九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
後三條天皇の御讓位に就きて
河野, 房雄
https://doi.org/10.15017/2344378
出版情報:史淵. 18, pp.84-124, 1938-04-30. Faculty of Law and Letters of the Kyushu Imperial University
バージョン:
権利関係:
。 I
この問題を取扱はんが爲に莱當り必要浄感じたものは︑後三條天皇以前に於ける諸天皇の御讓位の御理
後三條天皇の御讓位に就きて
後三條天皇の御鯉化に就きて序
結六五四三二一序目
、 、 , 、 、 、
天皇の親政
御不豫による御譲位
皇位繼承問題
院政の思得
思想上の影響
御清遊の爲
訴叩
次
J画用1矢ⅡllllllllⅡⅡⅡ
河野.房雄
’
八四
由であった︒その御理曲ぞ検討の結果次の如く是をまとめて見た︒
一︑女帝山故に御談位遊ばされしもの︵瀝恥い鍔燕︑元明.︶
二︑御高齢又は御軍病による御譲位︵弍畦諏癖極鈎醍醐︑︶
○
三︑佛道に入らんが篤の御誰位︵聖武︑宇多︑清和︶
○○○
四︑御謙遜による御讓位︵嵯峨︑淳和︑清和︑朱雀︶○○○○
五︐藤氏搬鋒家の専横︵皇位繼承間趣︶による御譲位︵花山︑陽成︑三朧︑側融
○○○っ.
六︑怨鯉思想に左右されたと思はれる御譲位六朱雀︑冷泉︑岡融︑花山皐城︑嵯峨二○○○○○
七︑輕き御不豫による御譲位︑︵嵯峨︑淳和︑清和︐冷泉︑側融三味.陽成︶○
八︑御清遊の爲の御罐位︿凹融︶
︵○印ハ主客ノ判定二雌キモノ・︶
との八項目中後三條天皇御談位の御理由考察に黄せらるべきものは︑①御不豫によるもの︑②藤氏赫鋒
家の専横によるもの︵皇位繼承問題︶①思想上︵怨鯉旭惣等︶よりするもの︑①御清遊の爲︑の四つであ
る︒そして新に憩管妙︐今鏡によって提示された﹁院政の思召﹂を加へ︑この五項目につきて松討し︑以
てその蹄趨する所を見出したい︒
紬じてとの御讓位の考察に當り︑肢も弧く晤示されるものは︑天皇治枇年間の御政治であり︑更に測っ
てはその御即位︑その立太子の問題である︒而して是等がその時代相乃至時代思想中に於て︑如何なる役
後三條天皇の御談位に就きて八五
I
’
後三腺天皇の御誕位に就きて八六
割を演じたかを見る事によって︑その明瞭さを示して来る︒今該間脳の研究に際してはこの暗示に從ひ︑
直接には後三條天皇の立太子並に御即位︑既ぴ天皇の親政︑是に加ふるに天皇御誰位後の御動靜淀窺ひ︑
間接には是を平安末期の時代史潮の兵只中に立たしめて︑以て天皇の御誕位の眞相に接した・いと思ふ︒
1︑後三條帝の立坊問願︒後三條天皇は韓尊仁︑後朱雀天皇の第二皇子︒御緋后は一品宮頑f内親王で︑
後一條天皇の長兀七年七月十八日御降誕遊ばされた︒へ左諏記︶
御朱雀天皇は御賢明に在しまし乍ら︑しかも尚執柄頼通の外戚椎に制せられて全き天皇の親政は淀現さ
れなかった︒さればとの御宿願を達成せんが爲に︑その御不諜に常りて最も天氣に留められたものは尊仁れなかった︒さればとの御
蓋し後朱雀天皇が尊仁親王の立坊を恩召し遊ばされた所以は︑尊仁の繼慨の君なる事と︑藤氏椛關家に
縁遠き陽明門院の出なる事との二つであり︑且それは尊仁御異母兄後冷泉天皇の立坊が︑先例の受祁日よ
り滿一箇年おくれてゐる事からも推察し得るのである︒後朱雀天皇は︑既に冷泉天皇以後︑藤氏擶開政治
の専横を知り︑近くは腰太子小一條院の後を受けて立坊せる帝であり︑現に外戚樅の私悉を痛感してゐ
る︒︵塞癖伽瀝元叶唾恥附一︿︑廿三︑︶されば天皇は是等柵關政治の稜弊を総清算せんが爲には︑活力あり︑
東郷なき藤氏以外の出生たる尊仁親王にその立太子を嘱望されたのである︒か上る後朱雀疋皇の御遺志は 親王立坊の問題であった︒ 一︑後三篠天皇の御親政 11
功臣藤能信によりて淀現された︒搬關家の直流道長の三男︵愈卑分岻一︑二︑六︑土たる大納一局能信が後
朱雀天皇の御遥詔を守りて後二雁天皇立坊の功艮となったのは何故か︒その一は腱太子小一條院に關
係し︵郷綜郵か麺︾手元捗弧ト韮︑寛仁三︑二︑十一︶その二は後三條帝熾后砿卜内親王の皇后宮大夫となりた
る事︵秤罪恥窪癖椛や叩咋画一に︑その三は兄頼辿との反目︵小右記鋤俸一吋批恥峅︐一炉九︶之である︒かくて後
三條帝の立太子と共に能信は東富大夫︵子能長は血海樅太夫︶となりて誠忠泥誰すのであるが︑この能信に
關係する頼宗流︑公季流︑或は源氏等搬開家の反對燕は皆後三條天皇の親政下になくてはなら糎新人材であ
ったのである︒︵率埠諦賑仁︑︶
次に御母方の系統を一鴨する︒一否王の録后陽明門院は三條天呈し皇女にして︑御俸は道長二女研子であ
︵面長︶ろ︒︵本判紹運皇胤錐︑女院小博︑巾右記︵大治五︑二︑廿一︶その御降誕に樹り﹁和脚己不二見給一︑卿杣宮殿人
等.不し悦氣色悲露︑依二令レ産し旋給一雌﹂︿尉姉梨七︑七︶とは赤裸糞なる藤氏雛鋒家の氣色を示すものと
云へる不知︑後三條犬呈妙仲啼たらんとは︒この緋脈剛子が藤迦握一派の鰯に如何に不遇の中にあった
かは︐とLに樹略する︒唯その原川と恩はれる御父飛三條天画聿と迩退との關係を概将するに止めよう︒三
條天皇の仰誰虹は御目の病菜の爲であった︒この天皇御不豫の御心炳も物かは︑道踵は﹁狐壷一雌諜位一﹂
︵鄙碓嚥八︑四︑八︑十九︶の専枇さであった︒天血恥は︑か比ろ迩煙の専横にも抑ほらず︑﹁十審故溌二黄位一︑
而匝下何有v危一霄位一燐﹂︿母称呼恥十℃二︶の御莱慨と確川不勤の御信念とを持してゐたのである︒藤氏の
撚棚政沽將に燗熟せんとするの時︑か上る帝王樅の絶大を垂亦せろこそ有雌き︒されば叫言再四︑道長の
蓮一展天皇の御漉位に就きて八七
|
』
後三條天皇の御誕位に就きて八八
御謎位の鋤めに對しても︑帝の御叡意は微動だもしなかったのみか︑這長の専横なる言動を御蠅じては
﹁今見二世間形勢一︑寓事惣邸一於一家一︑向後事棚千偶欺.四非常偶佛説如v虚﹂︵小右詔長和四︑十︑十一︑︶
と御慨嘆遊ばされざるを得なかったのである︒
かくて後三條天皇は御父系に側融帝の皇統を︑御輝系に冷泉帝の皇統を一堂け繼がれたる事滋上の雨統後
繼者に在しますが心同時に叉父講後朱雀天皇の御素意と︑三條天画韮の御莱慨と雨考綜合を内的に御繼承あ
られ.と上に天皇親政の花燕しさが展附されるのである︒
2︑親政︒御三條天泉の親政の根源は天祁地祇扶持の祁佛崇拝と︑﹁荊表畏臣門能臣子得氏之﹂天下は
よく治り︑從って﹁臣者明支清文直芝誠之心﹂を以て助仕奉らしめんとする人事行政と︑に川波した︒
