この碁器の方が慮當な考である︑即ち

一族が一宇の下に居る會意の構成法は實に面白い︒

 英語のぎ蕊⑳は︑古代は露︒・中世は簿器といったが︑剛同簿︵小屋︶と語源を同うじて︑ぽ儀p財8乱など關係

があって︑漁れる︑蓄藏︑の如き意味を特つたものであらう︑これは全く建築物を指した竜のである︑ゲ◎ヨ︒は

古くは冨欝中頃ぴ8箆といって︑入の集團の場所であるく難儀①を呼んだものであるが︑現時では神聖なる家

庭の意義に局限せられて居る︑スキート氏も恐らくサンスクリットの野瀬鑓麟︵安全︶騨鑓︵佳む︶等と同系の

ものであらうといふ︒貯鼠ぐはラテン語の貯鼠密︵一家の族員即ち家族たる親子奴僕等をも併草し︑後には家

産をも包含する﹀から來たものである︒

 以上︑語源によって見れば︑何れも往居の場所とか︑建築物等を指して居る︑然し語源は重語の獲生誕時の

極めて原始的な時代の幼稚な概念を髪髭せしめる許ので︑言語の性質上︑時代を追うて攣化する概念の内包をゴ

鑑確に捉へることは出來ぬ︑殊に﹁家﹂の如き抽象観念を持つものにあっては︑時代時代の文化によって洗練

せられて居るから︑︑現在持って居る﹁家﹂の精確なる襯念を語源研究によって知ることは二更不可能であると

     家に醐するM考察       山ハ〇一昌

(8)

六〇四

いはねばならぬ︒故に吾人は更に他の方面から考察する必要がある︒

        二 家 の 本義

 人類の生活上︑夫嬬叉は共血族が互に相槍って一家を零すは︑自然の本性に獲するものであるが︑この血族

事々の構成に二種の形式があり得る︒一は家長即ち戸主を中心として父麗︑子孫並に其配偶者の家族團罷であ

り︑他は夫婦と其保護の下に在る未成年の子との共同生活團膿である︒前者は所謂家族制度の家で︑後者は個

人制度の家ーー家といふよりは家庭一1であるが︑我國の家は勿論前者の意味である︒然し現在法律が認めて

居る家は︑純粋なる家族制度のそれとは除程攣って來て︑馬入劇度の群羊を多分に加味して居るので︑謂は穿

戸主椹と夫構︑親襟とを併用按排してある所の一種特別の組立になって居る︒尤も家の意義に就ては︑共観察

勲の相違により種々離多に解増せらる︑馳愈學上からは入類生活に於ける進化過程の一段階に過ぎぬと見︑政

治又は法律學上からは祉會紐織の一宇位として︑職業も財産も参政も戸主樺によって代表せらるx簾舞軍位と

考へ︑経濟學上では生産團龍とか︑共同溝費機織といふ風に解し︑又這尊上では敵會生活の揺簸にして道徳の

訓練場と見るとか︑生物識では子孫蕃息の巣窟と解するとか︑千差萬別である︒是等を一々槍呈することは容

易の業ではないから︑今は我國罠生活として必要︑歓くべからざる程度に止めて︑先づ肚會通念の表はれた竜の

としての法律上の意義を一瞥して︑後自己の管見を墨げて見よう︒

 1 法律上ゐ家

(9)

 我民法で家と辮するのは有形的の建築物たる家屋を指すものではないからハ佳宅の有無は家の存否と何等の

關係はない︑それが宿無しの乞食であらうが︑木賃宿巡りのルンペンであらうが︑家はある︑叉養育院に牧容

ぜられて居る棄兇も︑立派に家を持って居る︑叉輩なる共同生活を指すのでもない︑故に一家に鵬する各員が       む 必ずしも一つ屋根の下に佳み︑一つ鍋の物の食ふ必要はないf・民法第七百三十三條の﹁子は父の家に入る﹂

の解羅に就て︑大審院判決例に﹁民法第七百三十三條及第八百六十一條に所謂家に入るとは身分の家に入るを

指したるものにして︑髄躯の家屋に入るもの即ち親子の同棲を云ふに志す﹂と述べてある︒是等の黙を考へて

見ると︑法律上の家は書聖古点の家族制度の家と甚だしく志念の相違を來たして居り︑所謂家族制度は既に實

質を離れて形式に傾いて居るので的確なる家の意義を定めることは困難である︑夫れ故に學者により種々の見

解がある︑今之れを一瞥すると

 イ︑戸主の統轄する家族團艦とするもの︵奥田博士︶

  家は團鰹の抽象的なるものであるから︑之を組織する者に攣更があっても︑家に攣更を來さぬ︒而して家

  は戸主の統轄團膿であるが故に︑事滝上家族團艦が存じて居っても直に家を成すものではない︑共家を成

  す詫は必ず戸主がなくてはならぬと同時に家族團膿のない家は存在する由がないと︒

 隷︑其團罷員の一入の法定羅利によりて統轄せらる玉親族團罷︵穗積重遠博士︶

  第一論走同じ趣意であるが︑言葉の用法を学徳にしてある︑家の本態は或範園の親族團罷たることで︑偶

     家に關ゆヲる一考察       山ハ0ツ五

(10)

六〇六

  々輩身戸主の家があっても︑一時的の墾態に過ぎぬと︒

 ハ︑戸主櫻の行はる瓦範園︵牧野博士︑坂本ドクトル︶

  坂本氏は細く︑家は通例戸主と家族とを以て成立するけれど︑戸主があっても家族の無い家があり得る︑

  かの蹴身戸主の場合が挙れである︑之に反して家族があって︑戸主の無い家は存在しない︒此の如き場合

  は所謂絶家に厚して家は消滅する︑故に家の常素ではあるが︑要素ではない︒實に戸主は家の要素として・

  戸主と家乏は離るべからざる親念であると︒

 二︑戸主椹の存在する關係︵島田麟士︶

  戸主襟の存在は家の存在の要件と見て居るので︑其趣旨は前論と同じであるが︑用語を注意して居る︑我

  民法上の家は戸主及家族を以て組織した男工といふこと餌來ぬ︑何となれば︑家は戸主及家族あることを

  本則とするけれども︑而も戸主のみあって家族の無いこともあり︑又戸主が訣けた場合に家督相平人が定

  まらぬ陶は家族のみあって戸主のないこともあり︑叉戸主も家族も無くして︑家のみ侮存在することもあ

  り得ると︒

 省﹁家を以て法人である﹂と解する美濃部建吉博士に饗して︑牧野博士は往古純輝なる家族制の行はれた當

時に在りては一種の法人と認められるが︑今日の民法では家なるもの︑人格を認めない︑公法上に於ても︑將

た私法上に於ても家なるもの㌧悩乱能力砦くは行爲能力を認めた痕跡がない︑故に家は法入ではないと︒又穗

(11)

