垂水節子『ドイツ・ラディカリズムの諸潮流−革命期の民衆
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(2) れが短く内容的にも不十分である。そこで「終章」を補う意味で、「副論」として、全体 の総括と理論的整理を試みたい。. 2.「ラディカリズム」の概念規定. 1)一般的な使い方. 『本論』では筆者はこのタームをひたすらルーカスの研究によっており、また適用範囲 を「ドイツ革命期」という、極めて限定的なものに考えている。しかし、このような使い 方は必ずしも一般的ではない。そこで本節では、事典類や他国に関する歴史叙述によりな がら、「ラディカリズム」の一般的な用語法について一瞥しておきたい。 この語に関するドイツ語で最も詳細なものは、『歴史基礎概念―ドイツの政治・社会用 語の歴史事典』(1994)、第5巻の21頁にわたる説明である(3)。その大略を紹介する。 まず、形容詞ないし副詞としての「ラディカルradikal」という語は、後期ラテン語 の ’radicals’ から借用したもので、16世紀以後ドイツ語文献に現れるが、18世紀にフラ ンスの影響もあって、後期啓蒙主義の学術語として導入され、ドイツ語として定着した。 その本来の意味は「根本的gründlich」ということで、ドイツ語ではそれが現在にいたる まで通用する( 4 ) 。 この語が「原則に忠実」「非妥協性」「原則への拘泥」という本来の意味から転じて、 政治的概念として広く使われ始めたのはドイツでは1830年以後で、イギリスやフランス の先例によっていた。フランスでは七月革命後、自由主義者に対して最初は敵対者が、後 には検閲などを逃れるために自らが、「共和派」という語の代わりに、イギリスに真似て 「ラディカル」とか「ラディカリズム」と呼んだ。ドイツでもこの語は「リベラリズム」 や「共和主義」のシノニムとなったが、同時に「リベラリズム」と「ラディカリズム」を 区別して、その相違は「改良」と「革命」に該当するとみる立場も生まれた。すなわち青 年ヘーゲル派のように、現状を「ラディカル」に変える、つまり革命的に行動する用意の ある者にとって、ラディカリズムと改良主義の違いはテンポにあり、アレグロとアンダン テに準えられた。ラディカリズムとは、根本的にして急激でなければならないと彼らは考 えた。. 2.
(3) さらにフランスの初期社会主義もラディカリズムと言われたところから、三月革命前夜に なると、西南ドイツの民主主義者はラディカリズムと社会主義は近い関係にあるとみてお り、この語にアイデンティーを感じていたようである。同時にラディカリズムは、この概 念を体現する政党や陣営をも意味する言葉になり、「急進的民主主義 Demokratie」「社会民主主義soziale. radikale. Demokratie」「断固たる政策entschiedene. Politik」と同一視された。換言すると、三月前期のドイツでは「革命派Revoluionäre」 「共和派 Republikaner」「運動政党Bewegungspartei」「断固たる人々Entschiedene」「民主派 Demokraten」が、ラディカリズムの同義語であった(5) 。概して、この言葉は三月前期 の表象でさえあった。 48年革命後、この語の概念は変化した。ドイツにおける民主主義運動、つまりラディ カリズムの決定的敗北により、この語は広く革命、共和政、社会改良を唱える人々全般で はなく、「左翼」ないし「共和派」、多くは「革命政党」ないし「赤色革命」と敵対者が 呼んだような、もっぱら政治的党派を示す場合に用いられるようになった。そしてヘーゲ ル左派や西南ドイツの革命家は、ドイツ・ラディカリズムの古典的代表例となった。さら に19世紀後半、ヨーロッパにおける政治状況の変化にともない、この語は以前にも増し て自由主義者や保守主義者が反革命的立場から表明する概念となった。彼らは「民主主 義」や「共和主義」より、むしろ既に「社会民主主義」への警戒感を強め、さらに反国民 主義的インターナショナルな運動をラディカリズムの概念と結びつけるようになった。た だし、後述のフランスの場合とは異なり、ドイツでは政党を表す語に「ラディカル」ない し「ラディカリズム」が付されることはなかった( 6 ) 。 特筆すべきは、第一次世界大戦後のドイツで、ラディカリズム概念のルネサンスが起 こったことである。すなわち、革命的状況のなかで政治的・社会的フロントの両極化が進 んだ1919年以後、この語と革命とが密接に結びつき、ラディカルな現象が学問的分析の 対象となった。1924~. 25年に公刊された研究では、ラディカリズムとは現存するものに. 反対する、人類の歴史にとって許し難いイデオロギーであり、不寛容な者に固有の世界観 で、社会学的には下層階層に、生物学的には青年層に属する、と定義されていた。以後ド イツでは、ナチスを「若いラディカリズム」と名付ける者もいたが、一般にはナチズムは 左翼ラディカリズム、すなわちマルクス主義的なラディカルな社会主義とは異なるとされ、 「左翼ラディカリズム」と「右翼ラディカリズム」の区別が今日なお通用している( 7 )。. 3.
(4) ひるがえって、この語がより早く使われたイギリスやフランスでは、どのようであった か。まずイギリスでは、その使用例は15世紀に遡ることができるが、政治的概念として は18世紀末頃から、特に選挙法改正をめぐる政治的対立の激化と結びつき、急進的改革 の擁護者が19世紀初頭以後、最初はその政敵から「ラディカルズ」と呼ばれた。その典 型が1830~40年代のチャーチスト運動だった。またコブデンやブライトの反穀物法同盟に 代表される、マンチェスター主義者も「ラディカルズ」と呼ばれた。イギリスではラディ カルズがひとつの独立した党派を形成することはなく、19世紀中葉グラッドストーン下 の自由党に流れ込み、党内で重要な役割を果たし、それはJ.チェンバレンやロイド・ジ ョージの政策にも反映した(8)。フランスでは既述のごとく、多くの場合「共和派」ない し「共和主義」のシノニムだった。それは七月王政の時代に現れた、フランス革命の遺産 を重視し、非教権主義つまり政教分離や、自由・平等の政治への改革を提唱する精神のあ りようを意味した。第三共和政以後はラディカリズムは1891年に結成された「急進社会 党(ラディカル・ソシアリスム)」の党名と結びついた。またドレフュス事件に際して、 共和派にして反教権派である人々は「ペルソナリテラディカル」と呼ばれ、共和政の改革 に成功した。同党は労働者政党である「社会党」とは一線を画していたが、1936年人民 戦線政府を共に樹立した( 9 ) 。 つまり英語圏やフランス語圏では、19世紀中葉以後「ラディカルズ」ないし「ラディ カリズム」とは、ドイツ史でいう「自由主義左派」なる党派やそうした政治運動を意味す ることが多く、わが国やアメリカの歴史研究でもそれが踏襲されている。例えば、中木康 夫氏の研究(1975年)や最近のフランス史の概説書でも、19~20世紀の交、「ドレフュ ス革命」の時代におけるブルジョア左派の急進党や急進社会党の政治は、その大衆的基盤 をふくめ「ラディカリズム」あるいは「急進主義の共和国」と名付けられている(10)。ド イツについてもアメリカ人の研究では、19世紀末から20世紀初頭の「自由思想派」や 「自由思想連合」のような「自由主義左派」を「ラディカルズ」と呼んでいる場合がある (11)。また石塚正英氏はドイツの三月前期に関する研究で、「共和主義的急進主義」と. 「共産主義的急進主義」という概念を用いている(12)。 このようにみてくると、第一次大戦後の時期について「急進主義」ないし「ラディカリ ズム」という語を用いるのは、必ずしも一般的ではない。それは上述のごとく、第一次大 戦後のドイツの政治的・社会的状況を反映した、「特殊ドイツ的」用語でさえある。ドイ ツ革命研究が盛んであった1970年代前半に、後述のルーカスが著書のタイトルに「ラデ. 4.