︵稚症韮天皇印付記︶との人事行政が藤氏搬鮒家の餘城未だあせぬ餅時に於ては︑宇多天皇の菅腺道填枕擢
︵鍛評︶の如き︑叉は白河法皇の院政下に於ける超越上脇︵却挿岬七︑七︑︶の如き花糞しさ悪見ぬは常然で
ある︒がその内容を子細に楡討するならば衝に蹴閥に左右されざる恩ひ切った新人の抜擢を見逃し得な
い︒即ち天皇の叙位除目の根抵をなすものは︑一面誠忠の川であり︑他面搬閉家と血縁州係抑き凝臣の採
用にあった事である︒曾って後冷泉帝の朝︐宇治に閑居せし頼通か︐除目ある時は尚奉先之に干渉した︒
稲堂降り白河上皇の院政下に於て承も好遇せられたものは文殿であった︒︿率銅蝿睡奉々︶この中間にあっ
て一際光彩を放つものは後三條天皇の人事行政と云へる︒更に之を絲果より見れば﹁左右大臣︑左右大
將︑源氏同時相竝例︑未似一肴此事一︑︵中略︶加之大納言五人之中︑三人己源氏︐六衛府督五人己源氏︑七
I
辨之中四人也︒他門誠希有之例也︒爲二藤氏沁有し脈之故欺︒﹂罫楴科鐙治岐錘朧廿七︑︶の村上源氏の擦
頭は︑元より具平親王の才徳高きにも存するが︑︵耐擢氾︶私はその原因の大部溌後三條天皇の人事行政︑
即ち﹁聖一士施し仁殊被y行這理一﹂︿郵認型十二︑廿七︑︶の根祇に立つ所に見川したい︒
かる上﹁聖二用怪徳一去二断邪狂この人材本位の人事行政子︲ろ以上︑是等と相俟ってなす天皇の親政は︑
︵後言條︶
緋關政治の奮弊打破に存せねばならなかった︒この親政の内容につきては省略する︒要するに﹁この内の
御心いとすくよかに︑川の中の乱れたらん事を︑直させ給はんと思し召し︑制なども厳しく︑末の価の帝
には餘りてめでたくおはしますと申しけり︒人に從はせ給ふくくもおはしまさず︐御才などいみじくおは
します︒﹂︿輝雄吻癖の下枝︶と一云へる如く天内圭の親政は﹁我朝聖︑王明王︑末代延喜天智之君﹂︵酔唾謎︑五︑七︑︶
とも認すべきであった︒
平泉博士がその著﹁建武中興の本義﹂に於て︑後三條天皇の御談位の思召が︑院政御企剛の爲であった
と云ふ從米の説を否定して︑次の如く述べられてゐる︒
﹁曾て説いたやうに後三條天皇の御譲位は︐活溌に院政を行って藤陳氏を抑朧せんとの英迩なろ御理想
より出た事ではなく︑呪んや黄任ある地位を逃れて自由に遊樂に耽らうとの﹁人怖味﹂から出た事では
決してなかった︒天皇の御談位は一に御病氣の爲であった﹂︵唾辻六頁︶
後三條天皇の御謹位に就きて八九
二︑御不豫による御讓位夢
後三催天皇の榊譲位に計きて九○
と説かれ﹁その詳細な︐蒋證はとLには特略するが︑石清水文杏並に扶桑略記に牧められた上皇の告文を
見れば明瞭である﹂と云ふ意味の事が述べられてゐる︒私は後三條天果御護位の一理山が御病燕に在った
事は否定すべくもないが︑岬士の説かれる如く︑﹁天皇の仰誕位は一に御病誠の爲であった﹂と仰病鍼に
のみ理巾附けろ事には同意州來兼ぬる︒後述する川事頂は迩推にせよ間接にせよ御不豫と叉御漉位の叩山
や椎成すると恩はれるからである︒
先づ考察すべきものは︑後三條天皇の仰不強が︑何時城からであり︑且その御不豫が果して御在位に堪
へ難き程度のものであったかと云ふ頭である︒その束窩時代に於ける御病氣としては赤記︵永承三︑六︑十ご
朝野群戦︵罐嘩六︑十︶︑仁和寺御傳︵葎恥瀝﹀燕︑十三︑︶等に見え.その天皇抑在位中に於ては御謹位の延
久四年冬十二月甑いそれぞ除いては︑特に御不豫の記録を見川さない︒されば帝の御尊慨はいと勝れさせ
給ひ御持病とては災に在しまさなかった事孝一拝察するに難くない︒
然るに延久川年冬一の頃より御不溌に渡せられた事は︑石清文坐同之一︵唾弘輝奉仁一柳に蚕︶︑扶桑略記霊玖
︵延久剛︑十二︐八︶
沁鯛州碓へ産劉痔︶や︑天皇御蔽位直後の十六日﹁上院はわざとにはおはしまさど︑御心地慨しげに︑
水など即しめす︒﹂︵唯雌物癖の下枝︶等によって明瞭である︒
然らばその御不諜は果して天皇の御在位に堪え難き縄度のものであったか︑換言すれば御譲位の理山は
御病飛にも存するが︑唯是のみに理川附け得る程の御不課に在ったかと云ふ事である︒是が解群を與へて
へ延久四年︶くれるものに築華物語がある︒即ち︑﹃帝はいつしか誕位させ給ひなんとのみ忠し召して.この四月にも
大極殴の修理などせさせ給ふに︑﹁新しく造らせ給ひて︑|初に世の鐙ろ氣色のあらんは便なかるぺしま︑
恩し召して﹂などぞ︐世の人申しし︒ま︵と︶とにや.この土一月の八日おりさせ給ふ︒この近くなりて
は︑重く煩はせ給ひて.おりさせ給ふに︑いとあはれなり︒﹁あひも思はい﹂など︑弘徽殿の避に︑伊勢
が書きつけLんなど忠ひ出でられて︑何事にも目のみとまる︒﹂︵冊八・松のド枝︶
と︑右によれば︑この近來の御譲位の例としては魂く瓶はせ給ひて御誰位遊ばすのに後三條天皇にはさ
まで御璽病に在し史さずしておりさせ給ふがいと哀れなり︑と云ふのである︒而もこの御重病なら砲天嘩華
︵延久四年︶の鯉縦位は去る川月三日北極股の修哩癖渥︶を以て︑帝が仰誕位の御思召からであるとの風評を生ましめ︑
更に又﹁あひも思はい﹂など弘微殿雌に伊勢が書つけた亭子院抑謹位の故事︿碓迩迄向想して︑冊別の
腓を狸くせしめたのである︒さ巾ぱ天血お御譲位に際して御不豫に在しました事は明らかであるが︑同時
にその御不豫は御在位に堪え難き程のものでなかった事も亦明らかである︒この事は天皇御談位後の御動
靜を窺ふ事によって災に明白となる.雫撰物噸織識御聯澪纐︶その詳細はこ﹂には管略する
が︑兎に角天皇の御不豫が抑讓位の延久四年十二月八日以降翌五年二月二日︵怖錨郵嘩︶迄御亜病に燗ませ
給ふたとは見受けられない︒殊に上拘稚が同咋二月冊Ⅱ以後一迦間石浦水︑住吉︑天王寺詣の御事より推測す るならば.この二月二Ⅱの石清水奉幣帷に仁和寺大御窒の﹁修二孔推經法一﹂は一屑天ローあ御不豫海蝿城し
延久
奉ったに柏述ない︒されば天︑唾の御敢悩は五年三月十八日天下大赦︵扶略︶の頃以後にあったと見て差支な
いであらう︒そして何年四剛になっていと重くならせ給ひ︑へ嘘廿一日御川家︑翌五月七日遂に川去り給ふ
建一膝天皇の御識位に就きて九一
上述の如く後三條天皇の御不諜が既に御在位に堪え難き程のものでもなくして御誰位遊ばされてゐる以
上︑その多くの御讓位の先例に見る如く︑そこには何等か他の御理由の介在を想起せしめる︒呪や在来の
搬關政治ぞ排して悉く惟艸の道の發挑に存せざるなき天泉の御親政︑而も御在位催か五年にして御誕位遊
ぱされし﹁我朝聖主明王﹂の讃にて於てである︒是即ち今こ上に見んとする皇位繼承問題がそれであり︲
次に述べんとする院政の思召も亦それでめろ︒そしてとの二つは叉私の蚊も亜鯲をおきたき後三條天皇御
