九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
後鳥羽院の御文學
小島, 吉雄
https://doi.org/10.15017/2556634
出版情報:文學研究. 25, pp.127-148, 1939-06-30. The Kyushu Literary Society バージョン:
権利関係:
’
本年は丁度後鳥羽院登遼後七百年に州當するので︑わたくしは︑此の機會に於てその御文學を通じて御聖徳を偲び
奉らうと思ふ︒
後鳥羽院が英逃の君でいらせられたことは︑今更こkに︑改めて申述べるまでもないことであるが︑その深く蔵く渡
らせられた御趣味の中に︑和歌連歌の逆も数へられ︑而も院はその方面に特に御堪能でましましたことは︑われノー
文學に携はるものにとって︑まことに布難いことの極みである︒
後鳥荊院の御作歌生活は︑いつ頃からはじまってゐるか︑正確な日時は分らないけれども︑院の御歌歴を伺ひ奉る
に︑わたくしの知り得る範剛では︑正治二年七月の御歌合歌が御製の妓初であるから︑從って︑院の御作歌は︑御識
位以後にはじまり︑それも御譲位の御慌しい裡邪分の漸く落荒き給ひ御心のゆとりを得ましました正治年代に入って
からのことk推定申し上げて大過なからうと老へられる︒どういふ機縁で歌の道に入らせ給うたか︑これまた不明な
のであるが︑作歌は誌時の宮廷生活のH術には必ず随伴してゐるものであったし︑また︑上皇の仲祁源迦親も和歌愛
好家であったから︑その方から御棚め申し上げたといふやうなこともあったであらう︒正治院初度間肯歌を柑時の有
後鳥羽院の御文學一二七︵二一○一二﹀ 後烏羽院の御文學
判
小
皀四士ロ
雄
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丈騨研究姉二十五岬ご一人︵三○一三︶
力歌人から判させ給ふ御企てが鋤に川年の七月中旬からあったのであるが︑明月記によれば︑その斡旋を辿籾がして
ゐると老へられるから︑右のやうな臆測も可能となるのである︒・・
さて︑後冊羽院御集を拝見すると︑此の正治二年七月には︑十八日に御歌合が行はれてゐる他に︑日附は不明であ
るが︑北而歌合も催されてをり︑且つ又︑明月記の記事によると︑百首歌葬雌の御汁謎も進められてゐるo八川朔に
は新宮御歌令︑綾いてその下旬には院初度百竹狄の御製作︑九月には︑再度の百竹湫の他に十竹歌を諦家から御され
たり歌令を相絨いて催さしめ給うたりしてゐる︒十月には十・一日に新宮御歌合を催さしめ給ひ︑翌十二日には通親邸
影供歌合に臨幸︑藤原俊成の判の詞を間し召してゐる︒十一月にも七日に新窩御湫令を︑八日には通親邸の歌愈に臨
御遊ばしてゐる︒冊二日には御製のⅣ竹欣を御披鰐遊ぱしてゐる︒かくて︑建仁元久年川にかけて︑上皇の御生派中
鮫も和歌に御熱心だった時代が綾くのである︒正流二年と言へば︑紀元千八Hハ十年︑西暦では丁度千二百年に机術
り︑後鳥羽上皇喪算御二十一歳にあらせられる︒
一柵︑此の正治二年八月撰進の院初度百首歌は︑上皇の御湫歴に於ても︑また微時の歌塑にとっても︑荊期的な雌
しであって︑和歌史的に見ても亦極めて亜大な意義を有するものであった︒わたくしは︑嘗て文學研究第五鮴の拙稲
﹁新古今染の撰集態度と樅集事業﹂に於て巾述べておいたやうに︑新古今雌の拙某を生むべき蕪邇は此の正治院百首に
その端を發してゐると信じてゐるのであるが︑特に注意すべきは︑此の百首歌を機縁として︑後鳥羽院中心の湫塊が
形勢せられるやうになったことである︒
周知の如く︑明川記の記事によれば︑藤原定家や藤脈家隆は妓初の豫定では此の百杵欣の作者の中に入れられてゐ
−
なかったのであるが︑藤原俊成の仮名餐壯によって︑勅命を以て作春中に召し加へられたのである︒定家等を作粁中
に加へまいとしたのは源通親である︒迩親をしてさういふ方針を堅持せしめたのは︑藤原季經一派の献策であった︒.︾
術時の歌亜は二大勢力に分れてゐた︒六條藤原家系と御子左家系とである︒季經嶬ハ條藤原家の一人である︒定家は
御子左家の嫡流である︒藤原俊成は己に常時にあっては歌界の第一人考として我れ人ともに推服するところとなって
ゐた︒.しかし︑その子の定家や弟子の家隆等は一部の人糞には︑その歌才が認められてゐたであらうが︑一般的名醗
は未だしかったのである︒六條家の季經等は︑その歌才はそれ程でもなかったが︑父祁代糞の門閥の故を以て名家と
℃℃
日されてゐる︒明川記の記事によると︑涯力なくしてのさばってゐる此の連中を定家は不快に思ってゐる︒祀治二年Ⅲ月六日の條に︑定家が季經の判者たる歌・合に歌を出すのを不快なりとして僻退したら︑季經の方では生意氣だ上|い
