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古代・中世の防府天満宮の研究

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(1)

古代・中世の防府天満宮の研究

著者 武光 誠

雑誌名 明治学院大学教養教育センター紀要 : カルチュー

ル = The MGU journal of liberal arts studies : Karuchuru

巻 9

号 1

ページ 19‑36

発行年 2015‑03‑24

その他のタイトル A study of Hofu‑Tenmangu shrine, from antiquity to the middle ages

URL http://hdl.handle.net/10723/2406

(2)

はじめに

有力な社寺の立場は、中央でも地方でも中世と近世の境で大きく変

わった。中世には、独自の領地と兵力を抱える社寺が多く存在してい

た。ところが近世に神社は幕府や大名の保護のもとに置かれ、主に氏

子(信者)の初穂料(寄附)によって神社を経営するようになった。

同じ時期に、寺院を維持するための寺請制度が整えられている。

このことを踏まえて防府天満宮の歴史を見ると、史料の制約からそ

この中世の実情が十分に明らかにされていないことがわかる。毛利家

支配下の近世の防府天満宮については豊富な史料があり、その歴史は

おおむね明確に辿れる。

中世以前の防府天満宮は完全に神仏習合した神社で、神社が社坊の

主導で運営されていた。そうであっても、ほとんど祭祀に関与しない

大宮司家を、社坊が一貫して重んじているのである。

ゆえに 「防府天満宮大宮司家とは何であったか」 という問題は、防府天満宮の歴史上の最大の謎と評価すべきである。 一方では出雲氏、宇佐氏、阿蘇大宮寺家、熱田大宮司家、諏訪大祝家 のように、古代の大豪族が有力な神社を支配し続けた例もあった。ま た一方では籠神社の海部家や、諏訪大社の神長官で守矢神の祭司を務 めた守矢家のように、自家の秘伝を代々伝えて祭祀を担当し続けた家 もある。

しかし防府天満宮大宮司家は、そのいずれにも当てはまらない

これまで、防府天満宮に関する多くの研究が出されてきた。幕末か

ら明治初年の弘正方、近藤芳樹の労作に始まり、近年にいたるまで興

味深い成果が積み上げられてきた

(1)

。なかでも田中倫子氏執筆の『防府

天満宮神社誌 社史編』の中の古代・中世の部分は、丁寧にまとめら

れた防府天満宮の通史になっている。

しかし残念ながら、その研究にはもう一歩踏み込みの浅いところが

ある。防府天満宮創建の経緯、在庁官人と防府天満宮との関係、公文

職の賀陽氏と防府天満宮大宮司家との繋がりなどの点である。 武光 誠 古代・中世の防府天満宮の研究

(3)

今回、 筆者が長年にわたって考えてきたことから導き出した、 「防

府天満宮大宮司家を巡る謎」の答えを披露したい。しかし史料が十分

に残っていないため、これは史料をきっちり抑えた確実なものではな

く、推論の一つであることをお断りしておかねばならない。

筆者は日頃から、

「幅広い地域、 幅広い時代に目を向けて研究を進めた者には、 限ら

れた範囲で物事を考える者に掴めないことが見えてくる」

という考えにたっている。

その意味で、次の二点の先学の指摘を出発点として、以下の考察を

進めていくことにする。

松崎

マツガサキ

天神社 佐波村の宮

ミヤ

イチ

に在り、 宮市の名は之に由りて起る。 祠字は丘に倚り、

楼門廻廊丹朱煥然たり、蓋旧土師氏娑婆連の祖神にして、出雲神社

の類也、 又菅原道真を配祀したるにや、 後世は専ら菅丞相を説きて、

其旧伝を逸失す、土師氏は源平戦争の頃、尚在庁の官人として、舟

船奉行を世職としたりしこと、東鑑に見ゆ、此家と大内家の関係明

白を欠く、尚考ふべし。

(吉田東伍『大日本地名辞書』三巻、冨山房刊、一九〇〇年)

周防の土師宿

第十三項娑婆連の後にして、東鑑、文治三年四月二十三日條、同年

二月の周防國在廳官人連署に 「散位土師宿

安利、 同土師宿

弘安、 同土師宿

助遠、 同土師宿

國方 (房) 、 同土師宿

弘正」 など見

ゆ。猶ほ娑婆條参照。佐波郡佐波邑松崎天神社は此の氏の氏神たり

しが如し。又堀村二宮出雲神社も此の氏族と密接なる関係あらん。

(太田亮『姓氏家系大辞 典 』 中 巻、姓氏家系大辞 典 刊行 会 刊、

一九三四年)

両 者はともに、

「防府天満宮を 知 るには、 古 代周防 国 の土師氏の実 情 を掴 ま ねばな

らない」

と指摘するものである。それゆえ一 章 で、 ま た周防の土師氏とは 何 か

を考えることにし よ う。

一、古代佐波郡の土師氏

吉田東伍も太田亮も、防府天満宮と土師娑婆連つ ま り土師氏との関

わりを指摘した。そのうえで防府天満宮と 徳 地の堀村にある二宮の出

雲神社が、土師氏の氏神もしくはそれに類するものであるという。

この推 測 は、 妥当 なものと み て よ い。土師娑婆連とは、推 古 朝 から

皇極朝 にかけて見える土師連 猪手 のことである。

かれは推 古 一一年( 六 〇三)二月に周防の娑婆で 来 目 皇子 の 殯 をと

り行なったことに よ り土師娑婆連 猪手 と 称 した。そして 皇極 二年( 六

四三)十一月に 蘇我入鹿 の 命令 で 巨勢臣続 太とともに山 背 大 兄王 を 攻

めに向かい、戦 死 したとある。この時に 猪手 は、大 仁 ( 六 位相 当 )の

(4)

冠位を持っていた(以上『日本書紀』 )。

平安時代末から南北朝時代にかけての国府関係の文書に、在庁官人

の土師氏が多く見える。 この他に在庁官人の佐波氏もいるが、 土師氏、

もしくは土師氏と佐波氏の両者が土師娑婆連と何らかの繋がりを持つ

ことは明らかであろう。

防府天満宮大宮司家は土師氏を名乗っているが、後で示す文書から

大宮司家を在庁官人の土師氏の中の有力な家とみて間違いない。

佐波郡南部(防府平野)における土師氏の勢力圏の中心は、防府天

満宮のある天神山の麓、東佐波令にあったとみるのが妥当であろう。

そうすると防府天満宮境内にあった天神山古墳と、それに近い天神山

西北麓の石槨が露出した円墳が土師氏が残したものであるとみてよい。

それらの近くに、既に破壊されてしまった古墳が数基あった可能性も

高い。 佐波郡には、ずば抜けて有力な古墳は見られない。佐波郡以外の周

防にも吉備氏、出雲氏、上毛野氏のような有力古墳を残した豪族は存

在しなかった。

それゆえ律令制以前の周防には一国単位のまとまりはなく、佐波郡

南部は自立した小豪族が分立した情況にあったとみられる。 車塚古墳、

鋳物師大師塚古墳、岩畠古墳、大日古墳、片山古墳などはそのような

小豪族が残したものである。

天神山古墳は環刀太刀柄頭を出土した比較的有力な古墳で、七世紀

初頭以後に築かれたと推測されている。

「土師氏は、 もとは出雲神社がある佐波郡北部の徳地を本拠として いた。かれらが防府平野の海上交通による交易の利益を求めて佐波川 流域を南下して、七世紀初頭に東佐波令まで勢力を拡大した」

