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山下俊介

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長崎大学教養部紀要(人文科学篇) 第21巻 第2号 27‑38 (1981年1月)

G.B.ヴィーコの美学(I) 山下俊介

A Possible Aesthetics of G. B. Vico (I)

SHUNSUKE YAMASHITA

序「ヴィーコ美学」の可能性

G. B.ヴィーコ読解の歴史を顧みるとき、ひとはそこに現われる彼の多彩 な相貌にまず驚かされる。彼はある者には近代歴史哲学の創始者に映り、ある 者はそこに観念論哲学を読もうとする。彼はまたプラグマティズムの先駆者で あり、実存主義者であり、プロトマルキストであり、プロトファシストであ

(1)

る、云々。これらの相貌はヴィ‑コ思想の一面であるともいえようが、むしろ アイザイア・バーリンに倣っていえば、豊富かつ深淵でありながら不正確かつ 暖味な思想家に対する場合に障りがちなように、解釈者はそこにそれ以上のも のを読み込み、それらを自分自身の思想の方向‑と無神経に転じてしまったの

(2)

ではなかったろうか。その死後二世糸己余のあいだに解釈の軸性を獲得しえない

マ・‑ジナル

ままに拡散しつづける思想家というのは、思想史上における周辺的な、したが って恩想史の本文にとってはせいぜい欄外註的な存在であったことの謂であ る。たしかに最近まで思想史上におけるヴィーコへの関心はさほど高いもので はなかったし、彼の恩想が特定の恩患家の内部に活性化されても、それは強力

(3)

な伝播力をもつものでもなかった。たとえば19世紀前半に歴史家J.ミシュレ は、のちに「ヴィ‑コのほかにわが師はなし」と揚言するまでにヴィ‑コに傾 倒し、その主著『新しい学』の自由訳を『歴史哲学の諸原理』なる題で刊行

(4)

し、その名を称揚して一時はパリ知識人の流行にまでなるが、その熟はコント やテーヌにまでは伝わらなかった。すなわち彼はなしで済ましうる存在であっ た。

美学史上におけるヴィーコについてもこの事情は変らない。今憧紀初頭にい

たるまで彼の創ま美学史上の欄外註的な存在ですらなかった0 19世紀後半には

数多くの美学史叙述の読みがなされるが、それらのなかにただの一行のヴィ‑

(2)

コへの言及さえ見出しえない。たとえばツインママン、この彪大な美学史書は 近性以降の叙述においてドイツ美学の展開に重点をおいているとはいえ、 18世 紀イタリアへの目配りも忘れてはいない。しかしそこで言及されるのは、ヴィ

‑コの友人でもあった碩学ムラト‑リ、やや下ってスパレッティ、パガ‑ノ、

M

ベッティネッリである。これは今日の代表的な美学史書、たとえばK.ギルバ

‑トとH.ク‑ンによる著作(1954年)やW.タタルキヴィッチの著書(英 訳、 1974年)がヴィ‑コに数節あるいは数ページを費しているのにくらべて対 照的なことであるOそれゆえ、ヴィーコの美学を語ることはきわめて20位紀的 な態度といえよう。

こうした転換はどうして起ったのか。これは「われらの時代のヴィーコの真

(6)

の再発見者」 B.クローチェに帰すべき功績である。すなわち、彼が1901年ナ ポリの批評誌『フレグレア』 4月号に発表した論文「美学の最初の発見者ジ ャンバッテイスタ・ヴィーコ」によるものである。 (この論文は多少の加筆が なされて翌年刊行されるかの浩翰な『美学』中の一章となる。 )ここで彼は、

先人たちがもっぱら歴史哲学書とみなしてきた『新しい学』をひたすら美学書 として読もうとする。 「ヴィ‑コの『新しい学』は、実際は美学であり、つま り、すくなくとも美学的精神に特別の力点をおく精神の哲学である」というの

(7)

が彼の結論であった。認識を直観的認識と論理的認識、すなわち想像力による 認識と悟性による認識とにわけ、前者に美学を後者に論理学を配するクローチ ェのあまりに有名なテーゼの着想が、このヴィーコ読解のなかにあったとは彼 がおりにふれ語っているところである。彼は後年(1911年) 『ジャンバッテイ