積博士も同じく法入説を否定して︑寧ろ﹁家﹂と常に必ずし庵合致しない各﹁家庭しを人格なき愈團と観念する

末弘博士の見解に窮みして居る︒其他︑⁝幾多の法聾者が種々の解羅を與へて居るが︑何れも大同小異である︑

之を要約すると

 イ︑家は有形的の建築物を指すのではない︒

 捻︑家は戸主椹によりて統轄せらる玉もの︒

 ハ︑家は戸主と家族とによりて組織せられるQ

といふに齢する︑いかにも現行民法を法丈の上から解慰するとすれば︑まつこんなものとすべきであらう︒

 2 家に封ずる私見

 家の本義に就て︑各專門の學者闇に色々の解翻樺があるやうであるが︑樹ほ論いて誰さ雰るものがあり︑田本

國民が簿統精榊として持つ家の置髄に燭れて居らぬやうに思ふ︒我民族が固有する父覗崇敬の念を基礎とし

で︑何千年來養ぴ來つた家の槻念は︑決してしかく輩純なものではなかった︑唯現在一時的に存在する同一戸・

籍上に列遇せらる㌧横の關係ーー戸主と其家族との汎構⁝i−のみを指したのではない︑否な寧ろ横の關係は一

時的のもので︑根本精神は縦の關係一1組孫一系の信念一fで永遠無窮の存在で︑現存の構成要素たる戸主及

家族は其恒久存在の一蓮鎖に過ぎない︒かくてこそ吾人は父組の聖業︵所謂箕嚢の業務といふが如き特殊のも

         む む む む のを指すのでない︑父組意識とも謂ふべ塗子々孫々の獲展軍手︶を承諾して更に獲憤努力して創造の過程を辿

     家に關すろ一考察       山ハ〇七

(12)

      六〇八

り︑以て一段の進歩をなしつL子孫に引織ぐべき責務がある者と思ふ︒捷く國民としても無心りで︑前代に於

ける裏家の交化を更に増進して︑次代の國民に譲り渡すべき本務がある︑現在の自己の幸編に満足したり︑享

⁝樂生活を夢みるべきではない︑倫理上︑人格主義とか理想主義とかいっても︑そは一種の形式読で︑その内容

として︑この健民精紳を包含して居ないならば︑行爲の標準とすることは出金ぬ︒論者は或はいふであらう︑

何も今更︑文化程度の低かった墨金や家の名を捲ぎ出さなくとも︑進歩した吾々の理想から割り出して自由に

行動すべきだ乏︒然し人聞は左様に圓満無凝のものではない︑これは昔の話であるが︑頼朝の裏組︑源頼信の       けキノ 弟︑頼︑光が命を蒙り︑融き弓に重い要目を番へて狐を射止め︑叡感に預った︑時に頼光は﹁此れは頼光が仕つ

        も へ や へ た箭には候はす︑先組の恥をか瓦せまいとて守護榊が助けて射させ給うたのである﹂と申した︑叉﹁保元物語﹂

      ヘ  ヘ  ヘ  へ  も   や  マ  や に﹁宇島宣ぴけるは︑我れ溝和天皇の後胤として︑八幡太郎の孫なり︑いかでか先組をも失ふべき﹂とある︒

これは何れも租先崇敬︑家名尊重の信念から︑行佳座臥︑筍もしなかったことが知られる︑家名を脊揮うて立

ち︑父組の遺鰐なるを思ふ時︑如何に吾人の行事が共責任と負荷の重きを感じないものがあらう︑かxる意味

合から︑我民族は︑家を以て氏組以來各代の聯難の宿る所として︑子孫がその父組を祭る壇場なりと襯念し三

つたのである︑我國に於て︑政治を﹁祭り事﹂と沸する如く︑各家に於ても︑父租の祭祀は日常生活の重要な .る一部であると考へねばならぬ︑然らざれば軍に家は家族の共伺生活場位に止まり︑極めて掌骨のものとなっ

て仕舞ふ︒唯時勢の進歩により︑就會欺態︑経濟事情か攣化し︑生活が複雑に分化せられて來たから︑氏族時

(13)

代や封建時代の制度及方法を踏襲することは繊來ぬ︑叉すべぎものでもないが︑時代に適心した形式を取っ

て︑共精神を織承し且つ獲揚すべきである︒然るに︑往々﹁家﹂を批評するに︑簸る過去の制度を其儘引用し

で來て︑直に凡ての家族制度の家を非難して︑之を根本的に破壊すべしと読くものがあるが︑思はざるの甚し

きものと言はねばならぬ︑凡て制度は時勢の産物で︑我國の家族制度も古制幾度も攣化し獲窮して來て居る︑

今更︑戸主樺の絶戸を認めたり︑家族の人格を無観したゆすることを主張するものはない︒故に破壌論者の読

くが如く︑族員の磯展を阻擬するとか︑姑嬬衝突の悲劇などを高調することは當らぬ︒

第罠家の表微

 租孫一系であ砂︑又父組の祭壇であると槻念ずる﹁家しには之を表徴する厳命がなければならぬ︑即ち氏︑

族稔及家紋等がそれである︒

        剛 氏

 民法第七百四十六條に﹁戸主及家族即身家ノ氏ヲ稻ス﹂と規定されてある︑乃ち氏は歴更的に家の表微であ

る計のでなく︑法律上の稻呼であって︑家忙氏のないことは認められないことになって居る︑同時に二つの氏

があることも許されない︒

氏は同血族の者を他の血族の者と慨罪する爲に使用する構呼であるが︑其語源に就て︑﹁和訓葉﹂には

     家に關する蝋考察      ゐハ〇九

(14)