このように考えられるのではあるまいか。中世以前の佐波郡に、出

雲氏がいたことを示す史料はない。ゆえに、

「防府天満宮を祭った土師氏とは別の出雲氏が、出雲神社を支えた」

とみるべきではあるまい。

不確かな点もあるが、土師氏と出雲神社との繋がりを示す可能性を

持つ史料を一点紹介しておこう。

周防国分寺所蔵文書の中の「国分寺知事一室覚圓手日記」という弘

治三年(一五五七)三月の文書( 『防府市史 史料Ⅰ』三八九ページ)

である。それは国分寺領で近年不知行となったものを書き並べた文書

であるが、そこに次のような下徳地の「武光名」が出てくる。

さらに後に挙げる同じ国分寺所蔵文書の年代不詳の「防府国分寺近

年不知行目録」 (『防府市史 史料Ⅰ』三九七ページ)には、同じ「武

光名」の土地が、 「当時吉見殿押領之事」とある。

大内義長が滅ん だ 時に、 吉見家 (名分、 吉見 正頼 )が 、 陶晴賢 が持っ

ていた土地を 得 たのであろう。

徳地 ( 得 地) の 近 く に 防府天満宮大宮司家以外 に 、「武光」 の よ う

な 珍 らしい 名 字 を 用 いる 家 はなかったと 考 え て 誤 りはあるまい 。 こ の 「地

(後

」 一下 得

(佐波郡)

小 祖 武光名五 段 、近年 陶 殿押 務 之事 (『防府市史』史料Ⅰ、三九 〇 ページ)

(5)

事 実 は 、 出 雲 神 社 がこの 時 期 に 国 分 寺 領 となっていたことと 何 らかの

関 係 があるかもしれない 。

『日本書紀』 に 「沙麼県主祖内避高国避高松屋種」 (「神功皇后摂政

前紀」 ) の 名前が見える。 ところがこの神功皇后に関する伝説的な記

事以外のこの沙麼 (佐波) 県 主に関する史料は、 見られない。 『防府

市史』上巻(御薗生翁甫担当)は、東佐波令から西佐波令の一部にま

たがる範囲を佐波県とする。

しかし佐波県、 佐波県主の実態は全くわからない。 『続日本紀』 延

暦一〇年十二月丙申条に、 「先祖が周防国から讃岐国に移住した」 と

称した佐波部首牛養という人物が見える。この佐波部首が、佐波県主

であったのかもしれない。

いずれにしても佐波県主の子孫は、新たに東佐波令に移住してきた

より有力な土師氏の勢力下に取り込まれていったのであろう。このあ

たりの経緯については、二つの可能性がある。

一つは土師氏と佐波氏とは同じ東佐波令を本拠としても、別の出目

を持つ氏であるとみるものである(①) 。この場合、平安時代末には、 土師氏が佐波氏よりかなり優勢であったことになる。もう一つは土師 猪手が東佐波令に拠る地方豪族を組織して、土師娑婆氏を起こしたと する推測である (②) 。 そ うすると土師娑婆氏が、 のちに土師氏と佐

波氏に分かれたことになる。

土師猪手は、蘇我氏に重用された土師氏の嫡流の人物とみられる。

この点からみて、猪手の嫡子は土師氏の嫡流を嗣いで菅原(土師)古

人の祖先になり、猪手の庶子が周防に下って土師氏を束ねたとみるの

が妥当であろう。

防府の地方史や防府天満宮史の研究者の多くは、在庁官人の土師氏

も佐波氏も土師娑婆連の子孫とする立場をとっている。

『吾妻鏡』 文治三年四月二三日条に収められた 「周防国在庁官人等

言上二箇条」という文書の土師氏の署名の一例をあげよう。

散位 土師宿

安利

この時代に特に有力な在庁官人は、国司の四等官である介、掾など

の官職を自称していた。 そして四等官でない者が、 「散位」 と称した

と考えられる。

船所、税所といった、国守(目代)が任命する国府独自の役目に就

いていても、散位と称さねばならなかったのだ。平安時代末には、六

位の位階はほとんど意味のないものになっていた。

そのためある 程度 有力な在庁官人は、 権 威づけ のために国守 (目代)

経 由 で六位の位階を 貰 い、 「位階はあっても四等官でない」 、 散 位となっ ① 土師氏 土師宿

同じ地域で親密な関係を持つ

佐波県主(佐波部首か) 佐波氏(佐波宿

か)

② 土師氏 土師娑婆連 土師宿

佐波県主 佐波宿

(6)