スタ・ヴィ‑コの哲学』なるヴィ‑コ思想の全体を鳥撤する著作を公刊する

(8)

が、そこでもさきのヴィーコ理解は変らないOクロ‑チェのこのようなヴィ‑

(9)

コ解釈には当時から現在までさまざまに批判が加えられているが、これが最近

にいたるまでもっとも影響力のあった解釈であったことも事実である。

こうしてひとたび美学史上にヴィ‑コが導入されると、ヴィ‑コ美学の文献

01)

は数を加える。しかしその多くはクローチェ的解釈の延長線上のものであっ た。そうしたなかでヴィーコ美学に別の光をあてようとしたのはE.アウエル

(均

バッ‑の「ヴィ〜コと美的歴史主義」である。しかしこれも、クローチェがこ とさらに排した歴史主義的読解を美学の領域において嗣ぐものともいえよう*。

歴史哲学者としてのヴィーコと観念論哲学者としてのヴィーコ、これらがす

くなくとも最近までの代表的な二つのヴィーコ像であった。この二つをふくめ

多くのヴィーコ解釈に共通する特徴は、後に来る思想の先駆者としての評価で

(3)

G. B.ヴィ‑コの美学(I) 29

あるということである。先駆者としての自覚はたしかにヴィ‑コ自身のもので あった。彼は『自伝』に書きつける、 「彼はこれまで誰によっても踏査された

m

ことのない地帯の、単独の旅行者であった」と。しかし彼が踏込んだ地帯は、

はたして後進の思想家たちの開拓した領野と合致しただろうか。合致すると見 たとき、ひとはこの入組んだ思想のより大きな部分を見落しはしなかっただろ

うか。

1968年のヴィーコ生誕300年を記念して、各地でシンポジウムが開催されいく

糾)

つかの論文集が編纂される前後から、ヴィーコ理解は新しい段階に入ったよう にみえる。以後、従前のヴィーコ読解を偏頗一面的なものとして再解釈をせま るかのように、哲学、言語学などの人文科学のみならず、法学、社会学、人類 学、あるいは心理学などさまざまな分野から彼の思想に新しい光を照射しよう と試みる論文や著書が続々と発表され、ヴィーコ思想はその本来的広賓のまま に着実に復活しつつあるかにみえる。こうした現象はなにによるものか。多く の論者たちが指摘するように、ヨーロッパ近代の坦界像のパラダイムであった デカルト的世界像の破綻の認識によるというべきであろう。数学を全学問のモ デルとする彼の主張。その上に今日のテクノロジーは成立したのだが、人類に 幸福を約束するはずだったそれら科学技術がいまや人間疎外を加速度的に増大 させるという逆説的状況が生起している。こうした認識のうえで今日のヴィー

m

コ再評価は行われている。彼こそ、デカルト支配が始まりつつあった18世紀初 頭のヨーロッパの周辺都市ナポリで、意識的に反デカルトとして自己の学問を 探求し確立していった人物であった。

本稿もこうした認識のうえでヴィーコ美学を再構成しようと試みる。すなわ ちヴィ〜コ思想の本来的広賓のなかに一つの可能的美学を読むことを課題とす る。わが国でも数年前に彼の主著が読み易い訳で提供され、ヴィーコ‑の関心 は徐々に高まりつつあるとしても、本会の会員諸氏にヴィ‑コに関する一般的 知識を予想することはできない**。したがってまず一般的知識を与えるために も論はつぎのような順序になるはずである。 1生涯と著作2反デカルト 哲学の形成‑Critica vs. Rhetrica (以上本号) 3 『新しい学』 4ヴィーコ の美学5むすび

1生涯と著作

ヴィーコの生涯、知的発展を知るには、 1725年に書き始められた『自伝』が

m

ある。だがこの書もいわゆる「自伝」が必然的にもつひとつの欠点をのがれて

(4)

