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胡也頻試論

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胡也頻試論

著者 齋藤 敏康

雑誌名 静岡大学教養部研究報告. 人文・社会科学篇

巻 19

号 1

ページ 1‑32

発行年 1983‑09‑01

出版者 静岡大学教養部

URL http://doi.org/10.14945/00008505

(2)

敏 康

噸︑は じ め に

 一九三一年二月七日早朝︑龍華の処刑場に散った胡也頻ら左朕五烈士︵李偉森・柔石・胡也頻・凋鐘・股夫︶については︑従来︑左翼作家朕盟︵左朕︶の活動の不屈であったことの象徴として・またその死があまりにも若く哀切に満ちたも

のであったために︑悲劇的な彼等に対する同情をこめて︑左朕の﹁戦士﹂として記憶されることが多かった・そうした傾

向は同時代からあり︑五人の虐殺に対する抗議の意をこめて創刊号を﹁紀念戦死者専號﹂とした左躾機関誌︽前哨︾︵一

塗期︑一九三年四月二吾︶では薗民党の文化破壊と藩文化逮動に対する圧迫の下で・最も卑劣で馨な護で

暗讐れた藷作家﹂として追讐れてい融︒ま差朕五烈士舞の文学史的縫建めたとも雷える魯迅の追笠薦

国無産階級革命拳和前駆的血﹂も﹁中国の無藩級革命文学は︑會と習とのあいだにうまれ・侮蔑と圧迫のなかに

成長し︑ついに最も暗黒ななかでわれわれの同志の鮮血をもぞ最初の文章を書いた﹂といった情調で貫れている・そし

て︑その後︑三十年代に︑作家或いは詩人としての側面から︑左朕五烈士文学の同時代における位置なり意味なりを論評

することは殆んど行なわれなかったと言ぞよ%︒勿論・叢の蔑に伴なう文化支学運動の蕩を目の誉にした国

民党政府が︑当時の中国共産党の路線闘争に付け入って︑租界で活動していた左翼作家を︑他の十八名の革命家とともに

      一

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逮捕︑処刑したという事件は︑それ自体が衝撃的な政治的事件であったし︑その意味や背景も決して単純なものではなか

った︒それはまず国民党政府が二九年に発布した﹁宣傳品審査條例﹂を始じめ︑三十年の﹁出版法﹂ ﹁出版法施行細則﹂

などによる左翼文学の出版︑文学活動に対する弾圧のひとつの帰結であった︒これ以降︑国属党蜜伝部は一層剥き鐵しの

弾圧を左翼文学に加えていくことになるし︑左朕でもこの頃から文化運動や路線についての潜在的な意見対立が露になり

始める︒そしてその対立の背後にはコミンテルンの方針をめぐる何孟雄らと陳紹轟の路線対立があり︑二三名の犠牲者の

中から左朕が﹁五烈士﹂だけを切り離して﹁追悼﹂するということの中には微妙にこの鮒立の影が差していることも既に

指摘のあるところで麺る・こうして左躾五烈士は︑芳で︑急速に全体主義的傾向を強める国民党と︑革命勢力の激しい

閲ぎ合い︑他方︑革命勢力内部での路線闘争という混乱と錯綜の中で犠牲になった﹁革命作家﹂として︑文学史にその位

置を占めることになっている︒

 しかし︑如何に政治の惨禍の申で犠牲になった作家とはいえ︑創作を通じて自己の認識を礎示する作家は︑やはりその

作品を通じて評価される必要があるという当然の課題がひとつある︒さらに︑近年中国で五烈士に対する文学論的アプロ

ーチがみられるが︑それらは押し並べて﹁左朕の作家﹂としての彼等を至高の位置に据えて︑五烈士の文学者としての生

涯を︑その高みに到る必然的な道程として描き出したり︑また左蝦時代の業績を基準にして︑それ以前の作晶に︑未熟な︑

劣ったものとする評価を与える傾向があ勉しかし︑作家が創作の生涯において遂げた内発的な変化や発展の跡を︑その

最晩年の作風を絶対的基準にして評価することは︑必ずしも創作生活の全体像を適確に描くことにはならないし︑むしろ

作品に表現された多様な性格を汲み尽しえない結果にもなろう︒

 小論は・左朕五烈士のひとり胡也頻の文学と人生についての素描である︒胡也頻は︑その短い作家生活の晩年に発表し

た二作品・ ﹁到莫斯科去﹂及び﹁光明在我伯的前面﹂によって﹁革命作家﹂としての位置を与えられている︒しかし胡也

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頻の文学的評価はそれで尽されるものではない︒一九二四年八月﹁京報﹂副刊﹁火球旬刊﹂に処女作﹁雨中しを発表して

