異質なるものとしての情報技術,生命技術(1) : 包 括的科学技術論に向けての予備的考察
著者 松王 政浩
雑誌名 静岡大学情報学研究
巻 7
ページ 25‑38
発行年 2002‑03‑29
出版者 静岡大学情報学部
URL http://doi.org/10.14945/00008613
111111111111,1こ :││
異質なるものとしての情報技術ョ生命技術 (1)
― 包括 的科 学技術論 に向 けての予備 的考察 ―
Information Technology and Blotechnology as
Ⅱeterogeneous Eand――
Prologue to A Comprehensive Argument of Technology―
―松 王 政 浩
Masahiro MATSUOU
1.問題の所在
今 日,科学技術 を どの ように評価 すれ ば よい のか については, きわめて多 くの立場が ひ しめ いた状態 にある。科学技術 と社会 とのあ り方,あ るい は個人 とのあ り方が一体 どの ような状況 に あ り,具 体 的 にそれ に関 して何がで きるのか
(な
すべ きか)に
ついて知 ることは, きわめて重 要 な現代 的課題 である。 しか し,我々は まだ,こ
れ とい って頼 れる評価 の基準 にた ど り着 いてい ない。
確 か に,技術者 の責任 についての教育 や倫理 綱領 の策定が進みつつあ り
,ま
た個別の技術領 域 につ いて,社会 的倫理 的問題 を政策 レベ ルで 取 り上 げる動 きが活発 であ る。 この ような形 の 科学技術へ の対処 は必 要不可欠であ り,すで に部分 的 に一定 の成果 を上げて もい よう。しか し,
科学技術 と社会 との関係 が一層複雑化す る と考 え られ る中で
,あ
るい は技術領域 の一層 の細分 化が進 む中で,単に技術者 の倫理や個別問題ヘ の応急措置的 な対処 だけでは,我々は今後の科 学技術社会 について何 ら具体 的 なヴ ィジ ョンを 描 くこ とはで きない。それ ゆえ,よ
り広 い包括 的視点で科学技術 と社会,個
人の関係 について考 えるための基準 が必 要 となる。
これ について,すで にかな りの議論が積み重
ねられて きている。けれども ,ま だ
,今後の指 標 として耐 えられそ うな十分強力な議論 は見出 されていない。アメリカの技術哲学会による
,これまでの技術哲学に対する自己点検では
,会長 自らが
,技術哲学は哲学界にあって も ,ま た社 会的にも依然 として「周辺的」だとの評価 を下 している
1.社会学で一つの流れを築いた「社会 構成主義」の立場 も
,科学技術論 としてはまだ
「記述」の域 を出ず
,「規範」 にまでは到底至っ ていないことが
,反省的に論 じられている
2.他に
,すでにその評価 自体がすでに「歴史的評価 対象」にす ぎな くなって しまったもの もある。こ のように全体 としてどこか停滞 したムー ドはあ るが
,完全 な技術決定論 に自旗 を揚げるのでな いか ぎり
,我々は「反省」 に続 く次のステ ップ の足掛か りを求めてゆ くほかない。
ではどこにそれが求められるだろうか。
包括的な科学技術論 を目論むか ぎり ,そ れは 様 々な分野 を大 きく括れる視点 を含 まねばなら ないが
,その ような視点が必要だか らといって
,科学技術 をは じめか ら一つの もの として扱 うべ きである ,と い うことにはならない。科学技術 には
,(技術上の細分化ではな く
)社会あるいは 人間 との関係 において然 るべ き分類が可能で
,その ような分類 に基づいて包括的な議論 を行 う
とい うことも十分考えられる。 もちろん ,こ れ
までなされてきた議論の中にはその点に留意 し
た もの も少 なか らずある。 しか し
,そ
のほ とんどが,科学技術 を
pre̲modemと
mOdemに分類 す るこ とで事足 れ りとしている ように思 われる(た
とえばハイデガーによる「伝統的技術」と「現 代科学技術」の比較など)。
つまり,こ の両者の 分離に基づ き,pre― mOdemと
の対比(こ
れは「テ クネー」 と「テクノロジー」の対比 となること もある)によつて「現代の科学技術」の対社会 的 は十人間的)特
質は明らかになるとし,結
局,肝心の「現代の科学技術」については概ね一括 りのままである。
(そ
してその多 くが,エコロ ジー問題を包括の鍵 として掲げている。)
ところが
,そ
のような論調が一般的である中 でも,多くが,遺伝子技術を中心 とした「生命 科学技術」およびインターネットを中心 とした「情報科学技術」の二つに対 して,他 の現代科学 技術 との異質性を明に暗にほのめかしている。
この異質性に明確に言及 した論者を挙げてみ る。
加藤尚武は『価値観 と科学
/技術』
3の中で
,チェルノブイリ以降の技術倫理の趨勢が「安全 性中心主義」であることを述べたあ と ,「 情報工 学 と生命工学の領域では
,倫理問題が安全性 と いう枠で発生 しない場合が増えてきた」として
,この二つの領域が安全性問題 に還元で きない領 域であることを述べ る。加藤は安全性問題 と科 学技術 に対する主体性の問題 を中心 に
,多くの 示唆 に富む議論 を展開するが ,こ の二つの技術 領域が従来の科学技術領域 と同 じようには括れ ない積極的な理由については
,特に究明を行 っ ていない。 (周 知の とお り ,加 藤 は生命技術 ,情 報技術のそれぞれに関する ,さ らには環境 に関 する応用倫理の研究分野 を日本 において切 り拓 いてきた人物である。 )
K.ミ
ッチャムは論文「メタ 。テクノロジー哲 学に向けての覚え書 き」 4の 中で
,これまでの「技 術」の歴史的経緯 として
,上に述べたようなプ レ 。モダン ,モ ダンの段階説をまず置いて
,プレ 。モ ダンを「技術が我々の生活世界に織 り込 まれて分離で きない段階」,モ ダンを「技術が生
活世界 と完全 に分離独立 して ,も っぱら効率的 な目的追求手段 となる (こ れに応 じて人々の生 活世界での諸々の「意味」も見失われてい く)段 階」 とする。その上で
,近年のインターネ ット の発展 を取 り上げ ,こ の技術 によって
,近代が バ ラバ ラに した ものが改めて生活世界 に re―
con xtudizeさ
れ
,人々が「意味」を取 り戻す こ とになると述べ る。彼 はインターネッ トを従来 のテクノロジーとは区別 して「メタ 。テクノロ ジー」 と呼び ,も はやテクノロジーを論ずる時 代 は終わ りになるとも述べ る。しか し ,「 覚え書 き」