はいない。たとえばひとは本書の冒頭近くにつぎのような文章を読む、 「自己 の哲学と数学だけを高揚し(中略)蘭余のいっさいの学問を覆えさんために、

ルネ・デカルトは自分の研究方法について巧みな作りごとをしているが、私は ここでは(『自伝』では‑引用者)作りごとをしようとは思わない。むし ろ、歴史家らしい公平さで、卒直にヴィ‑コ氏の研究全体にわたって順を追っ

o71

て叙述をすすめ、学者としての彼独自の発展の本来の根拠を明らかにしたい。」

1725年はヴィーコの主著となるF新しい学』の初版が出版された年であり、し かもこの年以降の彼の学問的関心は本書の増補改訂にのみ向けられるのだか ら、彼の反デカルト的方法・原理が基本的に確立された時期でもある。それゆ え自信にあふれている。そして『自伝』はたしかに「歴史家らしい公平さ」で 書きすすめられているようにみえる。すなわち、学的形成の当初からヴィーコ が『新しい学』への一本道を歩きつづけてきたかのように、あるいは反デカル ト主義者へまっすぐにすすんできたかのように書かれている。事実はかなり異 なる。

ナポリ王立大学修辞学教授の地位にあったところから、ヴィーコは毎学年の

プロルジオーネ(坤

初めに全学的な開講演説を述べる義務があった。この年ごとの開講の辞にはデ カルトにおずおずと挨拶を送っているヴィーコの姿をみることができる。たと えば「汝自身を知れ」という古代人の格言はデカルトの「コギト・エルゴ・ス

フアン々ジア

ム」に翻訳しうると説くヴィ‑コ(第‑回、 1699年)、あるいは想像力を人間 性に生じた堕落の徴候とみなし、想像力の病いの特効薬として数学的推論のデ カルト的、ポール・ロワイヤル的な厳密性を勧めるヴィ‑コ(第六回、 1706 午).ヴィーコがデカルト批判を公然と開始するのが1708年であることを考慮 に入れると、第六回の開講演説までの彼を完全なデカルト主義者とみなした

m

り、そこに劇的な転向をみたりする認識は改めねばなるまい。いまだ自己の足 場を構築しえないままに、当時の学術界に「新しい学」として流入しつつあっ たデカルト的方法と自己の学問との調停の言辞であるとみるべきであろう。こ

如)

れら一連の開講演説をヴィ‑コの方法の確立過程とみることも可能である。し かも開講演説は自己の学問の弁護ではなく、なによりも大学における学問の弁 護が公式に要請されるものであり、当時大学における諸学科は人文系学科もふ

くめてデカルト的厳密さを装いつつあったのである。

ジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィ‑コ(Giovanni Battista Vico)は1668年

貧しい古本屋の三男としてナポリに生れ、イエズス会経営の文法学校で中等教

(5)

G. B.ヴィ‑コの美学(I) 31

青を受けたのち、貴族ドメニコ・ロツカの子供たちの家庭教師としてサレルノ 近郊の寒村ヴァトッラに九年間(1686年‑95年)引込んだほかは、 1744年の死 までこの都会を離れなかった。ヴァトッラ滞在中もときおりナポリに出てきた らしく、ナポリ大学法学部に登録し(1688年、サレルノ分校か?)学位を得る (1694年)のもこの期間に属する。 『自伝』ではヴァトッラ時代は、古代の哲 学書・歴史書からルネサンス期のイタリア文学にいたる広範な読書遍歴が楽し げに語られるだけで、大学登録、学位取得などの伝記的事実には一行も触れら れない。したがって、この時期に公刊された彼の処女作である‑篇の詩「望み 絶たれし者の想い」 Affetti di un disperato (1693年刊)についても『自伝』

には言及がない。後年の他の諸著作については詳細に語られているところか ら、この事実は奇妙なものに映る。ヴィ‑コにとっては隠しておきたい徒らな

m

若書きだったのか.バーリンは、この詩は伝記的興味をしかひかないという.