       六圃○

 うち︑いつ通す︑出の義成べし︑氏字もと出雲と同字にて︑人の氏をいふに出自といへるも︑解義なり︒

とあり︑﹁古史傳﹂には       ウや  氏を宇遅と訓むは︑内ともと同語なり︑語の溝濁に拘はるべからす︑故氏神と云は︑内神といふ意にて︑内

 に厩たる神のこ蕊うに親しみて云る稻なり︒

    ぶぜダジキ と見え︑﹁玉手搬しにも        む  氏と内と黒黒のかはり有るに疑あるぺけれど︑伊勢の内宮の在る所を宇治といふも︑五十鈴川の川内なる故

 の名なるを看護といふにて知るべし︑然れば氏をうちといふも︑同じ族内なる義より出たる言なり︒

とあ砂︑﹁氏族考﹂には﹁拾芥抄﹂を引用して

 按ふに拾芥抄に氏内也とありて︑一家の戸なる由と聞え︑左野鼠に氏三富とあるにも稻ぴ︑云々︒

       ウミがが      ウミチ とある︒共他︑荒筋の略なりといひ︑或は生血の省略であるといふ人もある︒叉氏譜の朝鮮書にウ晋が添なっ

たものであるといふ論もあるが︑恐らく氏は内から來たものとするのが慮當であらう︒氏の起源に關しては︑

太田亮氏の﹁日本上代に於ける馳脅組織の研究﹂に

 記紀に載する古代の人名は實名のみのものと︑これに命︑彦︑落蓋︑並に他の多くの尊岩美稽を添へた者や

 男女︑長幼の意味を表はす言葉を重ねた者などで︵中略︶

 要するに︑個々の入名に過ぎない︑かやうに名のみを載せて居るのは︑記紀の傳へを心落と見れば︑古い庭

(15)

 に多く︑時代を下るに從って少くなり︑織艘朝以後では特種の人に限られて居る︑即ち極めて高貴の身分を

 有する皇族以外は氏︑姓若くは部名を帯び︑唯蟹夷の人と賎民とだけに︑名ばかりを載せて居る︑其後蹄化

 の人も︑漸次氏及び姓を賜はつて︑大費以後の古筆書は︑唯賎民即ち奴隷の類のみに氏を載せてない︒

 斯様に名のみで氏も姓も見えないのは︑事實氏姓と云ふものがなかった爲だと思はれる︑勿論時には氏姓を

 省略した例もあるから︑其例をこれにも及ぼして︑或分の入に限っては省略だとか︑若くは傳を失ったので

 あるとか云へないでもないが︑全部を覆ふ事は出駕ぬ︑殊に長瀞朝頃までは殆ど名ばか砂であるのだから︑

 何としてもさうは思へぬ︑そこで太古から開化朝影までは未だ氏庵姓竜なかったとする方が慮當である︑け

 れど既に氏や姓の卵とも芽とも見るべき︑氏らしきもの︑姓らしきものはあった︒

之を要するに︑氏は外國の制度を模倣したのでなく︑我が國に自然に起つたものである︑而して氏を有して居

ったものは主として肚會の上流に位した貴族即ち部族の首長等の族類であった︒

氏の名の由來は︑上代にありては

       ナカかミ  晶︑官職によるもの 例へば君と紳との御中を執り持ち申した申臣氏︑紳を祭る種々の物を造る爲に齋み清

        い ギぶへ   つた齋部氏︑和妙衣を織った服部部︑内物部を牽みて殿内を護衛した物部氏等︒

       ムナカダ  ニ︑地名によったもの 例へば胸形︑阿多︑田講︑吉野等の諸氏◎

 三︑組名によったもの 例へば久米氏が天津久米命の後胤である等︒

     家に璽關絶ヲる一﹄考察      ふハ一 回

(16)

      六︼ニ

      ヂにサコベ      サキクサ       サキケサ  四︑物によったもの 雛を誤って嬰兇を聚めた小子部︑宮廷内の渋滞の草を採った三枝部の類︒

      サカは      ハルタ  五︑事功によったもの 國界の標を遣った開合部︑田地を開墾した治田氏等︒

      ヤハギ        ユ ゲ  六︑技藝によったもの 矢を作る矢作︑弓を作る調合︑笠を作る笠縫など︒

 然るに中世以後になると︑種々の因縁によつて作られるやうになった︒入麺から出たものでは刀創鍛冶の本

      む 阿蠣︑猿樂の三世大夫は伊賀の服部一蹴⁝のものなるが︑槻阿彌︑世阿彌の二字を取って観世三十郎と名乗りし       む む より︑氏となる︑近江の浪人︑高三善右衛門は亡父佐々木五郎兵衛高三の名を取った類︑同じ氏が数多くなる

と紛らはしいから官職の一部と氏の一字とを組合はして作ったもの︑例へば藤原利仁は齋宮西に補せられた

ので齋藤と呼び︑景道は加賀介と爲つたにより加藤といひ︑金事は主馬首に進ぜられたので首藤︑爲憲は木工

助の工を取って工藤と名づけた類︑である︒少し攣ったものになると︑一瓶附近に楠木多かったので︑楠木氏        ッ ゲ と呼ぶに至ったのは周知のことであるが︑平宗清の草庵に︑拓植が蕃濁したから其子孫は拓植氏を稽へ︑伊豫

      む   む の河野が一本の柳にかたどって一柳と名づけたこと︑叉︑緒方三郎は生れて身に蛇の尾の形が有ったので尾形

といふ︑豊臣秀吉は微賎の身で氏姓も無かったが大樹の下で生れたから木下と督した類である︒倫︑姓字を裁

      む       む       む       養して︑氏としたものがめる︑宗氏は惟宗姓の下の︼字を取ったもの︑高階氏から高師泰︑高師直が出︑長谷

      む   郎信蓮の子孫が能登に永還して長氏となった︒叉國︑郡︑郷村等の名王を冒したものは頗る多い︑越前の織田

      む      む       む の庄から織田信長の組が出で︑野州是利から尊氏︑伊豆の伊東︑房州の佐久聞から︑夫れ寝れ国名の氏が出て

(17)