(Notes)のタイ トルどお り
,インターネッ ト ヘの言及 も ,た だ人々が時間を忘れて効率性 を 無視 してインターネットを楽 しんでいるという
,きわめて漠然 とした事実への言及にとどまるも のであ り ,こ こで示 されている「情報技術の異 質性」は「近代」「意味」「生活世界」 という言 葉 に寄 りかかった大雑把な見通 しにしかす ぎな い。
考えてみると ,こ の異質性が少なか らず注 目 されなが ら ,そ れについて未だに十分な議論 を 誰 も行 っていない というのは
,非常 に不 自然な ことである。 もちろん
,今で も十分 に科学技術 論の大枠 に関する問題 ,お よび個別の技術領域 に関する問題の数々に我々が手 を焼いていると い うことは事実 としてある。 しか し ,ま ださほ どの成果が上が らない領域で
,どれを優先 して 論ずべ きだ とい うことが一概 に決め られない以 上 ,こ のことを回実に問題 を避けることはで き ない。む しろ
,成果が十分でなければ ,こ れま でほとんど論 じられていないが意識 には潜んで いる問題 を探 って日の下に曝 し
,視角を多方向 にず らしてみるという努力が必要ではないだろ うか。ひいては ,こ れが大 きな局面の変化 につ ながることもあろう。
そこで小論では以下
,包括的科学技術論が踏
み出す次のステップを ,こ のような「潜伏問題
の明示化」 ということに求め ,そ の最 も大 きな
問題であろう「ある種の情報技術
,生命技術 に
存する異質性」 について考察 を行 ってみたい と
思 う。なお
,包括的科学技術論 は本来
,科学技 術 と社会
,個人が どの ような関係 にあるか とい う関係記述的側面 と
,科学技術 との関係 におい て何 をなす ことがで き
,何をなすべ きか という 規範的側面の両面 を併せ持つことが理想であ り
,ここでの試み も最終的にはその両面 にわたつて なされるべ きものであるが ,こ れを一度 に展開 することは ,そ の内容 に鑑みてとても紙幅の許 す ところではない。それゆえ小論では ,と りあ えず「関係記述的側面」 に限って論 じてい くこ とにする。小論のタイ トルが「異質なるものと しての情報技術
,生命技術 (1)」 とあるのはそ うした理由による
5。2口 従来型議論の三つの類型化
情報技術
,生命技術 に存する異質性が従来の 議論の中で十分 に論 じられてこなかったのは
,従来の議論
(包括的議論 )の いずれの範疇で も
これ らが十分 に汲みつ くせないか らだ ,と 考え るのが 自然であろう。それゆえ小論 は
,従来の
「議論」の共通点が何であつたのかを改めて考え てみることで
,従来型の「技術」 に共通すると 考 えられる点を割 り出 し ,そ れ との対比 におい て情報技術
,生命技術 に存する異質性 を明確 に するとい う方法 をとりたいと思 う。
(従来の議論 の間に様々な見解の相違があるとしても ,い ず れ も従来型技術の何 らかの重要な本質を共通 し て捉 えていると見なすわけである。なお ,「 従来 型技術」 という言葉 を
,異質性の見込 まれうる 情報技術 と生命技術の特定分野一具体的には本 論の 4で 述べ る一を除 く
,他の科学技術の総称
として以後用いる。
)それには
,従来の議論 をま ず
,改めて類型化 し直 してみる必要がある。前 述の とお り ,こ れまで多 くの議論の中で現代科 学技術 は一括 りにされて きたわけだが
,異なる
観点 を含む議論 を統一的な基準で類型化する中 で
,一つの議論だけを見ていたのではわか らな い共通の特質
(従来型技術の特質
)が明 らかに なることが考えられるか らである。この とき
,類型化の基準 をどこに置 くかが重要なポイン トと なるが
,見出された共通点 を Aと するとき ,A
or〜
Aと いう形での差別化 しかできないのであ れば意味がない。
A orBとい う形で ,〜
Aの具 体的な内容が明示で きる余地のある類型化の基 準 を選ぶ必要がある。
これには
,論理的な組み合わせの余地をで き るだけ後 に残 しうるような基準 を選ぶのが適切 である。この条件 を満た し
,かつ議論 に飛躍 を
生 じさせない最 も有効な基準は次のような基準 だ と思われる。
【 関係す る項 を「科学技術」「人間」の 2項 と し ,い ずれかの成立過程 において
,他の項が不
可欠かつ最 も重要な要素 として組み込 まれてい ると捉えられる場合に
,これを「内在的関係」と 呼び
,不可欠でないか ,ま たは
(不可欠である にして も
)その本質に関わる最 も重要な要素で ない と捉 えられる場合 に,こ れを「外在的関係」
と呼ぶ】 (な お
,「科学技術」 は体系的な科学知 お よび技術知の上に成立する高度な現代科学技 術 を指 し ,「 人間」は理性的思考 を行いうる精神 お よび身体 とか ら成る存在 を指す もの とする )
ここには「社会」という項が出てこないが
,これを入れない理由は
,入れることで類型化が非
常 に煩雑 になって しまうことと
,先回 りして言 えば
,最終的に「社会」を入れな くとも (「 人間」
の項で処理することで
)十分 に
,情報技術
,生命技術の異質的局面が見出せ ると考 えられるか らである。
さて ,こ の基準 を用いることで
,従来型の議
論 を次の 3つ に類型化することがで きるのだが
,これは結果的に ,こ れまでの主要な科学技術論 に対 してすでに用い られている「中立論」 「技術 決定論」 「社会構成論」の
3つに対応することに なる。 しか し ,こ の後者のような分類がすでに 可能であるからといって ,こ れは単に方法論上 の違いか らの分類 にす ぎず
,上のような一つの
統一的基準か らの類型化 に基づ くわけではない
ので ,こ の分類そのままでは
,今問題 に しよう としているこれら
3つの議論の有意味な共通点 を見出 し得ないことに注意 されたい。
とは言え
,既存の分類 を利用 した方が理解が 容易 と思われるので ,ま ず既存分類の各内容 を 簡単 に述べた後に ,そ れぞれが上の基準で どの ように類型化 されるか ,と いう形で述べること にする。
(誤
解 を避けるために念のために繰 り返すが
,今行お うとしている諸議論の類型化は ,「 従来な されたいずれの議論 にも共通 して
,従来型技術 のある本質が含 まれているであろう」 というこ とを前提 とし
