ヴァ
ス
バ
ンドゥのr唯識﹂
新しい翻訳および解説
一十論﹂
湯田
亘旦
1 翻 訳
雇 蓮 翻十 論
訳L
大乗において︑一.一つの領域は唯識/知覚のみとして確定される.︑
F
おお︑勝利者の息rたちよ︑まことに︑これはチッタのみである一と︑経典に言われているからである一チッ4﹀x f citt.a︶︑ マナス
[ nlanas一︑ヴィジニャ−ナ﹁ぐご百巴ρ︹二︑およびヴィジニャプティ
[vijfiapti Jは同義語である▽チッタ﹇︑という1.T口葉によって一ここ
で意朱されるのは︑︹それに一随伴しているもの﹁チャイタ一と共
ヘ へ
に Lチッタそのものである︺︐︐ sみ・目剖言餌﹇というil口葉一は︑︹外
界の一指示対象︹江︼芸巴を否定するのに役立つ.︑
ヴァスバントゥの﹁唯識ニトー論ヒ﹁湯川︶
かア これ/宇宙は︑まさに︑唯識/知覚のみである︒存在してい デみ ない一外界の︺指示対象が現われるからである.︑目の霞む病気
に か か
っ
た人が︑存在しない網のような毛髪などを見るような
ものである.1
これに対して︑人は﹁次のような一異議を唱える
もしも︑知覚が︑﹇外界の﹈指示対象なしに起こるのでなけ
れば︑
ニ
場所と時間の限定︑﹇知覚の一瞬間の流れの非限定︑および
効用を生み出す作用が存在するというのは正しくない︒2
何が111:われているのか? 形/色などの﹇外界の﹈指示対象なし
に︑形/色などの知覚が生じるならば︑なぜ︑︹その知覚は︺どこ
か︑ある所で生じ︑.至るところで生じないのか? そして︑まさに︑
[なぜ︑それはiその同じ場所において︑いつか︵ある瞬間に︺生
じ︑常に生じないのか? 毛髪などの幻影が︑目の霞む病気にかかっ
1
法華文化研究︹第︑.十..㏄三 て
いる人々の﹇識/知覚の一瞬間の流れにおいて生じ︑他の人々の
瞬間の流れにおいて生じないように︑その場所およひその時間に位
置している︑すへての人々の瞬間の流れにおいて生じ︑単に一人の
瞬問の流れにおいて生じないのは︑なぜか? mの霞む病気にかかっ
て
いる人々によって見られる毛髪︑蜂なとは︑それによって毛髪な
どの作用が果たされていない一︑けれども︑他の毛髪などによってそ
の作用が果たされないことがないのは︑なぜか? 夢の中で見られ
る食べ物︑飲みもの︑衣服︑毒︑武器など﹁の中の︑どれかあるも
のl︑それによって︑食べ物などの作用が果たされていない しか
し︑他の食べ物などによって︑それ一その作川一が果たされていな
いことはない.一存在しないゆえに︑ガンダルヴァの都城によってナ
ガラ・都城の作用は果たされないしかし︑それと異なる都城﹇
現実に存在する都城一によって︑それ一ナガラの作用一か果たされ
ないことはない︒.それゆえに︑﹁外界の 指示対象が存在しない時
には︑場所と時間の限定︑﹁知覚の﹇瞬間の一流れの非限定﹇瞬間
の流れが一人だけに限定されないこと一︑および︑効用を生み出す
作用が存在するというのは.正しくない
[答え一 良く知られているように︑それが正しくないという
ことはない
夢におけるように︑場所などの限定は成立している糖
からである︒夢におけるようにというのは︑夢の場合のように︑と
いうことてある ところで︑どのようにして︑一それは成立してい
るのか?一一夢においては︑一外界の一指示対象がなくても︑至る所
においてではなく︑まさに︑どこか︑ある場所において︑蜂︑遊園
地︑女性︑男性などが見られる︒そして︑その同じ場所において︑
そ一れらの中の︑どれか一あるものは︑ある時に見られるが︑いつ
も見られるのではない︑と︑そのように成立している一.・外界の﹁
指示対象がなくても︑場所と時間の限定は存在する
.史に︑一知覚の一
おけるように舳 瞬間の流れの非限定は︑餓鬼一三.︵そ二に
成立している︑と続く..餓鬼におけるように︑というのは︑餓鬼
の場合のように︑ということであるどのようにして︑それは成立
するのか? 等しく︑
餓鬼の すへてによって︑膿河なとが見られる場合に 翫
膿河一とは︑膿によって満たされた河のことである ﹁溶かし
バターの壷一というようなものである︑なぜなら︑同じようなカル
マン/前世の行為の熟成した状態にある︑すべての餓鬼が︑︹存在
していない︺膿河を見るのであって︑一人だけが︹膿河を一見るの
で
はないからである︑膿によって満たされた﹇河を︑彼らが見る︺
ように︑このように尿や糞などに満たされ︑梶棒や剣を持っている
〔地
ヘ へ 獄の﹂守衛によって監視されている︹膿河を︑すべての餓鬼が 見 て
いるiということも︑﹁膿河︺など︹という言葉︺によって理
解されるからである︒このように︑︹外界の︺指示対象が存在して
いなくても︑もろもろの識/知覚の瞬聞の流れの非限定は成立して
いる︒
そニな 一切の効用を生み出す作用は︑夢において損われている/射
精しているように﹄
成立している︑と知られるべきである︑夢の中で︹男女のL一組が
会うこと/性交することもないのに︑精液を射精することによって
特徴づけられる︑夢において損われていること/夢精があるような
ものである.︑このように︑まことに︑あれこれ︹さまざま﹈の実例
によって︑場所と時間の限定などという四重の論点が成立している
の である︑
更に︑
地獄におけるように︑︹これらの四つの論点の一
ウァスハントゥの﹇唯識..卜論一⌒湯田︶ すべ
て は
#
成立している︑と知られるべきである.二地獄におけるよう﹂とい
うのは︑地獄の場合のように︑ということである︒︹地獄の場合に︑
[時間と場所の限定などという四つの論点は︺どのように成立して
いるのか?
