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室   谷

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(1)

ビユピアーの経濟獲展段階學説と古代希膿経濟史

      室 谷 賢 治

良 K

(2)

一︑學.読に關する論争

   マイヤーの批騨ーフナy・べ⁝の批評ーゾムバルレの批評

   ーローザルグセyプルクの批騨一1輻田博士の言

二︑ビユbアーの古代講厩経濟曳に綴する勢作の大要

三︑古代瀞鷹経濟更に關する諸學者の最近の業績と其の立論

   ハーぜプレー〃ープレンタノードブシェ

四︑結   語

(3)

 人類の経濟生活に於ける獲展の規範を樹立せんとする主思は︑古來幾多の學者により試みられた所であるが

前世紀の末葉急難ライプチッヒ大學のカール︒ビユビアー藪授の提唱せる経濟画展段階会読 U擢♂<葺ω︒冨ぼ︑

の簿鼠︒鷺き砂q↓ぴ8瀞◎艶麗黛︒超ぐ潔8ぴ鍬鞭舞諌窪↓ぴ8誉ほど學徒の注意を牽いたものは蓋し稀であらう◎今日経

濟學徒にしてアダム・スミスの分業につきて︑リカルドオの地代につきて︑乃至マルサスの人口につきての諸

學論を知ると殆ど同様の程度にビユヒアーの雌蕊獲展段階に關する學読を競へざる者は莫いと言って大過ある

まいと信ずる︒即ちビユピアーが從來の墨者が或は生産の糊黙より︵フリードリッヒ・リスト︶︑或は交換の観

黙より︵ブルノ・ヒルデブランド︶経営生活の獲展に關する表式を示したるに塗し︑薪に生産より浩費に至る

道程といふ急談なる観黙より艶事生活の菰野段階を劃し︑次の如く述べた事は後の慰者に熟読を賦賀したかの

       ラ      ネ へ や 如き観がある︒註曰く﹁此の獲展全膿を一個の糊黙より捕捉せんと欲せば︑それは國西経濟の本質的現象の眞        ︵ 唯中に突入し︑同時に從來の維濟時期の組織的要素を吾等に解明する観黙でなければならぬ︒即ちそれは貨財

の生産が溝費に封ずる腎虚︑詳言すれば貨財が生産者より溝費者に到る道程の長さによって認識することに外

ならぬ︒而して此の襯瓢よりして︑吾等は少くとも申漱及び西思量民に封しては歴史上十分に精しく辿り得る

限り︑経濟獲展全⁝醗を次の三つの段階に分つ︒

     ピユヒアーの繹購桝襲羅陣段階學親と宵代滞腰輝濟史      四九

(4)

      五〇

 一︑封鎖的家内経濟の段階.︵純粋なる自己生産︑交換無き経濟︶︒ 此の段階に在っては貨財は其の生

産せられたると同一の経濟内に於て浩費せられる︒ 二︑都市維濟の段階︵顧客生産或は直接交換の段階︶︒

此の段階に在っては貨財は生産維濟より直接に消費経濟に移る︒ 三︑國民経濟の段階 商品生産或は貨財

流通の段階︶︒ 此の段階に在っては通例︑貨財は企業的に生産せられ消費に到る前に多くの経濟を通る︒﹂ω  ラ  馳 例へばプロドニツツはビ篇ピア;の縄濟磐戸段階學親な以て﹁科學の共有財産となつれ︒一而して輩に.蜀乙に於ての  ︵    みならず國際的言値な有すうに至った﹂と達して居る︒ ︵O●翻δ曾ぎしハ碧︸H峯Oげ舞NΦ冨O︸ピh斜びq窃直属艮⑦OQ3暮蓬.ゆρ

   HW§傘H麟無幹禁ま留μ㈹2おω圃.oQ・い.

 然るに他方ビユピアーの樹てた此の経堂獲展段階に篤して異論を挿む學者が少からず見られる︒即ち歴史家

の側よりはエドアード・マイヤー及びゲオルク・フォン・べμiの二人がビユビアーの學読に有力な批評を下

し︑又経濟學者の側よりは古くはゾムバルト︑近くはローザ・ルクセンブルクが痛烈な攻撃を加へて居るので

あるQ  マイヤ⁝の批評は︑ビユピアーが交換無き封鎖的家内経濟の段階に古代の馬下・羅馬を含めてみることの非

を指摘し︑古代に於て如何に交換即ち商業が重要なる役割を演じたか︑而も商業が丈化獲展の云はば測尺を

輿ふる働因なることを論述したものである︒ビユピアーの経濟獲展段階學論は最初一八九三年の﹁國民経濟の

成立﹂に公にせられた︒マイヤーは共の直後︑即ち一八九五年フランクフルトに於ける猫逸歴史家協會第三同

の講演會席上に於て﹁古代の維濟的発展﹂を論じ︑古代の経濟をオイケン経濟Ω騨2同等9鯵上階 幽すれば自己

(5)

の欲望を自ら充足する個々の家計の自律的落丁と名付けた鷺ードベルトスの見解を駁し︑同時にビユヒアー読

の絶蜀に斥けらるべきことを史實に照して明かにしたのである︒曰く﹁極めて原始的なる歌態に在って愚商業

即ち他の商晶と己れの産物との交換は極めて重要なる役割を演ずる︒とまれ歴史上現はれる凡ゆる國民に於

て︑商業が文化獲展の規準を與へる働因として示される︒﹂働從ってマイヤーに由れば﹁古代の経濟的獲展に就

き描いたビユビアーの書は如何にも受取砂難い︒希臓の魅史に於ける第七世紀及び第六世紀は︑近世の獲展に

於ては紀元後場十四世紀及び第十五世紀に照尊し︑また第五世紀は第十六世紀に照懸するものである︒﹂働﹁古

代に総ては燦然たる文化と相並んで堕落腐敗せる政府及び惨忽なる戦争が極端に指導し︑而も甚だ進歩せる世

界交通とビユビアーの意味に於ける﹃國民需濟﹄が存在したのである︒し㈹

 是に於てかビユピアーは︑一八九八年﹁愚民維濟の成立﹂の第二︵増補︶版を公にするに當り︑群集の申に

於て次の如く酬いた︒曰く﹁余は余の論交の若干の部分に直し歴史家よ夢加へられたる攻撃を記憶したい︒諸

氏は注意しなかったけれども︑本書に於て攻究せられたものは経濟理論であって維濟皮ではないといふことに

ついて余は實際責任を員はぬ︒撒千年に亘る嚢展段⁝階の範園内に一定の國民の一定の世紀に於ける具象的歌況

の微に入り細を穿つ底の叙蓮を期するものは︑期待に背きたればとて非難してはならぬ︒余は第一版に於て既

に経営段階の論理的性質を十分明かに表現したと信ずる︒併しながら余は今︑新版に於て當該箇所を蕪雑願は

くば最早誤解せられざるやうに捕捉する磯會を得た︒夫以上のことは當描記には面し得ぬ︒余は黒鼠的論争に

     ピ篇ピアーの纒濟顎展段階學説と宵代希腰縄濟更      五一

(6)