,その本質を浮 き彫 りにする中で
,それ との対比で情報技術
,生命技術 に存する異 質性 を考えようという目論見の上になす もので ある。あ くまで類型化は ,こ の対比 を明 らかに するための手段 にす ぎず
,類型化その ものが 目
的ではない。 したがって
,従来の包括的科学技 術論の「いずれが より優位か」 とか「それぞれ の理論が適用可能な技術 による
,理論の棲み分 けや重 な りが どのようになるか」,あ るいは「そ れぞれの理論 レベルは同 じか どうか」 などの問 題はここでの関心か らは一切外れ ,ま た小論の 成立には関係 しないことに注意いただきたい。 )
(1)第
一群
(中立論 )
概ね中立論は
,科学技術が「善か悪か」 とい う価値 に対 しては中立 に成立するという
,科学 技術 と人間の倫理的判断 との関係 に注 目しつつ
,科学技術
/人間の本質的関係 を捉 えようとする 立場である。科学技術 を生み出す ものは人間で あって も
,科学技術の本質は効率性あるいは合 理性の追求 ということのうちにあ り ,こ の よう な本質は善悪 といった価値 とは無関係であるか ら
,科学技術それ自体は
,一切の社会的利害関 係やイデオロギー とは無関係 に成立するもので あるとする。それゆえ
,科学技術 に関わる価値 はすべて
,人間がそれをどのように用いるか と いう
,人間の倫理判断に依拠することになる。明 らかにこの人間の判断は人間の主体性 によるも
のである。
(デューイのプラグマテイックな価値 内在的道具主義 とは別 に ,こ の人間の主体性 に 鑑みて「道具主義」 とも呼ばれる場合がある。 )
このような考え方は科学技術者の間に多 く見 受けられる。欧米の ,あ るいは近年 日本 におい て も盛んにな りつつある「技術者倫理」の考え 方 (お よび各分野の倫理綱領
)は概ね
,科学技 術 に関する問題 を作 り出すの も ,ま たそれを修 復 。解決するの も科学技術者である ,と して科 学技術の倫理問題の焦点はそれに直接携わる者 の倫理観 にあるという考え方に立つが ,こ れな どは明らかに中立論の考え方を示す ものである。
工学教育の倫理教科書 として名高い
C.ウイ ト ベ ックの『技術倫理』
6にその典型を見ることが で きる。つまり技術者倫理の基礎 となる「技術 /
人間」の関係記述に中立論は適任なのである。
あるいは ,い ま問題である生命技術 に関 して も ,こ の考え方が述べ られる場合がある。たと えば
J.ワトソンは ,遺 伝子治療 も含めた遺伝子 操作 と優生学 との関係 に触れた論文の中で明確 に 「遺伝学それ自体は決 して悪であ りえない。道 徳の問題が入って くるのは
,われわれが これを
用いた り悪用するときである」 と述べている 7.
(な お
,小論の結論か らすれば,こ のような考え 方には ,あ る一つの点で大 きな疑間が賦 される
ことになる。 )
さて ,こ うした科学技術中立論 においては
,科学技術がその成立の本質的な部分で人間お よび 社会 に依拠せず ,た だ用いられ方だけが人間の 倫理判断によって決め られ ,ま た人間に関 して も明 らかにその本質は科学技術 と独立 してある というわけであるか ら
,先にあげた類型化基準 に照 らす と ,こ うした見方は次のように新たに 整理 し直す ことがで きる。
第一群
(〓中立論
)のテーゼ :科学技術と人間
は外在的な関係 にあ り
,人間が人 間的要因に
よつて科学技術に具体的に関与 しうる。
(2)第
二群 (技術決 定論 )
中立論 において科学技術 はあ らゆる人間的価 値か ら独立で ,そ れ 自身で成立基準 をもつ もの とされたが
,技術決定論 において もその部分は おおよそ共通 している。ところが技術決定論は
,その名の示す とお り
,科学技術のあ り方は人間
(社会 )か ら独立かつ「人間
(社会 )の あ り方 を 決定づける」 ものであると捉える。 この考 え方 は「今後
,科学技術が ます ます発展すれば我々 の社会はどの ようになって しまうのだろうか」
という日常的に発せ られる問いの中にも漠然 と 含 まれている。最 も極端 な形の決定論
(現実 に はあまり考えられないが )に おいては
,科学技 術 と独立 した社会的決断 ,あ るいは人間の主体 的行為 というようなものは存在せず
,倫理や政
治など一切の社会的構築物が科学技術 に還元 さ れるということになる。
ハイデガーは正 にこのような決定論的立場 を 代表する論者 と思われるので,そ の考え方を H。
ドレイファスの解説論文 8に したがつて
(難解 な 存在論 に立 ち入 らず に
)援用することで ,も う 少 しこの立場の中味 を肉付 け してお くことにし よう
.論旨は次のようになる。原子力時代 に突 入 した近代の科学技術 は単純に道具的に理解で きるようなものではな く
,最小経費で最大収益 を挙げる最適化 を唯一の目的 として
,何ものに も制限されることな くそれ自体で方向付けられ ている。このような科学技術 を前に して (そ の 中にあつて
),人間は自然 との間にもはや「主体 一客体」の関係 を維持で きず
,どちらもこの唯
一 目的のための「材料」 という存在性格 をもっ た
,存在者総動員システムの一部 となる。 これ により人間の思考 も制限を免れることはできず
,科学技術の もたらす問題一環境破壊や大量消費 主義一の問題 を解決 しようとして もその姿勢は すでにテクノロジー的で しかあ りえない。人間 が科学技術 を管理 しようとしても
,つねにそれ
は背景 に回 り込んで人間の手 をす り抜 けて しま うものである。
では ,こ うしたハイデガーの議論 を典型 とす
る技術決定論 を
,上の類型化基準に基づいて述 べ るとどのようになるだろうか。一見するとこ のような技術支配の議論は
,科学技術 と人間が
「内在的」関係 にあると捉 えるものであるように 見える。 もしも人間の成立 において ,そ の精神 作用が文字通 り科学技術の本質抜 きには成立 し 得ない状況に現 にあるならば ,「 内在的」の条件
を満たす ことになろう。 しか し ,た とえば上の ような相当強い立論 を行 うハイデガーにおいて も
,我々は ,自 分たちがテクノロジー的存在了 解 を受け取 っているとい う事実 を現実の振 る舞 いの中で理解するならば
,その ときすでにテク ノロジー的存在了解の外 に一歩踏み出す ことが で き
,効率性 を唯一 目的 とする精神支配 を免れ ることが可能であると述べ られている。つまり 人間
