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ジャン=ジャック・ルソーのレトリック 『学問芸術論』における論点の変更

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ジャン=ジャック・ルソーのレトリック

『学問芸術論』における論点の変更

越   森 彦

はじめに ―― 奢侈論争

 18世紀フランスの政治家でヴォルテールの友人でもあったダルジャンソ ン候(1694 〜 1757)がトゥーレーヌの領地を視察したときのことである。

侯は回想録を残しているのだが、トゥーレーヌ視察について次のように記 している。「私が目にしたものは戦慄すべき貧困だけだった1。」

 侯にとって視察は苦い思い出となったようだ。とはいえ、トゥーレーヌ が抜きん出て貧しかったというわけではない。フランス中が飢饉による食 糧不足と貧困に喘いでいた。ラングドックやギュイエンヌでは大規模な暴 動も起こっている。さらに、追い討ちをかけるように戦争が起こり、和平 条約が結ばれても地方の窮乏生活はひどくなる一方だった。ところが、貧 困化の進む地方を尻目にかけて、都市部では王侯の愛妾たちが豪奢な集い を催し、着飾った貴婦人や廷臣が詰めかけていたのである。

 このような都会人の贅沢三昧な暮らしぶり、すなわち「奢侈」(luxe)

を道徳の観点から厳しく批判したのがジャン=ジャック・ルソー(1712

〜 1778)であった。デビュー作の『学問芸術論』(1750)から一つだけ引 いてみよう。

1  D’Argenson, Mémoires, Jannet, 1857-58, V, p. 123.  このエピソードは以下の文献か ら引用。Jean-Jacques Rousseau, Discours sur les Sciences et les Arts, édition critique  avec une introduction et un commentaire par George R. Havens, Modern Language  Association of America, 1966, p. 83.

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   同じ人の魂の中で、豪華さを好む気持ちが正直さを好む気持ちと結び つくことはほとんどありません。無数の些事にかまけているうちに堕落 した精神が偉大な何かにまで高まることなど絶対にないのです。たとえ、

そうする力があったとしても、勇気が足りないでしょう2

 ここで言われている「豪華さ」と「無数の些事」は種で類を表す提喩

(synecdoque)であり、奢侈を指している。また、「偉大な何か」は反対 に類で種を表す提喩であり、祖国愛を指している。つまり、ルソーによれ ば、奢侈な生活を送る者は贅沢品を見せびらかすことに汲々としており、

他者に対して自分の姿を「正直」に見せようとしない。また、祖国を守る 気概など持ちようがないし、仮にそうする能力があったとしても「勇気」

が足りず何も実行できずに終わるだろう。このように、道徳的頽廃をもた らす害悪として奢侈は厳しく批判されている。とはいえ、『学問芸術論』

という作品自体は、その名のとおり、何よりもまずは「学問」と「芸術」(よ り正確には「技芸」)の考察にその大部分を割いている。その意味で、奢 侈批判はあくまで二次的な位置を占めているにすぎない。それにもかかわ らず、ルソーの奢侈批判は読者を大いに刺激し、多くの反論を招いた3。  奢侈を批判的に捉える言説がルソー以前になかったわけではない。たと えば、『法の精神』(1748年)においてモンテスキューは奢侈を擁護しつつ も、「奢侈を奨励すべきか、それとも禁止すべきかを知るためには、まず

2  Discours sur les Sciences et les Arts, dans Œuvres complètes t. III, 1964, Gallimard, «la  Bibliothèque de la Pléiade», édition publiée sous la direction de Bernard Gagnebin et  Marcel Raymond (1959-1995, 5 vol.), p. 20. 以下、『学問芸術論』についてはこの版を典 拠とし、O.C. III, p. 20.のように記す。フランス語を引用する場合、綴りは現代のもの に直す。

3  詳細は以下を参照。Ludwig Tente, Die Polemik um den ersten Discours in Frankreich und Deutschland, thèse dact., Kiel, 1974.

(3)

国民の数と彼らを生活させる力との関係に眼を注がなければならない4」と 中立的な立場を取ったあとで、耕作地の収穫量が人口の増加に追いつかな い国での奢侈は「有害」であり、「勤労と節約の精神」が必要であると述 べている5。さらに、モンテスキュー以前には、より直接的な奢侈批判も存 在した。いや、それどころか、18世紀のフランスにおいて奢侈の批判、あ るいはその擁護は「奢侈論争」(la querelle du luxe)という呼び名がある ほど、一つの確固たる論争領域を形成していた。そして、それは、ルソー が作家として世に出る以前からのことなのだ。

 論争家としてのルソーの力量を見極める上で、このことの意味は大きい。

なぜなら、奢侈を批判するために有効となる主張――たとえば、贅沢な暮 らしは人間の気力を弱くする――は、その多くがルソー以前に考えられて いたからである。これは、奢侈を擁護するための主張すなわち奢侈批判に 対する反論――たとえば、奢侈は雇用を生む――についても同じである。

むしろ、奢侈擁護のための反論のほうが奢侈批判のための主張よりも数の 面で優っている。

 では、奢侈批判派による従来の主張と比べてルソーの主張は何が同じで、

何が違うのだろうか。そして、奢侈擁護派の反論に対してどのように反駁 しているのだろうか。この問いに答えるため、本稿の第1節と第2節では、

『学問芸術論』以前の奢侈論争について、批判派の主張と擁護派の反論を 確認する。第3節では、『学問芸術論』におけるルソーの奢侈批判につい て「修辞学的読解」(lecture rhétorique)を試みる。私は、『レトリック 入門』の著者であるオリヴィエ・ルブールと共に、この読解方法を以下の ように理解している。

4  モンテスキュー(野田良之他訳):『法の精神』(上巻) 岩波文庫 1989年 2009年 p. 206.