評者によっては、この詩にうたわれている「苦悩こそは(中略)やがてかれの 哲学的思索の全体系がそこから出立せざるをえない実存的境位をなす」と高く 評価している。

(拘

ヴァトッラから故郷の町ナポリに帰ったヴィーコが眼にしたのは、学界を席 捲するデカルト哲学の猛威であった。そうした風潮の中で、 1699年彼はナポリ 王立大学の修辞学教授に就任する。この教授職は給与も低く(年俸100ドゥカ

‑ト)、すでに述べたように毎学年の開講演説を義務づけたものであった。

1706年までのそれら開講演説がきわめて折衷主義色の濃いものであることもす でにみた。

ヴィーコがその折衷主義的装いをとく最初の作品は、 1709年に公刊された

『現代の学問の方法について』 De noston temporis studiorum rationeであ

る。これは前年の開講演説に大幅に加筆してなったものである。 1708年の開講

式はこれまでとは異なり国王に献呈されるべく執行され、したがって開講演説

を印刷に付すべきことが予め決定されていた。ヴィーコはこの機会を「学界に

有益な新しい発見をもたらすような議論を工夫する幸運な事態の到来」と考え

たという。今日、実際に行われた演説と加筆部分をわけることは不可能であ

る。演説においてはあるいはもう少し折衷主義的であったかも知れない。この

論文はヴィ‑コによるデカルト批判の開埠でありながらデカルトの名は一皮も

出ず(形容詞としてのHcartesiano"が一度だけ用いられる)、直接的にはポー

ル・ロワイヤルの論理学による教育実践を批判対象にしながらアルノーには礼

節を失ってはいない。こうした鰯手からの批判のゆえか、当時ほとんど注目を

(6)

浴びなかった。彼が名ざしてデカルト批判を行うのは、翌1710年に公刊された rラテン語の起源より見出されるイタリア最古の知恵について』 De antiquis‑

sima sapientia ex latinae linguae originibus eruendaの第一巻『形而上学篇』

Liber Metaphysicusにおいてである。これは第二巻自然学篇、第三巻倫理学 篇の全三巻になるはずであったが、数年ののちにこの計画は放棄された。この 書は「異なるものは作られたものである(verum‑factum) 」という大胆な主 張(実はすでに「現代の学問の方法について』において示唆されていたが)に よって、また過激なデカルト批判によって多少の注目を浴び、批判もよせられ て、それへのF返答J Riposta二篇を小冊子として公刊している。

1720年ヴィ‑コは前年の開講演説を四ページの小冊子r万民法の要約JI Sinopsi del diritto universaleとして発表するが、これは同年から22年にかけ

糾)

て公刊される『万民法の原理』全三巻の構想を示したものであった。これらは 明らかにやがて空席になるはずの首席法学教授職、すなわち彼が長いあいだ焦 がれてきた教授職獲得に向けてのキャンペーンであった。この教授職の年俸は 修辞学教授職の六倍であり、獲得しうるならば、ヴィ‑コは修辞学教授就任以 来生計の維持のために引受けねばならなかったさまざまな副業(ラテン吉吾碑文 や追悼演説、伝記の執筆など)から解放されて研究に打込めるはずであった。

だが選衝は早くから事前工作がなされており、任命されなかった。なおそのた めに著わされた三巻の書は、大洪水から第二ポエニ戦争にいたる人類史のなか に神の療理の実現を探究し、それを哲学的、文献学的に基礎づけて理念史にま で高めようとする試みであり、まさしく『新しい学』のデッサンというべきも のであった。ヴィ‑コ自身、本書の一章を「新しい学の試み」 Nuova scienza

(噛

tentaturと題して、一部の人々を不興がらせたと『自伝」に書いているoすで に著者自身「新しい学」の自覚をもっている。それゆえに当代の指導的な文人 ジャ‑ナリスト、ジャン・ルクレ‑ルがその主宰する『古今文庫』に懇切な書

評を掲載したのは、ヴィーコの誇りでもあり慰めでもあり、それを『自伝』中 に長く引用している。

法学教授職就任の失敗はヴィーコの生涯にとって決定的な事件であった。彼 は生涯修辞学教授にとどまることになるであろうし、生計の維持のために副業 を続けていかねばならないだろう。彼はそうした逆境のなかで、しかしなにも のにも捉われない立場で「新しい学」の完成に没頭しうることになった。彼が

l叫

イタリア語で『新しい学』の執筆にとりかかるのは1723年からと推定され、翌

24年末には完成している。これは同時代の指轟的な学者たち‑法学者のグロ

(7)