地「 獄 の
住人が﹂地獄の守衛などを見ることによって︑そし
て︑彼らによって拷問されること﹇を︑地獄の住人が経験する
こと﹈によって︒朱
すなわち︑地獄において︑地獄の住人にとって地獄の守衛などを
見ることが︑場所と時間の限定によって成立しているからである.︑
ヘ へ かろすそして︹地獄の守衛﹂などという言葉によって︑犬︑烏︑鉄の山な
どの去来を見ることが理解されるからである︒︹地獄の状態を経験
している﹈すべて﹇の地獄の住人一が︹それらを見るのであって︸︑
1人だけが ︵それらを見るのでは一ないo地獄の守衛などは存在し
て
いないけれども︑︹前世における︑彼ら︺自身の行為に止ハ通する
熟 成
の支配権這合三簿蔓竺ゆえに︑彼ら︹地獄の守衛﹂によって
〔課せられたL彼らの拷問は成立する︐︑同様に他の場合にも︑場所
と時間の限定などという︑この四重﹇の論点の︺すべては成立して
1.
法華文化研究︹第...卜..号︸
いる︑と知られるべきである1
〔反論一.−しかし︑どういう理由から︑地獄の守衛︑および犬︑
および烏は︑生きものであると認められないのか?
〔答え﹈−: ﹇彼らの存在することは﹂ふさわしくないからであ
る︒なぜなら︑地獄の住人である彼ら﹇地獄の守衛など﹂は︑︹存
在するのに︺ふさわしくないからである︑一地獄の守衛などは︑地
獄
に落ちた人々の﹂その苦しみを︹彼らと︑まったく同様に感じな
い
からである︒彼らが︑互いに︑それぞれ︑苦しめるならば︑彼ら
は
〔地 獄
に落ちた一地獄の住人である︑彼らは地獄の守衛であると
い・o︑ f.相互を区別する﹂特殊性は存在しないであろう︒そして︑
彼らが等しい形︑大きさ︑力を有し︑互いに苦しめるならば︑﹇地
獄
の住人が地獄の守衛を﹂そのように恐れることはないであろう︑
ニぐドコおひ
燃え上がっている︑鉄から成る大地において灼熱の責め苦に耐え
られないのに︑どうして︑彼ら︹地獄の守衛﹂は︑そこにおいて︑
他
のものたち一地獄のdi人 iを苦しめることが出来るのか? ある
い は 地 獄 の
住人でない彼らが︑どうして︑地獄に生まれるのか?
[反論一⁝⁝どうして︑動物/畜生は天に生まれるのか? ︹そ
のことが認められれば﹂︑このように︑動物あるいは餓鬼の特殊の
性質を有する地獄の守衛などが地獄に生まれるであろう︒ 四
動物/畜生は︑天に生まれるように︑そのように︑地獄に
[生まれ︺ないU
餓鬼も﹇地獄に生まれLないo彼らは︑そこで生じる苦しみ
を経験しないから︒5
実に︑天に生まれる動物./・畜生 彼らは︑彼らの環境に快楽を
もたらす︑﹇過去の﹂カルマン/行為ゆえに︑そこで生じる快楽を
個別に経験する︒しかし︑地獄の守衛などは︑地獄の苦しみを個別
に 経
験しない︑それゆえに︑動物も︑餓鬼も︑一地獄に﹈生まれる
ことは︑ふさわしくない..
それから︑実に︑﹇次のように論じられるかも知れない︺ 地
獄 の
住人の行為ゆえに︑そこに︑色︑形︑大きさ︑力によって区別
された特殊の物質的な要素二旨口言﹂が生じ︑それらが地獄の守衛
などという名前を得る︒そして同様に︑一物質的な要素が︺転変し︑
恐
怖を生じさせるために︑﹇人は一手を振るなどという︑さまざま
来するように見え︑そして︑シャールマリー樹林において棘が下を とば の動作をしているように見える︐例えば︑雄羊の形をした山々が去
向いたり︑上.を向いたりするように見えるようなものである︒それ
ら﹇の現象﹂が︑まさに生じないということはない︒
「答え一
[答え一
もしも︑彼ら一地獄の住人 のカルマン︑行為ゆえに︑そこ
において物質的な要素の生起︑そしてまた︑一それの一転変が
認 められれは︑
どうして︑識︑知覚の一生起と転変が 認められないのか?