讓位の理由でもある︒私のとLに云ふ皇位繼承川越が後三條天皇の御誰位の理由にその主要性を詔むる所
以は︑白河天皇へ御讓位と同時に莚久四︑十二︑八︶白河帝の御異母弟賞仁親王の立太子を行った後三條
天皇の御意企が︑深淵なる意氣を祇すると見たいからである︒
後三條天皇の御謹位に就きて九二
たのであった︒故に上述築莱物語に云ふ﹁この土一月の八日におりきせ給ふ.この近くなりては重く蚊は
せ給ひておりきせ給ふに︑いとあはれなり﹂とは訳なき記述であると忠ふ︒趣に於て私は天皇の御不諏は
元より御譲位の一理由ではあるか︑是を以て全く御不豫による御罐位上|見るには何となく疑問淀挿入させ
られると思ふのである︒
三︑皇位繼承問題
’
然るに不幸︐皇太子溌仁親王は御川位ぞ見ず弱年にして蕊雁給ひ︑同皇太子の御同蹄弟輔仁親王是に代
らずして︑白河天皇の嫡流堀河︑鳥羽胴天皇の即位を見るに至った︒この歴史的推移字椎討し以て後三條
天皇の御意企ぞ汲まんとする軒である︒
1︑睡仁親王の立左子平怖︒
先づ錐一に問題とすべきものは︑延久旧年十二月八日﹁壬午︑戊時︑天皇春秋冊九︑誕二位於皇太子貞仁
親王︵媚︶同日︑以二第二皇干衝仁親王爲皇太子一︑年始二歳﹂癖罐︶の倣か三歳の筏仁親王が︑白河天皇
の乎流と同一日に立太子遊ばされたのは何を意味するかと云ふ事である︒元より冷泉天皇以後の立太子が
その多くは受祁日と同日の悩押発見ろに至ってはゐるが︐それは藤氏擶關家の勢力に影群されてゐる爲で
あって︑此上彼と孝一同一覗する事の不可能旗のは云ふ迄もない︒之が解答の一は憧仁親王の御英明と御父
飛後三條天皇の御施愛とである︒︵鍛樺州癖深川岬瀞弛め拝華▽廿二︑︶
後三朧天堪の御泌位に就きて九三
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後三條天皇の御達眼は何を物語るか︒云ふ迄もなく多年外戚樅を振ひし藤氏碓關家の勢力抑雌に發端する 皇椛の確立に存する︒その華子の准三宮も︽嘩捧恥記十一︑一︑︶二宮変仁親王の立太子も︑誠に天皇の御信
任孝恭うせる證左であるが︑その由って来るや軍なる帝の御感術に川發する御溺愛ではなくして︑洞徹な
る理智と清純なる幡熱とよりする粟なる祁的活動の發蒔なりと断言し得る︒然るに不幸疫仁親王は應徳二
年十一月八日﹁辰時萢流忠﹂によりて御歳十五才を一期に祁去りまし︑︵極鋸綴丈粋︶人拷悲嘆の涙に鎖さ
れたのであった︒思ふに後三條火泉の御譲位は︑當時執柄に全く開係なき女御源華子の出生なる疫仁親王
の即位を確澄に︑しかも早からしめんが爲の御理巾にあったと拝察せられる︒と云ふのはこの御譲位によ
って藤氏の外戚椎を更に失墜せしめ︑以て天皇の親政を一膳徹底せしめんが爲にあったと忠はれるからで
ある︒かLろ後三條天皇の御意岡を以下霞仁親王の御同母弟たる岫仁親王の系統を對照とする白河天皇の
正嫡思想から見て裏付けたいと恩ふ︒
2︑白河天皇の砿嫡思想︒
砦しこの後三條天皇の御意企を尊亜するならば白河天皇は皇太弟疵仁親王の斑後︑同親王の御何緑弟帖
仁親王を立太子すべ宮筈である︒
何故腹ら瞳逝の如く騨塑が女協半の川籠たると冊に︑﹁才評背﹂鳥噸鐡薄十誇
栖ゼス封︶御英明さに於て凹ある︒にも拘らか白河天皇は御父飛後一二條帝の御迩士心に洲ひ奉らずして︑堀刈皇太弗置仁親王蕊後猟一ヶ年の雌徳三年十一月冊八日未だ立太子も見ぬ繩か八才山城二桝蕃仁執王に御
後三催天皇の御誕位に就きて九五
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後三條天皇の御誕砕に識きて九六
誰位遊ばされたのは何故であるか︒之が解群を私は白河天皇の砿嫡川心想の中に求めんとする者である︒抑
を白河天皇の皇位繼承に對する仰思筒が︑疋嫡の皇統繼胴にあった事は﹁爲二長嫡﹈北辰位徳︑瑚母之爲二正
妃一︐陰識徳昌︑﹂︵秤緬認攻辮二︑町︶や御孫宗仁親王の御降誕に際し﹁卜型御感之餘︐己及二群涙一﹂舜稲魂︑
正︑十七︑︶や︑瑚河帝以外の諸巣子が佛門疋投ぜられた事︵嘩鯏鍬運︶等から納得州來る︒然しか上る正
嫡繼承の御思召が果して皇宝内江の柵飢を絶ち天下磐伺の安全に發せられたるものなるかに問題が存す
る︒元より白河天皇が﹁聖明飛︑長久︑王﹂念蹄恥︑七︑七︶に在しました事も︑この御思召を朧ならしむる 一原因と兇倣し得る︒が然し他面又天皇が﹁仙邪非決断︑蛍罰分明︑愛州診掲焉︐盆宮顯然也︐依二男女之殊一 寵多︑己天下品秩破也︑価上下衆人不v勝二心力一欺・﹂毎滿唖七︑七︑︶の御性向が前者より以止に手煉っ
て︑かLる箙嫡繼承の御槻念を脳からしめたものではなきやと思ふ︒この現れの第一は中寓攝子への御瀧
︵堀河︶愛に於て凹あり︑從って提子の出︑喚子稗仁親王への御愛怖はその鋪二であり︑同母兄敦文親王の御天折
はその雄三である︒以下この三瓢につきて略述する︒
白河天皇が史呂賢子御寵愛の程は慶子の崩御に常り﹁主上悶絶︑天下騒動︵中略︶周忌之Ⅲ︑天下之政皆以 應務︑帝依レ含v悲︑久絶二仙上風波一︑誠是希代溝﹂︿岬辨元九︑九b廿四︶の御悲嘆や︑その他大記︵柵弐﹄一俳珂凋
廿二日﹀中右記︵誌拾十二︑廿八︶本朝世紀︑︿壁︶榮華物諦︵酬札︑︶によりて窺はる入︒
されば天皇がか上るいみじき御晃え遊ばす中宮擬子の出︑第一壊子善仁親王に御譲位遊ばされたき犬御
心は︑曾って一條天皇が﹁有ド常以一眼嫡一令レ胴粟統一之志上﹂︵琳坤パ︑五︑廿七︑︶たる御思召と同様の御心
q
|
僻に發するものではなからうか︒即ち中宮彊子への御篭愛はよって以てその所産の善仁親王への御愛情を深からしめ︑それは途に後三條帝の御遺志をも朧朧せしめ︑以て砿嫡繼承の御観念を強からしむる動力となったものではなから弓か︒か比ろ推及は葬仁親王の御降誕を窺ふ事によって一膳明瞭となるがと乱にへ准土︽ノは省略する︒︵罵奉柳罪川揮癖喉砧川雌停Ⅱ参照︶︑とに角堀河帝抑降誕︑所願︑及びその抑愼亜なる御取扱ひ 一︾呂HP■fL﹂
の中に白河帝の正嫡繼承の御観念を拝察し得るのであるが︑更に第一皇子敦文親王の薙去の悲しみが之に
拍車をかけたと云へる︒敦文親王へ母后狂子︶は御年四歳の承保四年八月﹁池術之後痢病﹂徳睦嘩八︑廿五︶
を病み給ひ数掩の奉幣析癖もその甲斐なく︑企年九月六日遂に崩御遊ばされた︒・念肱岬班飛岬地咋九月三 日︑六日︶この天心韮の例︑大の御心怖はより以上に画唖子期河帝の抑降準〆茄〃奉る機縁とならざるを得ない
であらう︒かの白河天心韮の第一泉女郁芳門院提子内親王︵母澄子︶の准三宵︑︵垂癖三︑十六︶中宮︑︿唖怡