5 同書 p. 207.

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    それ[=修辞学的読解]はテクストを読むにあたって、次のように 問う。このテクストは、いかなる点で説得的なのか。つまり、論証と 言葉の使い方の工夫を構成する要素は何か。(中略)修辞学的読解は テクストの内容について正否を問うことはしない。しかし、だからと いって、テクストに対して中立的であるわけではない。なぜなら、価 値判断を下したり、何が議論として説得力があり、そうでないのか、

何が議論として正しく、そうでないのかを示すことも辞さないからで ある6

 要するに、本稿は思想史研究ではない。修辞学的アプローチによる文学 研究である。主眼点は、作者が「いかに」説得しているか、その議論は説 得的であるか否か、妥当であるか否かである。作者が「何を」考えている かではない7

Ⅰ.奢侈批判派の意見

 フランスの啓蒙思想家ディドロ、ダランベール、ジョクールらが中心と なって編集・執筆した『百科全書』(1751 〜 1772)の項目「奢侈」を担当 したサン=ランベール(1716 〜 1803)は、「奢侈について語られたすべて の善と悪を網羅するつもりはない」と宣言し、批判派、擁護派を問わず、

奢侈に関する主張のうち代表的なものだけを取り上げている8。その論点整

6  Olivier  Reboul,  Introduction à la rhétorique. Théorie et pratique,  Presses  Universitaires de France, 1995, 2019, p. 147.

7  ルソーの奢侈批判に関する思想史的アプローチについては以下の文献を参照された い。Renato Galliani, Rousseau, le luxe et l’idéologie nobiliaire, Studies on Voltaire and  the Eighteenth century, 268, 1989. 以下、奢侈論争に関する二次文献については本稿 末尾の「文献目録」にまとめ、Galliani[1989]のように記す。

8  以下、『百科全書』の引用は以下の電子版に基づく。The ARTFL Encyclopédie :  https://encyclopedie.uchicago.edu

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理によると、奢侈批判派は以下のような主張をした9。  主張① 奢侈は「富の極端な不平等」なしには存在しない。

 主張② 奢侈は「人々を都市に集めることよって農村を破滅させる」。

 主張③ 奢侈は「人口の減退をもたらす」。

 主張④ 奢侈は「勇気を失わせる」。

 主張⑤ 奢侈は「名誉と祖国愛の感情を消滅させる」。

 以上の内容をまとめておこう。第一に、都市で富を独占している「少数 の人間」が奢侈に耽ければ多量の贅沢品を生産することが必要になり、そ のための人手が農村から奪われる。また、農民には高い税がかけられる。

その結果、田園は荒廃し、農業が衰退し、農村での人口が減る。その結果、

国全体の人口も減る。第二に、奢侈は国民の気力を弱くし、軍事的奉仕を 億劫なものにする。市民が武徳を尊ぶ国はたとえ貧しくても、奢侈に耽る 富国に戦争で勝利する。(その証拠としては、アテネに勝利をしたスパル タを引き合いに出すのが定石である。)第三に、贅沢品に囲まれて暮らし ていると自己の私的欲求を満たすことがすべての関心事となってしまい、

「名誉と祖国愛」を失ってしまう。ここで言う「名誉」あるいは名誉心は、

公共の利益や秩序に奉仕していると感じることから生じる心の状態を指 す10

 また、後の議論のためにも、どのような観点からの主張なのかも確認し ておきたい。①から③は、物資の生産と分配という経済の観点からの主張 9  本稿では、『学問芸術論』に直接的な影響を及ぼしたと思われる18世紀初頭までの奢 侈批判を取り扱う。ただし、ギリシャのキニク[キュニコス]学派やストア学派の哲学 者たち、あるいはセネカのような古代ギリシャ・ローマの多くの作家たちは道徳的弛緩 の原因になるとして奢侈を批判していた。Lovejoy, Boas[1935]を参照。また、奢侈 論争は、「古代人―近代人論争」というより大きな枠組みの論争の一つのヴァリエーショ ンでもある。この点については川出[1996, 2018]を参照。

10  なお、サン=ランベールは、『百科全書』の項目「名誉」も執筆しており、それによ れば、「名誉」とは、「自分自身に対する高い評価、または他人から高い評価を受ける 権利を有しているという感情」(«l’estime de nous-même, et le sentiment du droit que  nous avons à l’estime des autres»)である。

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である。それに対し、④と⑤は市民の武徳という習俗(mœurs)の観点 からの主張である。

 なお、サン=ランベールがまとめた①から⑤の主張以外にも、以下の⑥ のようにキリスト教の倫理に基づく主張と、⑦のように社会学的な視点を 取り入れた主張がある。

 主張⑥  奢侈は、原罪から生じた虚栄心の表れである。贅沢品を誇示す ることで優越感を満たそうとしても、優越欲に限りはなく、キ リスト教徒が送るべき質素な生活の妨げとなる。

 主張⑦ 奢侈は、既存の安定した身分秩序を揺るがす。たとえば、中間 層が貴族のような格好をすれば、外見上明らかであった社会階 層の違いや身分の上下が分からなくなる。

Ⅱ.奢侈擁護派の反論

 同じく『百科全書』の記述をもとに、今度は奢侈擁護派の反論を見てみ よう。

 反論① 奢侈は「人口〔の増加〕に役立つ」。

 反論② 奢侈は「国家を富ます」。

 反論③ 奢侈は「貨幣の流通を容易にする」。

 反論④ 奢侈は「習俗を甘美にし、また個人の徳を広げる」。

 反論⑤ 奢侈は「学問と技芸の進歩を助長する」。

 反論⑥ 奢侈は「国力と国民の幸福をひとしく増大させる」。

 これも内容をまとめておこう。第一に、奢侈品が都市で消費されると、

地方の農村に貨幣が還流され、農村の人々はその貨幣で税を支払うことが できる。第二に、贅沢品の流通や販売を支える商業活動において人々は互 いを必要とするため物腰が柔らかくなる。第三に、奢侈は技術の進歩をも たらす原動力である。贅沢に暮したいと望む人々がいるからこそ、その要

