ジョージ・H・W・ブッシュ政権初期の同盟政策
― SNF
問題と
NATO首脳会談―
志 田 淳 二 郎
*George H. W. Bush’s Administration and His Policy toward the Western Alliance: The Dispute over SNF Modernization
and the NATO Summit in 1989
SHIDA Junjiro The aim of this paper is to analyze President George H. W. Bush’s efforts to solve the dispute over SNF (Short-range Nuclear Forces) modernization within the Western alliance early in 1989. Recently, many works on the end of the Cold War have been published, based on newly declassified documents. These studies, focusing on the specific year “1989”, aim to explain the international political process of German unification. Yet, many Cold War scholars don’t pay enough attention to the details and impact of the SNF issue. To appreciate the process of the Cold War’s demise, I think we have to revisit the SNF issue within NATO that occurred in early 1989, and which had a strong influence on the 41st President’s administration. In this paper, I will investigate the political process of the SNF modernization dispute from the perspective of U.S. foreign policy, using some primary sources located at George Bush Presidential Library and Museum (Collage Station, Texas). This paper will show that the administration struggled to relieve the strained situation over SNF modernization within the Western alliance and held a NATO summit successfully in May 1989.
キーワード:冷戦終結,ジョージ・H・W・ブッシュ政権,NATO首脳会談,短距離核戦力 の近代化
Key Words : the Cold War’s demise, George H. W. Bush’s administration, the NATO Summit, SNF (Short-range Nuclear Forces) modernization
* 中央大学政策文化総合研究所準研究員
Associate Fellow, The Institute of Policy and Cultural Studies, Chuo University
は じ め に
最終的にわれわれの東西政策が成功するかどうかは,対西側政策にかかっている.
アメリカと他の同盟諸国が協調していけるかどうかが重要である(ベーカー 1997:
199).
これは,1989 年 4 月 14 日,ブッシュ(George H. W. Bush)政権(1989-93 年)のベ ーカー(James A. Baker)国務長官による全米新聞編集局協会での演説の一部である.
1989 年と言えば,東欧革命や東西軍縮交渉の進展などの冷戦終結を飾る事件が相次いだ一 年として知られている.だが,ベーカー演説の中には,ソ連に対するアメリカ,民主主義 の勝利を謳うような迫力も華やかさも見られない.当時のアメリカは冷戦終結を彩る歴史 的事件に対処しなくてはならない一方で,同盟内で深刻な対立を抱えていたのである.そ れは,短距離核戦力(Short-range Nuclear Forces:SNF)近代化をめぐる問題であった.
本稿では,このSNF問題をめぐる同盟内の対立と協調の政治過程をアメリカ外交の視 点から検証する.従来,SNF問題は,(ⅰ)現状分析(Asmus 1989 ),(ⅱ)理論研究に おける一事例(Sanjian 1992),(ⅲ)個別的な研究対象(ドイツ統一研究,NATO研究)
における副次的イシューとして扱われてきた(Zelikow & Rice 1995;高橋 1999;佐瀬 1999;金子 2008)1).史料開示が進み「歴史としての冷戦終結」研究が可能となった近 年では,新たに公開された一次資料を駆使した多くの優れた冷戦終結研究が発表されてい る.ブッシュ政権の外交政策論(Maynard 2008)やマルチアーカイヴの手法を用いたド イツ統一研究(Sarotte 2009)などがその代表的業績である.だが,本稿が考察対象とす るSNF問題が同盟内で紛糾した 1989 年を考察時期とするこれらの冷戦終結研究は,専ら ベルリンの壁崩壊前後の国際政治過程に焦点を当て,SNF問題を看過しているのが実情で ある2).つまり,SNF問題を正面から扱う研究は未だ存在していないと言ってよい.
そのため本稿は,ジョージ・ブッシュ大統領図書館(George Bush Presidential Library and Museum)所在の一次資料,当時の新聞資料,政策決定者の回顧録などを中心に使用 し,この問題に取り組むものである3).まず第Ⅰ章では,SNF問題を概観する.第Ⅱ章で は,ブッシュの同盟政策を同盟国との調整という視点から検証する.続く第Ⅲ章では,前 章で検証した同盟内の対立を抱えながらも,1989 年 5 月末のNATO首脳会談の開催を達 成したブッシュ外交の展開を検証する.「おわりに」では,本稿のまとめを行う.
Ⅰ ポスト・レーガン期の安全保障政策
1.INF 全廃条約のインパクトと東西軍事バランス
1987 年 12 月 8 日,レーガン(Ronald Reagan)アメリカ大統領とゴルバチョフ(Mikhail Gorbachev)ソ連共産党書記長は中距離核戦力(Intermediate-range Nuclear Forces:
INF)全廃条約に調印した.同条約では,米ソが中距離ミサイル(Intermediate-Range Missile:IRM,射程距離 1,000 ~ 5,500㎞)と準中距離ミサイル(Shorter-Range Missile:
SRM,射程距離 500 ~ 1,000㎞)の飛行実験・生産・それらの発射基の生産を禁止するこ とが規定されている.具体的には,条約は,既配備・未配備のものを含め,ソ連側には 3,136 個の弾頭を運搬できる 1,836 基のミサイル,アメリカ側には 859 個の弾頭を運搬でき る 859 基のミサイルの廃棄を求めた.米ソが保有する核運搬手段の一部の廃棄を規定した にすぎないものの,東西の武力紛争において早期に,かつ先制的に使用される可能性の高 かった核兵器の一つのカテゴリーを全廃することとなった点で,同条約の意義は大きい.
加えて,同条約は米ソの戦略核兵器削減交渉への道も開くものでもあった(ゴールドブラ ット 1999:49-50).
こうした中距離核戦力の撤廃は,一見すると東西の軍事的緊張の緩和に大きく貢献した ように思われるが,実際には深刻な安全保障問題をNATOに突きつけるものであった.
INF全廃条約はすぐさま,通常戦力で西側を圧倒するソ連に対するNATOの核抑止力の 低 下 を 意 味 し た か ら で あ る.1989 年 3 月 に ウィー ン で 開 始 さ れ る 欧 州 通 常 戦 力
(Conventional Armed Forces in Europe:CFE)交渉に関するNATO内のハイレベル・
タスクフォース(High Level Task Force on Conventional Arms Control:HLTF)の推 計によると,NATOとワルシャワ条約機構の通常戦力の不均等は以下のようであった(表 1).
