第1回「暗雲、乱れ飛ぶ〜5大名に御手伝普請の幕命が下る〜」
第1回「暗雲、乱れ飛ぶ〜5大名に御手伝普請の幕命が下る〜」
「幕命の前夜」
「ただ今から印旛沼掘割普請の儀について評定を致す。ま ず拙者から現地調査の結果を踏まえた『目論見』をご説明した い。その後、御意見を賜りたい。本日の協議をもって評定を打 ち切りたい。協議の次第は外部に漏らさぬよう、くれぐれも内 密に願いたい」 天保 14 年(1843 年)6 月 9 日 4 ツ(新暦 7 月 6 日午前 10 時)、江戸城黒書院で老中を中心とする緊急の評定が召集され た。評定の冒頭、老中首座水野忠邦(遠江国浜松藩主、6 万石) が細面の顔を紅潮させて声を張り上げた。評定には水野の他、 信濃国松代藩主真田幸貫(10 万石、父は寛政改革の主導者松 平定信)、下総国佐倉藩主堀田正篤(後に正睦、11 万石)、同 国古河藩主土井利位(8 万石)の 3 人の老中が雨の中を召集さ れた。 4 人の老中とも長袴の礼服であった。この年は梅雨が長引い て湿気の多い日が続いていた。この日も朝から江戸の町に糸の ような雨が降り注いでいた。 普請の総括責任者は老中水野であり、会議に先立って 50 歳 の老中は現場を指揮することが内定している南町奉行鳥居甲 斐守忠耀(耀蔵)、勘定奉行梶野土佐守良材、目付戸田寛十郎 氏栄(後にアメリカ東インド艦隊(司令長官ペリー)来航時の浦 賀奉行)、勘定吟味役篠田藤四郎の4人を老中たちに紹介した。 (1 カ月以前の 5 月 4 日、彼らは印旛沼掘割普請御用の責任者 に内定していた)。 「4 人の作業分担は、鳥居が普請所の治安維持、梶尾が普請 の会計と普請所の見回り、戸田が普請監察の強化、篠田が普 請作業の指示に、それぞれ当らせる所存である」 水野が一人ずつ紹介すると、これも正装姿の幕臣たちは畳に 両手をついて深い辞儀をした。 「貴公たちも本日の会議終了までこの席に控えておるように 願う」 水野忠邦の海運の妨害という事態を想定して、浦賀水道を経由すること なく物資を江戸に輸送することが出来る水路の設定を考えた い。これが一大普請の真の目的である。だがそれだけでは沼の 周辺村落は納得がいくまい。そこで水害対策も検討したいと考 える」 水野はここで一息つき額の汗を白布でぬぐうと語を継いだ。 「ご異論はありますかな」 3 人の老中は扇子を動かすのを止めたが、声は上がらなかっ た。下総国千葉郡平戸村(現八千代市)の印旛沼落とし口から、 検見川村(現千葉市)の海岸まで開削し、印旛沼を干拓して同 時に水害対策に役立てる計画は、享保 9 年(1724 年)と天明 5 年(1785 年)の過去 2 回にわたって試みられ、いずれも無残な 失敗に終わっている。
「異論あり !」
「普請は来月には開始したい。そこで普請をどう行うか、人夫 をどう調達するか、なかんずく巨額の工費をどうするか、問題は そこである。幕府財政は火の車である。そこで 5 藩大名による 御手伝普請といたしたいが、いかがであろうか」 水野は頬を赤らめて質した。 「確かに幕府の財政事情を考慮すれば、大名による御手伝普 請以外に手立てがないと考えられます。ですが、猛暑となる来 月から工事に取り掛かるのは、いささか過酷に過ぎませぬか」 老中真田幸貫が一応同意の意向を示したが、堀田と土井は 口を固く閉じたままだった。 「堀田氏、土井氏はどうお考えか」 水野は攻め立てるように糺した。 「拙者は直ちに同意と言うわけにはまいりません。印旛沼は 拙者の佐倉藩領地に接しております。御公儀の判断で、2 度に 者として、堀田氏と同じ懸念を持つものであります」 土井が水野を見つめて答えた。 「それは拙者も十分に考えたところだ。この 2 年間現地の見 分を行ってきている。その結果は町奉行鳥居がよく存じている。 判断は拙者に任せていただきたい」 水野が声に力を込めて語り、言葉を継いだ。 「現場での御手伝普請を命じる藩を読み上げたい。貴公らに 以前内々にお伝えした藩の大半に拒否された」 「拒否した藩をお教え願いたい」 土井が声を挙げた。 「仙台藩、福岡藩などの大大名である。この件はこれ以上伝 える必要はない。御手伝普請の大名を申上げたい」 水野が顔をしかめて答え額の汗を再び白布でぬぐった。 土井利位肖像(正定寺蔵)第1回「暗雲、乱れ飛ぶ〜5大名に御手伝普請の幕命が下る〜」