ふわけで定家に對して慨慨してゐるといふことが出てゐる︒定家と季經とは︑かやうにして仲が悪いのである︒九條
披疵は︑初め清輔に歌を學んでゐたが︑その斑後︑俊成に師弟の脚を執った︒さういふ關係上︑九條宗の歌禽には︑
六條家の歌人も御子左家の歌人も出席する︒しかし︑縦遊の息良經を中心とする歌獅には︑漸次︑六條派の影が沌く
なり︑定家等の勢力が伸張して来る︒これは︑一つには俊成の勢力が定家等の後柵となってゐるのと︑も一つは定家
等の武力が優秀であつたのとによるのであるが︑九條家歌称で雌迫せられた六條派歌人は︑源迦親をたよってその政
治的庇誕を求めた︒そこで︑・戸一の正治百首に際しては︑定家仙人に對する反感と︑流祇に對する對抗心とで︑季經三
波の定家等排斥運動が現れたらしいのである︒しかし︑前述したやうに︑俊成の奏状によって︑季經等の希望に反し
て︑定家等が川へられた︒而も︑その奉献した百汁湫が大いに叡応にかなひ︑即n院御所へ昇殿を聡された︒つま
後鳥羽院の御丈継二一九︵三○三三
トL1111
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ⅢⅡⅡⅡⅡⅢⅡⅢWM0IIi別ⅢⅡMl■■■■■■■■■ロ一一■二郎■■■IIIIiⅢⅡ梱Ⅱ川Ⅵ︐︑lIjlIll伽ⅡⅥⅢ創肌Ⅲ田町I
文礫研究錐二十五純三一○二︸○二四︶
り︑これを機縁として︑定家たちは院御所の歌禽に常連として召し川されることAなったのである︒そして︑後胤調
院御中心の歌城が形勢せられるや︑その有力な一員となったのである︒ところが︑後鳥羽院の御發企で︑建仁元年六
月千五百番歌合百首を諸家から徴せられた︒これは柑時の歌界總動員の朧事であった︒そして︑此の時︑定家等の歌
に佳作が多く︑またその判詞にもすぐれた批判鑑伐が見られたので︑それらの軸が院の御意に召して︑と山に同年十
一川和歌所が設立せられ︑寄人の選任には季經一派は全然その巾に加へられなかったのである︒季維等は言は営奮派
であるo定家等は現代式に言へぱゆ新興派である︒千五百恭湫合は新興派の勝利に肺し︑和歌所存人は殆ど新興派系
歌人によって︑占められたといふことになるのである︒
新興派歌人は建久初年から九條良維を中心にして一つの集剛を形勢してゐた︒もちろん︑これは大半が俊成系歌人
である︒此の俊成系新典歌人は正治百杵によって後鳥羽院にその力並を認められた︒後烏湘院はその御好みに從はせ
給うて︑俊成系新興歌人を以て︑院御中心の歌塊を組織し給うたのである︒新興歌人群をリードするものは.藤原良
經と藤腺定家とであった︒此の二人にリードせられた新興勢力が後鳥舸院の周囲にあつまる新進歌人逹にはたらきか
けて︑新しい時代風潮が戯成せられて行った︒所訓新古今歌風の時代が即ちそれである︒
新古今集椛進の勅命は︑建仁元年十一月三日に下り︑和歌所寄人中の六人の者に古今の秀歌を選逃す今へしと仰せ出
され︑愈良新古今和歌集編纂の事業が始まったのである︒
﹁新古今和歌集の腿集態度と撰集事業﹂といふ一文中に巾述等へた如く︑新古今集は後鳥羽院の御親撰である︒文字ど
ほりの御親撰である︒材料は各五人の選者から奉らしめられたが︑その材料を上皇御親ら選び分け給ひ︑そのお選び
−
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1 M 項 1 1
になった歌を呼び和歌所へお下げ渡しになって所洲部如を勅命せられたのである︒御選歌時代の御熱心なる御株子に
ついては家長日記にくはしく述書へられてゐる︒醐機のまつりごとをもさしおかせられて此の事にのみ御波弧遊ぱした
のである︒
さて︑部熱に於ても︑その根本方針は上皇の忠召しによってとり︑拙村たちは唯その忠召しを慨し事務的な仕事にた
づさはるのみであった︒こまかしい老勘のこと︑僻へぱ作春名の川述ひとか.題詞の不統一とかいふ場合にこれを訂
正することは︑樅村の椛限に脇してゐたのであるが︑部類上の方針とか歌の配列順序とか相似た歌のあった場合に何
れを採り何れを乗つるかといふやうな大切なことは二上皇の勅裁を仰いだのである︒元久二年三月六日に新古今の
大冊の形が川來上ったが.更に粘撰を期するために︑川訂が加へられた︒柵ふ所の切繼がそれである︒切繼には一︑
僻裁上の繋頓︑一.一︑歌の精撰︑の二錠がある︒そして︑切繼の内容には︑一︑上里の叡胞によるもの︑二︑膝脈良經の
要求によるもの︑三︑撰考の意見によるものk三種があり︑良經の要求によるものはその数少人︑明川記によれば三
例しかなく︑そのうち一例は後鳥羽上里との御合議によるものであった︒槐考の意見によるものは︑矢眠り雌の朏裁
に棚するもので︑部類事業の延踵的性庇のものであった︒切繼の大半は後冊調院の叡胆によるもので︑歌の取播と歌
