はじめに 研究者人生の冒頭で発表した論文の一つに、私は「田遊び論ノート」 (『民衆史研究』八号、一九七〇年)と名付けた。藤木久志さ んに「ノート」ですと断って抜き刷りを差上げたら、その前に「論」をつけているじゃありませんかと見透かされてしまった。二度 目の定年退職に際して執筆する本論文では、たんに「ノート」と副題して晩期人生へのささやかな研究姿勢を示しておくとしよう。
さて、 一九八〇年頃から「絵画史料論(学) 」と「歴史図像学」の模索を開始した私は、 絵画作品つまり絵画史料ならどんなもので も 時 代 を 問 わ ず に 挑 戦 し て き た が、 最 初 の 研 究 対 象 は、 無 論、 中 世 の 絵 巻 で あ っ た。 そ こ か ら 出 発 し て、 絵 図( 荘 園 絵 図 と 国 絵 図
・
日本図) 、 参詣曼荼羅、 掛幅絵、 屏風絵、 御伽草子(挿絵) 、 肖像画、 浮世絵等々というように、 分析
・ 読解の対象を次々に広げていっ た。そして、戦国期から江戸時代にかけての絵画史料の中心として取り上げたのが「洛中洛外図屏風」である。その延長線上に「江 戸 図 屏 風 」 な ど の 一 連 の 都 市 図 屏 風 を 俎 上 に の せ よ う と 目 論 ん だ の で あ っ た。 上 杉 本 に 取 り 組 ん だ『 謎 解 き 洛 中 洛 外 図 』( 岩 波 新 書、一九九六年)は、その一里塚にすぎない。
しかし、初期洛中洛外図屏風の分析
・ 読解については、歴博甲本(三条本
・ 町田本)と東博模本の伝来が中々分からず、本格的な
分析
・ 読解には入れなかった。ならば、後回しにすれば良い。打開策はいずれきっと見つかるに違いない。そう考えた私は、
江戸時 代 の 洛 中 洛 外 図 屏 風 の 研 究 に 取 り 組 む こ と に し た 。 す な わ ち 、 二 〇 〇 二 年~二 〇 〇 四 年 度 の 「第 二 定 型 洛 中 洛 外 図 屏 風 の 総 合 的 研 究」 黒 田 日 出 男 江戸時代の洛中洛外図屏風と「屏風屋」 ― 洛中洛外図屏風の研究史ノート ―
(一)
(科学研究費補助金基盤研究 (A) (1) 課題番号一四二〇九〇〇八。以後、 第二定型科研 と略称)である。その際、 同科研の屋台骨を支 え て く れ た 佐 多 芳 彦 と 私 が め ざ し た の は 、「洛 中 洛 外 図 屏 風」 の 高 精 細 デ ジ タ ル 画 像 化 で あ った 。 屏 風 絵 な ど の 大 画 面 の 絵 画 作 品 を 全 面的に分析
・ 読解するには、細部(ディテール)を自由自在に観察し、部分と全体を繰り返し往復
・ 循環する綿密な読解作業が、ど
うしても必要不可欠だったからである。
一 林原美術館本洛中洛外図屏風からの出発 では、江戸時代の洛中洛外図屏風論は何から着手すべきか。それは最初から決まっていた。林原美術館本(旧
・ 池田本、旧岡山美 術館本、以後、 林原本 と呼ぶ)洛中洛外図屏風の高精細デジタル画像化である。第二定型科研の申請時点では、江戸時代の洛中洛外 図屏風のなかで、群を抜いて魅力的な対象作品は林原本であった。描かれている人数の圧倒的な多さもそうだが、すでに論文 「王権 と行列―描かれた〈行列〉から―」 (『週刊朝日百科日本の歴史別冊 歴史を読みなおす一七 行列と見世物』 、 朝日新聞社、 一九九四 年)において、若干の分析
・ 読解を試みてもいた(
『謎解き 洛中洛外図』より早い発表) 。そして、林原本と同じ工房の作品と判断 しうる一群の屏風が存在していた。すなわち、江戸時代の洛中洛外図屏風群を「攻略」する突破口は、間違いなくこの林原本なので ある。
林原本洛中洛外図屏風の撮影(一扇ごとに8×
その場のやりとりが鮮明に残っている。林原氏に深く感謝している。 林原 健氏(当時、株式会社林原の社長)に面会してお願いした。説明を聞いた氏は、直ちに快諾してくださった。今でも脳裏に、
10カラーポジフイルム二枚ずつ、合計二四枚の撮影)と高精細デジタル画像化を、
その第二定型科研は東京大学史料編纂所で開始し、本学で終えた。その報告書『第二定型洛中洛外図屏風の総合的研究 二〇〇二 (
平成一四) ~ 二 〇 〇 四(
平成一六) 年 度 科 学 研 究 費 補 助 金 基 盤 研 究( A) ( 1) 研 究 成 果 報 告 書 』( 立 正 大 学 文 学 部、 二 〇 〇 五 年 三 月 ) に発表された研究成果を列挙することにしたい。
①佐多芳彦「
PICTIONARYの開発をめぐって」 (二)
②杉森哲也「都市史ツリー案について」 ③藤川昌樹
・ 高屋麻里子「屏風に描かれた建築の理解
・ 記述とキーワード
・ ツリーの構造」
④大塚活美「林原本洛中洛外図屏風の構図と主題と発注者
―室町期
・ 江戸期の洛中洛外図屏風との関係を通して
―
」 ⑤藤原重雄「上杉本『洛中洛外図屏風』の季節外れの景物
―黒田日出男『謎解き 洛中洛外図』Ⅳ章
・ 補注
―
」 ⑥山口和夫「池田家旧蔵林原美術館本「 『洛中洛外図屏風」の内裏と公家町
―注文主
・ 用途
・ 制作時期についての一考察
―
」 ⑦高屋麻里子「町家と土蔵の変遷
―林原本」 ⑧高屋麻里子「洛中洛外図屏風諸本の内裏表現の3D
―CGを用いた模式化による比較」 ⑨大澤 泉
・ 加藤裕美子「林原本の貼紙について」
⑩大澤 泉
・ 加藤裕美子「第二定型諸本の分類における基礎的考察
―
ランドマークの比較を中心に
―」 ⑪加藤裕美子
・ 大澤 泉「洛中洛外図諸本におけるランドマークの検討」 ⑫小川慧里子「第二定型林原本洛中洛外図屏風に描かれた布帛類についての研究」 ⑬藤原重雄「 『洛中洛外図屏風』関係文献目録(稿) 」 以上のうちで、江戸時代の洛中洛外図屏風論に絞って研究成果を整理すると、次の四点の指摘ができるであろう。
第一は、 本科研が開発した画像史料研究用プラットフォーム
PICTIONARYの開発の報告とそれに関連した研究成果である。①~ ③ 論 文 が そ れ に あ た る。 と く に、
PICTIONARY製 作 の 中 心 的 担 当 者 と な っ た 佐 多 芳 彦 氏 の ① 論 文 を 御 覧 い た だ き た い。 こ の 画 像 史 料研究用プラットフォーム
PICTIONARYが、 二〇〇五年以降に本格化した私の洛中洛外図屏風論の基本的な研究手段
・ 道具となっ
た。すなわち、細部(部分)と全体の自在な循環
・ 往復運動が、洛中洛外図屏風の把握を飛躍的に高めることが出来たのである。
第二は、科研のスタッフとなった大澤 泉と加藤裕美子両氏が担当した洛中洛外図屏風に描かれたランドマークの比定
・ 比較研究
であって、⑨~⑪論文がその成果である。論文⑨では、林原本の貼紙についての考察が行われ、貼紙の位置の誤りについての基礎的 な検討がなされた。林原本に描かれた建造物等のランドマーク(土地の目印ないし象徴となっているような建造物等)の比定作業が 慎重に行われたのである。すなわち大澤
・ 加藤両氏は、林原本のランドマークの比定をベースにして、初期洛中洛外図屏風と江戸時
(三)
代の洛中洛外図屏風に描かれたランドマークを比較
・ 対照する一大作業を遂行し、その成果を⑪の「洛中洛外図諸本におけるランド
マ ー ク の 検 討」 に 示 し た 。 Ⅰ の 「洛 中 洛 外 図 ラ ン ド マ ー ク 対 照 表」 で は 、 二 四 本 の 洛 中 洛 外 図 屏 風 に つ い て 、 合 計 二 七 〇 の ラ ン ド マ ー クの比定と対照を行っており、Ⅱでは林原本の図版にランドマークの比定結果を示している。お蔭で、江戸時代の洛中洛外図屏風群 に描かれている諸建物や山々や河川