      む       む む む 居る︑長曾我氏の租︑元勝が土佐に移り同國長岡郡の曾我部に城を築いたので長曾我部といふ︑同國香美郡に

も曾我部といふ所があって領主を曾我部と申したので︑この方を香曾我部といった︑かやうなことを一々墨け

て行けば数限りもないが︑現在の氏は比較的近代に名づけられたものが多い︑そして其の大部分は佳宅附近の

地形に因んだもので︑川上︑野中︑山下︑田邊等々然りである︑尤も文身は申途で攣化したもの亀ある︑駿河

 キヅカバ の吉河を冒した吉河維義は始め吉香︑木河︑と書いたが子孫に至って吉川とした︑酒井氏も坂井︑酒居と書い

たことがあり︑喜多見氏も始め木田見を用ひ︑また北見とも記した︑片桐も始は片切であったのである︒

 以上は氏の由來を歴史的に通覧したものであるが︑これは多く貴族名門の聞に限られたので﹁皇都午睡﹂の

申にも  御公儀へ差上る諸書付入別帳にも︑何町何兵衛支配借屋何屋何兵衛などと︑上方の如く家號をしるさす︑唯

 何丁何兵衛店何兵衛と計りにて︑筆数の少きを是とす︑苗字を唱ふる町人も多くあれど︑公儀へは通ら・ず︑..

 よくぐ由緒ある愚ならでは苗字を呼ぶことなし︑夫故家名やら苗字やら通名やら分らぬ面白き呼名あり︑

 上方の料理屋の通名の如し︑畢寛は上へ通らぬ事故︑出たらめの付次第なるべし︒

      む む と見える如く︑苗字の公園は一般には許されなかった︒特に功勢のあった庄屋などに節し︑﹁共身一代限苗宇帯

刀被曝御菟﹂の僻令が下った次第であったが︑明治三年九月大政官布告二六五號により﹁自今挙民苗氏被差許候  レ 瓢       瓢  一 事しとなり︑更に明治八年二月布告ニニ號を以て

     家に●關ゆヲる一考察      山ハ︼三

(18)

      六一四

 士民母親被差許候旨明治三年九月布告候虚自今必苗字相盛可牢︑尤組先取來苗字不分明ノ向ハ新二苗字ヲ設      一一   鳳       レ  ケ候檬可致此旨布告候事     レ となって︑今日では氏のない家はないのである︒但し今日用ひつ鼠ある家の氏は必ずしも家組傳來の名稻では

なく︑明治初年任意に選定したもの︑又は戸鰭當局の手に因て勝手庭儘に名づけられたのが多いから︑由緒あ

る家は別とし︑一般では氏が同じであるからとて︑氏租を共有して居る等とは決して言はれない︑そして︑こ

の氏を稗するのは家族の世利なると共に義務である︑何となれば公の藻草に就ては名のみを稻することは許さ

れないからである︒

 西洋でも︑その昔希⁝臓駕ては各人が唯一つの名を有するのみで︑氏といふが如きものはなかった︑羅馬に於

ては意字に當る宏・鑓食草︒鎖・鼠ρ器を用ふる風を生じ︑同族のものは皆同一の氏を冒し︑唯共名を異にするも

のであったさうである︑今臼では︑諸國皆氏と名とを併用して︑子は父の氏を︑妻は夫の氏を唱へることに

なって居る︑支那では男子は勿論女子も婚嫁の後に至っても︑爾漁家の姓を冒す慣例である︑その風習を受け

て︑我國でも明治初年までは婦人は一生實家の氏︑家紋を用ひたものである︑何心ながら︑氏を苗字とも名字

︵名字は名乗りをいふとか︑或は在名をいふとか︑或は姓名を併せ稔へること瓦か種々異読もあれど︑古くよ

り混用して居る︶とも構へる︑﹁貞丈雑記﹂に

 蕾字といふはうち也︑たとへば伊勢︑細川︑畠山などの類也︑苗氏といふ子細は稻萎などの生へ初めの時を

(19)

 苗といふ︑其の如く先租は其家々の苗の如し︑其先租の名乗り始めたる氏なる故︑苗氏と云也︑叉頭注に苗

 氏と嚢宇古代の書には見えす︑申古以來の事事︑先輩の子孫を苗喬と云ふによりて苗氏と云也︒

        二 族    稻

 氏即ち苗字を家の名稻とすれば︑族構は種族の聖帝である︑從前︑族稻と竜族籍と恐云ったが︑戸籍法の制

定によ砂一定の術語となった︑共起源は遽く氏族制度時代の所謂﹁カバネ﹂に由食するものと云へよう︒ ﹁カ

バネ﹂は恐と氏族の格式尊卑を示したもので︑姓︑戸叉は骨の字を充て玉居る︒カバネの語義に就ては︑.賀茂

眞淵は﹁アガメナ﹂︵旧名︶の意である︒

 谷川士清は﹁カバホネ﹂︵皮骨︶の義︑骸磐同じ︒

 瀧澤馬琴は﹁カハラネし︵不易︶の義か︑亦皮骨の義か︑姓氏はなほ綿甲の皮骨の如し鼓々◎       ヵプお  近藤芳樹は﹁カブネし︵主根︶の義︑氏申の宗長たる者がその頭として同族を率ぴて公家に奉仕するよりい

  ふ◎  宮崎道三郎氏は昔朝鮮にては畳字を一種特別の意義即ち族の義に用ふ︑骨は朝鮮書コル図9で︑族といふ意

  味の語キ蜀レー浴窪α凶の三三であらう︒

 等の難読があるが大越︑骨肉即ち山族の義たることは疑ぴない︒其用法はもと族類を示す聖なる構號であっ

      カミ ムラけ カどひイミキ たが︑次第に攣化して門閥地位を表はす臣︑蓮︑首︑忌寸等となり︑幾度か制度の改攣があり︑終に階級的の

     家に蘭馴する嗣考露伸       山繭幅五

(20)

