囲碁求聞史紀
サークル名:マサカディフィート 著者:真坂野栄(まさかのさか) 発行年月日:2015 年 12 月 30 日【まえがき】 どうもどうも、今回当サークルの頒布物をお手に取り頂きありがとうござ います。サークル『マサカディフィート!』の真坂野栄(まさかのさか)でご ざいます。今回の内容についてですがね、ズバリ『囲碁』の本です。東方 project でお馴染みの霊夢と魔理沙が、時には他のキャラを交えつつ、ゆるー り、時にはゆりゆり~!な会話をテーマ毎に行い、筆者が補足としてつらつ ら書いている構成となっております。内容に関しては結構幅広いものを扱っ ているつもりです。例えばそうですね、囲碁の珍エピソードとか、棋士の超 人伝説とか、囲碁を取り巻く環境とか……まぁ大体そんな感じ。あと事前に 断ってはおきますが、この本はあくまで囲碁界事情に特化して取り扱った本 でありまして、全て読んだからと言って囲碁が強くなるとか、そういう訳で はありませんので、ご容赦下さい(その手の本については本当は一冊出すつも りだったのですが、落としてしまいまして。。) さて、一応キャラ紹介というか、本同人誌における設定みたいなものも書 いておきましょう。 ・博麗霊夢 ⇒ツンデレ感たっぷりな巫女。空を飛ぶことができたり、妖怪を退治できた りと、主人公らしくハイスペックではあるのだが、本同人誌においては殆ど そんな場面はありません。元々ドライなところがあり、あと結構金にうるさ いところもあります。今回の作品においても神社にまともな人間が参詣しな いため、新たな御神体として、仙人がやっていた囲碁を担いでやろうと目論 んでいる……なんて設定にしております。また基本ぐーたらした生活を送り、 暇を持て余していたで、すっかり囲碁に嵌ってしまっており、たまたま遊び に来た魔理沙にその魅力を話す……キャラ同士の会話パートに関しては、大 体そんな感じにしていますね。文中の会話では『れ:』で統一しております。
・霧雨魔理沙 ⇒所謂魔法使いであり、盗人。スペルカードと呼ばれるカードで暴れまわっ たりするが、本同人誌ではそういった場面は無いのでご容赦を。人懐っこい 性格で、特に霊夢大好きっ娘。口は悪いけど努力家でフレンドリー。まぁ端 的に言って筆者の好みのタイプそのものであります(笑)。今回はすっかり囲 碁の虜になってしまった霊夢の囲碁の相手になったり、聞く役になったりす るという立ち位置。文中の会話では『ま:』で統一しております。 ・幻想郷 ⇒東方 project の舞台。通常の人間界からは強烈な結界で隔離されており、 霊夢たちはそこで日々を過ごしております。神様や妖怪や吸血鬼といった、 この世で幻想となったものが次々と流れていく場であり、そうした存在が同 居している(そして一同ワイワイやって)ような世界。ちなみに幻想郷は昼間 から酒を飲めるような、そのような世界でもあるので圧倒的優しい世界感あ るから割と移り住みたいなという、そんな筆者の本音。『外の世界』からは 切り離されているようには書きましたが、例えば香霖堂と呼ばれる書店は、 例外的に外の世界の情報を取り寄せることができており、今回霊夢たちも多 く囲碁の本や情報を仕入れている(というか電子書籍の台頭により、現実世界 で忘れ去られた囲碁書籍が流れ着いている……なんて設定が、一番それっぽ いかもですね)という設定にしております。なお公式の東方のキャラにも、囲 碁を嗜んでいる様子が見受けられるキャラがしっかりいたりしますよ(例えば 東方鈴奈庵の第一巻で邪仙の霍青娥と道士の物部布都が囲碁を対局している コマがある)。 まぁ他にも色々なキャラが出演してはおりますが、そこら辺は割愛。あく まで囲碁の解説本ですからね、野暮としたものです。前置きも長くなるのも なんなんで、早速本編に入ることにしますかね。それではどうぞ!!
【第一章:寝る一手事件】 桜も咲くかどうかの長閑なある日、私博麗霊夢は久方ぶりに境内の掃除を していた。最近どうも囲碁ばかりしていたせいか、少し手を抜いてしまった 感があったのよね。これじゃ囲碁でこの神社を興そう!なんて思っても、本 末転倒。このままじゃご利益にあやかれな…… れ:…っといけない! そういえば遊びに来た魔理沙を居間に待たせたままだったわ。退屈して不貞 ててなければいいのだけど。 れ:まーりさー!……って、あれ? ま:ぐー……あー、すいかぁ、そんな酒を口に入れられたらぁ、ごぶごぶぅ れ:本当、一体何の夢を見てるのかしら。 取り敢えずちょっと暖かくしてあ げた方がいいかしら。 ま:あー、まだまだ飲めるぞぉ~ れ;はいはい、酔っ払いはこれ包んでしっかり寝なさーいっと。 どうしてまた萃香なのかしら?、とは苦笑いしてしまったけど、魔理沙の 寝顔をこうやって見ることができるのも、まぁ悪い気はしない。 今日はのどかな日差し、まだ途中とはいえ目一杯掃除をしていることも あってか、私も結構眠たくなってきたなぁ。 れ:ふぁ~……って、誰か戸を叩いているのかしら? 戸;(ダンダンッ、ダダンダン!) れ;もう、仕方ないわね。はいはい、わかりましたわかりました~。 何か小気味よい、如何にも弾んだ感じの音。それだけで、大体誰なのかは 予想がついた。 さ:天気が良いので遊びに来ました~! れ:こっちは天気が良いから寝ようとしてたんだけど。 やはり戸の音の主は東風谷早苗だった。魔理沙ほどではないにしても、 こっちも随分遊びに来るもんね。
さ;あらあら、それはすいませんでしたー。境内の掃除の途中だったっぽい ですよね、手伝いましょうか? れ:ま、お茶は用意してるから取り敢えず上がっても大丈夫よ。 さ:お~、ありがとうございます! あら、今日は魔理沙さんと碁でも打っ てたんですか? それっぽい靴もありましたし。 れ;あー、これはたまたま並べていただけ。魔理沙ならこっちで……ほら。 ま:ZZZ…ぐぁ~!! さ:なるほど、これは随分とまた豪快に寝ていますね……あっ、その話で思 い出したんですけど。 れ:ん、どうしたの? さ:『外の世界』の囲碁の名手の対局で、面白い話があったんですよ。 れ:え、なになに! 教えてくれるかしら? さ:流石霊夢さん、最近随分と囲碁に凝っているという話を聞いてはいまし たが、本当にそうなんですね~。 れ:何せ最高の暇潰しだからね、ふふん♪ さ:随分機嫌が良さそうですね、にこにこ。 れ;…はっ。別に、そんなことは、無いわよ? さ:照れなくてもいいのに……あ、話を戻しますとですね、今魔理沙さんが あーなってるじゃないですか。実はですね、そういうことをやっている うちに負けてしまった棋士がいるんですよ。 れ:んーと、なになに? さ:簡単に言うとですね、対局中に寝て負けたとのことです。 れ:へ?? さ:対局中に寝て負けた、とのことです。 あまりにも吃驚して、何度も聞き返してしまった。確かに囲碁の棋士って、 かなり長いこと集中するだろうから、疲れそうではあると思っていたけど。 にしたって、寝て負けるだなんて、思いも寄らないわよ。