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求に応えようと技術が改良されていく11。第四に、奢侈は、ある国家にお いてその統治機構が円滑に機能している証拠である。

 また、観点も確認しておきたい。①から③は経済的有用性の観点からの 反論である。④は、倫理的な観点から反論している。⑤の観点は文明史的 とでも言えようか。⑥は、政治の面から奢侈を捉えている。このように、

サン=ランベールはさまざまな観点からの奢侈擁護をまとめている。だが、

他にも、以下の⑦〜⑨を補足すべきであろう。

 反論⑦ 奢侈は人々に雇用を与える。これは、奢侈擁護派が十八番とす る反論である。オランダ生まれのイギリスの思想家マンデヴィ ル(1670 〜 1733年)は、『蜂の寓話』(1714年)の中で、「奢侈 は貧しきを百万も雇い、憎むべきプライドはあと百万を雇い ぬ12」と喝破している。

 反論⑧ そもそも、何が奢侈であり、そうでないのかが不明である。奢 侈は時代によってその内容が変わる相対的な概念である。今は 生活必需品と考えられているものでも、昔は奢侈品として非難 されていた。ボルドー・アカデミーの終身秘書でありモンテス キューの友人でもあったムロン(1675 〜 1738年)は、『商業に ついての政治的試論』(1734年)で次のように一喝する。「奢侈 という用語は空虚な呼び名であり、治世や商業のあらゆる運用 から排除すべきである13。」

11  モンテスキューも『法の精神』で同様の考えを述べている。「商業の成果は富であ る。富に続くものは奢侈であり、奢侈に続くものは技芸の完成である。」 前掲書(中巻)  

p. 229.

12  バーナード・マンデヴィル(鈴木信雄訳):『蜂の寓話 私悪は公益なり』 日本経済評 論社 2019年 p. 17.

13  ジャン=フランソワ・ムロン(米田昇平・後藤浩子訳): 『商業についての政治的試論』 

京都大学学術出版会 2015年 p. 68. なお、マンデヴィルも、「人間を生き物として生存 させるのに直接必要でないものは、すべて奢侈品であるとすれば(中略)、この世にお いては、裸の未開人においてさえ、奢侈品以外に何も見いだすことができない」(マン デヴィル 前掲書 p. 91)とすでに述べていた。

(8)

 反論⑨ 奢侈は富者の労働意欲を出させるための刺激となる。たとえば、

熱心に働いている「軍人、貿易商人、船主」がいるとしよう。

彼らを「勤労」(industrie)へと駆り立てているものは何であ ろうか。ムロンによれば、それは「貪欲」である。つまり、「享 楽的に人生を過ごすため14」に、「安楽な暮らし15」を送りたくて、

富者たる彼らは額に汗水を流して働いているのである。

 以上の⑦から⑨の反論には共通した前提がある。それは、贅沢品を手に 入れたいという願望は人間の本性に由来するという前提である。功利的か つ利己的な個人の欲望こそが最終的には公共的利益をもたらすのである。

(先に言及した『蜂の寓話』の副題はずばり「私悪は公益なり」であった。)

なお、⑥から⑨の反論については、ヴォルテールも『世俗の人』および『世 俗の人の弁明』で取り入れている16。また、『学問芸術論』よりも時期は後 になるが、④、⑤、⑧の反論についてはヒュームも「技術の洗練と進歩に ついて」と題されたエッセーで述べている17

Ⅲ.ルソーの奢侈批判 ―― 『学問芸術論』の修辞学的読解

 では、いよいよ、ルソーの奢侈批判をレトリック(文彩と議論法)の観 点から分析してみよう。明らかにしたいのは以下の2点であった。第一に、

奢侈批判派による従来の主張と比べて、ルソーの主張は何が同じで、何が 違うのか。第二に、奢侈擁護派の反論に対してどのように反駁しているの か。

14  同書 p. 65.

15  同書 p. 69.

16  奢侈論争においてヴォルテールの果たした役割は新しい主張を述べることではなく、

マンデヴィルとムロンという先駆者の主張を韻文によって分かりやすく普及させたこ とである。ヴォルテールの奢侈擁護論についてはMorize[1909]に詳しい。

17  デイヴィッド・ヒューム(小松茂夫訳):「技術の洗練と進歩について」 (『市民の国 について』下巻) 岩波文庫 1982年 2008年.

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 『学問芸術論』においてルソーが奢侈批判を展開するのは、主に、第2 部の第6パラグラフである。以下、そのすべてを引用する。

    時間の浪費は大きな悪です。しかし、それよりもなお大きな悪が文 学と技芸のあとに続きます。その一つが、文学や技芸と同じように 人間の無為と虚栄心から生まれた奢侈です。奢侈が学問や技芸を伴 わないことはめったくになく、学問や技芸が奢侈を伴わないことは絶 対にないのです。私たちの時代の哲学はいつも奇怪な教えに富んでお り、あらゆる世紀の経験に逆らって、(a)奢侈は国家の壮麗さを作り だすと言い張っていることは私も知っています。しかし、奢侈禁止令 の必要性を忘れたうえに、国家の存続には良俗が欠かせないこと、