6
彼らの﹁前世の.一行為ゆえに︑識/知覚そのものの転変が︑
して認められないのか?
それに反して︑どうして物質的な要素が想定されるのか?
また︑
行為の薫習..行為から生じる潜在的エネeギ−は︑
ある所に︑結果.・果報は他の所に想定される.
潜在的エネルギーが生じる所︑まさにそこに一結果
認
められない.その理.由は何か?7 更に どう
どこか︑
果報は一
実に地獄の住人の行為によって︑そこ一一地獄一に︑そのような
物質的な要素の生起と転変か想定され︑その行為から生じる潜在的
エネルギーは︑彼ら一地獄の住人一の識 知覚の瞬間の流れの中に
宿っているのであって︑それ以外のところに一宿っているのでは一
ない.︑そして︑薫習︑潜在的エネルギーが存在する一まさに︑そこ
ヴ﹁.−スハンドうの ⌒湯川︺
において︑それ一潜在的エネルキー一の結果︑果報が︑そのような
識 知覚の転変であると︑なぜ︑認められないのか? 潜在的エネ
ルキ−が存在しない所に︑それの結果 果報が想定される︑と1111:わ
れるが︑これに対する理由は何か?
一反論 その理由は︑経典一の証三U一である︑もしも︑形
/色などとして現われる識 知覚だけが存存し︑形.色などの指示
対象が存在しなければ︑その時には︑形.・色などの﹇十ilの﹂領域
[[I
Ytlt﹇MtUは︑世尊.ブッダによって説かれなかったであろうー︑
[答え一
これは理由ではなCなぜなら︑形/色などの領域の存在は︑
それによって教化されるべき人々に対して︑
特一定の一意図によって説かれた︑白然に生じた生きもの︑
の場合におけるようなものである.8 からである︑
それは自然に生じる生きものが存在すると説かれる場合のようで
ある 一特定の一意図によってチッタの瞬間の流れか未来において
断絶しないことを意図して︑一そのように︑世尊によって説かれた
の
てある一 一ここには︑生きものも︑あるいは白已も存在しない︑
しかし︑原因によって伴われる︑これらのダルマ.瞬間的な出来事
は一存在する二と︑そのように︑﹁世尊によって1 1i.口われている
.五
法華文化研究二弔..ト..り
からである一 このように形 色などの一知覚の一.領域の存在も︑
その教えによって教化されるへき人々を顧慮して︑世尊によって説
かれた.それゆえ︑一世尊の その.︑..口葉は︸特定の意図を百する
この場合︑l特定の︺意図とは何か?
それから﹇識 知覚が生じる一それn身の種rゆえに︑それ
らの出現が識知覚として存在しているゆえ︑
一それ自身の種了およひ種了の出現という一それらの双方を︑
賢者︑/ブッダは二重の領域であるものとして語った 9 コ ニ
一それによって一何が言われたのか?
形色として現われる識知覚が﹇識
そ れの一特殊な転変の達成から生じる..
一形.色として一現われる︑それ一識
および形︐色の領域てあるものとして︑
ある.
で
一
切の識 知覚が説明される一.
知覚の瞬間の流れにおける
生じる t一そして︑その種子およひ
れるそれ一識 知覚 の双方を︑世尊
知覚の身体︑および触知され得るものの
こ
の よ
う
に 触
矢[|
し
得 る
特 も 殊 の 触転 し
_の と
知変ててさのれ現 れ達日わ得成身れるかのる
もら種識の ]
と をし 通t て じ
それ自身の種.rによって︑
知覚の瞬間の流れにおいて︑
そして︑その種.ゴ︑およひ
知覚一の双方を︑眼 視覚
世尊は︑順次︑語ったのて
知覚に至るま
識 一識 知覚か 現 わ
ブッダは︑順次︑その識
二︑乖の一領域であるもの として語った これか一特定の一意図てある
しかし︑このように
トがあるのか?
そ のように︑
は一入るg
ノN
特定の 意図に從って教えて︑何のメリッ
実に︑個人に自己の存在しない状態の中に一人
そ
のように︑まことに教えられている時に︑個人の自己を¢しな
い 状 態
の中に︑人々は入るのである二重であるもの=.つの領域一
から︑六種類の識 知覚が現われる.しかし︑とんな唯︑の見て
いるもの一唯一の聞いているもの︑嗅いでいるもの︑味わっている
もの︑触れているもの一ないし︑考えているものも存在しない︑と
知り︑個人のn己を灯しない状態に関する教えによって教化される
べき人々は︑個人に自己は存在しない状態の中に人るのか?
.史に︑別の仕方で︑﹁この一教えは︑ダルマ 出来事に自己
の存在しない状態の中に人ること を意味するの である 旧
別の仕方で一というのは︑唯識 知覚のみについて教えること
てある どのようにして︑ダルマ 出来事に自己の存在しない状態
の中へ﹇人は﹈入るのか? この唯識/知覚のみが︑形.︑/色などの
ダルマ/出来事の外観を帯びて生じるのであって︑形/色などによっ
て特徴づけられるタルマ・/出来事は︑何も存在しない 形︐・︑色なと
自体は存在しない﹂と︑そのように知って︑︸人は︑出来事にn己
の存在しない状態の中へ入る二
[反論﹂ その時には︑ダルマ/出来事は全然存在しないの
であって︑唯識/知覚のみも存在しないということになる︑その時
に︑どうして︑﹇唯識/知覚は一確立されるのか?