さ:しかも、中々の大一番だったみたいですよ、大金のかかった。 れ:そんな一戦、私だったらお金のことが真っ先に頭に浮かんで、岩に噛み 付いてでも起きてそうだわ。 さ:ははは……霊夢さんなら、本当にやってしまいそうですね。 れ:しかし、どうしてまた、対局中寝ちゃったのかしら? さ:そのプロの方曰く『(夕食休憩に入っていたが)再開まで時間があったの で、横になって休んでいたら、つい寝込んでしまった』らしくて。 れ:囲碁の棋士も、案外……というか、随分抜作なのね。 【解説】 最初の章ということで、どういうのが良いかなと考えたのですが、この事 件は中々知られていないですし、簡潔に、且つキャッチーにまとめられると 思ったので(重要!)、載せてみることにしました。 この事件は 1980 年の第 6 期天元戦挑戦者決定戦での出来事。天元といえ ば、囲碁の七大タイトルの一つ(そこら辺は別章で触れます)。その挑戦者を 決定する対局となると、早苗さんも話していた通り『大一番』だったのです。 この挑戦者決定戦、『変幻』の異名を誇った未冠の帝王山辺九段(当時 54 歳)に、関西の若武者牛ノ浜九段(当時 32 歳)が挑む構図となっておりました。 実績では山部九段が断然であったものの、牛ノ浜九段の勝ち上がりは凄まじ いものがあり、そう一筋縄で行かない様相を呈していたと言えます(※1)。 対局の方はというと、夕食休憩までで 50 手ほどしか進まないという、超 スローペース。囲碁の総手数でいえば 1/4 にも達しているかも怪しいくらい。 そもそも今の時代は昔より持ち時間も全然少ないので、二日制の対局以外で はもう二度と無いくらいと言っていいくらいの進み具合といったところでし た。ただ形勢の方はと言うと、牛ノ浜九段の構想が空回りし、山部九段が早 くも大優勢を築いておりました。 そして夕食休憩が終わった午後 6 時過ぎ、対局室に異変が……一向に牛ノ
浜九段が現れる気配が無いのです。とはいえそのまま中断する訳にもいかな いので、ルールに則り、そのまま対局を再開することになるのですが、牛ノ 浜九段の持ち時間(残り一時間弱)が減り続ける状態に。 当然周囲の関係者も大慌てで捜索開始、しかしこの時代だと携帯電話をは じめとし、連絡手段なんて無いようなもので、そう上手く行きません。また、 牛ノ浜九段は関西から東京に出向いての対局だったので、彼のことをよく見 知った人がいなかったのも災いしたのでしょう、無情にも時間は過ぎ去るば かり。挙句の果てには 119 番や交番に問い合わせた関係者もいたようです。 しかし、周囲の努力の甲斐も虚しく、牛ノ浜九段は時間切れに。その数十 分後、対局上に登場した牛ノ浜九段が現れました。そしてその時発した第一 声こそ、早苗さんが話していた『再開まで時間が…』のくだりとなる訳です。 一同これにはガクッと来たことでしょう。山部先生の胸中が如何ほどのも のだったかは定かではありませんが、このような勝ち方は前代未聞っだった だけに、目を白黒させていたかもしれません。まぁ棋士というのは対局中は 中々近寄りがたい雰囲気があり、且つ独り思考に明け暮れることの多い人た ちでもあるので、それ故の悲劇という見方もできなくもないのですが。 その形勢の悪さから、棋士によっては『(どうもならない時は)寝る一手 だ!』などと揶揄されるオチまでついた当エピソード。しかし、あまりにも 残念エピソードだからか、半ば黒歴史として葬り去られている感すらありま す。ただまぁ他の分野も含め、こんな話は滅多に耳にすることがない筈。何 かの時の話の種にしてみては如何でしょうか? (※1):決勝までで牛ノ浜九段が倒した相手は以下の通り。 ・王立誠(後に棋界最高峰の棋聖位 3 期保持した) ・武宮正樹(本因坊位通算 6 期で、当時も本因坊) ・石井邦生(関西総本部のドン。井山現六冠の師匠としても有名) ・林海峰(名人位通算 8 期、本因坊位通算 5 期等、棋界の伝説的存在)
【第二章:囲碁と家元(林家・安井家・井上家編)】 ま:れいむれいむ~、囲碁って何か派閥みたいなのってあるのか? れ:昔だとあったって話は聞くわね。外の世界だと四大家元なんてものが存 在していたそうなのよ、どの家元もお寺の関係者なんだけど。 ま:ほう、そういう感じの文化が日本にもあったんだな。 れ:どれどれ、香霖堂でそういう本を買ったから見てみるね~……え~っと、 17 世紀初頭から 20 世紀初頭、大体江戸幕府があったタイミングね。 ま:成程、やはり将軍の保護を受けてた文化だったのか? れ;そうなのよ、だから寺の連中が……っと、そういう人たちが囲碁の文化 を創ってきたという訳ね。 ま:具体的に何て家があったんだ? れ:本因坊家、井上家、安井家、林家ね。 ま:この中だと本因坊家が何やら異様な名前って感じがするなぁ。 れ:お寺の建物が由来らしいわ。そして四大家元それぞれの知名度でいえば 本因坊家が圧倒的みたいね。 ま;ほうほう。本因坊家ってどれくらい凄いんだ? れ:その四大家元全てが『この棋士は今の時代の中で一番強い』というのが 認められてはじめて就任できる名人位ってものがあってね、その 10 人 の中で何と 7 人が本因坊家の棋士だったそうよ。 ま;これまた極端な偏りようだな。『四大』とは一体何だったのか、ってく らいに思えてしまうぜ。 れ;まぁ力関係的にはそうよね。ただ将軍の前で囲碁を打つという習わしが あったそうで、その際はそれらの家元の棋士によって対局していたから、 四大家元って呼ばれてたみたい。 ま:成程、やはりちゃんとした訳があって『四大』なんだな。 れ;そういうこと。 ま;そういえば霊夢、名人就任にあたっていずれかの家元から反対があった
場合だとどうなるんだ? れ;それが中々面倒なことになるのよ。家元間の棋士で調整するのさえ面倒 なのに、もっと拗れると争碁というものが勃発してしまうようなことも あったわ。 ま;なんだなんだ、ひょっとして家元単位で丸々勝負するようなことになっ ちまうのか? れ;そこまでではないけど……その家の代表の棋士が、例えば十番勝負を 行うことになったりするそうなのよ。昔の碁って三日以上かかることな んて当たり前だったから、十番まともにやろうとしたら、休養日も含め て数ヶ月はかかるものだったのよ。 ま;それは如何にもしんどそうだな……この本因坊家以外の家元って、本因 坊家が名人になるのに軒並み反対にまわったようなことはあるのか? れ:まぁそうならないように色々根回ししたり、全ての家元が賛成しそうな タイミングを見計らって行うから、極端に派手な反対運動みたいなもの は見られなかったみたい。ただ林家と井上家の棋士は、本因坊家側の棋 士から密約を反故にされたことに腹を立て、隠居に追いやったりしたな んてことはあったみたいね。 ま:中々修羅の世界って感じだな。 れ;まぁ文化的に保護されていた界隈ではあるから、そこまで酷いものでも ないわよ。家元同士で適時養子を出し、それぞれ長きに渡って囲碁界を 支えた歴史があるみたいだから。 ま:ふむ、そういった争碁云々は一面的なものに過ぎないということだな。 れ:そうそう。 ま:しかし名人だけで見ると本因坊が圧倒的だったようだが、他の家元はそ んな人材不足だったのか? れ:本因坊が強い時期が多かったけど、他の家元にも時代を代表するレベル の棋士がいたのよ。名人にまで上り詰めた人は少なかっただけで。
