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ン ド ゥ の r 唯 識 」

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(1)

ヴァ

ンドゥのr唯識﹂

新しい翻訳および解説

十論﹂

1 翻 訳

 雇  蓮 翻十 論

訳L

大乗において︑一.一つの領域は唯識/知覚のみとして確定される.︑

F

おお︑勝利者の息rたちよ︑まことに︑これはチッタのみである一

と︑経典に言われているからである一チッ4﹀x f citt.a︶︑ マナス

nlanas一︑ヴィジニャ−ナ﹁ぐご百巴ρ︹二︑およびヴィジニャプティ

vijfiapti Jは同義語である▽チッタ﹇︑という1.T口葉によって一ここ

意朱されるのは︑︹それに一随伴しているもの﹁チャイタ一と共

      ヘ  へ

 Lチッタそのものである︺︐︐ sみ・目剖言餌﹇というil口葉一は︑︹外

界の一指示対象︹江︼芸巴を否定するのに役立つ.︑

      ヴァスバントゥの﹁唯識ニトー論ヒ﹁湯川︶

      かア これ/宇宙は︑まさに︑唯識/知覚のみである︒存在してい        デみ ない一外界の︺指示対象が現われるからである.︑目の霞む病気

人が︑存在しない網のような毛髪などを見るような

ものである.1

これに対して︑人は﹁次のような一異議を唱える

もしも︑知覚が︑﹇外界の﹈指示対象なしに起こるのでなけ

ば︑

       ニ   

所と時間の限定︑﹇知覚の一瞬間の流れの非限定︑および

効用を生み出す作用が存在するというのは正しくない︒2

何が111:われているのか? 形/色などの﹇外界の﹈指示対象なし

に︑形/色などの知覚が生じるならば︑なぜ︑︹その知覚は︺どこ

か︑ある所で生じ︑.至るところで生じないのか? そして︑まさに︑

なぜ︑それはiその同じ場所において︑いつか︵ある瞬間に︺生

じ︑常に生じないのか? 毛髪などの幻影が︑目の霞む病気にかかっ

                                                                 1

(2)

      法華文化研究︹第︑.十..㏄三

る人々の﹇識/知覚の一瞬間の流れにおいて生じ︑他の人々の

間の流れにおいて生じないように︑その場所およひその時間に位

置している︑すへての人々の瞬間の流れにおいて生じ︑単に一人の

瞬問の流れにおいて生じないのは︑なぜか? mの霞む病気にかかっ

る人々によって見られる毛髪︑蜂なとは︑それによって毛髪な

どの作用が果たされていない一︑けれども︑他の毛髪などによってそ

作用が果たされないことがないのは︑なぜか? 夢の中で見られ

る食べ物︑飲みもの︑衣服︑毒︑武器など﹁の中の︑どれかあるも

のl︑それによって︑食べ物などの作用が果たされていない しか

し︑他の食べ物などによって︑それ一その作川一が果たされていな

ことはない.一存在しないゆえに︑ガンダルヴァの都城によってナ

ラ・都城の作用は果たされないしかし︑それと異なる都城﹇

実に存在する都城一によって︑それ一ナガラの作用一か果たされ

ないことはない︒.それゆえに︑﹁外界の 指示対象が存在しない時

は︑場所と時間の限定︑﹁知覚の﹇瞬間の一流れの非限定﹇瞬間

流れが一人だけに限定されないこと一︑および︑効用を生み出す

作用が存在するというのは.正しくない

答え一  良く知られているように︑それが正しくないという

ことはない

夢におけるように︑場所などの限定は成立している糖

らである︒夢におけるようにというのは︑夢の場合のように︑と

うことてある ところで︑どのようにして︑一それは成立してい

るのか?一一夢においては︑一外界の一指示対象がなくても︑至る所

おいてではなく︑まさに︑どこか︑ある場所において︑蜂︑遊園

地︑女性︑男性などが見られる︒そして︑その同じ場所において︑

れらの中の︑どれか一あるものは︑ある時に見られるが︑いつ

も見られるのではない︑と︑そのように成立している一.・外界の﹁

指示対象がなくても︑場所と時間の限定は存在する

 .史に︑一知覚の一

おけるように舳 瞬間の流れの非限定は︑餓鬼一三.︵そ二に

成立している︑と続く..餓鬼におけるように︑というのは︑餓鬼

場合のように︑ということであるどのようにして︑それは成立

るのか? 等しく︑

鬼の すへてによって︑膿河なとが見られる場合に 翫

膿河一とは︑膿によって満たされた河のことである ﹁溶かし

ターの壷一というようなものである︑なぜなら︑同じようなカル

(3)