(5) ィカリズム」を付し、見事な分析を行って以来、この用語はドイツ史の研究者の間では定 着した。わが国では少なくとも論文や単著のタイトルとして、この語を用いたのは筆者だ けである(13)。それゆえ、この語を用いる場合は、繰り返し引用した『歴史概念事典』で 最初に提言されているように、概念規定、少なくともその説明や補足を明瞭に行う必要が ある(14)。. 2)『本論』の場合. そこで筆者が何故、いかなる意味において「ラディカリズム」の語を『本論』で用いた かを説明したい。副題に「革命期の民衆1916-1921年」とあるように、筆者が本来描きた かったのは、第一次大戦中および直後の激動の時代に生きた、しかも革命的状況に積極的 に関与した民衆の姿である。率直に言えば、「ドイツ革命(1918~20年)」そのものを論 ずることを避ける意図があった。なぜなら、ドイツ革命研究の盛んだった1960年代末か ら70年代初めの時代を過ぎて久しい現在、この革命に限らず、フランス大革命を初めと する「近代の革命」の意義が不明瞭になってきた。それは抜本的に問い直される必要があ り、しかしその作業は容易ではない。たとえばフランス革命について、筆者は1980年代 末まではJ.ルフェーブルやソブールに代表される「古典学説」の見方を肯定してきたが、 現在ではF.フュレの修正主義の立場から事態を捉え直したら、ヨーロッパ近現代史はど のように見えてくるかに関心がある。つまり、歴史の転換点としての「革命」を論じるこ との意義が薄れ、その位置付けが不確かになった現在、当該する時代状況を別の角度から 論じることに、むしろ積極的な意味があり、歴史の新たな解釈の模索となる。 しかもドイツ革命については、旧東独の歴史家に典型的にみられるごとく、「成功し た」ロシア革命に対比しての、「挫折した」ないし「裏切られた」革命という見方は、ベ ルリンの壁の崩壊に始まる東欧社会主義体制の崩壊を経た現在、全く通用しない。他方ド イツ近現代史については、「特有の道」論のごとくドイツの後進性や、ナチスにいたる支 配層の「連続性」を強調する見方が広く受け容れられてきた。だが、ともすれば、それは 「(能動的な)民衆の不在」とでもいうべき歴史観に陥り、筆者は同調できない。結局の ところ、現在では「ドイツ革命」の説得力のある捉え方は、レヴェンタールの「革命の不 在」論や、工業化後の国家のもつ危機管理機能を前にした「民主主義革命は中途で停滞す る」というテーゼ、あるいはリュールップの「革命と改良は同一の目的に向かう、二つの. 5.
(6) 道」という説明である(『本論』8~9頁)。これらは19~20世紀を大づかみに捉えるため のヒントになる。 要するに、体制の抜本的変革としての「革命」ではなく、革命的状況をもたらした民衆 の能動的なあり方に焦点を当てて、近現代世界を描こうとしたとき、「ラディカリズム」 という概念は好都合である。しかも激動に満ちた20世紀を省察するとき、この世紀を特 徴づける二つの大戦の「元凶」だったドイツを中心に据えてみることは意味がある。従っ て、「ラディカリズム」なるタームを英米やフランスに基準を合わせて、19世紀的な 「自由主義左派」の意味で用いるのではなく、たとえ「特殊ドイツ的」であれ、第一次大 戦直後のドイツの事態を照準に据えたタームとすることは、20世紀史の理解には有効な はずである。結論的には、民衆の動向に目線を合わせた形で激動期を捉え、それを長期の スパーンのなかに位置付けてみたい、という筆者の願望がこの語に託されている。 そこで筆者なりのラディカリズムの概念規定をしたい。まず、第一は「最も激しい行動 をとった人々の動き」といった程度の大雑把なものである。これは一見曖昧だが、次に述 べる「自然発生性」との関連で、むしろ積極的な意味をもつ。従って「共和政」とか「民 主主義」、あるいは「社会主義」「共産主義」といった特定の思想や政治的主張は、ラデ ィカリズムと無関係ではないまでも、前提とはならない。むしろ「ラディカリズム」とは、 ある時期の民衆の生活や心性に深く根ざした行動である。それゆえ自閉的ではなく、伝播 力をもち、歴史を動かす重要なファクターになる。ちなみに、比較的近年の例をみると、 20世紀の終焉を告げた東欧社会主義体制の崩壊、特にその主体的条件を築いた東独の市 民運動家のなかには、自らの歴史を省察するとき、決定的な転換点となったのは80年代 初頭のポーランドの「連帯」であり、ゴルバチョフ改革ではなかったとする者がいる(15)。 このような思いは、歴史の表面にはなかなか現れず、実証の対象になりにくいが、当事者 たちにとっては決定的だった。歴史の「地下水脈」とでもいうべき、そうした民衆ないし 市民の心情や動きは、歴史研究の重要な対象であり、それを分析することは、激動期を理 解する要となる。それゆえ民衆の動きのなかでも突出した、激しい形態をとったものを 「ラディカリズム」と名付けた。 ラディカリズムの第2の特徴は、「自然発生性(spontan)」という概念と結びつく。 この問題を明瞭に提示したのが、「第一次大戦期の大衆運動」に関するフェルトマンらの 共同報告(1972年)である(『本論』6~7頁)。大衆運動とは大戦下の食糧騒動、デモ、 ストライキ、大戦直後のレーテ運動、社会化運動、赤軍をふくむ武装蜂起など、民衆のさ. 6.
(7) まざまな行動を包摂する総合概念として使われている。このテーゼによると、第一次大戦 期(1917~20年頃)の「大衆運動」の特徴は、大戦前のそれが党や労働組合、特にSPD や自由労働組合によって「上から」組織されたものが主流だったのに対して、党や組合指 導部の意向に反する「自律的」ないし「自然発生的」な性格をもったことにある。そもそ も、SPDや自由労組が戦争に協力し、11月革命後は政権を担ったときに生じた民衆との 齟齬が、ラデカリズムを生む一因であった。従って「自然発生的」な行動とは、全国レベ ルでの党や組合の「上から」の指令や規定にもとづく集団行動ではないが、地域ないし企 業レベルでは党や組合と強い関係をもつ場合もあるから、既存の組織が媒介するか否かは 個別的な問題で、そのため行動に組織性があるか否かも、さまざまである。表面的には 「自然に」生じたように見える集団行動でも、それは「のっぺらぼう」な大衆の集まりで はなく、実は組織化の「核」のようなものが存在したことが、予め想定できる(16)。それ ゆえ集団行動の内部に立ち入って、その構造を分析することが不可欠となる。 この時期の大衆運動は「自然発生的」だったからこそ、それを担った人々の生活、心性、 行動形態は多様である。その「先端部分」に当たるラディカリズムも、当然ながら、多様 で流動的な性格をもつと考えられる。つまり、ひとつの集団がある時点ないしある問題で はラディカルであっても、別の時点や問題ではそうではないという事態も想定できる。そ こでラディカリズムの理解を深めようとするなら、単に「多様」と結論づけることなく、 集団行動の類似性や相違に応じて、いくつかのパターンに分類することが有益であろう。 この類型化の試みが、ラディカリズムの概念規定に関わる第3の問題で、この点で筆者が モデルとした先駆的研究が、次章にみるルーカスの社会史的分析を踏まえた「労働者ラデ ィカリズム論」である。 なお、筆者の概念規定では、ナチスは「ラディカリズム」の範疇に入らない。同党はヒ トラーが独裁的地位を築いた1921年夏以後は、「指導者原理」にもとづく、厳格なヒエ ラルヒーをもつ全国組織を志向し、1925年再建党大会でこの点を確認したうえで、合法 路線に戦術転換した。それゆえにこそ、ヴァイマル末期選挙に大勝し、政権の座につくこ とができた。もっとも、1934年6月レーム一揆にいたる突撃隊(SA)の動向は、党指導 部の方針と一致せず、「挫折したラディカリズム」とも考えられる。またヴァイマル末期 の農民運動の一部は、「自然発生的」でラディカリズムの範疇に入れてよいように思う。 例えばヘベルレらの研究で有名な、シュレスヴィッヒ・ホルシュタインの「ラントフォル ク運動」は「自然発生的」とされ、納税を拒否し放火などの激しい行動形態をとった(17) 。. 7.
