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アイヒェンドルフのロマン的総合文学 : 『詩人と その仲間』をよむ

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アイヒェンドルフのロマン的総合文学 : 『詩人と その仲間』をよむ

著者 吉田 国臣

雑誌名 星薬科大学一般教育論集

号 25

ページ 35‑71

発行年 2007

URL http://id.nii.ac.jp/1240/00000235/

(2)

イヒェンドルフのロマン的総合文学

1﹃詩人とその仲間﹄をよむー

吉田 国臣

じめに

+九世紀は小説の世紀といわれる︒しかし︑その隆盛に先がけて出された︑F⁝レLルの﹁フランス革命︑・・

的 ヒテの知識学︑そしてゲーテの︿マイスター﹀は︑時代の最も大きな趨勢である﹂との評一三口は︑十八世紀末における画期

的な小説﹃ヴィルヘルム・マイスターの修行時代﹂の衝撃的なデヴューを伝えている︒それはまた近代の市民社会に生き

る個性的で自由な人間の生き方を描く上で︑従来のジ・ンルの規則にとらわれない畠な散文形式すなわち纂小説が

P

  時代の要請に合致し︑これまでの小説に一般的な通念︑荒唐無稽な恋の冒険物語の枠を超えて︑この作品が主人公の内面

 的な成長と社会的役割との宥和を課題とした︑いわゆる教養小説と言われるものの典型になることを物語っている︒しか

ィ し︑これほどまでに高いF・シュレーゲルの評価は後に﹁マイスターは充分には神秘的でないことで︑すでに不完全であ

  る﹂とか︑﹁ロマン的全体性ということは全くゲーテの念頭にない﹂といった批判に転じ︑ロマン主義の文学観がより鮮明

35なっていく︒その背景にはノヴァーリスの﹃ハインリヒ・フォン・オフターディンゲン﹄を﹁超俗的﹂︵︒⑩09﹁﹇°・9︶と称

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36 揚し︑﹃マイスター﹄は地上の人間世界にのみ終始し︑万有への顧慮を欠いているというシュレーゲルの不満がある︒彼の

頭にあったのは︑単に小説の形式上のことではなく内容において︑つまり︑人間を︑またその世界を︑宇宙的視野から

とらえようとするロマン的な文学観である︒

    ノ  ヴ  ユ  レ 一方︑短編小説にも︑優れたものが多く現れたが︑単にボリュームの長短を言うのではなく︑﹁ノヴェレは心理学のない

分析的なロマーンである﹂とか︑﹁ドン・キホーテはノヴェレの体系というよりは︑むしろ連鎖である︒多くのロマーンは      閣もともと︑ノヴェレの連鎖あるいは花輪にすぎない﹂等︑ジャンル上の特徴を比較的詳細に論じたのもロマン派の理論家

F・シュレーゲルである︒また伝統的なジャンルの境界を超える統合的な文学表現の試みとして︑ティークが﹃金髪の

クベルト﹄において初めて試みた︑小説と創作メルヒェンとの融合の中に︑ロマン派のノヴェレの嗜矢を見ることも

     りぼ      る あろう︒そこでノヴェレという題辞を添えられたアイヒェンドルフの二作目の長編小説の形態を見ると︑その規模

大 小を別にすれば︑ティークの場合と一脈相通じる傾向を探ることができる︒なぜなら﹃詩人とその仲間﹄はマイスター

       倒型の長編小説の形態を踏襲しながらも︑そこにティークの創作傾向や︑ノヴァーリスの意図したジャンルを統合する﹁ロ

的な総合文学としてのメルヒェン﹂の息吹が明瞭に看取せられるからである︒つまり︑ここで言うメルヒェンとは︑

的な意味での︑自由な想像力によって創られた非日常的で不可思議な物語でも︑マックス・リュティのいう︑いわゆ

る民族童話に対する芸術的創作童話と同義のものでもない︒とはいえ︑それらと一線を画するという厳密なジャンル論を

張したいのではない︒形式が問題なのではなく︑ノヴァーリスの目指したロマン主義文学︑つまり﹁メルヒェンは文学

 カ ノ ン       ロ  マ     ノ

規 範である︒あらゆる文学は︑メルヒェン的でなくてはならない﹂とか︑﹁真の愛が現れる長編小説はすべて︑メルヒェ

あり魔術的な出来事である﹂という言葉に示唆される︑より総合的な意味でのメルヒェンを意味する︒そうしたロマ

派の意図を踏まえ︑それをアイヒェンドルフなりに実現した作品の謂である︒もっとも︑あまりに作品の形式に拘泥す

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  ることは︑さまざまなジャンルの形式にとらわれず︑むしろそれを凌駕することさえ主張したロマン主義文学を話題にす    る上で︑不毛の混乱を招きかねない︒それよりもここで留意したいのは︑作品の内実を規定している作家の内的な創作意

  欲の傾向である︒作家を促し︑繰り返し作品に結実しようとする︑内面の衝動︑欲求こそが結果として︑様式上の約束事

特徴を超える作品の形態を導き出しているといえるからである︒

  さて︑アイヒェンドルフの中期の長編小説﹃詩人とその仲間﹄は︑この作がしばしば︑処女長編小説﹃予感と現在﹄の    と極めて類似しているために︑二番煎じであるかの︑誤解にも等しい受容史に隠れて︑その真価も知られていない︒

しろこの作は︑初期ロマン主義の課題を真摯に受けとめ︑それを継承したと考えるならば︑ドイッロマン主義の前期と

  後期を結ぶ︑きわめて重要な作品のひとつと判断しなければならない︒

学  まず︑標題の﹃詩人︵たち︶とその仲間﹄の如く︑多くの詩人が登場し︑彼らのいわば典型的でもありながら特殊でもある恋愛の物語を︑さまざまなヴ・リ干・・ンを持つ筋書きで収警せ三︑一章ごとに軽い転回点︵§・§⊂き︑

的 つまりノヴェレ風の形式を踏む一方で︑さらにそれらを超えて重層的に︑読者の心理のなかに︑いくつものノヴェレをお

 のずと生み出してゆく︒それらが相互に関連しながら最終的に小説全体を構成している点で︑﹁ノヴェレの連鎖﹂といえる

鋤 ある︒しかもそのなかには︑﹃マイスターの遍歴時代﹄に比べれば多くはないが︑はっきりと形式上もまとまったもの

として︑逸話﹁野性的なスペイン女の話﹂や︑童話﹁カスペルとアンネル﹂までが入っている︒もっとも︑ノヴェレのジャ

 ンルが一般化していない当時の状況のもとで︑作者がそれほど強く形式面でノヴェレを意図していたかどうかは明瞭ではヒ    θイ ない︒しかし一方でりアリズム的な傾向に新鮮味を感じていたことは否めない︒また塔の結社の掟に従ってヴィルヘルム