      六一六

ものとなって︑尊卑高下の旺別を生じ︑官職に就く分限も定まり︑因襲俗を成したが︑後世︑氏と職とが相離

れるやうになっても︑術尊墨として用ひられた︒然し就會組織の攣化に俘ひ︑次第に其制度竜弛み︑或は修姓

或は講姓の家も少くはなかった︒この﹁カバネしを有するのも︑昔は貴族︑名家に限り︑庶民は無姓で︑農︑

工︑商︑薇多︑非入等と呼ばれた︑明治の初に至り︑公卿及諸侯は華族︵花族︑清華︑英雄等蔑するは公卿に

限られて居った︶︑大夫︑士卒︑郷士等は士族︑農工商以下︑平民と分たれた︑この中︑華族と士族とは一種の

榮典であって︑難聴の禮遇を受くるものである︑随って其身面を汚辱する場合には︑其族稻を除かれるが︑平

民といふ族稔は別に韓貴の名稻でないから︑刑罰に馴れても︑之を奪はれることはない︒

        欝家     紋

 家の表徴に言語︑文字を以てするのが氏で︑総書︑一様を以てするので家紋である︑紋章に就てい法律上何

等の規定はない︑興趣極的に︑明治元年三月︑菊花紋の使用を禁ぜられて居る︑菊花御紋章は未だ由來を審に

しないが︑中古以前には見奉りしことはない︑﹁賜倉考﹂に或論に承平五年に菊花の御宴がありて︑特にこの花

を賞せられて︑朝家の花となったとあれど疑はしい︑菊は﹁爾饗しにも博公︑延年と名づけ︑古製紳仙の花と

言ひ傳へて居る︑太上天皇の着御し給ふ赤色の御里に箕の内に菊唐草八葉菊を古くより召されて居る︑押後鳥

朋院が劒をお作りになった時︑親ら菊花を刻まれ︑其後御在位の時も︑猫菊を標とし給うたことが見えて居る︒

﹁宮川日認﹂には﹁紳宮の御装束は古例のま玉菊の文なり︑朝家菊を用ひ給ふは︑是れに擦るべし﹂といひ︑

(21)

又滋賀宮羅文直宮の露頭瓦に︑皆菊花を用ぴてある由賂あるが判明しない︒徳川時代以前は大抵輩辮であった

が︑漸次複辮を用ひられ︑大正十五年に十六葉の複辮を御用ひになることに定められた︒桐花紋に就ては別に

制限はない︑現在では菊花紋は主に宮廷用で︑桐花紋は主に政府用としてある︒僻令書にも叙位のものには菊

花︑任官のものには桐花の透かし紋が入れてある︒

 さて紋章の起源に就ては︑山鹿素行は聖徳太子の時に始まる︑但し旗に紋様を患いたのは源頼朝の時といっ

てあるが︑恐らく川島の慣はしになったのは武家では源李時代の旗や幕に用ぴたのが姶まりで︑公卿では車及

衣服の紋様より由來したものであらう︒それが段々固定して自他を旺別する標識となり︑或は装飾としても用

ひられ︑絡に徳川時代になると︑威儀を正す典禮にまで獲達した︒この風習はやがて一般庶民階級に普及し︑

家紋は家の標記として重要性を帯びるに至った︒かうなると︑紋章に封ずる格式の観念が伴うて︑或は他家の

紋を略奪したり︑遺事するものが繊て來た︑依て家紋使用上の制限が定められ︑屡々菊紋奇事紋の使用並に徳

川氏の紋章たる葵紋に顧ても嚴重な禁令が査定せられ︑絡に享保七年には山内左内と慰する者が其禁制を冒し

た爲に︑死刑に塵せられるといふ悲劇までも演出した︒絡には家紋の神秘性まで考へるやうになった︑﹁葵御紋

考﹂の申に

﹁一子の孚ある時︑其胞衣を水上に漂洗ふ時︑家紋現出すと云へり﹂されば狼に購読するものにあらす︒

といふ敏訓まで獲生した◎

     蒙﹁に醐翻する顧藤惣嬢      山ハ扁・七

(22)

      六同入

 家紋を選定した原因は︑諸家各々由緒があるが︑斯學の研究家沼田博士は之を樹美的︑指事的︑瑞鮮的︑紀

念的︑禽武的及信仰的の六種に分類して居る︒紋章の種類は四百飴に上るが︑もと家系を表はすに用ひたもの

であるから︑家紋の類似によりて︑家系を知ることが出來る︑例へば梅紋を用ふるのは菅公の神紋から來たも

のであるから︑翼に菅公から出た氏族たる高辻︑東坊城︑唐橋︑清岡︑桑原等は皆これを用ひ︑武家では尾張

久松氏︑前田︑堀︑金森︑竹腰︑深尾等である︑尤も後には唯菅公を奪信ずる庭から起つたのもあらう︒

 家を代表する家紋は定紋叉は本紋といふが︑其外に替紋叉は裏紋といふのがあって︑一個の家に難し二個︑

三個より︑多きは十数箇に上るのがある︑是等の紋を男女ともに禮装として服装に用ふるが︑女子は婚嫁の後

も︑依然として實家の紋章を襲用するのみならす︑女子を霜げて︑後年成長の上︑他家に入る時は再び母の紋

章を用ふるが故に︑母系を傳はりつ髭移韓する習はしである︒

第四 家 の 存 績

 家は墨書一系の観念であるが︑現に之を構成して居る人には生死がある︑こ玉に家督相績なる事象が起って

       む む 來る︒家督といふ語は﹁史記しの越世家に﹁総有長子日家督﹂とあり︑叉﹁下學集﹂に﹁家督一家之惣領也︑        瓢   剛 綴   桶 陶朱公長子日家督也︑都督義也︑肝属也﹂と見た︑家を督するの義で︑長子は父の橿を承識するといふ意より      一一  畷 禺たのである︒民法第九百八十七條に﹁系譜︑祭具及墳墓ノ所有礎ハ家督相績ノ特構に属ス﹂と定められて居

(23)

る︒この三者は家系を重んじ︑組先の祭祀を絶たざるを目的とする家督相綾には必要不可歓のものである︑即

ち相筆者は系譜を保護し︑租先を祭るの義務があるから︑必ず後難戸主に絶無に属するもので︑寓居をするこ

とも︑差押へをすることも出來ぬやうになって居る︒

        陶 系譜の保護

 系譜は斑晶ともいふ︑系譜にも纂記︑系圖︑譜圖︑氏丈︑門文及本系帳等の種類がある︑纂記は早く持統天

皇の朝に見え︑系圓は天正天皇の時︑含人親王が日本書記と共に奏上し給うたのが始めで︑譜圖は和島清麿の.