以降の胡也頻の詩︑小説を年代を追って旙いていく時︑そこに︑二十年代から三十年代にかけての申国政治︑社会情勢の

激しい展開とそれに伴なう文学情況の変化の申で︑ささやかではあるが確かな鼓動をもって息づいている若い知識人の苦      ⑤悶と彷徳のあとを読みとることができると思うのである︒

二︑幼少から文学を志すまで

 胡也頻は︑一九〇三年五月四日︑福州城内に生まれた︒学名を胡培基という︒祖籍は江西新建県︒祖父胡寿林はもと農

民であったが麻布を売りながら福州に流れていき︑後に江西人と京劇団を作り︑また自らも青衣︑或いは老旦を演じる役

者であったという︒この祖父に連れられて也頻はよく芝居を観に行った︒地方の芸人の手になる質朴な伝統演劇ではあっ

ても也頻にとってはめくるめくように華やかな虚構の世界であったばかりでなく︑幼少期のこの体験が︑後に蝦文学に関

心を抱いたり︑中国の風土に深く根差した民衆の姿に文学的な眼を向けていくことと底流においてつながっていく︒一九

一〇年︑国学大師楊国賓の私塾に学ぶが︑翌十一年祖父が死ぬと家運は中道にして没落し︑父胡廷玉の時代には︑邸宅の

ほか︑遺塵は何もなくなり︑祖父の時代からの役者仲間が廷玉に協力して営んでいた芝居の興行によって胡也頻の一家は

かろうじて糊口をしのぐ生活に陥った︒この年︑胡也頻は授業料の安かった教会学校︑崇徳小学校に転校するが︑との種

の新学校には当時︑体操や唱歌の蒔間があって︑専ら四書五経の素読を事とする楊国賓の私塾にくらべ也頻にとうてはは

るかに魅力的に感じられた︒そのような教育を通じて︑也頻は次第に薪しいものへの憧景を深めることになる︒

 也頻の生気に溢れた学生時代を物語る挿話として甥の胡少璋は︑一九一五年五月九日︑嚢世凱の﹁対華二十一ケ条要求﹂

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承認に反対するデモのことを紹介している︒

  ﹁﹃五月九日︑五月九日︑鳴呼わが国の恥︑二十一条条約︑我に承認を迫る︑要求は堪だ道理あらず⁝・⁝:﹄福州の

 大学生︑中学生はデモ行進を行ったが︑也頻も級友とともに隊伍の中にいた︒デモ隊が﹃黄恒盛﹄キャラコ店の前にさ

 しかかった時︑何人かの学生が中に押し入り︑日本製の更紗の布を焼きはらい︑布に塩酸をかけたが︑也頻も級友と       一緒に布を蜥き︑器具を殿し︑ガラスを叩き割っていた︒﹂

 胡也頻が福州で中学校に進学した事実はないので︑この時のデモに也頻が直接参加していたことは考えられないが︑後

に一九一九年︑福州での徒弟時代に五四運動の高揚期に際会していることも含めて︑也頻が︑こうした光景に遭遇したこ

とは一再ならずあったことであろう︒そこで胡也頻が感じたことは︑恐らく国家と民族の危機の中で学問に志し︑警世の

叫びをあげることへの凛とした感動と︑それを誇らかになしうる学生たちへの羨望ではなかっただろうか︒丁玲の胡也頻

回憶にある一節からもそのことは窺えよう︒

  ﹁よく夢を見た︒夢では別の世界へ︑あの白旗をもってデモをし︑救国を宣伝する青年学生たちの申へ行くことがで

き加・﹂

 学業に優れていた胡也頻の︑大学で学びたいという願いは︑しかし︑家産の困窮のために結局かなえられず︑一九一八

年︑十五歳の也頻は︑福州の金銀装飾店﹁祥慎金店﹂へ徒弟としてはいることになる︒この店の主人は丁維清といったが︑

この店には︑也頻の勇父の官水清が﹁伏計﹂として働いていた︒

  ﹁店には丁稚が多く︑ほとんどは細工場にいた揮︑主人は彼が少しは品がよく利濃なので︑帳場で仕事をさせた︒彼

 は店のかたづけや掃除︑番当や帳場係のために水汲み︑布団のあげしき︑小便壷の始末をし︑客が来ればタバコを畠し

 たり︑お茶をついだりした︒実際には奴隷であった︒夜は間に合わせに長椅子をいくつか並べて帳場のなかで寝た︒

(6)