遍歴する形とは異なり︑作中の詩人の群像を︑イタリアへの旅の途上という︑共通の︑ゆるやかな筋立ての中で︑相互 37 ませながら描いていく︒そしてノヴァーリスの場合のように︑主人公のオフターディンゲンひとりの旅を追う筋立て

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38 はなく︑複数の詩人が同時進行的に描かれるところにアイヒェンドルフの作品の特色がある︒なかでも︑詩人になろう

として︑その志を果せずに天折した学生オットーには︑初期ロマン派の詩人の姿が揺曳している︒いわば美に殉じたこの

青年の短い境涯を︑他の詩人たちの中心に置いてみれば︑一層際立った輪郭をもつロマン派詩人の像が結ばれる︒延いて

は詩人自身の内面が抱える課題が︑そこに最も色濃く投影していると言える︒その課題をオットーとともにしているのが

ヴィクトールなのだが︑それはまたアイヒェンドルフの詩人としての核心であり︑初期ロマン派のノヴァーリスのそれに

呼応する︒つまり﹁詩人とは何か﹂についての︑アイヒェンドルフ自身の体験と思索の反映であり応答である︒同時にロ

義のもつ多様性・多義性を反映するために︑さまざまな詩人の形姿を登場させている︒むろんそこには前述したよ

うに︑ゲーテに対するロマン派に通有の︑﹃ヴィルヘルム・マイスター﹄は︑散文的で︑奇跡も神秘もない芸術的無神論で

ある︑という批判が︑前提とも出発点ともなっていることは言うまでもない︒それをアイヒェンドルフはメルヒェンの要

を取り込むことによって克服しようというのである︒さらに作者は︑言語的な喚起力を駆使して先行の諸作品を読者の

起 させ︑自由な想像力の発現を促し︑情感に訴えようとする︒それこそが拝情性曲豆かなこの作品の特色と言える︒

的な持情性を重視する傾向と客観性を重んじるノヴェレの作風という︑ジャンル的に一面矛盾する要素を融合したも

まさにアイヒェンドルフのメルヒェン的世界には相応しい表現形態となっている︒そうした観点から︑いわばロマン 義と次世代のリアリズムの中間に位置する作品でもあったわけである︒そんな事情を踏まえ︑以下に筋書きを追いなが

ら解説を交え︑この小説の内実と形式との関連がどのように実現されているかをたどってみたい︒

  1物語は︑小説全体を通じて︑いわば筋書きの進行を支える上で中心的な役割を果している詩人︑フォルト︵ウ︶ナート男爵

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イタリアへの旅の途上︑ハイデルベルクを彷彿とさせる小邑のたたずまいに触れて︑懐かしい追憶と共に思い出した学 ヴァルターのもとを訪ねるところから始まる︒フォルトナートはそこでヴァルターから自分の敬愛する詩人ヴィクトー 伯爵の領地が近在にあることを聞かされると︑矢も楯もたまらずに︑詩人の故郷ホーエンシュタインの訪問を促す︒い      なりわいまでは官途を選んで︑いわば世俗の生業に勤しんでいるヴァルターは躊躇うが︑フォルトナートは無理にもヴァルターを

  誘い出す︒早くもここで︑小説の主題のひとつ︑詩人フォルトナートと一般市民生活者ヴァルターとの対立︑言い換えれ ば︑文学芸術と世俗の生との葛藤が出てくるのだが︑小説の舞台は︑かなり強引に漠とした詩人の世界へと入っていく︒

このような設定自体がすでに同時代を背景にした﹃予感と現在﹄とは異なっている︒しかも︑中世を思わせる﹃オフター ィンゲン﹂に比べれば︑小説の舞台はたとえ時間的にそれほど隔たった昔のことではないにせよ︑後者と同様に定かな

らぬ過去の世界を想定している︒さらにまた翌日の旅立ちを控えた夕刻︑地下の酒場で二人が見かける風変わりな謎の

ヴ・イオリ・弾き︵後に宮廷顧問官になる詩人ドリ・ア・で︶の余興は︑作品の随所に醸される︑アイ・・ンドル・調

的 のユーモラスな空騒ぎの前触れとなっている︒これもまた前作とは趣を異にしている︒

朝早く出発したふたりが︑ロマンチックな道行きを経て山中に迷い︑謎めいた風情を見せる深淵の傍らを通って辿り

⑳  着く山中の森の︑草叢に沈んでいる世界は︑恐らく古代ローマの遺跡の趾であろうか︒月光を浴びて夢とも現ともつかな

神秘な情調を醸しだすその空間は︑夜半に目覚めたフォルトナートが︑泉のせせらぎを耳にしながら歌って過ごす︑一

夜の時間的な隔たりと相挨って︑時代の変化の波にいまだ浸蝕されていない旧き良き世界への︑境界域を成しているとい

えよう︒翌早朝にそこを抜け出たふたりは桃源境を思わせる広々とした架空の土地︑ホーエンシュタインに到着する︒ふ りは︑伯爵領を管理している主務官から思わぬ歓待を受け︑しばらくの間滞在することになるが︑その日はちょうど主 39  甥の大学生オットーが︑ハレ大学を終えて郷里に戻ってくる日と重なる︒彼を歓迎するために催される︑昔の

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40 宮廷時代を模した舞踏会も︑読者にそれとなく旧時代をしのばせ︑過去の世界に引き込むための道具立てのひとつとみな

