マーヤ! 幻化サンヴァラ
• マンダラ研究
( I )
インド密教の思想史的展開とその諸原理
津
田 巽
一 、
はじめに
われわれが捧想するインド仏教思想史の全体像(函
I )
において︑純然たる密教としての@﹁初会金問頂経﹄
( 宮
︑ S E 5 b h Q Z i E
立 5
8 志 向 ︑ S G I E
ミ s
w
﹁一切如来真実摂経円以後︑これを﹁金副頭経﹄と略称し︑ある
いは略号ミ
j日切で示すことがある)から︑その﹁純然たる密教﹂の論理に従って(したがって同図の⑤から真重
ぐ下に向って)﹁タントラ仏教の完成態﹂をなす②﹁ヘ 1
ヴアジュラ・タントラ﹂(同
S Q K S i 芯ミ
3
・ 略
号 民
て )
に到るインド密教思想史の展開の途上には︑その叙述を必要とする少くとも二つの顕著な体系が存在する︒それ
71 ヤ l
ぞれ﹁秘密集会タントラ﹂
( G
ハ S
還 さ
さ と
Q i さ お 件 ︑
p 略号︒匂)と﹁幻化サンヴァラ・タントラ﹂(匂号
c S
ミ 乱
含 ー
さ さ ︑
ε o h Q i t h N E おき白河
b i g 忌 5 3 1 E P 件
P ︑
略 号
ミ ∞
) の
体 系
で あ
る ︒
われわれは先行する諸板︑ことに本﹃国際仏教学大学院大学研究紀要﹂第二号(一九九九年三月) における
︑ 円 ︐
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丘 C
小 川
区 包
司 2 5 9 t
c H H O H 戸 門 戸 宮 内
0 向
3 5 5 2 0
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︒ 三 三 宮 什 0 5 ︒ 同 泣
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略 号
で 示
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に お
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﹁ ︑
秘 密
集 会
タ ン
ト ラ
﹂
の原典それ自体に従ってそのマンダラの講或
225
三 Z H
f
諸尊の配量)を
思際仏教学大学競大学硬究紀要第三号 平成十二年三月
幻化サンヴァラ・マンダラ研究
( Z ) (
津 田 ) くゴータマ・プッダの宗教〉
③ i
i i
人 ⑤
。
: r 華厳経j " c r i t i c a l な 震 関 と し て の 大 乗仏教
③ : r 大日経』、大乗仏教から密教への
c r i t i c a l な転回点
⑤ : r 金剛要経 j 、純然たる密教
② : r ヘーヴアジュラ・タントラ i 、
タントラ仏教の完成態
@:サンヴァラ系密教、密教の完成意とし てのく反密教〉
:普賢行(難行の榎眼)
︿ の
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法 的
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心 軸
﹀
← ‑MS
F γ 2 2 5 2 2
三密議伽(易行の極隈)
図工:インド仏教の思想史震関の全体復
回復し︑従来専らそれがむ匂のマンダラであるとして信受されてきた龍猛
( Z Z P
さ 5 9 )
の造とされる﹁略集次
第 ﹂
( 勺
守 山
凶 器
3 5 Q 1
&
円
S
S F
略号︑民)における︿秘密集会マンダラ﹀
( O
旬 ︑
民
L P H )
‑ H N P
¥ 釘 ‑C)
とは大いに異
なるそれ(胃︑日
γ H N ∞ 唱 h h
・
F )
をむ匂成立の根底に実在したとわれわれが想議するところの︿原秘密集会﹀
( E
三笠己主語号 O
2 2 2 5 E u
‑ ‑ w )
における男女の密教徒たちのタントラ的・左道密教的犠札の実際を反映してい
るものであると晃散し︑(彼ら密教徒の半ぜ意識下において)同一の﹁密教の論理﹂に撃貯されているかぎりに
おけるその形態とその上に実鼓される彼ら・彼女らのタントラ的な犠札の必然性を検討した︒本稿はそれを承け
て︑同様の趣旨において C 切に後続する体系としての﹁幻化サンヴァラ・タントラ﹂の思想史的な叙述を行なお
うとするものである︒
ところで︑この﹁幻化サンヴァラ・タントラ﹄(ミ出)という一つの体系の﹁思想史的な叙述を行なおうとす
る﹂とは︑現実にはどのようなことをすることなのであろうか︒それは︑このミ出という一つの体系を構成要素
の一つとしてすでにその内に含んでいる︿インド仏教思想史の全体像﹀の中に改めてそれを位置づける︑という
循環論的な作業のもの以外ではあり得ないであろう︒すなわち︑ミ討の体系を叙述するに当ってわれわれは循環
論的に先行して︑そのインド仏教思想史の展開の過程を︑それをかく展開せしめた内発的な原理ないし動医と︑
その震関の過担任の全体が結果的に示すその像の意味とにおいて提示しておかねばならないであろう︒その意味で
われわれは先ず上に提示した国 Z に戻り︑本論におけるミ討の叙述を導ぐために必要な最小限度において︑③ i
③の︿ゴ!タマ・ブッダの宗教﹀から展開して或る規期的な動性に従って必然的にミ出へと至る︿インド仏教思
想史﹀のその震関の過程を︑その思想的な原理において素描しようと思うのである︒
幻化サンヴァラ・マンダラ研究
( I ) (
津田)
幻化サンヴアラ・マンダラ研究
( Z ) ( 津田)
1m
二︑マンダラ解読のための先行的な概念枠としての︿ゴ i タマ・ブッダの宗教﹀における
H世界
Hの観念
上の図 I
に お
い て
︑ ︿
ゴ l タマ・プッダの宗教﹀は同一の垂隷の上に︑すなわち︿現法的交行の中心軸﹀の上
に ③
i ③として一不される︒これはまず︑仏教というものが︑本来︑︿ゴ J タマ・ブッダの宗教﹀から思想史的に 震関する筈がないものなのである︑ということを意味している︒人々が藍史上の人・ゴ l タマ・シッダ I
ル タ
を
プッダ・無上正等覚者であると語解する以上(そう信解する者が仏教徒であるわけであるが)︑彼ゴ i
タ マ
が 覚
っ
た筈の真理は唯一無上であってそれ以上発展・進歩する余地はなく︑またその莫理にもとづいて彼がわれわれ入
ぎ 子 つ