(8) ところが、熊野直樹氏によると、テューリンゲンの「ラントフォルク」は農民団体に組織 された運動で、「自然発生的」ではないとされる(18) 。後者の場合、農民団体の性格や 「自然発生的」という語の理解の仕方によるので、ラディカリズムの範疇に入るか否か、 判断しかねる。ともあれ、個々の研究者による一貫した尺度と事例研究をつうじてのみ、 ラディカリズムを論じることができる。. 3.労働者ラディカリズムの類型論. 既述のごとく、筆者のラディカリズム論はルーカスの著書(Erhard. Lucas,. Zwei. Formen von Radikalismus in der deutschen Arbeiterbewegung, Frankfurt a.M. 1976) のネーミングに由来する。この研究でルーカスは、ロートの「大衆労働者 Massenarbeiter」論(Karl Heinz Roth, Die ”andere” Arbeiterbewegung, Münceh 1974)を批判的に摂取しながら、独自の研究スタイルを発展させた。それゆえ本章でも ロートのテーゼに遡って、『本論』(10~16頁)での論点を確認したい。 まずロートによれば、資本主義的工業生産がドイツで本格的に展開し始めた1880年代 から現在にいたるまで、「専門技能労働者Facharbeiter」と「大衆労働者」という、判然 と区別される二つの層が存在する。前者は機械製造業など工業化時代の中心的産業に従事 する、高度に専門化した熟練労働者ないし技能労働者である。後者は不熟練で補助的な仕 事や、非専門職の重労働をする労働者で、東エルベ出身の出稼ぎ労働者、農業部門の外国 人季節労働者、あるいは鉱山業や精錬業、港湾業、そして製紙・繊維業に従業する者が該 当する。前者がドイツの伝統的な労働者運動の担い手で、SPDや自由労組の指導層だっ た。こうした「専門技能労働者」の目には、後者は野蛮で無能、「非政治的」で「モッ ブ」的行動に走りやすい連中に映じた。ところが、第一次大戦頃から、両者の性格に構造 的変化が生じた。それは何よりも「大衆労働者」の果たす役割が大きくなったことである。 化学・電機工業のような20世紀の新しい工業部門では、不熟練労働者が増加していたが、 大戦により軍需生産が拡大し、補助的な労働が増大すると、女性や若年労働者が多数就業 し、このタイプに加わった。それは「専門技能労働者」が従来もっていた特権的地位の喪 失を意味し、「裏切られた」と感じたこの層が、政治的反抗に転じ、反戦運動や革命期の レーテ運動の中心的担い手となった。 このようなロートによる「大衆労働者の発見」とでもいうべき、ドイツの労働者運動史. 8.
(9) の新しい説明により、労働者の集団行動の類型論的理解が可能となった。ルーカスはこれ を受け継ぎ、ライン・ヴェストファーレン工業地帯の二都市に関する社会史的事例研究に より、ドイツ革命研究の金字塔を築いた。「専門技能労働者」の典型として金属工の町レ ムシャイトと、「大衆労働者」として鉱夫町のハンボルンに関してである(『本論』 12~13頁)。前者は党や組合を経て表現されたラディカリズムの中心だったのに対して、 後者は党や組合組織とは無関係だった。ルーカスの分析は興味深いが、多岐で詳細にわた るので、項目ごとに主内容を巻末の別表として記した。主要な点は以下のごとくである。 まずレムシャイトは近世初頭以来手工業の伝統をもつ、洗練された鉄製器具の製造を中 心とする工業都市である。小経営が多く、従業員の大多数は専門技能労働者で、職業への 誇りをもち、高賃金を得た。SPDと金属労組(DMV)を中心とする組合が強力で、新聞 の発行・講読、消費協同組合、余暇団体などSPD系の労働者文化が根づいていた。他方 ハンボルンは19世紀末巨大資本テュッセンによって開発された炭坑町で、労働者は東部 農業地帯の出身者やドイツ領ポーランド人など外国人が多く、労働災害や劣悪な住環境の なかで暮らした。1889、1905年に自然発生的な大ストライキを行ったが、経営者側の抑 圧もあってSPDや自由労組は発達していなかった。 レムシャイトでは第一次大戦中DMV反対派が強力で、SPD支部はほぼ全面的にUSPD に移行した。11月革命期に権力を握った労働者・兵士レーテは、USPDや労組を通じて形 成されたに過ぎないが、その路線は全国的にみて最もラディカルな部類に入る。ハンボル ンの鉱夫が際立って激しい動きをみせるのは、11月革命後しばらく経った1918年12月以 後である。このとき入坑時間の解釈と賃金をめぐり全鉱夫がストライキに突入すると、ス トはルール全域に広がった。ところが、翌年1月エッセンの労働者・兵士評議会が社会化 構想を示した途端、この鉱夫ストは終結した。レムシャイトのUSPD指導者Braßらは、 鉱夫ストへの共感は弱く、社会化のエッセン構想を優先して考えていた。 この二都市のラディカリズムの行動形態の特徴と社会史的背景をみると、11月革命時 のレムシャイトの労働者の行動はメーデー祭的で、ハンボルンの鉱夫ストや武装闘争は農 民一揆型である。前者では労働者の指導者と大衆の関係は固定的で、大衆は指導者のアピ ールに呼応する、陰の存在だった。それは手工業時代の家父長的伝統により、労働者の指 導者はいわば政治的「親方」ないし「父親」だった。他方、鉱夫ストのもつ攻撃性は炭坑 町の男性の過剰人口、犯罪率の高さ、性的抑制、劣悪な生活環境、あるいは農村的な価値 観やメンタリティーに由来する。なお、両都市とも1920年秋以後はKPDが選挙で最も強. 9.
(10) かった。 このルーカスの研究によって「ラディカリズム」概念が普及し、二つの事例の社会史的 比較の有益さが認識された。ボルが現ニーダーザクセン州の二都市ブラウンシュヴァイク とハノーファーの事例を通じて、ラディカリズムと改良主義の社会史的比較研究を行った のは、その好例である(Friedhelm. Boll, Massenbewgungen. 1906-1920. Eine sozialgeschichtliche Untersuchung. in. Niedersachsen. zu den unterschiedlichen. Entwicklungstypen Braunschweig und Hannover, Bonn 1981 )。ともあれ、本稿で論 じなければならないのは、ルーカスが示すラディカリズムの二形態は、どこまで普遍化が 可能だろうか、筆者が行った中部ドイツの二つの事例研究とどの点を共有し、どの点で異 なるであろうか、という問題である。 そこで先ず留意すべきは、事例研究の舞台の大枠、ないし全国的な位置づけである。つ まり、この時代のドイツの工業地帯のなかでライン・ヴェストファーレン地方、あるいは 中部ドイツがもった特徴、ないし特殊性である。前者は鉄鋼・石炭業を中心とするため、 重工業時代のドイツ資本主義の根幹ないし牽引役だったが、ハンボルンの鉱夫に典型的な ような東部の農業地帯の出身者、ポーランド人や東南欧からの外国人が多いという労働力 の構成は、全国レベルでは一般的ではない。他方、中部ドイツの工業地帯は古くからの繊 維工業地帯であるザクセン邦と、新興の化学・電機産業や褐炭鉱のあるプロイセン邦ザク セン州に大別できる。『本論』でみたマクス・ヘルツに率いられた民衆は、このいずれの 地でも「大衆労働者」に属するが、外国人労働者は少なく、ハンボルンとの相違点も多い。 他方、『本論』の事例研究の対象であるブラウンシュヴァイクでは、行動形態はレムシャ イト型との類似点は多いが、主要産業が金属工業と缶詰製造業で、従業員は「専門技能労 働者」だけでなく、「大衆労働者」も多いため、別の説明を要する。このほか、機械製造 業のベルリン、造船業のハンブルクやブレーメンも第一次大戦・革命期にラディカルな動 きをみせた都市である。この三都市に該当するのはレムシャイト型のラディカリズムであ る。 そもそもルーカスの研究は、ハンボルン型のラディカリズムに思い入れがあるため、レ ムシャイトの分析は不十分である。例えば後者では労働者の3分の2は「専門技能労働 者」だったにせよ、他の3分の1はどのようであったか、言及されていない。結局のとこ ろ、ロートに従って職種別に「専門技能労働者」と「大衆労働者」に類別すること、ある いはルーカスによってレムシャイト型とハンボルン型と類型化すること、いずれも少なく. 10.