・ 道路
・ 橋等々の相互比較が、かなりの正確さで行えるようになってきたのであった。今後の洛
中 洛 外 図 屏 風 研 究 は 、 こ の ラ ン ド マ ー ク 対 照 表 を 参 照 し つ つ 、 遂 行 さ れ る よ う に な る だ ろ う 。 そ し て さ ら に 大 澤
つもりである) 。 る。これまた、今後の江戸時代の洛中洛外図屏風論にとって検討されるべき見解であろう(この点は、研究史の検討のなかで触れる 有無を指標とした場合、第二定型本洛中洛外図はおよそ3つの系統に分類することができる」とし、それぞれの特徴を示したのであ ク の 描 き 方 に よ る 分 類 に よ って 、 い わ ゆ る 第 二 定 型 諸 本 の 分 類 案 を 提 出 し た の で あ った 。 す な わ ち 、「ラ ン ド マ ー ク の 描 か れ 方 や そ の 藤 は 、 ラ ン ド マ ー ・ 加
第三は、 林原本「洛中洛外図屏風」論であり、 その構図
・ 主題
・ 注文主(発注者)
・ 用途
・ 制作時期については、
大塚活美氏の④論 文と山口和夫氏の⑧論文が提出された。両論文の見解は鋭い対立点を孕んでおり、次なる研究展開の予兆を見てとることが出来る。
また、林原本の表現に即しては、建築史の立場から高屋麻里子氏の論文⑦と⑧が発表された。私には高屋を批判する力はないが、 蔵の歴史を考察する上で魅力的な仮説の提示であるように思われる。更なる深化を期待したい。そして、祇園祭礼の山車の布帛類に ついての小川慧里子氏の⑫論文も書かれた。いずれも、江戸時代に制作された数多くの洛中洛外図屏風のそれぞれが、どのように研 究されるべきかを示唆してくれている。
大塚活美
・ 山口和夫両氏の論文も、加藤裕美子
・ 大澤 泉両氏のランドマーク論も、そして高屋氏と小川氏の行った研究も、共に 画 像 史 料 研 究 用 プ ラ ッ ト フ ォー ム
PICTIONARYに 組 み 込 ま れ た 林 原 美 術 館 本 洛 中 洛 外 図 屏 風 が な け れ ば 困 難 な 研 究 で あ った と 言 い たい。
そして第四に、藤原重雄氏による⑬の洛中洛外図屏風関係文献目録の作成がなされた。もとより、洛中洛外図屏風に触れた仕事や 文章は枚挙に遑ないであろうが、この目録から出発して、適宜補充されていくべきであろう。いつものことながら、藤原氏の広い目 配りに感謝している。
但し、右に示したように、第二定型科研中には、私自身の江戸時代の洛中洛外図屏風論は生まれない。どう考えたらよいのか思案 (四)
しつつ、 「甲陽軍鑑の史料論」の連作に力を注いでいたからである。同時に二つの仕事に集中できないのが、私の弱点なのだ。
それはさておき、この 第二定型科研 の発展線上の科研として、二〇〇五~二〇〇九年度の「中近世風俗画の高精細デジタル画像化 と絵画史料学的研究」 (科学研究費補助金基盤研究 (S) 課題番号一七一〇二〇〇一。以後、 風俗画科研 と略称する)を申請し、 幸いに も採択された。五年間にわたってなされたこの科研においても豊饒な成果が得られた、と私は判断している。すなわち、その報告書 『中 近 世 風 俗 画 の 高 精 細 デ ジ タ ル 画 像 化 と 絵 画 史 料 学 的 研 究 二 〇 〇 五 (
平成一七) ~二 〇 〇 九 (
平成二一) 年 度 科 学 研 究 費 補 助 金 基 盤研究 (S) 研究成果報告書』 (立正大学文学部、二〇一〇年三月)に発表された、次のような諸成果である。
⑴ 大塚活美「林原美術館本洛中洛外図屏風と同一工房の作品について」 ⑵ 大澤 泉「景観構成に見る第二定型本の分類―洛中洛外図ランドマーク対照表補論―」 ⑶ 坂本くらら
・ 土井原もえぎ「林原美術館本『洛中洛外図』の文字情報について
―
残されている貼書と文献の照合を中心にし て
―」 ⑷ 米倉迪夫「景観図を考える
―『一遍聖絵』の事例から」 ⑸ 藤原重雄「永徳筆『洛外名所遊楽図屏風』と上杉本『洛中洛外図屏風』談義」 ⑹ 塙 萌衣「近世初期風俗画の画中障屏画について―林原美術館本洛中洛外図屏風と豊国祭礼図屏風を中心として」 ⑺ 佐多芳彦「 『賀茂祭絵詞』とその周辺
―賀茂社のイメージ変遷と中近世初期風俗画
―」 ⑻ 佐多芳彦「金泥から金箔へ
―上杉本『洛中洛外図』高精度撮影の成果
―」 ⑼ 杉森哲也「 『豊国祭礼図屏風』関係文献目録」 ⑽ 堀越祐一「文献史料にみる豊国社臨時祭」 ⑾ 藤川昌樹「江戸時代後期における土井家京都邸の構成とその変遷」 ⑿ 高屋麻里子「建築と都市の表現とイメージ
―洛中洛外図屏風諸本と『日蓮聖人註画讃』
―」 ⒀ 黒 田 日 出 男「 『 江 戸 天 下 祭 図 屏 風 』 の 解 決
―主 人 公
文 主 ・ 注
(五) 号、二〇一〇年三月にも掲載された。 ) 受 者 そ し て 制 作 時 期
―」( 『 立 正 大 学 文 学 部 研 究 紀 要 』 二 六 ・ 享
⒁ 藤原重雄「 『洛中洛外図屏風』関係文献目録Ⅱ」 ⒂ 高橋(加藤)裕美子
・ 大澤 泉「洛中洛外図屏風 諸本基本情報」 ⒃ 高橋(加藤)裕美子
・ 大澤 泉「洛中洛外図屏風ランドマーク対照表(祭礼
ver,2)」
・ 「ランドマーク比定」
これ以外に、私が次のような諸論を本研究紀要などに発表した。ようやく洛中洛外図屏風研究の「糸口」の幾つかを見出したから である。
⒄ 黒田日出男「金箔屏風へのみちすじ」 『なごみ』 (淡交社)二〇〇八年四月号 ⒅ 黒 田 日 出 男 「洛 中 洛 外 図 の 主 題 表 現 と 注 文 主 そ し て 伝 来―新 出 洛 中 洛 外 図 屏 風 と 林 原 美 術 館 本 洛 中 洛 外 図 屏 風―」 『立 正 大 学 文学部研究紀要』二五号、二〇〇九年三月 ⒆ 黒田日出男『江戸図屏風の謎を解く』角川学芸出版、二〇一〇年六月(なお、⒀論文を増補し書き直したものである。 ) ⒇ 黒田日出男「洛中洛外図ってなんだろう?」 (佐多芳彦と共同執筆) 『なごみ』二〇一〇年五月号 黒田日出男「洛中洛外図屏風とその時代」 、同「嫁入り道具の洛中洛外図屏風」 『なごみ』二〇一〇年五月号 黒 田 日 出 男 「初 期 洛 中 洛 外 図 屏 風 の 伝 来 論
―将 軍 に 献 上 さ れ た 土 佐 筆 と 狩 野 元 信 筆 の 洛 中 図 屏 風
―」『立 正 大 学 文 学 部 研 究 紀 要』二七号、二〇一一年三月 黒 田 日 出 男「 歴 博 甲 本 洛 中 洛 外 図 の 読 解 を め ぐ っ て
―小 島 道 裕『 描 か れ た 戦 国 の 京 都
洛中洛外図屏風を読む』
(吉川弘文館、二〇〇九年)
」、 『立正大学大学院紀要』二七号、二〇一一年三月 黒田日出男「総論⑴洛中洛外図屏風とは
―歴博甲本と上杉本」 『〈図録〉洛中洛外図屏風に描かれた世界』群馬県立歴史博物 館、二〇一一年三月 黒田日出男「総論⑶洛中洛外図屏風とその周辺
―江戸時代の洛中洛外図屏風」 『〈図録〉洛中洛外図屏風に描かれた世界』群 馬県立歴史博物館、二〇一一年三月 黒 田 日 出 男 「歴 博 甲 本 洛 中 洛 外 図 の 主 人 公
作 年、 そ し て 主 人 公
―初 期 洛 中 洛 外 図 屏 風 の 読 み 方 (一)