ま:確かに名人になれなかったら弱いだなんて、そんな単純な話でもないだ ろうしな。 れ:そうね。特に井上幻庵因碩はその中でも悲運の棋士だと言われているわ。 あと安井家にも粒ぞろいだった印象ね。あと面白いところだと天文学で 名を馳せた人物もいたりしたわ。 ま:囲碁棋士の一族とはいえっても、囲碁ばかり打っていた訳ではないんだ な。それで今まで名前が挙がっていない林家なんかはどうなんだ? れ:はっきり言って一番力が見劣り気味だったわね。それでも他の家元同様 三百年続いたし、この家元が現代の女流棋士発展に繋がっていたりもす るのよね。まぁ諸々の詳しい話は解説の方で、かな。 ま;そうか、解説で……って解説っ!? 【解説】 ……というわけで解説コーナーです(笑)。今回のテーマは家元関係、昔の 囲碁を支えてた土台に関してですね。江戸時代からその流れが本格化した訳 ですが、例えば豊臣秀吉は囲碁の全国大会を行うような指示を出したことが ありましたし、織田信長は本能寺の変が発生する直前に当時の名手を集めて 囲碁を行わせたり(※1)と、囲碁文化は強く根付いておりました。それを本格 的にまとめ上げたのは江戸幕府ができた時から。将軍家康は 45 歳と、囲碁 を始めるにはかなり遅い年齢ではありましたが、その入れ込みようは相当な ものだったよう。没した時には棋力が今で云うところのアマチュア四段程度 あったとも言われております。 さて、その中で本章では四大家元の本因坊以外の三家、これらについて見 てみることにしましょう。まずは林家。ここでのキーワードは【家元を取り 巻く碁界事情の複雑さ】です。何ともドロドロしたタイトルですね、はい。 まぁ単刀直入に言いますとこの林家、霊夢たちの話にもあったように四大 家元の中でもかなり見劣る存在であったのは否めません。勿論霊夢たちの会
話にある通り、将軍直々の保護を受け、江戸城で対局を行っているような棋 士も普通にいるのですが、基本的には当時の花形棋士の引き立て役に甘んじ ていることが多かった印象なのです。 その林家の中で特筆すべき棋士に林元美、更には関連棋士として林秀栄が 挙げられます。元美に関しては、本因坊丈和や井上幻庵因碩といった歴代屈 指の名手がいた 19 世紀前半に活躍した棋士で、林家の中でも数少ない八段 (当時の八段は準名人とも呼ばれていた)まで上り詰めた棋士です。ただその 八段に上がるまでの過程が曰く付きであり、寧ろその際のいざこざの方が人 歴史に名を残す形となってしまっている、そんな何とも言えない立ち位置に いる棋士であります。 その大きな伏線となったのは丈和の名人就任(=九段昇段)でした。実は名人 というのは、霊夢の話にもあったように、囲碁の実力によるところも言わず もがな、他の家元からどれだけの支持を集めているのかによっても、そこに 至るまでの道のりが大きく変わっていたのです。例えば或る棋士が名人にな るかどうかを巡り、多くの家元の棋士や当時の行政のお偉方が反対にまわる ようであれば、『名人就任=棋界の顔になる』ということなので、その時点 で就任を断念せざるを得なくなります。また、一人でも反対にまわった場合 も、他の家元の棋士が説得することで解決することもありますが、一方で争 碁と呼ばれることが勃発してしまうようなこともありました。『家督決戦』 と表現すると分かりやすいでしょうか、その一門の棋士の長と覇を争うこと となる訳です。こうした争碁に関しては、多くの場合十番勝負で決着がつく こととなり、当時は最低でも数日かけて一局の碁を終わらせていたので、全 てが終了するとなると、年単位になることもざらにありました。しかも時は 江戸時代、何らかの拍子で中断に追い込まれる可能性も少なくはありません。 尤も、名人就任以外でも、例えば昇段を巡る争碁といったように、家元間の 小競り合い自体は多々あったのですが、名人を巡るそれは、数多のものに比 べれば負担が段違いであったが故、避けるべきことだったのです。
元美の話に戻りますと、彼は『丈和が名人に就任するのを許可する代わり に、自らの八段昇段を認めるようにして欲しい』という密約を交わし、率先 して援護射撃に打って出たのでした。元々元美は水戸藩藩主の徳川斉昭(徳川 慶喜の父!)とは見知った関係であり、頭を下げさえすればスムーズに行くと いう算段だったのです。そしてその目論見通り、丈和は名人就任を果たすこ ととなります。 しかし問題はその後でした。丈和が一向に元美の昇段を認めようとしない のです。元美としては腹立たしいことこの上なく、また自分が昇段できない ことは支援している水戸藩の関係者の面子を潰してしまうということにもな りかねないので、次の一手に出ることとなります。それは当時の棋界有力者 である井上幻庵因碩と手を組み、丈和に争碁を嘆願するといったものでした。 そうしたことを重ね重ね行われ、高齢ということもあってすっかり気が萎え てしまった丈和は名人碁所を返上。最終的には隠居に追い込まれてしまうこ ととなります。 その後も元美を巡っては別のトラブルがあり、その暗躍ぶりが伝えられる ことから決して評判の良い棋士ではないのですが、棋界の発展に一定以上の 貢献をしているのも確か。その証拠に、一般的なものから後世に向けてのも のも含め、多数の棋書を著しております。そして八段昇段を果たしたのは晩 年になってのこと、例の事件から 20 年ほど後となる 1852 年のことでした。 そして 1861 年、83 歳と当時としてはかなりの大往生を遂げました。 もう一人紹介するのは林秀栄。この棋士は林性ではありますが、後に本因 坊秀栄として 19 世紀後半に活躍し、名人就任を果たした棋士となります。 元々は本因坊家の生まれだったのですが、当時の後継事情の関係で養子と なっていたのです。これは本因坊家が度重なる不幸によって経済的に困窮し ていたのと、林家が跡取りに関して厳しい状況であったことによるもので、 やむを得ない選択でした。 秀栄は青年期を丸々林家の人物として過ごした訳ですが、当時の新勢力で
ある方円社(※2)なる囲碁組織が台頭すると、それに伴って更に衰退気味に なっていた本因坊家に目をつけます。そして説得を重ねた末、当時の家督で あった本因坊秀元を隠居させ、自らがその代わりとして就任。その時点で林 家は家元として断絶することになりました。 こうした部分だけ切り取って見ると、秀栄の立ち回りというのは不義理極 まりないものにも思える訳ですが、合理的な部分も大いにありました。第一 に、秀栄は元々がれっきとした本因坊の血筋を引く人間であったため、必要 とされれば比較的戻り易い立ち位置であったこと。そして第二に、これが大 きい理由だったのですが、当時の本因坊秀元は低段だったというのが挙げら れます。元々秀元は先代の本因坊が精神を患ったことで、若くして家督を継 いだという経緯があるのですが、その時の段位が三段と、幾ら才があるとの 評判を以てしても、他家元と渡り合うにはあまりに厳しい状況だったのです。 また、こうした困難さに関しては、先代の本因坊が体調を崩した大きな原因 でもあり、秀元としても実は有難い話であったのではと推測されます。そし て一旦地位を追いやられていたとは言っても、極端に邪険に扱われるという ことは無かったようです。その証拠に、秀元は自由奔放に過ごして近隣諸国 を歴訪し(後述する八百屋の長兵衛との対局はその流れだったのでしょう)、 秀栄の弟子であった田村保寿が本因坊を継ぐに際しては、中継ぎとして本因 坊家督に再就任するなど、棋界と関わりを持ち続けることとなるのでした。 一方秀栄はというと、方円社の村瀬秀甫との対決に臨むことになる等、波 乱万丈の囲碁人生を送ることとなります。しかしその過程で飛躍的に棋力に 磨きがかかることとなり、最終的には時代の第一人者、更には名人に上り詰 めるまでに至りました。こうして見ると林家は些か踏み台になった感は否め ませんが、要所で興味深い動きを見せていた家元であったのは間違いないこ とと思います。またこれは別の章でも触れますが、林家には女流棋士がいて、 この流れが現代碁界の女流棋士成立に繋がったりもするんですよね。 次に紹介するのは安井家。この家元のキーワードは【才気煥発】ですかね。