(11) とも筆者の行った中部ドイツの二事例に関しては不十分である。元来、中部ドイツは社会 主義運動の故地で、USPDの結成当時、その牙城の大部分がライプッィヒ、ハレなど中部 ドイツ諸都市だった。ところが、中部ドイツの大部分が第二次大戦後DDR(東独)領にな ったため、研究上著しい立ち遅れが生じ、この地方をも視野に入れた全国的な理論の構築 は困難であった。1990年東西ドイツの統一後、中部ドイツ諸地域の労働者文化などに関 する新しい研究が徐々に出ているが、国際的にみてドイツや労働者運動や革命への関心が 薄れて久しいため、盛んだった時代と同じレベルでの研究の広がりと深化は不可能である。 このような研究史上の不都合にもかかわらず、なお全国的に普遍化できるラディカリズ ムの類型論を案出しようとするとき、ヒントになるのが、『本論』(15~16頁)でも触れ た、ヴァルターらの共同研究である(Franz Walter/Tobias Dürr/Klaus Schmidtke, Die SPD in Sachsen und Thüringen zwischen Hochburg und Diaspora.Untersuchungen auf lokaler Ebene vom Kaiserreich bis zur Gegenwart, Bonn 1993)。彼らの研究の契 機となったのは、ベルリンの壁崩壊後最初のDDRでの「自由選挙」(1990年3月)で、 SPDがかつての牙城「赤いザクセンとテューリンゲン」において、大方の予想に反して 惨敗し、保守派が勝利した事実である。そこでヴァルターらは三つの地域の事例研究を通 じて、およそ次のような結論を導いた。すなわち、東テューリンゲン、ザクセン北西部、 ドレスデン付近のエルベ河畔盆地の諸都市では、帝政からヴァイマル時代、いやナチ政権 下の1933年3月の国会選挙においてすら、SPDとKPDを合わせた労働者政党が強固さを 保った。これらの地域で労働者政党がナチスに票を奪われなかったのは、多くの労働者が 党や組合組織のみならず、スポーツ・文化・生活改善のための余暇団体の網の目を通じて 繋がれていたからである。ところが、DDR時代に入ると、このようなSPD系の労働者文 化に慣れ親しんできた人々こそが、SED(ドイツ社会主義統一党)の支配への違和感が強く、 同党から早期に離れていったという。この研究はSPDやKPDといった党派、あるいは労 組のような組織ではなく、労働者文化全体を基準に動向を分析している点に特徴がある。 この著書の序章で指摘されていることは、一層興味深い。すなわち、ザクセン邦南西部、 特にフォークトラントやテューリンゲンでは帝政期代から第一次大戦直後まではSPDが 選挙で圧倒的に強かったが、その後KPDが有力になり、ヴァイマル末期にはナチスが最 大得票政党になった。これらの森林地帯では家内工業が主流で、余暇組織を通じての社会 主義ミリューは育たず、SPDは不満を吸収する選挙民の党に過ぎなかった。それゆえ状 況が変われば、「新しい救済の約束」つまりナチスに乗り換えた、と説明される。. 11.
(12) この労働者文化ないし社会主義ミリューを中心に据えた捉え方にヒントを得て、ラディ カリズムの類型論を考えてみた。レムシャイトのように労働者文化が発達した都市につい ては「コア・ラディカリズム」、ハンボルンのようなケースを「マージナル・ラディカリ ズム」と名付けてみたらどうであろうか。次章では『本論』の二つの事例を、レムシャイ トおよびハンボルンと比較しながら、この新たなネーミングのもとに整理し直す。. 4.中部ドイツの二形態. 中部ドイツの主要な工業地帯は、先述のように、ザクセン邦の古くからの繊維工業地帯 とプロイセン邦ザクセン州の新興の工業地帯から成っていた。ザクセン邦の諸都市では、 首都ドレスデンや大商業都市ライプツィヒにしても、手工業の伝統にもとづく熟練技術の 蓄積があり、多くの場合、繊維業用の機械製造が工業化の始まりだった。他方、プロイセ ン邦ザクセン州では数百年来操業してきたマンスフェルト銅山を例外として、19世紀半 においてもマクデブルク沃野を中心に農業地帯が大きく広がっていた。この辺りの諸都市、 ハレ、マクデブルク、ブラウンシュヴァイクなどの工業化は農業用機械の製造と結びつい ていた。全国的にみて金属労働者が工業化時代の中心的な存在であり、多くの場合、彼ら が社会主義労働運動の推進役でもあった。中部ドイツ諸都市におけるSPDの国会選挙に おける得票率等は『本論』巻末の表(74~75頁)にあり、金属労組を中心とする自由労組 の組織状況は、手許の資料が不十分なため『本論』では記載しなかったが、本稿では巻末 に表2として付す。この表は次の点で興味深い。 まず全国的にみて自由労組、ひいてはSPDの支柱である金属労組が、フォークトラン トの首都プラウエン以外は表中のどの都市でも最大の単産である。ベルリンの革命的オプ ロイテに代表されるように、金属労組内の反対派が反戦・革命運動の重要な担い手であり、 それはレムシャイト型の「コア・ラディカリズム」が成立する条件の一つと考える。ただ し全国的には大戦・革命期を通じて、金属労組内で反対派が過半数を制したわけではなか ったから、各都市の労働者がラディカリズムに向かうか否かは、その都市の金属労組と他 の単産の勢力状況と性格に大きく左右されたであろう。金属労組が最大の単産である都市 のなかでもドレスデンや、この表にはないがマクデブルクではMSPDが強く、ハレ、ラ イプツィヒ、ブラウンシュヴァイク、テューリンゲン地方のゴータはUSPDの牙城だった。 さらに注目すべきは、『本論』の事例研究の対象であるブラウンシュヴァイク市とフォー. 12.
(13) クトラント地方、その最大都市プラウエンの組織状況で、前者では補助工員組合が金属労 組と互角に近い組織力をもち、後者では繊維労組が最大で、金属労組は他の6都市とは異 なり、第3位に過ぎない。ブラウンシュヴァイクの補助工員層とフォークトラントの繊維 労働者のあり方が、両地のラディカリズムと係わってくることが予想できる。 一方、中部ドイツ北西部の工業地帯では、プロイセン邦ザクセン州から東テューリンゲ ンにかけて褐炭鉱が、19世紀後半マクデブルク沃野の精糖業と結びついて開発された。 褐炭鉱は露天掘が多く、この比較的早く開発された褐炭鉱地帯では、半鉱半農の「農民的 鉱夫」が少なくなかった。ところが、20世紀になって急激に開発されたハレ市西部のガ イゼルタール褐炭鉱地帯や、ビッターフェルト市付近の化学・電気産業、さらにハレ市南 西のロイナ村一帯に大戦中突然建設された巨大化学工場(通称ロイナ工場)は、このハ レ・メルゼブルク地方を一挙に変化させ、新興の工業地帯にした。甜菜糖栽培に従事する 農業労働者、銅山や褐炭鉱の鉱夫は「大衆労働者」であり、急激に開かれたガイゼルター ル褐炭鉱地帯やロイナ工場には、さまざまな労働者が流入した(『本論』26~39頁)。状 況によっては、ハレ・メルゼブルク地方は激動の地となる可能性、つまり大戦・革命期の ラディカリズムを醸成する素地があった。. 1)「コア・ラディカリズム」−ブラウンシュヴァイクの場合−. ブラウンシュヴァイク市は第二次大戦以前は独立した小邦の首都で、中部ドイツ工業地 帯の北西端に位置した。機械製造などの金属工業と缶詰製造が主要な工業である。この地 の労働者文化の発展に関連して最初に挙げられるのが、ベーベルと並ぶアイゼナッハ派の 領袖W.ブラッケの名である。富裕な商人の家に生まれた彼が、私財を投じて1871年に創 刊した『民衆の友 Volksfreund』は、最も古いSPD系の新聞とされ、1933年3月まで続い た。その背景には中世以来の商工業都市としての繁栄と、手工業時代の職人文化の伝統が あり、ブラッケのような進歩的ブルジョアと職人や労働者の自己教育への熱意が読み取れ る。「読書する労働者」こそが、社会主義労働者運動の担い手だった。この町の労働者は 後々までブラッケの名を誇りをもって語り、『民衆の友 』紙を発行し続け、販売部数を 伸ばそうとした。そうしたなかで人々を結ぶ絆が、広がり深まっていった。 ブラウンシュヴァイクの労働者がラディカルな動きを見せ始めたのは、1905年以後の. 13.