―」『立 正 大 学 大 学 ・ 制 (六)
院紀要』二八号、二〇一二年三月 以上のように、本科研においても豊饒な研究成果が得られたように思う。私のエンジンも、どうやらかかってきた。初期洛中洛外 図屏風や豊国祭礼図屏風などについての研究結果は、今後、順次著書として書き下ろしていくことにして、 ここでは、江戸時代の洛 中洛外図屏風についての研究成果に絞って整理
・ 把握するとしよう。
すなわち第一に、江戸時代の洛中洛外図屏風論は、当初の予測した通りに林原本を中心に展開した。林原本系諸本探索の推進者は 大塚活美氏であり、その丹念な追跡から極めて重要な研究成果が得られた。すなわち 論文⑴「林原美術館本洛中洛外図屏風と同一工 房の作品について」 である。この論文を見れば、江戸時代における洛中洛外図屏風制作の中心の一つに林原本工房があったことは、 最早、明白である。私としては、林原本こそ江戸時代の洛中洛外図屏風研究の〈要〉に位置するとの予想が正鵠を射ていたことを喜 ぶとともに、大塚氏による林原本系統諸本の調査
・ 探索がさらなる成果を生み出すであろうと確信している。
第二に、第二定型科研における加藤
・ 大澤両氏の作業(論文⑩
・ ⑪)は続行され、改訂がなされた。すなわち、高橋(加藤)裕美
子
澤 泉 両 氏 の ⒂ 「洛 中 洛 外 図 屏 風 諸 本 基 本 情 報」 ・ 大
ver,2
「洛 中 洛 外 図 屏 風 ラ ン ド マ ー ク 対 照 表 ( )」 ・ ⒃
・ 「ラ ン ド マ ー ク 比 定」 で あ る。 す な わ ち a. 洛 中 洛 外 図 屏 風 の 基 本 情 報 が 整 理 さ れ て 表 と な っ た。 b. 洛 中 洛 外 図 ラ ン ド マ ー ク 対 照 表(
Ver.2) で あ る。 また、初期洛中洛外図屏風四本と舟木本
・ 林原本
・ 岐阜市歴史博物館本
・ 大阪市立美術館本のカラー図版が示され、ランドマーク比 定がなされている。こうして、六五本の洛中洛外図屏風について、合計三一八のランドマークの対照がなされたのである。この洛中 洛外図ランドマーク対照表(
Ver.2)は、 江戸時代の洛中洛外図屏風研究を発展させる基盤となってくれるであろう。そして、 八本の 洛中洛外図屏風のランドマーク比定も役立つに相違ない。
その上で、 大澤 泉氏の論文⑵「景観構成に見る第二定型本の分類―洛中洛外図ランドマーク対照表補論―」 が、杉森哲也
・ 高橋
裕美子両氏と共に第二定型本の収集
・ 検討作業を行った結果得られた所見をまとめている。すなわち、
……その作業を通じて得た印象は以下の2点であった。まずはその数の多さである。現在図版を確認できているものだけでも
94
点の洛中洛外図屏風を確認しており、今後さらに増えることが想定される。……2点目はその多様性である。洛中洛外図屏風は (七)
第一定型、第二定型に分類されることが多いが、定型と言っても、描いている物
・ 主題は様々である。
と指摘した上で、 「小稿では、 ……ランドマーク、 及び屏風上の景観構成に注目し、 第二定型洛中洛外図屏風を体系的に把握し、 第二 定型諸本を分類すること、さらにはその変遷を概観することを目的と」している。この大澤の仮説については、後述する研究史の検 討において取り上げることにしたい。
そして第三に、新出本洛中洛外図屏風が出現し、同本についての私の考察がなされた。すなわち 論文⒅「洛中洛外図屏風の主題表 現と注文主そして伝来―新出洛中洛外図屏風と林原美術館本洛中洛外図屏風―」 である。狩野博幸氏によって紹介がなされた 新出本 洛中洛外図屏風の出現( 『新発見 洛中洛外図屏風』大江戸カルチャーブックス、 青幻社、 二〇〇七年) によって、 江戸時代の洛中洛 外図屏風研究は新たな飛躍期を迎えることになったのである。この私の仮説については、後述の研究史のなかでも触れるが、次のよ うな仮説を提示したのである。 「むすび」の結論=仮説部分を引用しよう。
仮説の第一。 新出本は、徳川和子入内を主題表現している数少ない洛中洛外図屏風のひとつである。左隻の二条城の位置や右隻 第五扇
・ 第六扇の内裏とその付近の光景の無理やり押し込まれたかのような表現や右隻の町筋に生じた逆くの字の歪みから判
断して、徳川和子入内行列を主題表現とした最初の洛中洛外図屏風であると思われる。洛中洛外図屏風の主題表現としての徳 川和子入内行列は、この屏風の注文主の依頼によって、新たに描き込まれたのであった。…… 仮説の第二。 新出本は恐らく、寛永六年(一六二九)の後水尾天皇の譲位による政治的緊張をうけてなされた、高松宮好仁親王 と徳川秀忠養女(越前宰相松平忠直の娘)亀姫(結婚後、寧子、夫の死後、宝珠院)の婚儀において、嫁入り道具のひとつと して制作された。徳川和子入内行列が主題とされたのは、一つには、徳川和子入内が公武融和をシンボリックに表現するもの であり、二つには、この婚姻が徳川和子入内の縮小再版であって、亀姫にとってはダブルイメージとなること、三つには、亀 姫にとって初めての京都のイメージを示すのに、徳川和子入内の光景を中心にしたものが選択されたということなのではある まいか。 仮 説 の 第 三。 し た が って 、 徳 川 和 子 入 内 行 列 を 主 題 的 に 描 い た 洛 中 洛 外 図 屏 風 の 誕 生 は 、 寛 永 七 年 (一 六 三 〇) の こ と で あ った 。 (八)
その制作を京都の林原本工房に依頼したのは、恐らく婚儀の準備に当たった所司代板倉重宗であろう。 仮説の第四。 とすれば、新出本を前提にした林原美術館本が制作されたのは、新出本を前提にした林原美術館本が制作されたの は、その後のことになる。確かな証拠はないが、寛永一一年(一六三四)の将軍家光の最後の上洛に供奉した池田新太郎光政 が、妻のために注文制作したものではないか、と私は推測している。もしも、そうであれば、林原本は寛永一一年の制作とな るのだが。 仮 説 の 第 五。 亀 姫 の 夫 好 仁 親 王 は 、 し か し 、 寛 永 一 五 年 (一 六 三 八) に 死 去 し て し ま う 。 宝 珠 院 と な った 亀 姫 は 、 幕 府 の 命 に よ っ て、承応二年(一六五三)に娘二宮を伴って兄の領地越後高田へ移住した。その際、彼女は嫁入り道具のひとつであった新出 本 を 高 田 へ 持 参 し た と 考 え ら れ る 。 安 住 の 地 と な った 高 田 城 内 で 余 生 を 過 ご し た こ と に な る 。 そ し て 宝 珠 院 は 、 延 宝 九 年 正 月、 「越 後 騒 動」 に 揺 れ る 高 田 城 内 で 死 去 し た の で あ った 。 彼 女 は 長 恩 寺 の 母 の 墓 の 隣 に 葬 ら れ た 。 そ の 時 点 で は 、 兄 光 長 は ま だ 改 易になっていなかったから、新出本は遺品の一つとして同寺に納められたと推測しうる。 仮説の第六。 長恩寺は、五〇石の朱印地を与えられており、越前松平家の菩提所として、庇護されていた。また、当主光長の母 勝子の遺骨も同寺に納められ、墓が出来ていた。前掲の『新潟県の地名』の記述にあるような浮き沈みはあったが、江戸時代 においては、同寺が新出本を手放す(処分する)ことはまず考えられない。宝珠院の遺品として、新出本は屏風箱のなかで静 かな時を過ごしていたに違いない。新出本が「完好」であるのは、そのように恐らくは屏風箱のなかに仕舞い込まれたままに なり、殆ど使われることがなかったためではあるまいか。 仮説の第七。 ところが、明治維新後に長恩寺は急速にその存続が困難になる。まず、朱印地が返上され、光長家の庇護も期待で き な く な る 。 藩 主 の 寺 で あ る か ら 、 檀 家 も 少 な い 。 こ う し て 、 恐 ら く 明 治 年 間 に 、 同 寺 は 処 分 で き る も の は 次々に 手 放 し て い っ たと思われる。そのなかに宝珠院の遺品の新出本があったのだろう。それでは誰がそれを入手したのであろうか。今のところ 何の証拠もないが、新潟県に多かった大地主の一人がそれを入手したのではないかと、私は推測している。この推理