G. B.ヴィーコの美学(I) 33

ティウス、セルデル、プ‑フェンドルフ、哲学者ではホップズ、デカルト、ス ピノザ、ロックなどをふくむ‑の主張を論駁して自説を展開した著作で、

『批判的形式による新しい学』 La scienza nuova in forma negativaと名づけ られた。しかし出版費用を引受けるはずのフィレンツェ枢機卿ロレンツオ・コ ルシーニ(後の教皇クレメンス12世)が援助を断ったため、ヴィーコは彼の唯 一の財産ともいうべき指輪を売って出版費を捻出しなければならなくなった。

だがこうして得た金は必要額の四分の一にしかすぎず、彼はやむなく原稿の

「批判的」部分を完全に削除し、彼自身の主張だけを残し、しかも要約しなけ ればならなくなる。削除した部分は今日残っていない。四折刊本二巻になるべ き原稿が四六判288ページの本として世に出るのは、1725年10月中旬であった。

いわゆる『新しい学』 Pnncipi di una scienza nuova d'intorno alia natura delle nazioni (ヴィ‑コ自身のちに『新しい学第一版』 Scienza nuova ♪nma と呼ぶ)の誕生である。これ以降のヴィーコの学問的主関心はさきにも述べた ようにこの著作の増補改訂に向けられ、大幅に書改められた第二版(それゆえ に実質的には新作である)が出版されるのが1730年、さらに増補された第三版 は1744年、彼はこの年の1月に世を去るが、その六ケ月後のことであった。

ヴィーコは『新しい学』におけるさまざまな発見がいかに新しくかつ重要な ものであるかを意識していた。クローチェの表現を借りれば「彼は自己の見解を くり返し、それをあらゆる機会において当代の論敵に強うることを怠らなかっ た。著書の序文においても、手紙においても、結婚や葬式の際に依頼された詩に

軸1拘

おいても、また文書検査官としての彼が職責上果した証明書においても‑。」

それゆえに彼は『新しい学第一版』上梓に際して、その著書をイタリア国内の みならず、ニュートンをふくむヨーロッパ全土の著名な学者たちの許に送った のである。しかし反響はきわめて冷たいものであった。国外ではわずかに『ラ イブツイヒ学報』に同誌の主宰者J. B.メンケンによる短評が掲載された が、これはメンケンのイタリア人の友人からの誤った情報にもとづくもので誤

feo

解に満ちていた。ヴイーコはこの誤解に満ちた批評に反論して小冊子『 「ライ ブツイヒ学報」論評』 Notae in ≪Ada lipsiensia≫を1729年に出版するO反論 が時季を失した二年後の出版になったのは、この年(1729年)までに『新しい 学』の再版が出ることになっており、彼はそこに「注釈」 Annotazioneを附す ことでそうした誤解を反駁するつもりであったからである。しかしこの計画は 実現せず遅すぎた反論出版となったのである。

数年前r万民法の原理』を高評してくれたルクレールには、他の誰よりも注

(8)

意をはらって確実に届くように送付ルートまで指定してF新しい学第‑版』を 贈ったが、受領の返事すらなかった。 F自伝』の1731年追加部分にヴィーコは

「返事がないのは、おそらく彼はすでに死んでしまったか、あるいは老令で学 界を退き通信もできないのだろう」と書いている。実際にはルクレ‑ル当時活

躍中であり、その主宰する『古今文庫』は1727年まで刊行された。そうした彼 のもとへある日ヴィーコからの手紙が届く、ナポリでは誰も自分を認めてくれ ないが、ルクレールさえ(その出版物のなかで)ウンと言ったら、自分の名は

ヨーロッパ中に鳴りひびくだろう、というのである。 紳

2反デカルト哲学の形成

‑Critica vs. Rhetrica

l7世紀の初頭にイエズス会経営の学校を了え大学で法学を修めた一人のフラ ンス青年は、蓋然的な知識をしか与えないと彼には思われた「書物の学問をま ったく捨て、 (中略)世間という書物を研究し、いくらかの経験を獲得しよう とつとめて数年問を費やしたのち」彼は自分自身を研究しよう、そして自分の