ン/前世の行為の熟成した状態にある︑すべての餓鬼が︑︹存在

していない︺膿河を見るのであって︑一人だけが︹膿河を一見るの

ないからである︑膿によって満たされた﹇河を︑彼らが見る︺

ように︑このように尿や糞などに満たされ︑梶棒や剣を持っている

      ヘ  へ の﹂守衛によって監視されている︹膿河を︑すべての餓鬼が

るiということも︑﹁膿河︺など︹という言葉︺によって理

されるからである︒このように︑︹外界の︺指示対象が存在して

なくても︑もろもろの識/知覚の瞬聞の流れの非限定は成立して

る︒

       そニな 一切の効用を生み出す作用は︑夢において損われている/射

精しているように﹄

成立している︑と知られるべきである︑夢の中で︹男女のL一組が

会うこと/性交することもないのに︑精液を射精することによって

特徴づけられる︑夢において損われていること/夢精があるような

ものである.︑このように︑まことに︑あれこれ︹さまざま﹈の実例

よって︑場所と時間の限定などという四重の論点が成立している

ある︑

更に︑

獄におけるように︑︹これらの四つの論点の一

ウァスハントゥの﹇唯識..卜論一⌒湯田︶ すべ

成立している︑と知られるべきである.二地獄におけるよう﹂とい

うのは︑地獄の場合のように︑ということである︒︹地獄の場合に︑

時間と場所の限定などという四つの論点は︺どのように成立して

るのか?

人が﹂地獄の守衛などを見ることによって︑そし

て︑彼らによって拷問されること﹇を︑地獄の住人が経験する

と﹈によって︒朱

すなわち︑地獄において︑地獄の住人にとって地獄の守衛などを

見ることが︑場所と時間の限定によって成立しているからである.︑

      ヘ へ      かろすそして︹地獄の守衛﹂などという言葉によって︑犬︑烏︑鉄の山な

どの去来を見ることが理解されるからである︒︹地獄の状態を経験

している﹈すべて﹇の地獄の住人一が︹それらを見るのであって︸︑

1人だけが ︵それらを見るのでは一ないo地獄の守衛などは存在し

ないけれども︑︹前世における︑彼ら︺自身の行為に止ハ通する

支配権這合三簿蔓竺ゆえに︑彼ら︹地獄の守衛﹂によって

課せられたL彼らの拷問は成立する︐︑同様に他の場合にも︑場所

と時間の限定などという︑この四重﹇の論点の︺すべては成立して

       1.

(4)

華文化研究︹第...卜..号︸

る︑と知られるべきである1

反論一.−しかし︑どういう理由から︑地獄の守衛︑および犬︑

および烏は︑生きものであると認められないのか?

答え﹈−: ﹇彼らの存在することは﹂ふさわしくないからであ

る︒なぜなら︑地獄の住人である彼ら﹇地獄の守衛など﹂は︑︹存

在するのに︺ふさわしくないからである︑一地獄の守衛などは︑地

落ちた人々の﹂その苦しみを︹彼らと︑まったく同様に感じな

らである︒彼らが︑互いに︑それぞれ︑苦しめるならば︑彼ら

落ちた一地獄の住人である︑彼らは地獄の守衛であると

い・o︑ f.相互を区別する﹂特殊性は存在しないであろう︒そして︑

彼らが等しい形︑大きさ︑力を有し︑互いに苦しめるならば︑﹇地

住人が地獄の守衛を﹂そのように恐れることはないであろう︑

       ニぐドコおひ

え上がっている︑鉄から成る大地において灼熱の責め苦に耐え

られないのに︑どうして︑彼ら︹地獄の守衛﹂は︑そこにおいて︑

ものたち一地獄のdi人 iを苦しめることが出来るのか? ある

人でない彼らが︑どうして︑地獄に生まれるのか?

反論一⁝⁝どうして︑動物/畜生は天に生まれるのか? ︹そ

ことが認められれば﹂︑このように︑動物あるいは餓鬼の特殊の

質を有する地獄の守衛などが地獄に生まれるであろう︒

物/畜生は︑天に生まれるように︑そのように︑地獄に

まれ︺ないU

餓鬼も﹇地獄に生まれLないo彼らは︑そこで生じる苦しみ

を経験しないから︒5

に︑天に生まれる動物./・畜生  彼らは︑彼らの環境に快楽を

もたらす︑﹇過去の﹂カルマン/行為ゆえに︑そこで生じる快楽を

個別に経験する︒しかし︑地獄の守衛などは︑地獄の苦しみを個別

しない︑それゆえに︑動物も︑餓鬼も︑一地獄に﹈生まれる

ことは︑ふさわしくない..

れから︑実に︑﹇次のように論じられるかも知れない︺  地

人の行為ゆえに︑そこに︑色︑形︑大きさ︑力によって区別

された特殊の物質的な要素二旨口言﹂が生じ︑それらが地獄の守衛

などという名前を得る︒そして同様に︑一物質的な要素が︺転変し︑

を生じさせるために︑﹇人は一手を振るなどという︑さまざま

来するように見え︑そして︑シャールマリー樹林において棘が下を        とば 動作をしているように見える︐例えば︑雄羊の形をした山々が去

向いたり︑上.を向いたりするように見えるようなものである︒それ

ら﹇の現象﹂が︑まさに生じないということはない︒

答え一

答え一

(5)

もしも︑彼ら一地獄の住人 のカルマン︑行為ゆえに︑そこ

おいて物質的な要素の生起︑そしてまた︑一それの一転変が

られれは︑

どうして︑識︑知覚の一生起と転変が 認められないのか?