たのであろう。

防府天満宮大宮司家の土師信方の手に成る『武光家伝来書』 (『防府

史料 第六輯』 (防府史料保存会刊、一九六二年)の土師信貞の末子、

土師武光の説明の部分に次の記述がある。

帝御感ノ上宣命ヲ被成下、五位ノ永宣旨ヲ賜ハリ、永被奉幣使知行

五千石被下置、外ニ在庁領ヲ給ハリ六位ノ官人六十四人被差添、勅

祭ノ神式執行。依之重キ宣命ヲ以テ嫡子武光相伝へ禁戒仕、一子相

伝ニシテ堅戒置別家ヲ立テズ。代々是ヲ相伝へ候。

ここの「六位ノ官人」は、防府天満宮の御神幸祭に奉仕する周防国

府の在庁官人をさすものである。後で記すように江戸時代末の防府天

満宮の御神幸祭の記録にも、在庁官人が出てくる。

このあとの二章ではそのような在庁官人と防府天満宮大宮司家との

関係を探る中から、防府天満宮創建の経緯を考えていこう。

二、防府天満宮と在庁官人

防府平野の北側にある天神山は、 なだらかで形が美しく集落は近い。

その山は古代には、神奈備山として神々の祭祀の場とされていたので

あろう。 神奈備山であったために、そこに天神山古墳などの土師氏の首長の

墓が営まれていたと考えられる。土師氏が防府平野まで広まった古い 時代から、天神山は土師氏の祖先の神々(首長霊)の祭祀の場とされ てきたのである。

前に述べたようにその土師氏は中世に、周防国府の在庁官人として

登場する。平安時代後期の周防には、源氏、平氏、藤原氏出身の有力

な武士はおらず、在庁官人を務める中流の武士が分立していた。

周防の在庁官人を務めた 氏 (豪族、 武士) に、 表に示したような

十六氏が見える。

この在庁官人の中で、土師氏の人数の多さが目立つ。正治二年(一

二〇〇) の阿弥陀寺領注文 (阿弥陀寺所蔵文書、 『防府市史 史 料』

Ⅰ、 三二〇―三二五ページ) に四十四名の在庁官人が署名しているが、

そのうちの十五名が土師氏である。この文書には、その他に佐波氏の

在庁官人一名が見える。

正和二年(一三一三)の周防国在庁官人等連署起請文案(阿弥陀寺

所蔵文書、 『防府市史 史料Ⅰ』 、三三九―三四〇ページ)の四十人の

在庁官人の中には、土師氏が十七人いた。その他にこの文書に、佐波

氏の在庁官人二人が出てくる。 1 古くから周防にいたとみられる武士 土師氏、佐波氏、日置氏、 賀陽氏、多々良氏、 矢田 部 氏

京都

から下った

可能性

い武士

野氏、大原氏、中原氏、 大江氏、 安部氏、 大中

氏、 源氏

の明らかでない武士

氏、上氏、六

(7)

この時代に多々良氏は代々、周防権介、周防介を出していた。また

大江氏の周防権介が二例、日置氏の周防権介が一例いる。

周防の在庁官人の中では多々良氏がもっとも有力で、大江氏と日置

氏がそれに次ぐ勢力を持っていたのであろう。そして多くの在庁官人

を出す土師氏も、かれらのすぐ下ぐらいの位置を保っていたと推測で

きる。 鎌倉幕府の成立後に、幾人かの関東の武士が地頭として周防に移住

してきた。しかしかれらは十分に勢力を伸ばせなかった。そのため東

大寺の領国となった周防では、鎌倉時代末頃まで国府の在庁官人が地

方政治の主導権を握っていた。

このような在庁官人のなかの土師氏は、天神山の防府天満宮の祭祀

を共に行なうことを通じて団結していたのではあるまいか。土師氏の

祖先神である天穂日命、天夷鳥命、野見宿

命を祭る神社の建物は、

飛鳥時代もしくは奈良時代はじめに、天神山の登り口につくられてい

たと推測できる。

吉田東伍が指摘したように、土師氏の祖先神を祭っていたその神社

が、天神信仰を受け入れて防府天満宮となったのであろう。筆者は、

土師氏の祖先神を祭っていた神社の菅原道真公の祭祀は、周防国の在

庁官人土師氏が北野神社(北野天満宮)の保護下に入った時に始めら

れたと考えている。

古い時代のことを伝える史料はないが、 遅くとも鎌倉時代後期には、

大専坊などの社坊が防府天満宮運営の主導権を握っていた。普通に考

えれば、そのような社坊はこういったことを、唱えそうである。 「良源などの比叡山 (大専坊などの本山) の 有名な僧侶が、 防府に

来て天神の祭祀を始めた」

「大専坊の開山、心教阿闍梨が防府天満宮を開いた」

ところが社坊の者たちは、すすんで「防府天満宮大宮司家の開祖、

土師信定(信貞)が防府天満宮を創建した」と唱えた。そして自らの

起源を土師信定に絡めて、次のように記した。

一防州佐波郡松崎天満宮下司乗林坊旧記、本寺萩満願寺

夫当山開基

延喜四年国司信定朝臣奉

勅社頭建立終、 因

茲当寺号

下司役、 初開住法輪阿闍梨、 夫已来八百余歳、 (「 天満宮下司真言宗乗林坊由緒」 、『 防府天満宮神社誌

古文書編』五〇九ページ、一例だけをあげた)

こ れ は 防府天満宮 の 社 坊 が 、「 防 府 天 満 宮 は 土 師 氏 が 祭 ってきた 神 社

で あ る」 点を十 分 認 識 し続け た こ と を意 味 する 。 かれらは 、 自 分 たちが

後か ら天 神 山 の神 社に関 わ るようになったことを 理 解 していたのだ 。

防府天満宮の社領は 室町 時代中期あたりまで北野神社の 荘園 (北 野

社領)と さ れていた。この点から大専坊などの社坊は、もとは北野神

社の 竹内門跡 の末寺であったと考えるのがよい。

江 戸 時代の防府天満宮の神 事 に天 台 宗の 影響 を受けたものが幾つか

見られるのは、その名 残 である。

江 戸 時代に防府天満宮の九つの社坊は、萩の満願寺の末寺になり、

(8)

古義真言宗と称していた (『 防長風土注進案』三田尻宰判上など) 。

し か し 満願寺 は も と は 、 安芸 の 郡山城 に あ っ た 毛利家 の 菩提寺 で あ

る 。この 点 からみて 、 大 専 坊 などが 毛 利 家 と 接 近 するために 安 芸 から 萩

に 移 った 満 願 寺 の 末 寺 と なって 真 言 宗 に 変 わったとみるのがよい 。毛 利

家 の 領 国 であった 防長二国 に は 、 八十一 か 所 の 満願寺 の 末 寺 があった 。

筆者は、このように考えている。

「 北野神社 の 曼殊院門跡 お よ び 、 そ こ を 後援 し た 比叡山延暦寺 の は た

らきかけによって 、 天 神 山 の 神 社 が 菅 原 道 真 公 をあわせ 祭 るようになった 」

北野神社の保護下に入ることは、土師氏の人びとが経営していた田

畑のかなりの部分を北野神社の荘園とすることを意味した。そして土

師氏のがわにも、北野神社、比叡山と繋がることによって、京都の進

んだ文化を学び、北野神社の影響下にある商工民を介して中央との交

易を活発化するなどの利点があった。

北野神社の創建は、天暦元年 ( 九 四七)である。このあと寛弘元年

( 一 〇〇四) に、 一条天皇の北野神社への行幸が行なわれた。これ以

前に最澄が東尾坊を起こしていたが、一条天皇の行幸のとき延暦寺の

僧で東尾坊の別当を務める是算が、北野別当を兼ねることになった。

天仁年間 ( 一一〇八―九) に曼殊院の寺号が用いられるようになり、

北野別当は曼殊院別当となった。北野神社は創立後まもなく比叡山延

暦寺の管下に属し、天台宗の社坊によって経営されるようになったの

である。 この曼殊院門跡が地方に荘園を拡大していく過程で、天神山の神社

は曼殊院、比叡山の管下に組み込まれて天満宮となったのであろう。 曼殊院が、天神山が周防の国府の北西に位置する点に注目した可能 性もある。風水で北西つまり乾 ( 戌亥)は、雷神 ( 鬼 )が人間の世界