(現代入
)の成立 自体は
,科学技術 と独立 に果た しうるということである。また実際 ,は
じめか ら精神の「完全な」技術支配を掲げるこ とは
,結局無意味な トー トロジーを述べ ること に他ならないので
,現実にはそのような立場 を 考慮する必要はないであろう。 したがって
,技術決定論の考え方は
,次の ようにまとめること がで きる。
第二群 (=技 術決定論
)のテーゼ :科 学技術と 人間は外在的な関係にあり
,技術が技術的要因 によつて人間に具体的に関与 しうる
.(3)第
三群 (社会構 成 主 義 )
上記 ,中 立論 と決定論が どちらも科学技術 自 体はその成立の本質的要件 をそれ自身の うちに もつ という立場である。これに対 し ,「 科学技術 の社会構成主義」
(social cOnstructionism of technology)と呼ばれる一群の考え方
(T.ピン チ
,W。バ イカー
,T.ヒューズ らの提唱 )は ,科 学技術 は科学技術 をその一部 として含むような 社会的プロセスにおいては じめて成立 しうるも のであって
,成立のための本質的な要件 は政治・
経済体制
,倫理観 ,利 害関係等の社会的要素で
あると考える。
た とえばヒューズは
,ェジソンの電球発明に
関する詳細な検証において
,高抵抗のフィラメ ン トが材料 として選ばれたのは ,す でに存在 し たガス会社 によるガス灯 との商業的競争 に勝つ ため ,と いうような社会・経済的要素が直接的 原因であったという事例 を述べている
9。あるい は
,ピンチ とバイカーは
,現在成立 している様々 な科学技術人工物は
,どれほどそれが一義的な デザインに基づ くものであると見 えようとも
,実は効率性や合理性 といった科学技術 に内在す る本質のみによつて形成 されたのではな く
,政治 。社会 。文化的な要因との偶然的関係 におい て形成 されたのであ り ,そ れゆえ科学技術 によ る人工物はもともと多様 な可能性 に開かれてい たものであって ,ま たさらに
,それ らは制作 さ れた意図 とは別の解釈 によって接触 される「解 釈の柔軟性」 (interpretative■
exibility)をもつの だと主張するЮ
.先の二つの科学技術論 と社会構成主義 との対 比に関 して
,次の村田の記述がたいへん要領 を 得やすい。 「 とりわけ社会構成主義の知見で重要 なのは
,技術 と社会の関係 を考える場合 に
,技術決定論的見方や中立的見方のように
,できあ
がった技術 を前提 した上で
,技術 について「外 側」か ら社会 との関係 を考えるというのではな く
,技術の「内部」 自体 に関 して
,狭い意味で の技術的要因以外の要因
,すなわち ,さ まざま な社会的
,政治的 ,あ るいは
,倫理的要因を問 題 にす ることがで きることを指摘 した点であ る。 」
Hこの村田の記述においてほぼ明らかなように
,技術の社会構成主義 においては
,科学技術 と人 間の関係は もはや外在的関係 としては捉 えられ ていない。 「社会」構成主義なので ,本 来は「技 術 と社会の関係は」 と言 うべ きであろうが
,技術社会構成主義の焦点はあ くまで「技術 と技術 以外の要因との関係」にあ り ,「 社会 と個人の関 係」 は特別な文脈以外問題 にはならない と思わ れるので ,こ こで もやは り「科学技術 と人間の 関係 は」 と捉 えてお きたい。なお
,科学技術の
成立過程 自体 に社会要素が深 く関与するとみる 一方で
,人間の成立 自体への科学技術の影響は 論点には含 まれていない。か くして
,本論の基 準で社会構成主義の基本主張 を切 り取 るなら次 の ようになる。
第三群 (=社 会構成主義
)のテーゼ :科 学技術 と人間は内在的な関係にあ り
,人間が人間的要 因によつて科学技術の成立に直接関与 しうる
.以上既存の分類 と重ねる形で
3つの類型化 を 行 ったわけだが
,とりあえず従来の科学技術論
(関 係記述 に関するもの
)はこのいずれかに含 ま れると考 えられよう。先にも断ったように ,こ れ ら互いに相容れない側面 を持つ包括的議論の いずれが優位か
,棲み分け可能かなどの問題 を 決するのが本論の目的ではないので ,こ れ以上 それぞれの詳細 に立ち入る必要はない。この分 類が網羅的であることの確認 と
,統一的視点で
の新たな類型化が当面必要なものである。
ではこれより
,新たに「第一群〜第三群」 と して示 された類型的記述 をもとに ,こ れ ら
3つの類型的議論が対立の背後 にどのような共通点 をもつかを明 らかにし ,そ こに従来技術の一つ の本質を見出す ことによって情報技術
,生命技 術の どの ような異質性が見出されるかを考察 し てい くことにする。
3日 第四テーゼの可能性とその意味
まずは論理的な手がか りを出発点 に しよう。
「科学技術」「人間」の二項 と
,「内在的」「外在 的」 という二つの関係 に基づいてなされた上の 三つの類型か ら
,組み合わせ上
,他に論理的に
可能な類型が もう一つ考えられる。 (こ の他の組 み合わせは
,内在
,外在の定義か ら矛盾に陥る。 )
第四群
(〓?)のテーゼ :科学技術と人間は内
在的な関係にあり
,技術が技術的要因によつて
人間の成立 に直接関与 しうる
.この群はまだ論理的可能性 にす ぎない ものだ が ,2.の 類型化が十分網羅的で類型化基準が う まく機能 し
,なおかつ 2.の 範疇 に収 まらない領 域がある状況で
,他の論理的な可能性が一つ残 されているなら ,そ れを仮の指標 として考えて みるのはまんざら悪い方策ではない。 (は じめの 基準が妥当だとすれば ,自 ず と他 を考える必要 はな くなる。)と りあえず ,問 題の情報 。生命技 術が この第四群テーゼを満たす ようなものなの だと考えることにしよう。す ぐに第四群の意味 や
,情報技術
,生命技術への適用 を考えようと
しても無理である。第四群 を置 くことが現実的 に妥当だとしたときの
,第一群か ら第三群の共
通点が何かをまず考えてみるべ きであろう。
第四群 との対比で第一群か ら第三群 に共通す るのは
,明らかに「科学技術は人間の成立その ものに関与 しない」と捉 えられている点である。
「人間の成立」が何かについては,は じめの類型 基準の「人間」項 に関する基本的な理解のまま
,「理性的思考 を行いうる精神お よび身体」をその 条件 と考 えることで
,3つの類型化 には何の間