表 1 NATO・ワルシャワ条約機構の通常戦力データ(推計)
NATO ワルシャワ条約機構
①戦車(TANKs) 22,809 50,000
②火砲(ARTILLERY) 17,739 42,715
③装甲兵員輸送車(ATCs) 28,610 55,800
④ヘリコプター(HELOs) 2,627 3,664
⑤航空機(AIRCRAFT) 5,400 13,986
⑥兵員(MANPWR) 2,797,384 4,019,000 注:NATO,ワルシャワ条約機構のデータ(推計)はそれぞれ 1989 年 4 月,1 月時点のもの.
出所:“CFE Initiative”,OA/ID 91121-001,CFE Files,GBPLを参照し,筆者作成.
表 1 から分かるように,東西軍事バランスは通常戦力の面では圧倒的に東側優位であっ た4).元来,NATOはワルシャワ条約機構が西側諸国に進撃した際に,まず在来兵力で対 応し,小型の核兵器を混ぜながら次第に核使用をエスカレートしていく柔軟反応戦略を採 用しており,その要となっていたのが中距離核戦力であった.INF全廃条約による中距離 核戦力の撤廃は,均衡を保っていた東西軍事バランスを大きく東側優位に傾け,従来の NATO戦略に変更を迫るものであった.このNATO戦略を埋め合わせるのに検討された 方針が,老朽化したSNF,ランス・ミサイルの近代化である.
2.SNF 問題と西ドイツ
SNFは伝統的にアメリカとNATO,とりわけ西ドイツとの関係にとって重要な政治的・
軍事的意義を有していた.SNFは政治的には,積極的に西ドイツ防衛にアメリカが関与し ている象徴として,軍事的には,欧州戦域における戦略上のトライアッド(ミサイル・火 砲・航空機)の柱の一つとして見なされてきた(Asmus 1989:24-25).1989 年 1 月 20 日 に発足したブッシュ政権が,「欧州の非核化」を目指すゴルバチョフとのSNF削減交渉よ りも,SNF配備を維持する方針を固めていたことは,これまでのアメリカのNATO戦略 上,当然の帰結であった.
そもそも,1972 年に配備が開始されたランスは 1980 年代後半になると,液体燃料を原 因とする金属疲労,腐食などの老朽化問題を抱え,1995 年が耐用期限となっていた.従来 のランスを改修するという選択肢もあったが,INF全廃条約後の東西軍事バランスの変化 も相俟って,限られた射程距離(射程 120㎞),精度,再装填に要する時間などの他の問題 も考慮するといっそランスを近代化するという方針が浮上したのである(Asmus 1989:
24).
もっとも,NATO内部ではSNFの近代化はすでに決定済みの事項であったため,ラン ス近代化の方針は 1980 年代のNATOの核戦略にも沿うものであった.1983 年のNATO国 防相会議(於:モンテベロ,カナダ)では,(ⅰ)ランスの後継機種(Follow-on to Lance:
FOTL),(ⅱ)戦術空対地ミサイル(Tactical Air-to-Surface Missile:TASM),(ⅲ)核 砲弾,(ⅳ)核搭載航空機の近代化が要求されていた.その後,ゴルバチョフの登場に伴 い,米ソはINF交渉に注力していたため,SNF近代化が問題となったのは,大幅な西側 の戦略変更を迫る形となったINF全廃条約の調印後であった.こうした状況の中,1988 年 10 月末に開催されたNATO国防相会議(於:スヘフェニンゲン,オランダ)では,中距 離核戦力の全廃後の核戦略の再構築には,NATOにとってSNFの保持が不可欠であり,必 要な時期が来れば近代化を行うという方針が確認された(『朝日新聞』1988 年 10 月 29 日)5).
この一連のSNF近代化をめぐる議論に抵抗したのは西ドイツであり,後に,米英との 対立を深めていくこととなる.通常戦力の面で西側諸国よりも圧倒的に優位な東側諸国に 対し,東西戦争を抑止する上でもSNF近代化が必要,というのが米英の説く主張であっ た.一方,SNFの大部分は自国領内に配備され,その短い射程を考慮するに,東西戦争の 主戦場となるのはドイツとなる.いわば「ドイツ人同士を打ち合う」ためのSNFの近代 化・配備を決定するリスクを冒すことはできない,と西ドイツは反論したのである.事実,
1988 年初頭に西ドイツで行われた世論調査によると,西ドイツ全人口の 68%が核兵器の近 代化に反対,79%が自国領内からの核兵器撤廃を求めた.核兵器のない西ドイツがソ連の 脅威に脆弱であるかどうかという質問に対しては,57%の西ドイツ国民がノーと回答して いた(Asmus 1989:12-13).
こうした議論はCDU/CSU(キリスト教民主/社会同盟)とFDP(自由民主党)から成 るコール(Helmut Kohl)連立政権内でも見られた.例えば,野党SPD(ドイツ社会民 主党)や緑の党は,SNF全廃という「トリプル・ゼロ」を求める声を高めていた6).与党 CDU内でも例えば,コールの側近であるリューエ(Volker Ruehe)などは,50 ~ 80%
の核兵器削減を主張していた.西ドイツ国内では,次第にSNF問題がコール政権の運営 にかかわる国内政治上の争点となり,1988 年末にコール政権がSNF問題を連立与党内で 協議するハイレベル作業部会を設立するまでに至った(Asmus 1989:17,26).冷戦期の 米独関係,NATO戦略の象徴としてのSNF近代化をめぐる問題の重要性は,ブッシュ新 政権も深く認識していた.
Ⅱ ブッシュ政権の同盟政策―調整から対立―
1.ブッシュ新政権の課題
政権発足後間もないブッシュ大統領宛に,大国首脳からの電話が相次いだ.1 月 23 日,
ゴルバチョフからの電話に対し,ブッシュはまず,ゴルバチョフからの新政権発足の祝辞 に対する謝意を述べ,続いて,レーガン政権で構築された良好な米ソ関係を今後も維持し ていくことを確認した.サッチャー(Margaret Thatcher)イギリス首相はブッシュに対 し,西側諸国が対処すべき喫緊の課題として,NATO首脳会談の準備,核兵器の近代化の 決定,西側諸国の結束の維持を挙げた.特にサッチャーは核兵器の近代化の必要性を強い 調子で訴え,ゴルバチョフに取り巻くユーフォリア(一時的な強い幸福感)に対する懸念 も示した.サッチャーは,西側諸国の一般市民に圧倒的であったゴルバチョフ人気とは一 定の距離を保っており,こうした姿勢をブッシュ大統領に伝えたのである.コールからの 電話では,核兵器の近代化ではなく,リビアの化学兵器工場建設に西ドイツが関与してい
る疑惑について意見交換が行われた7).