の順序の鍵史が主たるものであった︒新古今集の序文に批訓してゐるやうに︑上皇の親拙といふととは古來稀有のこ
とであって︑後鳥羽院の和歌に對する御熱心のほどもこれを以て拝察川来るのである︒流人の撰者は全く此の親撰事
業の助手たるに過ぎなかった︒
然らば︑何故に上皇がかく親撰の翠に川で給うたかといふことを拝察してみると︑それは御治世の目川度かつたこ
後鳥調院の御丈學二三言一○二五︶ ilIl
文︐貯學研究雛二十五鮴三一三︵三○一二◇
とを此の集によって後の祉に僻へられむがためであったらうと恩はれる︒元来︑代凌の勅樅集はその本旨が聖代識歌の
象徴たらしめるにあった︒新古今難の場合も︑御治世を後代の閏民が延蒋天雁の聖代に比肩して識歌するやうにとの
叡応のもとに撰集せしめ給うたらしいことは︑その序文からでも感得致し得るのである︒その編纂柵裁の上に︑古
今︑後撰耐集に學ぱせられた熱の多いのもその御本意の一顯現であったのであらう︒つまり︑︑此の集は︑聖代の象徴
であらしめたいとの御念願に出てゐるのである︒從って︑此の楽をよくするためには︑異常なる御熱附を佃けさせ給ふ
のである︒今日判明してゐるだけでも︑元久二年から承元川年まで切繼だけEハ年の長年月を税し給うてゐる︒而も
その後︑隠岐進幸の御後へ更にその改編を恩召した型せられ︑所柵幟岐御選抄を試みさせられてゐるが︑それも矢張
り︑院の御切繼緒川の一つのあらはれであって︑その御執心に感激し奉る次卵である︒
暇岐木御概定の御H的は︑その御跳文によれば︑一に集の粘撰を期したまふ御心と︑二に院の御諏退の御心とより
川てゐる︒染の粘撰を期したまふ御心は︑一つは雌中の劣作を除くことと︑叉︑雌の柵裁の上から除く方が統一的有
機的感じを保つによろしいと老へられた歌を除くこととに表はれた︒また院の御誰退の御心は院御自身の御製の数を
減じたまふ御心となってあらはれた︒その詳細なことは︑九大剛文學節一號所禍の拙稲﹁隠岐本新古今和歌雌と久原
本﹂といふのを赤られたい︒要するに︑隠岐本に於て後鳥羽院の選びすてられた歌は︑愚見では︑・
一︑本歌取りの拙い歌
二︑趣向の陳礎にして常套的な歌︑若しくは同趣向の歌
三︑題意の充分生かされてゐ・ない歌
I
−1
川︑歌訓や意味の上から受柑を炊く川語の欲
五︑歌訓に暢逹優艶美を継ぐ歌
六︑聯想美をもたない歌
・七︑峨答歌の贈の歌の除かれたための返し歌
一八︑形式川語の華肥に流れて溌感の興睡性に典づけられてゐない歌
九︑過去の勅撰集に既收の歌
の何れかに脇してゐるやうに︑質るのである︒隠岐木に於ては︑各巻の巻頭歌は︑たとへその中に御鋪に召さぬ歌が
あっても︑脈の序文を生かすために.且つ脈総裁・莚仙するをおそれて︑少しも御手を鯛れたまうてゐないのである
が︑過去の勅撰集所收歌の亜川を除棄せられたのと併せ老へる時︑曲一両の如く此の御槻抄が從來の御切繼事業の繼綴
であるといふことは明かである︒
かやうに御考察申上げてくると︑派喧一年の御百荷歌の御樅し以来︑後鳥舸院の文學的御志が専ら新古今難の編纂
とその糀撰とに同はせられてゐるといふことが巾し上げられる︒承久の役前後数年は︑文献の上では院は新古今集か
ら遠ざからせられてゐるやうにお里堂け申し上げられるのであるが︑その数年Ⅲを除いて︑院はその御生涯の大半逓
新古今柴と共にせさせ給うてゐると巾し上げ三一.Mひ過ぎではないのである︒
岐初新古今化あ細筆を恩し立たせ給うた時は︑この集のために斯く御生涯をかけさせられようとは︑御親らも恩召
してゐなかったであらうと拝察巾し上げる︒此の細纂を御畢生の御事業とし給ふ御攝悟のもとに御企荊遊ぱしたのな
後鳥羽院の御文學三三︵三○二七︶ 11
I
! 丈醸研究鱗二十五鮴二一凹︵三○一天︶
らぱ︑その成功を塒に収急がせ給ひ︑まだ浦書も先全に出来上ってゐないのに党要を急ぎ取行はせられるといふやう
なことは無かったであらうとわたくしには老へられるからである︒恭し︑何事にでも︑たとへぱ假初の趣味事にでも
心魂を打込んで熱窓ある反劒な態度と示し︑物事を徹底せしめねば止まぬといふのが︑後鳥羽院の御本性であらせら
れるらしく︑この御本性のゆゑに︑一度︑新古今集の樅雌に從はせ給ふや︑遂にこれを畢生の御事業と遊ばすに至っ
たのである︒巾だくしには︑此の撰集事業症通じてだけでも︑その御性格を欽仰し奉ることが川来るやうに恩へるの
であるO
元来︑後鳥羽院の和歌に對する叡胆を伺ひ得る纒まったものとては︑後烏羽院抑口体があるのみである︒その他の
ものには︑千五百番歌合︑水無湘釣殿術座六打歌合︑述島御歌合等の御勅判︑並に新古今集が幾分参考となるのであ
るが︑千五百恭歌合の御判詞は︑御歌と以てし給うてゐるので︑御意見の詳細なことは伺ふことが川来ない︒また︑