間に教える実践(行)の形惑も︑その真理の保有する(人需の生に対する)規定性の最高形態において唯一であ
り︑地のものはあり得ないからである︒では︑人間ゴ i タマはいかなる体験において︑また︑いかなる真理を覚っ
てブッダ(覚者)となったのか︒一見仏教学の終極において与えられるべきものとも患われるこの間いに対する
答えは︑仏教のテキストの最初に明確なかたちで与えられている︒それ辻いうまでもなく四禅三明というときの
さんみょう その三明︑すなわち︑初夜・憶宿命智︑中夜・衆生生死智︑そして後夜・漏尽智の三智である c
すなわち︑ゴ 1 タマはその夜︑いわゆる神話論的な表現において降魔と称される或る経験を経たのち︑おもむ
ろに禅定に入るのであるが︑その究極の境地(第四禅の︑というよりも︑多分それを超えた何らかの合一の境地)
において︑彼の心にまず憶宿命智が顕われた︑とされる︒それはテキスト(パ i
リ中部﹁需骸経﹂等)において︑
彼が援の現在の生から過去に遡って﹁麓々成壊劫﹂を尽しての彼自身の輪廻の生の連鎮の生の総体を﹁具さに﹂
観見した︑という鷺くべき体験として画定されている︒次いで中夜において彼に衆生生死智が顕われるが︑それ
は彼自身のそれと同様の︑ほとんど無始時来と言ってもよいほどの遠大な輪廼の生の達鎮が一切衆生のそれぞれ
の生の背後に見られたということであり︑ゴ i タマの覚りの体験において彼の眼前に同時的(包
2 c E S
江 市 内 )
現成したそれら一切衆生の一切の生の総体こそが︑覚れるゴ l タマ︑すなわちブッダによって人類の歴史上はじ
めて観られたところのものであるが故に︑根源的な存在相における実在世界の観念を示すものとして︑われわれ
自身の仏教学的思考の基盤を形成する(このか世界︒の観念を前提としないかぎり︑仏教学の思考は遂行され得
ない)のであ号︑現にわれわれの密教思想史を形成する各体系においてそれら各自のマンダラの展開は一貫して
こ の
H 世界 α の観念枠を守りつつ︑その内においてなされるのである︒
この︑人間の遠近法的な視位の制約を超えた超越の高みに立って の総体を観見しつつあるゴ i
タ マ
に ︑
の存在の真理は昌ずと明らかになる︒それが後夜・漏尽智︑その内容において苦・集・滅・道の四
諦である︒すなわち︑その万世界 α 内に輪廻の連鎖として存在する人間の生は︑覚れるゴ:タマのその視位から
するならば︑畢寛﹁無意義﹂(﹁大日経﹄﹁住心ロ札出なる苦に他ならない(苦諦)のであるが︑それはその輪建的
人間の生の本質が渇愛ないし無明であるからである(集諦)︒
渇愛
( S 5 P
守主的問)とは︑ブッダ自身がそれに与えた定義によるならば︑人間に﹁後有を鷲らし︑喜貧倶行
にして随所に歓喜﹂せしめるところの﹁欲愛・有愛・無有定﹂(可身
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窓 口 o σ F E E Z E
品 問 ‑ 2 9 F 9 2 g
g 守主主忌
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主 主
} H h F i ) } H m w g S 5 p
﹁ 律
義 ﹂
﹁ マ
ハ
i
ヴ ア
ツ ガ
﹂ ︑
略 号
ミ ヌ
∞ ・
∞ C) ︑すなわち倍々の人間にそれぞれその全体性において内属するいわば人間の個体性の原理であるとともに︑
全人間の輪廼的生の総体(前出の﹁衆生生死﹂の総体としてのか世界︒)をその根抵にあって支える唯一にして
ザ イ ン
全誌なる︿存在﹀そのものなのである︒そして︑この根源的な︑いわば宇宙編在的なエロース
( F P 5 9 )
的衝動
( ﹁
欲 愛
﹂
5 5 m w
ロ z g
F P )
としてのそれが自己限定的に倍々の人間の生の上に欲望充足への傾向性とその充足にお
ける喜びとして現勢化している(﹁喜貧倶行﹂)のであり︑それが人障を断えまなく眼前の欲望の対象へと志向せ
万 世
界
u
そ の
か 世
界
u
幻化サンヴアラ・マンダラ研究
( I ) (
津田)
三 E
幻 化
サ ン
ヴ ァ
ラ ・
マ ン
ダ ラ
研 究
( I ) (
津田)
しめ(﹁随処に歓喜﹂せしめて人間の生を生存(﹁有﹂芸ミ m w ) とその反対である生存否定(﹁無有﹂
i 5 9 5 )
の方向に向って駆り立て︑かくて人間を永遠に苦なるか世界︒の中に輪廻せしめているというのである︒
ところで︑われわれが上にこの︿存在﹀そのものとしての渇愛と存在論的に同レヴェルに置かるべきものとし
て﹁無明﹂という概念を掲げたのは︑それがわれわれの︿インド仏教思想史﹀の出発点をなす@︿ゴ i
タ マ
・ ブ
ツ
ダの宗教﹀のみならず︑ことにタントラ仏教の各体系(⑤
i @ )
の思想をそれぞれ構造的に︑あるいは内実的に
画定する上においてわれわれに統一的な︑そして最も有効的な枠組みを提供してくれるところのものであるから
に他ならない︒因みに無明
z i
‑ ‑ P
ミ広志)とは︑和辻仏教学がそれをそう規定するところの﹁単純に不知
z o E 3 m m
S の意﹂(和辻哲郎﹁原始仏教の実践哲学﹄二三四百九)なので辻なくて︑実はその﹁不知﹂の領域に
おける渇愛に他ならないのである︒現実の場面においていうなら︑事態は︑﹁自然的立場に止まる限り無明は自
覚せられず︑自覚せられたときには無明はない﹂(問︑二三六百ハ)ということでは終わらないのである︒われわ
れが昌己の無明を無明であると﹁自覚する﹂(その﹁邑覚﹂ H 知辻必ず︑ブッダの畠覚に発する教を通じて与え
られる)ということは︑この恐るべき渇愛というものがわれわれ自身の実存の本質そのものとしてわれわれの謀
議につきつけられたのだ︑ということを意味するのである︒そして︑もしわれわれが本当にその自らの海愛を克
間減しようと欲するなら︑すなわち︑同じく﹁律議﹄﹁マハ
l ヴアツガ﹂(ミて)における減請の定義にいうが如く
その﹁湯愛を余無く離滅し棄捨し定棄し解説﹂せんとするなら︑それはわれわれに︑同じく道請にいう如く出家
して一生を自処に﹁正見︑正思︑正語︑正業︑正命︑正精進︑正念︑正定﹂なる入正道を行ずること︑これまた
ブッダ自身によるより本質的な用語法において︿現法的党行﹀(ミ 5
・ 工
) ︑
す な
わ ち
︑
に性的貞潔を保つことを必要ならしめるのである︒ 一生を目処として厳格
このことはそのマンダラの形態を手掛かりにインド密教思想史の中にそれが占めているその位震における﹁幻