  夜︑彼が熟睡すると︑大きな丁稚がやってきて︑彼を辱めようとする︒彼は抵抗するが番当たちの目を覚まさせては

 と声をたてず︑ただ必死で抵抗するしかない︒彼の手から血が流れ︑頭は番台にぶち当り︑大きな丁稚はうまくいかな

 いと見るや︑腹いせに彼の顔に小便をひっかけた︒彼ははいあがって顔を洗い︑小便と血と涙をいっしょくたにハンカ

 チでふいた︒彼は何も言えなかったし︑また訴えるところもなかった︒また父母にも知らせたくなく︑ただ隠忍して恨      ⑥ みを心にしまいこむしかなかった︒彼は思った︒いつかきっと仇をとってやるぞ.﹂

 店での仕事は辛かった︒肉体的な苦痛ばかりでなく︑年かさの徒弟に男色を強要されるなどの侮辱と︑徒弟生活が強い

る精神的醗屈が也頻には耐え難かった︒このような生活が三年程続くが︑或る日︑店の金が紛失するという事件がおこっ

て︑そのことで無根の嫌疑をかけられたことに憤慨し︑意を決して今度は本当に金の装飾品を愉んで失踪する︒一九二〇

年春︑也頻十七歳のことである︒三年間仕えた主人の丁維清に手紙を残したが︑それには﹁志在傘雲﹂の文字がみられた  ⑨という︒

 福州を去った胡也頻は上海へ向い︑浦東申学で一年間学ぶ︒そして翌二︸年︑今度は天津大油口の海軍学校にはいり︑       ⑲機械製作技術を学ぶことになる︒しかしこの学校も二二年︑第一次直奉戦争で校舎が破壊され閉校になる︒也頻の学業生

活は︑総じて︑貧困と彼自身の目的意識の不明確さのために恵まれたものにはならなかったといえる︒こうして彼は︑数

人の海軍学校の仲間とともに︑山東省煙台を経て北京に流れて来るのである︒

 北京で︑也頻は安アパートを転々としながら大学受験の準備をするが︑貧しさの申で育って来た彼は経済的に困難な生

活に対しても︑鷹揚で悟澹であった︒なけなしの路銀を握ってふらりと旅に出るような放浪癖も︑この頃から始まったよ

うである︒そのようにして也頻が煙台に一人旅した時︑その渤海に突き出た美しい港町で微かな文学への目覚めを自覚し

たのだと丁玲は述べる︒

(7)

  ﹁青い海はあんなに穏やかで︑あんなに深く広大無辺である︒海の水は北京にいたころの︑食べるためにあくせく奔

 走した愁苦を洗い流し︑彼に別の一種雄大な胸懐を与えた︒彼は静かに大天地の中に横たわり︑そよ風と潮騒の低い合

 唱をきき︑自然を理解した︒さらに想念の赴くままに︑短い十数年の動揺常なき生活をゆっくりと消化し︑その持てる

 わずかな知識をここで凝集させた︒彼はいわゆる人生というものを感じた︒目覚めをおぼろげながら感じ︑生活につい

 ていくらか意図を持つようになった︒人間は単に生存を求める動物ではなく︑人は造物主の拘束を受けるべきではなく︑

 創造︑生命を創造し世界を創造しなければならないと感じた︒彼にも新しいものの芽生えがあった︒それほ丁稚の思想

 でもなければ︑また海軍学生の思想でもなかった︒ただ立ち上がらねば︑白雲とともに変幻飛躍し︑海とともに奔騰し       なければと感じた︒そこで彼は着衣をはだけ︑はだしになつて煙台の海辺の砂浜を歩いた︒﹂

 北伐革命によって騒擾の禍中に投げ出されるまでは︑北京はやはり中国における学問︑文化のひとつの中心であった︒

北京大学では胡適が文科主任として教壇に立つかたわら﹁努力周報﹂ ﹁読書雑誌﹂を主宰し︑その下で徐志摩︑丁西林ら       が活躍していた︒二三年には︑胡適︑徐志摩︑渠実秋︑聞一多らによって﹁薪月社﹂が結成される︒また茅盾︑鄭振鐸︑