6

彼らの﹁前世の.一行為ゆえに︑識/知覚そのものの転変が︑

して認められないのか?

それに反して︑どうして物質的な要素が想定されるのか?

また︑

行為の薫習..行為から生じる潜在的エネeギ−は︑

ある所に︑結果.・果報は他の所に想定される.

潜在的エネルギーが生じる所︑まさにそこに一結果

られない.その理.由は何か?7 更に どう

どこか︑

果報は一

実に地獄の住人の行為によって︑そこ一一地獄一に︑そのような

質的な要素の生起と転変か想定され︑その行為から生じる潜在的

ネルギーは︑彼ら一地獄の住人一の識 知覚の瞬間の流れの中に

宿っているのであって︑それ以外のところに一宿っているのでは一

ない.︑そして︑薫習︑潜在的エネルギーが存在する一まさに︑そこ

      ヴ﹁.−スハンドうの     ⌒湯川︺

おいて︑それ一潜在的エネルキー一の結果︑果報が︑そのような

識 知覚の転変であると︑なぜ︑認められないのか? 潜在的エネ

キ−が存在しない所に︑それの結果 果報が想定される︑と1111:わ

るが︑これに対する理由は何か?

反論   その理由は︑経典一の証三U一である︑もしも︑形

色などとして現われる識 知覚だけが存存し︑形.色などの指示

対象が存在しなければ︑その時には︑形.・色などの﹇十ilの﹂領域

[I

Ytlt﹇MtUは︑世尊.ブッダによって説かれなかったであろうー︑

え一

これは理由ではなCなぜなら︑形/色などの領域の存在は︑

それによって教化されるべき人々に対して︑

定の一意図によって説かれた︑白然に生じた生きもの︑

場合におけるようなものである.8 からである︑

それは自然に生じる生きものが存在すると説かれる場合のようで

ある 一特定の一意図によってチッタの瞬間の流れか未来において

断絶しないことを意図して︑一そのように︑世尊によって説かれた

ある一 一ここには︑生きものも︑あるいは白已も存在しない︑

しかし︑原因によって伴われる︑これらのダルマ.瞬間的な出来事

は一存在する二と︑そのように︑﹁世尊によって1 1i.口われている

       .五

(6)

      法華文化研究二弔..ト..り 

らである一 このように形 色などの一知覚の一.領域の存在も︑

その教えによって教化されるへき人々を顧慮して︑世尊によって説

れた.それゆえ︑一世尊の その.︑..口葉は︸特定の意図を百する

この場合︑l特定の︺意図とは何か?

それから﹇識 知覚が生じる一それn身の種rゆえに︑それ

らの出現が識知覚として存在しているゆえ︑

それ自身の種了およひ種了の出現という一それらの双方を︑

賢者︑/ブッダは二重の領域であるものとして語った 9  ニ

それによって一何が言われたのか?

形色として現われる識知覚が﹇識

の一特殊な転変の達成から生じる..

形.色として一現われる︑それ一識

および形︐色の領域てあるものとして︑

ある.

切の識 知覚が説明される一

知覚の瞬間の流れにおける

生じる t一そして︑その種子およひ

れるそれ一識 知覚 の双方を︑世尊

知覚の身体︑および触知され得るものの

        こ

      の       よ

         う

   に   触

      矢[|

         し

   得      る

 特 も 殊 の 触転 し

_の と

知変ててさのれ現 れ達日わ得成身れ

るかのる

もら種識

の    ]

と をし 通t て じ

それ自身の種.rによって︑

知覚の瞬間の流れにおいて︑

して︑その種.ゴ︑およひ

知覚一の双方を︑眼 視覚

世尊は︑順次︑語ったのて

知覚に至るま

 一識 知覚か

ブッダは︑順次︑その識

 二︑乖の一領域であるもの として語った これか一特定の一意図てある

しかし︑このように

トがあるのか?

ように︑

は一入るg

ノN

特定の 意図に從って教えて︑何のメリッ

に︑個人に自己の存在しない状態の中に一人

ように︑まことに教えられている時に︑個人の自己を¢しな

中に︑人々は入るのである二重であるもの=.つの領域一

ら︑六種類の識 知覚が現われる.しかし︑とんな唯︑の見て

るもの一唯一の聞いているもの︑嗅いでいるもの︑味わっている

もの︑触れているもの一ないし︑考えているものも存在しない︑と

知り︑個人のn己を灯しない状態に関する教えによって教化される

き人々は︑個人に自己は存在しない状態の中に人るのか?

 .史に︑別の仕方で︑﹁この一教えは︑ダルマ 出来事に自己

存在しない状態の中に人ること を意味するの である 旧

別の仕方で一というのは︑唯識 知覚のみについて教えること

ある どのようにして︑ダルマ 出来事に自己の存在しない状態

(7)

中へ﹇人は﹈入るのか? この唯識/知覚のみが︑形.︑/色などの

ダルマ/出来事の外観を帯びて生じるのであって︑形/色などによっ

特徴づけられるタルマ・/出来事は︑何も存在しない 形︐・︑色なと

自体は存在しない﹂と︑そのように知って︑︸人は︑出来事にn己

存在しない状態の中へ入る二

反論﹂  その時には︑ダルマ/出来事は全然存在しないの

あって︑唯識/知覚のみも存在しないということになる︑その時

に︑どうして︑﹇唯識/知覚は一確立されるのか?