﹁白刎︶正︑廿二︶そして郁芳門院となられた︵慨︾岬正︑十九︑︶のも愛に﹁太上泉雄一簸愛之女︒﹂︵洲霊一皿︑八︑七︑︶
たるが爲である︒その妃子の崩御︵嶬邪幸匡汗廿一才︶︶は白河上︑蛭をして﹁此後御紳心迷凱︐不ド知一束酉給上︒﹂
その御悲嘆の餘り途に翌凝九日御出家遊ぱした樫であった︒かく太上皇の最愛の女として﹁天下礁椛只
在二此人|﹂り得た所以は﹁進退美服︑風容池盛︑性枢寛︑接心好ソ施﹂に尚よるがその根底をなすものは寵
妃賢子の出︑﹁今上園雌妹﹂緬昼溶叩蔀記七︑︶に求めなければならない︒是と同様の御心怖は︑韮子韮画仁親王
に對してはより更に強かったに和逹ない︒即ち﹁依兜女之殊礎多﹂の御性向が此に於ては如従に示されそ
れはやがて正姉轤承の御棚念を益燕盛ならしめたと見微し得るであらう︒
後三條天皇の御讓位に就きて九七
1
1 J
Ⅱ
ⅡⅡ
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11
今假りに救上の理由を以て白河天廊一士の砿峨剛擶心の内的原因と催定するならば︑私は他にその御信念ぞ深
からしむる外的原因を見出すに難くない︒それは即ち白河天皇がその御異母弟軸仁親王に對し奉り︑皇位
の獣念を意企せしむる︑云は幽父討後三條天皇の御通志鉦祀の態度そのもの上中に於て図ある︒同時にそ
れは後三條天皇の御譲位の理由が那邊にあるかを示す有力なる賓料たり得ると恩はれるからである︒
白河天皇は應徳三年十一月冊六日の御談位に先立つ六日前︑即ち汁日に突然御讓位の御意山心を表示あら
れ恋左︶同日除目が行はれた︒御談位直前の除目救位には疑問なきも︑その恩皿︿に浴せし人盈を詳細に稔討
すれば︑後三條天皇の信任せし者即ち輔仁親王と心好き者︑及び中宮贋子の一派と︑盤〃に除目の行はれ
てゐる事を看取し得る︒就中軸仁親王一派をより多く優遇し以て急激なる御譲位を敢行せし事は何を意味
するか︒私は輔仁親王側の反感を緩和せんが爲の策ではないかと解したい︒
白河天皇と輔仁親王との仲合はよくはおはしまきなかったと推測さる上のであるが一判啼岬一郡鍛︾毎︐二︶ 迄流一年︒未だ立太子も見さ↓めんとする節二の理由である︒ 以上は白河天皇の皇位碓姉繼承の御循念か︑天県の御性向の一端として皇子並に中宮に對する御愛怖の
發現なる事を窺ったのであるが︑若し処のみの原因に止ろとするならば︑應徳二年十一月八日呈太弟愛仁
親王の蕊後直ちに第二皇子蕃仁親王の立太子を見るべき筈である︒然るに御誰位の應徳三年十一月廿六日
迄瀧一年︐未だ立太子も見ざる善仁親王が立太子と同時に受祁遊ばされたのは何故であるか︒是今より求 外的原間︒ 後三條天皇の御誕位に就きて
I
九八
その御交附の濃淡は鏥二の問題として︑兎に角剛者間に何等か相接近し得ざるわだか生りの作征を思惟さ
れ︒川以必根李哩後三條院並に白河院の皇位繼承問題に封する御観念山相異に求めなければならない︒
私は|︶の相異を白河上皇の御とり遊ばされた御態度てのものから見出さんとする者である︒換言すれば︑
白河天皇は帝白らの御性向に發する正嫡繼承の御念願と︑御父荊後三條院の御思召との相反する二元の對
立の中に絶垂こる御心の格湖を見た︒しかも御氣性果獣なる白河天皇は︑帝御親らの信ずる御念願の擬現
に遇越し︐術且父君山抑遺志に淌ひ率らざ↓︒良心の苛澁は︑風物の奇異に接するにつけて是を感ぜざるを
得なかった︒こぬ次弟を次の諸事項により立論し︑以て後三條火泉心御誕位心御意企を推及しよう︒
一.有仁賜姓問題︒帖仁親王の御臨経は誠に腿厄しき佛道往生に.狂ったガ︑而も尚此の時︑御心に懸け
︵有能︶
させられたものは御子右に並に鞭譜につきて︑参った︒﹁三位叩僻伽瀦歌偏伽慰霊﹂︵蕊︑土︑廿三︶
とは輔仁親王がそ山斑後を源帥時に託した御高梨でわる︒か杣作親王か御心にか上りし皇子有仁につき
て︑その御在仙中妓も御心配遊ぱされし事は打仁賜批〃州題であり︑それは同時に皇位繼承椛の断念を意
味丁る川越でもあった︒今こし川越を踵欣記宝永八︑七︶によって鋭み︒
︵輔雁︶一ヵ
﹁七口︑依レ召参二七惟窩三被レホレ仰云︑今州牛等院峅脹行尊馬二院御侠一体二御淌息一云︑﹁日來二位申北︵球力︶寓執←郊争︑可何様事乎・若有一一詐脊一者可二川入一辨也・宮云.爲苦子揃妹可y授二官祗一︑只宇治開白以二土
︵叩囑︶如ィ︵総力猫力︶稀力微力
抑門右府女一□し子也︐洗岬辿班叩云︑件男半白午不二叩耐一︑徹身不し叩二進退一︑只可レ随二御定一︑早思食亜御沙汰可y候也布︒﹂とは軸作親王か皇子布仁の︑二位膝光子︵膝公疫室︶の女衝子と結辨し臣下に降る
後三條大皇の御謎位に就きて九九
|後三條天皇の御譲位に枕きて一○○
事を慨嘆し︐しかもこの川題の一切ぞ円洲院に仰任せすらてふ柑々絶望的な御感術を源師時に洩したもの
に外ならない︒されば源師時は親王の御心附を拝察して︑﹁心一性洲雅︑尤右二器度︾﹂︵郷副弐純二︑二︶る /
有惟里子の事なれば︑その蓮は凡人の推知し能峰ざる所︐幸迩たれば臣下に列するとも帝となり︑幸運た
らずとも顯官として朝廷の概要なる人物たる事は勿論として︑古來の例誇をもって御慰耕し奉ったのであ
った︒︵銀蝿記︶蓋しこの賜姓が從来の王孫賜姓と趣浄異にする所に姉作親王の哀愁〃拝察せぬぱならな
い︒然らば親王は斯の如き御焦胆溌敢てして何故皇子有化の賜姓を許容したのであるか︒元より親王にも
親王御自身は史なり︑皇子有化に對しても︑泉位の絶鼈左透脱しての事ではあらうが︑その根抵には白河
院の正岫思想に發する策動が多分に存する邪ぞ見逃し得ぽい︒何故ならば上述せる白河院の御仙たる平等
︑謹持僻次第︑小右記︑院僧正行噂は︑源茶・牛の子にして後三條帝な御基子の御兄弟であり一長承四︑二︑五︑斌卑︶從って軸化親王
凸〆分脹十一︑の外叔父に當ろ御方である︒二位藤赤子録榊姉恥七︲︶は恥河︑鳥調川帝の御乳母︵婆諏︶にして︑その
夫公蟹︵癖評分︶の妹政子は堀河犬︑韮の女御︑鳴刎帝の母后に常る・称紳剰︑十︑廿九︶即ち二位光子は白河院
と辮接な關係にあり︑价箙行尊は血族的に軸作親王と糯接な間柄にある︒その行尊が向河院の御使として
仲介に立った︒果して有惟里子の御結辨の件は︑その室となるべき涯子の母即ち藤光子が率先して巾出で
たものであらうか︒一歩謎って光子の申出にありとすれば白河院にとっては誠によき機會であったに相違
へ輔仁︶韮イ如イ
ない︒﹁被v仰云︐所し示可レ然︑叉僧正内糞告云︑落書對字獅主女陰陽筈發於二如レ此事一永可レ断二其疑一︑
Tイー
ヘ政子ノ宗仁オ壷ハ馴隆宅ナリ︶存力
