ロシア語研究会木二会年報『ロシア語研究』第30号(2020),155-156.
書評 『古代スラヴ語の世界史』 (服部文昭著,白水社, 2020 年)
恩田 義徳
東京外国語大学 非常勤講師
2019年は「スラヴの使徒」として,またスラヴの文字の創設者として知られるギリシア 人修道士コンスタンティノス=キュリロスの没後 1150 年にあたる.これに合わせて日本 ロシア文学会の全国大会でも関連するパネルが組まれたが,そのような状況のもと服部文 昭氏による『古代スラヴ語の世界史』が上梓された.
古代スラヴ語は九世紀に成立したスラヴ世界最古の文章語で,方言的分化が進む十一世 紀末までスラヴ世界の共通文語として,中世西欧世界におけるラテン語のような役割を果 たした.言語資料としては十世紀から十一世紀の主に教会文献の写本が十点程度,ほかに 断片や碑文が残されている(千野栄一氏によれば千ページ強ほどの分量1).学問上の細か い定義を別にすれば,古代スラヴ語は「古代教会スラヴ語」と同じ言語を指し,最近では
「古教会スラヴ語」という呼称が使用されることが多い.ルシスト,スラヴィストにとっ て古代スラヴ語を学修するということは必須とされるが,それはただ古い文法を覚え,パ ズルのようなテキストを解読するといった言語的側面に限定されるものではない.言語の 学習を通して,古代スラヴ語成立の歴史的背景を知り,その伝播・継承の様子を把握する ことで,スラヴの歴史や書記文化の基礎を理解することも重要な課題のひとつである.実 際,木村彰一『古代教会スラブ語入門』(1985)やLunt, H.G. «Old Church Slavonic»(2001), Селищев, А.М. «Старославянский язык»(1951-1952)といった著名な教科書には必ず歴史的 背景を扱った一章が組み込まれている.本書はそうした歴史の部分にフォーカスを当て,
古代(九世紀)から現代までの筋道を,古代スラヴ語を軸にスラヴ以外の周辺諸国を交え ながらたどる一冊となっている.
前半(一章から七章)では特に古代スラヴ語成立の歴史的背景・スラヴ世界への伝播の 様子が丁寧に描かれる.スラヴ人のモラヴィア国,ギリシア人のビザンツ帝国,ゲルマン 人のフランク王国,そしてローマ教会という勢力が織りなす歴史のダイナミズムの中で生 み出された古代スラヴ語は,のちにブルガリアで黄金期を迎え,やがてキエフ・ルーシへ と伝えられてゆく.第六章において語られる,古代スラヴ語がキエフ・ルーシにおいて東 スラヴ語と混ざり合い,「古代ロシア文語」へと発展的に吸収・消滅してゆく過程はロシア 語・ロシア文学の歴史をたどる上で最も重要な点のひとつである.
後半(八章から十一章)では「スラヴ人」へと焦点が移り,原郷にいたスラヴ人が東欧・
バルカンへと広がっていき,それぞれの地域で周辺勢力の影響を受けながら,それぞれの 社会を形成して行く過程が言語に絡めて説明される.言語の歴史と社会の関係について,
「ロシア語史」「チェコ語史」のように個別に記されたものはこれまでにもあったが,スラ ヴ全体を概観する形でまとめられたものは本邦ではあまり例がなく,著者のスラヴィスト
1 「古代スラブ語への手引き」,『窓』71,ナウカ,1989年,pp. 23-29.
書評 『古代スラヴ語の世界史』(服部文昭著,白水社,2020 年)
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としての幅広い見識を物語るものである.例えばポーランドには「そもそも古代スラヴ語 の影響が及ばなかった」という意外な事実に驚く読者も多いのではないか.
著者の文献学者としての側面も全体を通して遺憾なく発揮されている.第六,七章のコ ラムにある古代スラヴ語やキエフ・ルーシの言語資料(写本)に関する基本データはスラ ヴ文献学として必ず押さえなければいけないものである.特に『オストロミール福音書』
や『アルハンゲリスク福音書』については同一写本内でも写字生の違いによってテキスト の性質に違いが出るという,高度かつ重要な情報が簡潔に述べられている.また,「共通ス ラヴ語」や「文章語」,「スラヴ学」といった,ともすれば漠然と使用されてしまいかねな い術語に対してひとつひとつ説明・定義がなされ,正確に用いられていることも我々が見 習うべき点である.
中心的なテーマは古代スラヴ語であるが,それ以前,つまり文献があらわれる前のスラ ヴ人についても述べられている.比較言語学的な手段によって,スラヴ人の原郷はベラルー シとウクライナの国境あたりであったと推定されるが(八章),六世紀,農耕生活を送るス ラヴ人に中央アジアから来たアヴァールという騎馬民族が襲い掛かり,征服・隷属させた.
アヴァールの西進に付き従う形でスラヴ人が現在のように中部ヨーロッパやバルカン半島 へと広がったことは,現在のスラヴを理解するうえでも重要な出来事であろう.第四章コ ラム(p. 75)にもある通り,このアヴァールを滅亡させたのはフランク王国のカール大帝 である(七九一年).アヴァールの「くびき」からの解放者であるカール大帝は,スラヴ人 たちにとって救世主かつ偉大な王者であった.カールKarlの名がスラヴの諸言語に「王」
を指す語として残されていることがそれを示しているだろう(古代スラヴ語 крал̂ь,ブル ガリア語крал,チェコ語král,ポーランド語król,ロシア語король,共通スラヴ語*korl'ъ). それぞれの語形は第十章のコラムなどを参考にすれば導き出すことができる.
本書では重要な事柄が繰り返し述べられていて,通読すれば自然と要点がわかるように 書かれている.時に全く同じ文言が繰り返されることがあり,デジャヴのような感覚に陥 ることもあるが,これは編集上の問題か,あるいは好みの問題ともいうべきで,本書の持 つ意義を損なうようなものではない.
冒頭に述べたコンスタンティノス=キュリロスの功績のひとつはスラヴ人が「我々自身 の言葉で」経典を読み,礼拝を行い,キリスト教を正しく受容することを可能にしたこと である.本書によって我が国にも,スラヴ学の最も基礎的で重要な事柄が,誤解なく広ま るのではなかろうか.
(おんだ・よしのり)