第
1
章
舞 台
Ⅰ 1944 年春 沖縄防衛を任務とする第 32 軍が創設されたのは 1944 年3月 22 日である。前年の2月にソロモン諸島ガダルカナル島から日本軍 が撤退したことを機に、ニューブリティン島、東部ニューギニア、 ギルバート諸島、マーシャル諸島にと次々に米軍の上陸・進出が 始まった。次ページの図1はその頃の日米両軍の勢力圏を示して いる。実線はおおよその境界である。その内側の点線は 1943 年 9月「今後採るべき戦争指導大綱」で発動された絶対国防圏であ る。全般的に苦しいことは否めないもののなんとか持ちこたえて いる感はある。もっとも2月中旬には、日本海軍の根拠地である トラック島が米機動部隊の攻撃を受け甚大な被害を出すなど、絶 対国防圏の内側といえども安全とは言えない状態となっていたの も事実である。この時期の日本軍の防衛の重点はマリアナ諸島、 カロリン諸島であり、その後方である沖縄方面を担当する第 32 軍は、航空基地の建設に重きを置き、地上兵力は奇襲上陸に対し て航空基地と主要港湾を防衛できる程度でよいとされていた。 第 11 船舶団は 1943 年 10 月にシンガポールで編成され、第 32 軍創設のころは、ミャンマーのアキヤブ(現在のシットウェー) 方面の海上輸送を担当していた。後にその長となる大町大佐は香 港にあって、中国担当の第2船舶輸送司令部の南支支部長を努め2 第 1 章 舞台 図1 1944 年 3 月下旬頃の勢力図 実線は日米両軍の勢力圏の境界、点線は絶対国防圏 ていた。 事態が急速に悪化するのは、わずか3ヶ月後である。6月 15 日に米軍がサイパン島に上陸を開始。19,20 日に日米の機動部 隊がマリアナ沖で激突するが、日本軍は惨敗を喫し、島の守備隊 も7月上旬に壊滅した。同じマリアナ諸島のテニアン、グアムは それぞれ8月3日、11 日に陥落した。 マリアナ諸島失陥後の勢力図を図2に示す。絶対国防圏が大き く抉られ、米軍は、次には小笠原諸島から本土、台湾、沖縄、 フィリピンに向かうことが予想される。これに対処すべく大本営 は新たな決戦準備(捷号作戦)を7月下旬下令した。これ以後、 0 1000km . . ... . . . .. . . ... . . . . ..... . ... . . . ... ミッドウェイ マーシャル諸島 ギルバート諸島 ガタルカナル トラック アキヤブ
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絶 対 国 防 圏 ニューギニア ニューブリテン 沖縄 カロリン諸島 マ リ ア ナ 諸 島3 図2 マリアナ諸島失陥後の勢力図 沖縄本島をふくむ南西諸島は、4個師団、5個独立混成旅団*、 1砲兵団を中核とする計約 18 万人の体制整備に向け、第 32 軍の 増強が急速に進むことになった。 増強策の一環として、第 11 船舶団司令部がシンガポールから * 師団は作戦を独立して遂行できる最小単位で、歩兵、砲兵等の戦 闘部隊だけでなく後方支援部隊も含む。第 32 軍では1個師団は 11,000~15,000 名くらい。旅団は単一兵種の最大単位で、その代表 例である歩兵旅団は師団内にあった。これを師団から独立させ、各 種部隊を混成させたものを独立混成旅団と呼ぶ。5,000 人弱の規模。 0 1000km . . ... . . . .. . . ... . . . . ..... . ... . . . ... ミッドウェイ サイパン マーシャル諸島 ギルバート諸島 絶 対 国 防 圏 沖縄 小 笠 原 諸 島 台湾 フィリピン
第
2
章
特 攻 艇