に侵入してくる方位の一つとされる。

北野神社は、平安宮造営時の内裏の北西に位置し、天皇の寝所の乾

の方角を守るものとされていた。同じ乾の方向には、愛宕神社と大江

山がある。

曼殊院の僧侶は、日宋貿易が盛んな九州との交通の要地である周防

国府の近くの港 ( 三田尻)に、拠点を築こうと考えた。そして国府の

乾を守る位置にある天神山の神社を、自社の末社とするのに最適のも

のと考えたのだろう。

北野社領は、一二世紀はじめ頃から急速に拡大している。その点か

ら社坊が置かれ天神山の菅原道真公の祭 祀 が 開始 されたのを、平安時

代 末、院 政期 に 相 当する一二世紀はじめ頃とも 推測 できる。ある時に

一 挙 に 有力 な社坊 群 が 出来 たのでなく、北野神社の 支配 と社坊の拡大

は、 何度 かに分けて 徐々 になされたとも考えられる。

防府天満宮は 遅 くとも周防国目 代 藤 原 季助 が 承 安二年 ( 一一七二)

に 金銅舎 利 塔 を 寄 進する前に、北野社領になっていた。 舎 利 塔 は、社

坊の僧侶が 扱 う 仏具 であるからだ。

社坊が防府天満宮の 運 営を 主導 するようになっても、 在庁官 人を務

める土師氏は防府天満宮と 関 わり 続 けた。 南 北 朝 時 代 以後の防府天満

宮で大宮 司 家が 重 んじられたこと や 、江 戸 時 代 の 御 神幸祭に 在庁官 人

が 参 加 した点、 有力 な 在庁 領の 存 在 は、 そのことを 物語 るものである。

慶 長 五 年( 一 六 〇〇) 四 月 に毛利家が発 給 した 「 天満宮 惣 目 録 」

(9)

(『 防府天満宮神社誌 古文書編』 一〇四―六ページ) がある。 そこに、

一六〇、四石余りの在庁給が見える。この時に毛利家から安堵された

防府天満宮の社領は六八四、四石余りであった。つまり社領の四分の

一弱が在庁給であったのだ。

筆者は防府天満宮の社領のなかのかなりの部分が、古くは土師氏の

私領であったのではないかと考えている。そのことによって有力な在

庁給が、安土桃山時代の末まで残されることになったのであろう。

上司家文書の中に防府天満宮の祭祀への在庁官人の関与を鎌倉時代

はじめに東大寺再建のために周防国を治めた重源の天満宮保護に絡め

て説明する文書がある。 鎌倉時代末のものと推測される、 「周 防 国 庁

神事職業等申状案」 (『 防府市史 史料Ⅰ』四五一ページ)である。

し か し 大内家 は 防府天満宮 に国府 よりはるかに厚 い 支 援 を 行 なった

が 、 大 内 家 の 家 臣 が 防 府 天 満 宮 の 神 事 に介 入 することはなかった 。 北 野

神社 が 防府天満宮 か ら 手 を 引 いたのは 、 一四三〇年代頃 で あ る 。 重 源

の 影 響 が そ の 一七〇年近 く 後 ( 一 六〇〇年) ま で 残 ったとは 思 えない 。

天神山 の 祖 神 の 祭祀 を 重 ん じ る 土 師氏 の 人 び と が 、 自主的 に御神幸祭

を 盛 り 立 てたのが 本 来 の 形 だったとみてよい 。 そ して 防 府 天 満 宮 の 門 前

町 が 発 展 したのちに、 国 府 の 検非違使、 得富家 な ど の 土師氏以外 の 東

大寺 の 家来筋 の 在庁官人 も 神幸祭 に加 わるようになったのであろう 。

土師氏は本来は、平安時代中期以後に二宮となる徳地の堀にある出

雲神社を防府天満宮より重んじていたと考えられる。しかし社坊の活

躍で、 防府天満宮は鎌倉時代はじめには一宮 ( 玉祖神社) 、 二宮と並

ぶ佐波郡を代表する神社に発展した。 さらに鎌倉時代末には、宮市と三田尻が国府の市と津に代わって防 府平野の流通の中心になった。そのため室町時代に防長二国などを支 配した大内家は、周防の経済の核となる宮市、三田尻を抑える防府天 満宮を重んじ、さまざまな保護を加えた。

大内家が防長二国を改めた室町時代から戦国時代前半にかけての時

期が、防府天満宮の全盛期であった。

土師氏は社坊が運営する防府天満宮において、どのような役割をは

たしていたのであろうか。次に在庁官人土師氏の中心となる防府天満

宮大宮司家の歴史をみていく中から、 その問題を明らかにしていこう。

三、防府天満宮大宮司の起源

現存する文書で、大宮司家の自身の手で自家の歴史を記した最古の

ものが、 「 防 府天満宮社家由緒書」 の中の 「 防府佐波郡天満宮大宮司

武光靱負由緒書」 (『 防 府天満宮神社誌 古文書編』 四 九八―五〇四ペー

ジ)になる。それは、享保四年 ( 一七一九)に記されたものである。

この文書が、すべての考察の出発点となる。まずそれの、系図の部

分を示そう。

一土師氏 鼻 祖天 穂日 命十 有四 世孫 出雲野見 宿祢嫡裔 周防 守従 五 位 土

師 信貞 大宮司 之元 祖 也 、 信貞十 有二 世 の 苗裔 武光三 郎左衛 門土

師 信久也 、 信久 より五 世 の 嫡孫 武光 左 近土師 信 家、 嫡子 武光 修理

土師 信 治、 嫡子 武光次 郎 三 郎 土師 信 国、 嫡子兵衛 介土師 信好 、 嫡

(10)

子武光左近土師信次、嫡子武光左近上

土か)

師信道、嫡子武光靱負土師

信重

右永宣旨・院宣・御教書・御家御先祖様御判物紛失仕候、纔家ニ

残り候証文書記申候、 次ニ系図社記一同ニ大永年中ニ焼失仕候故、

実名不分明候故、 享禄年中

代々大宮司実名書付指上申候所如

享保四年巳 (ママ己か)亥防州佐波郡天満宮大宮司

四月廿八日 武光靭負

土師信重(印・花押)

靭負の六代前の信家以後の系図は続いており、それ以前の部分には

欠けが多い。大永六年(一五二六)の火災は事実であるから、その火

事のあとの系図は確かな記録にもとづいて書かれたものであろう。だ

からこの系図の信重の六代前の信家以後の部分は、全面的に信用でき

ると考えてよい。

まず信家の世代から江戸時代末までの防府天満宮大宮司家の系図を

整理して記しておこう (『松崎天神縁起詞書』 に見える、 信 定を一代

目とした数字を付した) 。

7 左近信家(衡兼) ―8

修理進信治(孝信、信三) ―9

左近信国(信

安、 次郎三郎) ―

兵衛介信好 ( 兼信、 宮 寿丸) ―

左近信次 (信明、

与兵衛尉) ―

左近信道(信次、一六五五―一七三九年) ―

土佐守

信重 (信繁、 靭 負、 一六八二―一七六四年) ―

織江信方 (信常、

靭負、 一七四八―一八二五年) ―

靭負信清 (一七七八―一八五八

年) ―

波江惟肖(一八一一―一八六九年) 「防府佐波郡天満宮大宮司武光靭負由緒書」 には、 信家は享録年中

(一五二八―三一年) の 人物とある。 かれが享録末年に五十歳であっ

たと仮定すると、信家は一四八二年の生まれと推測できる。

信家の五代後の左近信道が一六五五年の生まれであることは、信頼

できる位牌の記述から確実だから、五代の最初と最後の年齢差が、一

七三年となる。 すると、 それの一代の平均の年数は三四・六年になる。

家系研究で一代三三年という数字による計算が使われることが多い

ので、それはほぼ妥当な数字といえる。

次に史料に見える人名を繋いだ信家にいたる次のような系図を作っ

てみた

(2)