題 もなかった。これに科学技術 は関与 しない。こ のことは
,第二群
(技術決定論
)のところで少 し問題 になったものの
,一般 に科学技術 と人間 の関係 を考 える上では自明視 してよいように思 われ ,こ とさら共通点 としてあげるまで もない ように思われる。 「科学技術 と人間の関係」とい うことに捕 らわれずに
,素朴 に「技術
(科学技 術 )」 の定義 を述べ よと言われれば
,立場 に関係 な く誰 しもす ぐに出て くる答 えは「 自然に存在 するものを利用可能で有用なものに改変する手 段
(体系的理論 をもつ手段 )」 2と いったような 答 えであろうし ,ま た「技術は人間の様々な身 体器官の能力 を拡大
,外化 した ものである」 と いう
,かつての
E.カツプの「器官投射説」Bを 根本から否定 しようとする者 もいないであろう。
すなわち精神 ,身 体 を伴 った人間が一方でまず 成立 していて ,そ の上で科学技術 は成立するの であ り
,成立が問題 になるのはむ しろ科学技術 の方であって ,そ こで立場が分かれるのだと考
えるのが妥当に思われる。
しか し「科学技術以前の人間の成立」はそれ ほど自明なことなのだろうか。第四群のテーゼ はそれを覆す内容に見えるわけで ,そ の可能性 を考えてみるためにも
,一見 自明な「人間の成 立」の中味 についてさらに考えてみなければな らない。いま特 に成立要件の「身体」の意味 に 注 目しよう。た とえば次のような状況 を考えて みる。いま
,我々は二酸化炭素の排出規制に何 らかの理由で失敗 し
,地球の温暖化 と異常気象 が もたらす種々の影響で
,我々の地球上での身
体的な存続が きわめて危 うい状況 に陥った とす る。この とき
,科学技術のあ り方如何 によつて
,もはや身体が存続で きなかった りで きた りする ことになれば
,科学技術が「人間の成立」その ものに関与することにな りは しないか。
この問いに対する各群の答えは
,明らかにい
ずれ も否定的であろう。 というのも ,た とえ身 体が蝕 まれ
,存続がそれに直接左右 されるとし ても
,第一群の立場では「なお もそれは技術者 の倫理判断対象にな りうる」 と答え
,第二群で
は「なお もそのような技術 との関係 を知ること で関係の外 に踏み出 しうる」 と答え ,ま た第三 群では 「なお も社会的決定対象事項であ りうる」
と答えて ,「 人間の成立」への関与を否定するこ とになるだろうか らである。
それぞれの立論の基本的成 り立ちを考えてみ るならば
,これは当然 と言えよう。すなわち,ど の立場 も科学技術 に対する人間の支配
/被支配 の捉え方にズ レがあるものの
,科学技術 はあ く
までつねに対象 として立ち現れるということが 根底 にあると考えられるか らである。が ,こ こ で注 目したいのは
,結局そ うすると ,い ずれの 立場 も最終的には「科学技術が我々の経験対象 である以上
,経験その ものが成立する根本的な 可能根拠ではない」 ということが
,今の否定根 拠 になるとい う点である。すなわち
,言い方を
換 えるなら ,こ の とき人間の成立要件 としての
身体は ,「 科学技術 との因果的連鎖の中に収 まる
物理的身体ではな く
,精神 とともにこの世界 に
おける我々の経験 をそこにおいて初めて可能に するような
,経験の根本的制約 としての身体 に なる」 ということである。これに科学技術は関 与で きない というのである。一見大仰 なことを 述べているようであるが
,突き詰めればこのよ
うな形 になるはずである。自明 と思われる「科 学技術以前の人間の成立」 とい うことを問い質 せば ,こ のような身体の意味を含んだ内容 にた どり着 く。この内容はそれほど自明だとは言い 難いはずである。
さて
,我々のいまの議論の中では
,従来議論 の共通点をある種の情報技術
,生命技術以外の
「従来の」科学技術 における特質の重要なヒン ト として捉えようということであった。そ うする と ,こ こで我々は従来の科学技術の一つの特質 を
,「た とえ精神
,身体へ影響 を与 えることは あって も
,人間の経験のそ もそ もの可能根拠 に は直接関与せず
,その外側 に成立する」 という 点に見出すことになる。 もともとの自明 さもあ り ,あ らためてその意味 を捉え返 してみて ,間 題はなさそうである。
これに続いて
,逆に特質を元 に第四群の意味 を考えることがで きる。第四群のテーゼを改め て「第一〜第三群のアンチテーゼ」 として捉え てみると ,そ れは次のように言い換 えられる。
第四群のテーゼ :科学技術 と人間は内在的な関 係にあり
,技術が技術的要因によつて人間の諸 経験がそこではじめて可能になるような経験の 可能根拠 に直接関与する
.もしこのテーゼが
,情報技術
,生命技術のあ
る ものに適切 に当てはまることが示 されれば
,我々は従来技術 に対 してこれら技術が もつ異質 性 について
,一つの具体的意味 を知 り得たこと になる。果た してこれは当てはまるのか。この 点に焦点を置 きつつ ,そ れぞれの技術 を考 えて みることに しよう。
4.第四テーゼとI情報技術
"
生命技術,そして異質性
両技術の中の どの部分 に
,異質性が見込 まれ るのであろうか。以下,情 報技術 については,特 にバ ーチ ヤル リア リテ イ技術 お よびイ ンター ネッ ト
,そして生命技術 についてはヒ ト クロー ニ ングを含む生殖細胞に関わる技術 (い ずれ も
,個別領域 に関わる科学技術論の対象 として
,近年最 も議論の盛んなものであ り ,「 異質性」の言 及は概ねこれらに関わっているように思われる )
を ,そ れぞれ候補 として考えてみたい。
(1)バ
ーチャル リア リティ (人 口現実感
)技術
この技術 は,た とえばヘ ッド・マウンテイ ド・
デ ィスプレやデータ・グローブといった我々の 視覚
,聴覚
,触覚等の感覚へのデータの入出力 を行 う装置 をイ ンター フェイスに して ,コ ン ピュータによって作 り出される 3DCGを 主体 と した仮想の世界 に我々があたか も入 り込んだか の ような (illrllnersive)経 験 を得 なが ら ,そ の世 界内の事物 と相互作用
(interacdOn)を行い うる
,そのような技術の総称である。我々の感覚器か らの種々の入力 をコンピュータが解釈 し
,仮想 世界 における因果的変化 を感覚器に対 して出力 するという情報のループが この技術の基本 とな る 14.