彌聞二此事一︑如v臨二深淵一︑如y踏二薄氷一︑迅瓢隆傅二仰刷一云べ僻正又云︑有二思食氣色一者︑自可如答□︵元永二︶
かくしく同年八月﹁十四日誠今夕三宮之子悔有仁︑賜γ鮴爲r源覗棚﹂︵巾右氾︶り﹁凹融院抑後碓所し不
γ見也就中後三條院後胤中賜レ姓爲v臣側出来﹂︿壁︶とはなった而も此時﹁凡件間事︑︵中略︶凡毎事勝二
近例一︑加之上白韮丁寧御詞不レ可二勝計一︑﹂︵一正獅割︑八︑十四︶の有仁好遇は︑打仁賜姓の動機が白河院に發
輔に︶
する事ぞ物語るものではなからうか︒それは元より﹁依二父親王盛錐隣・︸﹂罫昨年︶に相迷なきも︑之と共
に白河院が御念慮御逹成の得意を示すものではなからうか︒更に云へぼ白河法泉が軸仁親王への過去の何
魔をも知れぬ冷かさ並に御父荊後三條天皇の御遺志無硯に對する法泉御親らの良心の苛斎苦悶を物語るも
のであり︐その緒川的御苦悶をか上る有仁好遇によりて總浦算せんが爲に試みられた人間的發露ではなか
らうか︒私は法泉か龍に御異母弟たる軸作親王の泉子即ち御甥に餅らせらろ上の故のみぞ以て解するに
は︑束件が餘りに複雑化してゐると忠ふのである︒
へ鳥羽︶二︑宗帷親王立太子卒後三條帝山陵に奉告の事︒内河上泉に復位の問題を思はしめる樫正嫡思想に燃
えてゐた事は︑更に︑に係一一不仁親王御降誕の御所︿︑刷蛎鉦咋鰯︶によって知る︒かkろ御所願御渦紫の
中にあって女御政子の一蒋畷艇康︵牌怖坤︑正︑十六︶は︑御父調堀河帝の御喜びは兀より︑白河法泉とて
後三條天皇の御譲位に就きて一○一
慾イ早令レ巾一座之由一者︑大略人觜同心合刀・如ゾ乖小一條院東宮一之議欺︑誠不可然不可職事也︑﹂︵韮鍬詔︶と
は何を意恥するであらうか︒私は有作の賜姓か白河法皇の御意企に本づくものであり︑それは即ち白河院
が︐父君後三條帝の御遺志たる後三條帝山御基子の系統をして王位の繼承樅を断念せしむる一手段と見倣が︐父君後三條一
し度いのである︒
後三條天皇の御謹位に就きて一○二
も﹁御感之餘及二落涙一﹂一華んだ程であった︒↓︶の﹁不し拠累係愛怖一﹂︑法皇は︑同月廿五H政子の御産
所︵雑感評︶に御幸あり︑宗忠をして﹁可v訓一希代勝耶一︑﹂と感晩せしめすては鵬れなかった程であった︒
蛎力然るに不幸同日女御政子の斑去走朴︶は﹁仙常宛如三春夢一考﹂の無術存晃ゆろのであったが︑この不幸
は法皇をして更に宗仁親王への御寵愛を一府高めたものと云へる︒との見解は宗仁親王立坊次節を見る事
心弱によっても首肖川來る︒即ち親王御降誕後未だ五十Ⅲの鱗も見ぬのに︐既に白河法泉は宗仁親王立坊の鞭
を案じきせ給ひ毒議宗忠や通じて江に腸に立坊の七m例を紬巾さしめてゐる︒︿耐姉乖︑二心二六︶そして
その年立坊の不可辛仰〃知遊ばさせながら︑而も透に同年八月十七Ⅱ﹁有二策命立太子一﹂︵大邑つた︒法
卯はこの早き立坊心爲に戎は卜笠により︑︵癖娠釧郡九︑十五︶或は先規花塞照し︵詮︑仔四︶︐或は叉祁佛に
その御安泰や所念し詮上硅朋訓︶︿部1冊日︶又は上向曄御垂同ぞ後三條帝山陵に奉る︵八月六日︶等誠に御恨重
を極めたものであった︒蓋し糸仁親王の御降誕と云ひ立坊と云ひ︑か上る上皇の御旗亜なる御態度並に類白河例少き御愛慌は︑皆娃上皇の正嫡繼承の御念噸に肺納し得るであらう︒然らば上皇が御父荊後三條帝の御
遺志無税の精祁的御苦悩は何鹿に見出さるiか︒私は処を白河上里が宗仁の立坊を後三條帝川陵に奉告せ
られた事の中に見川さんとする者である︒
先づその前提として︑白河上県が躯に製孫御愛儒のみの爲に上述の如き宗仁親王へ御愼重なる御態度を
御とり遊ばされたと解するならば︑次の如き矛脈怖着の御観念を指捕し得ろ︒即ち上述の如く宗化親王の
立坊の件を江に房に勘申さしめた時︑に房は答へて︑親王宣旨は﹁當時皇子多以降誕歳被y下﹂るが︑立
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さs鎌汁e言序園汁誰弔評杲伽や 丙苓唯 僻国Eタ﹂いくが静荊汁即環季e.
︷細峠︶せるか宮問題となるが︑この詳細は符略する︒唯︐結論ぞ恥的に云へぱ錐二皇子浄舜岫雑王︵恥却祁中 師輔女︶には第一皇子たる御恥母兄肢平親王︵河予藤元方女︶が在しました︒この節一画韮子海伸りて節二︑王子
悲平親王の立坊老醍醐帝山陵に奉告し︑以て太子の前途の光明を御斬りしたものではなきやと恩ふ事であ
る︒この先例を杖して︑白河法皇は御父飛後三條火塁の御思召たる女御韮子系統を無税せる恐朏御不安の
御思召から︑後三條帝の山陵に御書葬奉られたものではなかったか︒況や従来の山陵使發避か立太子後に
行はれてゐるのに反して︑これは又その前後共に行はれた特殊の鄭璽さに於て図ある︒
どの告文の内容︵露祁垂哩辨禮一一泡殆ヨリ︶は︑﹁今度立太子せと入する宗仁親王は僅か一歳ではあるが︑
正しく聖露の嫡曾孫繼胴の長たり︑願くぼ皇太子に興鑑を韮れさせ給へ﹂と云ふにある︒弦に於てか白河
法皇の正嫡思想の御棚念を拝察し得ると同畔に︑その御思汽を一暦徹底せしめんが爲の御所川であり︑他
⑪面又その正嫡たる宗化の立太子が柵撫の中にあるの御不安による御所願でもある事を知る︒若しとの一歳
立坊の御不安を思召しての御所噸であるならば︲さなきだに主上の御厄年︑女御欺式姥去の康和五年に舷
て立太子するの必要彰認め得ないであらう︒更に叉︑若し白河法県脹嫡思想の起因が︑既述の如く班なる
御曾孫への御愛猜に發する内的腺因にのみたるとするならば︑敢て後三條帝の山陵のみにその御所願を制 り︑清和︑陽成︑醍醐︑朱雀︑冷泉︑花山︑三條︑後朱雀の立太子に之を兇︑宗仁親王の場合︵睡祁酔右榔廿五︶も同様である︒然るに立太子前山陵使溌辿の先例は奉告文に示す噸︿職︶の立太子以外には
︵冷泉︶之を見州さない︒そこで村上天皇は節二糸子恋半親王の立太子を何故御父飛醍醐天皇の川陵に奉告 後三催天皇の御謹位に就きて一○四
I
約すろの必要を認め得ないであらう︒從來通例の川陵使御發遥に於て先帝の山陵を除外した例は殆ど絶無
と云へるであらう︑然し特殊の事項による特殊吻山陵使發避の場合は︑必ずしも先帝の御陵か含まなかっ
た︒霊紀元喪秤泌鍛畑奉錨繧恥計祁沁恒群罐坤咄舞︶それは特殊の事域が先帝の山陵と直接的關係を持たなか
ったからである︒故にこの宗仁親王立太子の場合︑後三條帝の山陵しみに御耆を奉られし事は︑必ず其の
間に将接なる何等かの介在を恩はしめる︒その介亦を私は白河法泉山正嫡思想をより弧間にせしむる外的
原因︑即ち白河法泉が後三條火皇の御逝志無税の御懸念の中に︑求めたいのである︒
三︑塀河天泉の御談位の思召︒白河上皇が県孫宗仁親王の立太子に當り︑如何に御愼璽なる御態度をお