      五二

時聞と力とを費すべく最早若くはない︒且又︑余の獲展學読の申核にとっては︑余が国手羅馬入の維濟を各個

の黙につき正しく特色付けたるか否か︑また中世のツシフト手工業が賃仕事であったか︑贋格仕事であったか

は全く無關係である◎し働

 而してビユビアーは右に引用した部分の序交を︑﹁國民経濟の成立﹂の第三版︵一九〇一年︶を出すに當って

も︑附録に再掲して㈹マイヤー共振ベロー︑ゾムバルト等の加へた論難に封へるところがあった︒

 ベローのビユヒア!に封ずる批評は︑マイヤーのビユビアーに加へた辮駁を大膿に重て裏書し︑古代の希騒

羅馬を家内墨黒の段階に置くことの不當を攻撃すると同時に︑ビユヒア:の都市経濟の段階の取扱ぴ方に特に

異見を閑陳ずるものである︒蓋しビユビアーが都市維濟の段階に世世を想定し︑此の段階に在っては貨財の交

換が頗る限局せられたと解明するに封し︑ベローは堆黒商業の高く上職せらるべき史籍を具さに叙述するので

ある︒併しながらべ四一のビユビアーに封ずる批評は︑決して峻烈ではない︒寧ろ濫い同惰をビユビアーに寄

せて居る︒從ってべ鷺一は︑ビユピアーが難民経濟的研究と技術的研究とを結合すること他の著述﹁勢働と韻

律﹂の に於けるが如く焦し︑人類學をも滲酌した瓢︑申世都市維濟の本質を根本的に探究した黙︑而して明確

なる概念を匂高く藝術的に表現した軸に︑ビユヒアーの功績を認め︑コ著者の樹立せる專門的概念がかくも速

かに一般に使用せられることビユビアーの場合の如きは蓋し稀有の例に卜する﹂⑥ と言ってみる︒

 而してベローは進んで獲展段階謬論そのものの批評として︑一般に歴史法則は可能なりやの問題に移り︑ビ

(7)

ユピア⁝が﹁國民経管の成立﹂の申に前述の如く﹁少くとも画嚢及び西鰍國民に封しては︵申略︶維濟獲展全

艦を三つの段階に分つ﹂と限定してみることに撃って﹁若し斯かることを承認せねばならぬとすれば︑最早此

の學読の普遍安磁性は断念せられねばならぬ︒﹂⑰と論じて居る︒畢寛ビユピアーは﹁理論と歴史とを混同す

るし働ものと言はれるのである︒

 過去の経書獲農段階を家内維濟︑都市経濟及び國民経濟の三つに劃する者は︑羅宇に向って世界維濟或は國

際経義の段階を想定するに難くない︒然らば此の世界維濟の段階を想定する上に果して事實何等の困難を俘は

ぬであらうか︒厳にも獲展段階學数学膿に潜む課題が見られる︒ベロ!は此の問題に臨叢れて居る︒而してべ

㍑一は世界温品の段階を想定する上に次の二つの困難に遭遇することを読く︒第一は︑今日商品の國際的道程

が國民的道程以上に優越し︑璽黙が前葉に置かれるか否かといふことである︒然る場合に於てのみ︑國際的關

係は現在の典型的歌況以上に見られ︑國民器濟・都市経濟及び家内維濟につき語ると同檬の意味に於て國際経

濟についても語り得るであらう︒第二は政治的配力が全世界の交通を導くことに努めること︑恰も都市維濟の

時代に都市が交通を都市の範團に限り︑また國民経濟の時代に國家が活澄なる交通を國家の領域全罷の内部に

於て獲農せしめるが如く爲し得るや否やの難問である︒世界維濟を高唱するハルムスすら︑世界維濟政策は野

猫維濟聞の國影干係が書家の雲際的協約により規定せられて始めて機生すると言はざるを得なかった黙に顧み

て︑世界維濟の段階を劃することの當否を悟り得るであらう︒㈹

     ビ篇ピアーの経濟獲展段階學蹴と宵代希膿経濟更       五三

(8)

       五四

 然らば経濟獲展段階異論そのものは抑も全く捨てられて顧られざるべきものであらうか︒之を拾って生かす

の道は他に無いであらうか︒べ鷺1の批評は更に進む︒

 ベロ!は謂ふ︒経濟獲展段階學論は普遍安當的なる警護法則を與ふるものではない︒幾多の場合には例外て

ふものがある︒さりとて吾等は段階學説を樹立することの努力を決して無債値なりとするのではない︒ 一定の

時代に於ける一定の國民の経濟段階を他の時代に於ける同一國民の経濟段階に比し︑或は同一の時代に於ける

異れる國民の経濟段階を較ぶるとき︑段階學論を樹つることに迫られるのは必定である︒斯くて一方に共通的

なるもの︑規購的なるものと特殊的なるもの︑離反的なるもの︑他方に重要なるもの︑本質的なるものと副次

的なるもの偶然的なるものとを分つ︒特に歴史家に取りては事物の本質を正しく且つ銃く決定することは必要

不可鋏の條件である︒されば歴史家は段階墨論に一慮は耳を傾くるも︑事物の規則的経過に聞し若干の普遍的

命題を樹つることには到底從ひ得ぬのである︒而して蝕に歴史的に重要なるもの︑本質的なるものとは︑各種

の史的現象より生する共通的なるもの︑規則的なるもの乃至正常的なるものと同一ではない︒後者に封ずる平

なる興味を以て満足するものは︑歴史の生ける力を悟ることは出塁ない︒到る虜に同意に行はれる獲展傾向と

いふ如き前提︑叉は維濟生活に於ては到る庭束縛より自由への縫害心獲展生すといふ如き前提を歴史家が拒斥

したればとて︑其の歴史家を直ちに懐疑主義の立場に在るものと評してはならぬ︒蓋し︑斯かる前提は誰明し

得べきものでないのみならす︑公築なる歴史研究よりする時は反駁を加へらるべきものだからである︒要す

(9)

るに史的叙蓮の基礎は凡て史的概念に封ずるも將た無味乾燥なる個々の事實に封ずるも史的材料そのものでな

ければならぬ︒是に由って段階學設を観るとき︑如何に此の學説が歴史家に封ずる経濟學者の不當塵置を物

語ってみるかを知り得る︒實は歴史研究者と難も外的の材料に固着するのではなくて︑生活の幾多の形像を観

照する︒構成的把握も亦歴史家の目指す所に薦するのである︒凡そ翼の科學の最高の特徴が包括的判漸の各方

面に細首する且つ精密なる表明に在夢とせば︑歴史家の職とする所は︑事實を精到完全に確定し因果的に結合

し︑超個的理念の下に整序し︑客膿の債値を獲脅することであらねばならぬ︒歴史家は事實の親察よ砂構成す

るとは蓉へ︑構成も亦其の目的とする所である︒斯くて段階概念を利用することも激平すべき補助手段たるこ

とを失はぬのであるが︑疑義の存する以上は到底用ひ得ぬ事となるのである︒にも拘らす段階領解を生かし用

ぴんと欲せば須く各種の段階を理想型 崔①聾壱器と見て︑之により一定の時代に於ける一乱民の歌態を測り得

るものと写すべきであるとべローは論ずるのである◎而して此の匠別の必要はマックス・ウエーバーの明かに

       つ 読いた所である◎㎎

 斯くてべ鞍一は畢党︑経濟五器段階學詮をウエーバーの理想型概念に還元し齢擁せしめることによって救ひ

用ふるの途を拓かんとしたのである︒然らばウエーバーの理想型概念とは如何︒敢に之を耀くことは本稿當

面の問題を止りに逸するの恐あるが故に︑左にウエーバー自身の言ふ所を一二研署するを以て足れのとした

い︒働曲      ピユbアーの経濟畿展段階學読と宵代希腰経濟更       五五

(10)

      五六

 ウエーバ1は日ふ︒ ﹁理想型概念は﹃假読﹄ではない︒併しながらそれは假読の構成に方向を示すものであ

        や ぶ る︒それは現實の叙述ではない︒併しながらそれは叙述に一義的表現を供する︒﹂働また日ふ︒﹁入敢に﹃都市経

      を ぶ ぶ      ヘ へ 濟﹄の概念を構成すとするも︑そは云はば観察せられたる全部の都市に事實上存在する維濟原則の第均として

      マ  ゑ  あ       ヘ  マ  ゐ      ぶ  を  なサ      や  や ではなくて︑理想型としてである︒それは一個の乃至は若干の槻黙を一方的に遊昇せしめることによって獲ら        ゐ へ れる︒叉漠然不明此虞に多く彼虚に少く場所的には全然存在せぬ個別現象一之がかの一方的に學冷せられた