単 にエ ンターテイメ ン トとしてだけでな く
,医療診断や手術
,職業訓練
,建造物の設計
,遠隔操作技術 を加味 した危険な作業現場での機器 操作 など様々な用途ににすでに応用 されている。
応用の視点は ,こ の技術が現実体験の代用 とし て十分機能 しうること ,あ るいは我々の感覚器 そのままでは扱 えないような対象 を
,感覚的に 扱いうる形 に再構成で きることにある。
この技術 に第四群のテーゼは当てはまるのだ ろうか。
この問題 を考 える前 に一つ述べてお くべ きこ
とがある。それは
,前章 までに述べた従来の関 係記述的 (す なわち規範的でない
)科学技術論 においては
,科学技術 を作 り出す領 1と それを利 用する側 についての区別がことさらなされては いなかったが
(科学技術 との関係 において「人 間」という括 りでの整理が可能であった
),情報 。 生命技術 についてはその区別 をつける必要があ るとい うことである。本来 ,関 係記述的議論 に せ よ
,規範的議論 にせ よ
,最も問題 になってよ
いのは技術 を実際に利用する場のはずである。
しか し特 に関係記述的議論 においては
,先に述 。
べたように
,科学技術 をつねに対象化するとい う傾向をもつために
,利用の場 にある技術者冴 J
用者の対峙 をす り抜けて (つ ま り両者のいずれ にも科学技術 は「対象」であるために
),一括 り の「人間」対科学技術 という形 に滑 り込むと考 えられる。しか し ,3.で 明 らかになったような 経験の可能制約 という
,慎重 を要する問題 につ いて考えようとするなら ,こ の曖味 さのままで は問題の前 を素通 りしかねない。それゆえ
,本来最 も重要な「技術 を利用するときの人間」 と 科学技術の関係 として
,以下論 じることにする。
言 うまで もな く
,情報 。生命技術 は
,「技術者」
については他の技術同様
,経験の可能性 に関与 するものではない。
本題 に帰ろう。人工現実感 に第四テーゼが当 てはまるか どうかについて
,次の ような事例 に 則 して考 えよう。脳神経外科手術 における人工 現実感技術 の応用例 であ る 15。 脳 は大変 デ リ ケー トな構造 をもつために
,脳腫瘍 を切除 しよ うとして もふつ うに肉眼で部位 を見なが ら手術 を行 うと
,関係のない周辺部 に傷 をつけて副次 的な問題 を引 き起 こしかねない。そこで過不足 な く患部 を切除するするために
,予め
cT,MRIなどで撮影 した患者の頭部画像 を
3次元構成 し
,立体視で きるようにシースルーのスクリーンに 映 し出 し ,そ れを手術台に固定 された患者の頭 部 と正確 に重ね合わせ ,そ の合成 された図を見 なが ら医者が他 をで きるだけ傷つけることな く 患部 に手術 を施す というシステムが開発 されて
いる .(東 京女子医大などで実施 .)通 常では知 覚で きない現実 を知覚可能な状態にするという こ とで
,この ような技術応用 は「現実増幅」
(augmented reality)と
呼ばれている。
人工現実感 に関わる技術の基本要素が含 まれ ているのはもちろんのこと
,現実 とのインタラ
クシ ョンを含むという意味で
,かかる技術のう
ち「利用者」 と技術の関係 を考 える上でこれは 適例であろう。問題は
,その利用者 (こ の場合
,医者
)の経験の可能制約性 と ,こ の技術 との関 係 についてである。さらに言えば
,可能制約 と
しての身体 と技術 とのである。
医者の身体はもちろんこの技術 と無関係 に成 立するものであ り
,少な くとも施術 に関わらな い限 り技術 は医者の経験可能制約に関与するこ とはない。 しか し
,施術 に関わるときにはどう であろうか。この技術の趣 旨か ら明 らかなよう に
,医者は手術 を行 っている患者の患部 を直接 認識 しているわけではない。患者に実際に自分 の行為の結果が及んでいるということはもちろ ん理解 しつつ も ,そ れはあ くまで全体のシステ ムについての理解か ら導かれる帰結である。医 者の直接の操作対象は 3次 元構成の CGも しく はその
CGとシースルーで見 られる現実の様子 との合成図である。これを抜 きにして ,こ こで 行われる行為の一切は成 り立たない。
この とき医者の「身体」 について何が言える であろうか。この施術 を外か ら見ている第三者 には
,医者 を含む全体の構図は「医者の精神 ― 医者の身体―インターフェイス (ス クリーンお よびゴーグル
)一患者の身体」のように理解 さ れ
,医者の身体は相変わらず技術 とは無関係 に あるもの と思われる。 しか し技術の利用者であ る医者 自身の視点で考えればどうなるか。我々 がいま問題 にしているような
,経験の可能制約 という根本的な視点で身体 を捉えるならば
,身体 には当然
,J.J.ギブソンのアフォーダンス理
論 を持 ち出す まで もな く ,「 世界 とのインタラク
ションがそれによってはじめて可能になるよう
な制約」 という要件が含 まれるはずである。逆
にこの要件 を満たさないものは
,いまの場合
,身体 とは呼べ ない。そ うすると
,第三者 によつて 確認 されるような医者の身体 (物 理的身体 )と
は
,医者の立場か ら言えば厳密 には身体 とは呼 べないことになる。確かにこの物理的身体は患 者 との間に因果的相互作用 を行 っている。 しか し
,繰り返すが ,こ の相互作用 も含めて ,こ こ での行為一切 を可能に しているもの , したがっ て世界 とのインタラクシヨンをそこにおいて成 立 させるような 「精神 と世界 との最初の接点」と なるのは ,イ ンターフェイスなのであ り ,こ れ がなければそ もそ も物理的身体 と患者 との相互 作用 もあ りえない。つま り医者の側か らすれば