(土師) 1

信定―2

三郎左衛門尉信久 (資宗) ―3

三郎次郎成世―

4 三郎左衛門尉某―5

某―6

継信―7

(信家)

この系図のどこかで断絶、つまりもとの大宮司家が滅 ん で 別 の 者 が

大宮司家となったといった事 態 が 皆無 だとは 言 い 切 れない。

またそれがきれいな 直 系だけの系 譜 である 点 も全面的に信頼し 難 い

かもしれない。しかし防府天満宮大宮司家が江戸時代のように「一子

相伝 」( 『武光家 伝来 書』 )を 鎌倉 時代末以 来 守っていたと 想 定すれ ば 、

大宮司家の系図は 養 子 関係 はあっても 形式 上は 直 系だけのものになる。

『松崎天神縁起 絵巻 』の 願主 になった 従 五位 下 土師信定より前の、

防府天満宮大宮司家の 者 に 関 する確実な史料は一つもない

(3)

「武光靭負由緒書」 の系図は、 2

信久を7

信家の五代前の人物とす

(11)

る。信久が三十歳で公文給を安堵されたと仮定すれば、かれの生年は

一三二五年になる。するとこの間の五代は一代平均で三一・四年とな

り、妥当な数字となる。

同じ「由緒書」に延喜元年(七〇一)に周防守であったとされる土

師信貞は、2

信久の十二代前にあたると記されている。信貞が四十歳

の時に周防守であったという仮定の数字で計算すれば、信貞は八六二

年の生まれという計算が出る。

これをもとに計算すると信貞から2

信久までの十二代の一代平均の

年数は、三八・六年になる。江戸時代の

信道から

惟肖までの一代

平均の年数が三九・〇年である点を考慮して、三八・六年というのも

有り得る数字になる。

「武光靭負由緒書」 を書いた信重は、 おおよその年代を計算した上

で、信貞を2

信久の十二代前としたのではあるまいか。

1 信定は、 正和二年に在庁官人として見える (「周防国在庁官人等

連署起請文案」 前 掲) 「散位土師信貞」 と同一人物と考えられる。 か

れは大宮司家に下された「五位永宣旨」 (武光靭負由緒書」 )にもとづ

いて従五位下と称したのであろう。

こ の 永宣旨 は 防府天満宮社領 が 北野社領 に な っ た時に、 曼珠院門跡

のはたらきかけで 、 在 庁 官 人の土 師 氏の束ね る家に下 されたのではある

ま い か。 平 安 時 代 末に は、 従 五 位 下 の位 階の価 値は大き く 下が っ て い た 。

信定 の 時 代 の 松崎天神縁起絵 巻の絵の、 防府天満宮 の 境 内を出た南

東の部 分に、 武 家 屋 敷が見え る 。 そ こ は 近 年 ま で 御 館と呼ば れ た 土 地

で、 『武光家伝来書』 は 大宮司 家 の 家 はかつて 「御館村」 にあったという 。 こういった点からみて、信定が絵巻の画家に天満宮のそばの自邸を 描かせたとみてよい。

信 定の次の 三郎左衛門尉 (2

信久) の 名 前 は 、 正平九年 (一三五四)

の公 文 給に関す る文 書に出て く る 。 そ れ は 、 同 日に出さ れ た 良 心 奉の次の

三 通の文 書 (『防府天満宮神社誌 古文書編』 二一 ペ ー ジ ) の 中 に あ る 。

A 「前欠

周防国天神宮公文職事

補任 賀陽兼成

右人為

重代所職

之上者、 任

先例 、可 被 致 沙汰 之状如

件、

正平九年正月廿三日 僧良心 奉

(花押a)

周防国 天神宮領内公文給之事、坪付別紙在

之、然者任

例、

知行不

可レ有

相違

者也、仍状如

件、

正平九年正月廿三日 僧良心 奉

武光三郎左衛門尉 殿

(花押 b )

□□

周防

国 天神宮領内 □

〔岡〕

佐波郡

依壱町 事、如

元為 □□ 給

公文

可 被 領 作

之由、 □

カ〕

家所

仰候 也、仍 伏 如

件、

正平九年正月廿三日 僧良心 奉

この三通の文書の関 係 を 把 握 するのは 難 しい。賀陽兼成と武光三郎

(12)

左衛門尉を同一人物ではないかとする説

(4)

もある。しかし筆者は、B

と C が別の花押の人物が出させた文書である点に注目する。そこからA

とC

は賀陽兼成を公文職に任命して岡依一町の公文給を安堵したもの

で、B

が武光三郎左衛門に岡依一町とは別の土地を公文給として安堵

したものとなる。このとき三郎左衛門尉(信久)に安堵された公文給

が、後の応永二七年の文書に出てくる高畠などであろう。三郎左衛門

尉は、これ以前から公文職の地位にあったとみられる。

防府天満宮は土師氏と関係深い神社で、防府天満宮大宮司家は、自

家が土師氏の出であることに強いこだわりをもっていた。

在庁官人の賀陽氏は、吉備系もしくは渡来系とみられ、土師氏の同

族ではない。在庁官人としてそれほど有力でなかった賀陽氏が、自家

の領地を防府天満宮領とすることによって土師氏と結び、その地位を

保とうとしたのではあるまいか。

「公文職」という言葉はふつうに考えれば、 「在地の武士の系譜を引

く荘官」をさすものになる。防府天満宮の社領には、土師氏の私領の

系譜を引く土地を管理する公文職と、賀陽氏の私領の流れの土地を治

める公文職、その他の複数の公文職がいたのではあるまいか。

そして賀陽氏はのちに私領を防府天満宮領から自立させるなどして、

防府天満宮から手を引いた。そのことを証拠づけるものとして、賀陽

氏の公文職関係の文書の案文(写し)が大宮司家に伝えられることに

なったのであろう。

年代からみて三郎左衛門尉 (信久) は、 永徳三年 (一三八三) の

「天満宮十月会諸役差文」 (『防府天満宮神社誌 古文書編』 二 〇九ペー ジ) に大宮司として出てくる土師資宗と同一人物である可能性が高い。

資宗はこれ以前に永和五年 (一三七九) に 在庁官人の一人として、

「周防国在庁官人等勘状」 (『防府天満宮神社誌 古 文書編』 二三ペー

ジ)に署名している。

さらに次の至徳三年(一三八六)の文書に、三郎左衛門尉(信久、

資宗)の後断者とみられる3

三郎次郎成世がみえる。それは、武光家

が重代相伝する公文職と在庁職およびそれに伴う名田畠を安堵された

ことを伝えるものである。

天神宮公文職并名田畠等国方在庁職并名田畠等

坪付別紙有

之 右所職名田

、為

武光重代相伝

之間、三郎次郎成世ニ譲与上 、

他妨 永代可

有 知行

(『防長風土注進案』三田尻宰判下、二八六ページ) 也、

成世の次の世代が、4

三郎左衛門(某、信久とは別人)である。か

れは次の文書によって、北野神社の関係者とみられる左衛門督資胤か

ら公文名を安堵された。

周防国天神宮領公文名之事

合 佐波令

佐波郡

一所壱反 高畠

一所壱反小 岡畠

一々五反 東三まい

(昧)