化サンヴァラ・タントラ﹂(ミ出)の存在意味を叙述しようという本積の目標に直接的に関わることであるので︑
ここでわれわれは︑人間が上掲の和辻博士の言葉にいう﹁自然的立場﹂を出でてその超出を完成させようとする
ときのその人間の宗教的な生の構造を画定している知と行ということについて︑一つの補足をしておくことにし
よう︒和辻仏教学はその知は教によって無時間的に与えられるのだ︑ということ︑そして︑その知の獲得におい
て能事が経る
( E S F } s s t
苫 B )
のでなくて︑その知の次に︑必ずその知を出発点とする時間的な行の過程
が来なければならないのだ︑という︑ひとり﹁原始仏教﹂のみならず︑仏教の全体的な﹁実践哲学﹂を再構成す
る上での根幹をなすべき事態を逸しているところにその根本的な問題点を有しているのであるが︑その和辻博士
がその知のみの立場から
﹁しかし縁起の逆観において﹁無明滅すれば行減す﹂という滅の法が単に認識せられたということと︑こ
の認識がそれ自身無明の滅であるということは区別せられねばならぬ︒無明の滅であるためにはこの認識
は実現されていなければならない︒単に抽象的に知るのではなく具体的に知るすなわち体得するのでなく
てはならなバ﹂(傍点需田)
と言い︑それを禎強せんとして宇井伯寿博士の﹁真に知るという言葉の意味は成るということである﹂という言
葉を引くとき︑この宇井博士の言葉それ岳体は多分正しい(少くとも間違いとはいえない)︒しかし︑それが宇
井博士自身の言葉で(和辻博士がそれを註に記している如くに)﹁これはブッダ以前にウパニシャツドなどで︑
ア i トマンまたブラフマンを知ればアートマンまたはブラフマンとなると説いて︑知るの真意は成るの意味とな
していたごとく︑インド思想に共通する考えである﹂ということであるなら︑それは補足を必要とする(完全に
幻北サンヴァラ・マンダラ研究
( I ) (
津田)
ーと
幻化サンヴァラ・マンダラ研究
( I ) (
津田)
ノ宍、
は正しくない)︒すなわち︑類型的な言い方になるが︑バラモンの弟子はその学生期(討究行期)
り﹁汝はそれである﹂(け三吉
9 5 2 F ) ︑あるいは﹁我はプラフマンである﹂(岳山岳可
S B r B
‑ )
という真理命
題
( E 与 を 嬰 可 P 大格言)︑要するにロゴスを与えられ︑その教において︿われ(時ア i トマン)はブラフマン
なのである﹀という事態を知る︒その弟子はたしかに教によってそれを知ったことによって或る意味において舞
時間的にブラフマンに成ったのである︒彼は︑或る意味において︑確かにプラフマンなのである︒しかし︑事態
辻そこでは終らない︒彼は︑そのすでにブラフマンに成っており︑ブラフマンであるという竃接法 F ま
r m
E Z
的
事態から更に進んで家住期に入り︑林住期を経て遊行期の最後において完全なる離欲においてその命を終るとき︑
﹁真に﹂ブラフマンに﹁成る﹂のである︒すなわち︑このことの背後には︑われわれの︿開放系の命薮﹀
B A
〈 し 〈 汝 か 汝
は も は お
自 ま 自 手
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汝 汝
の の
父 父
で ・
な ・ あ‑
る ・ る ・
J ミ ・
L 、..,/ 一 一
き ・
な の で あ る
'‑/
に引き寄せていうまら の終りに師よ
お の ず か ︿われは(本来︑自ら)ブラフマンなのである﹀
しかも(そうと知ったなら)
み ず か
B 一︿われは(自らの行によって)ブラフマンになるべきなのである﹀ A
という︑﹁ブッダ以前﹂から一貫して﹁インド思想﹂に﹁共通﹂する一つの事理︑人間の宗教的実在の構造を支
配している︑逆方向からいうなら︑﹁衆生生死﹂の︑苦なる現実世界に対してその︿反世界﹀とでもいうべき宗
教的世界(仏教の街語によるなら法界)の存立(現成と存続)の機制を支配しているところの︑まさにその言葉
ロ ゴ ス
の正当な意味にお汁るところの弁証法的な事理(事態の論理)が︑その患想史的に制約された一特殊惑において
ではあるが︑存在しているのである︒そして︑この知と行というこつの原理によって画定される︿弁証法的な事
理﹀が︑勿論︑密教思想史の背後にも一貫して存在し︑各体系(図 I の③︑③︑②︑@)において次々に呈示さ
れてくるマンダラの講造とその内実とをその背後から翠討しているのである︒では︑その撃討と辻現実にどのよ
うなことなのであろうか︒
辻じめに一つ︑具体的な例を出そう︒この︿弁証法的事理﹀は︑現代ヨーロッパのいわゆる弁証法神学におい
ても︑事態
2 9 0 Z )
を支配している(上に触れた︿開放系﹀の原理は仏教学から開放されてキリスト教学にも
当てはまるのである
) O
R ‑
プルトマンの言葉を用いるなら﹁直接法と命令法の弁証法的な関係﹂であるところ
の そ
の 事
態 辻
︑ ﹁
ロ l マ書﹄(一九二二の段階にお汁る K ・バルトが例えば﹁お前がキワストによって既になっ
たものになれ﹂(ゴデ)という言葉を引用しつつ(その神の認識 E 恩寵において)﹁亘叙法は全く自動的に命令法
となる﹂というとき︑あるいは﹁恩寵は理論であると共に本来また実践であり︑理会であると共に本来また行為
である︒それ辻車叙法であると共に︑絶対的・定言的命令法の意味を含が)﹂というとき︑それがちょうど上引の
和辻博士の言葉と詞じ混乱を示しているとはいえ︑また︑キリスト教教義学(己兵
5 m 与野)という制約からして
さらに根拠の位層にまで踏み込んでそのことが根抵的に再把握されるということは多分なされ得ないであろうと
はいえ︑少くともその方向としては正しく言い当てられているのである︒
しかし︑その︿弁証法的事理﹀のさらに根抵の栓層をなすところの根拠とは何であろうか︒それは K
・ バ
ル ト
幻化サンヴァラ・マンダラ研究(工)(津田)
プ L
幻化サンヴァラ・マンダラ研究
( I ) (
津田)
国 ( )
の場合︑もちろん︑キワスト教の神(の三乙である︒ところが︑その神
( C
0 2
)
という課拠の上に亘接法と命
令法の同一というキリスト者のその﹁弁証法的﹂実存が成立しているのであるならば︑それは︑実はその根拠の
方から言うならば︑母えば﹁神は神宮身に対応する﹂
( Q
0 2
2 2
宝 o
E
丘 町
一 )
の で
は な
く て
︑ ︿
神 は
人 間
と 対
応