新水路開削により東北の物産を江戸に搬入することを狙った 水運計画に東北の雄藩が拒絶したのである。 (「庄内藩を印旛沼開削にはめ込んではいかがです。例の一 件もありますぞ」。町奉行鳥居が老中忠邦にこう伝えたとの風聞 は蘭学者らを通じて老中土井の耳に入っていた。土井は藩家老 の蘭学者鷹見泉石とともに雪の結晶を研究していた。「雪の殿 様」であった)。同日夕、老中の水野忠邦、真田幸貫、堀田正篤、 土井利位が列座し御手伝普請の大名を決定した。「江戸期の印旛沼開発」
印旛沼は下総国(現千葉県)北部に広がる。下総台地の浸食 谷が沈降し、利根川の運搬土砂によって出口をせき止められて できた W 字型の沼であった。同沼は利根川とつながっていて 利根川の遊水池の機能をもっていたが、沼の周辺は毎年のよう に洪水に襲われる水害常襲地となっていた。印旛沼の大洪水 を江戸湾側に向けて落とすための堀割開削は、江戸時代を通 じて 3 回計画された。 第 1 回は、享保 9 年(1724 年)8 月に千葉郡平戸村の名主 源右衛門らが、印旛沼の干拓を計画して幕府に願い出たもので ある。幕府は勘定吟味役(新田開発担当)井澤弥惣兵衛らを派 遣して現地調査をさせた。計画では、平戸村から検見川村の海 岸地先(江戸湾)までの掘割の距離は 9384 間、人足の賃金は 30 万両余、工事により潰れ地は 70 町歩であった。(1 間は 6 尺、 1.81 メートル、1 町歩は約 100 アール)。源右衛門らは、幕府 から 3000 両(1 両は今日の 10 万円から 20 万円)を借りて工 事を始めた。だが洪水のため工事は放棄され、源右衛門らは多 額の負債を抱え全財産を失った。将軍吉宗が断行する享保改 革の最中に計画された普請は、新田開発を目指したものだった。 第 2 回は、天明年間(1781 年‐1789 年)に行われた。安永 9 年(1780 年)8 月に、印旛郡惣深新田(現印西市)名主平左 衛門と島田村(現八千代市)名主治郎兵衛が印旛沼開削の目論 見書を幕府に提出した。幕府は新田を開発し、舟運の便を開こ うとして平左衛門に命じて調査させた。安食(現栄町)で利根 川口を締切り、印旛沼の水を落とし、約 3400 町歩の新田を 見込んでいた。資金は江戸浅草の長谷川新五郎と大坂の天王 寺屋藤八郎の二人の商人が出し、工事が完成時には、新田の 8 割を金主が、2 割を地元で分けることになっていた。工事は 天明 3 年(1783 年)に始まった。天明年間の工事は堀敷 6 間 で掘割が進められた。享保年間の掘割工事の堀割が地形のま まに曲がりくねっていたのに対して、天明期では幕府が積極的 に工事に参画したため直線状に掘り進められた。天明 5 年 10 月には、印旛沼・手賀沼工事と利根川の水利事業を、また翌 6 年 2 月には、印旛沼の工事を勘定奉行が現地視察している。 完成も間近と期待された。 天明 6 年 7 月、大水害が襲った。それまでに築きあげた利 根川と印旛沼の締切り口は破壊され、印旛沼の掘割工事は壊 名主染谷源右衛門家の墓(江戸期の墓石) 印旛沼図(『利根川図志(赤松宗旦著)』より)「大飢饉と外国船来航」