I 誕生まで 本書では、マルレとよばれる特攻艇で攻撃を行なう海上挺進戦 隊が舞台となるので、編成に至った背景などをここに述べておき たい。マルレに関しては、これに乗艇して出撃する要員であった 船舶特別幹部候補生の一期生がまとめた『マルレの戦史』に詳し い。本章で述べることは断りのない限り同書によるものとする。 1943 年以降の一連の島嶼防衛戦闘で明らかになったのは、兵 力を海岸付近に配置し敵上陸時に一挙撃滅を図るという、いわゆ る水際撃滅戦法が通用しないということであった。米軍は、艦載 機による空襲と戦艦・巡洋艦による艦砲射撃で上陸予定の海岸線 の防御陣地を破壊しつくしてから上陸してくる。このため上陸部 隊をのせた船団に対する航空機攻撃にもっぱら頼らざるを得ない が、1943 年後半頃には、航空戦力も米軍が圧倒するようになっ ていた。 1944 年 4 月頃、劣勢の航空戦力に頼ることなく、陸軍の船舶部 隊で上陸船団を攻撃しようという考えがでてきた。海上での戦闘 は海軍であり、陸軍は輸送が主任務であることを考えると大きな 転換である。大本営陸軍部と広島県宇品にあった陸軍船舶司令部 から独立に出されたアイディアは、小型の舟艇を米軍の上陸予定 地域近くに秘匿し、上陸時に船団の側背面から体当たり攻撃を加8 第 2 章 特攻艇 えようというものであった。こうした舟艇による特攻は 7 月下旬 の捷号作戦計画の中で正式戦法として採用されることになった。 大本営と船舶司令部で大急ぎで開発が進められ 7 月上旬試作艇 が完成した。双方の試作艇、同じ目的で製作された海軍の震洋を 比較検討した結果、陸軍省の第 10 技術研究所で作成されたもの が採用となった。これをマルレ(記号は○の中にレ)と呼ぶ。レ は秘匿名「連絡艇」の頭文字である。海軍の震洋が舳先に爆薬を 搭載して激突するのに対し、マルレは爆雷を投下する方式であっ た。 このマルレは全長 5.6m, 全幅 1.8m, 自重 0.975 トン、操縦席 の両舷側に 120kg の爆雷を計2個抱えるように装着した。最大速 度 20~24 ノット、航続時間は3~4時間である。目標船に接近 した際、艇の先端に突出させてある扇形の激突板を船腹にぶつけ 図3 米軍の撮影した阿嘉島のマルレ 爆雷を後部に搭載する改良型である。欠落している部品を点線で補った。 激突板が相手船に触れると連結棒が移動し爆雷受け具の固定部が外れ、爆雷 は自重により海面に落ちる。連結棒は機関室の覆いを迂回するようにして爆 雷受け具までつながっているが、写真でははっきりしない。艇の記号「ロ」 は第2戦隊を表す。写真提供は垣花武一氏 連結棒 ? 機 関 室 爆雷 操 縦 席 激突 板 ロ 83
9 るか、または操縦者がハンドルあるいはペダル操作で爆雷を投下 する仕組みになっていた。爆雷は投下後7秒で爆発するようセッ トされ、操縦者はこの間に爆発の巻き添えにならぬよう離脱する のである。 この後改良が為され、速度は 24~25 ノットまでアップした。 また 120kg の爆雷 2 個を別々に爆発させるのでは輸送船を撃沈す るには不充分なことが分かり、艇の後部に 250kg の爆雷を一個搭 載する形に改められた。既に現地に配備済みの艇に対しては 120kg 爆雷 2 個をロープで連結させることで対応した。 7月中旬に陸軍将校 18 人を広島湾内の離島大カクマ島に集め、 マルレの操作法と教育法についての研究をさせた。この研究班に 本書で度々登場する人物がいる。長の斉藤義雄少佐、後の第3戦 隊長赤松嘉次大尉、同戦隊の第3中隊長皆本義博少尉、第2戦隊 の第2中隊長中川好延少尉である。8月に入って小豆島の隣の て しま 豊島、後に江田島のこう幸 ノうら浦 で仮編成の戦隊の訓練を行った。編 成された海上挺進戦隊は 30 に上り、フィリピン、台湾、沖縄に 配備された。8月訓練、9月初め正式編成、9月末現地と順調に 進んだ部隊もある一方、途中米軍の攻撃や海難などで海没したり して予定地にたどり着けないこともあった。 Ⅱ 隊の編成 直接攻撃にあたる海上挺進戦隊と基地の設営や舟艇の整備・泛 水にあたる海上挺進基地大隊からなり、各ペア毎に同じ番号が割 り当てられる。たとえば、沖縄の座間味島に配備されたのは海上