和装譜を最最奮とする︑氏文には高橋氏文︑丹生醗氏交等があって︑其氏組の由緒及代々の事蹟を記録したも

の門交は一門毎に其系譜を明にしたもの︑本系帳は門丈を綜合して北本系を示したものである︑是等の系譜の

申で稽大成したものは嵯峨天皇の時︑萬多親王が勃を奉じて編纂せられた勅撰姓氏録である︒降って徳川時代

に至って出來た寛永諸家系圖傳︑寛政重修諸家譜等は最恐完備した竜のである︒又私撰のものでは︑藤原公定

の奪卑分脈︑水戸藩の諸家系圖高等があって︑家系調査の好資料となって居る︒以上は多く諸家を綜合した系

譜であるが︑各家には夫々系譜を具へて︑系統を明にして居る︒然るに家系奪重の絵弊として︑系圖の聖慮と

か︑質入︑萱買なども行はれ︑絡には系圓偏作の專門家まで獲生し︑幕府から禁令が韻たこともあった︒系圖

尊重の念から︑紳秘的の話まで傅はつて居る︒﹁宮川舎漫筆﹂に宮川政運が其次男を徒弟に論る加藤家を櫃がし

めた︑此家の系圖は小身ながら珍らしく委しい系圖であった︑この事誤を毘入の町鳶者高木貞庵に見せたが︑・

     家に昏絶ヲる嗣考察       山ハ一・九

(24)

       六ご○

殊の外懇望されたので︑金子二丈にて預けておいた所︑其翌年︑該馨者が來て︑系圖を返上するといふ︑そこ

で系圃は我家で大切な品であるから︑何れ三内︑金子を調達して︑受取らうと答へたら︑袖裏はいや金子は何

時にても宜しく︑御系圏を返上したいといふ︑共子細はこの系圖がある爲に馨師の家内に病人が絶えぬ︑依て

ト者に占はせしに︑何かこの家に有るまじき品があるので︑それが障りをなすのだとの事なれば︑是非御返し

するといふことなので︑共享受取った︒不思議にも共後讐師方の病人も全快したといふ︑下らぬ話であるが︑

これを以て見ても重重の人が如何に系譜を璽物親したかが介せられる︒系譜は家として貴重の品ではあるが︑

貴族︑名門の外は︑よく保護せられて居る家は少いと思ふ︒否な歴史上著名な系譜であるのに︑子孫が絶滅し

たり︑貧窮の爲に四方に流離したり︑或は家系其物が散鋭したりして︑氏耐以來のものを所持して居らぬ家が

多い︑況や一般庶民の聞では︑出自の不明なものが多い︑家系奪重は我國民の特有な風習であるに拘らす︑現

存する家には︑割合古い家系のものが少い︒ ﹁青栗園随筆﹂に﹁勢州桑名郡溝野村に草薙忠藏といへる郷士あ

り︑寛政年聞に至り九十六代血脈相績す︑藁家に往古臼本曲尊東夷征伐の時︑宿らせ給ひしとかや︑共時泳ま

せ給びしと傳ふ﹃おはりにただに向へる一つ松︑あはれ一つ松︑人にありせば衣かけましを大刀はけましを﹄﹂

とあるが︑是等は非常の特例である︒

 戸田貞三氏の﹁家族の研究﹂の中に家系の世代を小難圃の部分ながら調査した統計の結果が載せてある︒こ

れによれば現在の家では四代︑五代位の者が最も多く︑十代以上になると非常に少いやうに想像せられる︑樹

(25)

ほ潔く調査して精密に研究しなければ︑輕々に断定は出歯ぬが︑盛衰浮沈は家にも冤かれぬものと見える︒

 若し隠れ︑家系を重んずることが箪に門地︑家格といふが如き骨董的のものならば︑至って便値の少いもの

であるが︑父組の素質が子孫に遺業するといふ見地に立つと︑さう輕んすべきものではない︑米國のダヴエ

ンポート博士の著﹁忘種改良學﹂に引用せる實例i米点に於ける家系調査の結果得られたる報告ーーによれ

ば︑﹁エリザベス・タツトル﹂家系が躍者及獲明家の淵叢として光輝赫々たるに相並んで︑﹁ヴア⁝ジ一瀕ヤ﹂及

﹁ケンタッキしの名門から許多の有名なる政治家及軍人を輩出せしめて居る︑之に反して︑﹁ジユークし一家並

に﹁イシユマエル﹂一族が︑揃ひも揃って︑犯罪者︑放蕩児︑淫婦︑白凝といふが如き子孫を繁殖せしめて居

る︑是等の事實を考へると︑家系に就ては相當深き注意を彿はねばならぬことではあるまいか︒

        轟 祭祀の奉仕

 孝道の延長として子孫が父祀の榊露に封して報本霧島の至徳を鑑し︑﹁生野之以禮︑死葬之以禮︑祭之以禮﹂       レ   レ      レ   レ    レ    レ するは東洋民族の固有精神であって︑我が國民の公組なりと信ずる皇租天照大御紳に謁し︑奉饗の誠を捧ぐる

のは勿論︑之を小にして︑氏族の禮即ち氏紳乃至家の組先等に崇敬の惰を表はすのは︑古墨一貫したる習俗で

ある︒  もと︑結語は氏族の共同組先を祭ったものであるが︑後に至り︑居住地の棘叉は氏族と縁故ある淋をも氏聯

とするやうになった︑上古では同一氏族が同じ地域に住んで居ったので︑共地に氏租の淋を祭れば︑氏瀞はや

     家に閥脚する繭驚・察       山ハニー

(26)