︑答え﹈  あなたが気づくべきように︑出来事が全然存在し

ないと考え︑このように︑ダルマ/出来事が自己を有しない状態の

中に﹁︑人が﹈入るのではない︑そうではなく︑

関して︑唯識/知覚のみによってさえ︑白己の存在しない状態の

中に﹁人は﹈人るゆえ︑唯識︒知覚のみを確立することによって︑

切のダルマt出来事に自己の存在していない状態の中に1人は一

るのであって︑それらの存在を.否定することによってではない.︑

なぜなら︑そうでなければ︑﹇ある一識/知覚にとっても︑他の識

知覚か指示対象であり︑それゆえ︑唯識/知覚のみであることは

成立しないであろうから︒もろもろの識/知覚は指示対象を有する.

反論一  あるいは︑この意図ゆえに︑世尊によって形/色

などの領域の存在が説かれ︑あるいは︑形︐・色などの個別的な感覚

対象になる︑それらの事物が︑まさに︑存在しないということは︑

どのようにして認められるのか?

/想像された自己に関して一人は︑そうするのであるL

答え一なぜなら︑

10c

感覚対象は一つでもなければ︑幾つかでもない︑原子の視点

愚かな人々によって想像/捏造された︑把握されるべきもの/知

覚される対象︑および︑把握するもの/知覚しているド体から成る

ダルマ︑/出来事の本来の性質/日性に︑彼らによって想像された

自己に関して︑自己は存在しないのである しかし︑もろもろのブッ

ダの領域である︑言語に絶しているアートマンに関しては一そう

は﹂ない︒このように他の識.∫知覚によって想像されているn己

ウ↓︐スハンドゥの1唯識一.卜論 へ湯田﹁

ら..

また︑集合している︑それら

ない︑原子は成立しないゆえに

l原r一は︑﹇感覚対象では﹂

11

何が言われているのか? 形/色などの一つの感覚対象である形

色などの領域は︑例えば︑ヴt︐イシェーシカ学派によって想定さ

(8)

      法華文化研究︵第...卜..号﹁

れる﹇ような一︑全体から成るもののように1つであるか︑あるい

は︑原子の視点から︑幾つかであるか︑あるいは︑まさに︑それら

原子の集合しているものであるかのいずれかである︐.最初に︑感

はlつであるものにならない︐一諸部分と異なる︑全体から成

るものは︑どこにおいても把握されないからである//それは︑幾つ

ものでもない︒諸原子は︑ひとつひとつ︑把握されないからで

ある.一それら一の原子﹂の集合しているものも︑感覚対象になら

ない..一つの実体としての原rは︑成立し得ないからである︑どう

して︑それは成立しないのか?

原陥Lが同時に結合するゆえ︑原子は六つの部.分を

      1有するこ% からである.

は六つの部分を有するようになる︑︑ 一つ ﹁の原子︺の ﹇存在する﹈        じ 角から六つの.原子が同時に結合する場合︑ 1つの原子

場所︑そこには他のもの﹇他の原子一は存在しないからである.︑

に﹂︑六個 1.の原.r﹂

なるゆえ︑

それらの一ひと塊は

        1なるで﹂あろう..蛎

とって共通の場所があることに

原rの大きさを有する.こと

さて︑iつの原子の﹇占める﹂場所は︑六個の﹇原子の場所﹂に

ならない一と.言われるかも知れない1その結果︑すべての﹇原

+1にとって共通の場所があることになるゆえ︑すべての﹇原子の︺

       ごピ  の一原子の大きさを有する一ことになるで一あろう..

原子は一相互に排除する﹁すなわち︑別々でない一からである︑

ゆえに︑どんな塊も目に11えないであろう︑実に︑原子は︑

全然︑結合しない−jそれらは﹂部分を有しないからである︑﹁この

ような過失に陥らないように!一そんな馬鹿げたことを︑われわれ

言っていない.しかし︑塊/集合体になった時に︑それら﹇の

原子一は相圧に結合する﹂と︑そのように︑カシュミールのヴァイ

 inシカ 説一切有部は11xZう.︑しかし︑彼らは︑次のように問われ

るへきである− .諸原.丁の塊/集合体︑それは︑それら一原子自体︺

と異なるものではないのか? と︐︶

原子が結合しない場△口︑その場合︑何の塊./集合が存在する

    1? 函 結合一という言葉が﹈続く︒

また︑一原.rは一部分を有しないことのゆえに︑それらの

       ゴ  コ

原子の一結合は成立しない︑鋭

それから︑塊 集合体は相亙に結合しない.︐その場合︑諸原子は

(9)

部分を有していないゆえ︑﹁原了の﹈結合が成立しない︑と︑その

ように言われるべきではない︒なぜなら︑部分を有する塊/集合体

場ム﹇でさえも︑﹇原子の﹂結合は容認されないからである︒それ

え︑1つの実体としての原子は成立しない..そして︑原子の結合

められようと︑あるいは認められまいと︑

角の︑区分が存在するそのもの︑

      ーること︺は適切ではない︒ね そのものに単一性︹を想定

実に︑前︹東︺の方角の部分ないしドの方角の部分は異なると︑

そのように方角の区分が存在する時に︑どうして︑それら︹の方角︺

ら成り立つ原子の単一性が適切であろうか?