      ぶ  み る獅⁝黙に從ふ;⁝の幾多を夫自身統一的なる構想形象のΦ脅碁①昌筐に包括することによって獲られる︒此の

構想形象は共の概念的純粋に於ては現實に経験的には何庭にも存在し得るものではない︒それはユートピアで

      ゆ も      や も へ や ぶ ある︒而して史的螢務にとっては各個の場合に︑現實が理想形象と如何に近接するか或は如何に隔絶するか︑

即ち如何なる程度まで一定都市の歌態の維濟的性質が概念的宿継に於ける﹁都市経濟的﹂として語らるべきか

を確定する任務を生する︒併しながらかの概念は研究及び照明の目的にとっては︑愼重に適用するとき面ハの特

      ラ 殊の任務を端すのである︒L⑳

 此のウエ⁝バーの理想型概念に助けを潜りてビユビアーの維藻琴展段階學設を理解し維持せんとする賢者に

ベローの外に爾チユービンゲン大學のロバート・ウイルブラント・敏授のあることは注意すべきことである︒ウ

イルブラントは嘗てビユビアーの段階墨説を批評し︑之が諦めには先づ以て一般に果して交換が有ったか否か

       ゐ  ヘ  へ を問題とせねばならぬことを論じ︑封鎖的家内経濟にとって特徴あることは一個の意志が凡てを規定し︑他の

(11)

ものが彼との契約締結に於て計るべき機禽を見出し得ざる黙に在ると疑いたことがある︒而してウイルプラン

      ラ ︸は此の第一の維濟形態を名付けて專制維濟︾目窪毒淳︒・多量と言った︒① 然るに近時︑ウイルブラントはビユ

ヒアーの墨読を救ふことに吝ならざる読を吐いて次の如く蓮べて居るのである︒曰く﹁ビユヒアー自身は二三

の佃所に於て左のことを言ってみる︒即ち凡ての過渡的現象︑即ち同時代に既に存在せるもの凡てを摯慰する

のは問題ではなくて︑特徴あるもの︑決定的なるもの︑大なる直線︑獲展法則︑去はば一の時代に冠たり︑之

に刻印を輿ふる所のものが問題であるといふのである︒例へばマックス・ウエーバーが﹃理想型﹄と名付けた

るが如きものとしてである︒即ち無事には決して存することなく︑また存することを要せす︑唯だ研究の補助

手段たる︑夫自身窮極まで思考せられたる形象Ω①露結である︒ビユビアーの段階は斯く理解し維持すべきも

       のである︒﹂幡

 ウイルブラントのビユビアーに野する態度は右の如く始めと後とでは幾分異の︑後に至っては少からぬ理解

を有することとなったが︑之に毒し終始ピユピアーの學論を攻撃して其の手を綾めないのはゾムバルト藪授で

ある︒ゾムバルトは夙に︷八九九年の﹁就會立法統計論集﹂に﹁工業勢働と其の組織﹂なる一大長篇を寄せ︑

次いで一九〇二年遅の劃期的大著﹁近世資本主義しを公にし︑更に一九二七年﹁維濟生活の秩序﹂を著し︑其

の都度ビユヒアーの學読に暴れ︑之を批評する傍ら自己の樹つる維濟獲展段階を展開して居る︒ゾムバルトの

厚く所に由れば︑段階順位も欝瀞溝◎就免︑とは維験的・歴史的樵起の意昧に解すべきでない︒働 從ってゾムバル

     ビ晶娠アーの経濟襲展殴階學醗と古代滞膿輕濟史       五七

(12)

       五八

トは概念的分類により純粋の岡式を描くことに努め︑﹁吾々は肚會青く︒お①︒・亀ω︒ξ沖§σqの尺度を経濟段階の分類

原理に選ぶとき︑段階を樹てる要求に叶ふであらうと余は思ふ﹂⑭ と言って居る︒

 今︑ゾムバルトのビユビアーに加へた反駁をゾムバルト自らの口より語らしめるならばそれは次の如くであ

る︒

﹁余の反駁は若干の例を取出せば最も明瞭にせられるであらう︒即ち申世都市の布製造者が市場やメッセに

︵爾附加ふるならば商人に︶販費した所の布︑古い山留趣境の小さな鐡工業の製品︑中世の鑛山より産出せる

銀は︑生産維濟より耳翼経濟に到る道程を経過せねばならなかったこと︑今日同様の製品が工場よゆ裁縫師又

は錠前師又は賓石細工師に到ると大小は無く︑而も共の過程は當時と今日とで頗る異れる世界に薦する︒上着

靴等雑品を取扱ふ近世豊本主義的商店より浩費者の経濟への道程は中世に於ける夫等の道程より一歩長いとは

言へぬ︒純粋無雑の顧客生産はクルップや︑共の他國家乃至公共團膿に納品する聖業である︒凡ゆる近世の車

輔製造︑凡ゆる汽罐車工場も最も純粋なる﹁顧客仕事﹂を供せぬであらうか︒而して此等の現象は吾々の時代

に云はば特殊なるものではない︒それはビユピアー自ら最もよく知る如く大なる爽展の傾向を示して居るもの

である︒中聞項を除去して溝費者を生産者に近接せしめることは屡々注口せられる所であるが︑之は吾々を警

世都市馬鐸の組織に遡らしめるものであらうか︒乃至﹁顧客關係﹂は恐らく頗る異れる経濟時期に際し得るで

あらうか︒パンは酒費者の維濟に到る窪めに手工業者より︑中本主義的パン工場より︑潰費組合のパン芸所よ

(13)

り將た軍隊のパン町所よゆ均しく長い道程を維過せねばならぬ︒さ砂とて此の根本的に異れる四つの経濟組織

は凡て同様に取扱はるべきであらうか︒而も近世交換経理の椿造はビユビアーの圖式には從はぬ︒携りに今日

の勢働特化を保留して生産する所の耐會主義的組織の紫黒を考ふるとせば︑多くの生産物にとっては生産維濟

より溝費維濟への道程は依然今田の如く遠いことであらう︒伍て軍に生産物が浩費せられる前に経過する同一

の長さの雲高の故を以て︑再び世界を異にする秩序を麗別してはならぬであらうか︒此の黙に隠してはビユビ

アーも焦焦し得ぬであらう︒即ち今日︑生産物は窓蓋として生産せられやうとも︑一の就業主義的協同膿に於

ては然うではなくなる︒何となれば此の非難によって彼は吾々の批評を正當と認めるであらうから︒否︑商品

生産を力漏することはビユヒアーによゆ善く公にせられた道程の長さよりも︑匠別に蔵して全然他の規準を取

るからである︒ビユピアーの學読は何虚より攻撃し得られるにせよ︑要するに維持し得ざるものである︒﹂伽

 右に費しビユビアーは前掲の﹁國民経濟の成立し第三版の附録に鍵盤し︑﹁ゾムバルトの例は大部分不意に作

      ぢ  マ  あ られて居るしと論じ︑左の如く言って居る︒﹁勿論︑最絡の生産者より学費者に到る道程は︑上の第一の例と最

       ぶ  や 絡の例とに於て中世都市に於けるよりも長くはない︒併し之は全然問題ではない︒問題は生産物が如何に最初

の生産者より濡費者に到るかに在る︒羊毛や獣皮の生産者より溝費者に到る道程は實際に中世の服や靴の道程

よのも著しく長い︒未成の服は之が裁縫師に到る前に︑羊毛商人︑毛洗霊場︑紡績家︑織布家︑染色家︑布商

人等の維濟を通り︑其の各所に於て利潤を吸署する︒是が即ち資本の循環過程である︒而してクルップ︑車輌

     ビユhア⁝の経濟鴨艘屡段階學設と古代希膿縫 潤更      五九

(14)