とるべき途を選ぶために自分の精神の全力を用いよう、と決心する。そして9

年間の知的放浪ののちに「コギト」に到達する。青年は、それのみはその推理

の確実性、明証性のゆえに疑うことのなかった数学を範に、この「コギト」を

罪‑原理として、神をそして自然界をと、演鐸的に一つの蔚合的な世界像を構 成しようとした。そして、それは成功した。だがそこは、出発点において蓋然 的知識しか与えないとして放解された「書物の学問」はついに入り込むことの

できない世界であった。

同じ世紀の末葉、やはりイエズス会経営の学校を了え大学で法学を修める一

¢申

人のイタリア青年は孤独でしかし楽しい九年間の書物性界の遍歴ののち、 「学

問および博識を身につけて」故郷の町に帰ろうとしていた。彼には九年間に蓄 積した「学問と博識」が誇りであった。九年間にわたる孤独の時期が終ろうと するころ、彼はデカルトの自然学が以前のすべての体系の光彩を奪ってしまっ たということを耳にして、それを知りたいと強く願った。帰ってみた故郷の町 では地位ある学者たちのあいだでもデカルトの自然学が名声の絶頂にあり、

(梱

「彼は故国における異邦人であった。」やがて青年が就職するはずの教授職に は、大学の学問を擁護するにふさわしい開講演説を課せられていた。

二人の青年はいうまでもなくデカルトとヴィーコである。デカルトの企ては

その明証的装いのゆえにたちまち学界を支配するかの勢いであった。それはま

(9)

G. B.ヴィーコの美学(I) 35

ったく新しい世界像のように人々には思えたのである。すでにヴィーコはヴァ トッラ滞在末期の集中的なデカルト読書のうちに、その学の出発点に疑問をい

¢カ

だいていた。だが彼は第六回までの開講演説ではその疑問を口にしてはいな い。そうした彼が突如ともみえる形で1708年の開講演説で、さきにみたような デカルト批判を語るのは、あるいは、本来的に自己の主要関心事を徹底的に排 除する新思想と、自己の、そしてその背後にある伝統的学術との調停者の役割 をはたすにはすでに限界にあったから、というべきだろうか。しかもこの年の 演説は印刷に付されることが予め決定されていた。印刷によって学説を問うこ とはヴィーコにははじめての経験であり、ナポリの学術界‑自己の名を知らし めることであった.すでに不惑に達したヴィーコが、学術的処女出版において もやはり調停者の役割をはたすなら、彼は生涯その役を降りることはできない

であろう。彼はルネサンス人文主義の「ミネルヴァの梟」として期び立とうと する。 (本節未完)

(1)ヴィ〜コ思想の影響、読解の歴史については以下の各書を参照。

Vico, G., Autobiography, tr. by Max Harold Fisch and Thomas Goddard Bergin, (1st ed., 1944). Cornell Paperbacks, Ithaca and London, Cornell University Press, 1975. pp. 61‑107‑

Vico, G., Opere, a cura di Fausto Nicolini, Milano e Napoli, Riccardo Ricciardi, 1953. PP‑ XX‑XLVI.

Tagliacozzo, Giorgio (ed.)サGiambattista Vico : An International Symposium,

Baltimore, Johns Hopkins Press, 1969‑ PP‑ 147‑2

Berlin, Isaiah, Vico and Herder, London, The Hogarth Press, 1976. PP‑

90‑98.

(2) Berlin, I.,, op. at., p.

(3) 2巻におよぶ文献目録(Croce, B. e Nicolini, F., Bibliografia vichiana, Riccardo Ricciardi, 1947‑ I.)を挙げて、筆者の評価を過小ととがめる向きが あるかもしれない。これだけの周到さをもってすれば、デカルトやカントには数十 巻でも足りないだろう、と答えるだけである。

(4) Principes de la ♪hilosophie de I'Histoire, traduits de la Scienza nuova, de J. ‑ B. Vico, et precedes d'un Discours sur le syst^me et la vie de l'auteur. 1827.