       六一ご一

がて︑母地の守護紳となるから︑黒鴨と産土棘とは同一に見られた︒然るに︑交通の便が開け︑人口が増加す

るに俘ひ︑異氏族の人が相混合して佳署するやうになって竜︑侮思置を氏紳となし︑共地方の人を氏子と倒し

共同鼻鯛たる毒念を以て祭ったのである︒叉今日祀られてある全心幾千を以て歎ふる買薬の祭棘を調査して見

ると︑三︑四の例外を除いたら︑皆氏帥として祭祀したのが根源である︒

 家組の祭祀は各家によのて︑多少の相違はあるが︑大聖租難を薄絹叉は佛壇に安置して︑朝夕の賊難及供齪

をなす外に︑忌日︑祥月︑年忌に於て之を祭る︑忌日とは毎月租界の死亡した日に相當する臼︑鮮月とは毎年

租先の死亡した月日に相當する日︑年忌とは榊式にては一︑三︑五︑十︑二十︑三十︑五十︑百周年毎に︑其

以後は五十年毎に行ひ︑佛式では初年︑三︑七︑十三︑十七︑二十五︑五十︑百年毎に︑其以後は五十年毎に

之を螢む︒年忌の祭典には祀鰻を中心とする一門春族を招待して︑その功業を物語りつ玉宴飲し︑一族の奮情

を濫むると共に家門の繁榮を親旧することは敦厚の習俗である︒

 其の外に︑正月︑盆祭︑春秋の彼岸の四回︑鑛前に供難し且つ墳墓を清掃して敬慶の誠を輸す慣習になって

居る︒現今では時勢も絵程墾化して︑篠が洋服になり︑幣刀がステッキになった時代で︑一門親族が一家に集

まったり︑屡々展墓することは殆ど不可能であるから︑止むを得ないが︑適宜の方法によって︑誠敬の至情を

表はすことにしたい︑學者の中には往々唯物的の立場から神懸を否定したり︑或は進化論を持ち來って︑子孫

より丈化の低き組先を崇敬するは無意味だ︑などと論く人があるが︑これ等は事物に封ずる認識不足か又は純

(27)

惰の訣如して居ることを表白するに過ぎない︒

第灘 崇 颯 と 家

 組先の祭祀を行ふことは︑家を家たらしめる所以で︑彼の鷺ーマの敏藩法に於ける格言に﹁祭祀アラザレバ

相綾ナシトとさへ書って居る︑況や我國の家に就て︑祭祀を外にしては︑家の存績なる竜のは認められない︒

而して組先を祭るのは組先を崇敬する精神より起つたものであることは疑ひない︑組先祭祀の起源に付多少の

異心がないでもない︑今其概要を羅げ︑更に我國に於ける崇組の史實を述べて︑家の観念を閾明しよう︒

        剛 祭組の起源

 組先を祭る動機に就て諸読がある︒

 第一読は維濟論とも〃饗すべく︑グにツセーの著﹁家族の形態と経濟の形態﹂中に述べて居る︑﹁家族の寒生に

關して︑最も重要なる源を挺すものは維濟關係である︑::父母は老後の扶養を子女の孝養に待たんとし︑父

母に孝なるを以て最大美徳となすが如き︑総べて︑これ爾親が其子女を以て要素上の欲望満足の具と爲すを誰

するに足る︑父母の死後につきて之を見るも︑子女は永く父母の籔を祀りてこれに供養し︑父母の難はこれに

よりて克く餓鬼道に隔る無きを得となすが如き︑何れか経身上の観念を含まざるものがあらうか﹂と思ふに経

濟的動機も多少あったであらうが︑日本の祉會成立の上から考へて︑術他に強い原因がなくてはならぬ︑然ら

     家に漏驕ゆ9る一考察      山踏ニ一二

(28)

      六二四

ざれば父母がいくらそんなに希尊した庭で︑子孫の方に動機がなくては︑さやうな精棘が永綾するものではな

い︒  第二設は亡難恐怖読で︑スペンサーの﹁就會學原理﹂及ラボツクの﹁文明の起源し等に見え︑下膨を獲歯する

ことは共亡難に封ずる恐怖より自然に獲蓬したも.のであることを説いて居る︒イエリングは更に之を極論して

﹁通読によれば︑死者に捧ぐる供解は︑子孫が共父租に封ずる深厚なる愛情を表彰するものとす・:・然し死者

に献供を爲蓋しむるものは︑愛情にあらすして實に恐怖である︑・:・先人の墓前に飲食物を供するは子孫たる

者の義務である︑若し之を閑却することがあれば︑亡難は之に如して復讐をなし︑恐ろしき幽露となって現は

れ︑あらゆる災害を降すに至らん︑故に余は恐怖を以て死者に謝する供饒の根本的動機なりと信ずる︑決して

二軍は子孫の孝敬愛慕の惰に出つるに籍すして︑實に利己主義即ち恐怖畏灌の念に獲したものである﹂と︒或

民族の原始時代叉は現存の野壷種族の間には︑かやうな動機から父組を盛るものもあらう︑然し我國の習俗を

丈献の上より観察して見て︑恐怖観念から祭祀を行ふなど製は微塵も想像せられぬ︒

 第三読は組難敬愛論で︑我國の國學者︑紳道家等は大藩︑この説に馬する人であるが︑明確に之を主張した

のは穗積陳重博士の﹁組先祭祀と田本法律し︑並に芳賀矢一博士の﹁鼎立甘辛論﹂等である︒栗田寛の﹁祭典和

致しにも﹁世に生とし生ける入︑誰か父母を敬ふ心なからむ︑父母を敬ふ人にして誰か又我組先を崇めざるも

のあらむ︑假初にも父母を敬ひ︑とほつ親を崇むる者︑いかでかその難事に情を極め誠を諜さざらむや︑その

(29)

誠の惰を解すが自然の天理なれば紳代の晋より棘魂を祭る禮儀もありけるにこそしと論じてある︑實に吾人が

時々組露を祀砂香花を供へ墓前に脆議するは︑全く父組に封ずる窒息敬慕の至情より撃つるもので︑決して恐

怖の念の萌しさへない︑藤崎俊茂氏の﹁日本帯化史親しに君に封ずると共に親及組先を補する風習も亦早くか

ら︑掌篇に於て行はれ︑組帯の露を榊として崇羨し︑租先崇野の儀式を生ナるに至った︑この動機に二種類あ

る︑一つは組先の漿の謬言とその働きとを信じて︑之を祭るのであって︑他は報霧感謝の念慮から之を行った

のである︑前者は宗教的崇舞であって︑後者は道徳的奪崇である︑上代に於て早く行はれたのは概して宗敏的

の崇舞であって組先をおやといひ︑みおやまた父母もおやとよんだのである︑第二項の方は支那思想から來た

のではないかと思ふしと述べてあるのは︑大壷肯繁に中った説と思ふ︒

 此の如き動機から獲生した崇草書念は︑家族制度と共に互に因となり果となって獲達した上に︑佛教の報憲

論︑鰻魂不滅︑壇墓尊重等の影響と演算の根本たる孝道の鼓吹による縫志︑ゴ重心等の感化とによって︑他の民

族聞には類例を見ない程︑廣く且つ深く愈愈の精紳内に培養せられたものである︒

        轟 家名の尊重

 麗先崇敬の精帥は︑やがて組先が創めた家門の名轡を維持し︑嚢揚せんと希ふに至るは︑自然の数である︒

古事記︑日本書記等に入定を暴げる場合には︑常に密漁組を冠して出自を明にしてあること︑允恭天皇の時︑

行はれた瀞盟探湯︑嵯峨天皇の時編纂せられた新撰姓氏録の如きは︑何れも氏姓を重んじ︑所生の組先を組む

     家に融醐すろ一考察       山ハニ五

(30)