(14) 邦議会の選挙法改正運動を通じてである。ボルによれば、それは金属労働者が賃金協約な どの経済闘争で着実に成果を収めてきた自信が、政治運動に転じたことによる(『本論』、 14頁)。この小邦の政治体制は極端に保守的だった。政治的民主化と経済的発展の不均 衡という第二帝政に共通する現象であるものの、地域差を看過できない。『本論』で比較 の対象にしたブレーメンでも、同様に非民主的な議会制度であったが、ここでは文化運動 をめぐってSPDは自由主義左派と協力関係を結ぶことができ、それが党支部内で改良派 が優勢になる要因だった(『本論』、80頁)。ブラウンシュヴァイクの場合、SPDの選 挙法改正運動には市民層の一定の共感があったものの、特定の協力関係はなかった。大邦 プロイセンに属するレムシャイトと比較して、ブレーメンやブラウンシュヴァイクのよう な小さな独立邦では、政治問題が与えるインパクトは大きかった。赤貧の石材舗装工が 「選挙権を失うぐらいなら、空腹の方がましだ」と語ったように(『本論』、70頁)、 個人の生きざまをも決めた。君主国の連合体である第二帝政では、政治文化の地域差は大 きく、それと労働者文化との相関関係のなかに、ラディカリズムが生じる一因があった。 選挙法改正運動の進展と表裏一体をなす形で、党・組合組織が伸長した。SPDと自由 労組の支部内で最大の単産組織が金属労組であることは他の諸都市と同様であるが、第二 の単産が補助工員組合であることにブラウンシュヴァイクの特徴がある。ちなみに、 1911年金属労組と補助工員組合の構成員が、SPDと自由労組の支部内に占める割合は、 SPDで18.92%と15.2%、自由労組で28.2%と24.7%で、互角に近い(『本論』表2-1,2-2、 65,66頁参照)。補助工員組合員はアスパラガスなどの缶詰製造工場や、関連業種である ブリキ工場で働く「不熟練」ないし「半熟練」の労働者で、「専門技能労働者」ではない。 ブラウンシュヴァイクの補助工員組合は、1892年の創立以来全国的なセンターで、1907 年頃から他の地方に先駆けて缶詰工場での労働協約に成功している。従って、この地の 党・組合組織は「専門技能労働者」と「半熟練・不熟練労働者」の二柱から成っており、 この点でレムシャイトとは異なっていた。 このような党・組合組織以外の労働者文化について、筆者は多くを明らかになしえない。 『民衆の友』紙は創刊の翌年に既に2000人の定期購読者をもっていたが、その後大いに 伸ばし、1913年には1万6~7000人になった。同年春1913年新聞発行業務などのため、 「赤い城」と呼ばれた建物を新設し、この地の労働者文化の中心的機能を担うことになっ た。SPD系の余暇団体が活況を呈するのは、全国的にもヴァイマル期になってからで、 ブラウンシュヴァイクでも同様だったことは、当時子どもだった人々の回想から明らかで. 14.
(15) ある。特定の酒場での集まり、消費協同組合、演劇や体操団体、自由宗教運動などが第一 次大戦前から存在していた(『本論』103頁)。 ブラウンシュヴァイクのラディカリズムが全国的に有名になったのは、1916年初夏の 青年労働者の強制貯蓄反対ストやリープクネヒト裁判反対ストを通じてであり、スパルタ クス派の数少ない拠点地の一つでもあった。1917年8月のゼネストを分析すると、工場労 働者の構造や行動の性格を明確にすることができる。このゼネストを組織したのは金属労 組反対派と考えられ、ハレ・メルゼブルク地方を震源地として中部ドイツの若干の都市に 広がった。ハレの機械工場、操業開始後3ヶ月のロイナ工場の労働者1万2000人、ビター フェルトとヴィッテンベルクの化学工場などが、肉の配給減量に反対して8月15日にスト に突入した。ブラウンシュヴァイクでは上記の地でストが中止された後も2日間程続き、 この町の工場労働者のほぼ全員による、計5日間の大蜂起となった。 ゼネストに参加した労働者は、二群に分類できる。第一群は新進の自動車産業や古くか らの機械製作所などの大経営で、いずれも大戦中は軍需工場となり、第二群は大経営のジ ュート工場以外は、ブリキ工場と缶詰工場を主とする小経営である。前者の工場では、戦 前(1910年)労働者の半分以上が金属労組に組織されており、「専門技能労働者」集団 といってよい。ブリキ工場の1910年の組織状況は、補助工員組合と金属労組が半分余、 未組織労働者が半分近く、缶詰工場では1912年に半分近くが補助工員組合に組織されて いた。缶詰工場での作業は季節性が高く、大部分が女性によった。大まかにみて、ゼネス トの先端ないし前半を担ったのは第一群の「専門技能労働者」で、第二群の半・不熟練労 働者は後続だが、戒厳令状態が敷かれた3日目の夕刻以後もストを続け、蜂起を大規模な ものにした。特に缶詰工場の女工たちは違法の集会をもったかどで、多数の女性が軍法会 議にかけられた。従って、このゼネストは「専門技能労働者」と「大衆労働者」の二柱か ら成っており、たとえ「専門技能労働者」主導であれ、それを越えた形で「大衆労働者」 の行動があり、専ら「専門技能労働者」によったレムシャイトのラディカリズムとは異な る。 ブラウンシュヴァイクにおける11月革命期は、労働者評議会が組合主導のもとにUSPD 員で固められるなど、レムシャイトに似通った面があり、その光景はたしかにメーデー祭 的である。しかし革命政権による軍事政策と社会化は、全国的にみて例外的にラディカル だった。前者は軍馬の競売など駐屯軍の財産の処分と、それを資金とする赤軍ないし人民 軍の形成で、1919年4月国防軍による革命の制圧まで保持された。社会化政策について、. 15.
(16) ルーカスはエッセン構想がルール鉱夫のストライキ運動を終わらせた点を強調するが、ブ ラウンシュヴァイクの場合、ある機械製造工場の経営権を労働者側が握った局面があり、 それは本質的に中部ドイツの褐炭鉱夫の運動と齟齬するものではない。レムシャイトが大 邦プロイセンの一都市で、革命権力にとって市政に介入するのが精々だったのに対して、 ブラウンシュヴァイクの革命政権は小邦といえ、邦政府としてもっと広範囲の権限をもち えたので、独自の軍事・社会化政策を遂行できたのは事実である。しかし革命政権の首領 エルターがかつてアナーキストだったという、指導者の性格にも大きく依存していた。 ただし、労働者の指導者と大衆の関係はレムシャイトとブラウンシュヴァイクは類似し ており、1917年8月ゼネストにしても缶詰工場の女工たちの行動は真に自然発生的なのか、 スパルタクス派の影響だったのかは不明である。多くの局面で、ブラウンシュヴァイクで も指導者に対して大衆は確かに「陰の存在」だった。ブレーメンでも戦前からSPD急進 派のインテリと、ヴェーザー造船所の熟練度の高い金属労働者とが不定形の同盟関係にあ り、党内に深い亀裂を入れる形で極左派が形成された。それは「専門技能労働者」主導型 のラディカリズムで、労働者の指導者と大衆の関係も上記の二都市と同様である。つまり 労働者文化の発達した「コア・ラディカリズム」に共通するのは、一定の組織を媒介とし、 そこでの人々の関係に固定したパターンがあった点である。. 2)「マージナル・ラディカリズム」−マクス・ヘルツと民衆をめぐって−. 『本論』第三章でみた、マクス・ヘルツが第一次大戦直後に活躍した舞台は、ザクセン 南東部の森林地帯フォークトラントとハレ・メルゼブルク工業地帯の一隅にあるマンスフ ェルト地方で、繊維業の失業者と銅山鉱夫という地域的にも社会層としても、マージナル な民衆と共にあった。しかしヘルツという強烈なリーダーと民衆との関係を、ハンボルン の鉱夫には指導者が存在しなかったことと対比し、上述の「コア・ラディカリズム」の三 都市にみた、労働者の指導者と大衆の関係に似たものと見なすことはできない。ヘルツは KPDやKAPDに所属していたものの、フォークトラントでの過激な行動のため、一度は KPDから除名されており、組織のリーダーとして行動したのではなかった。結論的に言 えば、ヘルツの強烈な個性、瞬時の決断力と果敢な行動が民衆を惹きつけたのであり、そ れは組織が介在しない、行動を通じての直接的な関係だった。ただし、ハンボルンの鉱夫. 16.