本書は後に増補されつぎの書になる。

Oeavres chotsies de Vico, pr6c色d6es d'une introduction sur sa vie et ses

(10)

ouvrages, 2 vols. 1835‑

(5) Zimmermann, Robert, Geschichte der Aesthetik (Wien, 1858). 1st repr., New York, Johnson Reprint Corporation, 1972. SS. 310‑12.

(6) Berlin, I., op. cit.,p. 116.だからといって、バ‑T)ンがクロ‑チェのヴィ‑

コ理解を評価しているわけではない。註(9)を参照のこと。

(7) "la vera Scienza nuova del Vic0 6 1'Estetica; o almeno, la Filosofia dello spirito con particolare svolgimento dato alia Filosofia dello spi‑

rito estetico. (B. Croce, Estetica, 10 ed., p. 256.)

(8) "la Scienza nuova (ら) una filosofia dello spirito con particolare nguardo alia filosofia della fantasia, cioとall'Estetica." (B. Croce, La Filosofia di Giambattista Vico, Laterza edizione economica, p. 50)

(9)枚挙に達がないO註(6)との関連では、 「クローチェはヴィ‑コ思想より引出 した以上のものをそのなかに押込んだ。 」 (Berlin, I., op. cit., p. 95.)

(10) Pompa, Leon, Vico: A Study of the New Science, London, Cambridge University Press, 1975‑ P‑

(ll)ヴィ‑コ美学の文献については以下を参頗oただし1950年代までo

Caramella, Santino, L'Estetica di G. ‑ B. Vico, in Momenti e Problemi di Storia deli'Estetica, 4 voll., Milano, Marzorati, 1959‑61‑ pp‑ 785‑874.

(12) Auerbach, Erich, Vico and Aesthetic Historicism, in Scenes from the Drama of European Literature, New York, Meridian Books, 1959. (初出は JAAC, Vol. VIII, 1949.)

(13) Nicolini, F., op. cit.. 『自伝』は「彼」という三人称で書かれている。

(14)たとえば以下の諸著。

Piovani, P. (ed.), 0mmaggio a Vico, Napoli, Morano, 1968‑

Tessitore, F. (ed.), Quaderni Contemporanei, No. 2. Napoli, L'Istituto Universitario di Salerno, 1968. (未見)

Tagliacozzo, G. (ed.), op. cit., 1969.

なおG.タリアコッツオ編著は以下の二審の編集を喚起した。編者たちは三書杏 もって"Trilogy"と呼んでいる。

Taghacozzo, G. and Verene, D. P. (eds.), Giambattista Vico's Science of Humanity) Baltimore and London, The Johns Hopkins University Press,

1976.

Tagliacozzo, G., Mooney, M. and Verene, D. P. (eds.). Vico and Content‑

porary Thought London and Basingstoke, The Macmillan Press, 1980‑

(Reprinted from Social Research, vol. 43, Number 3 & 4, 1976.)

(15)ヴィ‑コ再評価に際しては、 A.モミリア‑ノがバ‑l)ン著前掲書の書評におい

(11)

G. B.ヴィ‑コの美学(I) 37

て語るつぎの言葉を肝に銘じておくべきであろう。

HBefore we celebrate the vitality of Vico and Herder let us be cer‑

tain where they are leading us." (Stevenson, D. R., Vicos Scienza Nuova: An Alternative to the Enlightenment Mainstream, in Fink, K.

J. and Marchand, J. W. (eds.), The Quest for the New Science, Language and Thought in Eighteenth ‑ Century Science, 1979. p. 16.より再引用。 )

(16)ヴィーコの伝記的事実、知的発展を知るには『自伝』のほかにつぎの諸著があ り、最近複刻された。

Flint, Robert, Vico, (1886)‑ Reprint of the 1901 ed., New York,Arno Press, 1979.

Adams, Henry Packwood, The Life and Writings of Giambattista Vico, (1935), Reprinted, New York, Russell & Russell, 1970.

Chaix ‑ Ruy. Jules, La formation de la pensをe philosophique de G. ‑ B. Vico,

(1943), New York, Arno Press, 1979‑

(17) Nicolini, F., op. at., p. 5.