      六二六

る所から起って居る︑叉萬葉集にある大伴家持の墨壷歌︑慕振勇士之名歌及賀陸奥國出金詔書歌語を見ると︑       レレ瓢一ニレ一 如何に崇租槻念の旺盛であったかが窺はれる︑鎌倉時代になると武士が租先の功業に封ずる追慕と自己の面目

を重んじ︑家の茂れとか矢弓の名とかを落さぬやうに心掛けた︒戦場に臨んで敵と⁝戦を交へんとする時は必ず

先づ﹁名乗り﹂を墨ぐる償例であった︑﹁亭家物語﹂に︑粟津の合職に今井四郎象挙が

 蓮からん者は晋にも聞け︑近からん人は目にも見給へ︑木曾殿の筑母子に今井の四郎験雫とて生年三十三に

 まかりなる嚢々◎

と名乗り︑叉木曾義仲の最後の職場にて

 清和帝に十代の後胤︑六條判官爲義には孫︑帯刀先生義賢次男︑木曾左馬頭伊警守︑今は朝日將軍需義伸︑

 生年三十七︑甲斐の一條と見るはひがごとか︑︐雑人の手にかけんより︑組めや組め︑

と進み出て︑職を交へた︑更に長い名乗りになると︑申々入念のもので︑﹁保元物語﹂に宇野七郎親出が馬上か

ら︑  身不省に候へども︑形の如く系國なきにしも候はす︑清和天皇十代の御末︑六孫王八代の末孫︑播津守頼光

 が舎弟大和守頼親が四代の後胤︑中務丞頼治が孫︑下野守親弘が子に宇野七郎源親機とて大和國奥書に久し

 く佳して︑夫だ武勇の名を落さす︑左大臣殿の召に依って新院の御方に参するなり︑源琉は二人の主取る事

 なければ宣旨なりとも︑之こそ内裏へは参るまじけれ

(31)

と告げた︑とある︒これは事實その通雲であったか︑或は作者が多少潤色したかとも思はる︑が︑然し大腿武

人の習はしとして︑自己の姓名のみならす︑組先の名及功業をも同時に披露したのは︑家名尊重の念の表はれ

でなくて何であらう◎

 蕾に人間のみならす︑我國では畜類までにも之を及ぼす︑狂言の﹁牛馬﹂に馬博勢と牛碧雲とが法論して︑

絡に牛馬の貴践奪回を分つた各々其系圖を述べて之を決定せんとする仕向になって居る︑術甚しきは幽難まで

も名乗を墨げる︑雑曲﹁船辮慶しには知盛の州民が出るが﹁抑もこれは︑桓武天皇九代の後胤︑李の知盛幽購

︑なり︑なら珍らしや︑いかに義維︑思ひもよらぬ﹁浦波の﹂と出て來る︑これは當時の風習が狂言や謡曲の組

織の上に反映したものである◎

 織田信孝は

   たらちねの名をばくださじ梓弓

       いなばの由の露と溝ゆとも

と詠じ︑前大納言宗房は

   世々を経し我が家の名の惜しければ

       惜しからぬ身を捨てぞかねつる

とよみたるが如きは︑皆父組の名を汚さないやうにといふ翼情を嚢饗したものである︑降って徳川時代にな

     家に瀾する一考察      六二七

(32)

       六二八

ると︑肚會組織が圃賑して守繋累︑同顧的となり︑士民共に安じ家職を重んずる風潮により一暦︑崇租敬親の

念が漏養せられた︑當時の學者︑先導者は殆ど一致して先租の崇敬︑家名の奪重を読いて冷す庭がない位であ

る︑明治維新後急激なる時勢の進歩と外國丈化の傳播とにより︑家名尊重の念が漸く薄らぐやうになった窓の

の︑民俗固有の豊里に幾千年來訓練せられた國民の頭には省牢固抜くべからざるものがある︒

第六 む す

﹁家﹂に呈する研究は各種の方面からなされるであらう︑又取扱ふべき項目も廣汎に亘るであらうが︑余はほ

んの一面の考察を試みたに過ぎない︑而して事態を歴度的に叉雲上的にあげたに止まり︑規範的に読くこと

は⁝避けた積りである︑昧喰の味聡臭くなるのを注意した︑さるにても︑我國家組織の上から見ると家は璽要な

る愚母測位であって︑これあって始めて安定なる杜會生活も螢まれ︑献身的な道徳訓練も︑敬鹿なる感情陶冶

も︑高爾なる精神生活も途げることが出為る︑故によく家の本義を把握し︑父性の努力と理想とを紹述︑恢弘

して家門の繁榮を遷ると共に國家︑世界に貢献することは︑日本再遊の當に員ふべき責務であり︑また︑誇る

べき特構であると信ずる︒

参照

関連したドキュメント

   立憲主義と国民国家概念が定着しない理由    Japan, as a no “nation” state uncovered by a precipitate of the science council of Japan -Why has the constitutionalism

136292215 10 8「非主義芸術一箕輪慎一一一 〃「講談振袖三年」大河内翠.

 早護性痴呆ノAthiologieトシテハ,多腺的内 分泌障碍二基ク自家中毒,或ハソレト三連シ

講義の目標.

スライド5頁では

 しかし、近代に入り、個人主義や自由主義の興隆、産業の発展、国民国家の形成といった様々な要因が重なる中で、再び、民主主義という

Kelsen, Naturrechtslehre und Rechtspositivismus ( 1((.. R.Marcic/H.Schambeck,

(評議員) 東邦協会 東京大学 石川県 評論家 国粋主義の立場を主張する『日