(17) の行動が、自然発生性とある程度の組織性を合わせもった、それと同様なことを、ヘルツ をふくむフォークトラントやマンスフェルトの民衆の行動についても言えると思う。以下、 この点も検討せねばならない。なお、筆者は元来民衆の行動や状況を明瞭にするために、 ヘルツを中心に据えたのであり、ヘルツなしに中部ドイツの諸地域にみられた「マージナ ル・ラディカリズム」を論ずることも可能である。 フォークトラントにおけるヘルツの行動の始まりは、刺しゅうやレースなど奢侈品の繊 維業に特化したため、異常な大量失業をかかえていた一都市、ファルケンシュタインにお いて、1919年春失業者評議会の議長に選ばれたことにあった。彼はKPD党員だったが、 当時同党の諸支部は情報交換などのネットワークとしての機能を果たす程度とみてよい。 1918年末結党当時KPDは全国でせいぜい党員一千名といわれ、ザクセン南西部はケムニ ッツを中心に一定の勢力をもっていたものの、中央集権的なコミンテルン型の党になるの は、数年後のことである。また、繊維業は女性労働者が多いこともあって、もともと組合 組織率は低く、フォークトラントでは家内工業も多く、大戦中は繊維労組は壊滅同然だっ たから、組合が何らかの機能を果すことは不可能だった。それゆえヘルツの行動は個人プ レー、あるいは民衆の中の強力な人物としての行動だった。 フォークトラント、なかでもファルケンシュタインでは大戦勃発の2年前から始まる業 績不振と、大戦による繊維業界全体の落ち込みのため失業者数は膨大で、人々は極端に窮 乏していた。ドイツでは大戦勃発直後の数ヶ月以外は、大戦直後も失業は少なかったから、 フォークトラントの民衆は例外的少数派、文字通りマージナルな存在だった。フォークト ラントで失業した繊維工の男性の多くは、ガイゼルタールなどの褐炭鉱に出稼ぎに行った。 ハンボルンなどルール地方の鉱夫は、中部ドイツの褐炭鉱やマンスフェルト銅山の鉱夫よ りも高賃金だったから、その点だけをみれば、最も底辺にあったわけではない。 ともあれ、ヘルツは全国でも最悪の、極限状況にある民衆のなかで行動を開始した。そ の行動を『本論』で「ロビン・フッド的行動」と名付けたのは、かれのパフォーマンスも さることながら、局地的な大量失業を救済する合理的な手段が欠如していたなかで、救済 は早急を要し、富者から強奪し、貧者に与えるという直截な方法をヘルツが選んだことに ある。やや大局的にみると、1919年初夏フォークトラントからエルツゲビルゲにかけて、 食糧暴動が広範にみられ、ヘルツの行動は本来その一環に過ぎない。広域の食糧暴動の行 動様式には一定のパターンがあり、伝播力が強く、若干の組織性も想定できる。大戦中か ら戦後にかけて、多くの都市で食糧暴動が起こっており、それは食糧難のなかでブラック. 17.
(18) マーケットによって暴利を貪る商人や、大量の隠匿物資をもつ金持ちがおり、公権力によ る規制は不十分だった。食糧暴動はそうした事態に対する、民衆の制裁という「モラル・ エコノミー」的性格をもった。ハンボルンやレムシャイトでは食糧暴動がほとんど起こら なかったのか、ルーカスの研究には言及がない。軍需工場や基幹産業には優先的に食糧が 供給され、ルール鉱夫の場合、ストライキという強力な抗議手段をもったが、大量失業地 帯のフォークトラントやエルツゲビルゲでは事情は異なった。食糧暴動は民衆の自然発生 的行動の最たるもの、ラディカリズムの原初形態ですらある。 1920年春カップ一揆に対する労働者の全国的な抗議行動は未曾有の規模となり、ルー カスは他の著書で「1920年三月革命」と名付けた程だった。ヘルツはルール地方に模し て「赤軍」を創設するなど、迅速に対応した。その激しさはエスカレートし、その資金調 達のため、ときには人質をとって、富裕な商人や工場主から金を強奪させ、最後の局面で は放火すら行った。このときのヘルツ軍の一部の構成をみると(『本論』表3-4、175 頁)、繊維工場で働いていたと思われる補助工員が最も多く、ついで多いのが手工業的な 繊維工や諸種の「専門技能労働者」など雑多である。全体として「大衆労働者」の範疇に 入る者が多いものの、雑多な要素も看過できず、ラディカリズムを職種や社会層で分類す るより、地域性をふくむ社会文化的カテゴリーにより類別する方がよいことを確認したい。 マンスフェルト地方での1921年三月行動におけるヘルツの行動は、戦闘部隊の編成、 そのための銀行強盗などによる資金調達、爆破・放火戦術など、大部分はフォークトラン トでの経験の繰り返しに過ぎない。だが、数百年の歴史をもつマンスフェルト銅山の鉱夫 が、何故1週間程しか滞在しなかった「よそ者」のヘルツと、親密な関係を保ちえたの か?さらにヘルツは敗走の途中で、カリ鉱夫の町で歓迎され、ガイゼルタール辺りで褐炭 鉱夫に助けられ、さらに、ある騎士領の館で大量の隠匿物資などを押収し、屠殺した牛の 肉を村人に配るといった「ロビン・フッド的行為」を行った。つまりハレ・メルゼブルク 鉱工業地帯の民衆との、そうした親和性は何故か?この問題について『本論』で挙げた、 いくつかの要因を確認しつつ、「マージナル・ラディカリズム」の特徴を整理したい。 まず、マンスフェルトをふくむハレ・メルゼブルク鉱工業地帯でヘルツが出会った民衆 は、鉱夫や農業労働者で、いずれも典型的な「大衆労働者」だった。ヘルツはエルベ河畔 を転々とする農業労働者の子として生まれており、社会的出自を共有した。他方、彼のや り方を否定したのは、ケムニッツの著名なKPD指導者ブラントラー、あるいはUSPD機 関紙『ライプツッィヒ民衆新聞』と、「コア・ラディカリズム」の範疇に入れてよい、大. 18.