葉紹鈎らによって文学研究会が組織され︑ ﹁小説月報﹂に拠って︑ヨーロッパ文学を精力的に紹介し︑謝泳心︑黄慶隠︑

葉紹釣らの新しい作家も拾頭しつつあった︒鴛鴛醐蝶派の﹁礼拝六﹂や﹁紅雑誌﹂も引き続き多くの読者を得ていた︒ジ

ャーナリズムでは︑梁啓超によって一九一六年に創刊された﹁農報﹂が︑当時李太剣を副刊の編集費任に招き﹁意気濃刺﹂

としていたという︒農報副刊では︑魯迅︑郁達夫︑周作人らが健筆を振い︑羅秋白もまた︑農報特派員として︑十月革命

に成功したばかりのソビエトロシアに派遣され︑紀行文﹁餓郷紀程﹂ ﹁赤都心史﹂をものしていた︒こうした環境の中で

胡也頻の生活は始まっている︒北京の︑文学を志す青年たちをめぐる雰囲気は︑沈従文﹁記丁玲﹂ ﹁記胡也頻﹂にも詳し

いが︑ζこではやはり丁玲の回憶をあげておきたい︒

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  ﹁北京という古都は学問の都市︑文化の都市であった︒そのころ北京には﹃最報﹄副刊があり︑後からはまた﹃京報﹄

副刊が出来︑いつも有名入の文章を載せていた︒アパートにいる大学生たちはいずれもゲーテの崇拝者︑ハイネ︑バイ

 ロン︑キーツの崇拝者︑魯迅の崇拝者であって︑ここではよく︑モーパッサン︑チェホフ︑イプセン︑シェークスピア︑

ゴーリキ!︑トルストイ⁝⁝などについて語られた︒そしてこれらの大学生たちは学校の授業にはそれほど注意を払わ

ず︑よく露店の古本屋︑小さな居酒屋にゆき︑名勝に遊び︑互いにつき合い︑友だちを訪ね︑天下古今を談じ︑とりわ

け詩を書き︑文を綴って方々に投稿するのが好きだった︒也頻は北京に来て︑暇があり余る程あったから︑足しげく露

店の古本屋にかよったり︹彼は本を買う金がなかったので︑そこで本の大半を立ち読みした︺外国の作品を読みはじめ

たりした︒部屋では﹃小説月報﹄から色刷りの絵を切り取って壁に貼った︒他にも詩人になろうとする青年たちがいて︑

彼に一目おいて︑挨拶したりした︒技術の専門家になろうという夢はすでに完全に破産して︑毎日なんとか飢えをしの

げるという情況の中で︑新しい世界︑古典文学︑ロマン主義の生活情調と芸術家気質が一日一日とこの孤独な流浪する

青年を侵し︑彼のきわめて単純な頭を︑美しい英雄的な神秘な幻想︑しかも彼の現実の生活とは似合わぬ方へと引っぱ     ⑬ っていった︒﹂

 こうして︑胡也頻の処女作︽雨中︾が︑ ﹁京報﹂副刊﹁火球旬刊﹂第一巻一期︵一九二四年八月十田︶に載る︒作晶は

二千華字余の短篇で︑二人の子供を抱えた母親が貧困の中で︑子を育て︑仕事に出た夫を案ずるといった話である︒

 趙二媛は六年前︑臨月に近い頃︑土諜に家を襲われた︒土匪たちは盗むものを見つけられなかった腹いせに彼女を強姦

しようとするが︑その瞬間︑下腹部に鋭い痛みが走って気を失い︑意識喪失の中で小宝を産む︒︑﹁乱れた世の中の人間と

いうのは︑平和な時の犬にも及ばない/﹂︒この悪夢は彼女の胸中の糎疾となって︑今でも思い出すたびに涙がこみあげ

てくる︒夫は車夫である︒ここ二︑三日のように大雨の申で立っているだけでは車夫に何の稼ぎが得られようか︒ ﹁神様︑

(9)