・ 仮説が
大筋で当たっているからこそ、新出本は新潟県から出てきたのである。
この仮説が当たっているならば、新出本の制作年は寛永七年である。林原本は、それより後に作られたと推定できるから、従来の (九)
想定よりも制作時期が降る。私の仮説では、寛永一一年となる。とすれば、林原本工房の作品群は、まさに寛永期を中心にして考察 すべきことになるのである。
なお、新出本洛中洛外図屏風は、二〇一二年冬に、ついにその姿を現した。すなわち、静岡県立美術館で開催された「江戸絵画の 楽園」展(一〇月七日~一一月一八日)においてである。その解説(福士雄也氏)には、次のように記されている(図録『江戸絵画 の楽園』静岡県立美術館、二〇一二年一〇月、二六頁) 。 《洛中洛外図屏風》
(作品番号9)は、近年になって発見され、このたび初公開となる作品である。一説には百点を越えるとい われる洛中洛外図屏風のなかでも、二代将軍徳川秀忠(一五七九~一六三二)の娘
・ 和子(東福門院)の入内を描く数少ない作
例として注目されている(文献
美術館本(重要文化財)等と同一の工房により制作されたことが確実である。 による制作であることは疑いない。保存状態も奇跡的といってよいほどにきわめて良好で、その特徴的な人物描写等から、林原
11)。描写は驚くほど細密で、 手間を惜しまない徹底した描き込みからしても、 これが特別な注文 本作の制作契機については、後水尾天皇の譲位による政治的緊張を背景として行われた寛永七年(一六三〇)の秀忠養女
・ 亀
姫と高松宮好仁親王の婚礼調度として制作されたこと、またその際、和子入内という公武融和を象徴する主題が選択された可能 性 が 指 摘 さ れ て い る (文 献
定材料とはならないだろう。 金具や表具裂には、徳川家の家紋等婚礼に関わる作品としての名残はないが、修理の際に新調されることもあるので必ずしも否
12)。 様 式 的 観 点 か ら い って も 、 寛 永 年 間 (一 六 二 四~四 四) の 作 と み る こ と に 違 和 感 は な い 。 現 状 の 文 献
11
と は 狩 野 博 幸 『新 発 見 洛 中 洛 外 図 屏 風』 (青 幻 舎、 二 〇 〇 七 年 三 月) で あ り 。 文 献
年)のことである。 主 題 表 現 と 注 文 主 そ し て 伝 来―新 出 洛 中 洛 外 図 屏 風 と 林 原 美 術 館 本 洛 中 洛 外 図 屏 風―」 『立 正 大 学 文 学 部 研 究 紀 要』 二 五 号、 二 〇 〇 九
12と は 黒 田 の 論 文 ⒅ 「洛 中 洛 外 図 屏 風 の
勿論、 私も静岡県立美術館に駆けつけ、 待望していた新出本洛中洛外図屏風との「対面」を果たした。 「一見しただけで」というの は語弊があるが、①寛永期の作品と判断して間違いないこと、②まさに狩野氏の文章通りの「完好」な状態で伝来したこと、③福士 (一〇)
氏が書かれているように「描写は驚くほど細密で、手間を惜しまない徹底した描き込みからしても、これが特別な注文による制作で ある」ことは明瞭であった。②と③の状態からみて、私の 論文⒅で示した仮説は、 もちろん細部については今後の訂正
・ 補充をして
いかねばならないだろうが、基本的には間違いなかったとの判断を抱くことができた。 江戸時代の洛中洛外図屏風のなかでは、新出 本は白眉の作品である。 日本国内のしかるべき美術館か博物館がぜひ入手してほしい、そう念ずるばかりだ。
それ以外にも、 第二定型科研 と 風俗画科研 の最中に、我々の科研と同期
・ 同調して岐阜市歴史博物館本をはじめとする新たな江戸
時代の洛中洛外図屏風の出現が相次いだ。それは、本当に嬉しいことであった。やはり、新史料(新出作品)というものは、それを 探している者たちの前に姿を現してくれるものなのである。
二 江戸時代の洛中洛外図屏風の研究史 拙著『謎解き 洛中洛外図』で示したように、洛中洛外図屏風論は、圧倒的に初期洛中洛外図屏風を中心対象として展開した。そ してとりわけ、上杉本洛中洛外図屏風が取り上げられてきた。それは無理からぬことであったと言えるだろう。
第一に、初期洛中洛外図屏風は、四点しか現存しておらず、戦国から織豊期の絵画史料としての希少性は、誰もが認めるところで ある。この時期の歴史研究においては、今後もさまざまな視点
・ 角度から研究が進められ続けるであろう。とくに上杉本は、政治史
的にも稀有な屏風絵である。すなわち、足利義輝
・ 上杉謙信
・ 織田信長らの関与が明らかな、本当に稀有な作品であり、最重要な絵
画史料なのであった。
第二に、 美術史的にも、 上杉本は桃山の巨匠狩野永徳の作品として決定的に重要である。その作品としての卓越した魅力によって、 初期洛中洛外図屏風中の白眉だからである。現存最古の洛中洛外図屏風である歴博甲本も、それに準ずる美術史的な価値を有してお り、我々の研究意欲を刺激して止まない作品である。東博模本も、模本としての限界はもちろんあるが、歴博甲本と上杉本の間に位 置しているその洛中洛外の表現内容は、極めて重要なのである。上杉本の誕生を考える上で鍵となる存在であり、また、その絵画史 料 読 解 に と って も 不 可 欠 な 作 品 で あ る と 言 い 得 る 。 そ し て 歴 博 乙 本 も 、 馬 淵 美 帆 氏 の 論 文 「歴 博 乙 本 《洛 中 洛 外 図》 研 究」 (同 著 『絵 を用い、絵を創る』ブリュッケ、二〇一一年)が示しているように、美術史的には貴重な作品である。 (一一)
それに対して、江戸時代の洛中洛外図屏風はどうか。どのような研究がなされてきたのであろうか。そして、どこまで研究が進展 してきたのであろうか。
『謎解き 洛中洛外図』での研究史と藤原重雄氏が作成した⑬「 『洛中洛外図屏風』関係文献目録(稿) 」と⒁「 『洛中洛外図屏風』 関係文献目録Ⅱ」を参照すれば明らかなように、 第二定型科研開始以前における江戸時代の洛中洛外図屏風研究はマイナーであり、 その研究蓄積は初期洛中洛外図屏風に比して断然貧弱であった。
『謎解き洛中洛外図』では、
初期洛中洛外図屏風の研究史を、 第Ⅰ期(戦前) 、 第Ⅱ期(戦後、 一九五七~一九八二年) 、 第Ⅲ期の前 期(一九八三~九二年)と後期(一九九四年~)に分けている。それに対して、江戸時代の洛中洛外図屏風の研究史は戦前の研究を 欠いている。これが大きな相違点である。すなわち研究に大幅な遅れがある。
とは言え、江戸時代の洛中洛外図屏風も研究されてきた。どのように研究がなされてきて、どのような研究成果が得られたのか、 そして研究史的にいかなる問題点があり、今後はどのように研究が展開されるべきか、を考えてみるべきであろう。以下、大まかな 時期区分を行いつつ、研究史的な検討を行っていくことにしたい。