(19) 都市の労働者政党だった。 第二に、党・組合組織との関係が問題になる。ライプツッィヒやケムニッツは古くから の労働者運動の中心地で、指導者や活動家は長年の組織活動のベテランで、ヘルツのよう な強奪・放火など「犯罪まがい」の行為は到底容認できない。これに対してヘルツはもと は信心深いプロテスタントで、大戦中に突如社会主義に目覚め、戦後は短期間USPD、つ いでKPDに所属し、後者を除名された後、KAPDと近い関係にあり、1925年にKPDに復 党した。いずれにせよ、労働者組織においては「新参者」である。同様のことが、マンス フェルト銅山鉱夫についても言える。彼らは戦前SPDや自由労組に加入することを銅採 掘会社によって禁じられており、戦後大挙してUSPDに加わり、1920年秋にKPDに移行 した。それから数ヶ月後の三月行動当時、党人としての行動様式を体得していたとは考え 難い。またハレ市とその周辺は1920年USPD分裂後は、大部分がKPDに移行した。戦前 のSPDや自由労組はハンボルンなどのルール鉱夫を組織することが容易でなく、革命期 にサンディカリストがある程度勢力をもつが、1920年秋以後はKPDが伸びた。この点で マンスフェルトとルール地方の鉱夫は軌を一にしており、両者とも鉱夫集会などのある程 度の組織性と上部組織の指導を受けない自律性という行動の特徴がある。ともあれ、ヘル ツと行動を共にした中部ドイツの労働者は伝統的な労働者組織の「新参者」だった。 第三に、以上の点とも関連するが、ヘルツのもつ身体的特徴がある。彼の重労働に耐え うるガッチリした体躯や、マンスフェルト訛ではないまでも、ザクセン訛だったろうと思 われる音声、粗暴でさえある振る舞いである。そうした感覚的次元で、鉱夫たちと一体感 があったことが容易に想像できる。 第四に、農村的背景を検討する必要がある。フォークトラントやエルツゲビルゲは森林 地帯で、その合間の盆地に町ないし都市が発達していた。プロト工業化時代以来の繊維業 地帯ゆえ、農村とは言えないが、家内工業も多く近代的工業地帯でもない。ハレ・メルゼ ブルク鉱工業地帯では、マンスフェルト銅山にしても周辺は村が散在した。この辺りから マクデブルク沃野の甜菜栽培地帯にかけてのプロイセン邦ザクセン州、あるいはブラウン シュヴァイク邦の農業労働者は第一次大戦後新たに組合組織を発達させ、頻繁にストライ キを行った。褐炭鉱夫は周辺の農業地帯の出身者が多く、既述のように「農民的鉱夫」の 性格を失っていなかった。 このような農村との繋がりについて、山本秀行氏は拙著に対し人類学的手法による分析 の必要を提言されている。筆者にはそれに応える力量はないが、同氏の指摘する一例に. 19.
(20) 「合図としての教会の鐘」がある(19)。つまりファルケンシュタインへの国防軍の侵入に 際して、ヘルツらは教会の鐘を鳴らし、逃走するなど迅速に対応した。たしかに、それは 工業化以前の社会での危急を告げるときの慣行であり、彼らの心に届くのは、工場などの サイレンではなく、教会の鐘の音だったであろう。もっとも、ファルケンシュタインは森 林の谷間にある大きな町で、その中心部に教会があり、教会の鐘は最も便利な伝達手段に 過ぎなかったのかもしれない。他方、ハンボルンの鉱夫の大ストライキ時の行動様式をル ーカスは「農民一揆的」としているが、ヘルツを中心とする民衆の行動は食糧暴動に典型 的にみられる「暴動型」で、あるいは赤軍の創設にみられるように組織立った面もあった。 なお、そうした暴力性に第一次大戦の経験を読み込むことも可能であろうが、民衆が武器 を所持・利用できる点ではそうであっても、その動機や心性において総力戦とは異質であ る。 最後に、フォークトラントやマンスフェルトはかつてトーマス・ミュンツァーの地であ り、第一次大戦直後ザクセンやテューリンゲンではメシア的宗教家が活躍したという、 『本論』で触れた宗教的土壌については、それ以上論及できない。工業化の中心から離れ たマージナルな地域には近代以前の文化が残存し、「マージナル・ラディカリズム」はそ うした文化をも包摂するという仮定は可能であり、これまた人類学的手法による解明の対 象でありうる。. 5.むすび−総括と展望−. 以上、ルーカスの類型論に触発されて、中部ドイツの二つの事例を「コア・ラディカリ ズム」と「マージナル・ラディカリズム」というカテゴリーでまとめ直してみた。この二 形態はルーカスおよびロートの、レムシャイト=金属労働者=「専門技能労働者」型とハ ンボルン=鉱夫=「大衆労働者」型を包摂し、さらに広い適用範囲をもつと考える。もっ とも、この時代のラディカリズムがすべて、筆者の提示した新たなネーミングによる二形 態に類別できるとは断言できない。例えば、ミュンヘンは11月革命期のアイスナー政権 から翌年5月レーテ共和国の崩壊まで、ラディカリズムの地であった。しかしそこで活躍 したのは農民やインテリなど中間層の人々も多く、労働者文化を中心に据えた「コア」か 「マージナル」のカテゴリーに入れ込むことが適切か否か、熟慮を要する。こう考えると. 20.
(21) き、『本論』の題名のごとく、ラディカリズムには「諸潮流」があったとしておきたい。 なお、筆者は社会史的分析において多くの点でルーカスに及ばない。たとえばハンボル ンの鉱夫のもつ攻撃性が、犯罪率の高さと結びつけて考察されている点は興味深い。しか し筆者は犯罪率の調査にまでは手が届かず、フォークトラントやマンスフェルトの犯罪率 については不明である。ただし、ヘルツの攻撃性や人質・強盗・放火といった「犯罪まが い」の行為は、例えば上記山本氏は「暴力儀礼」と読んでおり、ヘルツは職業的には技師 で、戦前は映画弁士だったから、パフォーマンスの加わった戦術で、犯罪とは別の脈絡で 理解すべきと考える。 むしろ強調したいのは、ハンボルンの鉱夫には東部ドイツの農村出身者やポーランド人 など外国人が多く、西部ドイツでの生活には文化的コンフリクトが大きかった点である。 フォークトラントやマンスフェルトの労働者は土着性が強く、ガイゼルタール褐炭鉱やロ イナ工場のような新興の鉱工業地帯にしても、中部ドイツ内部での中距離移動が多かった ため、文化的コンフリクトは比較的少なかったと考える。この問題はルール鉱夫のストラ イキとレムシャイト型労働者の社会化構想の齟齬、つまりドイツ革命の敗因に関連する。 1919年2月中部ドイツの鉱夫ストでも社会化が語られ、ハレのUSPD指導者ケーネンがリ ーダーシップをもち、エッセン構想に似た案が出されていた(20)。ブラウンシュヴァイク のエルターによる社会化の実現をみる限り、党派の指導と鉱夫の運動が絡み合って実現す る可能性もあったので、ルール地方は重要であっても、鉱夫ストを制止するための社会化 構想というルールの事例を、全国レベルで普遍化することはできない。 『本論』では、ブラウンシュヴァイクの1917年8月ゼネストにみた労働者の総蜂起的な 事態を例にとって、この地のラディカリズムを「ソシアビリテ(日常的きづな)」という 概念で説明した。ブラウンシュヴァイクの場合、都市の構造を図解でき、この概念を適用 しやすかったため用いたが、それは「コア・ラディカリズム」に固有なものではない。マ ンスフェルト銅山鉱夫の場合、土着性が強く、父子代々鉱夫のケースが多かったから、当 然「ソシアビリテ」が強く、それゆえにこそ1909年秋の大ストライキが可能だったと考 える。他方、ハンボルンの炭住街やフォークトラントでも、「ソシアビリテ」が同様な機 能を果たしたか否かは詳細な分析を要するが、かなりの程度機能したと推定する。例えば、 ヘルツが報奨金つきの「お尋ね者」になった後も、久しくフォークトラントで潜伏してい られたのは、厚い「民衆の壁」が存在したからに他ならない。ちなみに、1896~97年ハン ブルクの港湾労働者の大ストライキの折、労働者街の住民がストライキ破りの導入を妨げ、. 21.