⑶ 奢侈は良俗に真っ向から対立すること、こうした点までも哲学は否 定しようというのでしょうか。(b)奢侈は富の確実なしるしであり、

もしそうしようと思うならば、富を増やすことに役立ちさえするとい う、私たちの時代から生まれるのにふさわしい逆説から、いかなる結 論を引き出すべきなのでしょうか。そして、たとえどんな犠牲を払っ ても金持ちにならなければいけないとしたら、いったい徳はどうなっ てしまうのでしょうか。かつての政治家はたえず習俗と徳について 語っていましたが、現代の政治家は商業と金銭についてしか語りませ ん。ある政治家はこう言うでしょう。これこれの国では人間1人あた りの価値はアルジェでその人間を売った価格と同じだ。また別の政治 家はこの計算を続け、人間がただ同然で買える国を見つけるでしょう。

さらに、また別の政治家がもっと安い値段で買える国を見つけるとい うわけです。こうした政治家たちは人間を家畜の群のように値踏みし ているのです。彼らに従えば、国家にとって人間の価値は、その人間 が行なう消費の量によってのみ決まります。したがって、1人のシュ

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バリス人は30人のスパルタ人と同じ価値があるということになりま す。[シュバリスはイタリア南部のギリシア植民地。シュバリス人は 贅沢な暮らしで有名だった。] では、当ててごらんください。スパル タとシュバリスの二つの国家のうち、一握りの農民によって征服され たのはどちらであり、アジアを震え上がらせたのはどちらなのかを。

(O.C. III, p. 19-20. 下線と太字は本稿執筆者による。)

 下線部⑴〜⑶をご覧頂きたい。これらは、奢侈を批判するルソーの主張 である。まず、下線部⑴は、以下の二つの主張を含んでいる。

 A 奢侈は、「無為」から生まれた。

 B 奢侈は、「虚栄心」から生まれた。

 Aはルソー独自の主張と言えないこともないが、そのように主張できる 理由が不明である。Bは、奢侈批判派の主張⑥(奢侈は、原罪から生じた 虚栄心の表れである。)をそのまま繰り返している。新たな理由付けが示 されているわけでもない。いや、そもそも、理由そのものが何一つ示され ていない。

 次に、下線部⑵の主張は、奢侈擁護派の反論⑤(奢侈は、「知識〔学問〕

と技芸の進歩を助長する」。)に対する反駁となっている。つまり、「学問 と技芸」が人間に害をもたらす以上は、そんなものを「助長」されても何 のありがたみもない。むしろ、奢侈と学問・技芸が互いに依存関係にあれ ばあるほど害はひどくなる。そこで、ルソーは奢侈と学問・技芸の依存関 係を強調するために、交差配語法(chiasme)を用いている。(« Le luxe  va rarement sans les sciences et les arts, et jamais ils ne vont sans lui. ») 

ただし、奢侈が学問・技芸に依存する度合い(「伴わないことはめったに な(い)」)と、反対に学問・技芸が奢侈に依存する度合い(「伴わないこ とは絶対にない」)は均等ではない。わずかであるが、前者よりも後者の

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ほうが依存の度合いが高いとされている。では、そのように判断できる理 由は何か。これについても理由らしきものは見当たらない。理由を説明し ないまま、ルソーは、もう一つの主張(下線部⑶)にそそくさと取りかかっ ている。しかも、「真っ向から対立する」(«diamétralement opposé»)と 強い調子で断言しているだけで、依然として理由を示していない。「こう した点までも哲学は否定しようというのでしょうか」と憤慨してみせたと ころで、もちろん何の理由付けにもなっていない。つまり、自説の正しさ を、相手が納得する理由を示しながら証明することを論証と呼ぶのであれ ば、ルソーは何も論証していないのである。

 では、このパラグラフにおいて、ルソーは何をしているのか。あるいは、

しようとしているのか。結論を先回りすれば、それは論点のすり替えであ る。つまり、自分の有利な方向へと議論の争点を移行させるのである。以 下、その具体例を見てみよう。

論点のすり替え(1) ―― パトス(感情)による説得

 アリストテレスは『弁論術』(第Ⅰ巻第2章)の中で、「言論をとおして 調達される証し立て」すなわち言葉による説得方法を三つの種類に分けて いる18

 1.エートスによる説得  2.パトスによる説得  3.ロゴスによる説得

 エートスによる説得の「エートス」とは「語り手の人柄」を指す。つま り、この人の言うことなら信用できると思わせるように自己の見せ方を工

18  アリストテレス(堀尾耕一訳):『弁論術』(『アリストテレス全集』 第18巻) 岩波書 店 2017年.

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夫することで相手を説得するのである19。パトスによる説得の「パトス」

とは「感情」を指す。つまり、読み手の感情に働きかけ、自分の主張を受 け入れやすい状態にさせて説得する。ロゴスによる説得の「ロゴス」とは

「言論そのもの」を指す。つまり、理由を説明したり、根拠を「例示」し ながら自説を証明する。

 ロゴスによる説得をルソーが退けているのはすでに見たとおりである。

そのかわりに、ルソーはエートスによる説得と、とりわけパトスによる説 得を選んでいる。

 波線部(a)と(b)をご覧頂きたい。ルソーが標的にする論敵の意見 は二つあり、それぞれ以下のように要約されている。

 (a) 「奢侈は国家の壮麗さをつくりだす」。

 (b)  「奢侈は富の確実なしるしであり、もしそうしようと思うならば、

富を増やすことに役立ちさえする」。

 まず見逃せないのは、(a)、(b)ともに、その提示のされ方である。ルソー によれば、(a)は、論敵が「言い張っている」「奇怪な教え」(maximes  singulières)の一つであり、「あらゆる世紀の経験に逆らって」いる。こ れらのコメントは(a)の内容が机上の空論にすぎないと暗示している。

しかも、それらの偏見に満ちたコメントは(a)の内容が紹介された後で なく、その前に述べられている。読者にしてみれば、読む前から警戒心を 抱くのに十分であろう。

 同様に、(b)も、「私たちの時代から生まれるのにふさわしい逆説」と コメントされている。ただし、こちらは、その内容が示された後でのコメ ントである。とはいえ、論敵のネガティブなイメージを読者の潜在意識に 植えつける効果が薄まったわけではない。まず、「私たちの時代から生ま 19   こ れ に つ い て は 拙 著 を 参 照 さ れ た い。Morihiko Koshi, Les images de soi chez

Rousseau. L’autobiographie comme politique, Classiques Garnier, 2011.