      六〇

      や  ぶ  ま  ヤ 及び汽罐車工場⁝一之等は溝費者の爲めに生産してみるのであらうか︒思事の生産物は生産物に先立つもの

く鶏鷺践爵需恒久的生産手段ではあるまいか︒然らば何時から生産手段を共後の生産に用ふることが吾々の科

墨に於て消費として取扱はれるのであらうか︒人の知る如く此等の反駁の例は仔細に擬察するや崩壊する︒固

よりi一而して此の瓢に於ては余はゾムバルトに譲歩しやう  余の三つの維濟段階は貨財が生産者より濡手

者に到る道程の長さによってのみは慨別せられぬ︒併しながら余は此の型式を簡軍に理解せしめんと欲して選

んだのであるつ何となれば余は三者の範幽に理解し易からしめんと欲したからである︒︵要略︶余は︑學問ば軍

   ゆ  ヤ  ま  や       ゆ  ゆ  ゑ  も  へ に現に爾くあり嘗て掻くあったことのみを取扱はねばならぬと題す奮弊の人闇に屡する︒L醐

 ゾムバルトの右に覇する鼓はば逆襲は馨しい︒曰く﹁ビユヒアー教授は其の著書の第三版に曾て余に野する

反批判をかなり目立たしく公にしたる由である︒腹藏無く言へば余は之を︑ビユヒアーに草し余の抱く尊敬に

顧みて遺憾とする者である︒余の實質的議論は勿論個入的謹製より生じたるものではない︒其の反封に﹃友よ

汝は粗野なる故に談れり﹄といふ古い信ずべき格言によって誰明せられるのである︒﹂㈱

 而してゾムバルトは最近に至っても繰返しビユビアーの學読を論難して毫も假借する所は無い︒曰く︑ビユ

ヒアーの母式は基礎薄粥である︒假にビユピアーの匝別が糊しいとしても︑販費行程の長さといふ特徴は輕濟

生活全般の歌謡を特色付けることは夕蝉ぬ︒それはビユビアーの言ふ如く﹁國民経濟の本質的現象の翼唯申に﹂

吾々を導くものではなくて︑比較的附随的なる事實に關はるのみである︒加ふるにビユヒアーの學読は誤謬に

(15)

陥ってみる◎格言すれば事實と矛盾してみる︒蓋し販費行程の長さは︑種々の歴史上の経鼻組織に在って秀全

然異って居らぬからである︒要するにビユピアーは一方に吾々に用ふ可からざる旺別の表徴を與へ︑他方に内

的聯關無きもに拘らす個別的表徴を暴げるものであるとゾムバルトは道ふのである︒麟

 然らばゾムバルト自身の鞭つる湿婆段階如何と言うに︑既に=絶したる如く杜會化の度合に從って 一︑個

入維濟奪蝕鼠舞鉱鼠誉︒訂津二︑過渡経濟d①ぴ︒おき㈹の鼠昌︒・︒訂沖三︑就會経濟O①︒・亀︒︒翁藤の量器︒塗壁と曝すので

ある︒而してゾムバルトは之を次の如き表を以て示して居るのである︒㈱

      統一的纒濟原則な有   経濟段階        する経濟組織の集團

       触  ︑

個 人 維

過渡経 肚會経    ︸ 原始の血族経濟      ノ 濟註二︑家驕共産盤︷︐大家族経濟﹂    三︑経濟軍位を麿する鑛大膚己経濟

ピ義bアーの経濟獲展段階學蹴と古代希朧縄濟更 利維濟

ふ念

(16)

      六二

 ︵註︶ 個入江濟の名筆ばノムバルト慮鳴拙いことか告白して屠る︒蓋し此の経学段階ば共慶主義的特徴葎帯ぶるものだから

      ラ     である︒叉﹁孤立﹂回︒︒o︸随①ほ︒経濟と名付くることも感服し得ぬ所であると言ってみる︒麟

 ゾムバルトの批評よりも更に猛烈に牛ば郷楡的言僻をすら用ひてビユビアーの學読を攻撃する者はローザ・

ルクセンブルク女史である︒彼女はビユビアーの描いた経濟丁年段階の圓式を以て﹁何等含蓄するもの無しと

       いふことにより興昧がある衝 と喝破し︑喉物思槻の立場より梢々詳細に亘ってビユビアーの學読に反封して

居る︒ルクセンブルクの言ふ所によれば︑都市経濟といふ第二の段階は﹁吾々がライプチッヒの大塵教授の

﹃天才的活限﹄を謎嘆ずるところの劃期的物見である︒し蓋し︑ビユビアーの封美的家内経濟の特徴が︑例へば

マルク竪桟の如く経濟的欲望を充足する一手の人々を包含したといふ黙に在りとすれば︑中部及び西部欧洲の

中世都市に於ては事態が曝しく其の反封だからである︒固より︑中世都市に於ては何等共通の御握無く︑ビユ

ビアー固有の語法を以てすればツンフト手工業者の工作所や家計といふやうな維濟存し︑此の申に在って各入

は自らの膿めに生産︑販壷︑昏昏の業に從窪した︒併しながら黒帯について言へば凋乙及び佛繭西の中世に於

けるツンフト都市は︑決して排他的維濟領域を構成したものではない︒何となれば其の存在は田含との相互的

交換に基き︑都市は田舎よの食糧品原料を仰ぎ︑田舎は都市よの工業製品を求めたからである︒然るにピユピ

アーは田舎をも都市経濟に含め︑田舎に里居を構へて田舎に固有の経濟領域を樹立した所の富裕なる諸侯の賦

勢書置津︒夢9の璽要を︑他方中世都市の運命を左右したと見られる海外通商と共に全然度外視して居る︒且

(17)

叉︑ピユビア!は商品生産は感温経濟の段階に始まると激すけれども︑之はブルジ翼ア経濟王者の虚構に外な

らぬのであって︑商事生塵は既に中世都市に共の中心鮎を置いてみたとルクセンブルクは述べるのである︒⑱

 ビユヒアーの封鎖的家内維濟の段階は︑ルクセンブルクに從へば農民の村落團罷と共に始まる︒然るに︑ビ

ユヒアーは斯かる原始的のマルク共産艦の外に︑古代希騒羅馬の奴隷経濟及び中世封建制の賦勢圃歩を数へて

居る︒即ちビユビア!は文化民の全筆記史を把握するに有史以前より古典的古代申世を通じ近世の閾に入らん

とする迄を一括して生産の一﹁段階﹂と徴し︑之に封慰せしめるに第二の段階として中世漱洲のツンフト都市

第三の段階として今日の資本主義的経濟を以てして居る︒別言すれば﹁ビユビアー敏授の経濟史に於ては印

度の五河地方の山勘か何塵かに其の際かなる存在を保てる所の共産主義的村落團鰐が︑アテネ文化の精華を

獲揮したペリクレス時代の家族制度や︑中世のバムベルク地方の大詔正の封建的圃歩と同一の経濟段階に排

列せられる﹂こととなる︒共の誤りたるや去はば歴史の一頁でも讃みたる者でも知り得る所であらうとルクセ

ンブルクは言ふのである︒此の例について彼女の與へる論明を加ふれば︑前者即ち共産主義者農業團膿に於て

は所有に聾しても灌利に關しても大衆の聞には一般的ギ等が見られ︑後者即ち古代希騰羅馬並びに封建的申世

歓洲にあっては自由民と奴隷︑吉書者と無愚者︑主人と僕揮︑富者と貧者といふ如き悟得階級が形成せられて

居る◎前者には一般に勢働の義務が存するけれども︑後者には大衆勢働者の隷屡と少籔不二者の支配とが封立

する︒尚叉︑希糠羅馬の古代奴隷経濟と申世封建男心との聞には著大なる差異があり︑古代奴隷経濟が畢寛︑

     ピユヒアーの繹濟獲展段階學説と古代希綴縄濟吏      六三

(18)