一︑答え﹈ あなたが気づくべきように︑出来事が全然存在し
ないと考え︑このように︑ダルマ/出来事が自己を有しない状態の
中に﹁︑人が﹈入るのではない︑そうではなく︑
に関して︑唯識/知覚のみによってさえ︑白己の存在しない状態の
中に﹁人は﹈人るゆえ︑唯識︒知覚のみを確立することによって︑
一切のダルマt出来事に自己の存在していない状態の中に1人は一
入るのであって︑それらの存在を.否定することによってではない.︑
なぜなら︑そうでなければ︑﹇ある一識/知覚にとっても︑他の識
/知覚か指示対象であり︑それゆえ︑唯識/知覚のみであることは
成立しないであろうから︒もろもろの識/知覚は指示対象を有する.
〔反論一 あるいは︑この意図ゆえに︑世尊によって形/色
などの領域の存在が説かれ︑あるいは︑形︐・色などの個別的な感覚
対象になる︑それらの事物が︑まさに︑存在しないということは︑
どのようにして認められるのか?
設
定/想像された自己に関して一人は︑そうするのであるL
[答え一なぜなら︑
10c
感覚対象は一つでもなければ︑幾つかでもない︑原子の視点
愚かな人々によって想像/捏造された︑把握されるべきもの/知
覚される対象︑および︑把握するもの/知覚しているド体から成る
ダルマ︑/出来事の本来の性質/日性に︑彼らによって想像された
自己に関して︑自己は存在しないのである しかし︑もろもろのブッ
ダの領域である︑言語に絶しているアートマンに関しては一そう
では﹂ない︒このように他の識.∫知覚によって想像されているn己
ウ↓︐スハンドゥの1唯識一.卜論 へ湯田﹁
から..
また︑集合している︑それら
ない︑原子は成立しないゆえに
のl原r一は︑﹇感覚対象では﹂
11
何が言われているのか? 形/色などの一つの感覚対象である形
・色などの領域は︑例えば︑ヴt︐イシェーシカ学派によって想定さ
七
法華文化研究︵第...卜..号﹁
れる﹇ような一︑全体から成るもののように1つであるか︑あるい
は︑原子の視点から︑幾つかであるか︑あるいは︑まさに︑それら
の原子の集合しているものであるかのいずれかである︐.最初に︑感
覚 対
象はlつであるものにならない︐一諸部分と異なる︑全体から成
るものは︑どこにおいても把握されないからである//それは︑幾つ
か
のものでもない︒諸原子は︑ひとつひとつ︑把握されないからで
ある.一それら一の原子﹂の集合しているものも︑感覚対象になら
ない..一つの実体としての原rは︑成立し得ないからである︑どう
して︑それは成立しないのか?
六 個
[の原陥Lが同時に結合するゆえ︑原子は六つの部.分を
1 有するこ% からである.
六 つ の は六つの部分を有するようになる︑︑ 一つ ﹁の原子︺の ﹇存在する﹈ じ 方角から六つの.原子が同時に結合する場合︑ 1つの原子
場所︑そこには他のもの﹇他の原子一は存在しないからである.︑
逆[に﹂︑六個 1.の原.r﹂
なるゆえ︑
[それらの一ひと塊は
1になるで﹂あろう..蛎
にとって共通の場所があることに
つ
の原rの大きさを有する.こと 八
さて︑iつの原子の﹇占める﹂場所は︑六個の﹇原子の場所﹂に
他ならない一と.言われるかも知れない1その結果︑すべての﹇原
+1にとって共通の場所があることになるゆえ︑すべての﹇原子の︺,
塊 は
二 ごピ つの一原子の大きさを有する一ことになるで一あろう..
「原子は一相互に排除する﹁すなわち︑別々でない一からである︑
そ
れゆえに︑どんな塊も目に11えないであろう︑実に︑原子は︑
全然︑結合しない−jそれらは﹂部分を有しないからである︑﹁この
ような過失に陥らないように!一そんな馬鹿げたことを︑われわれ
は言っていない.しかし︑塊/集合体になった時に︑それら﹇の
原子一は相圧に結合する﹂と︑そのように︑カシュミールのヴァイ
( inシカ 説一切有部は11xZう.︑しかし︑彼らは︑次のように問われ
るへきである− .諸原.丁の塊/集合体︑それは︑それら一原子自体︺
と異なるものではないのか? と︐︶
原子が結合しない場△口︑その場合︑何の塊./集合が存在する
の
1か? 函 結合一という言葉が﹈続く︒
また︑一原.rは一部分を有しないことのゆえに︑それらの
ゴ コ
一原子の一結合は成立しない︑鋭
それから︑塊 集合体は相亙に結合しない.︐その場合︑諸原子は
部分を有していないゆえ︑﹁原了の﹈結合が成立しない︑と︑その
ように言われるべきではない︒なぜなら︑部分を有する塊/集合体
の場ム﹇でさえも︑﹇原子の﹂結合は容認されないからである︒それ
ゆえ︑1つの実体としての原子は成立しない..そして︑原子の結合
が
認められようと︑あるいは認められまいと︑
方角の︑区分が存在するそのもの︑
ーすること︺は適切ではない︒ね そのものに単一性︹を想定
実に︑前︹東︺の方角の部分ないしドの方角の部分は異なると︑
そのように方角の区分が存在する時に︑どうして︑それら︹の方角︺
から成り立つ原子の単一性が適切であろうか?