天保 4 年(1833 年)から東北地方を中心に始まった慢性的 大飢饉は深刻な影響を全国に及ぼしていった。同年は、春より 時候が不順で、夏に入っても陰冷な日々が続き、6 月関東では 袷を用いたほどであった。秋に至って大型台風や大洪水が襲来 し、続いて厳しい寒気がいち早く訪れた。奥羽では 3 分 5 厘の 作柄で皆無という最悪の状態に陥った所も少なくない。翌5 年、 時候は和らいで農耕はつかの間の安定を保った。6 年、時候 は再び厳しくなり、イナゴやウンカの大発生による被害が相次 いだ。大飢饉の頂点というべき天保 7 年を迎えると、事態は「生 き地獄」の様相を呈した。6 年冬の暖冬異変が翌 7 年の春夏 には低温・多雨にかわり、出穂期に大風雨が続き、ついで大霜 が襲うという惨状で、すべての作物が凶作となった。物価は高 騰し、食糧は窮乏した。諸藩とも米を領外に移出することを禁 じ、配給の道は断たれた。8 月、幕領甲斐郡内地方(現山梨県) では農民らによる武装蜂起が起きた。 東北諸藩の惨状は特に痛ましい。4 年より10 年に及ぶ間に 津軽地方での餓死者は 3 万 5600 人余り、他の地に流離する 者 4 万 7000 人余りと記録されている。この不幸な地方では口 に入る動植物の大半が食いつくされた。ナラの実、カシの実、 ワラビの根、イモの乾燥した葉、カキの葉、松の皮に至って、街 道の松並木は白く肌を剥ぎ取られ寒風にさらされた。幕府の 年貢収納高も激減した。天下に先んじて飢饉を憂いた農政家 がいた。二宮金次郎(尊徳、1787 年‐1856 年)である。天保 4 年初夏、彼はナスを口にしてそれが秋の味であることを感じ 直ちに異変を察知した。農民を説得して回り稗をつくらせた。 やがて秋が厄災をもって立ちはだかった時、農民たちの飢餓を 救った。 天保 8 年は疲弊が極まり異常な事件が相次いだ。以後の激 変を予告する年でもあった。2 月大坂では陽明学者大塩平八 を、文政 8 年(1825 年)の異国船打払令に従って浦賀奉行が 砲撃し撃退させた。この事件を契機に、蘭学者渡辺崋山、高野 長英、小関三英らの幕政批判が噴出した。目付鳥居耀蔵はこれ ら時代の先を読む蘭学者を罪状も明確にしないまま捕縛した。 「蛮社の獄」である。(後章で詳述)。鳥居は「耀蔵(ようぞう)と 甲斐守(かいのかみ)」をもじって「妖怪」と陰口を叩かれかつ恐 れられた。水戸藩主徳川斉昭は「内憂外患」と呼んで危機感を 募らせた。いずれも幕府の経験したことのない異常事件であっ た。追い打ちをかけるように、オランダ船により幕府を震撼さ せる情報がもたらされた。アヘン戦争(1840 年‐1842 年)によっ て、清国がイギリス軍に大敗北を喫して鎖国政策が崩壊し、半 植民地化されたのである。「佐藤信淵の建言と幕府の現地調査」
天保 4 年、佐藤信淵(1769 年‐1850 年)は『内洋経緯記』を 著した。信淵は出羽国(現秋田県)出身で、農政学者であり農業 土木はもとより蘭学にも長けていた。信淵は、『内洋経緯記』の 中で、行徳(現市川市)の堀江村から富津(現富津市)までの江 戸湾の干潟を埋め立てれば、広大な新田地が造成できることを 指摘した。次いで印旛沼掘割開削についても論及した。彼の論 点は印旛沼の新田開発を目的にしたものではない。利根川から 印旛沼までの水路を開削し、さらには海岸の検見川村までに 幅 30 間(約 54 メートル)の大河を堀割って、内湾(江戸湾)か ら銚子を結ぶ水路を確保し、東北・関東地方やその他の地域 の物資を江戸に運ぶ運河を構築することを唱えた。外国船に よって江戸湾口を押さえられた緊急時(海上封鎖)でも、印旛沼 を経由して海への水路を確保するとの海防戦略と結び付けた 建言であった。第1回「暗雲、乱れ飛ぶ〜5大名に御手伝普請の幕命が下る〜」
◇ ◇ ◇ 天保 11 年(1840 年)11 月、忠邦は勘定組頭五味与三郎、 勘定方楢原謙十郎に印旛沼の現地調査をさせた上で「見積書」 を出させた。これは天明年間に掘られ放置された古堀筋を再度 掘削するための現地調査である。五味は堀割の利点として、① 利根川に大水が出た時この掘割を使った排水が向上すること、 ②通船の利便、③掘割によって沼の水を 5 分落としても多くの 新田が出来ると指摘している。洪水期の沿岸農地の水害を減ら すだけでなく、開削によって常総 2 国の物資が 1 日か 2 日で江 戸に運べる舟運の便が開け、さらには干拓地に良田が開けると の見通しであった。