とり遊ばされたかは上述の通りである︒是と同様に︑白河上県が同宗仁親王の御受祁に當りても亦御父君
後三條火皇の御遺志を州かられてゐたと恩はるk事は︑讃岐典侍Ⅱ記に示す堀河天皇の御不溌による御誕
︵師庇﹂位の御思再に開する一文である︒嘉承二年七月六円堀河天皇御重病に燗ませられし時︑﹁大臣はあるかと
間はせ給へば︑大とのいらせ給ひて︑さぶらふよし申給へば︑御幸は成ぬるかと間はせ王へぱ︑しか成候
ひねと巾させ給へぱ心参りて巾せ︑今は何事もやくさぶらはし︑たてさせ給ふ尊勝寺にて︑九塊の護摩と
倣法とさぶらふべきなり︒叉侍らはむずらん邪は︑何事もこょひ侍らふぺきぞ︑あすあさてさふら︵ふ︶
べき心地し侍らすと仰せらるれば.あまり誰嘩こそおびた回しく侍らへと申給へぱ︑こはいか贋いふぞ︑価衣かばかりに成たる事をぱと仰らるれば︑御なをしの袖を誠に発しあて上立給ひね︑それをきかむ御めのと
だちも︑いかばかり蝿えむ︒大殿蹄り参らせ給ひて︑されば︑去年をと出しの御事にも︑さるさたはさふら
一
後三條天塁の御譲位に就きて一○五
︲111︲ljpq011︲
,
I
後三條天皇の御醍位に就琶て一○六
口
鳥羽︵五才︶
ひしかど︑宮は御年のおさなくおはしますによ︲りて︑けふまで侍らふにこそとなむはべる︑と泰せらる上にぞ.何事も唯今宵定めさふらふぺきぞと仰らるれば︑さは此仰事にこそ右けれと︑今ぞ心うる︒誰もい
もねか守り参らせたれば︐御けしきいと苦しけにて・御足をうちかけて仰らる比やう︒我ばかりの人の︐
けふあすしなむとすろを?かくめも見たてぬやうあらんや︑いかNみるととはせ給ふ︒聞く心地たぜむせ
かへりて御いらへもせられず︑たへがたけに守りゐるけはひのしるきにや﹂
とあるが右は﹁あすあさてさふらふべき心地し件ら﹂ぬ州刈帝が﹁侍らはむずらん事は何事もこよひ侍
らふぺきぞ﹂と只管側洪位を御心にかけさせられ︑御心↓ぞ安らかにして榊去りまさんとの御念噸に發せら
れた御言葉ではなからうか︒
若し然りとするならば﹁何事も唯今宵定めさふらふべき﹂の誠入れられざる術としては︑﹁かくめも見
たてぬやうあらんや﹂と御狐色いと若しけなる御様か推し測らる上のである︒︵まして︑冷泉天皇以後︑
白河帝に至る十代の帝にして御漉位遊ばされざる帝は︑唯後一條︑後冷呆妙雨帝に止り︑而もこの舸帝と
雌迩綱により喪ケ秘して御一縦位の鱗︿澁柳岬恥張啄叫九四四やは七︶孝行はせられてゐるのである︒換一二両せ
︵師庇︶ぱ践昨征非ずして受祁なら術時代机中に於て瞳ある︶︑さて鼓に問題とするのは﹁大殿蹄り参一らせ給ひ
︵睡勿︶︵五歳︶
て︑さ伽ぱ︑去年をと上しの御事にも︑さるさたはさふらひしかど︑海の御年のおさ底くおはしますによ
りて︑けふまで痔らふにこそとなむはべろ﹂と堀河帝に奏せられ給ひて帝の御譲位の思召淀認められなか
った事である︒この﹁去年をとLしの御事にも︲一の去年とは嘉承元年であり︑﹁をと上し﹂とは長治二年
I
毎指すのであって︑﹁御事﹂とは﹁日のふるま上にいと弱けにのみならせ給へぱ此の度はさなめりと見ま
︵長活二年︶いらする悲しさたご思ひやるべし︑をと比しの御心地のやうにあつかひやめ参らせたらん︑何心地しな
んとぞ覺ゆろ﹂上對照する時︑やはり天皇の御病氣を指す﹁御事﹂である事は明らかである︒故にこの嘉
承二年七月︑天画乖御讓位の御思召は既に長治二年乃至孫承九年の御不豫吊右記︶に當りても御提悟遊ば
され︑その麓現を望ませられた事は拝察するに難くない︒然らぱかLろ御重態に慨ませらるk天皇の御讓
位の御思召を︑何故父謂白河法皇は御獣許遊ばされぬのか︒長治二年然り︑嘉承一兀年然り︑同二年又然り
︵堀河︶
であった︒況や画痙係宗仁規王が御年伽かに一歳︑而も︑壬上厄年女御蕊去の最も不幸なる康和五年にその立
︵隅弱︶太子浄敢行あられし白河法皇の御性急さに於てrある︒﹁︽品の御年おさなくおはしますによりてけふまで
侍らふにこそ﹂霊︶小御理由は︑除りに苅弱な氣がする︒
そこには考察さるべき御事傭も存するではあらうが︑私は是を後三條天皇の御遺志なる霞仁親王の御即
位ならず︑從ってその御同母弟帖仁親王或はその皇子有仁今ぞ仰りての御叡意に發するものではなきやと恩位ならず︑郷
ふのである︒
四︑堀河天皇御不豫による側︽一本寺山陵使御發避の郡︒白河法︑一上のおとり遊ぱされし御態度即ち上述の粘
艸的一禿の格岡から︑後三條犬皇御瀧位の御理川参炉窺はんとする鋪四は︑白河法皇が皇孫宗仁親王立太子
の場合と同じく︐堀河犬堪哩御不豫に際し︑先帝後三條天皇の御陵に山陵使發避の事項である︒その問題
とすべきは嘉承二年七月十三日後三條帝山陵に奉幣使が立てられた時の告文の内容である︒
後三條天皇の御裂位に就きて一○七
一
後三條天皇の御漉化に就きて一○八
堀河天皇の御不渡に州聯する川陵使發遥は︑嘉承元年と同二年との二つある︒その前者は作抑寺法制王
︵杣翔碑﹄一恵蒜↓一唖帝牡罰榧病抑榊韓症御博︶の前年送られた房舍が︑光孝飛泉の後川邑山陵凹至内に入ったが鰯
に︑山陵は鵬動し法親王は入滅念諦郭十一︑十八︑十九︶し且﹁近日公家玉総不豫﹂布柄一睡廿八日︶と
なったので︑天皇御親らとは極めて間接的のものであった︒然るに後考即ち嘉承二年七月のそれは前者と
頗る趣を異にする︒
恥河天皇の御病気は嘉承北年以来種変閥交の御所藤.御修法にも拘らず御平癒なく︑珠隆一年七月以降
は﹁龍顔氣色頗令レ屈御也︑奉レ見・|心榊迷飢一不し能言語一﹂︵熱群率い七︑十︶程であった︺されば法皇
へ十二日︶は民部卿源俊明尭して藤宗忠に﹁殊有v所二思食一︑明後日可し被v巾一一事山於後三條院山陵一也︑駕二御使一可し琴
也﹂と仰下され︑と上に二日告文を奉らる上に至ったのであるuその告文並に奉告か如何に御恢亜であ
り御眞劒であったかは中右記︵嘉承二︑七︑十一口に明瞭である︒然らばその告文の内客及その奉告の御動
機如何︒この告文の要鞁は︑州河天皇の御不例か若し後三條帝の御典ならば早く平癒せしめ給へ︑と云ふ
にあって︑その御崇と思召さる出御心當りは︑﹁七八年前二中宮女房稲二聖姫御託次天云︑仙兼寺事陵迩
挫多︑怨思食と示給恥有けり﹂と云ふにあった︒故に過去はとも角︑自今以後は諸堂の破撹は元より幽忌
並法花最勝二倉は最も厳重に行ひ給ふを以て︑天皇の悪蝿邪氣を桃ひ何等の苦痛なく早く御平癒遊ばされ
るように︑との御所願である︒この告文中考及すべき問題は︑凹宗寺の陵逓の事と︑その七八年前あった
と云ふ聖嬢の託宣とは何かの二つである︒
凹宗寺の陵遅の事︒側宗寺が後三條帝と最も密接左關係にある事は扶桑略記垂久窯社癖垂︿︶爲房抑