24 日,ミッテラン(François Mitterrand)フランス大統領との電話では,ブッシュは ミッテランからの祝辞に謝意を表すとともに,昭和天皇崩御(1989 年 1 月 7 日)に伴い 2 月 24 日に東京で催される予定の「大喪の礼」にミッテランが参列するかどうか尋ねた.ミ ッテランは,まだそれを決めかねているが,おおかた参列するつもりであると答えた.こ こでブッシュは米仏の友好関係の確認と主要な問題の討議のために,2 月 23 日あるいは 24 日に東京で昼食を取りながら会合を開くことを提案した.これに対しミッテランは,東京 に行き大統領からの誘いを受けることに賛成した8).この 2 日間に行われた大国首脳との 電話会合の様子から明らかなように,ブッシュ新政権は,(ⅰ)米ソ関係を進展させると同 時に慎重に対ソ政策を策定すること,(ⅱ)同盟の結束の誇示,そのための 5 月末のNATO 首脳会談を成功のうちに開催すること,(ⅲ)対ソ政策,同盟政策の一環としての核兵器近 代化などの課題を認識していた.
2.同盟国との意見調整
2 月初旬,ベーカー国務長官はブッシュ新政権が欧州ならびにNATOを重視しているこ とを示すために同盟国の訪問に乗り出した.2 月 10 日から 8 日間でNATO小国も含む 15 ヵ国を訪れるという旅程であった9).2 月 10 日,大統領とベーカーはカナダを訪れ,マル ルーニ(Brian Mulroney)首相,クラーク(Joe Clark)外相,バーニー(Derek Barney)
首相補佐官らと会談した.会談中,マルルーニはブッシュに,ゴルバチョフ人気に西側諸 国が後手に回っている.そのためアメリカが主導権を取るべきだと語った(ベーカー 1997:
188-189).これについて同意したブッシュは,対ソ政策の策定の際には同盟国との密な協 議が不可欠であると述べ,ベーカー国務長官の欧州訪問は同盟国と協働し,ゴルバチョフ 提案に受身姿勢ではなく,攻勢に出る方法を模索する格好の例だと伝えた10).
続いて,大西洋を渡ったベーカーはロンドンでサッチャーとハウ(Geoffrey Howe)外 相と会談した.サッチャーはベーカーに対し,SNFの近代化は急務であり,近代化に消極 的になりつつあるコールは間違っていると強い調子で伝えた.他方,西ドイツでは,ベー カーはコールから,ミサイルはサッチャー女史のものではないというSNF近代化を求め るイギリスの主張を退ける発言を受けた.ゲンシャー(Hans-Dietrich Genscher)外相も SNF問題を西ドイツの忠誠心を測る踏絵にすべきでないと主張した.89 年か 90 年に近代 化を進めれば,90 年 12 月の総選挙でコール政権は失墜してしまうだろうから,近代化決 定は 91 年か 92 年まで先延ばしにすべきだと彼は言った(ベーカー 1997:189-191).
西ドイツに続く北欧諸国訪問では,北欧諸国の首脳はサッチャーとは異なり,SNF近代 化のマイナス面を強調した.例えば,ノルウェーにて,ベーカーが近代化はNATOの決意
表明の意味があるのだと述べたところ,ブルントラント(Gro Brundtland)首相は,SNF 問題で決意表明することに,どれほどの意味があるかと反問した.ブルントラントもイエ ンセン(Uffe Ellemann-Jensen)デンマーク外相も,SNF問題はまったくの軍事問題で はなく,政治問題だと主張した(ベーカー 1997:192-193).
一連の欧州訪問の中でもベーカーは,オランダのファンデンブルック(Hans van den
Broek)外相との会談が最も有意義であったと述懐している.ファンデンブルックは,核
の近代化は西ドイツを困惑させ,他の同盟国にとっても問題を解決することにはならない と主張した.また,SNF交渉にアメリカが消極的であることは理解しているが,NATO首 脳会談で発表する計画案には軍縮問題が盛り込まれていなければならないとも語った(ベ ーカー 1997:195-196).
3.米独の間の溝
ところで,ベーカーと別の外交経路でもSNF配備の当事者である西ドイツとアメリカ の会合は開かれていた.2 月 21 日,連邦議会(Bundestag)代表として訪米したSPDの 政治家バール(Egon Bahr)とルース(Jürgen Ruhus)駐米大使がスコウクロフト(Brent Scowcroft)大統領補佐官のオフィスを訪れ,スコウクロフトと国家安全保障会議(National Security Council:NSC)のブラックウィル(Robert Blackwill),ゼリコウ(Philip Zelikow)を交えた米独協議が行われていた.ここでバールは,NATO首脳会談で採択さ れる予定の包括構想(Comprehensive Concept)とSNF問題を取り上げた.具体的には,
包括構想は欧州安全保障のすべての要素を包摂するものであり,核兵器についても除外さ れることはないとし,通常戦力と併行してSNF交渉を早期に開始すべきだとする西ドイ ツ政府の見解をスコウクロフトに伝えた.この背景には,コール政権の支持獲得という国 内政治要因の他に,心理的要因も作用していた.ポーランド領も射程に収める近代化され たSNFの配備(射程 450㎞)が,かつてドイツがポーランドに侵攻してから 50 周年にあ たる 1989 年に開始されることは,西ドイツ政府にとっては避けたい決定であった.
こうした西ドイツ側の主張に対し,スコウクロフトは,包括構想の重要さについては賛 同する一方で,SNF問題については,通常戦力を扱うCFE交渉とソ連とのSNF交渉は,
併行して行うのではなく,CFE交渉が成功した後に行うべきだとするアメリカの見解をバ ールに伝えた11).この頃から,すでにSNF近代化と交渉のタイミングをめぐり,米独関 係に見解の不一致があったことがうかがえる.