せ よう︒

 一方また学生の到来を待つ間︑フォルトナートは城の庭園に仮眠していた不思議な男︵小説の後半で初めて明かされる

が︑旅行中のはずの領主ヴィクトール伯爵その人︶に庭園内を詳しく案内される︒このバロック調の︑いわゆる整形庭園

を案内されながらフォルトナートは︑﹁庭園というものは︑もしそれがある決まった響きを持つ︑ひとつの詩でないとした

ら一体何なのでしょうか﹂と慨嘆する︒アイヒェンドルフは庭園の様式が︑詩や文学の流行と一致するという観点を︑後

貴族と革命﹂の中に書き残している︒そこで︑この広大な庭園の構造自体が︑すでに確立した名声をもつ詩人ヴィク

トールの文学観を映し︑その詩業の姿を示唆するものと理解できる︒ところが︑完成され︑整然と形を保っている庭園が

れ︑岩壁の下に横たわる谷間には︑寂しげな池があり︑その中央には渡るすべもない島が︑自然の破壊作用に

ゆだねられて廃嘘のように放置されている︒案内の男の説明によれば︑そこは詩人の過去の悲恋を物語る場所であり︑触

ることを揮られる詩人の内面に︑あたかも傷口のように開いた︑空虚で危険な淵の存在を予感させる︒ヴィクトールに

とってみれば︑この庭園は詩人の心に残る往昔の姿を映し出しているがゆえに︑常にそのままの状態に保たれていなけれ

ならない︒言い換えれば詩人の魂の原風景を保存し続けているのだ︒さまざまな庭園風景が作品の進行とともに現れ︑      のそのつど詩人たちの内面との照応をそれとなく暗示しているのもこの作品の大きな特徴のひとつである︒それらの庭園の

池の畔にはしばしばヴィーナス像が存在する︒そして西洋的な心情の歴史を︑その始原からの葛藤を繰り返し想起させる︒

それらの女神像は官能性を美的に昇華した古代ギリシャ・ローマ文化の象徴であり︑↓方︑形象の美は仮象であるとし︑

      ト   ラ   ウ   マ な生の誘惑とみなすキリスト教文化の伝統は︑人の心を︑ときに解放し︑ときに逆説的に呪縛する内面的外傷とも

なっている︒ヴィーナスやメリュジーヌの象徴に託してエロスの二面性を︑かつ男性心理の危機的な相を描いてみせるの

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は︑その緊張関係や葛藤に耐え︑自由に操る詩人︑すなわち詩美の世界を司る使命を帯びた美の司祭である︒この課題を

ぐって詩人の魂の状況がさまざまに展開されていく︒それが作品の主題なのだから︒

     2

  オットーは︑大学で法律を学びながらも︑詩美の世界の抗し難い魅力に囚われて︑帰郷後の日々を無為に過ごしている︒

そのため︑古風で保守的な生活信条を優先する叔母の叱責を買うことになる︒世俗的な生活力を身につけることこそ大学 終えたオットーの第一の使命であるという彼女の主張に︑繊細な若者の神経を逆なでされ︑いたたまれずにその場から ち去ったオットーの後を追って慰めるのは︑今では世俗の生業に勤しんでいるはずのヴァルターである︒彼は若いオッ

トーの心情に︑自分の青春の姿を重ねて憐欄の情にほだされ︑優しく誠実に語りかける︒﹁ここへわたしを導いたのは︑わ

欲  たし自身の青春時代の回想なのです︒若くて溌刺とした感情を求める切実な心の痛みです︒この道に踏み込むと︑燃え立

ような孤独感にますます深く陥って︑心は乱れ荒んでいくのです︒わたしには若い心の︑慰めようのないこの寂莫感が

よくわかります︒故郷のない郷愁︑迷宮のような自虐的な感情です⁝あなたがこの孤独のなかで友を必要とするなら︑そ

η  してわたしにそれをお望みなら︑わたしは一生涯あなたのために手を差し伸べましょう︒そして出来るときには忠告と保

護と援助をしたいのです﹂

実感溢れるヴァルターの語りかけに心を開いてオットーは告白する︒﹁もしもぼくが今あなたに︑あの魅惑的な楽人の

ことをお聞かせしたいと望んだとしても︑お気持は変わらないのでしょうか︑あの楽人は年毎に陽の光が力強く野原にそ ぐ春ともなれば︑新たに不思議な歌とともに︑ヴィーナスの山からやってきて︑人の心を妖惑するのです︒また雀陶し 41真昼時には︑寂しげな鳥の歌が響いてきます︑そして川や泉は月の光を浴びて意味不明なざわめきをたて︑まるで夢の

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42 中でのように水浴びする水の精たちが歌う声が︑静かな金色の夜の静寂をぬうように流れてくるなどと言いましたらー

あなたはぼくのことを︑やはり気がふれたと思われるのではないでしょうか﹂と言うオットーの︑月光を浴びて異様に輝

く焦点の定まらない目を見たヴァルターは心底から驚愕する︒

この告白の内容は︑しばしば文学に形象化される︑非現実的な意識下の世界や夢の世界であって︑それが白昼であれ︑

夜であれ︑実際に見えたり聞こえたりするのは︑常人の理解からすれば︑幻覚の可能性を疑わざるを得ない︒しかし自分

魂の状態を内省的に自覚し︑それをどのように表現するかは︑詩人としての資質を問う上で重要な問題である︒また文

学の主題としては本来これは︑ティークの描いたタンホイザー伝承のヴァリエーションであるのは言うまでもなく︑アイ

ヒェンドルフの好む素材である︒ただし何故これほどまで繰り返し作品に採り上げるのか︑作家自身の心底に何らかの問

を考えるべきかもしれない︒アイヒェンドルフはハレ大学に在籍していた頃︑カントの後継者であるヨーハン・クリ

トフ・ホフバウアーの講義を受けていることも理由の↓端であろうか︒彼の説くところによれば︑精神疾患のさまざま

な形態には︑感覚の能力以上に想像力が高まることによって生じるような妄想がある︒つまり﹁妄想は︑人間が︑思い込

と実際の対象を感受したものとを絶えず取り違えることによって生じる︑一種のずれである﹂と主張した︒そしてこの      ⑧型の狂気の原因は情熱︵↑︒己窪゜・9①Oのこともあるが︑また想像力の意図的な緊張が原因のこともあるという︒処女短編

秋の惑わし﹂においてもすでに︑若い男性心理の危機的状況が︑妄想による狂気の形で描かれている︒確かに正常と異常

界は魂の秘密を垣間見せるがゆえに︑人間の生のドラマを描く上で格好の素材を提供するとも言えよう︒ただしそれ

を心理学や精神医学の合理で分析するのは詩人の役目ではない︒もっとも︑タンホイザーがローマ教皇に許しを乞うこと

よって救いを求めるのは中世以来の倫理的規制と伝統的な解決法を反映したに過ぎない︒従って啓蒙主義︑フランス革

命を経た後の社会に生きる読者には色槌せて見えるのではなかろうか︒新しい時代には︑それなりの理解と解釈が︑また

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その新たな表現が求められるのではないだろうか︒アイヒェンドルフの生前に未発表のこの短編もまた︑妄想の心理的状