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れるのにふさわしい」という言い回しからして毒のある皮肉がたっぷりと 込められている。実は、前のパラグラフにおいてルソーは、同時代の「哲 学者」たちを著述活動に駆り立てているのは真理への愛ではなく、「自分 自身を際立たせたいという熱情」にすぎないと論じている。名声欲や有名 欲が支配するのがルソーの言う「私たちの時代」なのである。「私たちの 時代から生まれるのにふさわしい」の「ふさわしい」(digne de)に込め られた皮肉の意図は明らかであろう。

 さらに、「逆説」(paradoxe)という言葉も負けず劣らず辛辣である。

それは、現代の私たちが通常思い浮かべるような意味での「逆説」ではな い。私たちは「逆説」を次のように理解している。「(世の中で)受け入れ られている意見とは反するために一見すると不条理だが、よく考えてみれ ば真実であったり、少なくとも、真実のように見える命題」。ところが、

この定義(『百科全書』による)は「哲学的な意味での」特殊な定義であり、

18世紀の「逆説」は通常以下のように定義される。「一般の意見に逆らっ て主張・提案・支持された命題」。これは、『アカデミー・フランセーズ辞 典』(1762年版)による「逆説」であるが、『百科全書』と違い、肯定的な コノテーションはどこにもない。「よく考えてみれば真実」であることも、

「少なくとも、真実のように見える」ということもない。つまり、逆説と は珍説・奇説の類に他ならない。ルソーの言う「逆説」もまた然り。「奢 侈は富の確実なしるしであり、もしそうしようと思うならば、富を増やす ことに役立ちさえする」という意見は「一般の意見に逆らっ」た珍説・奇 説であり、しかも、「自分を際立たせたい熱情」に駆られた誰かがこしら えたというのである。誰がその言葉に信を置くことができようか。かくし て、論敵の意見の内容ではなく、その意見を述べた論敵の人柄(エートス)

へと論点はすり替えられる。

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論点のすり替え(2) ―― 修辞的疑問文

 分析を続けるために、ルソーが論敵のものとして示している意見(a)

と(b)が前節で見た擁護派の反論①〜⑨のどれに対応しているのかを確 認しておこう。

 まず、「奢侈は国家の壮麗さをつくりだす」という意見(a)は、擁護派 の反論⑥(奢侈は「国力と国民の幸福をひとしく増大させる」。)に対応し ている。実際、意見(a)にある「国家の壮麗さ」(splendeur des États)

とは、ある国の統治機構が円滑に機能していることを指している。それは、

ヴォルテールが『世俗の人の弁護』で次のように述べていることからも明 らかであろう。「奢侈は、弱小国家を堕落させるが、偉大な国家は豊かに する。その壮麗さ(splendeur)、その豪華さは、満ち足りた治世(règne  heureux)の確かな徴なのだ20。」また、奢侈は「富と統治の安定がもたら す並外れた豪奢であり、治世が良好なあらゆる社会に必然的に伴うもので ある21」とムロンも主張していた。ムロンとヴォルテールは政治の問題と して奢侈を論じている。[(a)=反論⑥]

 次に、「奢侈は富の確実なしるしであり、もしそうしようと思うならば、

富を増やすことに役立ちさえする」という意見(b)は、マンデヴィルと ムロンが示した反論⑨(奢侈は富者の労働意欲を出させるための刺激とな る。)を土台にしている。両者の「逆説」によれば、豪華な暮らしをした いという私的欲求に駆られた個人が富を蓄積し消費することが社会全体の 繁栄をもたらし、ひいては国家を強大にするのであった。つまり、マンデ ヴィルとムロン(とりわけ後者)は経済の問題として奢侈を論じている。

[(b)=反論⑨]

 では、ルソーも同じく政治や経済の問題として奢侈を論じているだろう 20  Morizet, ibid., p. 155. 

21  ムロン 前掲書 p. 65.

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か。まずは、(a)=反論⑥に対する反駁から見てみよう。

    しかし、奢侈禁止令の必要性を忘れたうえに、国家の存続には良俗 が欠かせないこと、奢侈は良俗に真っ向から反すること、こうした点 までも哲学は否定しようというのでしょうか。

 ルソーは論敵の論点(奢侈と政治の関係)を無視し、奢侈と習俗の関係 という別の問題に論点をすり替えようとする。そのためにまず、「こうし た点までも哲学は否定しようというのでしょうか」と啖呵を切る前に、「奢 侈禁止令」について言及している。それは、権力者によって発令されると いう意味ではたしかに政治の問題である。しかし、同時に、人々の生活や 心のあり方に関わる習俗の問題でもある。こうして論点を微妙にずらして おいて、その上で「国家の存続」と「良俗」の関係という論敵の論じてい ない問題を俎上に載せているのだ。その際には、「こうした点までも哲学 は否定しようというのでしょうか。」という修辞的疑問文(question  rhétorique)が効果を発揮している。もちろん、これは、自分の意見(こ うした点を哲学は否定できない。)をより強く断定的に述べるための表現 技巧である。そもそも、論敵の側からすれば、「国家の存続」と「良俗」