      六四

希騰羅馬の丈明を鼠落に毒したるに益し︑中枇封建制は都市に於けるツンフトの手工業を商業と共に獲生せし

め最後に斯くする聞に今日の資本主義を生み出し出したのである︒從って此等凡て宥恕も蕾ならざる維濟的弓

會的形態と歴史的時期とを一個の概念︑一個の圃式の下に齎さんとする者は︑全然猫創の尺度を用ひて経鼻時

期を劃す者でなければならぬ︒然らば響へて見るに凡ての猫は風色であるといふやうなビユヒアーの﹁封鎖的

家内維難しの断案は如何なる尺度により下されたかと言ふに︑ビユビアー自ら強く如くそれは﹁交換無き経濟﹂

である︒而して之に﹁直接交換の段階﹂としての申世都市及び﹁貨財流通の段階﹂としての今日の経距組織が

接期するのである︒換言すれば︑無交換︑軍純交換︑乃至複雑交換i一通例の語を以てすれば商業の鋏如︑軍

純なる商業︑獲展せる商業ーーがビユビアーの経濟時期に癒し與へる尺度である︒然るに商人が既に現はれて

居るや否や︑商入が生産者と同一人なりや別人なりやといふことが愈愈史の主要根本問題であらねばならぬ︒

是に於てかビユビアーの﹁交換無き維濟﹂とは嘗て地上に見出されす︑偶々古代申世に適用すれば愕くべき大

面なる謄史的幻想を示す所の⁝敏授的妄想に過ぎぬとルクセンブルクは疑するのである︒街︑生産護展一般の尺

度として生産關係を撮すして交換短躯を見︑商人の未だ全く存せざる所にも商人を経濟組織の中心窯並びに一

切の事物の尺度と見ることは何たる﹁概念的分解︑心理學的抽離的演繹﹂であり︑凡て﹁皮相に心する﹂もの

を賎︑むものの何たる﹁事物の本質への突入﹂であらうかと曝ふのである︒ルクセンブルクより見ればヒルデブ

ランドの濡したる如く自然維濟︑貨幣維濟及び信用経濟の三期に維濟史を匝擁する方が︑寧ろ眞理に近いと考

(19)

へられるのである︒﹁ビユビアーは始め一切の﹃古き同種の轟轟﹄を鼻で遇らひ︑後に正に同一の非難を受けた

る交換てふ﹃皮相執着﹄を根本愚想に採り︑且之を翠に街愛育敷術により全然誤れる遺式に歪めたまでであ

る︒し爾  斯くてルクセンブルクは︑ビユピアーを攻撃すると同時にエルンスト・グ資ツセが﹁家族の形態と維濟の形

態﹂︵一八九六年︶に於て試みたる所の一︑低度の漁獲民︑二︑高度の漁獲民︑三︑牧畜民︑四︑低度の農民︑

五︑高度の農民の涯分︑フリードリッヒ・リストが﹁輕濟學の國民的禮弄し︵一八四一年︶に於て分ちたる所の

一︑野緯撚状態︑二︑遊牧⁝状態︑三︑曲壕業状態︑四︑農工業㎝⁝状態︑五︑農工商業歌態の段階︑乃至前記のブルノ・

ヒルヂプランドが﹁現在及び將來の経濟剥し︵一八四八年︶に於て劃したる所の一︑自然経濟︑二︑貨幣組戸︑

三︑信用維濟の時期を以て凡てブルジ寳ア経濟學の﹁皮相に擁する﹂見解であると冒し︑其の理由を読く︒即

ち︑ブルジョア學者は史的考察の前面に交換・分配・直願を置き︑生産の謎會的形態詳言すれば各の皮的時期

に於て正に決定的なるものにして亙れよの論理的金事として交換・分配・溝費の常に生すべき所のものを置か

ぬが故に︑やがて國民経濟即ち資本主義的生産方法を以て入間の歴史の最高蘭曲の段階と考へ︑夫以ヒの世界

維濟的獲展と革命的傾向とを否定するとルクセンブルクは主張するのである︒女史は日ふ︒﹁生産の會就的構成

換言すれば勢働者と生産手段との關係如何の問題が経濟的時期の核心である︒同時にそれが凡ゆる階級就會の

弱瓢でもある︒彼此の形式に於て勢働者の手より生産手段を奪ふことは︑凡ゆる階級紅會の共通の基礎であ

     ピ誌ねアーの郷駄密蜘獲⁝機段階學⁝誠と吉代↑滞購鵬輝鷹蝋・更       山添五

(20)

六六

る︒蓋し之が一切の搾取と階級支配の根本條事たるが故である︒﹂紛

 右の如くして畢党︑ルクセンブルクはビユヒアーの構手獲展段階闇雲をマルクス流の唯物史親に︑へ!ゲル

の語を籍りて言へば﹁止楊﹂︾亀器げ窪せんとするのである︒唯物史親の便値並びに適用に就ては血綿の問題と

燭るる所堪る大であることを認めざるを得ぬが︑期する所他に存する本稿に於ては之を留保して可なりと思

ふ︒鋤  絡りに日・本経濟財界の先.畳幅田徳三博士は嘗て﹁國民経濟原論﹂を著はされた時︑﹁ビユピアーぼ爾氏︵マイ

ヤー及びベロー.を指す︶の攻撃に封し︑希⁝臓維濟史を著して自分の立場を明かにするといふことを公けに約束

して居る︒此ビユビア;の節節経濟史は未だ出版されないが︑若し出版せらるれば再び學者悶に議論の花を嘆

かすことであらうと思ふ︒青藍の所予輩はビユビア〜の此著の現はれることを只管待って居るのである︒﹂と書

かれた︒而して博士は博.士の維濟學全集第一集経濟學熱闘義の申に右の﹁原論﹂を牧録するに當り︑上に引用し

       た﹁今疑の所﹂の下に括弧を以て特に大晦十四年と附加へられた︒偶 博士の﹁原論﹂は第一版を明治三十六年

十二月東京塗扇書院よの刊行せられ︑第二版を同四†花樹一月東京大倉書店より刊行せられたものに係る︒然

るにビユビアーは夙に一九〇一年︑シエツフレの古稀誕生記念論集醐に﹁希騰自励史に就て﹂の一篇を寄せ︑

後一九二二年之を壇補し自著﹁経濟史研究﹂曲 の巻頭を飾る論文として牧黙して居る︒算ふるに一九〇一年は

明治三十四年に當り︑編田博士の﹁原論﹂第一版刊行に先つこと二年︑一九二二年は大正十一年に写り︑博士

(21)

の﹁全集し刊行の大正十四年よりも三年早い︒余は此庭に頗る興味を畳え︑ビユビア!自身の描いた﹁希心経

濟史﹂を豪き︑之が経濟獲展段階追跡に封して有する交渉を繹ね︑進んで最近頻りに公にせられる曇声史家の

古代希願に關する螢作の二三と併せ考へて見やうと思ふ︒即ち本稿の目的とする所である︒

﹁希膿経濟史に就てしビユピアーが特に研究の筆を執るに至った動機は右見たる所により知らるる如くマイヤ

ーの論難に懸へんが爲めであった︒其の仔細を今少しく立入って述べんに︑前記一八九五年フランクフルトに

於ける歴史家寮母に於てマイヤーが﹁古代の経濟的議犀︹につき講演したる折︑ビユピア⁝自身は其の蕪講者の

一人となって居った︒併しながら當臼は講演に濾する討議が無かった憾めビユヒアーはマイヤーに直ちに酬い

ることが出田なかったのである︒間も無くマイヤ1の右の講演が﹁経濟學統計學年報﹂誌上に印刷せられるや

﹁年報﹂の編纂者はビユヒアーに紙幅を與へて駁論を書かしめんとした︒然るにビユヒアーは駁論を書くに際

し躊躇せざるを得なかった︒蓋しビユビアーをして語らしむれば︑﹁第一マイヤーは到る虚経濟現象の皮相に執

し︑ロ⁝ドベルトスの著作に烈しては細緻鏡露なる概念分析を施したにも拘らす︑維濟上本質的なるものを殆

ど理解せす︑從って有爵なる討議を爲すべき前提を與へて居らぬと余は信じたからである︒次に余の護展史的

段階を構成せる中毒及び西激國民の棋聖を超えて研究を比較人類學的研究に導き︑文化を欠くか其の程度の低

     ピ識セアーの縄演⁝嚢磁擁段階學説と古代希臓経濟更      六七

(22)