表現の初期の試みとして︑その間の事情を窺わせるものとなっている︒

  オットーはヴァルターにさらに告白する︒﹁それは本当にぼくのことなのですよ︑ですからぼくは︑響いてくる摩詞不思 な音の流れを損なうことなく追うのを許され︑その魔法を自由に操る詩人になるのを夢みているのです︒でも今のぼく は以前にもましてわかるのです︒ぼくの幼年時代の原初の薄明の世界を通り過ぎた天使のことを︑ぼくはしばしば憧れ と祈りを込めて思い描こうとするのですが︑口に出して表現しようと努力してもますます難しくなるのです︒今日それを

けなくヴィクトール伯爵の本のなかに見出したときには︑思わず驚喜しました︒伯爵はまるで魔法の島のように︑

その世界を大胆に活き活きと再現していました︒ーしかしぼくは自分の将来に︑もはや希望を見出せなくなりました﹂

と自分の才能に疑問を投げかけている︒つまり文学修行の実践や︑その苦悩の状況自体も文学の対象にし︑小説の課題と

するのは︑文芸評論家F⁝レLルの考えに影響を受けたものであろう・またノヴrリ・にも通じていると言えよ的 う︒ただしオットーの助言者であって︑同時に匿名のパトロンでもあるヴィクトール伯爵は︑彼自身がいまだ心に問題を

抱えているため︑オフターディンゲンに接するクリングゾールのような余裕もなく︑優しい師ではないが︒

η   文学に耽溺し︑常に狂気の深淵の縁を行くオットーの︑危うい魂の状況を描くため︑作者は︑ヴィーナスやセイレーン

D

ような古典神話の象徴を用いたり︑中世のメリュジーヌ伝承のような素材を援用したりするが︑そうした素材はすでに︑

 ﹃秋の惑わし﹄や中期の短編﹃大理石像﹄においても繰り返し利用され︑それ自体はいささか前時代的で新鮮味を欠いてい

る︒そのため月並みの印象を与え︑ややともすれば見逃されがちなのだが︑一方この作品には他にはない数々の工夫が施

   されている点で注目に値する︒﹃詩人とその仲間﹄では︑単に神話や伝説の素材を旧来の形で用いるのではなく︑客観的な

43 をそれとなく示唆する伏線がそこごこに張り巡らされているのである︒たとえばオットーを誘い出す魅惑的な歌の主

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44 は︑彼の受けとめようには関らず︑けしてセイレーンなどではなく︑﹁水の精の歌﹂を歌うコルデルヒェン︑つまりヴィク

トール伯爵がロターリオの名前で旅を土ハにしていたころの︑役者仲間の女優である︒ハレの学生時代に彼女に初めて出

合ったオットーは︑このコケティッシュな野性味に溢れる︵≦声﹈口︶女優からは︑慰めも得るが︑最後まで翻弄される結末を

読みとらなければならない︒彼女は舞台上の虚構の世界と現実の境界を自在に出入りする演劇人であり︑変装によってた    たぶらたび人を証かすことに喜びを感じているが︑そのためロターリオとの愛の成就を彼女自身が誠心に求めたときには︑今

度は現実に背かれる︒驕慢で奇矯なその行動の代償を払わなければならなかったのだ︒従って︑オットーとは比較になら

ほどの行動力を持ちながらも︑現実社会での基盤を確立できずに破滅する点で︑同じく悲劇的な境涯にある︒

   3  自分の婚約者フロレンティーネと親友の軽いアバンチュールに傷ついて︑ホーエンシュタインを慌しく立ち去ったヴァ

ターの後を追うように︑フォルトナートもホーエンシュタインを旅立つと︑途中で旅の一座とともに︑烈しい雨の洗礼

を受ける︒やっとの思いでたどり着いた小さな町の宿で一夜を過ごす︒愉快な混乱の後に︑ホーエンシュタインの庭園の

例の案内者に再会する︒この遍歴学生に身をやつしたロターリオことヴィクトール伯爵は︑密かに貴族社会の縁故を通じ︑

を君主の夏の狩猟用宮殿へ招待する︒翌朝︑期待に胸を膨らませた一座の↓行は︑さらに途中で元の座付き指揮者で

あったドクトルことドリュアンダーも加えると︑またしても雷雨という自然の手酷い歓迎を受けた後︑そろって君主の狩

猟 用宮殿に集結する︒フォルトナートも旅のついでに行を共にする︒

山中の奥深い谷間に位置する君主の狩猟舘では一昔前の時代の宮廷社会の縮図が展開されメルヒェン的な環境を用意す

る︒そして九章から十三章までは︑その中心にノヴェレの要素を具えたひとつの挿話を挟み︑小説全体の山場を形成して

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る︒そこで活躍するのは︑ロターリオとスペイン貴族の末商である伯爵令嬢ユアンナである︒城館のある眺めのよい高 台から広く豊穣なこの地方を展望しながらロターリオは︑フォルトナートに向かって自分の文学観・人生観を披渥して  ﹁人生が美しいものであるなら︑ぼくも美しく生きたい︒そして自らロミオのように恋をし︑ゲッツのように勇敢で︑ド キホーテのように思慮深くありたいものだ﹂という︒ここには人生をロマン的に考察し︑かつ生きようとする姿勢が 明確に表明されている︒言い換えれば文学と人生において彼なりのロマン主義を実践する試みである︒かれの観察によれ

主 と君主夫人がそれをかなり巧みに実践している︒﹁あの君主は大したやり手だ︑彼はきわめて難しいロマン主義を︑

自ら演出に関与したわけでもないのに︑初めて手にした台本で最後まで演じ切ったからね︒君主夫人はまったくよく考え

  抜かれた小説だね︑多くの人の手に渡って読み継がれ︑いまではぼろぼろになっている﹂︒またユアンナについて︑﹁あの 学 美しく野性的な伯爵令嬢は︑後を追う崇拝者たちをまるで猟犬の群れのようにみなしている﹂と言いながら﹁実際︑あのような獲物は狩猟の欲望を掻き立てるものだ!﹂と自らの心中を告白する・つまり・・れから繰りひろげられる狩猟会は

的 同時にユアンナをあぐる男性たちの恋の競演でもあるのだ︒君主の遠縁のユアンナは︑夫人の計らいで︑マンフレート男

ロ  という結婚相手の到着を待ち受けているのだが︑実はかつてヴィクトール伯爵がナポレオンのスペイン征服戦争に対抗⑳  して︑ドイツの傭兵部隊を率いて参戦した折︑スペインの山中で初めて彼女を見初めたときに︑太陽そのものをのぞき込