の関係などそもそも論じたことがないのであるから、「否定しようという のでしょうか。」と問われてもまともに答えようがないであろう。

 なお、ルソーは論点をすり替えるだけでなく、返す刀で論敵を非難する ことも忘れていない。「奢侈禁止令の必要性を忘れた」とルソーは言う。

たしかに、マンデヴィル、ムロン、ヴォルテールらが奢侈禁止令について 積極的に論じることはなかった。しかし、それは、「忘れた」からではない。

最初から論じる必要がなかったからである。事実、18世紀のフランスにお いて奢侈禁止令はすでに前世紀の遺物と化していた。最後に発令されたの

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はいちおう18世紀の初頭(1720年)であるが、その対象はダイヤモンド指 輪のみであり、時の権力者たちも禁止令に効力があるとは信じていなかっ た22。また、奢侈批判派から「奢侈禁止令の必要性」が叫ばれたのも前世 紀のフェヌロンが最後である。今さら「奢侈禁止令の必要性」を論じても 時代錯誤の感は否めなかったであろう。つまり、ルソーは論じる必然性が なくなったものを論敵が「忘れた」とことさらに非難しているのである。

 次に、(b)=反論⑨に対するルソーの反駁を見てみよう。「奢侈は富の 確実なしるしであり、もしそうしようと思うならば、富を増やすことに役 立ちさえする」という(b)=反論⑨の論点が経済にあることを思い起こ されたい。

    奢侈は富の確実なしるしであり、もしそうしようと思うならば、富 を増やすことに役立ちさえするという、私たちの時代から生まれるの にふさわしい逆説から、いかなる結論を引き出すべきなのでしょうか。

そして、たとえどんな犠牲を払っても金持ちにならなければいけない としたら、いったい徳はどうなってしまうのでしょうか。

 ルソーは二つの問いを読者に投げかけている。一つ目の問いは、論敵の 弄する「逆説からいかなる結論を引き出すべきなのでしょうか」という問 いである。ただし、ルソーは本当に問いの答えを求めているわけではない。

それは、「いったい徳はどうなってしまうのでしょうか」という第二の問 いについても同様である。両者ともに形式上は疑問文であるが、実際には 強い断定に他ならない。つまり、両者は修辞的疑問文である。ただし、第 一の問いと第二の問いは同じ修辞的疑問文でも、その目的は根本的に異な る。第一の問いの目的は、読者の賛成を想定し、論敵の議論に終止符を打 22  Viguerie[2007], p. 1139.

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つことにある。第二の問いの目的は、読者に返答の余地を与えることなく、

自分の議論を開始することにある。つまり、第一の問いの場合、論敵の「逆 説」はあまりに常識外れなのでまともな「結論」を「引き出す」ことはで きない、というのが問いに対する答えであり、それを読者が受け入れてく れることを想定し、期待している。それに対し、第二の問いの場合は、「徳」

(vertu)は滅びる、そして、各市民における「徳」の維持が国家の命運を 左右する以上、国家もまた滅びる、というのが問いに対する答えである。

しかし、読者自身がその答えを出すことはまったく求められていない。そ の答えを出し、「現代の政治家」と「かつての政治家」や「シュバリス人」

と「スパルタ人」といった具体例によって説明をするのはルソーの役割な のだ。ここで、注意したいのは、第二の問いに対する回答として述べられ た「徳」の問題が経済とは何の関係もないことである。つまり、ルソーは 経済の観点から奢侈を論じることはせず、「徳」の維持の問題という別の 問題に論点をすり替えているのである。

論点のすり替え(3) ―― 「定義からの議論」、「排中律からの議論」、「方 向性からの議論」

 第2部第6パラグラフの分析は以上で終わりにして、他のパラグラフに も目を向けてみよう。論点をすり替えるためにルソーが用いたレトリック は他にもまだある。その中でも、「定義からの議論」(argument par la  définition)は見逃せない。この論法についてはさまざまな説明がなされ ているが、香西秀信の定義が最も明快である。「定義からの議論とは、議 論の対象となる「もの」の性質を、議論の必要とする限りにおいて指摘し て、自らの主張の根拠とする議論の型を意味する23。」第2部第8パラグ ラフの冒頭部分はこの定義の具体例である。

23  香西秀信:『議論の技を学ぶ論法集』 明治図書 1996年 p. 20.

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    奢侈が問題になるとき、はたして何が問われているのでしょうか。

それは、輝しいが短命であるのと、有徳であり長命であるのとどちら が国家にとって大事なのかを知ることです。(O.C. I, p. 20.)

 「奢侈が問題になるとき、はたして何が問われているのでしょうか。」と ルソーは問う。しかし、奢侈擁護派にしてみれば、その答えはとうに出て いる。一国の政治または経済あるいはその両方が「問われている」のであ る。もちろん、論敵によって答えがすでに出されていること、さらには、

それが広く受け入れられていることはルソーも知っている。では、なぜ、「は たして何が問われているのでしょうか。」と問題をほじくり返しているの だろうか。それは、奢侈問題の本質を自分の「議論の必要とする限りにお いて指摘」するためである。奢侈問題の本質は、論敵によれば、政治・経 済の領域に属する。しかし、ルソーとしては、それを認めたくない。そこ で、論争を最初から仕切り直し、改めて奢侈問題の本質を定義し直す必要 がある。もちろん、その新たな定義は、自分の議論に有利なようになされ る。「議論の対象となる「もの」の性質を、議論の必要とする限りにおい て指摘」するとはそのような意味である。実際、ルソーは自らの問いに対 して、「それは、輝しいが短命であるのと、有徳であり長命であるのとど ちらが国家にとって大事なのかを知ることです。」と答えている。つまり、

「有徳」(vertueux)の1語が示すように、奢侈問題の「性質」は政治・経 済ではなく「徳」(より一般的には習俗)の領域に属すると「指摘」して いるのである。この「徳」こそがルソーにとって最も大切な価値観である ことは言うまでもない。