水無瀬釣殿六汁歌・合は︑藤原定家の歌と御製とを番はさせられて︑それに勅判を下し給うたので︑その御判詞には非
柑に御派退の御氣持があらはれてゐて︑御逹胆勝ちであり︑不愉に御製を唯めて定家の歌を鐡揚したまふ伽きがあっ
て︑從って此の湫合の御判詞からは上皇の御反意を伺ひ奉るのに困難を感じるのである︒だが︑これらを通じて︑大
冊どういふ歌を好ませたまひ︑如何なる歌を御好みにならないかといふことだけは︑お察し巾上げることが川来る︒
また新古今集は御親撰であるから︑これを以て院の御選歌伽向を推定巾しあげることが可能であり$殊に切入歌や應
岐本は御好尚の程を鮫・も具僻的に示してをるし︑また︑遠島御歌介は詳細に御晩年の御好尚を物語ってくれる︒され
ば︑と収らの諾の養料を通じて巾し上げられることは︑襟て賑岐木新古今和歌集に就いて論じた際にも述べたことであ
−
つたが︑後鳥羽院の和歌に對する御好術は︑隠岐進幸以前と以後とでは妙からぬ愛化を來してゐるといふことであ
る︒僅雌純美の歌調をもち︑清新で複雑な怖趣美と柵美な感傷性とをそなへた品位ある歌を御理想と遊ぱしたこと
は︑前後一批してゐるので︑たとへぱ︑千五百恭歌合に︑
︑いづれともみえいまがきの月影を匂ひにぞわくきくの白螺
の歌を負とし︑
朝ぼらけまきのを山に霧こめてうぢの川をさ舟ょぱふなり
を勝とし給ひ︑また
谷の戸はまだ明けやらぬ霧のうちに川づる朝日は影たけにけり
を勝として︑︑
花も鰐もいかに心をくだけとて秋は野分の吹きはじめけむ
を負とし給ふが如き︑細じて︑榔念的説明歌よりも具象的怖趣美に耐んだ歌を佳しとしたまふ側向がある︒また︑た
とへぱ︑.秋からの月の光か露ゆゑの秋のあはれかいかにながめむ
を負とし︑
.いかなれば種にきえしかりがねは月の秋しも契りおきけむ
を勝とし給ひ︑また
後鳥羽院の御文學一三五︵三○二九︶ ■■■■■■■111ⅡIi●i
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文︲架・肝究︾姉二十五岬一三六︵三○三○︶
むかしみし川はあはれやまさりけむ而彩にさへぬるる袖哉
を負とし︑
秋瓜をくるるよごとに身にしめてたのめぬたれを松虫のこゑ
を勝とし総ふやうなのは︑すなはち︑表現趣向の清新Ⅲつ優艶な歌を好ませられた一例であり︑その外︑
狼のうつ王の汕わのあら磯に光をくだくよはの〃かな
といふ公繼卿の歌とゞ
川をのみ伏見のさとの秋の葬松風ならでとふ人もなし
といふ俊成卿女の歌と︑何れも具象性をそなへた歌であるが︑而も俊成川女の歌に耶配をあげられたのは︑これは表
現の巧みとか調べの流瀝とかいふためではなくして︑恐らくその歌境の哀れ深さ杼怖味の蝿かさに心惹かれ給うた故
とわたくしは拝察する︒そのやうな例は︑
ながむるに伽く月ぞうらめしき我はかくこそいりもやら取れ
︲心なき身をさへさらにをしむ哉なにはわたりの秋の夕ぐれ
2−背のうちへ後粁を以て勝とせられたのにもまた何ふことが川來よう︒西行法師や藤原俊成の歌に剛禰に見川すこ
との川来る︑ほの#い感傷性洋一後鳥羽院はすべての歌に覚められたのである︒また︑調べの流歴で品位のあるといふ
ことをまた非幡に大切に遊ぱしてゐたことは︑前掲の勝と判じ総うた歌に調べの高い流雁な歌の多いとルーによっても
拝察出来るわけで︑かやうに︑乏しき登料ながら︑千五百恭歌合の御勅判の中から考察し奉っただけでも︑御好みの
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歌が︑優雅流歴の歌訓をもち清新にして怖趣美鳫︑み而も感傷的打怖的な魅力をもった歌であったといふ絲諭に到着
し得るのであるが︑逵烏御歌合を拝見しても︑矢張り此の御好尚は随庭に指摘巾しあげることが川來る︒つまり︑新古
今集は︑さういふ後鳥羽院好みの歌が多く雌めら勉亡ゐると見る尋へきである︒しかし︑前期に於ては︑術代の風潮た
る定家等の具象的官能的表現法をも御認容遊ばされて︑その影郷によって韮脆幽艶な官能美の歌をもお作りになって
をるし︑また︑新古今集にもさういふ歌と紗からず切入れてお出でになる︒但し︑さういふ歌には︑兎角技巧中心の
室想的歌が多くて︑内容が比較的塞眺である故︑抑晩年の上皇には︑その華やかな装ひだけがお目に立つのである︒
遠島御歌合の御判詞によると︑上皇は前代未聞の御慨嶮によって︑涯感の歌を愛し︑花やかな装ひの歌を好ませられ
ぬやうになってお出でになる◎たとへぱ︑速烏御歌合七十三番︑
左女房
珊はあれて誰かみなせの桁の月過ぎにしままの色やさびしき
右家隆
さぴしさはまだ見ぬ舟の川里を忠ひやるにも住むここちして
左右ともに︑おもひやりたる川の家に侍るを︑いまだ見ぬを川心ひやらむよりは︑とし久しく見ておもひ出でむ