記筵久五︑正八︶以下その他の記録に明らかである︒その起工は延久元年︒二會八誰は延久四年十月廿
五日に初まり︑後の法勝寺の犬乘命と併せて三命と稲せられ堅義があった︒然良ぱ後三條帝聖露の託文な
る﹁回宗寺陵逓拡多﹂が白河院治下に於て事雷なるかを確かむ↓︒必要がある︒伍しこkに制約を受けるもの
は︑この託宣が今より七︑八年前叩ち康和二年乃至三年か頃にあった事で︐その醗也一︑三年葬櫟機とし
てその前後に回宗寺2−禽八誰が如何底ろ興唆坐や嚇せるかを一併せねばならな砲その興陵の特に目につ
くのは︑①唯徳二年十二月十七︑十八日︵岬鋸細師廼意僅︶②服測地年十三月五日垂州批認岡宗f行幸︶③康
和四年五月廿六日︵榊蹄御︶④嘉承元年六H冊二日︵誹稻鰔僻︑岡疾寺にて︶及同二年一月八日︵脚許耗修正︶
五月九日︵紳琳燕︑︶のⅢつである︒この中①雌徳二年のは贋子中宮の災よりする﹁天卜之政皆以腱務﹂
︵幟群冠︑九︑廿四︶に起因し︑②峻和・兀年のは法皇第三血生子受行法親王が側宗寺の大呵棚梨となられた事に
因るのであって︑共に問題とするに足らない︒故に聖砿の託立があった七︑八年前の常時何等かの事象あ
りし事と併せて見直す必要を感ずる︒
聖鯉の託宣︒この嘉承二年より七八年前たる朧測二︑三年の川來事ぞ見るに︑その託立と開聯あるも
のは康和三年三月五日ゆ﹁狐媚の妖﹂である︒即ちに腸吻﹁狐蝿記﹂唱主上依ド造二御順寺一不ヒレ猟二耐五
夜一︑有二避方忌之行幸︸︑忽有二何人崎し馬厄從一︒畢二左右杣一︑自掩二其川一︒批後有二飛繩小舎人賊人一︑大里
肋藤原重隆怖而州v之︑不し符二F細一︑馳二人於朱惟門一︑杵胴不v兄﹂がそれである︒この﹁依ド進二御願寺一
後三條犬皇の御誕位に就きて一○九
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後三條大皇の御誕位に就きて二○
不上し瀧珊五夜一︑有避方忌之行幸一︑﹂とは﹁行二幸鳥羽一︑川疋依二新御願作事一︑鰯二御方逮一也鑑帷獅聯﹂
︿榊鰄郵個群一一︑廿七︶に照して明かであり︑その新御願寺とは﹁件御職法勝寺西壱﹂︵鍬蛎上︶より尊寺寺指
し︑同時に尊勝寺に開聯する事も明らかである︒故に法勝寺尊勝寺が朝廷と如何なる關係交渉あるかぞ見る
事によって側宗寺の陵迦か推察される課である︒然しこ上にはその詳細を見るのは餘白を持たぬか︑卜も角
剛寺に對して朝廷か如何に噂栄し御熱心であったかは疑問の餘地がない︒今便立上この聖蛾託丘のあった
覗年即ち醗和四年一ケ年間の州廷の御心づくしを見ても法皇の剛寺御幸十二回︑堀河帝の行幸二回に及ん
でゐる︒叉何年祇年穀奉幣日窪蛎H︶にも拘はらす法画韮は法肪寺・新御願寺に御幸あり︑爲に︽一所陵之を 評して﹁祇年穀奉幣朝家大事也︐価諸剛應務.耐今日太上火皇有二御幸一條︑価人不二甘心一鍬﹂と痛晩せる
に微してもわかる︒斯の如き剛寺の硴會に比すれば側示寺は誠に陵迩法しきを想像し得るであらう︒
恩ふに側宗寺陵避の聖雛詫汽は︑從來凹宗守り法花雄勝の二稗が法勝寺の大乘禽と共に三會と孵せられ
ながら︑その一向たる法勝寺への上皇の好辿は卿宗寺へのそれとは雲泥の業であった︒加之新御願寺たる
噂勝寺の建立は史により一脈凹宗寺への陵避を蹄示丁ろも山に外ならない︒故に未だ新御願寺建立の完成
露刑八︑廿九︶せぬ以前︑法皇か﹁新御噸寺を造るにより御方述の爲︑烏湘行幸二糠裂一鈩七︶の時
に︑狐加の妖と連關して回宗寺の好遇を願ったものではなからうか︒然らばこの託宣後︑︑河法裂は凹宗
寺に對して如何なる好遇毎遊ぱされしゐゐか﹄鼓に於て払は上迦指抽した③朧和四年心と④燕承年間の︑
︹後三條︶とを老察せねばならない︒嬢洲凹午五月廿六日の妓恥誠し盛曾さ峰勿論﹁孝一先老一被二八誰一事﹂︿獅僻諏祁
。
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五耐廿箏ではあるが︑その根源は白河天画聿が︑中宮賢子の皇子御降誕を所り奉る爲に八講を初められた
のである︒嘉承元年六月廿二日﹁今日太上呈於二凹宗寺金堂一供二養丈六五大尊像一︑則被ソ修二御修法一﹂
︵中右把︶は︑同年六月十二日﹁内御風之氣御﹂︿榊右︶す爲の御所願であり︑諏峠詫嗣姻醗畔睡鋤睡綱毒梼群︑
椛娠効誹︶翌二年正月八日より十四日迄妙凹︽一示寺修正も.堀河火山圭御不諜の爲であって聖鯉の託育一とは極
めて間接則である︾換言ずれは七の告文内容に示す如くこの託宣による凹宗寺の復興は企脚されてゐない
のであら・若し然りとするならば紋上腿糞見て来た白河法皇か後三條帝の御意志無税の良心的苛黄即ち上
皇の糖祁的二元の格岡は如何に解すべきであるかと反問しなければならない︒思ふに白河天皇が度器高
大︑︑有識にして非浅才︑聖明の君に在しまし︑他面又﹁理非決断︑賞箭分明︑愛憎ヲ描粥﹂の極めて単白
果断の御性向に渡らせられた事は既述の如くである︒がこの因術姑息なき剛毅果断.単純一路山御性向が
法巣の御平生をして︑極めて快祇︑明朗なる御統淌を遊ぱし給ふた︒その崩御に臨み﹁供無二一定之遺誠︸︑
所謂片時之噸減︑迩恨之至︑耽不γ可レ説﹂︿称鄙岬い七︑七︶と榊せられたのもか上る御性向に渡するもの
と見たい︒されば法泉し御平素に於ては︑御父謂後三條帝心御辿心雑脱等云ふ御懸念は胆ひもよらぬ事で
あったに相迷ない︒康釦一年の聖鯉の御託血は元より︑その珊河火里抑不溌に徹ら叫宗寺修正︑鐙勝誹が
誠に一片の形式に止ろ感を抱かしめるのも︲との爲である︒然るに偶些事亜大危機に臨んでは平生の御懸
念なき反動としてか︑二元の格闘︑粘脚的御苦悩かより強く作川して來る︒即ちこの凹宗寺の冷遇が︑州
河帝の心祁迷飢死生の境をさまよう重大危機に臨んで︐正しく良心的苦悩に目ざめたものと見たい︒堀河
後三條天皇の御談位に就きて一二
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後三條天皇の御誕位に枕きて︑一二一
帝の御重病の爲に純愛寓妾の御修法︑御川〃も行った︒而も尚その御効嶮なく﹁龍餌氣色顛令v屈御﹂す
主上を見奉りては︑法敗な時後小知の迷飢に陥わりを如何ともなし得なかった︒時偶奄火韮仰不溌の御卜
に關聯して﹁鵬御皿吐一二向上︑夫川口血剋狐鴫事︑縦令y肋例﹂︿剰軸訓七︑十︶の御卜も併せ行はれた︒
この狐鳴により聯想さる比ものは旗和二年の聖鯉の託立にあった︒川宗寺には既に去る五月十九Ⅱ鄭亜な
る妓勝誌を行ってゐる︒︵小布浬そい根本である後三條院の御俊に﹁殊有v所一一思食一﹂りて山陵使心御發
辿を見たのではなからうか︒﹁殊有γ脈二思食一︲|とは︑凶家寺の陵迎を忠筒した後三條火坐し聖蛾を慰安せ