する﹀ということ︑﹁神と人間と法相互に相手を必要としているのではない﹂(均三含三巴各 C
三 け
g 込冨
S 2 F
E o E Z S S E E h )
のではなくて︑まさに﹁神と人間とは桔互に相手を必要としている﹂かかみかということ︑
要するに神
( C
0 2
)
の存立の機制が人間の儲からするその神に対する知
( 1
信)︑さらにいうならその知ととも
に行(実践︑動きかけ)によって規定されるのだ︑ということ(直接法と命令法とは単に﹁本来﹂的に同一であ
るのみでなく︑実践的に統一されねばならないのだ︑ということ)︑神
( C
0 2
)
の方からいうなら︑一方におい
てたしかに﹁辻じめであ号︑途中であり︑終われソであって︑それぞれに分割されることなく︑したがってその本
であおところの︑後出の 質において同時にそれらのすべて﹂
( K
・ バ
ル ト
)
﹁ 金
調 頂
経 ﹂
( め
3 4
h )
の言葉でいう
ならば﹁常恒にして三世の三味部に住する﹂(怠安三思可可え
F g g g m w E J Q 2 m s S F S F E R
‑ 5 F 局
︑ こ
れ は
め 守
守 ぬ
のマンダラ︑すなわち﹁金剛界大量茶羅﹂の総体であり︑かつそれを人格神的に超え出ているところの︑いわゆ
る 万
有 在
神 論
匂 言
︒ ロ
3 芸
5 5
的な神である法身毘麗遮那 E 大昆麗遮那玄与を巳
5 0 9 5
の存在笠格に対する規定
なのであるが・::・)ところの存在の神が︑しかも生成する︑﹁神が入になる﹂(神が一臣的にイエス・キリストに
なる)のではなく︑︿人間が不断にその胃一の神へと生成する﹀︑再び仏教の第語を用いるなら﹁ア l
ラ ヤ
的 ﹂
に生成する(その神は不断に生成しつつ︑しかも同一の神として静止的に存在する)︑その様な意味における
﹁生成の神﹂(言語 ES 含
C o
幻)なのである︑ということを意味するのである︒しかし︑キワスト教教義学は
神
( 0
0 2
)
にこのような(三たび仏教の言葉を使うなら︑空的な)存在性格を認めること辻できない︒である
から︑彼らは意識的にも無意識的にも﹁キリスト者の実存﹂のその﹁弁証法的﹂性格をさらに掘りさげてそれを
改めて神の存在性格のレヴェルから根抵的に把握し葺すことはしないのである︒
で は
︿ ゴ
i
タマ・ブッダの宗教﹀(国
E
の ③
i ⑤)に戻って︑そこにおいてこの﹁根抵の位層﹂をなすものは
何であるのかというならば︑それが(ブッダの四諦のうちの)集誇における渇愛なのである︒では︑その上にわ
れわれの宗教的な生の﹁弁註法的﹂構造を成り立たしめている渇愛の空的な春在機関とほどのようなものなのか︑
ザ イ ン
というなら︑それはか世界︒の存在論的基盤として唯一・普遍の︿存在﹀である筈の渇愛が︑その﹁衆生生死﹂
的長一界︒の内に存在する無数の入障のうちの誰か一人がそれを(ブッダの教詩集諦に従って)渇愛であると知
り︑さらにその知を出発点として︑まさに﹁律蔵﹂﹁マハ i ヴアツガ﹂にいうごとく﹁教ふる所に従って﹂(ミ六
∞ ・
‑ N J E J E )
現法に党行を﹁行ずるならば﹂(同)︑事実︑﹁余無く滅する﹂(ミ六
0 ・
8 )
の だ
︑ と
い う
こ と
︑
したがってその一人の入による渇愛の減によってその上に存立しているこの b れわれ自身の現実世界も滅するの
だ︑ということに姐ならないのである︒
これはわれわれ人間からするなら︑蓋し信じ得べからざる︑驚くべき事態ではある︒事実︑その一人の入にお
いて渇愛は減しても︑他の人々にとっては同一の渇愛は依然として存在しており︑また彼において滅した筈の同
一のか世界︒は依熱として輪廻の苦というその現相において現実に存続し続けているのである︒しかし︑これこ
そがわれわれ人間の遠近法的能約を超えたプッダのその超越的な視位(それは後出の︿開放系﹀の見方において︑
その︿開放系の神﹀であるところのプルシャの視位として了解される)からするなら︑この現実世界(ブッダほ
それを﹁衆生生死﹂という根源的な︑同時的
E 2 0 Y
き主誌な存在相において観たわけであるが)の存立(いや︑
存立というよりはむしろ滅)の真実相なのであり︑そして︑現に﹁中論﹄の龍携もそのクライマックスたる﹁観
四諦品第二十四﹂において︑空という言葉において本来この事態をこそ晃ょうとしていたのであるが(ただし︑
彼はその後すぐに︑有名な三諮問滑において﹁空とは(諸法の)縁起のことである﹂と言い直し︑仏教思想史上最
幻化サンヴァラ・マンダラ研究
( I ) (
津田)
E ヨ
幻化サンヴアラ・マンダラ研究
( I ) (
津田)
く外の法界〉
1m
図1I:原マンダラとしてのく二重法界〉
大の逸脱へと踏み出してしまうのであるが:::)︑この現実世界の減の
機制(それは教による渇愛の認識 5
知と︑一行によるその無余の滅との二
段措をとる)辻︑逆の方向から見るならば同時に︑その本来の実在世界
(いわば︿原世界﹀)に対して︿反世界﹀であるところの宗教的世界︑
仏教の術語において法界︑の環或の機制であるのであり︑われわれが渇
愛という同一の実体に対して重ねて無明という言葉を用いようとするの
は︑それがこの法界の環成の機制ないしは構造を画定する上で(混愛よ
りも)復利であるからに勉ならないのである︒
すなわち︑われわれが(ブッダの教を通じて)﹁無明を無明であると
み よ
︑ ヲ
知る﹂なら︑この知において法界けれ︿明の世界﹀は無時間に現成する
み よ
︑ っ
(われわれはその︿明の世界﹀に入る)(メルクマール
b )
︑ そ
し て
( ﹁
し
かも﹂ではなく:::)そこにおいてわれわれが現法に党行を行じて(そ
れがなぜ党行ぉ性行為をしないことでなければならないのか︑というこ
とについては︑すでに別稿)において論じた)︑それが完成したとき︑﹁吾
(宇井博士)の意味で︿明の世界﹀は実現する(われわれはその﹁真の﹂
︿明の世界﹀に入る)(メルクマール
a )
のである︒国みに︑この﹁そ
して﹂が﹁しかも﹂でなく﹁そして﹂であること︑そしてもう一つ︑そ
の︿明の世界﹀がいまだ﹁真﹂ではない世界と﹁真﹂の世界とのこ段権
えであることは︑この世界内におけるわれわれの実存がいまだ完全な意
味における︿弁証法的﹀なものであり得ていないことを意味しており︑そして︑それが完全な意味において︿弁
ザ イ ン
証法的﹀であるためには︑その﹁根拠の位層﹂をなすものが単に︿存在﹀であるだけにとどまらず︑さらにその
ザ イ ン