他の家元とは異なった感じの棋士が活躍していた印象です。名人を一名輩出 したところではありますが、ここでは二世安井知哲、安井仙角仙知、安井知 得仙知(知哲は七段、後の二名は八段)の三名を紹介していきたく思います。 知哲に関しては、厳密に言えば安井家の家督を務めていた訳ではないので すが、恐らく囲碁史上最も世間で名の知れた人物の一人であると断言できる ほどの存在です。何せ彼は天文学者として名声を博し、日本史の教科書にも 載っているような人物なのです。この時点でお察しの良い方々はお気付きの ことと思いますが、知哲の別名は渋川春海。そう、2012 年には映画化まで された冲方丁氏の小説『天地明察』の主人公なのです。 囲碁棋士としての知哲ですが、囲碁界随一の天才として名高い本因坊道策 のライバル……と言うには少々物足りなかったものの、それでも御城碁の常 連という立ち位置にいる程度に、立派な棋士でした。 そもそも御城碁とは何ぞや?と思う方々に、その説明をば。実は『天地明 察』の中でも御城碁の描写自体はちゃっかりあったりします。映画序盤にお 殿様の前で囲碁を打つあの場面ですね(ちなみにその時の相手は道策)。要は 『江戸城に出向き、徳川将軍が目にする中、当時の一流棋士が対局を行う』 というのが御城碁というものだったのです。先にも述べた通り、囲碁は様々 な将軍が愛した趣味であり、幕府としても積極的な保護を図っていたのです (だからこそ林元美が水戸藩主と関係があったりもした訳)。 尤も、将軍の前で一から対局するということは、囲碁が余程好きな将軍が 在位していない限り、殆どありませんでした。何せ当時の棋士が真剣に囲碁 を打とうものなら数日かかってしまいますからね、将軍もそれを全部見届け る程は暇ではないのです。その代わり、江戸城に出仕するに先立って『下打 ち』と呼ばれる対局を行い、それを行った時の内容を並べるというものが、 御城碁におけるルーティーンとなっておりました。 こうして書くと、御城碁は真剣勝負というより、形式立った印象が強いと 感じられるかもしれません。事実そうした碁も少なくなく、現代の打ち手の
一部からも『御城碁はそうしたかったるい碁もあるため、決してオススメは しない』という趣旨のことを仰っている方もいる程です。しかしながら家元 同士の覇権争い、更には昇段がかかっている対局が御城碁として行われるこ ともあり、こうしたこと盛んであった際のものはかなり白熱した内容になっ ておりました。また、こうした御城碁はいずれの場合も、下打ちを行うに際 しては外部の接触が大幅に制限された所定の場所に閉じ込められる(※3)等、 半ば軟禁状態で対局が進められていました。勿論それなりに整備された環境 で行われていたには違いありませんが、相当ハードなものであったことが想 像できるかと思います。『将軍の前に参上し、囲碁をご覧頂く』というのは、 それだけ責任を伴うことでもあったのです。 知哲はそうした御城碁を生涯 19 回も行いました。勿論それより多くの回 数をこなした棋士は大勢おりますが、彼の場合、それと同時に天文学の研究 も進めていた訳です。また、それ以外に家元の著名棋士であったことから他 所へ出向く機会が多かったことも考えると、相当忙しい立ち回りを要求され ていたことが推測されます。研究者にも様々なタイプがいるという話ですが、 知哲の場合ははっきり器用な人だったと言えるでしょうね。 ちなみに知哲の専門分野である天文学と囲碁は、共に陰陽道とも親和性が 高いものでした。そもそも碁盤というのは、陰陽道においては『宇宙を体現 するもの』として見立てられ、儀式・占術において古来より用いられたもの だったのです。実際知哲は天文学と囲碁の結び付きにも関心を持っており、 例えば『天地明察』において”初手天元”と呼ばれる、一番最初の手を碁盤 中央に置いたというのも、そうしたところを踏まえた上でのことだったと言 われております(※5)。 当時の囲碁棋士は、やはり将軍と直接対面するようなこともある、極めて 手厚い扱いを受けていたからでしょう、例えば先にも触れた井上幻庵因碩も、 兵法の専門家として薩摩藩に書物を収めていたりもします。そうした学びの 中で知哲は自らの才を極め、歴史に名を残すまでに至った訳で、道策とはま
た異なった、傑出した天才であったと表現しても過言ではないと思います。 恐らくこうした棋士は二度と現れないでしょうね。 次は安井仙角仙知と安井知得仙知、二名を一気に紹介してしまいます。こ の二名、業界の間では『大仙知』・『知得』と呼ばれていることが多く、当 文章でも以降はこのような呼称で記述していきたく思います。この両人に関 して傑出している点……それは『現代碁のスタイルに大いに寄与した人物で ある』という点です。それでは順番に見てみましょう。 大仙知に関しては、中央を重視した棋風が同時代の棋士と比較しても顕著 であることで知られます。そういったところから、1800 年代前後に活躍し た棋士でありながら、現代のスピード碁を形成する上での基礎を築いたと言 われている程です。 しかしまぁ、囲碁のルールを御存知無い方にそのまま『スピード碁』など と表現しても、ピンとこないですよね。野球で例えると、その当時の囲碁の 序盤戦って『ランナーが一塁に出たら必ず送りバントする』・『ヒットエン ドランは危なっかしいし、姑息っぽい感じがするから、決して行わないこ と』・『脚の速い選手は一番打者に固定』……てな感じのことをやっていた のです。良く言えば管理されてはいるけども、一部の突出した棋士を除いて は、些か爆発力に欠けたものが多かったも否めなかったと言えます。御城碁 ですと、そうした部分が露骨に出てしまうこともあるので、先程書いたよう な『御城碁はちょっと…』と言うような現代の高手もいたりする訳です。 それに対し、そうした形式を崩しに崩し、仕掛けていく過程で多少のボロ は出てしまうかもしれないが、それを補う展開力で相手からリードを奪って いく……そういった組み立て方が大仙知の手法でした。『部分的に正解とさ れる手を選ぶ』というより、『石が活き活きと展開されるよう、その時々で マッチした積極策を選ぶ』という方針だとも言えます。某将棋棋士(※4)風に 言えば『いしだっ……石たちが躍動する囲碁を、皆さんにお見せしたいね』 という主張を全面に出したのが大仙知の碁ということですね(笑)。
知得に関しても現代碁を築いた一人ではありますが、どちらかと言えば 『局面を難解にせず押し切る』碁が真骨頂の棋士でした。また相場感覚に秀 でており、だからこそ無理のない打ち回しができていたように思います。こ こでいう『相場感覚』なる言葉もピンと来ないかもしれませんが、『この形 の時はどれだけ陣地がつきそうか、またその信頼度はどの程度か』を的確に 判断する能力ということになります。囲碁は『如何に先を読むか』という能 力は言わずもがな重要ですが、このような『形によって局面の趨勢を見抜く 力』というのは、案外高段者でも見落としがちな部分なのですよ。 このことを強いて例えるならば、ゴルフが題材として相応しいかもしれま せん。あの競技における『どのゾーンに飛ばせば、理想の位置まで持ってこ させられるか』の判断が、囲碁で云うところの『先を読む』部分。そして 『コースを見極め、現在地からあと何打で入れることができそうか』を読み 解く部分が、囲碁で云うところの『相場感覚』に相当するものになる訳です。 まぁ両者が相関関係にあるようなも局面も、少なくはないのですがね。 こうした『相場感覚』に関しては、歴代最強棋士としてしばしば名前を挙 げられる本因坊秀策も傑出していたと言われております。ただ秀策という棋 士は、何だかんだで鮮やかな切り返しを見せて抜き去ることが結構あるんで すよね……一方知得は『え、これで充分なの?』という態度で、しかもきっ ちり勝ち切るタイプの強さでした。そうした意味で、大仙知のような『手法 の斬新さ』や、他の名棋士にあるような『鮮やかな勝ちっぷり』といった理 由では無いのですが、囲碁の価値観に大きな影響を与えた棋士と言える訳で す。『新しさ』というのは、こうした渋いところからも由来している場合が あるということですね(※6)。 最後は井上家。ここのキーワードは『門外不出』です。井上家は名人を二 名輩出している家元で、ここではそのうちの一人である井上道節因碩と、後 一歩のところで名人に届かなかった井上幻庵因碩(林家のところで触れました ね)について、それぞれ書いていきたく思います。