2 月 24 日,東京で「大喪の礼」が催された.その前日の 23 日,先日の電話での約束通 り,ブッシュはミッテランと会った.ミッテランとの会談と同様に,23 日から 2 日間,ブ ッシュは非公式にアメリカ大使宿舎で各国代表と次々に会談を持った.24 日午後,ブッシ
ュはヴァイツゼッカー(Richard von Weizsaecker)西ドイツ大統領と会談した.ここで ヴァイツゼッカーは,1977 年以来,西ドイツ世論は防衛問題に対してさらに敏感になって いる(筆者:ユーロ・ミサイル危機を指す).同盟国に共通の問題に対しては,同盟内で解 決の方法を探れるはずだと述べた.これに対し,ブッシュは,同盟は重要であり,同盟国 の異なる意見も尊重しなくてはならない.ただゴルバチョフのプロパガンダには勝利して 欲しくはない.われわれは結束しなくてはならないと答えた12).このブッシュ・ヴァイツ ゼッカー会談でも,同盟の結束を示すためのSNF近代化を説くアメリカと,自国領に配 備されるSNF近代化に消極的な西ドイツという基本構図が見られた.やがて,この構図 は米独の間の溝を深めるばかりでなく,米英とNATO小国の対立という図式に発展しブッ シュ政権の政策決定に大きな影響を与えることとなる.
4.ブッシュ政権の焦り
3 月 11 日,NSCのゼリコウは,コールの外交顧問であるテルチク(Holst Teltschik) から,コールが近日中にSNF問題を検討するためのチームをワシントンに派遣するかど うかを決定するという知らせを受けた.派遣されれば 3 月 14 日に到着する予定であった が13),西ドイツチームのワシントン派遣は結局行われなかった.3 月 12 日のヘッセン州,
西ベルリンの地方選挙で政権与党CDUの下野が決まるという国内政治の変化により,コ ール政権の安定という立場上,西ドイツ政府がアメリカとの二国間協議の準備を 4 月まで に行うことが難しくなっていたのである14).これを受けて,3 月 16 日,すぐさまNSCは ワシントンでの米独協議の際に,西ドイツ側に伝える予定であった内容を文書形式に改め,
同メッセージをスコウクロフトからテルチク宛という形で送る手はずを整え,送付した.
メッセージには,同盟全体に関わるSNF問題は米独両政府にとって重要なものであり,
1988 年のNATO決定で示された核兵器の近代化ならびに包括構想の形成を達成するため の最善策を米独は模索しなくてはならないことが強調されていた15).
西ドイツチームのワシントン訪問の頓挫を受け,次第にアメリカは 5 月末に控えたNATO 首脳会談の前に,SNF問題を解消することに焦りを感じ始めていた.SNF問題による同 盟内の対立をNATO首脳会談で浮彫にさせることは,アメリカにとって対ソ政策の観点か らも何としても避けたいものであった.問題解消のためには,これを検討する米独協議を 改めて速やかに開く必要があった.
3 月 20 日,ベーカーはブッシュに対し,西ドイツ政府には強力な手段を取らなくてはい けないとし,コールにアメリカ側の主張を連ねた手紙を大統領自身から送ることを提案し た.手紙には,数日前にテルチク宛に送られたメッセージの内容に加えて,近時の状況下 でSNF交渉を行うことは大変危険であるというアメリカ側の懸念が記された.手紙の受
け渡しは,バート(Richard Burt)駐西ドイツ大使とNSCのブラックウィルに一任され た.22 日になるとスコウクロフトも同提案に賛成し,最終的に大統領からコール宛に手紙 が送られた16 ).後にブッシュが回顧しているように,この頃から西ドイツは,CFE交渉 の決着を待つことなく,核軍縮の進展と核ミサイル近代化の延期を主張し,ますます融通 がきかなくなっていった(Bush & Scowcroft 1998:64).
Ⅲ.NATO 首脳会談に向けて―対立から同盟の結束―
1.暗 転
ブッシュ政権の意見調整もむなしく,4 月に入ると状況が暗転する.4 月 11 日,ベルギ ーのマルテンス(Wilfried Martens)首相は,上下両院合同委員会で,西ドイツを中心に 配備されているランスの近代化の決定を 91 年から 92 年以降にし,近代化する場合も射程 距離を現在の 120㎞をそれほど超えないものにするべきだと述べ,SNF交渉の早期開始を 望むと発表した.翌 12 日には,ワルシャワ条約機構外相会議(於:東ベルリン)もSNF 交渉をNATO側に呼びかけた.交渉を求める声の高まりは来週に予定されているNATO 国防相会議に大きな波紋を呼びかける危険性を秘めていた(『朝日新聞』1989 年 4 月 13 日).
こうした状況の中,5 月末のNATO首脳会談の前に何とかSNF問題を解消したいブッ シュはコールと電話会談を行った.4 月 12 日,電話会談の中で,コールやテルチクの西ド イツ国内の政治的立場に理解を示しつつも,ブッシュは,SNF問題に関する米独協議を早 期に行うために,コールあるいはテルチクがワシントンに来ることを強く望んだ.仮にそ れが叶わないにしても,西ドイツの国家安全保障の専門家の訪米を希望しているとコール に伝えた.これに対しコールは,この件についての回答を来週までにはブッシュ大統領に 電話すると答えた.ブッシュは,NATO首脳会談が同盟の結束を弱める雰囲気に包まれな いよう,西ドイツの早い対応を迫った17).
同日,ブッシュはワシントンを訪れていたヴェルナー(Manfred Wörner)NATO事務 総長と会談した.ここで,ヴェルナーはブッシュの置かれた状況を理解し,来たるNATO 首脳会談は「ブッシュ大統領の首脳会談」であるべきであると述べた.NATOにおけるア メリカのリーダーシップを強く望むヴェルナーにとっても,SNF問題をめぐり,西ドイツ を同盟の結束から離してしまうことは避けたかった.ヴェルナーは,米独の妥協点として,
生産・配備の早期決定をしないがSNF近代化の方針は貫く,「トリプル・ゼロ」はあり得 ないが軍備管理は必要である,などの点を挙げた18).