︿ 存
在 ﹀
( 無
明
i 渇愛)をその身体性
22ZE
民)じかかる生命
22ZZ
ロ )
( 身
体 性
ト 生
併 で
な く
: :
: )
と するところの︑件のむき S け F
S E
2 0
Y な
神 で
な け
れ ば
な ら
な い
の で
あ る
︒
しかし︑それはともかくとして︑われわれはこのように知と行との二つのメルクマールによって画定される二
重の同心円としての世界函をかねてより︿二重法界﹀と称し(国
E )
︑それを仏教の思想というものをその各棒
系において再把握するための万能の下敷きとして使用してきたのであるが︑本稿において諸マンダラ構造を比較
検討する際にも︑それがいわばマンダラの原捧造を示すものとして︑われわれの考察を導いて行手吉なのである︒
三︑大乗仏教の展開・マンダラとしての世界とその内における実存の弁証法的構造ならびにその根拠
われわれはわれわれ自身のこれまでの仏教学において︑仏教のか世界︒の観念をサンスクリット文法の向︒三号
( 性
) と
E E σ
号(数)の規射に従って︿中性単数の舎句
B m w
﹀として指示し(舎号
B 9
・法とは︑この場合最も
一般的に存在者宅
22
の意味である)︑それを︿中性単数の舎建
E S
の竪接南方向の再極講造﹀として把握してき
た︒すなわち︑まず︑その M
世界︒ロロ︿中性単数のき号
E m H
﹀を︑その内実をなす︿男性複数の
F 9 H E m p ﹀
( そ
れ
は ︿
ゴ
i タマ・ブッダの宗教﹀においては﹁生死﹂すなわち輪廻の主体としての倍々の衆生計人間であり︑次に
論ずる⑤﹁華厳﹂の体系では利他行
n u 菩護行ないし法その主体である摺々の菩護であるのであるが:::)とその
ザ イ ン
か世界︒の存在論的基盤をなす︑いわば︿存在)であるところの︿女性単数の舎建
5 9 ﹀との上下の両極に分樫
化して︿中性単数の害問
5 9
の男性複数の舎
R B
9 と女性単数の舎
R B 9 との竪の両極構造﹀とし︑さらにこの
幻 化
サ ン
ヴ ア
ラ ・
マ ン
ダ ラ
研 究
( I ) (
津田)
四 三
幻化サンヴァラ・マンダラ研究
( Z ) (
津 田 )
1m 1m
︿女性単数のき号
B m w
﹀を︿禁明と明との横の需極構造﹀として捉えたのである︒すなわち︑無始時来存続して
きた﹁衆生生死﹂の世界の本賓としての(﹁摩詞止観﹄の天台大部・智顎の的確な把握において﹁拠﹂なる)無
み よ
︑ 7 明試すでに護説した如くそれを無明であると知ること(メルクマ i ル
b )
によって明へと転じ︑さらに︿現法的
みょう 党行﹀の過程を経て最終的に明へと転じ了る(メルクマ i ルろからである︒そしてわれわれはこの︿女性多数
の舎号百戸の無明と明との再極構造﹀を︑われわれ自身の実証的な仏教学(︿開放系﹀という視野が関かれた今︑
われわれは改めてそれを︿閉鎖系﹀の仏教学として再確認するのであるが)の最終的な(その﹁最終性﹂を提供
するものが図工の如くに示された︿インド仏教思想史の有意味的な全体像﹀がわれわれに対して結果的に呈示し
ザ イ ン
てくるところのその意味なのであるが)結論において︿ゴ 1 タマ・ブッダの宗教﹀における︿存在の真理﹀とし
ザ イ ン
・
・ み よ う
て了解し︑そしてこの︿存在の真理﹀がその︿規定性の根拠﹀をなすが故に︑︿現法的発行﹀を︿明の世界﹀を
志向する宗教的な人間の︿生の被規定性﹀として唯一のものと見倣したのである︒これが︑われわれがはじめに
﹁仏教は本来思想史的に展開する筈がない﹂筈のものであると言った理由なのであり︑事実︑仏教は或る時点
(図工の⑤)まで︿現法的党行﹀という︿ゴ;タマ・ブッダの宗教﹀の唯一絶対なるべき︿生の被規定性﹀を守
り つ
つ ︑
( 函
I における)︿現法的交行の中心軸﹀の上に存続してきたのである︒
しかし︑仏教はそこ(③)において突如として
2 E s ‑
に そ
の 方
向 を
転 じ
︑ ︿
の 弓
E F o s
ミの稜線﹀を越えてその ‑ ‑
反対斜面に大乗仏教としての自己を定立する︒すなわち@﹁華厳経﹂の体系である︒
この大乗仏教の号互の己な展開は︑われわれの︿閉鎖系﹀の仏教学においては︑︿ゴ i タマ・ブッダの宗教﹀の
︿現法的党行﹀という一義的な人間笠否定(アンチ・己ユ i マニズム)の立場に対して︑彼ら大乗の誌が︑たと
えブツダの絶対命令(もちろんそれはあくまでも﹁もし汝がこの輪廼の苦の世界から解説することを欲するなら﹂
という俣言命令なのであるが:::)に反してでも︑何とかして自らの現下の人間照的な生に改めて何らかの意義を
見出したいという人馬性の動機にもとづくものとして説明される︒
その大乗の立場は︑その前提に一つの解杭(記グジャ l タカ的解釈﹀)の存在を想定してはじめて導出され
る︒彼ら辻ブッダがその覚りの根本体験においてそれを具さに(﹁其の一々の相及詳細な状況と鎮に﹂忌片山円
m W H Y
S ‑ 豆言︒時)観見したところのブツダ自身の﹁宿命﹂すなわち無始時来の輪廻の生の連鎖の総体を︑その倍々
の生のすべて(それをブッダ自身は畢寛無意義なる苦であったと見倣したわけであるが)において︑それをゴ i
タマ・プッダが現にそれであるところのプッダ・無上正等覚者となるための必須のプロセスである︑と解釈した
のである︒この解釈に従って彼らが彼らの宗教理想をブッダがそれをこそ彼らに教示した浬繋からプッダ自身が
達成した菩提(無上正等覚)へと転換するならば︑そして︑その生の本質を︑渇愛の必然としての﹁随所に歓喜
する﹂欲望の発露としての自然状態にある人間のそれから︑当時すでに多く存在していた︿ジャ!タカ物語り﹀
における菩薩の︑自己の身を捨てて他者の救済を計ろうとする菩薩行へと規整するならば︑一彼らの現下の生も︑
プッダの﹁宿命﹂を未来に転じたかたちにおいてその遠い未来に改めて設定し直された後ら自身の理想たる菩提
に到るための必須のプロセスの一コマとして︑生きるに憧するものとして︑いや︑績極的に生き切らねばならな
いものとしてその意義を再び確保され得る道理であろう︒
かくて大乗において︑︿明の世界﹀に志向する宗教的人間の﹁実在﹂の本賞は︿ゴ i
タマ・プッダの宗教﹀の︑
湯愛の宇宙的な︑ア i ラヤ的な流れに悟入意志的に逆行せんとする(﹁世流に逆らう﹂恒三宮
o g m u E r b h
て ・
? H )
党行から︑菩提を志求する︑すなわち菩提心としての利他行・菩薩行へと