工事は開削費 13 万 8216 両、用意金(予備 費)7 万両を必要とする、と五味は概算した。赤字財政に陥っ ている幕府にとっては目がくらむような巨額な出費だが、忠邦 はまだ大名御手伝という判断には傾いていなかった。 12 年から13 年にかけて、勘定方楢原謙十郎は支配勘定格 宮田菅太郎、普請役村上貞助らを同道させて常陸国(現茨城 県)鹿島郡内を調査した。13 年 8 月、勘定奉行梶野土佐守良 材、代官篠田藤四郎、楢原謙十郎、宮田菅太郎、村上貞助らが 下利根川の通水行路の見分を行った。いずれも新たな舟運の 水路網開発をにらんだ見分である。次いで同年 10 月、篠田藤 四郎が黒鍬者(幕府土木作業員)に命じて水路掘削予定地の 中でも最難関とされる千葉郡柏井村・花島村 ( 現千葉市 ) で 試掘を行った。天明の普請で打ち込まれた杭木が土中からお びただしく掘りだされ掘削工事の困難さを改めて印象付けた。 14 年 5 月1 日、幕府は新たな印旛沼掘割水路の開削を内々に 決定し、堀床を 10 間(約 18 メートル)決定した。大型輸送船の 高瀬舟が通航可能な川幅である。そして同月 30 日、篠田が勘 定吟味役に昇格となり印旛沼普請の現場をあずかることが内 定した。「二宮金次郎の印旛沼見分」
天保 13 年(1842 年)7 月、幕府の代官篠田藤四郎より、老 中水野の名によって召し出し書が二宮金次郎の手元に届いた。 幕臣(普請役格、土木技師)となった金次郎は 56 歳だった。彼 が最初に仰せつかったのが「利根川分水路見分目論見御用」で ある。彼の水利に対する農業土木的手腕が買われたのである。 金次郎は 10 月 21 日に出立して現地にのぞみ、11 月15 日に 江戸に帰った。早速、見込書を普請奉行に差し出している。彼 は「20 年以上かかっても完全に出来上がる仕事かどうか疑わし い」との厳しい見方をしていた。しかし、是非とも仕上げなけれ ばならない事業ならば、まず周辺の農村を復興してからのこと であるとして、そのための仕法 15 カ年計画を立案した。分水 計画を実施するならば水路となる地元の人心をつかんでいな ければならない。非常に広い範囲にわたるのであるから、その 周辺の人々が反対の気持ちを抱いているのであれば、どれ程の 金をかけても結局は失敗するのだという確信が、彼にはあった。 彼が提言する「凡そ 26 年も取行ひ候はば」との気長い手法は 幕府首脳のとても取るところではなかった。 「翁はこう言われた。およそ事を成就しようと欲するならば、 初めに終わりまでの計画を細かく立てるべきだ。たとえば木を 伐るのに、まだ伐る前に木の倒れるところを細かに決めておか なければ、倒れようとするときになって、どうすることもできな い。私が印旛沼を見分した時にも、仕上げ見分(事業完成後の 検査)をも一度にしようと言って、どんな異変にも失敗しない方 印旛沼周辺図(江戸期)月17 日)に日光廟に参詣することだが、それは単なる先祖への 墓参ではなかった。2 代将軍秀忠の先例にならって出陣に準じ、 将軍が軍団編成をとる諸大名・旗本を従えて、日光街道を威風 堂々と行軍するという勇ましいものであった。将軍の全国支配 者としての威勢を誇示する最大の行事であった。しかし、荷物 運びに安い賃金で徴発される街道沿いの農民は不満を持ち、 また諸大名・旗本も窮乏が深刻化した最中であり、供奉の経 費調達が気掛かりで乗り気ではなかった。そこで老中水野は 供奉の範囲も幕閣を中心とした譜代大名と御三家に限定した。 天保 14 年 4 月13 日、第 12 代将軍徳川家慶の行列は江戸 城を出発し、17 日に日光霊場での礼拝を終えて 21 日に環城 した。日光社参は総勢 18 万人余りで、経費は 19 万両と空前 の巨額に上った。同行の大名たちは新たな多額の借金を抱える ことになった。老中水野は日光社参の成功に気を良くして印旛 沼掘割工事に着手するのである。