井上道節因碩は、安井知哲を遥かに上回る強豪であった本因坊道策の五人 弟子の一人でした。ですので、普通に考えれば本因坊の跡取りになることも 充分有り得る存在だったのですが、道策は五人弟子の中で一番の天才との呼 び声高かった小川道的を跡目にしようと考えていました。これに対し、五人 弟子の中でもはっきり年長者(何と道策と一歳違い!)であった道節は不服を 唱えます。しかし道策はそれには応じず、当時自分の弟であった井上家家督 説得し、道節を養子に招き入れるようにしたのでした。しかし道策の弟と道 節が養子関係とは、中々凄いことですよね。そうした過程から井上家の人間 となった道節は、数年後に井上家の 4 代目家督に就任することになります。 道節にはあまり派手な争碁というものが無く、相当な大器晩成の棋士でも ありました。特に御城碁の初出仕が 45 歳というのは、道節ほどの打ち手で あれば異例と言って良い。養子になったことでそれが果たされたので、道策 が下した判断は道節としても悪い話でも無かったという風に考えられます。 そして道節の棋士としての最大の見せ場は何と 60 歳を過ぎた時のこと。 この時に道策の跡を継いだ道知と十番碁を行ったのです。ちなみに道知と道 的は全くの別人物です。どういうことかというと、何と道的は道策が跡目に 指名して間も無く、21 歳で夭逝してしまうのです。しかも道節以外の五人弟 子も相次いで 22 歳、23 歳、25 歳で病魔に侵されてこの世を去るという、大 変なことになっていました。そうした中、道策は 16 歳にして六段と、天才 的なペースで昇段を重ねていた道知に後を託します。そして道節に『道知を 育ててはくれぬだろうか?』との遺言を残し、この世を去るのです。若くし て棋界の強豪相手に連勝を続ける道知は棋界の宝。本因坊家を去った経緯が 経緯だけに、道節としては複雑に感じた部分が無かったことも無いのでしょ うが、道策の遺志を尊重し、道知に胸を貸すに至った訳です。この十番碁、 道知優位の手合にして道節の 6 勝 3 敗 1 引分と、先輩棋士の威厳を保ちます。 個人的に棋譜を見た印象ですと、道知の良く言えば型破り、悪く言えば若気 の至りの塊のような構想を、道節が力で押さえ込んでいたような内容でした。
1700 年前半時は序盤研究がてんで進んでいなかったため、手探り状態で 打ち進めていたところははっきり伺えたのですがね、中盤『黙っていてはハ ンデが縮まらない』と思うような局面で急所を突き、相手を押し込めていく 様は圧巻の一言。翌年再度実施された十番碁こそ、ハンデを減らしたにも拘 らず、道知に負け越してしまう訳ですが、後に道知が当時敵無しと呼ばれる ほど飛び抜けた存在になるのも、この道節の技術を対局の中で体得していっ たところが大きかったと言えるでしょう。 道節が名人位になったのは少々特殊な事情(琉球人に免状を出すため、碁の 権威として名人位に就任する必要が出た)があってのことでしたが、実のとこ ろ、後世において彼を評価する場合、その地位よりも、ある書物を完成され たことの方が重要視されている傾向にあります。その書物の名は『発陽論』、 長らく井上家秘伝の書として封印されていた存在でした。『”秘伝”や”封 印”だなんて、またまた大袈裟な』と思われるかもしれませんが、井上家が 途絶えるまでの 200 年近くに渡り、門下外の人物から隠し通していた訳です から、その形容に相応しい代物と言うことができるでしょう。内容は勿論囲 碁の技術に関するもので、その中でも難解極まりない手筋(それこそ現代のプ ロでもヒーヒー言う類の)を集めたものとなります。また、その書き出しは 『石立ての位は囲碁の陰なり。見分ける手段は陽なり』とあることからも、 知哲のところで触れた囲碁と陰陽道の深い繋がりを改めて伺い知ることがで きますし、当時の囲碁観もよく現れているなとも思います。つまりこれが意 味するところは『囲碁において、陣地をとるための石運びに対する意識など は光を当てるまでもないところ、手段を見つけることにこそ力を注ぐべきな のだ』ということなのです。先程『序盤研究はてんで進んでいなかった』と 書きましたが、少なくとも道節としては『どういう手筋を以てこの局面を動 かしてやろうか?』という意識に集中していたということでしょう。囲碁に 関して御存知無い方だと、そうした『手筋』に関する感覚って掴みにくいと 思うのですが、囲碁は交互に石を置いて陣地の大小を競うゲームなので、
『一つの石毎の価値』を高める必要がある訳ですよ。そうした際に手筋とい うのは、『周辺の石との連携によって一手の威力を限界まで高める』や『一 手投じることによって周辺の石に活力を与える』に繋がってくるので、囲碁 の肝とも言える訳ですね。勿論後世では序盤研究も並行して掘り下げられて いくのですが、こうした信念の継承こそ、次に紹介する井上幻庵因碩を育ん できたものと言うことができるでしょう。 井上幻庵因碩は 6 歳にして井上家の門を叩き、苦行に苦行を重ね(これにつ いては別章にて紹介させて頂きます)、26 歳で井上家の家督を継ぐに至りま す。しかしその眼前に常時大きく立ち憚っていた存在がいました。そう、元 美のところでも触れた本因坊丈和です。この両者は因碩が十代の頃から対局 を重ねておりました。その一局一局は、大変内容の濃く、特に幻庵の手筋を 駆使した仕掛けの数々は、熾烈極まりないものでした。これは道節以来受け 継がれた井上家の手筋に対する鋭敏なる意識の現れと、幻庵自身の豪放磊落 とも言える気質によるところが大きいでしょう。しかしその性格が災いして か、丈和のカウンターを喰らう碁も少なくなく、殺すことのできる石を活か されて盤上全体を蹂躙された碁等、惨敗を喫することが少なくありませんで した。そうした負けを芳しとしないからか、それとも 11 歳年長とはいえ丈 和に常に先を越されていたことからか、後年若き日の自らの打碁を振り返り 『(26 歳までの私の碁は)芥の如し』と、辛辣な態度で振り返っております。 それ以降もこの両名は熱い火花を散らしていたのですが、ほぼ同時期に八 段に昇段する等、その力量は一層肉薄したものになっていました。その頃に は、先手番であれば幻庵が圧倒することが多かったくらいです。しかしそこ から幻庵の不運が続いていくこととなります。 その契機となった事件こそ、林元美のところでも触れた丈和の名人就任騒 動でした。本来ならば幻庵ほどの負けん気の強い棋士は争碁の一つや二つ 吹っかけてきそうなものですが、丈和側から『六年後に幻庵に名人を譲る』 との打診があり、どういう訳かそれを承諾してしまうのです。元美の八段昇