憐れみを︑晴れた空を!﹂︒しかし︑先程あがっていた雨がまた降り始めた︒阿宝︑小宝の兄弟は楽しそうに興味深そう

に清涼な雨音に聴きいっていたかと思うと︑やがて︑手を取り合って雨の中に駆け出して行った︒﹁薄暗い部屋の申では︑

趙二捜がただ一入︑オンドルの前でとらえどころなくぼんやりしながら︑物思いに沈んでいる︒﹂

 趙二捜の性格描写に特に際立った彫琢があるわけではなく︑謂わば慢然とした庶民生活の断片を描いたにとどまる・し

かし︑胡也頻の眼が同世代の垢抜けた知識屡にではなく︑苦渋な過去を内に秘めた人力車夫の妻の憂いに注がれているこ

とに留意したい︒しかも﹁誰愛﹂ ﹁悲惨﹂ ﹁惨淡し ﹁怜欄﹂などのことばが散見され︑全篇がマイナーな情調を帯びてい

るにも拘らず︑そこに一種爽やかな情感も漂っていて︑この点に既に也頻の個性と創作傾向の一面が窺われる︒ともあれ︑

こうして也頻の作家活動が始まる︒

三︑創作の時期区分と作品傾向

 胡也頻が創作活動に従事した時期は︑一九二四年から一九三一年までの八年間︑三一年は二月七日になくなっているの

で︑実質的には七年の短い時間であるが︑その間に彼は約百五十篇の詩と百篇余の小説︑戯曲︑雑文を書いている︒小説

はほとんどが短篇である︒作家の創作生活の区分は︑いつも多少の無理と姿意性を免れないことを断った上で︑也頻につ

いては︑創作生活を大旨三つの時期に区分し︑各々の時期に重なり合うようにして三つ乃至四つの作品傾向を認めること

ができるように思う︒第一期は︑一九二四年から二六年︑海軍学校が閉校になってから︑北京に出て文学好きの青年と交わ

り︑文学的雰囲気の中で時を過し︑︽雨申︾を書いてより︑自己の体験にも裏打ちされている︑青年の内面的苦悩をテー

マにした作品をものす︑或いは放浪の旅の途次に接した入々の社会生活のありさまを観照的に描写し作品化していく時期

(10)

である︒第二期は一九二七年から一九二九年︒この頃から︑ヨーロッパ近代文学の思想や観愈の影響が作品に反映し始め

る︒前半は︑恋愛や個性の解放などをテーマとしたもの︑創作手法上の変化を狙ったものなど︒後半は︑マルクス主義へ

の接近から︑社会的に存在する矛盾や対立︑闘争に眼を向けたものへと作風が変化する︒無政府主義の影響もある︒第三

期は 九三〇年から三一年の左朕時代︑左駁執行委員として実践闘争に参加するかたわら︑プロレタリア文学の創作をめ

ざす︒ 以上の時期を作品傾向の面からみていくと︑第一期ではO庶民の社会生活の様々な側面に観照的に触れたものとして︑

︽雷峰塔倒蝉的原因︾︵舗︶︽械斗︾︵%︶︽瓢泊的記録︾︵躬︶︽酒瀕︾︵溜︶︽優子︾︵暫︶︽活珠子︾︵躬︶など

があげられる︒また⇔閉塞的な時代の中で苦悶し︑挫折する青年の生活と内面心理を描いたものとして︑︽埜后︾︵秘︶

︽勧修︾︵%︶︽元題︾︵%︶︽一介窮入︾︵鵬︶︽北風里︾︵躬︶︽往何処去︾︵鷲︶がある︒更に︑第二期に含めら

れるものとして︑⇔愛情をテーマにしたもの︑個人主義︑自由主義などの思想に作晶を通じて触れたもの︑または多分に

猟奇趣味的な作晶があって︑︽初恋的自白︾︵柳︶︽狂人︾︵留︶︽優骸︾︵留︶︽酒了雨的落蕾︾︵伽︶︽一対度密月

去的人几︾︵72︐︶︽詩稿︾︵駕︶︽雪白的鵬鵡︾︵聡︶︽別人的幸福︾︵圏︶などがそれである︒第三期に書かれた作品

は︑﹂小説としては︽到莫斯科去︾︵認︶︽光明在我伯的前面︾︵聯︶︽同居︾︵葱︶の三篇だけであるが︑少し範疇を広

げて︑㈱プロレタリア文学ではないまでも︑それにつながっていく萌芽を孕むものとして︑︽鬼与人心︾︵柳︶︽資本家︾

︵柳︶︽攻︾︵協︶︽幽炎︾︵砲燈︶︽爾八→婦人︾︵舶︶︽四星期︾︵舗︶︽黒骨羨︾︵馴︶などをあげることが出来る︒

四︑風土の申の罠衆

(11)