は︑今すこし心ざしもふかかる︒へければ︑相榊へて一番は左の勝と申すべし︒
とあるo左の作者に女房とあるは院の御膳名で︑この御歌は水無瀬離宮での昔側の御生活を御回職遊ばされての御製
であり︑右の家隆のは雁岐の御生祈を偲び奉っての落涙である︒後鳥羽院の御判詞は︑まだ見ぬ應岐の冊住みを忠ひ
後烏調院の御文継一三七︵三○一三︶
文班研究姉二十五岬言え︵三○一三一︶
やるよりは︑汁住んでゐた水無棚の宵を偲ぶ懐奮の心の方が遥かに感動が深いから︑左の歌を以て勝とすると仰せら
れてゐるのであって︑此の御判詞を和歌一般に押しひろめて班解し奉れば︑想像の歌よりも盃感の歌の方が歌として
眠い感動を典へ得るものであるといふことを御主張遊ぱしてゐると解し奉ることが川来る︒そして︑また︑たとへ
ぱ︑ 左侍從隆耐
朝日影まだいでやらぬあしぴきの川は世の色ぞうつるふ
右下野
山ひめの世の袖も紅にひかりそへたるあさ日かげかな
の御判訶に︑
左歌させる難なし︒右歌かすみの袖も紅に光そへたる朝日影︑あまりはなやかに州ゆるにや︒左うるはしく兇
ゆれば︑勝とすべし︒
と仰せられ︑右歌の表現が花やかにすぎると非難せられてゐるが︑これは院の御好みが徒らに筌疎な言葉の花よりも
冊馳に典づけられた慨斑感に減ちた歌にあったことと誰するものである︒すなはち︑かういふ風に︑御好みが縫って
來たから︑たとへぱ︑元久二年三月十三日の日吉三十行中の
ほのぼのと春こそ空にきにけらし天の香具山かすみたなびく
といふ御製を御製作常時直ちに新古今集に切入れさせられたものを︑今降岐本では除き棄てさせ給うてゐるのであ
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lljlIl別■■■■■■■■■同
る︒つまり︑密感歌を愛し︑はなやかな装ひの想像磯を好ませられぬやうになったから︑自然︑このやうに一日一切入
れた歌.ともおすて遊ばすのである︒荒し︑隠岐本を樺ぴ直されたのは︑つまり︑鍵に御勅撰あった新古今集の歌に飽
き足りぬ鮎を御發見になったからであり︑そして︑その御不瀧の生じて来た所以は︑かくの如く御選押眼が鍵らせら
れたからであらう︒
後鳥瑚院は︑新古今歌人中では比較的に怖緒的な物あはれな風怖を表現する側の代表者でいらせられ︑西行風の巧
まざる自然的發想と宙感のこもった詠瓜とに伽倒遊涯Lたやうで︑新古今集に西行の歌を蚊も多く探らせられてゐる
のでもその事が分るので︑從って︑御晩年の上述の如き伽向は今度新たなものが生じたといふよりも昔からあった本
磁的な御塒長が︑かの非常なる御柵嶮を契機としてこ必にその礎錐を蛾し來つたといふことになるのである︒盤にも
語ったやうに︑千五百番歌合等にも︑感傷的な歌を好ませ給ふ伽向はあったの↑であり︑かやうな好みも亦院の御木來
のものであるが︑隠岐遷幸後は︑.やはり︑さういふ御伽向がまた一際濃厚にあらはれて︐或は懐哲の涙をたAへ︑或
は無備感とか悲愁の術とかに基礎つけられた作砧を特に好ませ給うてゐる︒すなはち︑
左隆肺
かみな月くもらぬかたの察ま不も風に乱れてふるしぐれかな
右下野
忘られぬ昔は速くなりはてl今年も冬ぞ昨附きにける
の雨竹は何れも秀逸とLて勝劣分けがたいが︐猫ほ︑冗剛は速く﹂と世いた下野の氣持の方があはれであるからその方
後烏勿院の御丈縦一三九︵三○三s
11︲1111凶凸1
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文曜研究第二十五鮴一川○︵三○三川︶
と勝とすると逵胎御歌合に仰せられてをり︑また︑同じ歌合に︑
耐無月時雨ばかりぞ槙の屋に背ながらの喬もかはらぬ
の歌に就いて︑﹁させることなけれども︑かはらぬ事は時雨の青ばかりとよめる︑あはれなるやう也﹂と仰せられて此
れを勝とせられてゐる︒これらは︑繰り返すやうだが︑隙岐に於ける切壷なる御冊聡の結果︑人生の無愉を深く感得し
給ひ︑おのづから右のやうな作品に心惹かれ給ふのであらうと拝察巾Lあげられて︑恐朏に堪へない次第であるが︑
此のやうにして︑院の御好みとか御選歌眼とかにも鍵化が生じ︑新古今の再選抄も始まった所以である︒
さて︑後塒羽院の御歌を年代順に邦兇してゆくと︑正治年間はまだ御智作時代でいらせられて︑充分の佃性を御發
抑遊ぱしてゐない︒たとへぼ︑正治二年九川の院御歌合の御製︑
眺むればくもりもやら歩風流えて雲間の空に有明の川
が︑それより数年前の六百恭歌合の雌脈良經の歌︑
空はなほかすみもやら水風さえて野げにくもるポの夜の月
に近似してゐるといふ風である︒が︑しかし段舞院澗塒の仙性があらはれて来て︑晩年には遠島御百首のやうな秀れ
た抑作が生れるに至るのである︒水稲の胃頭にも述べたやうに︑歌をおはじめ遊ぱした疋治二年は︑後鳥羽院御二十