R E
o 巳に転換し︑またその世界も︑
禁明を基盤とする﹁衆生生死﹂の世界から菩霊行の世界へ︑その理念が明確に自覚された﹃華厳経﹂の吊語にお
い て
出 9
5 S E σ
F 立
5 0 9 ミザ E 富島色白(ここではじめてマンダラという言葉が仏教思想史の上に現われたわけで
マンダラ あるがてその同義語において g
コ 与
o 舎 2 9 2 4 9 3
弓 P
1 5 8 ( E E (
一 一
切 菩
薩 行
の 総
体 )
で あ
る と
こ ろ
の
﹁ 普
賢 法
幻牝サンヴァラ・マンダラ研究
( I ) (
津田)
1 2 9
三 E
幻化サンヴアラ・マンダラ研究
( I ) (
津毘)
四 十 ︿
務﹂︑すなわち大菩薩・普賢がその過去﹁不可説不可説仏利徴塵数挺﹂を費して積集したところの一切の菩薩行
マ ン ダ ラ の一つとして余すところのなき総体へと弓
E s ‑
に転屈したのである︒菌みに︑
仏教思想史の形成原理の一つであるの円
E F o s
ミ ‑ ‑
と は
︑
特殊な関係にあるという事態を表す G
そ し
て ︑
この︑われわれの
( ︿
院 鎖
系 ﹀
の A
B 両項が︿再立不可龍︑且つ︑
︿ ゴ
j タマ・ブッダの宗教﹀ 二者択一不可避﹀という
の党行と大乗の菩薩行とはまさに
︒ 円
主 ぢ
丘 ︑
な の
で あ
る ︒
つの不思議な事惑が出来する︒それを示すものは党文﹁華厳経﹄すなわちCQ ミ
c c E 3
E 4
とミ(略号︒て)全篇のクライマックスとも称すべき一つのパッセ!ジである︒そこにおいて善知識・弥鞍
菩寵
( Z
ヰミとはこの求法物語の主人公・善財童子 3
S Z E E
‑
部門 g
吾 広 青 島 市 戸 )
﹁ 実 存
﹂ の 本
質としての菩提心の秘密を次の如くに開示するのである︒
し か
し ︑
こ こ
に お
い て
一
にその大乗的
︒ 汁 m w F
日
) H
︐ m w
日
) } H
m p J 1 m H t 喜 三 与 O (
‑ z Z 9 2 g o o
ミ 剖
5 9 0 心
︒ ‑ 9 5 9 4 v c H H H H
可 J
︺可
ロ m F
AVm w s t
ロ w
p m O 4 u m w
日)円
m w H
一 可 戸
い 旬 H 4
︒ ロ ロ
m w y ω 9 3 己
主 F M X 一 三
m F ザ
¥ 三
2 5 3 Z H d F F
乙 E
戸 別
) E E U 1 8 m 百 三
g H e m
芝 F
町 内
HSE 可
9 F m m H H 山 手 O ( F E H O F 2 9 5
三 } U h F
( ロ S H V
∞ O
W 5 3 5 m F H E m g m H S 自
己 E
Z 5 9 4
0 江
S 3 m w B 9 5 0 丹
江 主
} q p b m q m g
包 g
括
F 1 9 君 主 ︑
﹁こ(の菩提心)より︿一切菩護行のマンダラ﹀が生ずる︒こ(の菩提心)より過去・現在・未来の一切
の如来たちが出生する︒実に︑人が無上正等覚に向けて(初めて)発心したとき︑その入は一切知性の心
の意楽によく摂受されているが故に︑(その時点においてすでに)無量の功徳を積集してしまった者であ
る の
で あ
る ︒
﹂ 華畿の体系において﹁(初めて)
菩 提
心 を
発 す
﹂ と
は ︑
教 に
よ っ
て そ
の 世
界 の
理 念
を 理
解 し
( 一
信 )
︑ 自
ら 行
を 以
つ
て(実践的に)その理念に投掃する決断をなし(顕)︑そして現実にその行(実践)に踏み出したその撰需に︑
かつて普賢菩寵によって実捺に行ぜられた﹁一切の菩寵行﹂の一つとして余すところなき総体(マンダラ)とし
ての華厳世界は︑その完全な完成態において実現しているのだ︑というのである︒それを上述の︿二重法界﹀の
図式においていうならば︑その世界はメルクマールbにおいて︑しかも︿ゴ l
タ マ
・ ブ
ッ ダ
の 宗
教 ﹀
に お
け る
が ︑
知き!!メルクマiipbにおいて確かに︿明の世界﹀が現成するが︑それはいまだ﹁真﹂のものではなく︑富一(の それは時間的な未来における行の完成を侯ってメルクマール a において実現するのだ︑という意味におけるが如
きi!i︿外の法界﹀の不完全性を残しているので誌ないところの︑最熱的な完全性において︑あるいは︑キリス
ト教教学的な言葉を使うなら終末論的に︑しかも︑いわゆる﹁時の間﹂
当 ( N
位 ︒
F S
門戸
S N S Z
ロ)的な︑すでにと
未だの関の不完全性を残しているもので泣なくて︑例えば X ・バルトがその﹃教会教義学﹂第百部﹁和解論﹄に
お い
て
﹁キリスト教の﹁神われらと共に﹂という言葉の認識:::は救済そのものの到来以上のそのでも以下のも
エ ス カ ト ン ( 訟 )
の で
も な
い
c すなわちそれは完全な充実における究撞の現在である﹂(黒点原著︑
自点津田)
と い
う と
き の
そ の
︑
いうなれ︑法超越論的な﹁完全な充実﹂笠において(因みに﹁言葉の認識﹂こそは︑まさにメ
ルクマールbなのである)実現しているのだ︑というのである︒すなわち︑﹁初発心時便成正覚﹂の事態である︒
しかし︑この﹁初発心持便成正覚﹂というあまりにも有名なテーゼが示している事態に対して︑なぜわれわれ
レ i
ベ ン
は改めてそれを﹁不思議﹂であると言ったのか︒それは︑この事惑が︿生のジャiタカ的解釈﹀においてわれわ
れが想定した彼ら大乗の徒の動機を超えているからで為る︒すなわち︑彼らの菩提という理想がたとえ遠い未来
幻化サンヴアラ・マンダラ研究
( I ) (
津田)
→ 1m =
幻化サンヴァラ・マンダラ訴究
( I ) (
津田)
豆 ヨ
ノ 、 、
に設定されたとしても︑その設定において彼らの現下の人間的な生の意義が確保されていることには侍ら変りは
ない筈なのであち︑その理想が投婦の瞬間に完全な完成患において実現されなけれぜならない必要性は全く存し
ないのである︒ここにおいてわれわれは︿閉鎖系﹀的原理には収まり切れない︿開放系﹀の事態がすでにテキス
トの表層に露呈しているのを見出すのである︒
その︿開放系﹀とは︑︿閉鎖系﹀が仏教の思想史的な展開の過程を︑人間の側の動機にもとづき︑人間の思考
原理(いわゆる根拠律)に従って人間の思考を遥じて内発的に展開したものとして理解するところのものである
のに対して︑その同一の思想史的実体を︑(フッサ