一〇

 杭州西湖の十景のひとつに雷峰塔があるが︑この塔の縁起に関わっては︑﹁白蛇伝﹂という民間説詣がある︒臨安の呉

宣賛が白卯奴という少女を救い︑それが起縁で少女の母である白衣の妖婦︑祖母である黒衣の妖婦と知り合うが︑異宣替

は白衣の妖婦に溺れ︑その妖婦に殺されようとした時︑白卯奴に助けられる︒実は少女は難妖︑白衣の妖婦は白蛇︑黒衣

の老婆は獺妖であった︒後に道士によって収伏され︑三潭印月の三白塔の下に閉じこめられたというこの説話は︑時代に

よりまた地方によって様々なバリエーションを生みながら民間戯曲などに多く題材として取り上げられてきた︒この雷峰

塔が一九二四年秋に崩壊し︑当時︑西湖十景の闘如を嘆く声や再興論議などが盛んであったようである︒この事に取材し

て書かれたのが︽雷峰塔倒捧的原因︾︵一九二五年二月二日︽民衆文芸周刊︾四九号︶である︒

 この年の一月から三月にかけて胡也頻は煙台に遊んでいるが︑途次︑天津から煙台への船中で杭州人と合肥人の交す会

話を興味深く聴いている︒杭州人によれば︑雷峰塔の崩壊は予想できたことだと言う︒

  那雷峰塔不知在何吋巳倒悼了一半︑只剰着下半裁︑根破燈的︑可是我伯那里的多下人差不多都有逮祥的迷信︑悦是

 能修把雷峰塔的碑傘一快放在家里必定平安如意死泥什仏凶事都能鰺化吉︑所以一到雷峰塔芸規謄的多下人都要愉愉的把

 塔碑控一快帯家去︑⁝⁝⁝西湖十景迭可敏了呵/

 この話に判然と悟るところのあった胡也頻は︑次のように述べる︒

   那塔確一快一快被愚民捲去却是真的⁝⁝⁝迭固然只可痛恨中国人ー1愉確的ー1太受了迷信的毒︑然而地方的負責

 者却也是都盲目了岡/

 結論を言えば胡也頻の論は︑文化財保護をもっと重視すべきだというところに落ち着くだけなのだが︑雷峰塔の崩壊が

ほかならぬ民衆の盗傳によって引き起こされたことにはたと手を打って悟り︑ ﹁迷信の毒﹂にあてられて︑こっそりと薄

を倫み去って︑結果として︑塔が崩壊することに想いを及ぼさない︑狭隣で自己中心的な民衆の思考と盗癖を残念がって

(12)