寺免

(13)

応永廿七年八月三日 左衛門督資胤

在判 在判

(ママ)

武光三郎左衛門尉殿 (『防府天満宮神社誌 古文書編』二五ページ)

三郎左衛門尉がこの文書の発給を求めるために北野神社に提出した

次のような公文職関連の十五通の案文の目録が、 「防府佐波郡天満宮

大宮司武光靭負由緒書」に引用されている。

一通 御教書下地?

一通 北野殿下地、応永五年八月十日法印御在判*

一通 応永九年北野政所殿下地在判*

一通 応永五年八月十一日北野殿大法師在判*

一通 応永廿二年六月六日北野殿法眼在判*

一通 正平九年正月廿三日北野殿僧良心袖判

一通

院前御在判

文永九年九月日△

一通

補任在判

正元二年四月十四日△

一通 御教書下地北野殿?

一通

御教書

文保元年九月六日

一通 建武三年十月二日北野殿下地*

一通

岡入壱丁下地

貞和二年九月十八日北野殿下地袖判△

一通 徳治二年十二月廿日北野政所下地* 一通 正平九年正月廿三日北野僧良心袖判下地△

一通

補任

正平九年正月廿三日北野僧良心袖判△

以上十五通

武光三郎左衛門尉殿下地此分ニ候

この中に現存しない文書(*)六通と内容不明な文書(?)二通が

あるが、十五通の中の五通(△)は明らかにかつて賀陽氏に下された

文書である。

この事実は文書目録が書かれたとみられる応永二七年(一四二〇)

以前に、賀陽氏が防府天満宮の公文職から手を引いたことを物語るも

のではあるまいか。

これまで紹介した文書からみて、南北朝時代から室町時代前半まで

の防府天満宮大宮司家の拠り所は、国府の在庁職と防府天満宮領の公

文職の二者にあったと考えられる。これらは、小領主(武士)が就く

職である。

もっともこの二者は、古くは同一のものであったとみてよい。土師

氏の中の大宮司家となった嫡流の所領で、防府天満宮、北野神社を介

して比叡の保護下にあったのが天満宮領である。そしてそれ以外の所

領は公領とされ、国府を経由して東大寺の名目的支配を受けていたの

であろう。

大宮司家は古くは、 「大宮司の地位は、 武士としての本来の職務の

上に載せられた名誉職」と考えていたのであろう。防府天満宮の運営

にあたっていたのは、大専坊などの社坊であった。 一々五反 西三まい

(昧)

寺免

右為

重代公文名職

、所

宛行

件、

(14)

そのことは、天満宮政所が発した「天満宮十月会諸役差文」 (『防府

天満宮神社誌古文書編』 (一九九ページ以下) か らもわかる。 こ の

文書の署名者の詳しい一覧は 『 防府市史 通史Ⅰ』 (前掲の五一〇、

五一一ページ)に記されているが、その概要を次の表にしてみた。

「差文」 によって、 神主、 大宮司、 下司、 宮司、 御膳所が天満宮の執

行部(意志決定機関)である防府天満宮政所を構成していたことがわ

かる。 しかし古い時代の差文に神主と大宮司の花押が記されていない。

これは社僧から成る下司、 宮司、 御 膳所だけが、 十 月会 (御神幸祭)

の諸役(大行司、小行司など)の選任などの天満宮の運営を担当して

いたことを示すものである。貞治四年(一三六五)と永和元年(一三

七五)の大内弘世の社殿造営の時の棟札にも、大宮司家の者は見えな い。このとき大宮司家は、在庁官人の吉藤近綱を大宮司代として送っ ていた。御神幸祭の差文に最初に関わった大宮司は、永和四年(一三 七八)の土師資宗である。

大宮司の花押はこの年から継続して記されるが、神主の署名は見え

ない。そしてこのあと、一四世紀末から一五世紀末までの九十年間の

文書の欠落がある。

そして長享元年(一四八七)以後の差文には、神主に代わって公文

が登場する。公文の花押も、このあと必ず記されるようになる。一五

世紀末に、大宮司家の人間が公文を務めたのは確かであろう。

神主の実態を伝える史料はないが、神主も大宮司家の人間であった

可能性が高い。社僧たちは大宮司家を尊重して、大宮司家の二人の者

を名ばかりの政所の構成員に迎える形をとっていたのであろう。

神主が何か確かなことはわからないが、筆者は類例からみてそれは

ある時期の諏訪大社上社の大

のような祭司ではなかったかと考えて

いる。古い時代の天神山の神社の祭祀で、土師氏の嫡流の家の少年が

神主と名乗り神託を受ける係を担当していたのではあるまいか。

この神主は成人後に家を嗣いで、土師氏を束ねた。しかしその習俗

は平安時代末頃に廃れ、神主の名目だけが残っていたのであろう。

花押 か ら 室町時代末 に 大宮司家 の 別 々 の 二 人 の 人 間 が 、 大宮司 と 公

文 を 務 め ていたことがわかる 。 資 宗 でない 方 の 三 郎 左 衛門尉某 の 孫 と み

られる 6

継信 は 、 明応七年 と 八 年 (一四九八―九九) に 公 文を務め、 明

応 九 年 に 大 宮 司 になっている 。 明応九年 に は 衝兼 (継信 の 子 、 7

信家

か) が公 文の地 位 を嗣い で い る 。 別 人が神 主 と大 宮 司 を務め た の に 合わ

番号年代

①一三三〇年神主、大宮司、下 司代、宮 司、御 膳所

②一三三一―四六年欠落

③一三四七―七七年 **主、大 **宮司、下 司、宮 司、御 膳所

④一三七八―九五年神主、大 宮司、下 司、宮 司、御 膳所

⑤一三九六―一四八六年欠落

⑥一四八七―一五四一年 ***司、下 司、公 文、大 宮司、御 膳所

⑦一五四二―一五九一年宮 司、下 司、大 宮司、公 文、御 膳所

*③の期間に、文書が欠落している年もある。**③の期間に、神主、大宮司を欠く文書もある。***⑥の期間に署名の順番が変わっている文書もある。

(15)