? あ

    る

14b い    は

そうでなければ一︑どうして︑影と遮蔽があるの    こり

 1つ1つの原子に方角の区分が存在しなけれは︑太陽が昇る時に︑

どうして︑ある場所に影が存在し︑他の場所に日光が存在するのか?

なぜなら︑そこには日光の存在しない場所は存在しないであろう

ら.︑そして方角の区分が認められなけれは︑どうして︑他の原子

よる︑ある原子の遮蔽が存在するのか? なぜなら︑﹇他の︺原

      ヴ呵︐スハントゥの一唯識ニーr論=湯川︶ 子の到来によって︑ある﹇原子︺によって他の︹原子︺が遮蔽されるような︑どんな他の部分も︑原子にとって存在しないからである︒そして︑遮蔽.︑衝突が存在しなければ︑すべての﹇原子︺は同lの

あるゆえ︑すべての﹁原子の︺塊/集合体は﹇二つの︺原子

大きさを有する﹇ことになる︺であろうと︑そのように﹁すでに︺

言われている.︑

反論﹈−−影と遮蔽は塊/集合体に言及しているのであって︑

原子に︹言及しているのでは︺ない︑と︑そのように認めら

ないのか?﹁と論じられるかも知れない︺︒今︑わたくしが気づ

るように︑原子︹そのもの﹂と異なる塊/集合体︑それに

影と遮蔽の︑一双方か.言及すべきであると認められるのではないの

? そうではない︑と一人は答えるかも知れない︺︒

そして︑塊/集合体が︹原子と︺異なるものでなければ

       1と遮蔽の﹈双方は︑それ︹塊/集合体︺に言及しない︒血

もしも︑塊/集合体が原子と異なるものであると認められなけれ

ば︑︹影と遮蔽︺の双方は︑それ﹇塊/集合体︺に言及して起こる

と︑そのように成立するはずがない/証明されない︒

反論︐一 これは︑一︐心的な一構造の設定である︒原子で

あれ︑あるいは﹇原子の一塊/集合体であれ︑形/色などの特徴が

      九

(10)

      法華文化研究︵第一︑.卜.︐号︶

されなければ︑︹これらについて﹈このように考察することは

        あろ

答え︺  改たあて︑それらの特徴は何か?

論一  眼/視覚などの﹁感覚﹈対象であること︑および

青いなどということである︒

答え︺  まさに︑これが吟味される︹べきである三︶青い︑

黄色いなどということが︑眼/視覚などの感覚対象として認められ

るならば︑︹その感覚対象は︑ 一つの実体なのか︑あるいは幾つか

多数の実体なのか︺?

論︺  そして︑これから︹何が起こるのか︶?

答え︺  幾つかであること/多数であることの場合におけ

る過失は︑︹原子の塊/集合体についての議論に関連して ﹈すでに

述べられた︒

などの感覚対象が﹈単一の場合︑徐々に歩むこと

はなく︑同時に把握し︑しかも把握しないことはなく︑

分離されている幾つかの存在︑および︑微細なものを見ない

ことも︑あり得ないであろう︒15

中断されず︑幾つか/多数でない限り︑眼/視覚の感覚対象とし

1

体が想定されるならば︑︹その時には︺大地を徐々に 行く︑すなわち︑歩むということはないであろうという意味である

を﹈.度︑足で踏むことによって︑人は至る所に行った﹇こ

とになる一からである︑同時に︑前の部分を把握し︑しかも︑後ろ

分を把握しないことは︑存在しないであろう︒なぜなら︑その

時に︑二つである一そのものを一同時に一把握し︑しかも︑把握

しないということは適切でないからである︒象︑馬などのような︑

分離されている幾つかのものが︑幾つかの場所に存在すること⁝

ないであろう︑なぜなら︑ ﹇つ二頭の象︑あるいは馬一が

存在するその場所に︑他のもの﹇他の象あるいは馬﹁が存在すると

れば︑どうして双方の分離が認められるのか? あるいは︑とう

して二頭の象と馬の︸双方によって到達され︑しかも到達されて

ない場所が︑ 1つ rg場所﹈である︹と認められる︺のか?