なお、江戸時代の洛中洛外図屏風論にとって研究史的にとりわけ重要な仕事である、と判断した図録や論文等については、 太字ゴ シック で示してある。
《第Ⅰ期》 1武田恒夫「洛中洛外図とその分脈」京都国立博物館編『洛中洛外図』 (特展目録
2京都国立博物館編
20)、一九六五年
・ 武田恒夫執筆『洛中洛外図』角川書店、一九六六年
3山根有三編『桃山の風俗画』 (『日本の美術』一四)平凡社、一九六七年 4武田恒夫編『近世初期風俗画』 (『日本の美術』二〇)至文堂、一九六七年 5小澤 弘「洛中洛外図屏風の研究」 『浮世絵芸術』四五、一九七五年 6辻 惟雄編『洛中洛外図』 (『日本の美術』一二一)至文堂、一九七六年 7武田恒夫編『金碧障屏画』 (『日本の美術』 一三一 )至文堂、一九七七年 (一二)
8石田尚豊編『職人尽絵』 (『日本の美術』 一三二 )至文堂、一九七七年 9赤井達郎「洛中洛外図と名所図絵」 『別冊太陽』一八、一九七七年
10小澤 弘「佐渡の洛中洛外図屏風について」地方史研究協議会編『佐渡
―島社会の形成と文化』 、一九七七年 *妙法寺本
11武田恒夫編『風俗画 洛中洛外』 (『日本屏風絵集成』一一)講談社、一九七八年
12辻 惟雄「舟木家旧蔵本洛中洛外図屏風の研究」 『風俗画 洛中洛外』 (『日本屏風絵集成』一一)講談社、一九七八年
13源城政好「洛中洛外図にみえる河原者村について」 『京都部落史研究所紀要』二、一九八二年 *高津本
14辻 惟雄他編『洛中洛外図(二) 』( 『近世風俗図譜』四)小学館、一九八三年 *舟木本
・ 林原本
15京都府立総合資料館編『
開館20周年記念特別展示
洛中洛外図の世界』一九八三年 *林原本等
16辻 惟雄「浮世の眺め
―舟木家本「洛中洛外図屏風」 」『月刊百科』二八九、一九八六年 *舟木本
17石田尚豊他監修『洛中洛外図大観 町田家旧蔵本
・ 上杉家本
・ 舟木家旧蔵本』小学館、一九八七年
*舟木本
18川上 貢「旧笹井家蔵「洛外図屏風」について」 『建築指図を読む』中央公論美術出版、一九八八年
19下坂 守「晴明塚考
―五条河原
・ 清水坂に生きた人々の信仰
―
」『京都部落史研究所紀要』一〇、一九九〇年 *吉川家本
20岡村喜史「洛中洛外図に見る本願寺」 『国史学研究』一七、一九九一年 *第二定型
21辰田芳雄「林原美術館所蔵の洛中洛外図屏風の世界」 『岡山朝日研究紀要』一四、一九九三年 *林原本 右に示したように、一九六五年から一九九三年までの約三〇年間を、江戸時代の洛中洛外図屏風の研究の 《第Ⅰ期》 とすることが できるだろう。研究論文は少ないが、しかし、江戸時代の洛中洛外図屏風研究の基礎
・ 基盤が造りあげられた時期であった。
すなわち 第一に 、 この時期でとくに重要なのは、 2
・ 6
・
11・
14・
15・
17などの図録の刊行 がなされたことであった。絵画作品
・ 絵
画史料の研究は、良質な図版が共有されるようにならない限り、大きな進展
・ 深化をみることはない。これらの基本的な図録に収録
された図版によって我々は、江戸時代の洛中洛外図屏風がどのようなものであるかをおおよそ把握できるようになったのであった。 これらの図録を制作された方々に深く感謝したい。とくに武田恒夫氏の果たした役割と功績はとても大きいと私は思う。
ともかく、この時期に江戸時代の洛中洛外図屏風にはどのようなものがあるのかが、図版とともに示された。ディテールまで読め (一三)
るかなり大きな図版から、そうしたことの不可能な小さな図版に至るまでさまざまであったが、これらの図録によって、江戸時代の 洛中洛外図屏風についての大まかな比較
・ 読解等をなしうるようになったことは、第Ⅰ期の極めて基盤形成的な成果であり、重要な
進展であった。また、それらの図版に付された解説によって、極めて大まかながら各屏風の特徴や作期が示されたのも大きな前進で あった(それらの修正が、 《第Ⅱ期》以降の検討課題となったにせよ) 。
第 二 に 特 筆 さ れ る こ と は 、 《第 Ⅰ 期》 に 、 洛 中 洛 外 図 屏 風 の 全 体 に つ い て の 基 本 的 な 把 握 (仮 説 の 提 示) が な さ れ た こ と で あ る 。 す なわち、 2『洛中洛外図』 に発表された 武田恒夫氏の「概説」 がそれである。まずは武田氏の仮説を丁寧に紹介し、次いでそれとは 明瞭に異なる 辻 惟雄氏の見解(仮説) を紹介することにしたい。長くなるが、この二つの仕事が、今後の江戸時代の洛中洛外図屏 風論の大前提なのである。
一九六五年一〇月一五日~一一月一四日に京都国立博物館で開催された「洛中洛外図」の特別展覧会は、洛中洛外図屏風研究(と い う よ り 近 世 初 期 風 俗 画 研 究) に と って 画 期 的 で あ り 、 そ れ を 担 当 さ れ た の が 武 田 氏 で あ った 。 そ の 際 の 図 録 『洛 中 洛 外 図』 (特 展 図 録 によって書かれた 「概説」 論文である。 たのであった。すなわち、武田氏による重厚な概説と収録作品の的確な図版解説がなされた。とくに重要なのは、次のような章立て
20)は薄いものであったが、翌年に刊行されたのが 2『洛中洛外図』 なのであり、以後の洛中洛外図理解の基礎がかたちづくられ 第一章 序説
一 平安京の変貌 二 洛中洛外図の成立 三 洛中洛外図の意義と特質 第二章 洛中洛外図とその展開
一 定型 二 変型
三 展開 (一四)
第三章 洛中洛外図の諸分脈 一 名所 二 祭礼 祇園祭礼 賀茂競馬 豊国祭礼 三 遊楽 このように構成された「概説」こそが、洛中洛外図屏風研究の出発点に位置する記念碑的な仕事であった。そのことは、美術史の 研究者や院生
・ 学生にとっては常識であろう。その洛中洛外図屏風論はどのようなものであったのだろうか。ここでは、江戸時代の
洛中洛外図屏風についての、武田氏の見解(仮説)を示すことにする。
まずは、仮説の大筋を述べている箇所を引用しよう( 『洛中洛外図』二七
・ 二八頁)
。
a 初期洛中洛外図が室町末期に成立し、景観構成における定型をもたらしたのに対し、 次の桃山時代に入ると、時代の変貌に 即応させて、かかる定型を打ち破るような一群の変型が現われた。しかし、これとは別個に、第二の定型とでもいうべきもの が 、 変 型 洛 中 洛 外 図 の 制 作 と 平 行 す る 時 期 に つ く り 出 さ れ た 。 洛 中 洛 外 図 の 歴 史 に と って 、 第 二 期 を 画 す る 決 定 的 な メ ル ク マ ー ルは、ほかならぬ二条城の出現であったといえよう。 二条城は変型の場合においても、景観構成の中核的モチーフとして重要 な位置づけを示すこともあったが、第二の定型では、その扱いのうえにかなりニュアンスの相異をきたしている。
すなわち武田氏は、聚楽第図屏風と舟木本を第一の定型を打ち破る変型の洛中洛外図屏風の出現として位置づけ、それと平行して 左隻に二条城、右隻に祇園祭を描く第二の定型が出現してきたというのである。つまり、第一の定型を打ち破る変型洛中洛外図と第 二の定型洛中洛外図はほぼ同時に出現してきたとされており、変型の聚楽第図屏風が僅かに先行したに過ぎないのである。 (一五)
周知のごとく、聚楽第は僅かな期間しか存在しなかった。天正一四年(一五八六)に着工、翌年秋に完成。同一六年に後陽成天皇 の行幸が執り行われた。豊臣秀次の居城となるが、文禄四年(一五九五)年、秀次自刃後に取り壊された。一〇年にも満たない生命 であった。結局、豊臣の京都を描いた作品が展開する時間的余地はほとんどなかったと言えるであろう。