せ て 、 別 々の者が大 宮 司と公 文 になるのが 望 ましいと 考 えられたのであ

ろうか。 「差文」 の花押から、 戦国時代末の天文一八年 ( 一五四九) から同

じ一人の人間が大宮司と公文を兼任するように変わったことがわかる。

戦国時代後半に活躍した8

修理進信治(孝信)は、継信の孫と考え

られる。かれは、防府天満宮大宮司家の勢力拡大に努めた。

防府天満宮祠官鈴木家所蔵とされる、次のような留守所下文写があ

る。 留守所下

周防国在庁給田事 合田数坪付有別紙

鬼武藤寿丸

右件給地事、鬼武七郎相伝之、然処先年有子細為闕所近年雖宛行武

光新三孝信、彼仁免一家相続之間令改易任本主之筋目還補処也、然

者有限神役並国役相当分、聊無難渋如先規致沙汰可有知行、若於有

不儀無沙汰者雖為何時可令改替者、保民宜承知敢勿違失、故以下、

天文十五年丙午三月廿八日

目代 在判 (『防府市史』史料Ⅰ、二五二ページ「防府天満宮文書」

風土注進案所収文書)

孝信は、修理進と同一人物である。かれは国府にあれこれはたらき

かけて、 闕 所になっていた在庁鬼武七郎の所領を得ていたのであろう。 また前に掲げた弘治三年(一五五七)の文書の数年後に国分寺から 毛利家に提出した、 年代不詳の 「防府国分寺領同末寺近年不知行目録」

に次の記述がある。

一同料所冨海

(佐波郡)

保三町九反大

元壱町七反六十歩

内現田九反半、当時武光方進止

之、其外現作所多分人給被宛行之、残寺家分依為永否川成、一向

無所 務 事 (『防府市史』史料Ⅰ、三九七ページ)

国分寺領の一 部 を 管 理していた武光家が、年 貢 を 納 め ずそ こを 私 領

化 したというのである。

戦国大 名 毛利家の 支配 下の修理進の 動 きを伝える、次のような防府

天満宮文書がある。

円楽坊隆恵・ 大 専坊慶雄連署 書 状

天満宮大宮司武光修理進事、 去冬動乱

(永十二年)

之 砌 、 至

(周防国佐波郡)

右 田

〔岳〕

無 籠 城

付 而 、

彼給地 等 可

被 押 置 之 由 、 対

鈴木内蔵 助

御奉 書 到来候 、雖

然彼

武光事、日 夜 社頭 御 番 相 懃 候 、 各 坊 中 社 官 等 存 知 仕 候 、聊不

致 無

沙汰

之 趣 、為

言上 遂 参上 候 、 右 大宮司役之事者、 往 古 周防国

司為

土 師 信 定 筋目

、七 百 年以 来 社 役 取 次 申 来候 条 、如

前々 社 例

相違 之 様 御 披露 奉

仰 候 、 恐 々 謹 言 、 正

(永十三年)

月廿三日 慶雄

(大専坊

(花押

113

) 隆恵

円楽坊

(花押

114

(16)

国司右京

(元武)

亮殿

(裏書)

右前具令

披露 、被 成 御心得

候事、以上、

堅田源

十一月廿三日 元乗(花押)

国司飛騨守 元相(花押) 」 (『防府天満宮神社誌 古文書編』五一ページ)

深よみになるかもしれないが、筆者はこの文書から次の事態を想定

している。

「大内輝弘の乱 (一五六九年) が 起こった時に、 修理進が私兵を引

き連れて防府天満宮の社地の警備に当たった」

豊後の切支丹の武士を主力とする輝弘の軍勢は、仁壁神社、広沢寺

など多くの社寺を破壊したが、防府天満宮は大宮司家のおかげで難を

免がれたのである。

防府天満宮大宮司家の役割は、緊急時に土師氏の流れをひく在庁官

人の兵力を束ねて天満宮を守備することにあったのではあるまいか。

天満宮の社地は、天神山の登り口の天然の要塞にあった。大内輝弘

の乱の時に宮市の町や天満宮の社地より下にあった天満宮の社坊は、

輝弘の軍勢によって焼かれている。

『防長風土注進案』 三田尻宰判上の次の記事に、 防府天満宮大宮司

家が大内家統治下で、二百石の所領をもっていたと記されている。

大内家

高貮百石餘被遣、 (『風土注進案』三田尻宰判上、一三二ページ)

これは、前に掲げた『武光家伝来書』が記す五千石のような膨大な

数字ではない。 この時期の天満宮領が九百石ほどであった点からみて、

二百石という数字は妥当なものではあるまいか。江戸時代末の東佐波

令の石高が三〇八〇・四石余り、 人 口が一五四八人であった (『防長

風土注進案』三田尻宰判上) 。

そこから類推して、室町時代の大宮司家は純然たる私領として東佐

波令の約十五分の一にあたる、人口百人ていどの所領を支配していた

と考えられる。この他に防府天満宮領公文職としての得分や、国分寺

などの荘園の現地管理人としての収入もあった。

二百石の領地で動員できる兵力を約六人とみたうえで、それに在庁

官人の兵力十四人ていどと計算しておこう。修理進は大内輝弘の乱の

時に、二十人ほどの兵力で天満宮を警備していたのであろうか。

御神幸祭は防府天満宮で最も重要な神事であるが、その中心となる

のが浜殿(御旅所)の儀式である。江戸時代にひらかれた浜殿の神事

の座席をみると、興味深いことに気 付 く。

一 本松 の前 方 右に、大宮司と在庁などがまとまって 着 いている。そ

して一 本松 の前 方 中 央 に大 専 坊と乗 林 坊が 見 える。さらに一 本松 の 左

側 に大 行 事、 小行 事と 祠 官の 鈴木 家・ 都 家、社官がいる。

大宮司家の 周囲 にいる六人の人 物 のなかには、 枝 光、光 貞 、 笹 光の

名 字を 名 乗るものが 見 える。

枝 光家などは、 在庁官人土師氏の流れを引く人 び とではあるまいか。

(17)

大宮司家の名字が一子相伝の神聖なものとされたために、かれらは枝 光などの、大宮司の名字に似た名乗りを用いたのであろう

(6)