一歳であらせられた︒二十一歳の青年で而も初心の御身でましましながら︑正治二年の院初度百首歌の何と清新で︑
優腿であることか︒もちろん︑倣時の歌人逹に比較すれば︑技巧は躯純で幼稚でまします︒しかし︑その詩想は︑少
しも昨流に捉はれず︑反奉で︑白川で︑而も極めておほどかな詠風であって︑御詩才の秀でさせ給ふ御天分の程が忍
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ばれるのである︒
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杵よりいひしはこれか夕がすみかすめる空のおぼろなる凡
なにとなく物あはれなるきさらぎの耐そぼふれる夕ぐれの空
木叩に岬のかげるふみえわかすくれゆく峯のたどたどしさに
おもひわびねられぬものをなにとまた松ふく瓜の鵜かすらむ
山ざとの柴の細戸にかげもりてほのかにかすむ赤の夜の川
かういふ風な詠風であるo縁語懸訶の技巧もなく︑巧織な本歌取りもなく︑率直に叙して而も一脈の沸怖をたkへて
凡ならざるものがある︒総じて︑百祢歌の製作は一般に詩想が澗渦期来して苦心のあとの朧糞と現はれてゐるものな
のであるが︑院の御百首歌には少しもさやうな苦心のあとが見えず︑暢注そのものに拝せられる︒而も御進歩のあと
は特しく︑同年九月の第二度の御百杵には︑前側の表現の稚拙さが餘稗すぐなくなってゐて︑技巧の御錬迷ぶりが︑
姉の背にこぞの日数はっ↓言はててはるあくるそらに驚のこゑ
梅がえのこすゑをこむる世よりこぼれて匂ふうぐひすのこゑ
等の御歌にあらはれてきてゐる︒そののち千五百番歌合︑︲老若派十竹歌令その他の御歌合湫や︑内浦御百首︑外桝御
百首等の御百首歌が机次いで作られてゐるが︑それらの中に新古今集に採録せられてゐる数多の御名歌があったので
ある︒呼川時の院の御歌は︑乖腿な︑と言っても定家等のやうに一両葉の技巧に捉はれ過ぎず︑俊成風な平明な表現のう
ちに華雌な怖趣を孫垢たらしめるところに御墹色が存Lてゐる︒大冊︑元久年間までは︑一筋の途を辿らせ給ひ︑召
今
後鳥羽院の御丈學一四一︵三○三五︶ 1
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文・學一研究錐二十五岬一川二︵三○一三︿︶
作時代の延催發展と御見立てして莱支へないのであるが︑それ以後︑承元年代からは︑御歌が塗ってきてゐる︒その
御榊想の上から兇奉れば︑経始一武Lてゐて少しの鍵化もないのであるが︑表現の上に漸く群論きと嵐庇味とを示し
給ひ︑御澗自的な表現が生れて来たのである︒千五両恭御歌合歌に︑
価の中にたえて嵐のなかりせぱ花にと出ろはのどけからまし︒
といふ御製があるが︑かやうにその國は平氣で何の屈託もなく先人の作舳の換什奪胎を行ひたまひ︑また先人の逃句
を御自作の中にとり川ゐられて︑誠に補逹な御氣象のほどをお示しになってをる︒
忘れては雲かとぞ恩ふ冬の夜の月すむ油の布明の瀧
かういふ御歌もある︒建仁元年十州十三日の御湫である︒
眺めのみしづのをだまき繰り返し昔を今の夕悪の空
といふやうな御職もある︒建仁三年十一月和歌所での御詠である︒速い杵の人の歌を本歌と遊ばされるのみではな
い︑近唾の人の作からでも平熱で語伽を借川L給ふのである︒鍵にあげた﹁ながむれば曇りもやらで空加えて﹂の御歌
の如きも︑その一例である︒そして︑元久元年七月宇治御幸の時の御詠に
宇治の山雲吹き桃ふ秋風に都のたつみ〃も澄みけり
といふのがあるが︑このやうに︑喜柵法師の﹁都のたつみ︲|の語句を借川せられても︑此の場合には︑しっくりと一竹
のうちに混和してゐない︒かやうに︑本歌の伽が御作の巾で充分の融和を遂げず︑ただ御才氣だけを目立たせるの
が︑此の噸のお歌には非常に多いのである︒華脆であり︑有能的であり︑才氣煥發の御欣ではあっても︑心持の深さ
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を表はすことに於て充分でない︑さういふ御歌が多いのである︒然るに︑承九以後になると︑本歌をとっても以前の
①やうに御才氣が目立たず︑一行のうちに輝融した姿をもって表はされて来る︒た上へば︑
あけゆけど木かげはくらきみ山路に識とびこゆる鳥の一こゑ
といふお歌の﹁批とびこゆる﹂は人臓の職から来てゐるのであるが︑此の場合は非常に効果的に川ゐら恥てゐて︑此の
三川中では動かすことの出来ない柵となってゐる︒また︑舷勝山天王院御障子歌に﹁交野﹂を詠ぜられて︑
術かさむ人もかたののささのはにみ山もさやと砿ふるなり
とあるのは非常に技巧の克つた歌であるが︑それでも︑﹁ささのはにみ川もさや﹂といふ人丸の句が此唯では少しも不