いる︒ 魯迅に︑実は︽雷峰塔の倒壊について︾という文章がある︒祖母から聞かされた雷峰塔をめぐる故事の中に︑礼教の

﹁虚偽と残酷性﹂をみて︑それが倒れてしまえばよいと思っていたという内容であるが︑魯迅は︑也頻の︽雷峰塔倒悼的

原因︾に触発されて︑︽再び雷峰塔の倒壊について︾と題する一文を書いている︒それは雷峰塔に言寄せて︑実は為政者

を批判しているものであって︑破壊は建設の条件であるが︑革新的破壊はめったになく〃奴隷式〃の破壊ー鼠先の小さ

な利益から︑平気で無疵の大物にこっそり傷をつけるーがしばしば存在する︒そして田舎の人が雷峰塔を倒したように︑

毎日︑中華民国の柱石を盗掘している奴隷たちがどれ程いることかと憤りを含んで慨嘆している︒

 魯迅が胡也頻の作品に触れた例はほかにはない︒その触れ方も︑也頻が示した挿話が面白いと言っているのであって︑

彼の議論に興味を示しているのではない︒雷峰塔倒壊の事実から引き出される教訓の中味︑展開されていく思考の鋭さに

は︑歴然たる相違があるが︑胡也頻について言えば︑そこに︑現実に生きる庶民の意識や生活に注がれるリアルで興味深

かげな眼を感ずることはできるのである︒

 一九二五年三月︑孫中山逝世十日後に書かれた︽鳴呼中国一般民衆︾にも胡也頻らしい社会観察が窺える︒

  ﹁孫文死了︑以后思核太平了肥? 革什仏命!民国比起大清杯多了! ︒只想他自己倣大元鄭︑大恵統︑却不管

 害死了多少人研/大清吋︑什仏事傭都有皇上替我伯想到︑現在的大恵統行喝/?刀孫文不出来革命︑中国那里会

 弄到逮祥糟!カ .来一套革命述不足意︑所説迩要共序兜!共序就是和分家似的︑像想逮迩成介什仏/・⁝・⁝:渚如比炎

 的奴﹃的表現︑要是一段一段的都遣最出来︑恐憤身体軟弱的我就要嘔血了!﹂

 孫文の死に対する一般民衆のさまざまな﹁家奴汽﹂ー奴僕根性や︑大学生にまで漫延している奴僕的﹁妙論﹂に対し

て︑ ﹁嘔き気を催す﹂ような董恥と慨嘆を綴っている︒孫文という傑出した政治家の死については︑ ﹁私は国民党の党員

       二

(13)

=一

ではないが﹂とことわった上で︑孫文に対する︸般的な敬意を示し︑遺嘱を継承しなければならない︑とやや公式的に述

べるだけで︑それ以上に自己の内面にくい込むような痛恨の感情は読み取れない︒にもゆかわらず︑罠衆がその死をどの

ように語っているか︑如何なる反亦を示しているかという点については旺盛な関心をもっていて︑その慨嘆すべき状況を

看過できない︒政治の風に煽られてさまざまに反応する民衆の形貌を︑胡也頻は︑かれらと近しい位置から捉えているか

のようである︒

 ︽瓢泊的記録1〜奈片段︾も︑そうした性格をもつ一篇で浦ロから南京へ船で帰る途中の情景や船申の人々との会話

などを書きとめる紀行文的な作品である︒二六年十月︑北伐革命の嵐の申で混乱する南京で﹁赤色旗便是黄尤旗!﹂とい

うスローガンや︑逆に﹁我伯推翻黄尤旗便庶当打倒赤色旗/﹂などのスローガンが壁という壁︑電柱などに貼られている︒

中で今でもはっきりと覚えているのは﹁祢雅/蒋介石有十八全嬢太太1/しというものだ︒

 国民党軍の北伐に伴なう内戦と南京の混乱の状況が︑風暴として観照的に綴られているにすぎないが︑その筆致は生き

生きと素朴なリアリティを伝えている︒

 以上のような作品は︑文学というにはあまりにも断片的な印象記︑或いは随感録の類である︒しかし︑二︑三年の文学

修養期を経て︑このような民衆像が︑より個性的に形象化され︑当時の社会と生活を背景にとりながら虚構化され始める

と︑そこに︑愚昧な社会観念に彩られた庶民の世界が映し出されてくる︒︽像︷子︾をはじめとする幾篇かの作品は︑その

ような也頻の作風を反映しているといえる︒

 ︽優子︾は 九二八年九月の作品︒小説集︽詩稿︾中の一篇として書きおろされた︒

 小二という男は︑あちこちの家で季節仕事や臨晴の手伝いをやって日銭を得て暮らす人物だが︑村人は人の好い小二を︑

まるで河の水でも使うように︑思うままに使いまわし︑用がなくなれば使い棄てる︒およそ人間扱いをされていないにも

(14)