1 1
N の或る片言をそのまま借用して)﹁その全歴史性を貫く E
的論的理性が自己を告知す混﹂その過程として理解しようとする立場である︒フツサ i ル自身がこの﹁目的論的
理 性
﹂
( g z o
‑ c m 2 0 E
︿ 0
5 5
止)という言葉によってどのような神的存在者を考えていたのか︑という問題は
一時措くとして︑われわれが現に前節で論じた渇愛の滅の空的な援舗を︑その︿開放系の神﹀の﹁生命﹂の機制
を一不すものと考えて初めて理解し得るのと詞様に︑われわれはこのメルクマール b における華最世界の完全なる
完成態における︑そして︑無時間的な実現を︑その同じ神の(℃
S S F S
丘 百
o F
な神性における)人格神的な馬
面の現成の機制と見散すかぎりにおいてのみ理解するのである︒因みに︑(さきに触れたことではあるが)
デッガーはその﹁ニ i チェ﹂においてニ i チェのカオス
J¥
イ
( C
F 9
0 m
)
の概念を論じて
﹁カオスとは︑世界全体とその理法についての特異な先行的投企を名︑ざす名称である︒ここで再び︑
ここでこそもっとも強烈に︑世界をいわば巨人化された身体として表象するひとつの奔放な︿生物学的﹀
思濯が働いているかのような趣きが現われる︒この巨人化された身体の身体性と生命がそのまま存在者全
0 0 0 0 0 0 0 0 (
山 崎 )
こうして存在が︿生成﹀として現象せしめられるというわけである己
V' や
体 を
な し
︑
( 黒
点 票
著 者
︑
自点淳司)
という︒縄然とはいえ︑現にここに言われている﹁世界﹂をその﹁'身体﹂とする﹁巨人﹂(ヨ
2 0 )
の観念は(も
ちろんここにおけるハイデッガ 1 の口調はそれに対する一種の距離を示しているのではあるがてその﹁生命﹂
であるところのカオスの概念が︑それがわれわれ倍々の入障の身体を通して流れる﹁生のひとつの流れ﹂(包ロ ぎ
0 5 3 E
? 各自)であるとされる点においてわれわれの︿女性単数のさ号
5 9 ﹀としての渇愛の概念とよく照
応している
i i
i ただし︑ハイデッガ
i がれわわれ個々の人間のそれぞれの身体はそれぞれで﹂の生のただわずか
な束の間の部分﹂を受け止め︑感知するのであるというのに対して︑われわれはその同一の巨大な︑ア i
ラヤ的
な流れが︑それぞれその全き全体性において︑われわれ個々の入閣の身体の中に流れ入り︑またそこから流れ出
ザ イ ン
して行くのであると考え︑それこそが︿存在﹀としての渇愛の空的な存在機制であると理解するのであるが
1 i
のと同じく︑われわれがそれを仏教思想史に先一行してわれわれに与えられている︑と感じているところの︿開放
プ ル シ ャ
系の神﹀自身の原型であるところの﹃リグ・ヴェ
i ダ﹂の﹁原人の歌﹂(一 0
・ 九
O )
におけるプルシャ
( 守 戸
H E m p
原人)の観念と美事に照恋しているのである c そして現に仏教の思想史は︑そこにおいて最初から完
壁なかたちで与えられているそのプルシャの概念枠を厳格に守りつつ︑その各々の枠内に頼次内実を充填してゆ
く過程であったのであり︑そしてそれは②﹁ヘ i ヴアジュラ・タントラ﹂から⑤サンヴァラ系密教へと展開して
そこにおいて明らかな一イクルの完結を一不すその完結においてわれわれにさきに掲げた︿開放系の命題﹀(三八
頁参照)を提示することによってその持自身の存在の論理を告知し︑その
5 2
0 ロ
( 目
︒ ∞
丘 町
⑦ 吉
( 効
果 に
よ る
理 虫
)
によって改めてわれわれにわれわれ自身の想定の妥当笠を印象づけているのである︒
ところで︑︿開放系の命題﹀からの循環論的なフィードバックを侯つまでもなく︑﹁華厳経﹄のテキストそれ自
体において︑話一界︒の存立の(この様な大乗的な様相における)空的な機制詰この﹁初発心持復或正覚﹂
の
幻 化
サ ン
ヴ ァ
ラ ・
マ ン
ダ ラ
訴 究
( I ) (
津 田 )
四 九
幻化サンヴァラ・マンダラ研究
( I ) (
津田)
五 (
)
( ︿
開 放
系 の
命 題
﹀ の
A 命題に呼忘するところの)局面のみで終るのではない︒この﹁初発心持梗或正覚﹂的局
面はそれとは絶対矛盾的な﹁無量劫修行﹂の局面と表裏一体をなし︑そのか世界'の存立の機能を︑方向を逆に
していうなら︑その H 世界︒内における大乗的な実存の構造を﹁完全な意味における︿弁証法的﹀なもの﹂(酉
三頁参照)にしているのである︒
すなわち︑そこにおいては︑或る入のそのか世界 u への投帰(メルクマール
b )
において︑その H 世界︒はそ
い ち に ん
の完全なる完成態において(もう一つ附け加えていうならば︑その人一人に対してでなく︑そのか世界 u
の 理
念
が包含するすべての人々に対して)最終的に︑終末論的に実現した︑しかも︑そのか世界︒はそれ以後のその存
い ち に ん
続を︑その人一人の行において永遠に担われねばならないのだ︑ということが言われているのである︒視点を人
間の方に移していうなら誌︑上に引用した﹁入法界品﹂
( G
て)の文にいう如く︑その人は﹁(その時点において
すでに)無量の功徳を積集してしまった者である﹂にもかかわらず︑しかも︑その同じ﹁蕪量の功徳を讃集﹂す
る永劫の過程を歩み続けねばならないのだ︑ということが言われているのである︒われわれはここ︑すなわち︑
仏教思想史の上の@﹃華厳経﹂という笠置において︑その行の形態誌利強行・菩薩行という一つの特殊性におい
てあるにせよ︑宗教的実存の︿弁証法的な事理﹀としてはすでにその完全なかたちにおいて提示されているのを
見 る
の で
あ る
︒
四︑仏教思想史の密教的展開とその思想的意味
このようにして本来思想史的に展開する筈がないものである筈の仏教は︿ゴ i タマ・ブッダの宗教﹀から震関
し︑大乗仏教としての﹁華厳﹂の体系@を成立せしめた︒了度︑静かであった水面に突知として一石が投じられ︑
そこから波紋が規期的な動性において伝わっていくように︑それ以後︑仏教の患想史は頗次︑規則的な動性にお
いて展開してサンヴァラ系密教⑤に至号︑そこにおいてその規期的な動性における一つのサイクルを完結して結
果的に図工に一不す如き一つの有意味的な全捧像を現出する︒本稿の目的はその全体復を構成している諸体系のう
ちの一つであるところの﹁幻化サンヴァラ・タントラ﹂(ミ出)の体系を叙述することにあり︑その叙述のため