P

ような衝撃を受けたのであった︒当時︑ゲリラとの乱戦中に落命したと思っていたその当人が今も存命であると

判明すると︑ロターリオ︵ヴィクトール伯爵︶の心には︑新たな高鳴りが生じる︒﹁ユアンナの美貌はヴィクトールを誘惑

し︑次第に放恣な願望の荒々しい迷宮の奥深く︑ますます誘い込んでいった﹂︒花婿の手に彼女が渡るのに耐え切れなく

   なった彼は︑ユアンナの誘拐を決意する︒それのみがこの野性的なニンフのような性情の女性を馴化する手段と思えた︒

45

  またしても過去の世界がユアンナの登場とともに甦って来たのである︒

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46 が︑狩猟女神ディアーナの化身のようなユアンナはロターリオの愛を退け︑馬もろともに谷底の川に身を投げて絶命 する︒直前に愛を告白したロターリオには彼女の入水自殺の意味が不明である︒だが︑この不可解な女性の行動の裏には      ロ   ド 味な生い立ちがあったのである︒それを物語るのは︑旅のイギリス貴族とのみ言われている人物である︒

ードもまた狩猟の仲間であったが︑突然の嵐に見舞われ︑田舎貴族工ーバーシュタイン男爵の崩れかけた居城に︑君主

とその供の一行とともに︑一夜の宿を求めていた︒長い夜の無柳を慰めるため︑君主夫人の提案でなされた︑挿話的な逸

性的なスペイン女の物語﹂は︑ボッカチオのデカメロンを思わせる趣向ではあるが︑内容はむしろ当時イギリスで

世を風靡していたゴシック・ロマン風である︒なぜなら彼女の行動にはデモーニッシュな磐りが窺えるからである︒産

褥で亡くなった母親に代わり︑ユアンナを育てた乳母は︑ジプシーの父と囚われの身のアラビア女の母親から魔法を受け

継いでいた︒跡継ぎの男子のいない父の伯爵に︑毎夜のごとく城壁の上から領地を遠望し︑一族の過去の栄光を語り聞か

されて育ったためか︑男性的な行動の自由を欲し︑男を支配することを切望するユアンナの切なる願いに折れ︑魔女を思

わせるこの年老いた乳母が授けた魔力は︑ロターリオの真情のこもった愛の告白に接して︑ユアンナの心に密かに兆した

的な愛には︑呪いとなって復讐的な作用を及ぼすのかもしれない︒つまり異性に対する支配欲は真の愛に目覚めると

き︑その無力化を恐れて自滅の道を選ぶのではなかろうか︒しかしまたユアンナの心には男性に対する不信もあろう︒な

なら︑彼女はある狩猟会の帰途︑密かに自分の後を追ってきた君主の横恋慕を逆手にとり︑彼がかつて愛しながら︑今

捨てて顧みない猟師の娘のもとにそれとなく導くのである︒盲目の母親とひっそりと悲嘆のうちに暮らす心を病んだ

女を目前にして︑﹁ユアンナの目が死を呼ぶように光った﹂とき︑自責の念に駆られた不実な君主が耐え切れず︑その場

を逃げ去ると︑﹁ユアンナはその間に庭に入り︑盲目の婦人とその哀れな娘に慰めの言葉をかけ︑去り際に金貨を婦人の膝

げ入れた﹂のである︒つまりユアンナは必ずしも人間性を失った魔性の女とは言えないのである︒

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中のユアンナによって花婿候補者のマンフレートと間違われたフォルトナートは︑﹁御覧なさい︑あの鹿は自由だ わ︑あなたたちはわたしよりも︑むしろ森の鹿を恋する眼差しで追うべきです!わたしに何を求めているのですか?わ たしは自由な境涯がよいのです︒君主夫人がどのような考えをお持ちであろうと決して︑あなた方の獲物にも妻にもなる もりはありません  用心召され︑さもないとわたしたちのどちらも死ぬことになるでしょう!﹂と言われ︑当惑する

あった︒その言葉を残して去るユアンナが馬首を変えると︑﹁老木が身を震わせて︑ユアンナの美しい姿に向けて黄葉       イニンエ ノヨノ

  を金色の雨のように降り注いだ﹂のは︑死出の旅への通過儀礼であったろうか︒彼女の運命を予感してか︑﹁あたりの森に

き出る泉の音が意味不明の言葉を話しているかのようにフォルトナートには思えた﹂のである︒

ナの失われた後に狩猟館を再び訪れたフォルトナートは︑寂しさとともに深い恐怖に襲われ︑直ちにイタリアへ

と出発し︑途中ユアンナの遺骸を首都へ運ぶ葬列の︑静かな松明の行列を見送ることになる︒第一部の終章は︑﹁こうして

しばしば人間たちの欲望のなかを走り抜ける冷たい戦懐は︑美しい・の世︵合﹃Φ︶が借り物に過ぎない・とを・思い出

      イ・ターメ・ノ・−的 させようと︑警告している﹂と結ばれる︒このように物語は大きな転換点を越え︑舞台はごく短い幕間劇としてのスイ

旅 を経て︑イタリアへ移る︒

ド      4

  イタリアはこの小説の作者や主人公たちに限らずドイッ人にとっては常に憧れの地である︒ここでは︑オットーとフォ

ィ ルトナートのふたりの物語は︑それぞれのイタリア女性との出会いと愛の行方を巡って明暗を分けることになる︒

    作の道を︑いわば娼婦のような魅惑の対象と言い放って︑法律の勉学に専心することを誓ったオットーも︑結局はそ 47  出奔し放浪するうちに︑旅の一座の仲間入りをして君主の夏の狩猟舘でともに過ごしつつ文学修行に励

(15)

48 た︒しかし詩と戯曲の相違を弁えない未熟なオットーは︑一座の主要メンバーの前で自作を朗読し︑酷評を浴びた

と思い︑失意のうちにロターリオに出会う︒ロターリオは﹁若い人よ︑あなたは詩人になるつもりなのでしょう⁝それに

しては不向きな立場におられるようだが︑それならきっぱりと︑ほんの一握りの才覚を持ち故郷で詩作すること︑ひとに

ものを聞かないことに慣れなければいけないでしょう︒とりわけあなたは︑ここの役者たちやご婦人たちから離れなけれ

けない﹂と忠告する︒厳しいロターリオの言葉に発奮したオットーは即刻イタリアへの旅立ちを決意する︒そのため

資金援助を密かに手配したのはロターリオことヴィクトール伯爵自身なのである︒

オットーは南国での生活に酔い痴れるうちに︑いつしかロターリオの忠告も忘れ︑故郷のドイッを疎むようになってい       ヴァルコニ る︒フォルトナートと連れ立って戸外を散歩しながら︑郊外の地形に合わせた露 壇式庭園がどこまでも果てしなく連な