され︑そして到達されていない二つの場所の﹈中間に︑空虚

な﹇場所﹈が把握されるからである︒そして︑微細な︑水中に棲む

物は︑粗大な生物と同じ形質を¢しているのであって︑それらが

見られないということはないであろう

      プリ  ナ ゆ

別の仕方でではなく︑まさに特徴の区分によって実体の相違が想

定されれぱ︑この理由から︑必然的に原子の区分が想定されるべき

ある︒そして︑それが1つであることは成立しない︒それが成立

していない場合︑形/色などが眼.・/視覚などの感覚対象であること

も成立していない︒かくて︑唯識/知覚のみが成立する︑と=lu口わ

(11)

るのである一︒

反論一  認識壬段によって︑︹眼/視覚などの感覚対象の︑

存在︑あるいは非存在が決定される︒そして︑すべての認識丁段の

中で︑知覚という認識手段が最も重要である︒かくて︑指示対象が

存在していない時に︑どのようにして知覚という︑この認識は存在

るのか?

知覚による認識は︑夢などにおけるように星じる﹈臨

指示対象がなくても︹それは生じる︺

らされたのである︒ と︑そのように︑それは︑

そして︑それ﹇知覚による認識︺が︹生じる︺時︑その時︑

その指示対象は見られない︒

どうして︑それは知覚される状態であると見なされ︹得一る

    1?8

して︑﹁これは︑わたくしの知覚である﹂と︑そのように知覚

よる認識が生じる時︑その時︑その指示対象は見られない︑まさ

に︑思考による知覚︹∋きoぐ言蓼巴によって︑︷このように一

     ヴァスハンドゥの 唯識一.卜・se. 1 ︵湯田︶

別されるからである︒そして︑その時には︑眼識/視覚の識は

に﹈滅しているからである.︑どうして︑それの知覚されてい

る状態が認められているのか? ﹇このように思考による識 知覚

よって︑識別される︺その時に︑特に︑瞬間に滅する指.小対象

その形/色あるいは味などは︑まさに︑﹇すでに﹈滅しているの

ある.︑

反論一  経験されていないものは︑思考による識・知覚に

よって想起されることはないかくて︑必然的に︑指示対象が経験

されねばならない.︑そして︑それが見ることである一.かくて︑この

ように︑それ﹇見ること﹂の指示対象である形/色などが︑知覚の

状態であると見なされている︒

答え﹂  経験されている﹁感覚の 指示対象を︑このよう

想起することは成立していない一.

どのようにして︑識/知覚がそれの出現を伴って 生じるか︑

       1は︑すでに一述べられている︐拍 からである一

たとい︑指示対象がなくても︑指示対象の出現を伴う眼識 知覚

識などの﹇形態を帯ひる﹂識/知覚が︑どのように生じるか︑

そのことは︑すでに述べられている1

(12)

   法華文化研究⌒第...十.︑号︶

それから想起/記憶が一生じる一

らである・

1

それから﹂というのは︑﹁識︑知覚から﹂﹇を意味するL その

出現そのものが想起/記憶と結び付けられている時︑色/形などを

識別する意議/思考による識が生じる︐かくて︑想起/記憶の出現

によって︑﹁外界の﹈指示対象の経験は成立しない︒

反論﹂  夢の中の存在していない事物/指示対象を感覚対

象として有する識/知覚のように︑目覚めている時にも︑まったく︑

りであれは︑それ一指示対象﹂の非存在を︑世間の人は︑み

ら理解するであろう.︑しかし︑実際には︑その通りではない︑

ゆえ︑指示対象の知覚が︑夢におけるように︑一切の指示対象

を有しないということはない.︑

答え﹂

これ﹇この議論一は︑一望ましい識./知覚を︑われわれに﹂知ら

るものではない. する対策/対治である︑識別を離れた出世間的な知識を得ること で︑それの非存在を正しく理解しないuしかし︑それ一識別一に対 存在していない事物 指.小対象を見ながら︑まだ目覚めていないの

よって人が目覚めるならば︑その時には︑それ﹇出世間的な知識 

に続いて得られる︑清浄な世間的な知識が︑ありありと思い浮かへ

られる︐ド現前するゆえ︑感覚対象の非存在を︑人は正しく理解する一.

くて︑これは︑﹇人が目覚める場合と﹂同じである.

反入訓︺  みずから白身の﹁識 知覚の︺瞬間の流れの特殊

な転変によってのみ︑生きものにとって︑指.小対象の出現を伴う識

知覚が生じ︑特殊の指示対象によって﹇そうて︺なけれは︑その

時には︑悪友あるいは良い友との交際によって︑あるいは存在して

る︑そして︑存在していないダルマを聞き知ることによって︑

きものにとって識.知覚の限定が︑どうして成立するのか?

指示対象が存在しなければ︺︑良い友︑あるいは悪友との交際も︑

れ一ダルマド出来事一についての教えも存在しないからである︐

目覚めていない人は︑夢において見られる感覚対象の非存在

を理解しない︑K からである︒       1

      ミニニ

このように世間の人は︑誤った識別の繰り返しによって刻み込ま

      ニコニ      おちれた印象/習性的な性向という眠りに陥り︑夢の場合のように︑

18a影

t4

識 知覚の限定

実に︑すべての生きものにとって︑相互に支配的な影響を及ほす

(13)

ことによって︑状況に応じて︑識/知覚の限定は相互的である︒

F

的﹂というのは︑﹁互いに﹂ということである︒この理由から︑

ある瞬間の流れにおける特殊の識./知覚から︑他の瞬間の流れにお

ける特殊の識.︑・知覚が生じる︒特殊の指.小対象から﹁生じるのでは一

ない︒

論﹂  夢におけるように︑目覚めている人にとっても︑

このように識/知覚が指示対象を有していないとすれば︑メリット

ある︑そして︑メリットのない行状に関して︑眠っている人およ

眠っていない人にとって︑望ましい︑そして望ましくない﹇努力

ら生じる︺等しい結果/果実が︑どうして︑未来において存在

しないのか?