(18)義務ではなく慣例であったともいう1699年から1708年の間にも、 1701年、 04 年、 07年には開講演説をしていない。以降確認しうるのは1719年と1732年の二回。

(19) Corsano, Antonio, Vico and Mathematics, in Giambattista Vico: An Inter‑

national Symposium, pp. 426f‑

(20) Vico, G., Autobiography, p. 36‑

(21)たとえば、上村忠男「若きヴィ‑コと人間存在の両義性」 、 『知の考古学』第7 号所収、社会思想社、 1976年3月

(22) Berlin, I., op. at., p. 5f.

(23)前掲上村論文。

(24)全三巻の書名はつぎの通り。

De universi juris uno ♪rincipio et fine uno (1720). De constantia jurispru‑

dentia (1721), Notae in duos libros (1722)‑

(25) De constantia junsprudentiaの第二部、 De constantia philologiae第一章の こと。

(26) Bibliotheque ancienne et moderne, Vol. XVIII, pp. 417‑33.

(27)健に問うべき自信作をなにゆえにイタリア語で書いたのかはきわめて疑問であ る.当時国際的学術用語はラテン語であり、ついでフランス語が通用した。ヴィ‑

コが私淑したベ‑コンも英語で書いたが、そのラテン語訳を用意していた。ヴィ‑

コは『新しい学』のラテン語訳を用意していないし、その気もなかったようである。

しかも彼自身外国の学者たちとの通信はラテン語によっており、その事情は熟知し

ていた。デカルトに対抗したのかもしれない。

(12)

(28)ヴィ‑コは1735年王国修央官に任命されたが、それを指すものか。

(29) Croce, B., Estetica, p. 242‑

(30) Ada eruditorum lipsiensia, 1727年10月号。

(3D rヴィ‑コの弁明J Vici vindicaeとも別称されるO

(32) Hazard, Paul, La Crise de la Conscience europをene (1680‑1715), 1935. (野 沢協訳「ヨーロッパ精神の危機』、法政大学出版会)の原註・参考文献にはF古今 文庫」は1727年まで刊行とあるEncyclopaedia Britannicaの"Leclercの項

(David Clark Shipley執筆)には1730年まで刊行とある。

(33) F. Nicolini, Due lettere inedite di G. B. Vico a Giovanni Leclerc, in Revue de Litterature Compare, Vol. IX, p. 737,1929 (未見)。前掲ポール・アザ

‑ルの著書より引用(邦訳90ペ‑ジ) 。ただし括弧内はI. Berlin, op. at., p. 8.

より補った。

(34) Descartes, R., Discours de le Methode, Premiとre Partie.

(35) Ibid., Quatriとme Partie.

(36)註(34)に同じ。

(37)註(35)に同じ。

(38) Nicolini. F., op. tit., p. 21.

(39) Ibid., p. 25.

(40). #ォ*., p.

(41) Ibid., p. 16.

(42) Apel, KarトOtto, Die ldee der Sprach in der Tradition des Humanismus von Dante bis Vico, (1963). 2 Aufl., S. 321.

*今夏Luigi PareysonのL'esperienza artistica (Mursia, 1967)が届き、そ こにその論文の存在を知りながら入手不能と信じ込んでいたPareyson教授のヴ イ‑コ美学論La dottorina vichiana dill'ingegno (1949)が収録されているこ とを知った。不明を恥じるしかない.本論文はヴィ‑コを後に来る思想の先駆形態 としてみることなく、彼の芸術論を歴史的文脈のなかに定置し、かつヴィ‑コ自身 の思想の文脈のなかで、内在的にヴィ‑コ美学を再構成しょうと試みる卓抜な試論 である。

**本稿は美学会西部会例会(1980年2月23日於京都大学)における発表原稿の 前半部である。この部分は発表原稿に若干の加筆をしただけで大幅な変更はない。

つづく後半部は、発表後に前註*にのべた著作をはじめ数冊の資料が届いたことか らかなりの修正を痛感し今回は留保する。

なお、発表原稿作成の段階で種々の資料を教示され、貸与いただいた河瀬明雄本 学教授には感謝の言葉を知らない。

(1980. 2.20/1980.10.30)

(昭和55年10月31日受理)

参照

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