,全体の構図は「医者の精神 ―インターフェイス
(ス クリーンお よびゴーグル
)によって生 じる世 界 と
,それに関わるか ぎりでの身体 一医者の (物
理的
)身体 ―患者の身体」 と捉 えられるわけで ある。それゆえ我々が問題 にしているような経 験の可能制約 としての身体は ,こ の場合「イン
ターフェイスによって生 じるもの」なのである。
そうすると ,も はや明 らかなように ,こ の技 術の利用 において (そ して人工現実感技術一般 の利用 において
)技術 は経験成立
(人間の成立 )
の「中」 に入 り込むことにな り ,こ の科学技術 は「技術が技術的要因によつて人間の諸経験が そこでは じめて可能になるような経験の可能根 拠 に直接関与する」 という第四群テーゼを満た すのである。
(補
足。顕微鏡下での作業のような「従来の」
技術 にも同様のものがあるではないか
,との疑 間が出る可能性があるが
,顕微鏡 は日と対象事 物 との間の因果的連鎖 にきちんと位置づけられ るので ,日 の機能 を拡大するだけであって我々 のインタラクシヨンの対象は依然
,現実の事物 である。それゆえ顕微鏡は身体の外 にあると言 える。 ところが上の例では
,直接 のインタラク ションの対象は ,イ ンタラクシヨンに関 して因 果的物理空間の中の どこにも位置づけることが で きない 16。 っ まり物理空間と平行 して生 じて いる空間とのインタラクシヨンが第一のインタ
ラクシヨンであ り ,こ れが人工現実感技術 なし には成立 しないので
,技術が世界の界面その も のを作ることにな り
,経験可能制約 に関与する ことになる。 )
(2)イ
ンターネ ッ ト
インターネットの現状 に関 しては
,M.カステ ルの最新 の著書 『イ ンターネ ッ ト・ギ ャラク シ
̲』17の 分析が最 も信頼のおける ものであろ う。彼 は
1980年代 インターネ ッ ト黎明期か ら 2001年 に至るまでの,イ ンターネッ ト利用 に関 する内外の広い範囲の主要調査報告
,研究論文
についてきわめて公正な目で判断 しつつ次のよ うに述べ る。インターネッ トは一方では永続性 のないその場か ぎりの人間関係 を築 く「弱い結 びつ き」 を支え
,また遠方に住 む家族の絆 を深 めるなど「強い結びつ き」 を支える上で も積極 的役割を果たすが ,「 インターネットが社会的関 係 を築 く上で最 も重要な役割は
,個人主義 を基 礎 とする新 しい社会性のパ ターンヘの貢献であ る。・
"(中略 )ま す ます人々は単 に社会的ネッ トワークの中だけでな く ,コ ンピューター通信 による社会的ネットワークの中に組織 されてい る。それゆえ ,ネ ッ トワーク化 された個人主義 のパ ターンを創造するのはインターネ ットだと いうのではな く
,むしろインターネッ トの発展 が
,主たる社会性の形 としてのネッ トワーク個 人主義の拡散 に
,適切 な物質的指示 を与えてい るということである。 」 18
肝心なのは ,イ ンターネット上のこのような
「個人主義 を基礎 とする新 しいパ ターン」が
,既存の物理的社会 とは独立の もの と考えられる点 である。経済的なネッ トワークのように現実の ロジスティックスを基礎 に現実の物理社会の延 長 として成立するパ ターンではな く
,個々が も
つ様 々な思想や趣味嗜好等々に基づ きつつ
,現実 に形成 されているものとは全 く別個 に形成 さ
れる社会的パ ターンがネット上には存する。カ
ステルは
,ポル トガルでの初期の電子 コミュニ
テイである PT―
netについてのカル ドソの研究に
言及 し ,そ の中でオフライン社会 とオンライン 社会が相互に独 自のリズムをもちつつ相互作用 を行 っていたと述べた後
,次のようなカル ドソ
の言葉 を引用する。 「我々は新 しい空間概念が現 前する場 にいる。その空間では物理的なもの と バーチャルなものが互いに影響 しあい ,そ れは 新 しい社会の形
,新しい生活スタイル ,そ して 新 しい社会組織の形 に対する基礎 を与えるので ある。 」 19
人々はインターネッ トの発展 にあわせて着々 と
,物理社会 とは明 らかに独立 した独 自のテン ポと形 をもったもう一つの社会形態 を築 きつつ あ り
,それは今や一つの実体性 をもつ ものとし て物理社会 との間に相互作用 を引 き起 こしつつ ある。
H。 ドレイファスのようにネットコミュニテイ の もつ力 を
,現実のたとえば政治参画に対する 脅威 としてではな く
,人々が知 らず知 らずネッ トに巻 き込 まれてその リスクフリーな部分 に安 ん じて現実 を忌避するようにさせる誘因と見る ような向 きもあるが
20,ネットコミュニティ参 加者の多 くが物理社会において も社会参加が活 発であるとい う ,カ ステルの多 くの資料からの 結論 に対 しては説得力が薄れる。上記の
,実体 性 をもつ
,社会あるいは世界 としての新 しいパ ターンの形成 というのが
,現在 インターネッ ト 技術 を特徴づける上で最 もふさわ しい言葉であ
ろう。
インターネットがこのように特徴づけられる ならば
,我々の現在の「可能制約」問題 につい ては
,先の人工現実感技術 における判断 と類比 的な判断が可能である。ネット社会が物理社会 と別個 に存在 しうるものであ り
,我々はネット
社会 において様々な相互作用が可能である。 も ちろんこの場合は文字通 り物理的な相互作用で はな くなるが