反論︺ −もしも︑この二切﹈が︑まさに︑唯識/知覚

   らニ

あるならば︑誰にとっても︑身体あるいは言葉は存在

しない..どうして︑羊飼いなどによって攻撃されつつある︑羊

などの死が起こるのか? あるいは羊などの死が彼らによって

き起こされなかった時︑羊飼いなどは︑どうして︑生きもの

を殺害した罪に対して責任を負うべきなのか?

答え︺

ことは︑他人の特殊な識/知覚から生じる変異である.︑

肉を食う﹂デーモンなどの心的な影響によって︑他の人々

憶の喪失などがあるように.︑19

夢において︑チッタ︹︹︷算巴は︑まどろみ/眠けによって

冒されている︒

それゆえ︑その結果は︑︹目覚めている場合と︺等しくない︑﹈

らである.・

1

これが︑この場合における理由︹日覚めていること︑および︑ま

どろみ/眠気が異なること︺であり︑︹外界の︺事物/︑指示対象が

存在することが︹その理由なの︺ではない︒

ヴァスバンドゥの﹁唯eel1;論︵湯田︶

L︶︑ I/肉を食う﹈デーモンなどの心的な影響によって︑他の人々

に︑記憶を喪失する︑夢を見る︑デーモンあるいは悪霊にとり恩か

る︑という異変が起こる.そして︑神通力を有する人の心的

な影響力によって﹁も︑同じような異変が起こる︺︒例えば︑聖者

ーカティヤーヤナの加護によってサーラナが夢を見︑そして林

に棲む聖仙の心的な激怒によってヴェーマチトラが敗北するように︒

ように︑他人の特殊な識/知覚の支配的な影響によって︑他の

人々の場合に︑その生命の器官﹇の機能﹂を妨げる︑何らかの﹇識

瞬間の流れの︺変異が生じ︑それによって同質の部分から

=二

(14)

      法華文化研究︵第三十二号︶

成る︹識/知覚の一瞬間の流れの断絶と名づけられる︑

こる  そのように知られるべきである︒

あるいは︑どうして︑聖仙たちの激怒ゆえに︑

         2なったのか? ㊤

ことが

ダンダカ林は

他人の特殊な識/知覚の支配的な影響によって︑生きものの死が

られなければ︑﹁われわれは次のように.一.己及しよう﹈︒まことに

的な暴力行為が大いに非難されるべきこと/大罪であることを証

明しようとして︑世尊は︑家長のウパーリに﹁次のように一問うた

あるrrm ﹇おお︑家長よ! 何によって︑ダンダカ林︑マータ

林︑カリンガ林が空虚になり︑清浄になった﹇祭祀に適するよ

うになった﹂という話を︑お前は聞いたことがあるか?﹂とt家長

よって︹次のように︺言われた  ﹁おお︑ガウタマよ1 聖仙

ちの激怒によって︑︹そういうことが起きた﹂という話を︑わた

くしは聞いている﹂と︒

あるいは︑それによって心的な暴力行為が大いに非難される

       2きこと/大罪であることが︑どうして成立するのか? Ob

r彼ら︹聖仙たち﹈に好意を寄せていた︑人間でない存在﹁デー       l四

ン一たちによって︑そこ﹁林﹈に棲む生きもの.・人々は消滅させ

られたのであって︑聖仙たちの心的な激怒によって死んだのではな

い一と︑このように想定されるとすれば︑︹そして︑もしも︑一この

ようであるとすれば︑︹聖仙たちの︺その行為によって︑心的な暴

力行為が︑身体の︑あるいは言葉の暴力よりも遥かに大罪である

ことが︑どのように成立するのか? 彼ら﹇聖仙たち一の心的な激

よって︑それほど多くの生きもの/人々が死ぬゆえ︑﹇心

的な暴力行為が︑身体の︑あるいは︑三U葉の暴力行為よりも遥かに

大罪であることが︺成立する︒

論一  もしも︑これ︹この1切︺が︑まさに唯識〃知覚

あれば︑他人のチッタを知っている人は︑﹁実際に﹈他人の

チッタを理解するのか︑それとも︑そうでないのか?

答え﹈  これから︑どういうことになるのか?

論一  彼らが︹実際に︑他人のチッタを﹈理解しなけれ

ば︑どうして︑彼らは他人のチッタを知っている︹と言える︺のか?

答え︺  それに反して︑彼らは︑︹他人のチッタを﹈理解

している︒

他人のチッタを知っている人々の知識は︑

ない︒

示対象のようで

(15)

は︑どのようであるか?

      2ようである︒﹄

ら自身のチッタの知識

反論︺  どのように︑それ︹みずから自身のチッタの知識一

もまた︑指示対象のようではないのか?