る一帯を目にした彼は︑﹁目の届かないところにまで花が咲き乱れたそのパラダイス﹂を後にして︑いつかまたドイツの山

間の狭隙な故郷の町にもどることを﹁考えただけで本当に身震いする﹂という︒そんな彼に対してフォルトナートは︑﹁ど

な詩人も故郷からは逃れられないのです﹂と忠告する︒しかしオットーの喜びの対象は他にあった︒ある田舎祭りの折

出会った美しい村娘アニーディと結婚するに至って︑それは頂点に達する︒アニーディを両親ともども引き取りローマ

郊 外で暮すオットーの新婚家庭を訪れたフォルトナートは︑﹁メルヒェンの魔力に囚われているかのような︑この異郷が

醸し出す抗しがたい哀愁に打ちひしがれ︑心は今にも張り裂けんばかりであった﹂︒その魔力に何とか打ち克ったフォルト

ナートは︑仕事を口実に︑まるで故人に対するようにして別れを告げ振り返ると︑﹁オットーの姿が月光を浴びて真っ青に

見 えた﹂のである︒フォルトナートの心理を暗示するシェイクスピア風の修辞的な分析である︒

実はフォルトナートにも新しい恋が芽生えていたからである︒旅の仲間に紹介され︑ローマの古い貴族A侯爵の館に到

着した彼は︑翌朝早くも︑そこの令嬢フィアメッタに︑可愛らしい林檎の花びらを吹雪のように浴びせかけられる︒女性

(16)

ら施される愛の洗礼は常に花吹雪の形をとるのが︑この小説では一種のイニシエーションになっているようだ︒しかも

ィアメッタの場合︑いずれ実を結ぶ林檎の花は︑未来の結婚を象徴する点で注目に値しよう︒

ミオに出会ったときのジュリエットと同じ十四歳のフィアメッタは︑恥じらいと大胆さを併せ持つ陽気な歌姫でもあ    り︑歌声で人を魅惑するセイレーンの化身でもある︒フォルトナートはいつしかその魔力に囚われていた︒﹁愛らしい歌声      はて 朝とともに森の魔法の鳥のように訪れ︑その鳥は彼をからかうように︑その涯を見通すことのできない緑の迷宮にます

ます深く誘うのであった﹂︒しかも︑ある蒸し暑い夏の真昼に︑涼しい園亭にまどろむ彼女の口元から洩れる寝言を偶然に

立 ち聞きして︑彼の心は一層混乱する︒彼女はフォルトナートの恋する心のうちを読んでいたからだ︒﹁愛を秘めた謎は︑

それを解く術を知らない彼の心を一杯に満たしていた﹂︒そうしてフォルトナートは恋の愚かな足掻きを心から無理にも

学 除こうとローマを後に旅立つ︒ 芳︑南国の暑さはオ・トみわび住いにも異変を生じていた︒﹁そんなある日の・と︑オ・トよ疲れて遠い散歩から

的 もどると家の中はみな出払っていた﹂︒彼はいいようもない孤独を感じ︑あたりが常とは違う寂しさのなかでふいによそよ

そしいものに感じられて愕然とする︒外出先からもどってきた妻のアニーディは悲しみに暮れる彼の心をまったく理解し

ない︒ひと悶着の末に︑ごたごたを逃れた彼は︑またしても家を後に︑当て蘂もな6裡・て・た︒疲れき・てもどると︑

W

眠っている妻の美しい表情を讃嘆しながらも︑通じ合わない心を抱え︑﹁開いた窓から屋根越しに月に照らされて光ってい

 る街の谷間を見下ろすと︑いくつかの離れ雲が上空を遠い故郷に向かって流れて行った︒1心の中で彼は自問していた

ィ ︿すばらしい︑子供時代に静かな晩の夢の中で︑遠くのローマの鐘の音が響くのを︑何度も繰り返して聞いたものだが︑い

  まぼくはここにいるのに︑当時と同じように︑もっともっと遠くからそれが聞えてくるのは︑まるでこの暗い丘のはるか

49 彼方に︑もうひとつ別のローマが存在するかのようだ﹀﹂と思った︒彼の心の深い郷愁がどこに由来するかを暗示する修辞

(17)

50

で ある︒

  秋の訪れとともに︑オットーの心には↓段と郷愁の思いがつのっていた︒そんなある日のこと彼は︑野の園遊のテント

で︑コルデルヒェンに再会して︑思わず燃えるような口付けをして彼女を抱きしめる︒彼女も一瞬キスを返したが︑あっ

という間に姿を消す︒晩に遅く帰宅した彼は︑家の者に今夜は田舎で過ごすつもりであると︑言い残してあったことに気

付く︒そこで中庭の四阿のベンチに横たわると︑じきに眠りに落ちた︒﹁夢の中で彼はホーエンシュタインの美しい庭園に

横たわり︑明るい月の光りを浴びながら通路に立つ神々の石像を目の前にしていた︒その像たちが互いにささやき交わし

るかのように思え︑右を見るとヴィーナス像が動いて︑ゆっくりとその台座から降りた︒恐怖とともに彼はそこにア

ーディの姿を認めた︒彼女はまっすぐに彼に向かってきた︒大理石の冷たさがとつぜん︑彼の手足に沁みとおったので

驚いて彼は目を覚ました﹂︒この描写には不自然さは微塵もない︑夢の話なのだから︒その直後に現実が姿を現す︒﹁とこ

ろが彼がまだ当惑して周囲を見回しているときに︑本当に白い姿が戸口に立って︑低い声でささやきながら︑彼にはその

姿の見えない誰かの方を振り返った︒ふいにその人影が幅の広いマントを左右に開くと︑アニーディがその折り目の中か

ら姿を現した︒若くて背の高い男が彼女に腕を絡ませて抱き︑キスをした︒やがて彼女は笑いながら男にマントを投げて

し︑家の中に滑り込んだ︒見知らぬ男はすばやく庭の垣根を飛び越えたーすべてはまた死の静けさにもどっていた﹂︒

他のアイヒェンドルフの作品とは異なる処理の仕方である︒夢と現実とは矛盾なく接続され︑写実主義時代の小説を思わ

る︒

  妻の不貞を目撃したオットーにとって︑﹁確かに地上にもはや故郷はない﹂︒その心を映し出すかのように︑﹁通りは荒れ て︑月光を浴びた噴水は︑かつては花嫁のように優しい水音を響かせていたが︑今では姿形を失った水の精のように