4 月 19 日から 2 日間,NATO国防相会議(於:ブリュッセル)が開かれた.ブッシュ政
権にとっては初の国防相会議であり,会議ではSNF問題が中心に話し合われたが,結局 一致した結論には達せず,5 月末のNATO首脳会談での妥協達成に努力することが確認さ れるにとどまった.会議後の海外メディアに対する記者会見で,チェイニー(Dick Cheney)
国防長官は,「核戦力の保持は必要であり,『トリプル・ゼロ』は避けるべきである.ソ連 は『欧州の非核化』を主張しているが,通常戦力では圧倒的に東側優位であることには変 わりなくSNF交渉を開始するのは間違っている.ウィーンでのCFE交渉に大きな努力を 払うべきだ」とアメリカ側の見解を発表した(『朝日新聞』1989 年 4 月 21 日).
4 月 21 日,ブッシュはようやく米独協議に関して,来週 24 日にゲンシャー外相とシュ トルテンベルク(Gerhard Stoltenberg)国防相を派遣するというコールからの返答を受 けた.ブッシュは戦艦アイオワの爆発事故による犠牲者を悼む式典に参加するため,米独 協議には参加しないが,代わりにアメリカ側から数名の高官を協議に同席させると答え た19).
2.米独対立から同盟内対立
さて,4 月 24 日に,ようやくワシントンで米独協議が行われた.アメリカ側からはベー カー国務長官,チェイニー国防長官,スコウクロフト大統領補佐官が,西ドイツ側からは ゲンシャー外相,シュトルテンベルク国防相が参加した.2 日間にわたる協議で,SNF近 代化(アメリカ)とSNF交渉の早期開始(西ドイツ)という対立構図は解消されず,ほ どなく合意なく協議は終了した.国務省スポークスマンによると,協議中,ベーカーは何 度もSNF交渉は誤りであると主張していたが,コール政権の維持という理由から,西ド イツの主張は変わることはなかった.コールは完全に国内政治からの制約を受けており,
対内的には西ドイツの国益を守る右派として,対外的には中立主義,反核感情を緩和させ るため左派としての立場で揺れていた(The Washington Post, April 25, 1989 ).この頃 から,ベルギーを始め,デンマーク,ノルウェー,イタリアなどのNATO小国もSNF交 渉は,冷戦終結への道を開くことを意味すると西ドイツへ同調し始めていた(The Guardian, April 25, 1989).
27 日,コールは政権の所信表明演説の中で,ランスの後継機種(FOTL)の導入,製造,
配備が不可欠か否かを 92 年に決定するという引き延ばし案を明らかにし,米独関係に亀裂 が走った(高橋 1999:131).同時に,英独の対立も深まっていた.4 月末の英独会議に おいて,NATOの柔軟反応戦略の維持のためのSNF近代化の即時決定を求めるサッチャ ーに対して,コールは,「事実,西ドイツは他のどの国よりもSNFの影響を受けている.
自分は長年に渡り,アメリカの従属者だと攻撃されてきたと思ったら,今度は突然,裏切 り者呼ばわりされている.SNF交渉に反対することはできない」と興奮気味に語った.サ
ッチャーは,「米英が断固とした態度を維持すれば,NATO首脳会談では満足のいく結果 を得ることができるであろう」と私見を交え会議の様子をブッシュに伝えた(サッチャー 1993:405-406 ).ブッシュは今後の対ソ政策,同盟政策の根幹に関わるSNF問題を背景 に,深刻な同盟内対立に直面していた.アメリカは「孤高の冷戦の戦士」となりつつあっ た(The Globe and Mail, April 29, 1989).
3.「ブッシュ最初の外交危機」
NATO首脳会談が開かれる 5 月に入ると,NATO小国はアメリカとの二国間経路を利用 し,ブッシュ政権にSNF問題の妥協を訴え始めた.5 月 3 日,ノルウェーのブルントラン ト首相は,NATO首脳会談ではわれわれは共通の立場を示すべきであると妥協点の模索を 訴えたが,これにブッシュは,SNF交渉は誤りであると答えた.「孤高の冷戦の戦士」と なりつつあるブッシュの対応にアメリカ国内からも批判が起こった.例えば,前レーガン 政権期に軍備管理問題を担当したニッツェ(Paul Nitze)は,SNF交渉の可能性を認め ようとしないアメリカはNATO内で孤立しつつある.SNF近代化を真に支持しているの はアメリカとサッチャーだけであるとブッシュ政権への批判を『ワシントン・ポスト』紙 上で展開した(The Washington Post, May 4, 1989).
5 月 4 日には,カナダのマルルーニ首相がワシントンを訪れた.SNF近代化,交渉開始 のどちらの立場であるか明確にしていないカナダは,ヴェルナーNATO事務総長から妥協 点を模索するのに重要な役割を演ずることを期待されていた(The Globe and Mail, May 3, 1989).マルルーニはブッシュに対し,リーダーシップはしばしば妥協とも折り合いを つけるものであると伝えた.クラーク外相も,首脳会談はSNF問題をめぐる同盟国間の 意見の不一致によるリスクを抱えていると訴えた.ブッシュは,首脳会談をNATOの成功 と社会主義の失敗を謳うものにすると応答するにとどめた20).
NATO小国からの訴えの傍ら,5 月 5 日,ブッシュはコールと電話で話し合った.コー ルはブッシュに,大統領と首脳会談の成功を願っているため,SNF問題を解決するための 特使をボンに派遣して欲しいと頼んだ(ベーカー 1997:201-202 )21 ).様々な同盟国の 要請に対し,いまだ方針を定められずにいたブッシュ政権を,『ニューズウィーク』誌は
「ブッシュ最初の外交危機」と酷評した(Newsweek, May 8, 1989).
5 月 9 日,オランダのルバース(Ruud Lubbers)首相,ファンデンブルック外相との 会談で,ブッシュは現在の同盟内の対立の様子を伝えた.ルバースは,包括構想はワルシ ャワ条約機構に対し,NATOと同等のレベルまでのSNF削減を呼びかけるもの,その後 にNATOは「トリプル・ゼロ」ではなく,均衡する上限までの削減に向けた将来の交渉の 準備ができていると示すものにするのはどうかと提案した.つまり,NATOと同等レベル
までのソ連によるSNFの一方的削減とCFE交渉の進展を,SNF交渉のための前提条件 として示したのである22).このSNF交渉開始の条件を提示したオランダの提案は,今ま でのNATO小国の訴えに比べ,NATO内のアメリカのリーダーシップや西ドイツの立場 を保つ上でより実践的な提案であった.