このような浜殿の座席から、 次のような図式が浮かび上がってくる。

古くから大行事、小行事は、社坊の主導によって選任されてきた。

また祠官の鈴木家と都家は、大行事、小行事を務めたことをきっかけ

に社坊に従い、代々、社坊の下で神事に当たる家になったと考えられ

る。 戦国時代頃までは、御神幸祭が大宮司家や在庁が防府天満宮の祭祀

に関わる唯一の場面だったのではあるまいか。この他に大宮司家は、

御神幸祭の定文にも署名した。

戦国時代までの主要な社寺の多くは、自ら武装してその利権を守っ

てきた。ところが、防府天満宮の社坊が僧兵を抱えたことを示す史料

は全くない。かれらは大宮司家などの在庁官人の土師氏に、守っても

らったのであろう。

大宮司家は時代が下ると共に、防府天満宮との関わりを強めていっ

た。南北朝時代の終わり(一三七八)に、大宮司が御神幸祭の定文に

署名するようになった。 さらに室町時代の末 (一四八七年) ま でには、

公文も定文に署名するようになっていた。 これは防府天満宮が宮市を支配して佐波郡南部における交易の主導 権を握ったことや、在庁官人の拠り所であった国府の勢力の後退と深 く関わるものであろう。そして江戸時代に村落の小領主としての武士 として自立できなくなった大宮司家は、しだいに御神幸祭以外の神事 にも参加するようになっていったのであろう。

むすび

防府天満宮は室町時代に宮市を支配して防府平野の流通路を抑え、

全盛を誇っていた。文保元年(一三一七)の「天神宮社領注進状写」 (『防府天満宮神社誌 古文書編』一六ページ)に、防府天満宮の社領

は七七町一反一二〇歩であったと記されている。これを石高に換算す

れば、九百石ぐらいになる。この中の四二町六〇歩が佐波郡にあり、

二六町六反二四〇歩が防府天満宮の御膝下の佐波令にあった。

この時期の国府は佐波郡で二三四町七段の公領を保有していたが、

防府天満宮は佐波郡内において国府に次ぐ量の荘園を持っていた。

防府天満宮の七七町余りの社領は、大内家の滅亡まで維持された。

さらに、 大内家から寄進された分も大きかった。 大 内家は東大寺領

(公領) を除いた佐波郡一円から国主に納められた租税を、 年 々防府

天満宮に渡していた (「大内家奉行、 岡部興景書状」 、『防府天満宮神

社誌 古文書編』三七ページ) 。

大内家は防府平野の支配には、防府天満宮との連携が欠かせないと

考えていたのであろう。毛利家も当初は、防府天満宮との繋がりを重 大宮司家 在庁

社坊 大行事、小行事

祠官、社官

(18)

んじた。慶長四年(一五九九)には毛利家が、防府天満宮の社領一〇

二八石六斗余りを安堵している (『防府天満宮神社誌 古 文書編』 九

四ページ) 。

この数字は、一宮玉祖神社の社領一五八石余、二宮出雲神社の社領

六六石余よりはるかに多い。

ところが翌慶長五年四月に防府天満宮の社領は大幅に削られて六八

四石四斗余りになった (『防府天満宮神社誌 古文書編』 一〇四ペー

ジ) 。 これはその年の九月の関ケ原合戦より前のことであるから、 敗

戦後の毛利領の大幅な減封からくるものではない。

安土桃山時代後半に毛利家の役人による防府平野の支配が安定して

きたために、防府天満宮の利用価値が低下したのであろう。このあと

何度も、社領の削除がなされた。そのため江戸時代の防府天満宮は、

防府の町人の初穂料に支えられる形をとらざるを得なくなった。

江戸幕府の支配が確立していく中で、有力な社寺の役割は大きく後

退したのである。

防府天満宮はもとは、土師氏が祖先神を祭る天神山の小社であった

と考えられる。

このままではその神社は、在庁官人土師氏の勢力後退のなかで衰退

し、歴史上無名のままで終わったかもしれない。しかしそこは北野神

社の荘園になって比叡山の保護下に入ったことによって、社坊の主導

で大きく発展した。

北野神社や大宰府天満宮も有力な社坊によって運営されてきたが、

防府天満宮では社坊が経営する神社に、土師氏の流れをひく大宮司家 が関わり続けた。

防府天満宮の社坊は室町時代に北野神社から自立し、大内家と連携

して防府平野の交易を握り全盛を誇った。 しかし大内家の滅亡と共に、

防府天満宮の地位は下降していった。

このような歴史をうけた防府天満宮は、江戸時代に急速に寂れてい

きそうに思えてくる。しかし現実には、天満宮は防府平野の人びとの

支援のおかげで今日まで賑わい続けることになったのである。

( (防府天満宮展実

委員会刊、二〇一一年) )。

宏明

防府天満宮 の 歴 史

(『防府天満宮展 日

本最

初の天 神 さ ま 』 神社誌 社史編』 (防府天満宮刊、 二〇〇五年) の 田 中 倫子 執筆部分、 鈴 委員会刊、二〇〇四年)の八

木充

・平 瀬直 樹執筆部分、 ⑦ 『防府天満宮 (『

佐波

』二

、 一九九五年) 、『防府市史

』(防府市史編

研究

』一二七、一九九四年) 、

⑥脇

典「

防府天満宮の

創建

いて

九八八年) 、

⑤貝英幸「

周防

松崎天神社 『十月会』 と大内氏

(『

芸能 「

防府天満宮の社坊に

いて

(『山

口県

文書

館研究紀要

』一 五 、 一 (防府市教育委員会刊、 一九六〇年) の御薗生執筆部分、 ④ 平 瀬直 樹 府市史』 上巻 (防府市教育委員会刊、 一九五六年) と 『続防府市史』 第十五集 防府天満宮考録』 防 府市教育委員会刊、 一 九六九年) ・『 防 集』 防府市教育委員会、 一 九七七年刊所収) 、 ③ 御薗生翁甫 『防府史料 社顕聖記』 (一八七四年) (以上『防府史料第二十六集 防府天満宮縁起 ) ①弘正方『周防松崎天神鎮座考』 (一八四九年) ・②近藤芳樹『松崎神 1

『土師

姓武光

系図

』 は土師

方が記した文書の中にも

用されている

写真

が山

口県

文書

にある)には、これと

なる

系譜

が記されている。 る。 『土師

姓武光

系図

』( 明

時代初年に

録されたと

られる

写本

尉信久

資宗

三郎次郎成世」

の記

含む別

系図

復元

可能

にな )た

資宗

三郎左衛門尉

でなかった

合には、

「信

定 ―

三郎左衛門

2

(19)

が、初代土師信貞から明治初年の人物にいたるすべての人名を網羅した その系図の記述には疑わしい部分がある。 (

( 天満宮の人間だとする伝えもあるが、確実なものではない。 元年(一一八五)三月二一日条に出てくる舟船奉行船所五郎正利が防府 ほぼ確実だが、誰が信定の先祖かは明らかでない。また『吾妻鏡』文治 人の署名がある。この両者のなかに防府天満宮大宮司家の者がいるのは 十一月の『阿弥陀寺領注文』に在庁官人を務める土師助元ら土師氏十五 土師安利ら五人の土師氏の在庁官人がいる。また正治二年(一二〇〇) ) 『吾妻鏡』 文治三年 (一一八七) 四月十三日条所引の在庁官人訴状に 3

( )『防府天満宮神社誌 社史編』田中倫子氏執筆分。 4

) 武光一氏の教示による。 5

参照

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