幽霊じみて見え︑風に身を屈し傾けては︑密かに彼のことを︑その恥辱をささやいているかのように思えた﹂︒今の彼には︑

(18)

すべてを聞いてもらう誰かが是非とも必要だった︒君主の狩猟館に滞在していたときに知り合った友人の画家グイドのも とにいつしか足が向いていた︒ところが友は不在で︑その画家と同棲しているコルデルヒェンだけが︑旅支度に余念がな

た︒オットーの苦衷をつぶさに聞いて慰める彼女にとっても︑イタリアでの生活は退屈なだけで︑画家との生活にも︑

もはや未練はなく︑ドイッに帰ろうとしていたのである︒彼女はオットーに︑一緒にドイッへ帰ることを提案し︑彼はそ とローマを後にするのだった︒翌朝︑旅路についたふたりには︑ローマはまるで火の海のなかにあって︑ゆっ くりと背後に沈んで行くように見える︒ここでは︑ローマは信仰の国ではなく魅惑を秘めた魔境を暗示するものとなって

る︒

頃フォルトナートはナポリとシチリアを巡る旅を続けながら︑詩作に時を過ごしていた︒だが詩作を重ねるうちに

学 も︑その詩節の間から︑幼い侯爵令嬢フィアメッタの面影が不意に彼に笑いかけ︑﹁あなたはやはりわたしのもの!﹂と叫 ような・とが度・であ・た・そんなある晩のこと・シチリ・の海に突き出た高い山墨の上でまどろんでいると・﹁夢

的 の中で︑碧い潮の流れが静かに割れ︑哀調をおびた乱れる調べで訴えるかに︑長く翠の髪に︑輝く両肩を見せたフィアメッ

タが海中から浮かび上がってきた﹂︒もはやそれ以上我慢の出来なくなったフォルトナートは︑翌晩には対岸のイタリアに

向けて静かな海原を帆走する船上の人となっていた︒だがA侯爵邸に急ぎもどった彼を待ち受けていたのは︑フィアメッ

P

タの明るい歌声はおろか︑すべてが死に絶えたような静寂のみであった︒持ち主の変わった邸宅の留守を預かるのは︑

フォルトナートにここを紹介してくれた旅仲間の友人グルントリングである︒彼の口から聞き出したところでは︑破産し

た侯爵とその娘フィアメッタは縁戚を頼ってドイッに旅立ったという︒友人とともに慌しい交渉を経て人手に渡っていた

敷 を江︒貝い戻すと︑フォルトナートもまたドイッの故郷を目指して出発することになる︒必要な処置をすべて終え︑いま

51  

郵 便馬車で旅立つ彼の目に映るのは︑﹁庭園がどこも花盛りで︑あたりには虹が出ていた︒あたかもすべては何もかもふ

(19)

52 たたびよい結果になることを約束しているかのようだった﹂︒この表現はまさに中篇小説﹃のらくら者﹄の描写を髪髭さ

せ︑フォルトナートのその後が前作の主人公タウゲニヒツに相似することを暗示している︒

   5  小説は第三部に移り︑舞台は再びドイツに戻って︑各詩人たちがそれぞれの結末を迎える︒まずは君主の居住する帝都

ある︒君主は今では精神を病み幽閉の身である︒代わって君主夫人が統治の﹁手綱を奪い︑新しい自由を求めて支配権

を振るっていた﹂︒このころロターリオはひとり寂しく山から下りて首都に向かう︒夫人の誕生日を国中がこぞって祝って

る当日に︑人気のない郊外の宿に投宿すると︑久し振りにワインを飲みながら詩作に耽っている︒スペインでユアンナ

出会ったころ︑太陽そのものを覗き込んだかのような興奮を覚え︑それをもとに戯曲作品を書いていたころには︑城中

火炎とともに彼女の命も失われたものと思っていた︒ところが︑君主の狩猟館でふたたび彼女に出会い︑その筋書きを き変えてまで︑みずからも演じたロマン主義は︑またもや思いがけない結末を迎えて︑いまでは終焉していた︒このと

き︑彼の耳に聞えてきたのは︑世間を欺く誘惑に加担すれば︑その名声を天にまで高めようとの悪魔のささやきである︒

壁の鏡に映る蒼白に荒んだ自分の顔を見て︑ロターリオは歌う﹁虚妄の霊のひときわ荒きもの/われと闘うも笑止なり!

怖に満てる杯を/流れの底に打ち捨てん/二度と味わうことのなきように/誰ぞなお楽しく健やかなるか!﹂︒ロ

ターリオにとってユアンナのいない現世の名声など︑何程の意味があろうか︒それほどまでにロターリオの悲嘆は深かっ

たのである︒﹁おお︑わが主よ︑わが心は張り裂け/リュートの弦も切れぬばかりなり!﹂と歌うのみ︒悪魔は内面の声で

あろうか︒天才性を求める芸術家精神のあくなき創作意欲は後のトーマス・マンの主題でもある︒

ターリオは気持ちを紛らわそうと自らも祝祭に出かける︒首都の劇場ではロターリオの︑つまりヴィクトール伯爵の

(20)

作品が演じられており︑彼が席に着いたときには︑出し物は終わりかけていた︒ユアンナを演じていた女優は︑次第に伯

爵 令嬢の人物になりきって︑ロターリオの方を見上げて黒い瞳を耀かせた︒ロターリオはショックを受けて飛び上がると︑

死の静けさが会場を支配した︒観衆は詩人自身がその場に現れたことを知って︑嵐のような拍手で迎える︒しかし当人に

称 賛の嵐は空うな響きにしか聞えない︒彼は奇妙な恐怖にとらわれて動転し︑場外へ逃げ出すのであった︒

見知らぬ土地柄︑道に不案内な彼は気の向くままに進むと︑思いがけず宮廷公園の真ん中にたどり着く︒空は重く垂れ こあて︑無数の蛍が暗い通路に光りの尾を引いて漂い︑白い彫像が寂しげに月光を浴びてあちらこちらに立っている︒そ とき彼は自分の名前が低い声で呼ばれたかのように思うが︑やがてすべてがふたたび静まりかえっている︒城の広間の 扉のひとつが開かれ︑光りと音の響きがどっと外に溢れてきた︒そのとき篭火の光りに照らされ︑とつぜんユアンナの装