同盟国との二国間の意見交換が進む中,ベーカーは米ソ外相会談(5 月 10 ~ 11 日)に 参加するためにモスクワを訪れた.会談では,戦略核などの軍縮交渉の再開,米ソ首脳会 談開催への討議開始などで合意した.11 日,ベーカーはゴルバチョフのもとを訪れ,ブッ シュ大統領の親書を渡すとともに,約 3 時間半にわたって会談した.席上で,ゴルバチョ フは今年中に東欧から 500 基のSNFを撤去することを決定したと明言した.さらに,仮 にアメリカがさらに徹底した措置を取る用意があるなら,ソ連は 91 年までに東欧からすべ てのSNFを撤去することを検討するとも言い放った.ベーカーはこれを政治的アピール と捉えたが,翌朝の『ニューヨーク・タイムズ』紙が「ゴルバチョフ書記長,ベーカー国 務長官に驚くべき軍縮提案を手渡す」とする見出しを掲載したように,世論は慎重なブッ シュ政権の政策よりも軍縮問題に敏感になっていた.もはや,アメリカが大胆で政治的に 独創的な提案を持ち出すことができなければ,ブッシュ大統領がゴルバチョフに外交面で 出し抜かれる恐れがあった(ベーカー 1997:159-183).差し迫る首脳会談とゴルバチョ フの軍縮攻勢の中,ブッシュ政権は大きな決断を迫られていた.
4.アメリカの方針転換
モスクワからの帰途,ベーカーは,ゴルバチョフがアメリカのヨーロッパ政策に大きな 影響を及ぼしていることを理解すると同時に,SNF近代化が抱えるディレンマを痛感して いた.西側同盟の結束を示すこととなるSNF近代化は同時に,コール連立政権を不安定 化させ,同盟の結束を弱める効果を持つというディレンマである.これを克服するカギと して,ベーカーはSNF問題解消と通常戦力削減をリンクして捉えていた.通常戦力の不 均衡が是正されれば,SNF近代化も先送りできるため,アメリカはまずCFE調印にこぎ つけることが不可欠であるというものである.5 月 17 日,ホワイトハウスでブッシュ,ベ ーカー,スコウクロフトによる協議が行われ,ここでベーカーは在欧米軍兵力の 25%削減 を主張した.協議の結果,米ソは在欧兵力のうち,それぞれ 3 万人,32 万 5000 人を撤退 させること,条約の交渉期限は 6 ヵ月とし,遅くとも 1993 年には発効するという提案がま とめられた(ベーカー 1997:197,203-205).
これまで見てきたように,アメリカにとってSNF近代化が必要であった理由は,ソ連 の圧倒的な通常戦力であった.しかし,SNF近代化をめぐり,首脳会談を間近に控えてい るにもかかわらず,同盟内対立は解消されていなかった.この 17 日の協議を経て,ブッシ
ュを始めアメリカの政策決定者は,SNF問題の暫定的な解消とソ連の通常戦力の大幅な削 減を伴うCFE交渉の早期調印に一挙に取り組むために,アメリカが指導権を握る形での 通常戦力の大胆な軍縮提案を行ったことが考えられる.いずれにしても,この方針転換に より,早急なSNF近代化の必要性が薄れたのである.この方針転換は,早急なSNF近代 化を求めていなかった西ドイツにとって十分受け入れられるものであった.
5 月 19 日,米独両政府は,圧倒的なソ連の通常戦力を削減するCFE交渉に重大な進展 が見られた後にソ連とのSNF交渉を行うこと,また 92 年よりも早くアメリカの新たなミ サイルを配備しないことについて合意した(The Washington Post, May 20, 1989)23). 翌 20 日から 2 日間,ブッシュは訪米したミッテランと会談を行った.ブッシュはミッテ ランに,通常戦力と核戦力削減交渉をリンクさせるアメリカの方針を伝えた.ミッテラン は,国内世論に左右され,ソ連との交渉を望むコールの面子を保つ必要があり,SNF近代 化は喫緊のものではないから,92 年まで引き延ばすこともできると私見を述べた(Bush
& Scowcroft 1998:77).この会談後,ブッシュはNATO首脳会談に向けて出発する.
5 月 29 日,ブリュッセルでNATO首脳会談が開催した.最後までSNF問題をめぐり,
29 日夕方からのNATO外相会談では英独の対立があったものの(高橋 1999:135-136),
NATO首脳会談で,ブッシュはウィーンで進行中のCFE交渉にインプットする予定の通 常戦力に関する大胆な提案として,(ⅰ)戦車,装甲兵員輸送車,火砲の上限をそれぞれ,
2 万両,2 万 8000 両,1 万 6500 ~ 2 万 4000 台とする,(ⅱ)航空機,ヘリコプターを現在 のNATO保有量の 15%削減,(ⅲ)在欧米軍の上限を 27 万 5000 名とする,(ⅳ)6 ヵ月以 内にCFE交渉で合意に達し,92 ~ 93 年までに発効することを挙げた(The Times, May 30, 1989).
このブッシュ提案はSNF交渉に賛成する西ドイツへの妥協,同交渉に反対するイギリ スへの問題先送りとなった.最終的にNATO首脳会談では,「軍備管理と軍縮に関する包 括構想」が採択され,この文書の中には,CFE交渉を早急に進め,条約締結後にSNFの 部分的削減交渉に入ること,ランスの後継機種(FOTL)の導入と配備は 92 年に扱われる ことが明記された24).NATOは同盟の結束を見事に演じ切った.会談後の記者会見で,ブ ッシュは,ソ連が通常戦力の「公平な申し出」を受け入れれば,欧州は急速に安定化に向 かい,欧州の軍事地図は塗り替えられるだろうと述べた.
首脳会談の決定により,米独関係も回復された.31 日午後,ブッシュは西ドイツのマイ ンツで演説し,西ドイツを「リーダーシップのパートナー」と位置付けた(高橋 1999:
136).こうしてブッシュはSNF近代化をめぐる同盟内対立を何とか乗り越えたのである.
お わ り に
本稿では,ブッシュ新政権が発足直後に直面したSNF問題をアメリカ外交の視点から 検証した.一連の政治過程を大きく分けると,以下の時期区分となるであろう.