か
? あ
る
14b い は
〔そうでなければ一︑どうして︑影と遮蔽があるの こり
1つ1つの原子に方角の区分が存在しなけれは︑太陽が昇る時に︑
どうして︑ある場所に影が存在し︑他の場所に日光が存在するのか?
なぜなら︑そこには日光の存在しない場所は存在しないであろう
から.︑そして方角の区分が認められなけれは︑どうして︑他の原子
による︑ある原子の遮蔽が存在するのか? なぜなら︑﹇他の︺原
ヴ呵︐スハントゥの一唯識ニーr論=湯川︶ 子の到来によって︑ある﹇原子︺によって他の︹原子︺が遮蔽されるような︑どんな他の部分も︑原子にとって存在しないからである︒そして︑遮蔽.︑衝突が存在しなければ︑すべての﹇原子︺は同lの
場 所
にあるゆえ︑すべての﹁原子の︺塊/集合体は﹇二つの︺原子
の大きさを有する﹇ことになる︺であろうと︑そのように﹁すでに︺
言われている.︑
[反論﹈−−影と遮蔽は塊/集合体に言及しているのであって︑
一 つ
の原子に︹言及しているのでは︺ない︑と︑そのように認めら
れないのか?﹁と論じられるかも知れない︺︒今︑わたくしが気づ
い て
いるように︑原子︹そのもの﹂と異なる塊/集合体︑それに
[影と遮蔽の︑一双方か.言及すべきであると認められるのではないの
か? そうではない︑と一人は答えるかも知れない︺︒
そして︑塊/集合体が︹原子と︺異なるものでなければ
影 1〔と遮蔽の﹈双方は︑それ︹塊/集合体︺に言及しない︒血
もしも︑塊/集合体が原子と異なるものであると認められなけれ
ば︑︹影と遮蔽︺の双方は︑それ﹇塊/集合体︺に言及して起こる
と︑そのように成立するはずがない/証明されない︒
一反論︐一 これは︑一︐心的な一構造の設定である︒原子で
あれ︑あるいは﹇原子の一塊/集合体であれ︑形/色などの特徴が
九
法華文化研究︵第一︑.卜.︐号︶
拒
絶されなければ︑︹これらについて﹈このように考察することは
な ん の 役 に 立 つ の か?
あろ
〔答え︺ 改たあて︑それらの特徴は何か?
〔反論一 眼/視覚などの﹁感覚﹈対象であること︑および
青いなどということである︒
「答え︺ まさに︑これが吟味される︹べきである三︶青い︑
黄色いなどということが︑眼/視覚などの感覚対象として認められ
るならば︑︹その感覚対象は︑ 一つの実体なのか︑あるいは幾つか
/多数の実体なのか︺?
〔反論︺ そして︑これから︹何が起こるのか︶?
〔答え︺ 幾つかであること/多数であることの場合におけ
る過失は︑︹原子の塊/集合体についての議論に関連して ﹈すでに
述べられた︒
眼〔
/ 視
覚などの感覚対象が﹈単一の場合︑徐々に歩むこと
はなく︑同時に把握し︑しかも把握しないことはなく︑
分離されている幾つかの存在︑および︑微細なものを見ない
ことも︑あり得ないであろう︒15
中断されず︑幾つか/多数でない限り︑眼/視覚の感覚対象とし
て
1の つ の
実体が想定されるならば︑︹その時には︺大地を徐々に 行く︑すなわち︑歩むということはないであろうという意味である
「大
地を﹈.度︑足で踏むことによって︑人は至る所に行った﹇こ
とになる一からである︑同時に︑前の部分を把握し︑しかも︑後ろ
の
部分を把握しないことは︑存在しないであろう︒なぜなら︑その
時に︑二つである一そのものを一同時に一把握し︑しかも︑把握
しないということは適切でないからである︒象︑馬などのような︑
分離されている幾つかのものが︑幾つかの場所に存在すること⁝
そ れ
はないであろう︑なぜなら︑ ﹇つ二頭の象︑あるいは馬一が
存在するその場所に︑他のもの﹇他の象あるいは馬﹁が存在すると
すれば︑どうして双方の分離が認められるのか? あるいは︑とう
して二頭の象と馬の︸双方によって到達され︑しかも到達されて
いない場所が︑ 1つ rg場所﹈である︹と認められる︺のか?
到「
達され︑そして到達されていない二つの場所の﹈中間に︑空虚
な﹇場所﹈が把握されるからである︒そして︑微細な︑水中に棲む
生物は︑粗大な生物と同じ形質を¢しているのであって︑それらが
見られないということはないであろう
プリ ナ ゆ
別の仕方でではなく︑まさに特徴の区分によって実体の相違が想
定されれぱ︑この理由から︑必然的に原子の区分が想定されるべき
である︒そして︑それが1つであることは成立しない︒それが成立
していない場合︑形/色などが眼.・/視覚などの感覚対象であること
も成立していない︒かくて︑唯識/知覚のみが成立する︑と=lu口わ
れるのである一︒
「反論一 認識壬段によって︑︹眼/視覚などの感覚対象の︑
存在︑あるいは非存在が決定される︒そして︑すべての認識丁段の
中で︑知覚という認識手段が最も重要である︒かくて︑指示対象が
存在していない時に︑どのようにして知覚という︑この認識は存在
するのか?