       六八

い皇民の維濟的特徴を閣明せんと努めた︒而して絡りに此の論雫が公雫なる古代研究家及び編綴経師學者に古

代維濟史の領域に於ける特殊研究を促し︑古典的文献や碑銘等に散逸せる材料を利用するに至るであらうと期

         ラ       直したからである︒Lゆ然るに古代希騒の工業を取扱へる二つの佛丈著作㈱が公にせられるや︑ビユヒアーは之

に刺戟せられて再び希⁝臓の典擦蒐集に着手した︒而して此の場合常にビユピアーの念頭を去來した省慮は﹁古

の著者の中には人の殆ど氣付かぬ多くの注目すべきことがある﹂といふヤコブ・ブルツクハルトの一八六七年

の書翰の一節であった︒ブルツクハルトは有名なる三巻より成る﹁王事文化史勘 に於て希追納の思索方法及

び人生親に關する歴愛を興へ︑且つ希騒人の生活を動かせる力の認識を獲んことを課題とした曳家である︒ブ

ルツクハルトに從へば︑古代希騒人の生活歌態と其の歴史の出來事とは夫自身の爲めに語らるべきものではな

くて︑一般的なるものに就ての審聞の爲めにのみ語らるべきものである︒何となれば吾等の探求せんとする所

の事實は是亦事實たる所の思索方法なるが故であり︑而も通常の歴史が有するよりも精密なる黙に於て一段高

き所の事實なるが故である︒併しながら斯く親察するとき典擦は骨董的の知識材料による軍純なる探求と全然

異って見られるのを常とする︒斯くてビユビアーはブルツクハルトの見解が如何に経濟風上の思索内容に遠し

ても正しきかを信じ︑自らの思想を展開せんとしたのである︒即ちピユビアーに取り何よりも奇異に感ぜられ

ることは︑希⁝臓に於て國家理論が大いに獲展したに拘らす経企理論は倫理に蔽はれ頗る乏しいことである︒而

庵此の乏しい維濟理論が殆ど全く私経濟の理論で占められ︑國民心濟の理論は之を見出すに難い歌態に在る︒

(23)

是に於てか㍑ードペルトスの唱へたオイケン経緯の理論を羅馬のみならす希職にも適用して謬無しと夙にビユ

ビアーは暴いたのである︒加ふるに希潮入にあっては私維濟的見解が一般に経濟思想の根本形式を形成したと

ビユビアーは希懸の哲人・喜入・愛家乃至雄辮家の諸書より譲み取ったのである︒然るにビユビアーを刺戟し

た事實は軍に是のみに止まらぬ︒第二の事實が彼を捕へたのである︒それはマイヤー其他べ淀ツボの如き古代

研究家が何故に古代希騰の経濟を以て近世の國民重事と本質上︐郷種の組織な砂と見るかといふ事である︒古代

希糠の経濟歌誌に蔑する染料として吾等に遺さる製所のものはクセノブオン︑ツキヂデス︑アリストファネス

等アッチカの丈章家である︒叉プラトーン︑アリストテレスも其の一般的維濟思想に於ては全然アテネの地に

根ざしたものであり︑更に降ってはプルターク︑デイオドル︑アテナイオスの如きもアテネの著作者を取扱っ

て居る︒然るに外見のみを親察するときは基督紀元前五世紀及び四世紀に於けるアテネの経濟生活は現代と甚

だ類似せるが如くである︒されば此の槻察を警遍化し以て此の現象を希瞼全土に振張せるものと見る者の存す

るのは敢て異とするに足らぬ︒ビユピアーは此の黙を第二に明かにせんとする意圖を抱くのである︒更に第三

の嘉事としてビユヒアーを動かしたことは︑経心皮の資料が從來主として﹁希臓古代研究者﹂の擬黙よりして

蒐集整理せられたことである︒此等の古代研究者に取り便値あるものは軍に事實である︒即ち大なるものと小

なるもの︑恒久的なるものと一時的なるもの︑典型的なるものと偶獲的なるもの︑重要なるものと然らざるも

のの類である︒然るに是によっては極めて細微なる内的聯關を明かにし︑吾等とは異る希騰精強をば外的生活

     ビユビアーのγ輝麟鱒獲醗僻段階一學観と古代希灘鵬郷糠溝・更       山ハ九

(24)

       七〇

の凡ゆる現象に表はるる統一として叙述し且又一定の生活歯︑團に於ける共れの表現を統一的に捕捉することは

殆ど不可能となる︒從って特殊研究者にとっては史料の大部分は摘要より摘要へと鱒賦することとなり︑一朝

誤解が韓へられんか誤解は更に誤解を生むことを冤れぬのを常とするのである︒此の貼よりするにブリユムナ

i及びビユクセンシユツツの著作と難も︑働﹁史的獲展を糊察する企國は未だ嘗て試みられなかった﹂といふマ

イヤ;の言の例外を下すものではないとビユピアーは綻べるのである︒而もビユビアーの見る所によればマイ

ヤーはブリユムナi及びビユクセンシユツツ懸者の整へた資料を殆ど襲用したに止まるのみならす︑屋上更に

屋を楽しマイヤー一流の誤謬をすら之に加へたものに外ならぬ︒蓋しマイヤ;は凡ゆる時代に証別無しに集め

た材料を歴史に簿換したからである︒

 是に於てかビユヒアーは一つの希騒経濟史に豪し筆を執る責務を感じ︑之によって古代出丸入の経世思想を

も正しく理解せしめんとしたのである︒奮き家の跡へ新しき家を建てんとする者は先づ如き家の土豪よの破壊

せねばならぬ︒翻れ即ちビユヒアーが騰走筆を批評の方面より起す所以である︒而して彼が先づアテネを考察

の中心に置いたのは︐蓋しアテネに於て古代希騒の経濟が其の最高黙に忙したとは古今の學者の一致するとこ

ろだからである︒又︑彼が考察の時期を基督紀元前五〇〇年代より三〇〇年代に限ったのは軍に便宜の上より

出 でたるものに外ならぬ︒

 醗に見たやうにビユヒアーの経濟屠龍段階豊読に從へば︑封鎮的家内経濟の段階に馬せしめられる希騒にあ

(25)

つては繋駕なる自己生薩螢まれ交換は之を驚くのであるから︑近世の如き大工業の獲生すべき観桜無く且つ外

國貿易も大規模に行はれ得なかったとの結論に到養せざるを得ぬ︒之を受認に照して基礎付くる嘗めビユビア

ーは如何なる方法を探ったかと言ふに︑彼は先づマイヤー及びベロツボを組乱する伯林大智の歴史學教授ブラ

イジツヒの所説を批評の狙上に拉し來ることから始めるのである︒べ鷺ツボが希懸皮︑就熱讃⁝戯入籍史に下す

        る論難なることは既に隠れもなきことに属する︒彼は一八八六年﹁希糠羅馬世界の入口﹂鱒 を著し希臓に於け

る経濟歌誌を詳解するに用意周到にも人口統計より出黒し︑次いで一八九三年頃希騒史﹂第一巻︑一八九七年

其の第二巻心を公にし管掌本土の歴史のみならす希猟の有した植民地の事情までも描くに嘗っては具さにツキ

ヂデス︑リシアス等の断片的記録をすら参酌した史家である︒此のぺ買ツボ及び先のマイヤ⁝により播かれた

る種を巧みに結び合せたとビュ之ア⁝に言はれる所のブライジツヒの語は次の如くである︒

﹃ペルシアに勤する最初の自由戦争以來アテネには非常な物質的繁榮が現はれたものの如くである︒工場が勃

興する︒それは固より近世の工業施設と書翰に減ては測るべからざるものであるが︑併し二十入乃至三十人の

勢働者を有する大聖螢によって優に他に見られる小工業に抜んでたものである︒工業︑商業及び翠蓋の繋駕移

動に封ずる最良の測度はi但し農業は通常屡ある如く技術上全く不活濃に止まった−⁝ナツチカ及び他の著

しく進歩せる地域に於て奴綜激の示す非常に多くの数である︒一⁝−.