(ⅰ) 「調整期」( 1 月末~ 3 月):ブッシュ新政権,SNF近代化方針を踏襲.欧州歴訪
(ベーカー).米独協議.
(ⅱ) 「対立期」(3 月~ 5 月中旬):コール,西ドイツ国内政治からの制約.米独協議の 頓挫.米英と西ドイツの対立がNATO小国との同盟内対立へ発展.
(ⅲ) 「転換期」(5 月中旬~末):差し迫る首脳会談.ゴルバチョフの軍縮攻勢とNATO 小国の訴えを受けてのアメリカの方針転換.SNFとCFEのリンケージ構想.妥協 の成立.
一次資料に基づく本稿の考察により,結成 40 周年を祝うNATO首脳会談開催の数ヵ月 の間にSNF問題をめぐるNATO内で深刻な対立があったことが分かった.同時に,この 問題に対するアメリカの政策決定者の対応の過程も明らかとなった.冷戦終結過程におい て,西側同盟内の対立を克服し,なぜNATO諸国はSNF問題で最終的に妥協し,首脳会 談で一応の同盟の結束を示せたのであろうか.その答えは,この問題を先送りするために,
アメリカが通常戦力の軍縮面で指導権を発揮したためである.では,こうしたアメリカの 行動を導いた要因は何であったのだろうか.特筆すべきは以下の点であろう.
第一に,慎重な現実主義者(prudent realist)としてのブッシュの外交手腕である.ス コウクロフト大統領補佐官が評しているように,個人同士のコンタクトを重視するブッシ ュの個人外交へのこだわりが同政権の外交政策の成功に欠かせないものであった(Bush
& Scowcroft 1998:60-61).SNF問題をめぐっては,ブッシュはこの個人同士のコンタク トを大国のみに傾斜することなく,多くのNATO小国とも絶えず議論を交わし,それらの 意見を積極的に採用した.
第二に,これと関連して,NATO小国の意見の中でも,5 月 9 日にルバース・オランダ 首相がブッシュに提示した案は無視できない.NATOと同等レベルまでのソ連によるSNF の一方的削減やCFE交渉の進展などのSNF交渉のための前提条件を示したこの「オラン ダ案」は,NATO内のアメリカのリーダーシップおよび西ドイツの立場を保つための実践 的な提案としてブッシュ政権の目に映った.
第三に,これに続く 5 月 10 ~ 11 日の米ソ外相会談(於:モスクワ)後にベーカーが着 手した「リンケージ構想」も重要である.SNF近代化を先送りするためにアメリカが取り 組む直近の課題として,NATOにSNF近代化を駆り立てていた東西の通常戦力の不均衡
を是正することであるとベーカーは考えた.ブッシュも,CFE交渉の早期調印に一挙に取 り組むためのアメリカの指導権が優先課題であると考えた.これはまさに先の「オランダ 案」が示したCFE交渉の進展と符号するものでもあった.こうして,5 月末のNATO首 脳会談でブッシュが発表した通常戦力の軍縮提案につながり,SNF問題をめぐる同盟内対 立を露呈することなく,首脳会談は閉幕したのである.
注
1) SNF問題をめぐる西ドイツ国内政治の展開を注目したAsmus (1989)は,当時のアメリカの 外交政策立案の際の基礎資料として位置付けられ,こうした性格を持つ同論文は現状分析に留ま っている.Sanjian ( 1992 )は,「あいまい集合モデル(A Fuzzy Set Model)」の妥当性を,
SNF問題をめぐるNATO諸国の動向を事例に論証している.そのため,同論文の主たる関心は あくまでも「あいまい集合モデル」の妥当性の検討であり,SNF問題をめぐる同盟内政治とそ れに対するアメリカの外交政策について踏み込んだ議論はしていない.当時の政策決定者が著し たドイツ統一研究の代表格Zelikow & Rice ( 1995 )は,ドイツ統一をめぐる東西交渉の中で SNFの軍備管理が訴えられたことのみ言及している.高橋(1999)や佐瀬(1999)は,他の書 物と比べて,1989 年初頭のSNF近代化をめぐる同盟内対立の様子を素描している.邦語で書か れたNATO研究書である金子(2008)については,散見する限り,SNF近代化問題を直接扱っ ていない.
2) Maynard (2008)は,一次資料に基づく本格的なブッシュ政権期の冷戦研究の先駆けとして
位置付けられるが,事例の選定は限定的である(マルタ会談,ドイツ統一,湾岸戦争,ソ連解 体).Sarotte (2009)は,SNFに言及しているものの,その主たる関心はドイツ統一の国際政 治過程であり,1989 年初頭のSNFをめぐる同盟内政治および国際政治過程の詳細な分析は行っ ていない.
3) 本稿の参考資料の注釈については,表記の都合上,GBPL所在の一次資料のみを文末注で記
す.なお,本稿中の「米独」および「英独」の「独」は西ドイツを指す.
4) 射程距離が 500㎞以内のSNFに関しても,ソ連はアメリカより優位に立っていた.NATOが
保有する 88 基のランス・ミサイルに対して,ソ連のフロッグ,スカッド,SS-21 は 1,365 基で あった(Asmus 1989:25).
5) スヘフェニンゲンNATO国防相会議の数日前,ベルギー国防省スポークスマンは,「東西の緊
張緩和を考慮すれば,SNF近代化を決めるのは時期尚早」とし,「会議に提出されるSNF近代 化に関するNATO高官グループ作成の報告書の承認に反対する」との意向までも海外メディア に明かしていた.会議中は,カールーチ(Frank Carlucci)アメリカ国防長官とヤンガー(George
Younger)イギリス国防相がコーム(Guy Coëme)ベルギー国防相を説得し,SNF近代化方針
の一応の合意が見られた.だが,会議後,「FOTLは来年中に決めるべき」(ヤンガー・イギリ ス国防相),「核近代化よりも軍備管理,軍縮に関する包括構想作成を優先すべき」(コーム・ベ ルギー国防相),「包括構想作成に重点が置かれていることには満足.核近代化問題は同構想の中 で検討されるべき」(ショルツ・西ドイツ国防相)とNATO加盟国の間で,SNF近代化と削減 をめぐる意見の不一致が見られた(『朝日新聞』1988 年 11 月 11 日).