それに対して、徳川の二条城が造営されたのは慶長八年(一六〇三)である。それ以降の慶長期から大坂夏の陣前後までの約一〇 年間が、江戸時代の洛中洛外図屏風の「誕生期」であった。家康の二条城造営によって江戸時代の京都が姿を現すと、ただちに二条 城を景観構成の主要部分の一つとする洛中洛外図屏風の制作が始まるのだが、それはほぼ同時期にいくつもの試みがなされたのであ る。このように把握してよいのか否か。江戸時代の洛中洛外図屏風論にとっては、決定的に重要な論点の一つではあるまいか。
武田氏の右の仮説によれば、舟木本は、第二の定型とほぼ同時期につくられたユニークな作品として位置づけられることになる。 しかし、この「概説」では、武田氏は舟木本についての見解を展開されないのである。
では、いったい、武田氏の言われる第二期の定型とは、いったい、どのようなものなのであろうか(二八頁) 。 b 第二期の定型では、左隻は北山および西山を背景としながらも、前景はもはや上京下京の区別なく、洛中を縦に東西に二分 した西半分になり、右隻は東山を背景としながらも、同じく洛中の東半分を描くことになる。しかも左隻では、中央に大きく 位置づけられるのが二条城であり、右隻では、内裏を一部に編入するが、中核となるのは祇園会である。 …… c さて、 第二期の洛中洛外図に見る定型は、右に述べたように、二条城を左隻の景観中心とするが、右隻では祇園会をこれに あてるのが適当かと思われる。 いずれも、 近世京都の景観にとって不可欠なものであった。 しかし、 ここで注意すべきことは、 第二の定型といわれるものは、その早期の作例に限られていることである。以後のものは初期の定型や変型に指摘されたよう な積極的な体制表出の働きを示していないことである。 つまり、時代の符牒としての役割を果たすにすぎず、いわば洛中洛外 に と って の 象 徴 的 景 観 要 素 に と ど ま り 、 構 成 の 中 核 的 モ チ ー フ と い った も の と は 若 干 そ の 意 味 を 異 に し た も の と な って し ま う 。 換言すれば、二条城や祇園会は景観の目安とはなりえても、時代推移の結節を具現してはいない。……
すなわち第二期の定型とは、洛中を縦に東西に二分し、左隻では北山
・ 西山を背景として西半分を、二条城を中央に位置付けて描
(一六)
き、右隻には東山を背景にして東半分を、祇園会を中核的に表現しつつ描いたもの、である。
但し、 武田氏は、 次のように断っている。すなわち、 厳密には、 「第二の定型」は、 その早期の作例に限られる。以後のものは積極 的な体制表出を示さなくなってしまい、たんなる時代の符牒に成り下がってしまうのだとされているのである。つまり、第二の定型 の 洛 中 洛 外 図 屏 風 に 、 積 極 的 な 体 制 表 出 を 試 み た 早 期 の 作 品 群 と そ れ 以 後 の も の を 時 期 的 に 区 別 し て い る 点 に 注 意 し て 、 武 田 氏 の 「第 二の定型」論を受けとめなければならない。
なお、祇園会を右隻の中核的な表現とするには、出光本洛中洛外図屏風という重要な例外がある。それを武田氏も後述する辻氏も 視野に入れていない。 《第Ⅱ期》 に気付かれるであろう。
それでは、第二期の洛中洛外図屏風における二条城
・ 伏見城を、武田氏はどのように理解
・ 把握されたのであろうか(二九頁)
。
d 時代の脚光を浴びた二条城がはなやかな存在たりえたのは、寛永初期あたりまでとみられる。慶長期から元和期にかけて、 伏見城とともに、将軍入洛時の宿営所であったばかりでなく、ここでさまざまな典儀や行事がいとなまれたこともみのがせな い。たとえば、 慶長十四年(一六〇九)四月、 秀忠の征夷大将軍宣下、 同十六年三月、 家康による豊臣秀頼接見、 元和六年(一 六二〇)東福門院入内など、いずれも歴史的に著名な事件が二条城を舞台として行なわれた。しかし、もっとも特筆すべきこ とは、寛永三年(一六二六)九月の後水尾天皇の行幸であろう。それに備えて大幅な改造が断行され、城域の拡大、天守閣の 再建と移動、行幸御殿の新築などに及んでいる。それまで正方形に近かった外濠の西側面を西方に延長、全体の区画を凸字形 に膨張させ、本丸として新たに天守閣をすえたのである。……伏見城は……関ヶ原合戦のあと、徳川家の所属に帰し、家康の 征夷大将軍拝任をはじめ数々の重要な行事がここでとり行なわれた。しかし、元和九年(一六二二)家光が将軍宣下を済ませ ると廃城が決まり、その八月には解体をはじめている。第二期の洛中洛外図屏風にあって、右隻の右上端にこの伏見城の一角 をとらえたものとして、勝興寺本
・ 岡山美術館本
・ 薮本家本などがあり、元和末年以前の景観を示したものとみなしうる。と
ころで、伏見城天守閣を受け入れた二条城では、再建前の天守を淀城へ回すことになった。移築の功が終わったのは寛永三年 (一六二六)ごろとみられる。……ともあれ、 二条城は寛永期に入って、 新たに造営された本丸に天守閣をいただくことになっ た。したがって、以後の洛中洛外図における天守閣は、もはや二の丸御殿の背後にではなく、雲形をへだてた本丸の側にその (一七)
姿を認めることになる。このことは第二期洛中洛外図の景観年代を判ずる上での一つの指標ともなるだろう。
江戸時代の洛中洛外図屏風の景観年代の判断を主として二条城と伏見城とによってなされている。建築家城戸 久氏の城郭研究と 自身の政治史的事件についての判断などによるものであり、基本的に、以後の景観年代論に受け継がれていくことになる。
その上で武田氏は、二条城の前に繰り広げられた行列に、次のような着眼を着目している(二九
・ 三〇頁)
。
e 二条城の描写は、確かに重要な景観要素となっているが、むしろその存在よりも、城前での諸行事に特色が発揮されている ように思われる。いずれも二条城の歴史にとって銘記すべき盛儀であるが、それらも直ちに時代の動向を示唆するためのもの ではなく、近世京都にとって意義深い諸事象として扱われたものと解される。大別して、 行幸
・ 参内
・ 祇園会
・ 異国人朝貢な どの行列 となり、天下 太
マ平
マの余標として、それぞれ恰好のものであった。 寛永三年の後水尾天皇行幸 は、後陽成天皇の聚楽第 行幸以来の盛儀であり、 ……これを末代にまで伝えようとする洛中洛外図もいくつか現われ、 大道家本
・ 本田家本
・ 鶴来家本
反町家本
・ サントリー美術館本
・ 真野家本など多数にのぼっている。……
参内 は家康をはじめ秀忠、家光など慶長期から寛永 期にかけて、しばしばこれを行なっており、特定の時期として指摘しえないが、行幸に準ずる盛儀であった。行幸関係より景 観年代を遡らせる作品が多い。山岡家本
・ 林家本
・ 河合家本などを挙げることができる。
祇園会 については、奇異の感をいだ く向きもあろうかと思われるが、 近世初期では、 城前に神輿渡御のあったことも事実である。徳川将軍の観覧に供したらしく、 『義演准后日記
十九』元和元年六月十四日条にも、 「祇園会超過例年云々、将軍御在京故也」とあり、 『梵舜日記』では「祇園会 御輿還幸也、三社御輿二条之御城之前神泉苑神幸了、各女中衆御見物之由也」とあって、神泉苑へ向かう三基の神輿が城前を 練りゆく様が述べられている。勝興寺本
・ 岡山美術館本
・ 司馬家本