 唯だ第四世紀は第五世紀を完全に凌駕した︒即ち第四世紀は物質上の最盛期である︒之を就會愛的に読かん

     ビ晶ピアーの縄濟鞍展段階學説と古代蕃腰経濟吏      七一

(26)

      七二

に先づ此の時期はより高き帝展段階に到る著しき経済飛雪の弛の時期と同様に有能の士又は資産家に何よりも

利盆を窮すのである︒されば既にペロポネサス戦争の絡る頃にはアテネに百二十入の勢働者を用ゆる工場が獲

生を見る︒黒熱緊緊が工業に因て從來知られざりし諸悪にま費鑛漏せられる︒経濟的に募働せる財産の大なる

蓄積についての巌良の誰族︑即ち分離及び自己の金融業の汚毒は欠けて居らぬ︒・:・國家は關税及び租税を私

人に請課せる︒換善晒すれば業務が横︑汎なる外径に亘って螢まれたのである︒加ふるに此の種の業務のため︑又

船舶共同紐帯業務のため︑夫自身既に進歩せる費本主義的君民経濟と見るべき経馨形態が形成せられる︒斯く

て第四世紀の申葉には金本位制が行はれ︑貨幣債値は低落し苦汐は騰貴する︒而して大資本家は此の過程に於

て大部分滲與するけれども︑溺者及び貧者にも亦之が均講せしめられる︒即ち賃銀は騰貴し︑多くの大企業の

論える所には全くとは云へざるも略ぼ完成欄熟せる補巻経濟の群盗階梯が多くの小企業にも両利潤の齢地を與

へる︒兎に角斯かる急遽多様の牧釜法の獲見といふ物質上の過程は凡ゆる方法に於て馬入及び其の猫立心を促

進する︒  而して注意すべきことは事野上強者が舷にも先づ利潤につきての面子の割前を奪ひ既に弱者を組織的に搾取

し殆めたと云へ︑大衆の個人主義︵ビユビアーは蝕に感投了を附けてみる︶は肚會闘争により抵抗せざるを得

        ぬに至ったこと是である︒﹂韓

 然るにピユヒアーの詮際する所によれば︑ブライジツヒの言ふが如きペルシア戦争直後﹁二十入乃至三十人

(27)

の勢働者を有する工場﹂に關する典擦は一も見出されぬ︒唯だ戦後約百年を維たる三七七︵六︶年に死せるデ

モステネスの父が二組の工業奴隷を遺したといふ事が知られてみるのみである︒其の一組は三十二乃至三十三

の隷§ミ葱諸ミ9であり他の一紐は二十の菟ミ︒§o〜9である︒即ち前者は財産であり後者は各号である︒之を

見てブライジツヒが立論したものとすれば︑果して斯かる奴隷の組が其の所有.者によ砂利潤追及のため使用せ

られる方法を名付けて工場経螢と言ひ得るや否や疑問とせられねばならぬとビユヒアーは読くのである︒

 然らばぺ賞ポネサス職争の絡る頃の﹁百二十入の勢働者を用ゆる工場﹂は如何と言ふに︑之についてはベロ

ツホも次の如く述べて居る︒

﹁斯くして希臓はぺ獄ポネサス戦孚の半漁受忍々工業國となった︒而も夫自身叉は少数の補助者を以て勢働せ

る小さな手工業者の代りに奴隷維濟に基く大経論が義々吾々現はれ來つた︒ペロポネサス職争の終りにはアテ

ネには百二十人の勢働者を使用する工場が見られた︒二十入乃至三十人の勢働者を有する維螢は既に撞著だつ

たのである︒﹂鴎      

 併しながら豊肥ビユピアーをして言はしむれば出典不明に属する︒ベロツボの與へる出典によれば之は雄辮

家リシアスが肉親のポレマルコスと共にピレウスにある家にて螢みたる盾製作場に於て紀元前四〇四年の絡︑

文は四〇三年の始め財産を三十の儒主より禰奪せられた時の事に關はる︒此の工場に百二十入の奴蒜が使用せ

られたといふ記録は確かに残ってみる︒にも掬らすビユピアーを以てすれば之は如何に古代の丈章家に見られ

     ビ識ピアーの経濟顎展段階學説と古代希腰緯濟更       七三

(28)

      七四

る経濟史的資料が解騨を誤られてみるかの興味ある讃左を與ふるものに外ならぬ︒蓋しビユピア!の吟味に從

ふときは右の払腰作場に潔し記されてみる箇所はリシアスがエラトステネスに語ってみる第八節と第十九節と

に見られる︒即ち塾主の使者がリシアスを家に雷撃し︑使者の或者は製作場へ顯饗して奴蘇数を槍記したこと

と︑リシアス兄弟の所有物件を暴君が麓讃したるに中に七百の盾と百二十入の奴蒜があったこととを指すので

ある︒之を結合して﹁百二十人の勢働者を有する盾工場しと署すれば時恰もぺ鷺ポネサス戦争の象る頃と一致

して正しく有り総べきことの如く考へられるが︑併し此の場合リシアスが奴隷の損失を憤激で百二十と言った

ととを顧ねばならぬ︒別言すればりシアスは之を以て製作場に記入せられた数であるとは言って居らぬのであ

る︒リシアス兄弟はプラトーンのポリテイアの始めに美はしく描かれて居る如き富裕なる暮しを螢んだもので

あるから︑右の百二十入の奴書中には必ずや家事に悪事せる不自由僕鉾.が含まれて居たと見ねばならぬ︒而も

其の入激が幾許なりしかは知る由も無い︒恐らくは百二十入の大部分が僕︐鉾として控除せられ︑残りの一部が

盾の製作に從事したのではあるまいかとの疑念すら抱かしめらる製のである︒

 術又右のリシアスの盾製作場が抑も存立したるものであるか否かも疑はしい︒假令存立したとしても一時的

の設備ではなかったかと思はしむる節が残って居る︒即ち寡頭政治の反封者たりしりシアスが同志と共に暴力

を以て顕覆を企て︑之が借主の憎悪を受けたと見られるのである︒雪嶺リシアスはトラシプロスを自由ならし

むる爲めに四〇三年の冬二百の盾と二千ドラクマの現金とを提供したことさへあるのである︒

(29)

 之を要するに甚だ不確實であって︑希綴に於ける其他の著書や碑銘にもアテネの國家に百二十入の勢働者を

有する﹁工場﹂なるものがあったと記したものはビユヒアーには見當らぬ所である︒從ってリシアスの減量が

存無したものと假平しても︑それは唯一のものであるから共の以後工場維螢が増加したといふ推論の如きは自

ら崩壊せざるを得ぬ︒況んや﹁百二十人の勢働者を有する果樹﹂を複数に壌ふるが如きは以ての外であるとせ

られる︒當時﹁二十人乃至三十人の勢働者を有する経螢﹂が存したか否かも十三に知らる製所ではなくなる︒

されば當時の裁判記録に材料を仰ぐも︑勢働者の激を知わ得る経螢は三つあるのみである︒上に蓮べたデモス

テネスの硬膏せる三十二人の瀞労働者を有する経螢︑二十入の経費︑及びアイシネスによ砂名付けらる製雪曇乃

至十二人の工場奴蘇を有する靴製造諒解が即ち是れである︒夫故︑此等の藪字を基礎として何等かの結論を下

すべしとせば寧ろぺ鷺ポネサス職争以後︑工業上の奴隷経螢は大となったよりも小となったと言はねばならぬ

とビユピアーは断ずるのである︒

       ヘノ  斯くしてピユビア!は進んでベロツボが﹁古代に於ける大工業﹂㈱ に就て論じた所にも批評の矢を放つ︒べ

罧ツボは謂う︒

﹁第七世紀及び第六世紀に始まった希騰の大工業の獲麟は第五世紀に至って完成を見た︒而して今や吾等は此

の現象を手許に直接に有する誰擦により辿り得る︒最も多くの資料は謂ふまでもなくアテネに就てである︒吾

等は第五世紀の申葉既に敢に富裕となれる工業維螢者を見出す︒即ち煽動政治家クレオンの父クレアイネトス

     ビユbアーの鰹濟獲展段階學説と古代希膿纏濟史       七五

(30)