んが爲であり︑それは法兜が後三係帝の御遺志無税の糒祁的苦悩を味っての事ではなからうか︒﹁夫夜夢奉
v見二堀河院先帝一︑於二抑所北中門方︸︑召二集楽人一︑有二音楽一︑川樂止ヨヤ突云︑依v可γ行一叫宗寺蚊跡向一
可二毒候一也・仰云︑早可y参欺者︑其後夢溺︑懐奮之思不シ知二所し謝一︑二副詫尹二︑八一とは宗忠の叩単な
る夢に過ぎないとしても︑岱所怨躯忠想流行し︑しかも宗忠は州河帝御不豫の危急に當り︑後三條帝山陵
に山陛使として.上里の告文を拝読Ⅱ詞を以て巾上けた︑そのかみと何等かの關聯を暗示するものではな
からうか︒先に白河法由韮か︑先老後三條山陵に封し︑画蛭子刎河帝の御降誕山御価り諏嚥堰迄あり︑今
叉天皇仰不豫御平癒の告文を奉る︒誠に経始白河法坐り正嫡忠狸を物諦︾わと同時にその強張り聡県先老
後三條帝山聖鯉心共助を乞ひ奉った事は之を単なる一片心鱗峨と兄倣すには除りに愼収の感がある︒
四︑院政の思召
後三條天皇に院政の思召があったと云ふ明白な記録を壁すものは︑云ふ迄もなく患管紗︵掴唾錘不巻一亜
P
巻四恥巷七碑︶及今鏡等であって︑三浦姉士は愚梼紗がその初めてのやうだ︑と云ってゐる︒︵睦嘩呼
彌蓉鐸︶天皇の藤氏峨錐家に對する抑雁策は︑天皇の御血統に於て︐その親政に於て︑皇位繼承の問題
に於て︑或は碓録家そのものとの關係に於て充分是〃看取し得る︒この覗念はそのまL院政の思召にも流
用し得︑しかもかく老ふる事に於て天皇の御興意が窺はれてならないのである︒こ上には①院司の人物と
②院臓始事と︑④院藏入所の事との三つぞ考察する事によって︑後三條天皇の院政の思召の理由に供した
い︐亡思ふ◎
1︑院司の人物︒先づ問題とすべきものは︑既述せる天皇の人事行政に於ける新人抜擢山有力者が︑皆
悉く後三條上呈の院司となれる事である︒祥って宇多帝か︑時に御喪算健かに十三歳の皇太子醍醐帝に御
譲位遊ばれ︑而も院政を見巌かつた所以のものは︑是を寛平の御迩誠と股肱の軍匝群・雌道眞の補佐とに求め
なければならない︒若し後三條天皇にして院政の思召もなく唯御不豫の爲のみによる御讓位であると解す
るならば︑寛平の御迩誠にも似た御敷訓か︑將父天皇の御理想の下に抜椛好遇せられし中堅の人材は︑是
灌新帝白河天皇の輔佐に常て上然るぺきではなからうか︒たとへ蠅錐家の外戚樅を抑制し︑或は時の關白
教通と天皇の晩年に御交附があったとしても.その政治ゆ一切を藤氏擶闘家に委托するには天皇親政の御
諦めの早さとその新政の時川の短かさと孝流感する︒呪や新帝白河天皇御喪坤倣かに廿才︑未だ御弱年の
︑山槐記城を免れなかった宛毒二︑九心廿六︶お若さに於てをやである︒然るに他方後三條上皇の院司はその親政下
後二一條天皇の御譲位に就きて一二一
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後三峠天皇の御謹位に就きて一一四
に見た有爲の人材を以て網羅したのは何故であるか︒私はと上に上皇の御政策上よりする院政の思召を見
川したいと恩ふのである︒この上皇の院司の人物考察に職り︑過去に於ける院剴の史的經過を一孵し︐以
て後三條上皇のそれと如何に開聯し︑如何なる特殊性を示すかを錘ふ事とする︒上皇の地位に在しまし乍
ら天下の統淌に御干沙遊ばされし啼矢は之を孝諏上白玉に求め得る︒銅撫枠一霧に蔀︑六︑三︶その院司の語の
初めは仁叫帝の朝︵噸祀秤唾郭承︶に見え︑院司別常は伺帝吻承和二年安僻茨仁か唯峨上愈韮の院別樹となっ
てゐるのが一初めてのやうである︒︵隼認割四砺踊読函安仁ノ峠︶然しここには何等の政治的意味はなく︑叉
彼の位階も承和五年︵柾︶任参一議︵池四︶にすぎぬのを見れば︑さまで要職でない事を知る︒爾来その別 閻︑判官代︑藏人︑︑王山筏並に院組維等を一僻するに︑院司は概して下官の渚が柿せられてをり︑院別鴬と
雌︑西宮記に云へる如く比較的官位低く︑従ってその要職たらざる事は推測するに難くない︒今︑後三條院
の先例に最も近く且その考察の参考となり得る三條院の院司を眺め︑以て此と彼との間に於ける二つの特
異性を指示しよう◎三條院の別営は︲大納言︵正三藤逝細︑椛大示己藤騏通︑椛中︵正己源俊畳︑伺藤懐
平︑参議︵正三︶泌道方︐︵鄙稚域正廿九︶等の正二位或は正三位の公卿である︒是等を以前のそれと比較す
る時︑その高位高官の者たる事に一見不思議の感が秘く︒然し是等の經雁ぞ刷るならば︑礎に當時代祁たる
保守的︑形式的︑典鯉故麓を重んじた儀式一難強りの特色を明瞭に物語る一資料としか老へられぬ︒即ち
藤這細は冷泉院御給︑︵伽梨啼岬匪蠅燕F︶一條院別當︿鐘泓拡ヨー︶の經雁を︽源俊賢は一條院別耕︵斌裂八︑六︑︶
の経歴を︑源道方は冷泉院御給︵趣理症︑七︑廿二︶一條院別當︵金上︶の經歴を有する事に於て賀ある︒
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故にたとひ高位尚宮の方交が院の別當であるとしても.その妓初の安倍安仁が嵯峨︲エ基の刎鴬として伽
等蚊治的艇關與しなかった如く︑寸毫も政治的意味妙含まれてゐない事は明瞭である︒然るに今立場を代
へて是を擶關家の側から見るならば︑か比る院別當となって藤氏一族並に源氏のそれ等は︑寧ろ藤氏蜥關
家がそし政治的劣刀幽門より腿逐せんが爲の彼等の一方便︑一苦策たる事を物語るものにしかすぎぬと感
ずる︒かの碓鋒家全盛妙道長か嘗て凹融天皇の天一沁一二年︵鉦明︶冷泉院御給として從五位下に叙せられた
事は︑未だ弱年の下宮たる時に於て図あり︑椛大︵正己頼通が三條院の別當となった事は︑所謂攝録家
ならざる藤氏並に源氏の別當に對して︑その監脱の任に當られたるに非非やとの臆測さへ暹くせしめる︒
何故ならば.この三條院の別當源俊睡旦は醍醐源氏︵醗酬︲高明俊豊︶同迩万・か宇多源氏︵序︾脚畷趣銅王︶は
元より︑膝道細が兼家の三男にして弟道遅に雌せられ後処する道綱流を見る時に︑懐牛が小野宮奮頼流
︷確雑分蠅郵︲櫻平︶︑同判官代藤公信が爲光流くい評サ︶たる如き︐鶯膝氏一族とは云へ雛録家とは相容れ
砲立場なる方盈に於て■ある︒然らば後三條院の院司は如何︒
公卿別當五人︑椎大︵正己藤能壜後蕊長︶︑椛中︵正己源盗綱同藤賛仲︑参議足四上︶膝伊屍︑同雌資
季︑別常︑文章沖士︵正四k︶藤抵政︑瓢細州臣︑
式側少丞
判宵代︒忠季︑宗韮︑爲房︐費消︑師季︐
主典代︑公文︑へ爲房郷把︑延入四︑十二℃廿一︑院睡始蛎︶
の人觜にして︐而もか上患院司は特後三條天皇の親政下に於いて登席抜擢された人糞である︒この登附抜