知覚による認識は︑夢などにおけるように星じる﹈臨
指示対象がなくても︹それは生じる︺
す で に
知らされたのである︒ と︑そのように︑それは︑
そして︑それ﹇知覚による認識︺が︹生じる︺時︑その時︑
その指示対象は見られない︒
どうして︑それは知覚される状態であると見なされ︹得一る
の
1か?8
そして︑﹁これは︑わたくしの知覚である﹂と︑そのように知覚
による認識が生じる時︑その時︑その指示対象は見られない︑まさ
に︑思考による知覚︹∋きoぐ言蓼巴によって︑︷このように一
ヴァスハンドゥの 唯識一.卜・se. 1 ︵湯田︶
識別されるからである︒そして︑その時には︑眼識/視覚の識は
す「
でに﹈滅しているからである.︑どうして︑それの知覚されてい
る状態が認められているのか? ﹇このように思考による識 知覚
によって︑識別される︺その時に︑特に︑瞬間に滅する指.小対象
のその形/色あるいは味などは︑まさに︑﹇すでに﹈滅しているの
である.︑
〔反論一 経験されていないものは︑思考による識・知覚に
よって想起されることはないかくて︑必然的に︑指示対象が経験
されねばならない.︑そして︑それが見ることである一.かくて︑この
ように︑それ﹇見ること﹂の指示対象である形/色などが︑知覚の
状態であると見なされている︒
〔答え﹂ 経験されている﹁感覚の 指示対象を︑このよう
に想起することは成立していない一.
どのようにして︑識/知覚がそれの出現を伴って 生じるか︑
そ
1れは︑すでに一述べられている︐拍 からである一
たとい︑指示対象がなくても︑指示対象の出現を伴う眼識 知覚
の識などの﹇形態を帯ひる﹂識/知覚が︑どのように生じるか︑
[そのことは︑すでに述べられている1
法華文化研究⌒第...十.︑号︶
それから想起/記憶が一生じる一
乃 からである・
1
「それから﹂というのは︑﹁識︑知覚から﹂﹇を意味するL その
出現そのものが想起/記憶と結び付けられている時︑色/形などを
識別する意議/思考による識が生じる︐かくて︑想起/記憶の出現
によって︑﹁外界の﹈指示対象の経験は成立しない︒
[反論﹂ 夢の中の存在していない事物/指示対象を感覚対
象として有する識/知覚のように︑目覚めている時にも︑まったく︑
そ の
通りであれは︑それ一指示対象﹂の非存在を︑世間の人は︑み
ず
から理解するであろう.︑しかし︑実際には︑その通りではない︑
そ
れゆえ︑指示対象の知覚が︑夢におけるように︑一切の指示対象
を有しないということはない.︑
[答え﹂
これ﹇この議論一は︑一望ましい識./知覚を︑われわれに﹂知ら
せるものではない. する対策/対治である︑識別を離れた出世間的な知識を得ること で︑それの非存在を正しく理解しないuしかし︑それ一識別一に対 存在していない事物 指.小対象を見ながら︑まだ目覚めていないの
によって人が目覚めるならば︑その時には︑それ﹇出世間的な知識
に続いて得られる︑清浄な世間的な知識が︑ありありと思い浮かへ
られる︐ド現前するゆえ︑感覚対象の非存在を︑人は正しく理解する一.
かくて︑これは︑﹇人が目覚める場合と﹂同じである.
[反入訓︺ みずから白身の﹁識 知覚の︺瞬間の流れの特殊
な転変によってのみ︑生きものにとって︑指.小対象の出現を伴う識
/知覚が生じ︑特殊の指示対象によって﹇そうて︺なけれは︑その
時には︑悪友あるいは良い友との交際によって︑あるいは存在して
いる︑そして︑存在していないダルマを聞き知ることによって︑
生きものにとって識.知覚の限定が︑どうして成立するのか?
[指示対象が存在しなければ︺︑良い友︑あるいは悪友との交際も︑
それ一ダルマド出来事一についての教えも存在しないからである︐
目覚めていない人は︑夢において見られる感覚対象の非存在
を理解しない︑K からである︒ 1
ミニニ
このように世間の人は︑誤った識別の繰り返しによって刻み込ま
ニコニ おちれた印象/習性的な性向という眠りに陥り︑夢の場合のように︑
は相 互的 である 相互
に支 配的な
18a影響
を及
ほすと
によ
つて 云
t4を
識 知覚の限定
実に︑すべての生きものにとって︑相互に支配的な影響を及ほす
ことによって︑状況に応じて︑識/知覚の限定は相互的である︒
F相
互的﹂というのは︑﹁互いに﹂ということである︒この理由から︑
ある瞬間の流れにおける特殊の識./知覚から︑他の瞬間の流れにお
ける特殊の識.︑・知覚が生じる︒特殊の指.小対象から﹁生じるのでは一
ない︒
〔反論﹂ 夢におけるように︑目覚めている人にとっても︑
このように識/知覚が指示対象を有していないとすれば︑メリット
のある︑そして︑メリットのない行状に関して︑眠っている人およ
び眠っていない人にとって︑望ましい︑そして望ましくない﹇努力
から生じる︺等しい結果/果実が︑どうして︑未来において存在
しないのか?