・ 滝沢家本などにおける図中の描写は、これと矛盾するも
のではない。 異国人の行列 も、四夷朝貢の観念にもとづいてのことであろうが、国の安泰、都の繁栄を象徴したものとみてよ い。南蛮人関係をあらわした薮本家本
・ 林家本
・ 北村家本に対し、守護家本では朝鮮人の一行をとらえている。
以上のように、 武田氏は、 二条城前の行列にも着目して必要な検討を加えている。この関心の延長線上に、 《第Ⅱ期》の大塚氏の論 (一八)
文もあると言えるだろう。
但し、この時期には徳川和子(東福門院)入内行列は、武田氏の視野にまったく入っていない。当時は、林原本の内裏にそれを見 る視点と関心がなかったのであった。内裏が寛永行幸や将軍参内においてどのように描かれているかも。さらに言えば、内裏の前に 向かう異国人行列にも注意が向けられていない。江戸時代の洛中洛外図屏風の分析
・ 読解は、だから《第Ⅱ期》に入ってからその進
展がはじまるのであった。
武 田 氏 の 第 二 期 洛 中 洛 外 図 屏 風 論 は さ ら に 続 き 、 江 戸 時 代 の 洛 中 洛 外 図 屏 風 の 全 般 的 特 徴 に つ い て 次 の よ う に 指 摘 す る (三 〇 頁) 。 f 第二期洛中洛外図の全般を観察するとき、初期の定型と著しく相異したものとなっていることは否定しえない。たとえば、 景観構成の中核的モチーフが次第にその特質を失ってゆくことと相まって、画面構成の緊密度も希薄化する。また、四季のリ ズムも一部の例外をのぞいては、ほとんど認められなくなる。かつて網羅された各階層の諸様相も、内裏、二条城およびその 近隣の所司代屋敷をのぞくと、 大半は町家の街並で占められ、 社寺霊所も町家に親しまれた名所にしぼられるに至る。つまり、 そ の 支 持 層 が 武 家 に と って 代 わ った こ と を 意 味 し て い る の で あ る 。 ……従 前 の 洛 中 洛 外 図 に 顕 著 で あ った 体 制 感 覚 の ヴ ィ ヴ ィッ ドな表出が、 すでに見られなくなったこととも関連する。江戸時代の京都を指して、 「皇都には長袖と職人多く、 大阪は商人多 く、江戸は武家のみ多し」と『皇都午睡』にも語られたように、名目上の都ではありえても、むしろ公家や社寺、さらには職 人の町としての性格を強く露呈せざるをえなかった。したがって、 この時期の洛中洛外図にみる趣向の多様さは前代の比では なくなる。一定の方式にのっとって時代的な展開をとげるのではなく、いくつかの類型がさらに相互に影響し合って、さまざ まなケースを生んだのである。
右の武田氏による巨視的観察は、傍線で示したような江戸時代の洛中洛外図の展開についての認識であり、同感する部分も多い。 研究がある程度進展した今日の地点からみれば、洛中洛外図の支持層の理解などは首肯できないけれども、それは《第Ⅲ期》の果た すべき課題の一つである。ともかく、江戸時代の洛中洛外図屏風の「さまざまなケース」を、武田氏は、次のように把握(分類)さ れているのである(三〇
・ 三一頁)
。 (一九)
g 先駆となる作例は山岡家本(原色版6 グラビア9)といえるが、右隻を失って、二条城を中心とする左隻の六曲屏風一隻 のみが現存している。油小路通りあたりから以西の洛中を全画面の約三分の二のスペースで前景におさめ、ひときわ大きく二 条城の存在と城前の行事が明示される。景観構成も緊密であり、背景へ向かうにつれてその度合いも強化される。図中にみる 阿国歌舞伎や二条城の結構からする景観年代からいっても、第二期におけるもっともオリジナルな作品といわなければならな い 。 こ の 系 列 は 、 勝 興 寺 本 (原 色 版7 グ ラ ビ ア 7) に そ の ま ま 継 承 さ れ 、 大 道 家 本
ビア とする洛中の街並のにぎわいに主眼がおかれているのを認めることができる。これらの一群に近似したものは、林家本(グラ 八六八号に紹介された洛中洛外図の景観構成も、かかる定型に従属する。勝興寺本による右隻の景観は、やはり祇園会を中核 合 家 本 に 連 な って い く 。 ま た 『国 華』 ・ 河
12
)と滝沢家本(グラビア
を と って い る こ と に あ る 。 ま た 洛 中 と 洛 外 と の 比 率 が 均 衡 し 合 う の も 見 過 ご せ な い 。 こ の 系 列 と し て 、 真 野 家 本 (グ ラ ビ ア 扱いは小さくなり、洛外の視野が拡大され、淀周辺を収めたこと、東西の町筋がいわゆる順勝手というあまり類例のない手法
19)であり、両者の景観構成はほとんど相等しいものとなっている。ともに左隻での二条城の
化し、描写事象を要約的にあしらったものとして、薮本家本(グラビア があり、とくに人事の描写に重点がおかれ、十二ヵ月の風俗を左右両隻に配合しているのも珍しい。画面構成の緊密度が簡略
21)
13・
14)をはじめ、反町家本(グラビア
35
)
・ 上田家本
(グラビア
27
)などが指摘され、それぞれ特色を示す。ともかく、この類型は以後かなりつくられたものと思われる。
武田氏の洛中洛外図屏風の把握は、景観構成による分類であった。 各洛中洛外図がどのような景観構成で描いているかに着目し、 そ の 特 徴 に よ って 整 理 し た の だ 。 大 ま か な 分 類 で は あ る が 、 基 礎 的 な 考 察 に と し て 不 可 欠 な も の で あ った と 言 え る だ ろ う 。 そ の 結 果、 第二期の定型の最もオリジナルな作品として、山岡家本(現
・ 京博本)が挙げられる。同本が左隻のみなので、それを補う洛中洛外
図 と し て 勝 興 寺 本 一 双 が 位 置 付 け ら れ た 。 こ の 山 岡 家 本 と 勝 興 寺 本 を 第 二 期 の 最 も オ リ ジ ナ ル な 作 品 と し 、 以 後 は そ の ヴ ァ リ エ ー シ ョ ンの展開として第二期の定型を把握するのが、武田氏の仮説なのであった。
山岡家本を第二期の定型の出発点におき、そこから以後の展開を見通すというのは、はたして正しい把握であろうか。そこが問題 の「核心」であるように思われる。そもそも武田氏は、変型と第二期の定型がほぼ同時期に出現しているとされる。とすると、江戸 時 代 の 作 品 で あ る 舟 木 本 の 景 観 構 成 論 も 不 可 欠 な の で は あ る ま い か 。 ま た 、 江 戸 時 代 の 洛 中 洛 外 図 屏 風 の 展 開 の な か で 、 舟 木 本 は ま っ (二〇)
たく「孤立」しているのであろうか。
「概説」を読んでいると、
江戸時代の洛中洛外図屏風の誕生期をどのように理解することができるかということと、 舟木本の制作時 期はいったい何時頃なのかという把握とが表裏一体の問題となっているのだが、武田氏はそれに触れておられない。つまり、その問 題を解決
・ 解消することが、江戸時代の洛中洛外図屏風論にとって懸案の課題として浮かび上がってくるのである。
h 右 に み た 洛 中 洛 外 図 に 対 し、 さ ら に 洛 中 の 景 観 を 精 彩 に 伝 え る の は、 岡 山 美 術 館 本( 原 色 版 8 グ ラ ビ ア
10
・ 工の町」といわれた面影を彷彿させるものがある。本田家本(グラビア 都における諸師諸芸や諸職名匠が数々列挙されているが、図にみる店々の暖簾を通じて読みとれる諸職の繁栄は、まさに「百 かのように盛りだくさんに描き込む。町筋の店頭は、職人尽図をおもわせるごとき観を呈している。 『京羽二重