6) もともとINF交渉では,当初撤廃の対象となっていたのは射程距離 1,000㎞以上のIRMで,
これを全廃することが「ゼロ・オプション」と呼ばれていた.その後,射程距離が以下 500㎞ま でのSRMも交渉に含まれ,「ダブル・ゼロ・オプション」と呼ばれるようになった.射程距離
500㎞以下のSNFをめぐる問題では,IRM,SRM以下のミサイルも含まれるという意味で「ト リプル・ゼロ・オプション」という用語が生まれるに至った.
7) コールはこの一件について西ドイツ企業の関与を強く否定した.“President’s Telephone Conversation with Soviet General Secretary Mikhail Gorbachev”,“Phone Call between the President and Prime Minister Margaret Thatcher of Great Britain”,“President’s Telephone Conversation with FRG Chancellor Helmut Kohl”,OA/ID 91111-001, Presidential Telcon Files, GBPL.
8) "The President's Telephone Conversation with Prime Minister Mitterand of France",OA/
ID 91111-001, Presidential Telcon Files, GBPL.
9) NATO小国の視角については以下を参照.山本健(2010)『同盟外交の力学:ヨーロッパ・デ
タントの国際政治史 1968-1973』勁草書房,序章注 5.ベーカー国務長官が訪れたNATO加盟 国 15 ヵ国とは,カナダ,アイスランド,イギリス,西ドイツ,ノルウェー,デンマーク,ギリ シア,トルコ,イタリア,スペイン,ポルトガル,フランス,ベルギー,オランダ,ルクセンブ ルクである(訪問順).その後,ベーカーはNATO本部を訪れ,ヴェルナー事務総長と会談した
(ベーカー 1997:196).
10) “President’s Meeting with Prime Minister Mulroney”, OA/ID 91107-001, Presidential Memcons Files, GBPL.
11) “Meeting with SPD Parliamentarian Egon Bahr of the Federal Republic of Germany”, OA/ID 91120-001, SNF Files, GBPL.
12) “President’s Meeting with President Richard von Weizsaecker of the Federal Republic of Germany”, OA/ID 91107-001, Presidential Memcons Files, GBPL.
13) “Preparations for Meeting with Germans on SNF”, OA/ID 91120-001, SNF Files, GBPL.
14) “Next Steps with the Germans on SNF”, OA/ID 91120-001, SNF Files, GBPL.
15) “Message to Horst Teltschik”, OA/ID 91120-001, SNF Files, GBPL.
16) “Presidential Letter to Kohl on SNF”, OA/ID 91120-001, SNF Files, GBPL.
17) “The President’s Telephone Call to West German Chancellor Helmut Kohl”, OA/ID 91111- 001, Presidential Telcon Files, GBPL.
18) “Meeting with Manfred Woerner of NATO”, OA/ID 91107-002, Presidential Memcons Files, GBPL.
19) “Telephone Conversation with Helmut Kohl of the Federal Republic of Germany”, OA/ID 91120-002, SNF Files, GBPL.
20) “Meeting with Prime Minister Brian Mulroney of Canada”, OA/ID 91107-003, Presidential Memcons Files, GBPL.
21) コールの要請に応じて,ゲイツ(Robert Gates)とゼーリック(Robert Zoellick)が特使と して派遣されたが,西ドイツが自国の立場に固執したため,目立った成果は得られなかった(ベ ーカー 1997:205).
22) “Meeting with Ruud Lubbers, Prime Minister of the Netherland”, OA/ID, 91107-003, Presidential Memcons Files, GBPL.
23) このアメリカの方針転換に交渉を一切望まないサッチャーは,もはやイギリスだけがSNF近
代化を主張しているという「仲間はずれ」としてNATO首脳会談に赴くことに強い不快感を示 した(サッチャー 1993:407).
24) 包括構想の全文は以下のURLを参照.〈http://www.nato.int/cps/en/natohq/official_texts_
23553.htm?selectedLocale=en〉2014 年 10 月 3 日アクセス.
参 考 文 献 1.第一次資料
(1)未公刊資料
George Bush Presidential Library and Museum, Collage Station 【GBPL】
CFE [Conventional Armed Forces in Europe] Files Presidential Memcons Files
Presidential Telcon Files
SNF [Short-range Nuclear Forces] Files
(2)公刊資料,資料集,その他(回顧録など)
Bush, George & Scowcroft, Brent (1998), A World Transformed, New York: Alfred A. Knopf.
ゴールドブラット,ジョゼフ(1999)『軍縮条約ハンドブック』浅田正彦訳,日本評論社.
サッチャー,マーガレット(1993)『サッチャー回顧録ダウニング街の日々〈下巻〉』石塚雅彦訳,日 本経済新聞社.
ベーカー,ジェームズ(1997)『シャトル外交激動の四年〈上巻〉』仙名紀訳,新潮文庫.
2.第二次資料
Asmus, Ronald D. (1989), “The Politics of Modernizing Short-Range Nuclear Forces in West Germany”, The Rand Corporation, R-3846-AF, November 1989.
Maynard, Christopher (2008), Out of Shadow: George H. W. Bush and the End of the Cold War, Collage Station: Texas A & M University Press.
Sanjian, Gregory S. (1992), “A Fuzzy Set Model of NATO Decision-Making: The Case of Short- Range Nuclear Forces in Europe”, Journal of Peace Research, Vol.29, No.3, pp.271-285.
Sarotte, Mary Elise (2009), 1989: The Struggle to Create Post-Cold War Europe, Princeton:
Princeton University Press.
Zelikow, Philip & Rice, Condoleezza (1995), Germany Unified and Europe Transformed: A Study in Statecraft, Cambridge: Harvard University Press.
金子譲(2008)『NATO北大西洋条約機構の研究:米欧安全保障関係の軌跡』彩流社 佐瀬昌盛(1999)『NATO:21 世紀からの世界戦略』文春新書
高橋進(1999)『歴史としてのドイツ統一:指導者たちはどう動いたか』岩波書店
山本健(2010)『同盟外交の力学:ヨーロッパ・デタントの国際政治史 1968-1973』勁草書房 3.新聞資料,その他定期刊行物
Newsweek
The Globe and Mail The Guardian The Times
The Washington Post
『朝日新聞』