段さえも認めなかった丈和が幻庵の約束を守る訳もなく、幻庵は元美と結託 することとなります。そして六年を待たずして幻庵は行動に打って出ます。 自らの弟子である赤星因徹と一番勝負を行うよう、丈和並びにその周辺の関 係者にはたらきかけたのです。 何故幻庵が直接対決ではなく、因徹を丈和に差し向けたのかについては諸 説が挙げられますが、以下のことが考えられると思います。 ①当時七段の因徹が丈和を破るようなことがあれば、『名人の資格なし』と 主張し易くなるから。 ②因徹は当時急速に力を伸ばしていたから。 ③名人就任後は原則対局を行わないとの不文律はあったが、因徹が相手であ れば丈和も応じるであろうという算段があったから。 ④一門秘伝の手を因徹に授け、世に因徹の名を知らしめたかったから。 ⑤因徹自身が死期を悟り、丈和と対局することを望み出たから。 まず①に関しては、『七段の棋士もこなせぬ相手に九段など烏滸がまし い!』と、丈和降ろしの格好の口実を作りたかったということですね。②に 関しては、因徹は先番であれば名人就任前の丈和に勝利していましたし、幻 庵の試験碁も四連勝と上々の成果を収めていたので、この棋士であれば間違 いなく負けまいだろうと、自信を持って送り出すことができたのです。③に 関しては、当時は先手番と後手番で大きく差がある環境下であり、先にも述 べたように、幻庵では先手番での対局を応じないのは間違いないことだった ので、それより少し見劣る因徹ならば首肯すると見ていたということです。 そして④、これはキーワードに関わる話となります。実は井上家、100 年 少々の間で序盤研究を進めていたのです。当時の流行型で、『大斜』と呼ば れる変化に富んだ定石があり、この解明に一門総出で取り組んでいたのです。 その中に秘伝の手段というものがあり、これを因徹に託し、丈和の首を狙わ んとした訳です。⑤は①~④の思惑関連とは全く違う角度になりますね。そ う、実はこの時因徹は肺結核を患っていたのです。
丈和が申し出を受諾して行われた天下分け目の一戦、結果は因徹の惨敗に 終わります。序盤に放った『秘伝の手』によって因徹は序盤に主導権を握る のですが、丈和が次々と攻防の妙手を連発。因徹の賢明の粘りも通じず、盤 上は木っ端微塵の状態に、因徹自身も吐血して盤上に崩れ落ちてしまうので す。そしてこの対局の僅か二か月後、因徹の肺結核は悪化の一途を辿り、26 歳の若さでこの世を去ることとなります。幻庵としては『名人』の就任を果 たすことは、より一層大きな重き使命となっていったのでした。 悲劇から 4 年後となる 1839 年、丈和が引退に追いやられたのを機に、幻 庵は名人就任を願い出ます。それに待ったをかけたのは本因坊家。そしてそ の相手となったのは、当時 21 歳の土屋秀和でした。先程の因徹-丈和と真逆 の構図になったのです。この時の争碁は四局、しかし打たれたのは三局のみ でした。そう、全て秀和が勝ってしまったのです。いずれも幻庵の気迫に満 ちた打ち回しが見られたのですが、秀和はそれを冷静に受け切ったのです(特 に第三局目は幻庵が終盤に最善を捨て、捨て身の勝負手を放つも、それを以 てしても牙城は崩せなかった)。こうした棋士の存在は幻庵にとって何という 不運……否、実は丈和は秀和のような棋士が現れることを既に見越していた のかもしれません。つまり名人就任時に『6 年』という期間を設けたのは、 幻庵に対抗できる棋士を育てきる時間でもあった……かもしれないのです。 秀和の対局で何度も吐血する等、一時は体調がかなり危ぶまれた幻庵です が、諸国を遊興できるようになるまで回復。そして一人の本因坊家の棋士と 対局することとなります。安田秀策……本章でも既に名前が出ておりますし、 『ヒカルの碁』の佐為のモデルでもお馴染みの、本因坊秀策のことです。幻 庵はこの秀策の力を大いに認め、先手番のハンデのみと、当時としては異例 の設定で対局を行うことになるのですが、そこで囲碁界史上に残る『耳赤の 一手』を打たれ、逆転負けを喫してしまいます。この碁は終盤の追い込みも 含めて幻庵の名局だと思うんですがね、特に序盤に大斜定石が出現した際、 『門外不出の一手』を使うのですよ。そして手筋を連発して……っと、そこ
まで順調に行きながら中盤で大悪手を打ち、それを『耳赤の一手』によって ひっくり返されてしまうという、ある意味幻庵の囲碁人生の縮図のような対 局になってしまった訳です。ちなみに大斜定石で優勢になった場面について は、秀策が定石外れの一手を打ってしまったが所以のこと。私の知り合いの アマ強豪なんかは『ガキンチョ相手に騙し手使った』みたいにケッチョンケ チョンに扱き下ろす人もいたりするのですがね(笑)。 その後幻庵は海外に出国して囲碁の伝播を試みるも失敗。『我が芸を惜し んで海外に出さざるか』と、この時ばかりは露骨に、自らの時運を憎みに憎 んだと伝えられております。そしてその数年後、62 歳で生涯を閉じました。 その数奇な運命と、石運びの鮮やかさと、そして負け方の劇的さから、現在 でも多くの愛棋家から指示を集めている幻庵。最近では百田尚樹先生が週刊 文春で連載を行っているくらいです(ちなみに百田先生の息子は学生囲碁界で も全国大会出場クラスの打ち手だったりもします)。 そして晩年幻庵は『碁は運の芸也』・『勝負のみにて強弱を論ずるは愚の 甚だしき也、諸君子運の芸と知りたまえ』 といった名言を残した人物でもあ ります。このような発言に対して批判的に捉える人も多いかもしれませんが、 幻庵という棋士は血の滲む努力を積み重ねてきた背景のある棋士であり、そ うした意味では、寧ろ悲痛の叫びと受け取るべきかもしれません。一方で、 例えば道節のところで触れた道知の後年の記述にある『並ぶ者が無き状態で 体裁を保つことを求められ、御城碁をはじめ、一切本気で対局に臨むことが できずにいた』といった状況が無かったという点で、幻庵は棋士として多く のことを残すことができたという見方も、出来なくもありません。こうした 『棋士としての倖せ』というのは一概に言い切れない部分はありますが、そ うしたものが、各々定まっていたとしても選べぬという意味で『碁は運の芸 也』ということなのかもしれませんね。 (※1):この本能寺での囲碁の描写については、ヒカルの碁でも掲載されてい