第
3
章
着 任
Ⅰ 船舶部隊の充実 第 32 軍の増強と共に船舶部隊も充実していく。図7は第 32 軍 の発足間もなくの 1944 年4月時点での司令部スタッフである。 軍司令官、参謀長、高級参謀の下に参謀が3名いて、船舶担当が 矢板少佐である。高級参謀の八原大佐が沖縄作戦の実質的立案者 で、軍司令官と参謀長は途中で交代する。この時期の第 32 軍の 仕事は航空基地の建設であり、地上兵力は奇襲上陸に対して航空 基地と主要港湾を防衛できる程度でよいとされていたことは第1 章で述べた。矢板参謀の発令日は4月1日であるが、実際の着任 日は 25 日でのんびりとした雰囲気がうかがえる。船舶部隊とし てめぼしいものは第1船舶輸送司令部の沖縄支部*だけである。 * 第1船舶輸送司令部は内地、台湾、朝鮮担当。沖縄支部は、 1945 年2月に台湾・沖縄方面を担当する第7船舶輸送司令部(台湾の基 隆)が新たに編成されると、その指揮下に入った。 図7 軍司令部 (1944 年 4 月) 船舶部隊に関与しな い参謀は数のみ 軍司令官/中将 渡邊正夫 参謀長/少将 北川潔水 高級参謀/大佐 八原博通 参謀/少佐 八板繁廣 その他の参謀 2名25 状況が一変するのは、サイパン島が7月上旬に失陥して沖縄方 面にも米軍の侵攻が予想されるようになってからである。7月か ら 9 月にかけて第 9,24,28,62 の 4 つの師団はじめ大小各種の部 隊が南西諸島の島々に配備され、第 32 軍の増強が急速に進んだ。 軍司令官が病弱だった渡邊中将から牛島中将に、参謀長が北川少 将から長少将に代わったほか、軍司令部のスタッフが強化された。 9 月の時点での軍司令部の構成を図8に示す。薬丸参謀は情報担 当であるが舟艇壕の設営に関与する。 船舶部隊では、7 月中旬に船舶工兵第 23,26 連隊が那覇に上陸 した。海上挺進戦隊については、慶良間諸島の3個戦隊について は9月中に到着したが、残りの5個戦隊、宮古島の第4と沖縄本 島の第 26~29 戦隊は 12 月から翌年3月上旬までかかっている。 第 29 戦隊の本部は奄美大島までしかたどり着けず、宮 古島に配 備する予定だった第30戦隊は最終的に断念している。基地大隊に ついては戦隊より状況は良く、慶良間諸島が9月上旬、残りも12 月までに配備が終る。なお基地隊本部は 11 月始めに那覇に到着 図8 軍司令部 (1944 年 9 月) 薬丸参謀は情報担当 軍司令官/中将 牛島 満 参謀長/少将 長 勇 高級参謀/大佐 八原博通 参謀/少佐 八板繁廣 参謀/少佐 薬丸兼教 その他の参謀 5名
26 第 3 章 着任 図9 南西諸島に配備された海上挺進部隊 ゴチック数字は戦隊と基地大隊の番号 0 200km 北大東島 南大東島 沖大東島 沖縄本島 宮古島 石垣島 奄美大島 台湾 130° 125° 25° 30° ・ 4 0 20km 中 城 湾 29 北谷 那覇2728 28 26 糸満 湊川 座間味島 阿嘉島 慶留間島 渡 嘉 敷 島 3 1 2 27 与那原
第
4
章
視 察