巻六』にも、京 型とする一群である。ここでも、画面三分の二までを洛中にあてるが、緊密な構成は町並にも及び、あたかもそれを圧縮する
11) を そ の 典
25
)やサントリー美術館本(グラビア
村家本(グラビア 型に入るべきものといえる。これとは別に、洛中と洛外を明瞭に区分することによって、洛中のにぎわいを克明に描写する北
28)も、この類
15)や司馬家本(グラビア
社寺を配布したものとなる。図様構成できわめて共通した守護家本(グラビア
20)も特色を発揮する。洛中の人間模様に対し、洛外は自然風景を主体として諸
したものである。
24)と鶴来家本は、かかる手法を端的にあらわ この記述によれば、 岡山美術館本( 林原本 )は、 京都を諸職の繁栄した姿で描きだした洛中洛外図屏風群の代表となり、 山岡家本
・
勝興寺本を代表とする系統の洛中洛外図屏風よりも後に制作されたものとして位置づけられているといえよう。すでに紹介した私の 新出本
・ 林原本についての仮説では、寛永期の洛中洛外図屏風を代表する作品として、新出本
・ 林原本を位置付けているので、hの
仮説は、私のそれと合致している。
以上のgとhに対し、さらにその後の洛中洛外図の展開についての武田氏の見通しが、次のように述べられているのである。
i 逆に、もっぱら洛外への関心にもとづいて、景観を構成する作品も現われた。江戸時代に地誌や名所案内記が続々刊行され (二一)
た こ と は 周 知 の 事 柄 で あ る が 、 と り わ け 京 都 に 関 す る も の は 多 種 に わ た って い る 。「都 絵 づ く し」 や 「都 め ぐ り」 な る 語 が 流 行 したことからもうかがえるように、洛中よりむしろ洛外に多く散在する諸名所に興趣をいだくとき、次章でいう名所風俗図に 類 似 し た 洛 中 洛 外 図 が 求 め ら れ る こ と に な る。 寂 光 院 本( 原 色 版
11
グ ラ ビ ア
22
・ わば点ぜられるにすぎない。……この種のものは他にもいくつかあったと思われる。中井家本(グラビア 形に分節される自然景観の各所におもだった諸名所を配布したものである。洛中の一部ものぞくが、広闊な風景描写の中にい
23) は、 画 面 の 大 半 を 洛 外 に ふ り む け、 雲
は問題もあろう。その点、細見家本(グラビア く洛外にのみ視野を極限する。ただし、これはあまりに地図風のものであり、洛中洛外図のジャンルとして適切であるか否か
36)においては、全 j ……この他、特定のモチーフを屏風画面に強調した特殊例として、山岡家本(原色版
34)は洛中洛外図からの変容を如実に物語っている。
10
、グラビア
本(グラビア
17)は祇園会を、細見家 を受けた一面もあるように思われる。……
34)は四条河原を極度に大きく扱っている。これらも次章の分脈で述べる祇園祭礼図や四条河原図などの逆影響 以 上、 長々と 引 用 し て き た 。 武 田 氏 の 「概 説」 の 卓 越 性 と 重 要 性 ゆ え で あ る 。 今 後 の 江 戸 時 代 の 洛 中 洛 外 図 屏 風 論 は 、 研 究 の 「壁」 にぶつかったならば、必ずこの「概説」再検討に立ち戻るべきだ。そう言いたいのである。
なお、第二期の定型という武田氏の把握は、舟木本についての積極的な言及を欠いた見通しなのである。舟木本の積極的な位置付 けを欠いた江戸時代の洛中洛外図屏風論というのはまだ「未完成」というべきであろう。
事実、この武田氏の把握とは異なる(というより、舟木本の位置付けにおいて異なる)見解が、辻 惟雄氏によって一九七六年に 提示されたのであった。それが、 6辻 惟雄編『洛中洛外図』 (『日本の美術』一二一、至文堂、一九七六年) である。その章立てを 示すと、次のようになる。
まえがき 洛中と洛外
―京都の沿革 洛中洛外図の成立 (二二)
定型の成立と展開 町田屏風 東博模本 上杉屏風 洛中洛外の変容―聚楽第図屏風― 第二の定型の成立―山岡本
・ 勝興寺本―
第二の定型の展開と変形(岡山美術館本
・ 舟木屏風など)
洛中洛外図の終焉
右の辻氏の論述は、 「定型」と「第二の定型」という用語に明瞭なように武田氏の概説を承けてのものだが、 しかし、 明瞭に異なっ た把握がなされている。とくに 「洛中洛外の変容―聚楽第図屏風―」 以降の記述には、著しい相違点が明示されているのである。す なわち、辻氏の仮説についても、江戸時代の洛中洛外図屏風論に絞って示すとしよう。
まずは、 「 洛中洛外の変容―聚楽第図屏風―」 である。辻氏は、 洛中洛外図の変容を、 聚楽第図屏風で代表させて、 次のように述べ る(五九~六一頁) 。
イ 関白となった秀吉は、天正十四年(
一五八六)当時さびれて内野とよばれていた場所
―堀川をへだてて内裏とほぼ東西に並ぶ 地点で、現在の二条城の北方にあたる
―に広大な敷地を占める聚楽第建造をはじめ、建物は翌年二月にほぼ竣功した。天正十 六年四月、後陽成天皇行幸のはなやかな舞台となったこの建物は、単なる邸宅でなく、天守を備え堀をめぐらした、むしろ城 と呼ぶにふさわしいものであり、これに続くお土居や寺町建設など、秀吉による新しい城下町としての京都改造計画の中心と なるものであった。
「聚楽第図屏風」は、
この新しい京都のモニュメントを、 東南方から展望したものである。……この屏風は、 いまや工事を終 え、秀吉の移徙もすみ、行事を待つばかりの天正十六年春の聚楽第の偉容を描いたものと考えられる。画の様式的特徴から見 (二三)
て制作年代もまたそのころであろう。
この屏風の筆者について見当をつけることはむつかしい。人物の描写には、上杉屏風のそれのような活気がなく、おだやか で細心な点、むしろ町田屏風のそれに近い要素を指摘できる。おそらく、永徳とともに聚楽第の障壁画制作にも当たった狩野 派の画工ではあろうが、永徳よりも古風で、やまと絵系の手法
・ 感覚になじんだ人物と推察される。……
秀吉は、天正十九年、関白の位とともに聚楽第を養子の秀次に与えたが、文禄三年(
一五九四)秀次謀叛の噂に激昂して切腹 を命じ、 聚楽第はこの折解体されてしまった。聚楽第図屏風は、 絵画作品として上杉屏風に比肩されるようなものではないが、 安土城におとらず短命であったこの建物のおもかげを伝えるほとんど唯一の資料として、また、この時期における洛中洛外図 の遺品の欠如を補うものとして貴重である。
基 本 的 に は 、「武 田 氏 の 卓 見」 (山 根 氏 2 に よ る) で あ る 聚 楽 第 図 屏 風 の 位 置 付 け を 継 承 し た 上 で の 文 章 で あ る こ と が わ か る だ ろ う 。 右を踏まえて、第二の定型の成立についての次の記述へと入る(六二~六五頁) 。
ロ 慶長五年の関ヶ原の戦で、覇権の基礎をかためた家康は、翌年、聚楽第の南方、神泉苑の北に接する土地に二条城を築き始 め、城の全容は慶長十一年にほぼ整った。この城は家康の上洛の際の宿所に充てられたもので、軍事的意味はさほどなかった が、慶長八年の家康将軍宣下、慶長十年四月の秀忠将軍宣下の折などに、典礼の城として脚光を浴び、それは豊臣氏に代わる 新たな京都の君臨者としての、徳川氏の権威の象徴でもあった。
山岡氏蔵 六曲一隻屏風 (以下山岡本と略称 第5
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