ましたね。信長は当時の名手を本能寺に呼び寄せて対局を行わせた訳ですが、 その中で三コウと呼ばれる、『同じ形が無限に繰り返される状態』が発生し、 無勝負になってしまいます。不思議なことがあるものだと周りが訝しげに 思っていると、その少し後になって光秀の軍が本能寺に襲来し、本能寺の変 が起こる……そんな逸話です。ただこの話に関しては何とも言えない部分が あるのも確か。というのもその時打たれていたとされる形にその三コウがで きる要素が見当たらないのです。これに関しては、後世の偽作説と別の碁で 発生した説があり、囲碁界のちょっとしたミステリーになっております。 (※2):方円社とは、要約すると『四大家元の固定化した流れに一石を投じる、 囲碁探求会』という立ち位置の元、結成された組織です。ハチワンダイバー の鬼将会みたいな組織では決してなく、様々な家元の流れを持つ棋士が集い、 囲碁の対局・研究に励んでおりました。そうして意味では同時期に維新に向 けて立ち上げった諸組織と、近しい考え方を持ったものだったと言えるで しょう。そしてその中の筆頭棋士こそ、後にその強さから本因坊を襲名する に至る村瀬秀甫(元々秀甫は本因坊門下且つその縁も深い棋士)であり、明治 の棋界に大きな影響を与えた組織でした。 (※3):そのため『碁打ちは親の死に目に会えない』などという話も実しやか に囁かれていたくらいでした。実際はそうした事態に際しては多少の融通は 利かせていたようですが、地方から各家元に入門した棋士も少なくなく、こ うした身内の不幸に関する話は悩みの種だったと言えるでしょう。ちなみに 現代ですと、こうしたことによって対局を延期させるのは厳しいよう。今年 の出来事ですと、趙治勲先生が奥様の最期を看取るため、早碁棋戦の決勝戦 を不戦敗することになったという出来事がありました。 (※4):囲碁において初手に中央へ石を置くのは、安定した陣地の確保が見込 めないため、通常敬遠される傾向にあります。あとこれは昔の棋士間で顕著 な傾向ですが、こうした斬新な手法に関し、古き良き手法を好む棋士たちか ら『無礼だ』と眉をひそめられることもありました。今でこそ『碁は自由』
と言われておりますが、案外折り合いの難しい面もあったのです。尤も、知 哲については囲碁の名手でありながらも天文学の教養がずば抜けていたこと から、『これは陰陽道の見地からすれば、寧ろ有り難みのあるような、意味 深いことかもしれない』といった受け取られ方も有り得るとことで、こうし た型外れな手法を選択することも許されていた部分はあるかもしれません。 こうした『初手天元』への試みは、僅かながらも現代碁界で試みられた場 面があり、この経緯については高名な囲碁ライターである相場一宏氏の『天 元への挑戦』(2000 年 河出書房新書)にて詳しくまとめられております。 (※5):某将棋の NHK 杯出場棋士の発言ですね、はい。元ネタを御存知でな い方がいらしたら、是非『豊島? 強いよね』で検索をかけることをオスス メします(というか、ここでこう書いちゃうのもなんですが、将棋棋士関連動 画って滅茶苦茶面白いんですよね…)。カツラを被ってる棋士はいるのでしょ うが、中々ここまで大胆なインタビューを、よりにもよって地上波で行うよ うな棋士は、今の囲碁界だと趙治勲先生くらい……でしょうね、まぁベクト ルは違う気もしますが。そういえばそうだ、囲碁も最近は NHK 杯で棋士に 『今日の私の一手』というものを解説させるなど、コミュ力強化作戦みたな ことを積極的にやってますね。ニコニコ動画との連携も顕著ですし、棋士も そうしたファンサービス精神が求められているのかもしれません。 (※6):こうした知得の秀でた面を引き出させた理由の一つに、生涯に渡って ライバル関係だった本因坊元丈の存在が挙げられます。元丈の碁は相手に有 無も言わせず力強くタイプで、知得とは正反対の打ち方であったことからも、 丁度良い塩梅に噛み合うことが多かったようです。また両者は家元が異なっ ていながらも協調関係にあり、互いに『一方だけが名人になるのは好ましく なかろう』と名人位を譲り合い、共に八段に在位し続け合うという謙虚な姿 勢を示しあっていたくらいでした。そうした意味では丈和と幻庵とは好対照 な関係にあったとも言えます。
【第三章:囲碁と家元(本因坊家編)】 ま:いやぁ……な、長い話だったな。 れ:そ、そ、そうね……もうくたびれちゃったわ。 ま:しかしだな、最後に一つ残ってるぞ……しかも、一番大きい本因坊家が。 れ:とはいえ結構エピソードも話してはいるのよね、他家元の棋士と一緒に。 本因坊家が地味になるような時代ってどうしても少ないし、養子云々の 話も含めればキリが無いくらいだから、仕方がないのだけど。 ま:じゃあ本因坊の中で歴代最強棋士は誰か、って話なんかはどうだろう? れ;お~、そうね。その話は結構興味深い話よね。 ま:敢えて三人に絞り込むと誰になるだろうな。 れ;本因坊道策と秀策は手堅いところね。あとは本因坊秀栄と秀和、他にも 色々いるけども、この二人が入ってくる感じになりそうね。 ま;しかし自分で言っておいてなんだが、そもそも『最強棋士』の定義って どういう風な感じになるんだろうな? れ;私が挙げたところだと、当時自分に勝ち越すレベルのライバルは不在で、 尚且つ勝ち方が綺麗な棋士というのを選んだつもり。 ま;成程。確かに丈和だと幻庵、元丈だと知得がいるから、霊夢が云うとこ ろの最強棋士の定義的には怪しいのか。 れ;そうなのよね。あとは前の章だと道知も相当強い棋士だったのは間違い ないし、『当時の名手相手に調整まがいな碁を打っているので、歴代 最強クラスではないか?』と言っている人もいるけど、そういう想像の 世界を語るとキリがないので除外。 ま:さっきもチラと聞いた気がするが、今霊夢が挙げた棋士の強みってどう いったところにあるんだ? れ;そこは解説に聞いてみるといいかもしれないわね。色々と喋ってくれそ うではあるわ。 ま:またあの解説かよ!、もう長いのは懲り懲りだぜ……
れ;今度は短くしてくれるんじゃないかしら?まぁまたダラダラ長話続ける ようなら退治するまで! 【解説】 ……てな訳で先程はすいませんでした。これ以上やり出すと読者が減るこ とにも繋がりかねないですし、退治されちゃうそうなので(笑)、今度は長々 と喋り過ぎないようにしましょう。この章では本因坊家、特に歴代最強棋士 についての話を進めていきたいかなと思います。 『歴代最強棋士は誰か?』という論題は、古今東西囲碁界で盛んに話し合 われているところで、棋士によっても見解が分かれているところです。その 点お隣の将棋界は羽生先生か大山先生を挙げれば正解なのでしょうね、恐ら く。囲碁において最強棋士論争が変化している大きな理由としては、昔の棋 士の読み筋の深さは恐ろしい程のものだったいうのが、現代のプロ棋士によ る研究で判明したからです。古碁の本を開けば、必ずと言って良いほど『幾 ら時間があったとはいえ、こんな先を見越して打っていたのか…』といった、 感嘆の声が聞こえてきますからね。実際プロ養成機関である院生においては、 今はどういった碁を並べるかは把握していませんが、昭和に活躍した棋士で すと、四大家元時代の碁を徹底的に、それこそ暗唱できるくらいまで並べさ せられたという話があったようです。まぁそうしたことが出来るからこそ、 プロの高手は目隠し碁のような人間離れした所業ができるのでしょうね。 さて、この最強棋士論争で常時挙がっているのは本因坊道策と本因坊秀策 ですね。霊夢たちの話にあったように、本因坊秀栄や秀和を挙げている棋士 もいますが、前者は若い時の負け碁が多過ぎる点、後者は晩年秀策や秀甫に 押され気味であった点から、そこまで強く推されている印象はありません。 それでは道策と秀策の囲碁の強みとは何だったのでしょう? 結論から述べ ると、両者は全くと言っていいほど別のタイプでして、道策は面白いように 手筋が炸裂するタイプ、秀策は序盤・中盤・終盤、全てにおいての完成度で