自然でなく素直な効果をあげてゐる︒かういふ風に︑一九久哩までの御製には乏しかった︑本歌収りの上の老熟さが剛
後の御作にあらはれてゐるのである︒おもふに︑かういふ風に机述して來たのは︑元久甑までは院は歌想を心の外部
に覚めておいでになったのが︑承兀唾から心の内にたづねられる仙向をお持ちに州成ったことに山來するのではない
かとおもふ︒元久唖までは︑反迩の意味で︑述懐歌と巾しあげ奉るべき御製は皆無であるが︑雌︑丞兀年の御誹には︑
何とまた古き忠ひの重いらむくだる仙をのみ識く言へき身を
なさけありし昔を今になしわびて袖の雫のしづのをだまき
といふやうな述懐歌があり︑叙景の歌に於ても︑
忍びこし路のべ柳秋もなほあはれ昔の瓜沸ふらむ
などといふのがある︒有名な
後鳥羽院の御文學一四三︵三○三七︶
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文・學研究第二十五卿一四四︵三○三八︶
奥山のおどるが下も踏み分けて逆ある仙ぞと人に知らせむ
との御製は︑︑承元二年三月住吉御歌合に﹁寄山雑﹂と翅する御歌であった︒此の醜から杼怖述懐の御湫が著しく多くな
り︑建暦一年十二月の御二十荷歌の如きその半数は述懐押怖の御歌となってゐる︒かくて煉金のやうな味と表現とを
もった建保川年の建保御百竹が生れたのである︒
速鳥に於ける御詠歌は︑御批感を基訓として︑歌材も川来るだけ御冴近くに求め給ひ︑反率にして巧まざる述懐の
佳作をなし給うてゐるが︑さういふ御佳作を生ませらるべき素地は︑すでに此の雄係前後の御歌風で川来てゐたので
あった︒後烏湘院の御歌風は︑細じて藤陳俊成に私淑し給ひ︑その歌風のあとを學ぴ給うたのであるが入︵此の事は
御同傳の中にも仰せられてゐる︶藤陳定家の逹脾歌とは凡そ懸け離れた歌風であって︑定家が表現の技巧に亜鮎をお
いて︑感兇的な語句の配列によって幻影的美趣を象徴しようとするに對し︑後鳥羽院はさういふ態度の歌にも化作の
あることを認められながらも︑なぼ︑作者の感動内容を亜脱し給ひ︑それの平明優腿な表現に力洋一漉ぎましたのであ
る︒服治の御百首は若交しい手法を以て︑自然に對する平常の御生斫側聡を印象的に歌ひあげ給うてゐるのである
が︑その後︑一時︑御歌材を柵嶮の外に求められ︑古典を通して御欣想を纒められる御様子に秤せられたのが︑叫び
自己柵醗の仙界に眼をめぐらし給ひ︑今や迷路での御慨駒で︑御狂感の忠溌な表白を以て歌の理想と遊ばされるに至
り︑かくて︑遠島御百首は︑御生活の日常の御感想をありのままに印象的手法を以て表白し給うてゐる︒蓋し︑その
本来の御素礎によって︑最初の御詠作態度に戻りましたのであると巾しあげる.︑へきであらう︒
速烏御歌合の中に︑
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連山路いくへもかすめさらすとて速力ぴとの間ふもなければ
訪はるるも婚しくもなしこの海を渡らぬ人のなげの憐は
かやうな大御歌を拝訓し奉ると︑後鳥羽院が如何に扱い御氣騏にましましたかを身にしみて斑えるのである︒そし
て︑この速島にあらせられて︑而もかく弧い張りつめたお心をおうたひになってゐるところにその英雄的御氣慨のほ
どが伺はれて︐却て御心中の御寂塞が痛いほど感ぜられるのである︒わたくしは︑後鳥羽院の御生涯を英雄の御生派で
あると拝察巾しあげてをる︒まことに不退蒋の生の姿である︒その御歌歴の上だけに伺っても︑新古今雄の拙集那業
といひ︑御作歌へのご精進と言ひ︑ただ不遇郷の一途をのみ辿りましてゐるととは︑世に仰ぐも恐れ多い次第である︒
少後鳥羽院が俊成︑西行に御仙倒遊ばされ︑季經︑瓢昭の一派を郷脱L給ひ︑良經︑定家︑家隆等の新興歌人芹一近づけ
ましましたことは︑その御商辿なる詩的御見識の發露である︒新古今雌の糀椛に生涯をおかけ遊ぱしたことは︑その
御厳湫なる御詩的良心の顯現である︒
速烏に於ける御製にも︑たとへ︑
凪ひやれま柴のとぽそおしあけてひとりながむる秋の夕幕
とまでは仰せられて芯︑承久の敗將︑藤原秀能のやうに女たしくも
ふるさとになきてなげくとことづてよみちゆきぶりの存のかりがね
とは決してお歌ひにならぬ︒
われこそは新烏守よおきのうみのあらき波風こころして吹け
後烏調院の.御丈學一川五︵三○三九︶
■■■■ⅡⅡⅡ■ⅡⅡⅡIⅡIIIIllll文學研究弟二十五斡一四六︵三○四○︶
といふお砿などを秤棚すると︑却ってそこに王者の御風格と御飛品とが光ち溢れイーゐろのを感赤るのである︒而し
て︑此の飛舳は︑院の御製全部を通じて巾しあげ得ることであって︑その優肥なる御湫調と共に︑他人のまねるを得
ない最大の塒色となってゐる︒・