(22) 街頭戦に近い状況になったのは(21)、「ソシアビリテ」と無関係ではない。従って、民衆 のラディカルな行動はしばしば「ソシアビリテ」を前提としており、この概念はいずれの 「ラディカリズム」にも該当しうるが、その現れ方は多様であろうから、事例ごとに検討 せねばならない。 結局のところ、「コア・ラディカリズム」と「マージナル・ラディカリズム」という二 形態を分かつのは、SPDや自由労組のような伝統的な組織との係わり方にある。レムシ ャイト、ブラウンシュヴァイク、ブレーメンなどはいずれも党・組合組織が発達し、大 戦・革命期のラディカリズムの生成には、組織内での路線闘争が不可避だった。他方、ハ ンボルンやフォークトラント、マンスフェルトではそれぞれ若干の相違があるが、伝統的 な労働者組織が介在しない点では共通していた。全国的にみてラディカリズムがピークに 達した1920年春反カップ一揆闘争の頃になると、「コア・ラディカリズム」は多くの都 市にみられた。「マージナル・ラディカリズム」は地域的に限られているものの、東プロ イセンの農業労働者など従来は沈黙を守っていた民衆が加わり(22)、新たな広がりをみせ た。むろん組織との関係は流動的であり、各地の民衆のあり方もヴァイマル期を通じて変 化した。 ヴァイマル期以後のそれぞれのラディカリズムの行方を新たに追う余裕を得ていないが、 若干の問題を指摘しておきたい。まず労働者政党との関係をみると、反カップ一揆闘争の 余勢をかって、USPDは1920年6月国会選挙で大勝するが、秋には分裂し、解党も同然の 状態になった。それは大戦・革命期の自然発生的な大衆運動、従ってラディカリズムの消 失を意味する。この頃からレムシャイトやハンボルンではKPDが最強政党になるが、中 部ドイツではハレ市を中心に周辺の褐炭鉱地帯やマンスフェルト地方がKPDの牙城とな り、ケムニッツなどザクセン邦南西部でもKPDが強かった。従って、それまでの「マー ジナル・ラディカリズム」の地域と近隣の都市が同党の地盤になったケースが多かったと も考えられるが、詳細な検討を要する。他方、それまでUSPDの牙城だった中部ドイツの 都市のなかで、ライプツッィヒやブラウンシュヴァイクではKPDに移行した者は少なか った。ブラウンシュヴァイクの労働者は社会民主主義に回帰した後、ヴァイマル期を通じ て学校改革など現実的な政策に取り組み、諸種の組織を通じて余暇活動を享受した。 ついでラディカリズムとナチスとの関係については、『本論』の巻末別表に示した (74~75頁)国会選挙の得票率により、各地の推移がある程度判断できる。ブラウンシュ ヴァイクの例をやや詳細に追うと、1930年9月の邦議会選挙でナチスが躍進し(邦全体で. 22.
(23) 約1万8千票、9議席)、国家国民党(DNVP)などのブルジョア連合(約2万2千票、11 議席)と連立政権を樹立し、テューリンゲンについでナチスが政権党となった。ただし、 首都ブラウンシュヴァイク市では市議会選挙および同時に行われた国会選挙で、SPDが 依然最強(41.1%と40.7%)で、ナチス(21.7%と24.7%)をはるかに凌いだ(23)。また全 国的にナチスの得票がピークとなった1932年7月国会選挙では、同市でもナチスは43.5% と最強だったが、SPDとKPDを合わせると46.8%と、ナチスより多かった。このときの 得票状況を市内の投票所ごとに分析すると、居住地により明瞭な差が出てくる。ナチスは 東側の富裕者街を中心にその南北の地帯で強く、労働者政党が強かったのは、堀(オカ ー)の内側北東部の古くからの労働者街と、堀の外側の北・西・南西部の工場地帯ないし 相対的に新しい労働者街である。KPDが最大得票政党(60%)となったのは、スラム街 をふくむ古くからの労働者街だった(24)。1917年8月ゼネストに関連して『本論』で分析し た構造が、ほぼそのまま持ち越されている(『本論』図2-6,2-7,. 92,94頁参照)。また. 『本論』(9頁)で触れたゴータ市の事例、つまり労働者政党と極右ないしナチス票田の 居住地による明瞭な差ないし両極化は、ブラウンシュヴァイク市についても該当する。全 国レベルでのナチスの権力掌握直後、ブラウンシュヴァイクでは他の地方に先駆けて邦議 会がナチスだけで占められるなど、ナチ化が早く徹底したが(25)、他方首都は抵抗運動の ネットワークの中枢となった。ゴータやブラウンシュヴァイクのような小邦の首都、かつ ての「コア・ラディカリズム」の地では、市内の一部や周辺の農村部では濃厚にナチ化し たが、労働者文化で結ばれた抵抗勢力も強かった。 「マージナル・ラディカリズム」の地フォークトラントのナチ化については、『本論』 巻末の国会選挙の得票状況により、ヴァルターらよる指摘を確認できる。まず首都プラウ エンでは1919年1月には最大得票率の政党はSPDだったのが、1920年6月にはUSPDとな っており、USPDに集まった不満票は、ヘルツの行動の背景にあった勢力とほぼ同一であ ろう。ヴァイマル末期になると、ナチスの得票率は同市で50%強、ヘルツが活躍した町フ ァルケンシュタインのあるアウアーバッハ郡では、それを優に越えた。しかしKPDもす でにヴァイマル中期にかなりの勢力をもち、末期にはさらに票を伸ばしている。大恐慌期 の大量失業により、ナチスに大きく傾きつつ、両極化が進展したのである。他方、ルール 地方では労働者のナチスへの反応は冷たく、青少年の間にエーデルワイス団のようなナチ スへの対抗文化もみられた(26)。第一次大戦後ポーランド国家の再生に伴い、ルール地方 のポーランド人労働者の中には一度は故郷に帰っても、またドイツに戻る者があるなど. 23.
(24) (27)、ドイツへの社会的統合が多少なりとも進むなか、レムシャイト型のかつての「コ. ア・ラディカリズム」とハンボルン型の「マージナル・ラディカリズム」の文化的相違が 薄らいでいたであろう。ともにナチスに侵食され難かった。この中部ドイツと西部ドイツ の相違は、一般に言われるように、プロテスタントとカソリックという宗派によるだけか、 確認していない。 第二次大戦後、DDR(東独)部分については既述のヴァルターらの研究以上のことを、 筆者は言い得ない。ただし、フォークトラントの首都プラウエンやファルケンシュタイン の近年の光景は印象的である。DDRの崩壊時にプラウエンでは活発な市民運動が起こっ ており(28)、バイエルンと国境を接するため、西独流の「復興」が早かった。この地方は 地形上重工業が発達しにくく、その後もレース産業で有名で、DDR時代にもマージナル な地方だったがゆえに、「SED(社会主義統一党)建造物」と揶揄された殺風景な官公庁の 建物やアパート群がなく、統一後は早期に観光地として栄え始めた。マージナル性はいか 様にも機能する。 戦後の西独部分について、若干述べておきたい。SPDは有名なゴーデスベルク綱領 (1959年)において、労働者政党から脱皮し国民政党になることを宣言した。つまり、 かつての労働者文化がゲットー化したことの反省から、その解体を意識的に図り、産業構 造の変化に伴い、サラリーマン政党に変化した(29)。それゆえ、かつての「コア・ラディ カリズム」がそのまま存続することは不可能である。ただし今日、「68年世代」という 言葉が存在するように、1960年代末学生反乱の時代の状況をラディカリズムの再生とみ ることができる。その影響下に育った世代が、今日、社会のさまざまな分野で活躍してい る。現政権でも、緑の党のフィッシャー外相はむろんのこと、SPDのシュレーダー首相 も「68年世代」に属する。福祉予算の削減など、彼らの政策は保守派との差は少ないが、 EUの中心国として、フランスと共にアメリカの対イラク戦争に反対するなど、一定の役 割を果たしている。中世以来の職人文化の伝統、近代の労働者文化を基盤とするラディカ リズムを踏まえて、現在の欧州における社会民主主義が存在すると考える。 他方、現在のドイツで「マージナル・ラディカリズム」を担う社会層がいるとしたら、 それは外国人労働者に他ならない。彼らのラディカリズムが発現することを抑止するメカ ニズムが発達していて、今までのところ生起していない。だが、アメリカでの同時多発テ ロ、9・11事件で「主犯格」のアルカイダのアタが、かつてハンブルク工科大学生だった ことが想起される。外国人労働者の間にイスラム原理主義が浸透する可能性があり、事実、. 24.
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