 では、ルソーは自らの「定義」をどのように「主張の根拠」としている だろうか。それは、「排中律からの議論」(argument du tiers exclu)を活

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用することによってである。この論法について、『修辞と議論法』の著者ジャ ン=ジャック・ロブリューは以下のように説明している。

    排中律からの議論とは、立場や政治路線が二つあるとき、そして、

二つしかないことが明らかに認められるとき、どちらにも味方しない 者の一貫性の欠如を暴く論法である。言い換えると、両立不可能と定 義された両極の間には中間的な立場のための場所は一切ない24

 若干の補足説明をしたい。ロブリューは、「立場」や「政治路線」など について選べる選択肢が「二つしかないことが明らかに認められるとき」

と述べている。しかし、より正確には、選択肢が二つしかないように「認 められる」のではなく、そのように見せられているのである。「中間的な 立場」すなわち第三の選択肢があるかもしれないのに、それが隠されてい るのだ。たとえば、新型コロナウィルスについて、「感染予防か経済活動か」

という二者択一を求められたとしよう。これは、「排中律からの議論」の 典型例である。第三の道(感染予防をしながら経済活動を続ける)の可能 性があらかじめ封じられているからだ。ルソーに戻れば、「それは、輝し いが短命であるのと、有徳であり長命であるのとどちらが国家にとって大 事なのかを知ることです。」と読者に迫っている。しかし、これでは選択 の幅が不条理なまでに狭められている。ルソーによれば、国家には 「輝 かしいが短命である」国家と「有徳であり長命である」国家の二つしかな いことになる。しかし、輝かしくて長命な国家という第三の選択肢は考え られないだろうか。

 指摘すべき点は他にもある。そもそも、「輝かしいが短命」と「有徳で あり長命」では比較になっていない。「短命」よりも「長命」なほうが「国 24  Jean-Jacques Robrieux, Rhétorique et argumentation, Nathan, 2000, p. 158.

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家にとって大事」なのは明らかであろう。もちろん、ルソー自身もそのよ うに考えている。しかし、ルソーはそれを自分の主張として読者に述べる ことはしない。あくまで疑問文における選択肢の一つとして示しているに すぎない。ただ、それはあくまで偽装された主張であり、表向きは一つの 選択肢だが、実体はルソーの主張に他ならない。

 最後に、第2部第9パラグラフも見てみよう。ルソーは習俗と奢侈の関 係を次のように論じている。

    奢侈の必然的な結果である習俗の頽廃は次に趣味の腐敗をもたらし ます。卓越した才能をもった人々のうちで、たまたま強い魂を持った がゆえに、時代の精神におもねったり、幼稚な作品によって自らの品 位を下げることを拒否するような人がいるとしたら、その人はなんと 不幸な人でしょう。貧苦のうちに忘れられて死ぬことになるでしょう。

(O.C. I, p. 21.)

 ここでルソーが展開している議論は、「方向性からの議論」(argument  de la direction)と呼ばれる25。再度、ロブリューの定義を引いてみよう。「方 向性からの議論とは、すでに行われたこと、あるいは譲歩したことが拡大 適用によって、危険なやり方で最後まで導かれる危険性が高いと述べるこ とである26。」つまり、最初にあることを認めてしまうと、それが他のこ とにも「拡大適用」される。そして、いつの間にか負の連鎖に巻き込まれ てしまい、そこから抜け出せなくなる。だから、最初の一歩を選択すべき ではないという論法である。ルソーの議論を分解して示せば、以下のよう 25  あるいは、「歯車の中の指議論」(argument du doigt dans l’engrenage)、「死の坂の 議論」(argument de la pente fatale)、「滑りやすい坂の議論」(argument de la pente  savonneuse)などの名称もある。

26  Robrieux, op.cit., p. 185.

(21)

になる。

  奢侈が流行する。(①)

  →その結果、習俗が頽廃する。(②)

  →その結果、趣味が腐敗する。(③)

  →その結果、時代に迎合しない芸術家は悲惨な死を迎える。(④)

  →だから、奢侈の流行を認めるべきではない。(⑤)

 ルソーによれば、ひとたび①を認めてしまえば、負の連鎖に巻き込まれ、

ついには④を認めることになる。たしかに、Aという事象とBという事象 を因果関係によって論じること自体は妥当な議論の進め方である。しかし、

二つの理由によって、ルソーの議論は虚偽(raisonnement fallacieux)に 陥っている。第一に、AがBの原因となる理由(=BがAの結果となる理由)

が不明確である場合には「方向性からの議論」は虚偽と見なされる。習俗 の頽廃が原因となり趣味が腐敗する理由(②→③)については前のパラグ ラフにおいて詳述されている。また、③→④→⑤の因果関係も明快である。

しかし、奢侈の流行が原因となり習俗が頽廃する理由(①→②)について はどうだろうか。肝心要の部分についての論証がなされていないのではな いか。第二に、ルソーは、「先決問題要求の虚偽」(pétition de principe) 

―― 最初に論証すべき命題を自明の前提としたまま結論を出す虚偽 ――

を犯している。つまり、奢侈は習俗を頽廃させる、という前提が論証され ていなければ、奢侈の流行を認めるべきではないという結論を導き出すこ とはできない。

 しかし、実は、これらの不備をルソーは巧みに隠している。「奢侈の必 然的な結果である習俗の頽廃」は、原文では、 «la dissolution des mœurs,  suite nécessaire du luxe»であり、直訳すれば、「習俗の頽廃、奢侈の必然

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的な結果」となる。つまり、「A(名詞句),B(名詞句)」という二つの名 詞句を並置する同格構文であり、「AすなわちB」の関係が成り立つ。「習 俗の頽廃、すなわち奢侈の必然的な結果」なのである。両者は、本来なら まったく性質を異にする二つの名詞句である。しかし、これらが同格的に 並置されることによって、両者の間にあたかも自明のイコール関係が成り 立っているように感じられてしまうのだ。表現技巧の勝利であろう。

