10年のあゆみ
著者 金沢大学考古学研究会
雑誌名 金沢大学考古学研究会活動報告
巻 3
号 活動10年のあゆみと能美古窯跡
ページ 1‑7
発行年 1981‑03‑31
URL http://hdl.handle.net/2297/33356
第 1 章 1 0 年 の あ ゆ み 第 1 節 活 動 の あ ゆ み
1969年7月、金沢城学術調査(第2次)の際、前年から活動をおこなってきた考古学同好会は 考古学クラブを結成し、翌70年4月には金沢大学文化サークル連合に加盟、正式なサークルとし て発足した。顧問には法文学部故井上鋭夫教授があたった。69.70年度には金沢市小坂1号墳、
同長坂二子塚古墳、辰口町灯台笹遺跡等の発掘調査に参加している。
しかし70.71年度から72年度にかけてのクラブ活動は決して順調なものではなかった。と いうのはクラブの自律性が確立していないまま、クラブ外部の問題が直接持ち込まれたためで あった。すなわち69〜70年を頂点とする大学紛争、および県内の考古学・文化財保護をめぐるめ まぐるしい動きの中で、それらをクラブ発展の問題としてとらえ直す力量が備っていなかったた めクラブ活動を統一することができなかったのである。したがって、クラブ内に幾つものグルー プができ、個人的に調査に参加する場合が多く、学習会への結集も著しく低下、クラブ活動が不 活発となり、上級生と下級生との意志疎通も欠如した状態にあったのである。
しかし72年にはその後の考古学クラブの発展を予期させる活動があった。一つは辰口町におけ る遺跡分布調査の際、破壊が進行する「旭台遺跡」を発見したことである。クラブはただちに行 政に対しその事実を報告したが、結果的には調査もなされないまま放置されることとなった。し かし、この事件は能美丘陵での遺跡分布調査を今後クラブの自主的な活動として取り組んでいく方 針を確立させるに至り、さらにこの旭台遺跡の資料紹介を含めて、能美丘陵での我々の活動を報 告するためまとめていこうという確認がなされた。これが74年に刊行された『活動報告第1号」で ある。二つは町史編纂のための田鶴浜町吉田経塚山古墳群の調査への参加である。これは形式的 には個人参加ではあったが実質的にはクラブ全体がまとまって参加した最初の調査であった。こ れ以降調査への参加は唱主的な判断に基づいてクラブとして参加する、$という形が確立したので ある。
73年9月には待望の部室を獲得、その機会に名称を「金沢大学考古学研究会」と改めた。この 背景には、72年度の経験をふまえ、「フィールド活動」を基盤とする自主的な活動、すなわち積極 的に野外調査を企画、参加する中で会員各自を鍛え、活動が現実の地域と遊離したものではなく、
地域住民と共に学び合い、伝えていく活動として取り組もうという新たな決意があった。
74年度は現考古学研究会の基本的活動が確立した年といえる。この夏期休暇中発掘調査がおこ
なわれなかったため、能登島町において分布調査・遺跡見学を主とした合宿がおこなわれた。こ
れは能美丘陵以外での最初のフィールド活動であり、現在まで毎年県内各地でおこなわれている。
年度 顧 問 調 査 能美丘陵分布調査 備 考
金沢城学術調査(第1次) 考古学同好会
68
考古学クラブ結成(11月3日)
69
井 上
小坂1号墳(3〜4月)
長坂二子塚(5月)
金沢城(7〜8,10〜11月)
灯台笹遺跡(10月) 1 辰 口 町 第1期新入生(4月) 巌金大教養部紛争
70
井 上
寺井山5,6号丘(7,10月)
円山古墳(8月)
若狭製塩遺跡(3月) I クラブ分裂状態(10〜11月)
※部員数10名に減少
71
井 上 若 狭 国 分 寺
大学祭参加 若狭国分寺(7〜8月)
ノ、旭台遺跡発見 上 級 生 脱 退
72
(井上)
経塚山(秋、3月) アンケート調査
志雄古墳群(7〜8月、74年3月) 考古学研究会と改名
73
(畑中) 蟻町史編纂 部室獲得
珠洲古墳群(75年3月) 合宿開始(能登島)
74
畑 中
※市史編纂
ア ン ケ ー ト(75年1月) 活動報告第1号 珠洲古墳群(8月)
75
畑 中 ※ 同 上
活動報告第2号 鳥屋古墳群測量(7〜8月)
76
畑 中 燕石川考研に協力
長坂古墳群(5月) 辰口町文化祭 湯屋古窯跡略報
寺井町和田山古墳群 展 示
77
畑 中 (7〜8月)
野田山古墳(12月)
羅県郷士資料館と合同 寺井町和田山古墳群
78畑 中
(7〜8月)
79