〔反論︺ −もしも︑この二切﹈が︑まさに︑唯識/知覚
らニ
の み
であるならば︑誰にとっても︑身体あるいは言葉は存在
しない..どうして︑羊飼いなどによって攻撃されつつある︑羊
などの死が起こるのか? あるいは羊などの死が彼らによって
惹き起こされなかった時︑羊飼いなどは︑どうして︑生きもの
を殺害した罪に対して責任を負うべきなのか?
{答え︺
死
ぬことは︑他人の特殊な識/知覚から生じる変異である.︑
[肉を食う﹂デーモンなどの心的な影響によって︑他の人々
に
記憶の喪失などがあるように.︑19
夢において︑チッタ︹︹︷算巴は︑まどろみ/眠けによって
冒されている︒
それゆえ︑その結果は︑︹目覚めている場合と︺等しくない︑﹈
拙 からである.・
1
これが︑この場合における理由︹日覚めていること︑および︑ま
どろみ/眠気が異なること︺であり︑︹外界の︺事物/︑指示対象が
存在することが︹その理由なの︺ではない︒
ヴァスバンドゥの﹁唯eel1;論︵湯田︶
実L︶︑ I/肉を食う﹈デーモンなどの心的な影響によって︑他の人々
に︑記憶を喪失する︑夢を見る︑デーモンあるいは悪霊にとり恩か
れ て
いる︑という異変が起こる.そして︑神通力を有する人の心的
な影響力によって﹁も︑同じような異変が起こる︺︒例えば︑聖者
マ
ハーカティヤーヤナの加護によってサーラナが夢を見︑そして林
に棲む聖仙の心的な激怒によってヴェーマチトラが敗北するように︒
そ
のように︑他人の特殊な識/知覚の支配的な影響によって︑他の
人々の場合に︑その生命の器官﹇の機能﹂を妨げる︑何らかの﹇識
/
知 覚
の瞬間の流れの︺変異が生じ︑それによって同質の部分から
=二
法華文化研究︵第三十二号︶
成る︹識/知覚の一瞬間の流れの断絶と名づけられる︑
起こる そのように知られるべきである︒
あるいは︑どうして︑聖仙たちの激怒ゆえに︑
空 虚
2になったのか? ㊤
死 ぬことが
ダンダカ林は
他人の特殊な識/知覚の支配的な影響によって︑生きものの死が
認 められなければ︑﹁われわれは次のように.一.己及しよう﹈︒まことに
心的な暴力行為が大いに非難されるべきこと/大罪であることを証
明しようとして︑世尊は︑家長のウパーリに﹁次のように一問うた
の
であるrrm ﹇おお︑家長よ! 何によって︑ダンダカ林︑マータ
ン
ガ林︑カリンガ林が空虚になり︑清浄になった﹇祭祀に適するよ
うになった﹂という話を︑お前は聞いたことがあるか?﹂とt家長
によって︹次のように︺言われた ﹁おお︑ガウタマよ1 聖仙
たちの激怒によって︑︹そういうことが起きた﹂という話を︑わた
くしは聞いている﹂と︒
あるいは︑それによって心的な暴力行為が大いに非難される
2べきこと/大罪であることが︑どうして成立するのか? Ob
r彼ら︹聖仙たち﹈に好意を寄せていた︑人間でない存在﹁デー l四
モン一たちによって︑そこ﹁林﹈に棲む生きもの.・人々は消滅させ
られたのであって︑聖仙たちの心的な激怒によって死んだのではな
い一と︑このように想定されるとすれば︑︹そして︑もしも︑一この
ようであるとすれば︑︹聖仙たちの︺その行為によって︑心的な暴
力行為が︑身体の︑あるいは言葉の暴力よりも遥かに大罪である
ことが︑どのように成立するのか? 彼ら﹇聖仙たち一の心的な激
怒 の み
によって︑それほど多くの生きもの/人々が死ぬゆえ︑﹇心
的な暴力行為が︑身体の︑あるいは︑三U葉の暴力行為よりも遥かに
大罪であることが︺成立する︒
反〔論一 もしも︑これ︹この1切︺が︑まさに唯識〃知覚
の み
であれば︑他人のチッタを知っている人は︑﹁実際に﹈他人の
チッタを理解するのか︑それとも︑そうでないのか?
〔答え﹈ これから︑どういうことになるのか?
反「論一 彼らが︹実際に︑他人のチッタを﹈理解しなけれ
ば︑どうして︑彼らは他人のチッタを知っている︹と言える︺のか?
〔答え︺ それに反して︑彼らは︑︹他人のチッタを﹈理解
している︒
他人のチッタを知っている人々の知識は︑
はない︒
指示対象のようで
そ
れは︑どのようであるか?
2のようである︒﹄
み ず
から自身のチッタの知識
〔反論︺ どのように︑それ︹みずから自身のチッタの知識一
もまた︑指示対象のようではないのか?