勝負するタイプでした。道策は本当『何手先まで読んでいたのか?』という くらい、周りの石がはたらく、手品のような打ち回しであり、あまりにもそ れが綺麗に決まるものだから『道策の碁は実在のものではなく、弟子たちの 合作なのではないか?』という説まで存在した程です。後世の棋士が解説す る際も『○○先生は道策のこの手を悪手と言っていたが、この手が無いと A という手段は成立しないのである』といった具合に、見れば見るほどケチの つけようのない碁を打っているのですよね。それに対して秀策はというと、 道策のように力でねじ伏せる碁は少ないのですが、少しでも隙を見せようも のならすかさずポイントを稼いで逃げ切るタイプ。そういう意味では師匠の 秀和の若い頃とも通じるものがあります。道策と秀策、どちらかと言えば道 策に軍配が上がるかなと思うのですが……秀策の場合、30 代前半で早世した のと、御城碁 19 連勝という前人未到の記録を打ち立てたのと、『耳赤の一 手』や『秀策流』(※1)といった、語り草になるものが残っている分、人気が 高いのは確かですね。また 2000 年代初頭の世界最強棋士であった韓国の イ・チャンホ九段が『秀策先生が現代にいらしたら、私などとても叶わな かっただろう』と評していたという話もあります。まぁ『ヒカルの碁』の最 終盤では、韓国の若手棋士が『秀策は時代遅れの棋士』と、ヒカルを煽った 場面もありましたがね、実際は世界的にも尊敬されている訳です。 『どの棋士が歴代最強であるか?』といった論争は、その棋士の価値観に 左右されるところは、やはり否めません。例えば先程例に挙げたイ・チャン ホ先生は、秀策と比較的棋風が近いからこそ、より深くその美徳を感じるこ とができたのかもしれませんし、平明な碁を至上とするなら秀栄、堅実且つ 陣地に敏感な碁であれば秀和、S っ気たっぷりな碁が好みならば丈和、威圧 感を重視した碁型を好むならば秀甫……といった塩梅に、それぞれが目指す 形によって評価する棋士というのも大きく変わる訳です。 逆に、そうした信念が色濃く出過ぎるが故、道策や秀策の打ち方を嫌うよ うな棋士もおりました。例えば道策に関して云えば、その遊び心ある打ち回
しの一部に関し、藤沢秀行先生が『昔道策がこんな手法をしばしば用いてい たようだが、正しく打たれたら酷い形になるじゃないか。こんなのは碁でな い!』と痛烈に批判したという逸話があります。それより突っ込んだことを 仰っていたのは趙治勲先生。先生は秀和が好みで、秀策や道策は中々心に響 くものはないと主張しているのですが、その言わんとしているところはとい うと『道策の碁にしても秀策の碁にしても、綺麗にまとめて勝利したり、技 が面白いように入ったりし過ぎる。私はそれよりも変化の多い碁が好みであ り、例えば秀和の局面を動かしつつポイントを上げる様は鮮やかさこそ、心 に訴えかけるものがある』とのこと。そしてそれは『厳しく鎬を削る環境下 にいたからこそ、成立するのだ』とのことでした。趙先生の囲碁観は独特の ものがありましたが(※2)、こうした視点は、『最強』というところに留まら ず、囲碁の強弱全般を見る際においても、実に興味深いものがあります。 色々と穿った見方を書きはしましたが、『本因坊○○は好まないが、本因 坊△△は好みだ』と述べる棋士もいるように、本因坊家こそ囲碁を様々な視 点から捉えられるようにする、そんな基礎を造り上げた一門であることは間 違いありません。又は『先代本因坊がこのように打っていたが、それを踏ま え、自分は如何なる碁を打ち進めるべきだろうか?』という意識が各棋士に 根付いていたからこそ、こうした多種多様な打ち手を輩出したと言えるのか もしれません。実際師弟同士の対局で石の張った真剣勝負が見受けられるの も、本因坊家くらいのものですし、それが各人の碁の形成に寄与したことは 間違いないと言って良い筈。これこそがプロ野球の野村監督が云うところの 『無形の力』って奴ですかね、他三家も含め四大家元を見てきた訳ですが、 そうした底力に関しては本因坊家は傑出した存在であったと見ることができ るでしょう。 (※1):秀策流とは、先手番時に秀策が好んで用いていた、隅の陣地を手堅く 確保し、立ち回っていく手法のこと。まぁ秀策が一番最初に打ったという訳
でもないそうですがね、碁の結果を聞かれて『黒盤でした』と暗に勝利を仄 めかすまでに使いこなしていたことから、そのように名付けられたという経 緯があります。ちなみに作家の遠藤周作先生は、飛び抜けて囲碁が強い訳で はなかったものの愛棋家として名の知れた先生で、自分が閃いた打ち回しに ついて『周作流だ!』と無邪気に仰られていたといいます。ちなみに周作先 生は愛余って『宇宙棋院』と呼ばれる、物書き同士の囲碁倶楽部を結成して おり、これについては先生著書の『狐狸庵先生のこう打てば碁が下手にな るー遠藤周作対局集』という本にまとめられています。現在高騰してはいる ようですが、囲碁に興味をお持ちの方は、手に取ってみると愉しめるのでは ないかと思います。 (※2):その後趙治勲先生の持論はヒートアップし、『そもそも一人の碁打ち が強い世界なんて、時代的に間違っているとしか言えない。特に秀栄や秀哉 といった後期の本因坊は、一人が飛び抜けていたので面白い碁が少なかっ た』や『(家元制度亡き後の伝説的棋士で、今年逝去された)呉清源先生は、 その強さ故にかなり厳しい条件で打たれていたから、今見ると無理な手が多 く、不幸な碁打ちだったかもしれません』といった趣旨のことを、続けて述 べております。そして極めつけは『昔の歴代名人より、林海峰先生登場以降 の昭和後期からのチャンピォンの方が、明らかに強い』というもの。昔の名 人は孤高の存在でありがちな故に、今のような切磋琢磨する環境は整ってい なかったのではないか?と主張するのです。これらに関しては異論も当然あ るでしょうが、私個人としては、これは趙先生の『今これだけ棋士冥利に尽 きるほどの素晴らしい環境があり、だからこそ我々は多くのものを盤上に残 さなければならない』という信念の現れであると受け取っております。何せ 趙治勲先生は『碁打ちをはじめとする表現者は、お金を持つようになっては いけない。普通に働いている人たちより上になってはいけないんだよ。そう ではなく、その人たちの憧れ、希望にならねばならない』というようなこと を仰っている先生ですから。
【第四章:現代囲碁界におけるタイトルと棋士事情】 あ:ふふふ~ん♪ 私、射命丸文は文々新聞のネタ探しで毎度毎度忙しい訳だが、今日はいつ になく上機嫌だった。何と今日は霊夢さんから直々にお話があるようだ。 きっと幻想郷に何か異変が起こっていて、記者である私に色々訪ねようとし ているのだろう。記者としての私の直感だ、間違いない。いやー、これだけ 発行していると信頼の積み重ねってあるものなんですね。改めて記者やって て良かったと思いますよ、うんうん。 あ:こんちわーっす、霊夢さん! れ:来たわね、文。 ま:はぁー、来たか文。…これで漸く、霊夢をなだめずに済む。・ あ:あややっ、やっぱり何か異変でもあったんですか!? れ:全然無いわね。 あ:(わ、私の直感って一体…) ま:…なんか、随分とショック受けてそうな顔してるな。 あ:本当ですよ!それで、結局どういった要件でしょうか? れ;文はさ、新聞を出しているわよね。そんな文にしかお願いできない、す ご~く大事なことがあってね! あ;ほうほう、それは一体何なのでしょう? れ;幻想郷の囲碁大会のスポンサーになって欲しいのよ! あ;す、すぽんさー……ですか?? ま:あー、これについては私から。囲碁の本でな、こう書いてあったんだよ。 『囲碁の棋戦は新聞社がスポンサーになるものが多い』って。実際囲碁 には七つの大きな棋戦があってな、いずれも新聞社が主催なんだ。 あ:成程合点です。しかし囲碁の欄を載せるくらいならちょちょいのちょい ですがね。対局中私が張り付いて記事にまとめることもできると思いま すし。しかしお金まで出すのは……うーん?