,物理的次元 とは異なる相互作用 は明 らかに認め られ
,正に我々はそこで「経験」
をもちうる。なおかつ ,ネ ッ ト社会での種々の 経験が可能 となるためには
,単に我々が物理的 身体 をもっている とい うだけではだめである。
人工現実感技術の例 と同様 に
,物理的身体その ものは (こ こでは )「 ネッ ト」の中にはない。ネッ ト経験はインターフェイス とネッ トを支える他 の諸々の技術の総体 によっては じめて可能にな る。それゆえ
,我々はインターネッ トにおいて も
,経験可能制約 としての身体は技術 によって 生 じ ,身 体の「中」に技術が関与すると言える。
第四群テーゼは ,イ ンターネットにおいても適 用可能である。
(3)生
殖 細 胞 に関 わ る技術
かかる技術のうち
,現在最 も論議の的 となっ ている「 ヒ ト・クローニ ング」 を ,ま ず例 とし て考えてみる。
ヒ ト・クローニングについては多 くの説明を 必要 とす まい。96年 の ドリー以来
,体細胞由来 の核 を
,除核 した卵細胞 に移植 してこれを子宮 に着床 させることにより ,由 来 もとの個体 と同 一の遺伝子 をもつ新たな個体 を誕生 させること が
,哺乳類で も可能であるということが示 され
,この技術の人への適用が現在問題 となっている。
以来
,ユネスコの世界宣言で禁止が謳われ ,日 本では禁上の法律が成立 したが
,安全性問題 と 倫理的問題 は決着をみないままであ り ,シ カゴ の物理学者
,宗教団体が実施の名乗 りを上げ
,そして本年ケンタッキー大学が大々的に「不妊治 療」の名の下にヒ ト・クローニ ングを実施 しよ
うとしている。
本論では規範の問題 に立ち入 らないので ,こ れまでなされて きたヒ ト・クローニング技術 に 関する倫理問題 についてここで述べ ることは じ ない
21.問題はあ くまで第四群テーゼである。
ここで もこの技術の「利用」の場 に焦点をお く。まず誰が 財
J用者」なのか。レ
U用」 という と ,施 術の医師 ,体 細胞提供者 ,卵 細胞提供者
,子宮提供者 (う しろ三者は同一 ということもあ
る )の 4者 が直ちに挙げられる。そ して明 らか
に ,こ の 4者 については ,ク ローニング技術 は
経験の可能性制約に関与するものではない。 し
か しこの技術 によって誕生 して くる子 どもがあ
る場合
,その子 どもも利用者の範疇 に入れない わけにはいかない。技術 による「生産物」ある いは「副産物」とみなすわけにはいかない し,技 術が関与する集団の外 にあるもの とみなすわけ
にもいかない。それゆえ ,こ こにもう一人「不 U
用者」がいることになる。この「利用者」が今 の場合問題の鍵 を握ることになる。
クローンも核移植後に子宮に戻 されてからは
,通常の出産 と同 じ経過 をたどる。あるいは同一 遺伝子の人間ということで言えば
,一卵性双生 児 と基本的には変わらない。つ まリクローンを 作 るか どうか というのが技術 と人間の関係の大 きな問題 となるのであって
,作ると決定 した後 では
,実際に誕生 して くる子 どもとこの技術 と の間には直接の関係 を認めにくいように思われ る。 (た とえばテロメアについての知見がその後 さらに明確 にな り ,ク ローンの余命が短 くなら ざるをえない というようなことが誕生後 に明 ら かになったとして も ,そ れはクロー ン技術施術 以前の
,施術者
,施術対象 と技術の間の問題で あるように思われる。 )
しか し
,経験の可能性制約 という点 について はどうか。これは先に述べた
2つの情報科学技 術 に関 してよりもはるかに明瞭ではないか。ク ロー ン誕生後の ,ク ローンと技術の関係は捉え に くい。また誕生後 には ,ク ローンの経験の可 能性はクローニ ング技術 によって制約 を受ける ことはない。けれ ども ,ク ローンのそ もそ もの 物理的身体は ,ク ローニング技術がなければ決 して生 じることがなかったものである。たとえ 誕生する子 どもの身体 に何 ら特別なところがな くて も ,ま た出産の経緯がほとんど通常 と大差 のない ものであっても
,技術 な くしてその身体 はあ りえない という点で
,通常の出産による子 どもとの間に決定的な違いが存する。クローン は
,文字通 り物理身体の生成 という点で
,技術 がその根本的な経験の可能性制約 に深 く関与す るのである。子 どもは言 うであろう。 「 この技術 がなかったら
,僕は
/私はなかったんだもの。 」
か くして ,ク ローニング技術 においても
,第四群テーゼは適用 される。
さらに ,こ こでクローニ ングに関 して成立す る議論は ,そ の技術介入の程度 に差があるとし て も本質的な部分では明 らかに
,体外受精や代 理母等の一連の「補助生殖技術
(Assistd RepЮ―
ducive Technology;ART)」に拡張可能であろう。
また
,生殖細胞 に関わる技術 としては ,今 後
,移植用臓器の産出をにらんで ,そ の実現可能性 に最 も高い期待が寄せ られている
,ヒト胚の ES 細胞
(万能細胞
)利用技術 について も同様であ
る。この場合は ,ヒ ト胚 を利用する上で逆 に身 体生成 を阻むことになるが (た とえ「余剰杯」を 利用するに して もこの事情は変わらない
),身体 生成の可能性 をもつ ものへの否定的な技術介入 もまた
,経験の可能根拠 に直接関与することに 他 ならない。
か く生殖細胞 に関わる技術のかな り広い部分 に
,第四群テーゼは適用 されると考えられる。
5日 本論における結び