〔答え︺
ブ
ッ
ダ の 領 域
におけるように︑
2いないゆえに︒止
〔チ
ッタは凡夫に︺知られて
ロロ
それら︹他人︑および︑みずから自身︺の言語に絶する自己に
よって︑諸仏の領域が存在するように︑そのようには︑それら︹他
人︑および︑みずから自身のチッタは知られていないゆえ︑指示
対象のようではないのである︒︹それらのチッタは︺虚妄な仕方で
出現するゆえ︑把握されるべきもの/知覚される客体︑および把握
するもの/知覚している主体の識別は︑︹まだ︺放棄されていない
へ
の である︒
限りない決定の種類を有し︑底知れぬほど深い︑唯識/知覚のみ
ということに対して︑
み ず
から自身の能力に応じて︑唯識性/知覚のみということ
ヴァスバンドゥのr唯識一︑十論=湯出︶
の成立に関して︑わたくしは書いたのである.︑
しかし︑それは︑完全にチッタ﹇の領域﹂を超えている︒
ぬ
ワ︼
しかし︑すべての種類を有するそれは︑わたしのようなものたち
によっては考えられ得ない︒それは︑推測の対象でないものである
から︒しかし︑それは誰の︹領域︺か︹と問われれば﹈︑それは完
全に︹もろもろのブッダの︺領域である︑と︑そのように人は言う︒
〔そ
clれは︺︑もろもろのブッダの領域である..別
実に︑それ︹唯識性︺は︑一切の種類において︑もろもろのブッ
ダ︑もろもろの世尊の領域である︒一切の様相における︑一切の知
られるべき知識に対する彼らの障害がないからである.︑
〔註︺
(1︶原語はtraidhamtukarnである︒ 文法的には︑
tr
aidhfitukamは︑三つのダートウ/領域から成り立って
いるというふうに訳されるかも知れない︒確かに︑語源的
には︑traidhatukamは形容詞であり︑二二つの領域から
一五
法華文化研究二45..十..号︶
成り立つ﹂︑あるいは一三界に属する一と訳すことも可能
である.しかし︑﹃唯識..十論﹄の文脈から︑わたくしは
、ミミ国ロミ言ミを中性︑単数︑主格の語形と見なして︑﹁.二
つ
の領域﹂と訳した︑この一切あるは全宇宙はtつの領域
から成り立っているというふうにも解釈されるであろう.︑
三 つ
の領域/三界によって意味されるのは︑欲望の領域/
欲界完飼日①−合巴巳︑形態の領域/色界︹昌一︶陪人ま餌;﹂︑
および形態のない領域/無色界﹇三.ξoと姦↑三である︑.
111
つbA領域/世界の中で最も低い欲界において支配的なの
は︑性的なものを始めとする欲望の形態である︒欲界は︑
低 い 階 級
の神々︑アスラ/阿修羅︑人間︑動物/畜生︑餓
鬼︑および地獄の住人によって経験される︒色界において
は︑セックスの欲望および食物への欲求はなくなり︑性器
も肉体的な苦痛も存在しない︒色界は︑四つの最初の禅定
の
段階を含む.︑そこでは︑嗅覚および味覚のような感覚は
作用しない..色界に対応するのは︑最初の四つの禅定の段
階
にある人々の洗煉された体験︑および幾つかの階級の神々
の類似している体験である︑無色界においては︑欲望もな
ければ︑肉体の存在もまた見い出されない︑無色界におい
ては︑識あるいは意識以外のすへての感覚は停止される.
視覚︑聴覚︑嗅覚︑味覚および触覚という五つの識/知覚 六
は︑もはや︑それらの対象︑すなわち︑色・形態︑音声︑
香り︑および感触/触を知覚しないのである.︑無色界は︑
形態のない禅定/瞑想にとどまっている瞑想者および神々
の体験から成り立つ︒最初の四つの禅定の段階が︑色界に
帰せられるのに対し︑最後の四つの禅定の段階は無色界に
帰 せられる.︑
(2二.十地経︑=5聾鐙︸旨コ∋完莞口三ゴ≦一に︑次のような文
句が見い出される ○二2ゴ葺︹.︹5二︵∫日ご︑三三多三オ江∋
(3︶ ︵︑itttt︐ ni︸iriasぐijt1 Fi naおよびくごコ三︶ごは︑ヴァスウァ
ンドゥによって同義語であると考えられた.︑チッタは.h︑
マ ナ ス は
思考︑ヴイジニャーナは認識ないし意識である.
ヴィジニャプティの適訳をわたくしは見い出すことが出来
ない︑接頭辞く芦を伴う動詞語根百口︵知る︶の使役法の
語 幹
こコ芝︶巴葛−あるいは言書麓ぎ二から派生された名詞
が 三
百三︶ごである︒それゆえ︑ヴィジニャプティは︑あ
る人にあることを明瞭に知らせるという行為を意味する
一ホール︑ 一九八六年︑8−9頁参照二︑唯識論者にとっ
て︑ヴィジニャプティは﹁どんな意識にとっても明白な﹂
ことを意味する﹁ホrル︑︑九.八六年︑10.頁 のである.︒
ヴィジニャプティとは︑意識をみずから明らかにする/知
らせることである︒ヴィジニャフティは︑このような意味