      七六

の如く︑後に息の綴承せる革乃至靴工場を既に有した者である︒此の階級の人々がペロポネサス戦争の時代に

大部分寺家の指導的地位を占めたことは工業経聾者の思量的重要の釜加はりたる徴候である︒斯くてクレオン

の外に同様に製革の維螢を以て富裕となったア轟トスあり︑ラムプ製造業者ヒペルポ獄ス其他がある︒諺に所

謂藝は身を助くであるが︑併し小さな手工業のみを怨む者は富裕となり得す︑從って吾等はクレオン及びアニ

トスの製革業を以て大維螢と考へねばならぬ︒インクラチスの父テオドロスが螢んだ笛工場も同檬である︒蓋

し彼もび簿麟茜雌臼と稻する尊稻を受け得たからである︒斯かる維馨の鑛︑張に關しては吾等は劇暑的の報告を有

たぬ︒﹂  クレオンが革の製造業者叉は革の販萱業者なりしこと並びに其の父がクレアイネスと呼ばれたことに就いて

はアリストファネスの確誰がある︒然るに當時音樂の指揮を爲したる人にグレアイネトスといふ名の者があっ

たことは明かで之がべ獄ツボにあってはクレオンの父と況貸せられるのである︒叉︑クレオンの父が富めりと

せばクレオン自身も零常の製革業者に非りしなるべく既に工場を有してみたに相違無いのである︒而も﹁第五

世紀の申棄常態となれる工業維囲者﹂︵複数︶がアテネに佳んだと爲し︑内的聯關の不緊要なる二つの有り得べ

からざる事實よりしてアテネの工業獲雲脂器を代表せしめんとするのは︑若し希蝋人をして今日在らしめば驚

倒せんのみとビユヒアーは蓮べるのである︒クレオンの耐會的地位に費してはベロツボ自身﹁希野史し第一巻

に於て﹁富裕なる製革業者﹂なりとし︑同時にまた﹁敏養無き成上り者﹂としたが︑之はツキヂデス及びアリ

(31)

ストフアネスの宣す所と韓を一にするものである︒さりとてクレオン自身革に油を加へ或は革を切ることを爲

さなかったと信ずべき理由は無い︒他方︑アニトス及びヒペルボロスが大工場主に慰すして小工業の経螢者た

りし事も古代の文献の讃する所である︒

 何れにせよ古代に於ては今日の如き工場主の典型は全く知られざる所であって︑イソ〃ラチスの父の所有し

たといふ笛工場の如きは寧ろ滑稽の例を示すものと謂はねばならぬ︒何となれば之は奴隷を用ひて家計の爲め

に毒したるものに外ならす︑且つ今日とて殆んど全く小工業により螢まる曳笛の製造が紀元前五世紀のアテネ

に於て工場組織を有したとは如何にしても信じ得ぬからである︒固より奴隷を用ひて美術晶の製作を爲さしめ

た工業部門の他に存した事は否定し得ぬ所であるが︑併しそれは財産投下の見地よりして爲されたものであっ

て︑工業的企業の見地よりして爲されたものでないことを知らねばならぬ︒而してか謝る奴隷の外にも樹他種

の財産を有したる人々のあった事を忘れてはならぬ︒

 斯くの如くであるから︑ベロツホがアテネの事實のみを見て直ちに﹁平声は釜々工業國となった﹂と主張す

るのはビユピアーより見れば全然即断であり︑小さな手工業者の代りに奴隷経濟に基く大牛馬が現はれ來つた

とするのも更に甚しき聖断であるとせられるのである◎ビユヒアーに取ってはアテネには既に酒布工︑靴工︑

大工︑鍛冶屋︑農民︑鋤作人等の一撲となって寧ろ﹁手工業者問題﹂が存したと考へられるのである︒

 さてアテネに大工業の獲展を見たと主張する論者に取っては當然に封外貿易の繁榮を叙述すべき義務を員は

     ピ言アーの纒濟獲展段階學読と古代希膿経濟史 ︐      七七

(32)

      七八

せられる︒蓋し四十等方哩の痩地に稠密なる人口を擁する所に在っては食料晶の大部分は之を他より仰ぐべき

こと︑而して自らの工業晶は之を清費するも夕景を生すべきことは明白だからである︒然るにマイヤーは何等

確諦を纂げすして之を論じ︑ベロツボも亦之に附和するかの如くビユビアーには見ゆるのである︒ベロツボは

ピレウス港の封外商品交易の統計を輸出入贋格に從って次の如く論く︒㈹

﹁基督紀元前四〇一一○年に於けるピレウスの楡出入税は三〇タレントにて請員はせられ︑其の翌年は三六タ

レントになった︒此の税はニパーセントの高の從債税である︒從って請員の牧釜は一五〇〇乃至一八○○タレ

ントの輸出入.商品の債格に相饗する︒之に徴税費︑脱税︑無税の入荷︑租税請綿入の利釜等を加算するとき

は︑理学〇〇〇タレントの憤格の貿易があったこととなる︒さてアッチカのタレントの挙挙は︵二六冠︶銀を

ペルシアの愚行制の基礎に從ひお騨μの割合にて金に換算して五四四〇・五マルクに當る︒從ってピレゥス

に於ける貿易額は約千百萬マルクに計施せられる︒営時の貨幣便値を今日の三分の一に評贋するときは略ぼ適

楽な算定が爲されるであらうから︑右の千百萬マルクを今日の貨幣債値に見積れば少くとも三千三百萬マルク・

恐らくは四千萬マルク以上に相當するであらう︒﹂

 進んで當時のアッチカの入口を十五萬と推算した上︑べ・ツボは輸出入の一人當のを二二〇一二七〇マルク

として計算し︑之を丁抹の一入當の二八○マルク及び濁乙の一人写り一五六マルクと比較して居る︒曰く﹁ペ

ロポネサス験争の勘忍後アテネは最早何等の貢納を同盟市より受入れす︑銀鑛も慶滅したから︑アッチカは其

(33)

の輪入額を支佛ふに自らの工業及び農業の生産物を以てせねばならなかった︒從って輸出と輸入との領絡を等

しいと見て太過無い︒斯くて輸入は一入継り一二五マルクとなり奴綜︵約五萬︶を除外すれば二〇〇マルクに

類したのである︒・:・然らば珍奇なる天産及び著しく特殊なる工業製品は殆んど貿易品たり得すといふピユビ

アーの主張と之は如何に調和せらるべきか︒五人の家族が畢均一〇〇〇マルクを奢修品に使用したと信ずべき

であらうか︒::畢寛するに輸入は今日の工業國に於ける如く食料晶及び工業原料品に見られたのである︒之

れ屡々昇りにも多く直接確壊せられる所である︒・:・輸出に關しては農作物の申より油のみが注目せられた︒

其他は工業製晶であり︑而も便々も罪なる故主として一般の溝費する商品であった︒﹂

 之に即しビユビアーは先づ五十分の一揖の記述を批評の将内に据える︒然るに之に關しては耳金的研究を成

したるベツク働すら通過貿易の場合並びに陸上交易の場合如何に取扱はれたかの難問を藏することを知らしめ

て居る程であるから未だ弊かに断定し得ぬ黙が存する︒且つ其の徴税に際して即値の算定を如何にしたかは更

に問題とせられる︒若し輸出入の申告により算定せられたとせば申告が十分ならざる場合の罰金があり︑他方

徴税吏が評債の樺利を有したとせば欺儒の場合の罰金がある︒其他港の設備を利用する爲めに徴載せらるべき

費用あり︑五十分の一税と相並んで百分の一貌といふものがあったと謂はれ︑五十分の一税と同一織せられる

ことある墨金といふものあり︑之を要するに五十分の一堂の共和を基礎としてアッチカの輸出入貿易額を計算

するのは頗る不用意であると考へられるのである◎

     ピ晶ヒアーの纒濟⁝渡展段階學説と古代希臓経濟更       七九

参照

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