答え︺

おけるように︑

      2ないゆえに︒止

タは凡夫に︺知られて

       ロロ 

それら︹他人︑および︑みずから自身︺の言語に絶する自己に

よって︑諸仏の領域が存在するように︑そのようには︑それら︹他

人︑および︑みずから自身のチッタは知られていないゆえ︑指示

象のようではないのである︒︹それらのチッタは︺虚妄な仕方で

出現するゆえ︑把握されるべきもの/知覚される客体︑および把握

するもの/知覚している主体の識別は︑︹まだ︺放棄されていない

    へ 

ある︒

限りない決定の種類を有し︑底知れぬほど深い︑唯識/知覚のみ

ということに対して︑

ら自身の能力に応じて︑唯識性/知覚のみということ

   ヴァスバンドゥのr唯識一︑十論=湯出︶

成立に関して︑わたくしは書いたのである.︑

しかし︑それは︑完全にチッタ﹇の領域﹂を超えている︒

ワ︼

しかし︑すべての種類を有するそれは︑わたしのようなものたち

よっては考えられ得ない︒それは︑推測の対象でないものである

ら︒しかし︑それは誰の︹領域︺か︹と問われれば﹈︑それは完

全に︹もろもろのブッダの︺領域である︑と︑そのように人は言う︒

       clは︺︑もろもろのブッダの領域である..別

に︑それ︹唯識性︺は︑一切の種類において︑もろもろのブッ

ダ︑もろもろの世尊の領域である︒一切の様相における︑一切の知

られるべき知識に対する彼らの障害がないからである.︑

註︺

1︶原語はtraidhamtukarnである︒ 文法的には︑

tr

aidhfitukamは︑三つのダートウ/領域から成り立って

るというふうに訳されるかも知れない︒確かに︑語源的

は︑traidhatukamは形容詞であり︑二二つの領域から

       一五

(16)

華文化研究二45..十..号︶

成り立つ﹂︑あるいは一三界に属する一と訳すことも可能

ある.しかし︑﹃唯識..十論﹄の文脈から︑わたくしは

ミミ国ロミ言ミを中性︑単数︑主格の語形と見なして︑﹁.二

領域﹂と訳した︑この一切あるは全宇宙はtつの領域

ら成り立っているというふうにも解釈されるであろう.︑

領域/三界によって意味されるのは︑欲望の領域/

界完飼日①−合巴巳︑形態の領域/色界︹昌一︶陪人ま餌;﹂︑

および形態のない領域/無色界﹇三.ξoと姦↑三である︑.

111

bA領域/世界の中で最も低い欲界において支配的なの

は︑性的なものを始めとする欲望の形態である︒欲界は︑

神々︑アスラ/阿修羅︑人間︑動物/畜生︑餓

鬼︑および地獄の住人によって経験される︒色界において

は︑セックスの欲望および食物への欲求はなくなり︑性器

も肉体的な苦痛も存在しない︒色界は︑四つの最初の禅定

階を含む.︑そこでは︑嗅覚および味覚のような感覚は

作用しない..色界に対応するのは︑最初の四つの禅定の段

ある人々の洗煉された体験︑および幾つかの階級の神々

類似している体験である︑無色界においては︑欲望もな

ければ︑肉体の存在もまた見い出されない︑無色界におい

は︑識あるいは意識以外のすへての感覚は停止される.

覚︑聴覚︑嗅覚︑味覚および触覚という五つの識/知覚

は︑もはや︑それらの対象︑すなわち︑色・形態︑音声︑

香り︑および感触/触を知覚しないのである.︑無色界は︑

形態のない禅定/瞑想にとどまっている瞑想者および神々

体験から成り立つ︒最初の四つの禅定の段階が︑色界に

帰せられるのに対し︑最後の四つの禅定の段階は無色界に

られる.︑

2二.十地経︑=5聾鐙︸旨コ∋完莞口三ゴ≦一に︑次のような文

句が見い出される  ○二2ゴ葺︹.︹5二︵∫日ご︑三三多三オ江∋

3︶ ︵︑itttt︐ ni︸iriasぐijt1 Fi naおよびくごコ三︶ごは︑ヴァスウァ

ンドゥによって同義語であると考えられた.︑チッタは.h︑

考︑ヴイジニャーナは認識ないし意識である.

ィジニャプティの適訳をわたくしは見い出すことが出来

ない︑接頭辞く芦を伴う動詞語根百口︵知る︶の使役法の

芝︶巴葛−あるいは言書麓ぎ二から派生された名詞

三︶ごである︒それゆえ︑ヴィジニャプティは︑あ

る人にあることを明瞭に知らせるという行為を意味する

ホール︑ 一九八六年︑8−9頁参照二︑唯識論者にとっ

て︑ヴィジニャプティは﹁どんな意識にとっても明白な﹂

ことを意味する﹁ホrル︑︑九.八六年︑10.頁 のである.︒

ィジニャプティとは︑意識をみずから明らかにする/知

らせることである︒ヴィジニャフティは︑このような意味

参照

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