にわれわれほ循環論的に先行して︿ゴ l タマ・プッダの宗教﹀(③ l ③)より震関してミ討に至る仏教・密教思
想史の展開の過程を原理的に素描しておこうと考えたのであるが︑その素描が︿ゴ i タマ・ブッダの宗教﹀から
の円庄の巳に展開して﹁華厳﹂の体系@に至った今︑われわれはここで一旦立ち上り︑この︑仏教思想史の展開の
いわば起動点をなす﹁華最﹂@における利値一行・菩窪行という大乗的な行の観念をわれわれが﹁特殊﹂的である
というときの(われわれは上に︑それを﹁特殊性においである﹂と云った:::)その﹁特殊性﹂の意味をもう一
度確認しておく必要があると考える︒
それがなぜ必要なのかというなちば︑それは︑この利地行・菩薩行︑さらにつけ加えるならば︑この利組行・
菩薩行をその実質とする大乗的な実存の本質としての菩提心(ゴ i タマ・ブッダが教えたわれわれの宗教的生の
理想たる浬繋ではなく︑ブッダが到達したのと同じ菩提を呂指す︑という︑明ちかに不遜である筈の自己意識)
ということの正当性︑あるいは︑普遍妥当性がわれわれ自身の仏教学のなかでこれまで疑われたことが況とんど
なかったからに他ならない︒
もちろん︑この利強行・菩薩行の観念の正当性・普遍妥当性が自明のこととして信受されてきたのは故なきこ
とで誌ない︒この利組行・菩薩行の観念は︑慈悲(キリスト教でいうならアガペーとしての愛)という原理に従つ
プ ラ ク シ ス
ての︑眼前に苦しんでいる他者に対する抜苦・与楽の直接的な働きかけというその本質において︑それ自体︑善
きこと︑正しきことではある︒また︑それはジャ l タカ物語におげる菩薩(前生におけるゴ i
タ マ
・ プ
ッ ダ
自 身
)
幻化サンヴァラ・マンダラ研究
( I ) (
津田)
三五
幻化サンヴアラ・マンダラ研究
( I ) (
津田)
ヨ三
の︑組者の苦しみを救うための自己犠牲的行為というそのモデルにおいて︑それ自体︑美しく︑尊い︒さらに︑
それがその内実をなすところの華厳の世界観はそれ自体︑美しい︒すなわち︑ H 世界︒をそれぞれがそれ独自の︑
か ぎ 号
他ととち替えようのない美しさにおいて完全に美しい無尽の荘厳ーーーわれわれ人間の菩薩行こそがその荘厳に他
ならないわけであるが
i i の一つとして余すところなき総体(マンダラ)として表象するその苦界観は︑それ白
い ち に ん
体の荘厳と壮大において︑さらにその美しく壮大な理想世界の存続がその入一人の不断の実践によって︑しかも
永遠に荷われねばならないのだ︑という勇健な理想主義において︑そして︑その実践があくまでわれわれ自身が
現にそこに棲むこの現実世界における他者に対する抜苦・与楽の亘接的な鋤きかけなのである︑というその現実
性において︑しかも︑その実践においてはこの世界の中に存する小さな苦しみ︑小さな悲しみの一つだに見遇さ
れてはならないのだ(それを見過した瞬間︑その壮大な理想世界は一瞬にして︑しかもこの世界の中に存するす
べての人にとって︑治失してしまう:::)というそのヒュ
i マニズムの高さにおいて︑人間が抱くことの出来る
世界観としては蓋し最も美しく︑また︑思想的な構成として完壁なものである︒そして︑それがことにとュ l マ
ニズムの立場であるが放に︑そしてそれがヒューマニズムの立場をその極理的な形態において世界観的に表出し
たものであるが故に︑そのヒュ i マニズムを自らの絶対的な価値規準として信受してしまっているわれわれは︑
華厳の仔の観念ないしは世界観の正当性・普遍妥当性を自明のものとして︑われわれ邑身の所謂近代仏教学にお
いてこれまでそれを疑うことがなかったのである︒
しかし︑この華厳の菩寵行の立場︑ないしはその背景をなすヒューマニズムを自明のものとしているか︑ぎり︑
われわれは仏教学という学問を(仏教学という学問をすら)していることにならない︒われわれはわれわれ自身
のこれからの仏教学をまず︿仏教という一笛の思想の学﹀として確立し︑さらにそこから進んでそれを︿仏教と
いう一つの立場からする関かれた思想の学﹀(われわれ自身の言葉で︿開放系の仏教学﹀)へと賛らしたいと考
えているものなのであるが︑この思想研究のヴェクトルにおいては一貫して︑すでに人間性の上に定位された一 つの立場であるところの己ユ i マニズムというものを透過して︑その底にあるその人間性ということこそが問題
なのであるからである︒われわれの仏教思想研究において︑それがどのレヴェルの仏教患想を問題にするにせよ︑
そこにおいて解明さるべきは人間的な生の可語性の制約︑すなわち︑その(仏教)思想において人間がいかなる
根拠の観念の上にどのように生きることが可能とされているのか︑あるいはどのように生きるべきであると命令
されているのか︑ということ以外ではあり得ない︒そして︑われわれがその当該の思想を改めて自らのものとし
て信受しようとするなら︑その根拠の観念は︑必ずその当該の思想のレヴェル(例えば華厳思想なら華厳思想と
いうレヴェル)から開放されてわれわれ自身の学問の最終レヴェルをなすところの或る想定の上に危機的なもの
として定立されたものである以外はないのである︒
われわれは異実︑華厳の思想を最も美しく︑最もヒューマンなものであると理解している︒そして︑もし出来
得るならば自らの生をその上に定立したいと考えている(国みに︑後第で論ずる﹁大日経﹄の体系③は︑自己を
華厳思想の上に現実的に定位しようとした試みの一つであった)︒しかし︑そのためには︑われわれは華厳の体
系における根拠の観念を突破して(﹁大日経﹂はその突破をせず︑あくまで華厳の世界の空的機制の内に自らを
閉鎖した)︑仏教全体の立場へと降り立たね︑ばならない︒菌みに︑調々の体系を超えてその様な包括的な立場が
あるのか︑というなら︑あるのである︒しかも︑それは︑そこ(仏教の根抵)において仏教からも開放される︒
それがわれわれのいう︿開放系の仏教学﹀の立場なのであり︑それが自指すものが︿開放系の思想﹀なのである
が︑夜りにわれわれが華厳を自らの思想としたいのなら︑われわれ辻先ずこの︿開放系の思想﹀の根拠をなすと
ころの︿開放系の神﹀︑テキスト上の麗初型態でいうなら﹁リグ・ヴェ i
ダ ﹂
( 一
0
・ 九
O )
のプルシヤ(原人)
の観念にまで降り立ち︑そこにおいて改めて獲得されたかぎちにおける華厳患想の根拠の観念のその限定の上に
幻化サンヴァラ・マンダラ研究
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