I 石田手記 いよいよ大町団長一行の行動を追って行く。ベースになるのは 大町団長に随行した石田四郎少尉の手記である。これを、戦時中 に準リアルタイムに作成された記録(別表2)、戦後に第一復員 局が作成した史実調査資料(別表3)、戦後書かれた私的な手記 と比較対照しながら議論を進めていく。 その前に「本書のガイド」で説明した基本方針をもう一度確認 しておく。谷本小次郎氏が 1970 年にまとめた第3戦隊陣中日誌 (谷本版陣中日誌)はソース不明な情報を含むため検討資料から は除く。また公刊戦史『沖縄方面陸軍作戦』を大町団長の行動を 判断する根拠資料としては使用しない。 石田少尉は、中国河北省の保定市にあった保定幹部候補生隊の 第9期生で、同隊を 1943 年 12 月に卒業した。保定幹部候補生隊 は保定陸軍予備士官学校と呼ぶべき学校組織であるが、支那派遣 軍という作戦軍の一組織であるため、「学校」ではなく「隊」を 呼称していた。卒業後の赴任先は不明だが、沖縄本島に駐屯する 船舶工兵第 26 連隊に少尉として勤務することになった。因みに 同連隊は 1944 年6月に和歌山で編成され、同年7月に沖縄に移 動した。1944 年 10 月に第 11 船舶団長だった鈴木少将より船舶工 兵第 26 連隊長の佐藤少佐に派遣将校の要請があり、 これに応じ47 る形で、石田少尉は船舶団司令部の一員となった。大町大佐が船 舶団長として赴任したのは 1944 年 11 月末で、石田少尉が大町団 長の慶良間視察に同行したのは翌年3月下旬であるから、接触が あったのは4ヶ月足らずである。しかし、仕えた期間が短いとは いえかつての部下としては、大町大佐が確たる根拠もないまま世 上良く云われていないことをなんとかしたいと思ったのであろう、 手記に 最近、私は第十一船舶団長大町大佐の正確な記録を残したい と思うようになった。それほど正確な記録はないのである。 と書いている。 大町団長は3月 26 日夜渡嘉敷島から那覇へ帰還を試み、果た せず戦死するが、石田少尉は島に残留してながらえる。赤松戦隊 長の指揮下に入り、小隊長として島の北部にある留る利り加か波高地のは 守備を担当し、終戦を迎えたのである。 石田手記には2つのバージョンがある。一つは 1990 年2月の 手書きの原稿、もう一つは同年8月の「会報『特攻』」11 号に 掲載されたものである。記述は、問題となる渡嘉敷島での出来事 に関しては、公刊戦史を忠実になぞり、自らの認識と異なるとこ ろを書き改めるという体裁をとっている。 Ⅱ 視察団 3月 22 日大町団長一行 15 名は慶良間諸島に向け那覇港を出発 した。前日に特設第2旅団が編成が決まり、その長となる大町団
48 第 4 章 視察 長は挺進戦隊出撃後の地上戦闘の作戦指導も行なう必要があった。 米軍の上陸予想時期は4月上旬、本土を空襲していた米機動部隊 は損害をうけて根拠地ウルシーに向け撤退中である。視察に行く なら今である。 船舶団から副官山口栄中尉、石田四郎少尉、渋谷悦三郎見習士 官を長とする通信班(若山栄次兵長他5名)と当番兵1名の計 11 名、第5海上基地隊本部から隊長三池明少佐、木村安藏少尉、 南芳明技術少尉、当番兵山本替一一等兵が随行した。三池少佐を 帯同したのは、基地隊本部も慶良間3戦隊の指揮権を持っており、 挺進戦隊出撃後の地上戦闘の作戦指導に必要だったからだろう。 乗船の機帆船のエンジン不調のため予定より数時間遅れて 22 時頃座間味島に到着した。翌 23 日、海上挺進第1戦隊の秘匿壕 の視察を終え昼前に戦隊本部で大町団長は訓示を行なっていたが、 その最中に突如グラマン戦闘機の銃撃を受けた。 団長一行は防空壕に退避することで難を逃れたが、この日の空 襲は延 300 機にも及ぶ本格的なもので、慶良間の3戦隊に相当の 被害が出た。座間味では揚陸中であった海軍砲が船もろとも沈没 した。船舶団では 12 月末に第 32 軍から慶良間列島の防衛強化の 命令を受けており、海軍砲の整備はシンボリックな意味があった と思うが、計画はあえなく潰え去った。 その夜、恐らく最後になるであろう視察を続行すべきか、ある いは沖縄本島に急遽帰還するか、帯同する通信班の情報を基に検 討。続行に決した。
第
5
章
『ある神話の背景』