結論 ―― すり替えをすり替える

 奢侈批判派の主張と比べて、ルソーの主張は何が同じで、何が違ってい たのだろうか。まず、ルソーは批判派の主張⑥(奢侈は、原罪から生じた 虚栄心の表れである。)を踏襲していた。ルソーに独創性があるとすれば、

それは、学問と技芸と同じく、奢侈は「無為」から生まれると主張したこ とであろう。しかし、それは論証をまったく欠いている。「奢侈は良俗に真っ 向から対立する」という主張についても同様である。また、批判派の主張

④(奢侈は「勇気を失わせる」。)と⑤(奢侈は「名誉と祖国愛の感情を消 滅させる」。)についても、「日々の暮らしに便利な品々が増え、職人の技 術に磨きがかり、奢侈な生活が広がるにつれ、真の勇気は衰え、武人の徳 は消えていきました。」(O.C. I, p. 21.)と述べるに留まっている27。つまり、

『学問芸術論』に限って言うならば、批判派による従来の主張にルソーが 何か新たな見解を説得的な形で付け加えたとは言いがたい。奢侈批判のた めにルソーが貢献したとすれば、それは奢侈擁護派に対する反駁によって である。

 まず、ルソーは、擁護派のいかなる反論に反駁していたか。以下の二つ である。1.奢侈は「国力と国民の幸福をひとしく増大させる」。2.奢 27  ただし、⑦を除く他の主張は、『学問芸術論』以後に書かれた反論文の中で発展的に

利用されている。この点については稿を改めたい。

(23)

侈は富者の労働意欲を出させるための刺激となる。では、これらの反論に 対し、どのようにして反駁していたか。それは、政治・経済の観点に立つ 論敵の論点を回避し、習俗(または徳)という別の観点に立つ論点(つま り自分の得意とする論点)にすり替えることによってである。そのために 活用されたのが、装飾の道具ではなく、説得の手段としてのレトリックで あった。パトス(感情)による説得、修辞的疑問文、「定義からの議論」、「排 中律からの議論」、「方向性からの議論」 ――  これらすべての文彩と論法 は論点をすり替えるために用いられた。

 論点のすり替え、すなわち自分の有利な方向へと議論の争点を移行させ ること。これ自体は定番の論争手段である。定番であるのは、それが論争 に勝つための手段として有効だからに他ならない。論点のすり替えを単な る詭弁と片づけることはできないであろう。そのやり方があまりに鮮やか なとき、それはもはや論点の「すり替え」ではない。「変更」と呼ぶべき であろう。

文献目録

* 以下の文献は奢侈論争について、本稿執筆のために参照した二次文献に 限られる。

Delon,  Michel, (sous  la  dir.  de),  Dictionnaire européen des Lumières,  Presses  Universitaires de France, 1997, l’article «Luxe», p. 762-765.

Diemer,  Arnaud,  «Quand  le  luxe  devient  une  question  économique  :  retour  sur  la  querelle du luxe du 18e siècle», innovations, 2013/2, no 41, p. 9-27.

Galliani, Renato, Rousseau, le luxe et l’idéologie nobiliaire, Studies on Voltaire and the  Eighteenth century, 268, 1989.

Gouletmot, Jean, Magnan, André, Masseau, Didier, (sous la dir. de), Inventaire Voltaire,  Quarto Gallimard, 1995, l’article «Luxe», p. 867-870.

Horne, Thomas A., The Social Thought of Bernard Mandeville, Virtue and Commerce in Early Eighteenth-Century England, the Macmillan Presse, 1978.(山口正春訳:

『バーナード・マンデヴィルの社会思想――18世紀初期の英国における徳と商業』 

八千代出版 1990年.)

(24)

Lovejoy,  Arthur  O.,  Boas,  George,  Primitivism and Related Ideas in Antiquity,  Baltimore, 1935.

Morize, André, L’apologie du luxe au XVIIIe siècle et «Le mondain» de Voltaire. étude critique sur Le mondain et ses sources, H. Didier, 1909.

Trousson, Raymond, Eigeldinger Frédéric, (sous la dir. de), Dictionnaire de Jean-Jacques Rousseau, Honoré Champion, 1996, l’article «Luxe», p. 566-568. 

Viguerie, Jean de, Histoire et dictionnaire du temps des Lumières 1715-1789, Éditions  Robert Laffont, 2007, l’article «Luxe», p. 1139-1140. 

川出良枝:『貴族の徳、商業の精神  モンテスキューと専制批判の系譜』 東京大学出版  1996年 2018年.

森村敏己:『名誉と快楽 エルヴェシスの功利主義』 法政大学出版局 1993年. 

米田昇平:『欲求と秩序 18世紀フランス経済学の展開』 昭和堂 2005年.

参照

関連したドキュメント

« Bibliothèque de la Pléiade », 1963 ; Emile Zola, Œuvres complètes, édition établie sous la direction d’ Henri Mitterand, Paris, Cercle du Livre Précieux,

⑺ «Caligula, version de 1941», in Albert Camus, Œuvres complètes I, 1931-1944, Gallimard, «Bibliothèque de la Pléiade», 2006, p.389..

4 ) André Malraux, La Voie royale, in Œuvres complètes, t.I, Gallimard, « Bibliothèque de la Pléiade », 1989(初出は La Voie royale, Éditions Bernard

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1. André Malraux, Le Temps du mépris ( abrégé, TM ) , in Œuvres complètes, t.1 ( Paris : Éditions Gallimard, « Bibliothèque de la Pléiade », 1989, 1 ère