なほ︑御口仲によれば︑﹁和歌學川にして種凌の雌隣どもをさたし才學をわかつ事は人による書へし︒よのつ懇には︑
ただ幽葉雄ばかりよみたるやうを心得おくべし︒﹂と仰せられてゐて︑作欣には禽莱雄を参考とすべき川陛弧訓せら
れてゐるし︑在際の御歌にも醐葉集を本歌にした歌が非術に多く︑巾には︑
山櫻さきにけらしもみよし野の八重たつ婆ににほふ雅風
のやうに蕗葉砿訓を加味した御製もあって︑醐葉に對する御迭詣があらせられたやうであるから︑上述の御氣品と御
狄洲とは︑その御人柄と御詩才とによるは勿論のことであるが︑曲葉雌の御研究に負ひ給ふ黙もあったらうとわたく
しは秤察巾上げる︒今︑此の稲を草するに憐って御集を繰返し秤諭し︑今更の如く御歌才の非凡にましましたことを
欽仰し奉ることである︒
院は︑また︑和歌のみならす︑辿歌の逆にも御心を符せられてゐる︒それで︑雌後に︑御迦歌について一言巾述べ
て此の華を燗かうと忠ふのであるが︑明月記の記事による斗後賜刑院が連歌を作らせられたのは︑建永元年八〃九日
恥刑城南寺に於てが御最初のやうである︒元来︑連歌は刷知の如く短倣の上下句を二人して唱和合作するのを言った
のであるが︑鳥羽天皇の頃に三句以上連ねる鎌連歌といふのが川來︑史に漢誰の述柵の影郷を受けて︑数十句連ねる
長連歌が行はれるやうになった︒かういふ長連歌はいつ唖から飴まったのか明かでないが︑今日文献に辿り得るとと
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ろでは︑此の後鳥羽院時代以前に遡ることが川來ない︒旺治一乖九月一千日に定家等が賦五色連歌を百句連ねてゐる
記事が明川記にあって︑これらが百句連歌の記録の妓初のものであらうと思ふが︑既に賦物をとつてゐることではあ
り︑突然此時百句をはじめるといふことも老へられないから︑これより以前からこれ位長ぐつづける魏歌が行はれて
ゐたと老へられる︒そして辿歌がかういふ風に百句も練けるやうになったには︑前に述令へたやうに漢詩の述句の影響
があるとわたくしは思ふのである︒玉葉の記事によれば︑漢詩の連句も文治三年噸までは︑智迩五六散に過ぎす多く
て二十訓を越えなかったのであるが︑大日本史料所引の猫隈關白記建久九年五月十一日の記事に辿刎面餘甜ありとl
るされてゐるから︑この数年間に連句も頗る長いのが流行するやうになり︑述歌もその風潮に作って自然腱いものが
行はれるやうになったと恩ふのである︒従って此の正治二年より以前から派十句も百伽も連ねる連歌があったとして
も︑正治よりも左程古い時代ではあるまいと推定するのである︒だから︑大朏は︑後恥湘院の御宇に而何も綾く踵辿
歌が發生したと考へて大過ない︒ところで︑建永元年八月九日鳥羽城南寺で行はれた述歌が噸る典味深かったので︑
翌十日には更に大糞的に行はせられた︒これが布名な有心無心の辿歌である︒辿歌は︑今まで院御自牙は遊ぱしてゐ
なかったけれども︑院にお仕へしてゐる下だの者や或は定家等のやうな殿上人の間にも座興として行はれてゐたので
あって︑今度も院の御伴をしてをる人糞の問で行はれてゐたのを院が閲し召し︑これは面白さうだといふので院も
御加はり遊ばされて︑改めて連歌御を張行せしめ総うたわけで︑それが此の有心無心の述歌である︒有心といふのは
後賜洞院をはじめ奉り和歌所の面だの組であり︑無心といふのは洲稀述湫で和歌所に鴎しない述中の組である︒此の
有心無心述歌はその後連日行はれて︑結肋有心方が勝利を得たが︑此の連歌称の辿歌史的意義は︑有心連歌が無心迎
後鳥羽院の御文串一四七︵三○四二
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丈學研究雄二十五鮴一四八︵三○四二︶
歌に勝ったといふことで︑つまり︑有心辿歌は反川円な和敬的な辿歌であり︑無心といふのは狂歌風な辿散であった
のだから︑打心辿歌の勝利は述歌を滑稀の域から嵐而目な和歌的怖趣のものたらしめようと志す人だの勝利といふこ
とになるのである︒後鳥羽院は全く興味のために遊ばしたこル|であったらうが︑偶然にもさういふ荊期的通勤の音頭
取りとおなり遊ぱしたことになるのである︒此の意味で後烏刑院は辿歌發迷史上亜要な地位を占めたまうたことにな
る︒その後︑建保五年四月にも述歌を行はせ給うてゐるが︑辿湫は和歌ほど院の御氣に召さなかったと見えて.それ
ほど狐繁には行はせられてゐない・蒐玖波集には御製が十八句城せられてゐる︒何れも︑
有明の月は薄かすみつつ
芦火たくなだのしほやの洲かぜに
朝鰹春や山より立ちぬらん
零に木仰ふ鴬のこゑ
とやうに︑全く和歌趣味︑和歌手法を川ないものである︒︵先︶
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