『ある神話の背景』は雑誌『諸君』に 1971 年 10 月号から 1972 年9月号にかけて連載され、1973 年に文芸春秋社から単行本と して出版された。著者は作家の曽野綾子氏である。雑誌連載の始 まる約2年前に吉田俊雄氏によって書かれた『沖縄 Z旗のあが らぬ最後の決戦』が公刊戦史にほぼ忠実に従っているのに対し 『ある神話の背景』では随所に踏み込んだ解釈が見られる。しか しながら、疑問な点が少なくない。その中からトピックをいくつ か拾って本章で議論したい。『ある神話の背景』が渡嘉敷島の第 3戦隊の隊員だった谷本小次郎氏によって 1970 年に発行された 『渡嘉敷島 陣中日誌』(以下谷本版陣中日誌)によっているこ とからこれも併せて論ずる。 谷本氏は「編集のことば」で 基地勤務隊辻政弘中尉殿が克明に書き綴られた本部陣中日誌 と第三中隊陣中日誌(中隊指揮班記録による四月十五日より 七月二十四日迄の記録第三中隊 長 所 有 ) を 資 に 取 り 纏 め 聠[ママ]の追記誇張、削除をも行はず、正確な史実を世代 に残し と谷本版陣中日誌の原典を明らかにしているが、これは事実を 語っているのではなく、この文を「精強第三戦隊たりと誇れるこ とを念願します」と締め括っていることから分かるように、戦友92 第5章 『ある神話の背景』 会という場での儀礼・装飾と見なすべきである。実際、原典とさ れる辻政弘中尉の陣中日誌(辻版陣中日誌)と谷本版陣中日誌の 比較対照が 'ni0615' 氏のサイトに公開されているが、大幅な加 筆・改変が認められる。その全般的検討は、『ある神話の背景』 とあわせて『検証 『ある神話の背景』』で行なったのでそちら を参照して欲しい。 Ⅰ 転進電文(3) 転進先を焦点に時系列を追ってみよう。まず終戦直後、転進先 は、辻版陣中日誌では那覇、赤松戦史資料と赤松手記では沖縄本 島であった。公刊戦史『沖縄方面陸軍作戦』執筆に際してインタ ビューの要請があり、赤松氏は辻版陣中日誌を携えて戦史編纂官 の伊藤常男氏のもとへ赴いた。公刊戦史刊行の約2年前、1966 年2月のことである。実はこの辻版陣中日誌の写本『渡嘉敷島戰 斗概要』が 1946 年1月 20 日付けで、復員省に提出されており敢 えて携える必要のないものであったが、赤松氏としては自らの評 価に関わる大事なので万全を期したということだろう。なお、写 本の受付日は赤松戦史資料と同じなので、おそらく赤松氏自身が 双方を同時に提出したのではないかと思われる。 インタビューの際、赤松氏は自らの記憶にあったであろう新た な転出先「糸満」を「電灯を円く振れ」という合図とともに付け 加えた。ところが戦史編纂官は聴取の内容を吟味しないまま、沖 縄本島、那覇、糸満の3つの地名を併記した。したがって、公刊
93 戦史を読む限りどこに転進したらよいのか分からないことになっ ている。 赤松氏は公刊戦史を読んで、「那覇」が大本営の戦況手簿に登 場する権威ある転進先*であることを知り、新たに編纂する谷本 版陣中日誌では転進先の混乱を、那覇に統一することで解決しよ うとしたと思われる。谷本版陣中日誌では次のようになった。ま ず時刻不明で 在慶良間の各戦隊は情況有利ならざるとき所在の艦船を撃砲 [ママ]しつゝ那覇に転進すべし。(那覇港到着のときは懐 中電灯を丸く振れ、船舶工兵が之を誘導収容す) と軍司令部から転進命令が届く。これを受けて 二○○○戦隊長出撃を考慮し独断各隊1/3の舟艇に泛水を 命ずると共に本島船舶団本部に「敵情判断如何」と打電した。 これに対して 21 時 30 分船舶団本部より 敵情判断不明、慶良間の各戦隊は情況有利ならざる時は所 在の艦船を撃破しつゝ那覇に転進すべし。那覇港到着の際は 懐中電灯を丸く振れ 船舶工兵之を誘導収容す。 という回答を得る。 これで流れは非常にすっきりした。まず軍司令部から転進命令 * この戦況手簿が大本営としての正式なものではなく、一担当者の 私的メモに過ぎないことは、第4章Ⅵで述べた。