束を身につけた女の姿が見えると︑彼は我を忘れて後を追う︑女がすばやく振り向く︒恐怖を抱いて彼は仮面の暗い眼窩

を覗き込む︒す・かり混乱した彼に︑女はあたかも夜が明けるかのように身を震わせ・黒い巻き毛が両の肩に渦を巻いて的 いた︒黒い目が仮面から光っているのを彼は見た︒ー﹁朝ですわ!﹂と女はほとんど聞こえない声でささやくとすばやく

る影の間に姿を消した︒幽霊を見たと思い︑ヴィクトールは庭園を抜けて逃げ出す︒月の光りが夢みるように茂

刀  みの上にゆらゆらと揺れている︒脇には噴水が︑長い波打つヴェールをまとう妖精のように︑風にそよいでいる︒すっか

り動揺して街にもどる途中︑思いがけず︑コルデルヒェンを見かけて声をかけると︑彼女はちょうど劇場で見かけたロ

 ターリオを探していたところだったので︑これ幸いと自分の部屋に無理やり連れ込むのであった︒そこで︑彼女の口から

今日はユアンナの変装をしていたことを知らされるのである︒思い込みが幽霊の正体だったわけで︑何の不思

もない︒

53ヒェンは︑退屈なイタリアからオットーとともにしてきた逃避行を︑数日来の当地での逗留と︑また舞台に出

(21)

54 たいという希望を︑猛烈な勢いで語る︒そうしたときに︑同じ部屋でうたた寝をしていたオットーが目を覚ます︒それま

考えに耽っていたヴィクトールは︑オットーの荒んだ顔をそこに思いがけず見出して︑ショックを受けて叫ぶ︒﹁どうし

たのだ︑オットー!逃げ出しなさい⁝戦場に行きなさい︑畑を耕し︑薪を割るのだ︑戸口から戸口へと物乞いをして歩き

まえー﹂そしてさらに﹁わたしに詩の話はするな︑詩人の使命についても語るな︑君は恋する乙女のこと以上にはそ

関わりがないのだ﹂とたたみかけるように︑ ↓気に己の体験を吐露して言う︑﹁この世にはわずかな詩人しかいない

し︑その少ない中からひとりとして無傷で︑このメルヒェンのような耀く魔の夜に立ち上がってくるものはいない︒そこ

炎の花が生い立ち︑歌の源泉が乱れて深淵に降りて行く︑魔の楽人が森のざわめきの合間に心を引き裂くような響き

を奏でてヴィーナスの山に誘うその山では︑この世の快楽と美が燃え盛り︑魂は夢見るように暗い欲情に身を任すのだ﹂︒

これはかつてヴァルターに告白したオットーの心情の吐露そのままである︒つまりオットーのロマン主義はヴィクトール

と表裏一体なのである︒美に酔痴れ︑おのれを失う放縦な主観主義がそこには露呈している︒この忠告とも告白と

もいえる真情の吐露に︑オットーの気持ちは乱され︑心の奥深く突かれた錯乱者のように︑ヴィクトールに打ち掛かって

く︒ヴィクトールはそれをかわすと︑﹁静まれ!すべてが遅すぎる前に︑わたしの言葉を考えろ!わたしのことはか

まうな︑わたしは自分自身と戦わねばならない︑神の祝福がふたりの上にあることを祈る﹂と言いおいて︑その場を立ち

る︒

ターリオことヴィクトールを心底から愛していたコルデルヒェンが︑狼狽し悲嘆の声を上げながら︑彼の後を追うが︑

その声はヴィクトールにはもはやとどかない︒﹁彼の心には抑えきれないほどに激しい考えが渦巻いていた︒深い悲嘆の底

ら徐々に星がひとつまたひとつと昇った︒あたかもすべてが変わらなければならないかのように彼には思われた﹂

(22)

     6     小説の舞台は再び出発点のホーエンシュタインに向かうわけだが︑その前奏として前章において一気に高まった悲劇的    な調子を転調するかのように︑コミカルな情調を醸し出す︒第一章で不思議なヴァイオリン弾きとして登場したドリュア   ダーは︑この小説のそこかしこに漂う陽気で風刺的な空騒ぎの側面を代表する存在である︒君主の狩猟舘に滞在してい

  た頃︑悪戯好きのコルデルヒェンに担がれて︑君主夫人に愛を告白しながら︑急に気が変わるようなおどけ者も︑エーバー   タイン男爵の娘ゲルトルート︵トルートヒェン︶には一目ぼれして求婚した揚げ句︑その叔父の誕生日祝いの仕度を 自分たちの結婚式の準備と勘違いした上︑直前になって結婚そのものに怖じ気付き︑またもや出奔してしまった後は行方 明であった︒そのドリュアンダーが︑徒歩のゲルトルートとともに一頭立ての軽二輪馬車でやってきたのは︑かつて

 ユアンナの花婿候補者とされたマンフレート男爵の所領である︒ふたりはこの純粋で篤実な実務家タイプの男爵の屋敷に石する・ととなる︒高名な詩人ということとて︑男爵も閑心を持・たものか︑詩人の変人振りにも厚意をも・て迎える的 のであった︒旅の疲れで不機嫌なゲルトルートはさっさと就寝してしまうが︑詩人の方は︑出奔後の妻との再会と︑彼女

親に脅迫的に強いられた異常な結婚の一部始終を語りつつ︑何時しか打ち解け︑詩人としての生業を捨て︑﹁わたしは

ここのあなたのもとで農業を学びたいのです!﹂と言い出す始末である︒不信の念を抱きつつも︑人のよい男爵は三の

P

迷いがちなドリュアンダーの精神を癒すことが出来るのではないかと︑自身でも確信するに至った﹂︒そうして︑ふたりは

ーさらにパンチを飲みながら新しい計画について一晩かけて存分に話し合った末︑翌朝早く︑ドリュアンダーが妻ともども︑ィ ふたたび旅立って行ったと聞いたとき︑マンフレートの驚きはどれほどであったろうか︒その場に残された一篇の詩を読

ながら︑﹁賭けてもいいが︑彼は昨日約束したことを︑放心状態でまたもすっかり忘れてしまったのだ﹂と︑男爵は思い

55りをこめて笑うのだった︒

参照

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