拘わらず︑小二は村人のそうした仕打ちにも︑自分の生活にも︑結構満足している︒ところが︑ある日偶然羊肉店の主人

が豆腐屡の女房を勾かし︑その亭主を殺して自殺に見せかけるという事件を飼撃してしまい︑それを羊肉店の主人とは親

戚筋にあたる保長に話したところ︑この保長によって︑逆に殺人犯に仕立てあげられて処刑されてしまう︒結末の一節は

次のようである︒

  然而︑逮些人︑対干小二逮非常死︑墨在某一瞬申曽現了琵尋︑但眼着︑#︹且長久的︑是冷淡的漢視︒好象大家都忘

 了︒在逮多村中︑曽蜂許多年月有這小二一全人︑他是整天不停的労劫着︑辛辛苦苦的在別人面前︒

  澗若有人忽想起小二︑只因力逮入有了什仏費力的事体︑須得有一全肯酎心耐煩的糞力﹃的入︒此外鳴︑那便是大家相

 聚着︑在閑淡中︑算是一紳升心材料的︑欣然大声的迭祥悦:儂子⁝⁝⁝小二算第一野/

 村人の労働を補うために︑経済的には労働力として村共同体の最下層に組み込まれながら︑実際生活や村人の意識の中

では共同体の成員としての位置を与えられずに差別され︑なかばドロップアウトしかかっているという小二の存在は︑す

ぐに阿Qを連想させる︒阿Qのように︑それによって中国社会の性格を透視させるような象徴性には欠けるが︑愚かで人

の好い小二のキャラクターも︑また小二を包みこむ庶民社会の愚昧さと結末のやりきれなさも︑阿Qと︽阿Q正伝︾に通

ずるところがある︒さらに小二という典型的に素朴でお人好しな人物を配して︑農村社会のやりきれない暗さ︑庶民の暗

愚さを浮き立たせたところに︑也頻の作家としての技貴の進歩を認めることができよう︒

 同じ系列に層する作品と考えられる︑︽械斗︾︵二六年十一月︶は︑ひとりの婦人が強姦されたことを苦に井戸に跳び

こんで自殺した事件に端を発する︑村と村との凄まじい武闘がテーマになっている︒また︽活珠子︾︵二八年︶は︑ 〃扁

羨〃である王大保の頭の申には︑神仏にも富貴にもなれる活珠子〃があると道士が言う︑そのことを真にうけた考によ

って王大保は殺されてしまうが︑村人たちの間では︑殺された︑哀れな王大保に同情するよりも︑本当に活珠子〃があ

一三

(15)

一四

ったかどうかという点に関心が向い︑実は〃活珠子〃のかけらもなかったことが判明すると︑ひととき軽い虚脱と失望が

広がるが︑また何事もなかったかのように人々の生活は続いていくといった物語である︒質朴︑実直で些か間が抜けてい

るという左官の王大保の性格は︑︽優子︾における小二と変らない︒個としては︑一面では善良であっても︑胸底に猜疑

や妬みや残酷な好奇心をもち︑また自分たちと同質でないものに対して排他的に臨む農民の性格が︑非人間的︑迷儒的観

念と結びついた時にかもされる農村社会の酷薄なカは︑性格的︑社会的に劣位にある︑例えば王大保のような弱者に対し

て︑如何に働くのかということ︑またそこにある倦怠と︑寒々とした残忍さがかもしだす沈滞した雰囲気というものを胡

也頻は捉えようとしているようである︒

 このような胡也頻の作風について︑余仁凱氏は次のように述べている︒

  他満杯激情地把社会底展的生活帯遊文芭舞台︑而不是象当時多数新文学作家那祥︑以追求冷性解放作力創作的主題︒       ⑭  作家〃杁辛苦中来〃︑把社会底展人民的〃辛苦生活帯遊新文学文転︑力逮冷文壕増添了自己的色彩︒

 後述するように︑胡也頻に必ずしも個性の解放を主題とするような︑換言すれば︑ヨーロッパ近代文学の影響の下に書

かれた作品系列が存在しないわけではないが︑余仁凱氏の批評は胡也頻文学の性格の一面を指摘して適切である︒也頻は︑

謂わばモダンな文芸を弄ぶ︑都会の取り澄した於持の高い文学青年であるよりも︑むしろ蘇落で開放的な︑あまり物に拘

わらない性格の持ち主であったようである︒その性格と︑漂泊の体験が結びついた時に︑同時代の若い作家たちのように︑

直裁ヨーロッパ文学に傾倒し︑それに影響されるということの比較的少ない独自の作風が胡也頻文学の一領域として生ま

れてきたと言えよう︒

五︑北 京時 代

(16)

 ここでは︑北京に暮していたあいだ︑胡也頻が作家としてどのような活動をしていたのか︑沈従文︑丁玲︑薦雪峯らと

の出合いと︑その関係や交流について簡単にスケッチしておきたい︒

 前述したように処女作﹁雨中﹂が載ったのは﹁火球旬刊﹂第一号であるが︑この雑誌について︑またそれと胡也頻の関

係については詳らかにしない︒それ以外の初期の何篇かの詩︑小説はいずれも﹁京報﹂副刊﹁民衆文芸周刊﹂に載ってい

る︒ ﹁京報しは孫伏園によって一九二四年十二月五日に創刊されている︒胡也頻は項拙︑荊友麟といった海軍学校時代か

らの友人とともに︑ ﹁民衆文芸周刊﹂を編集しているが︑その経緯も明らかではない︒ただ三人のうち指導者格は項拙で

あって︑恐らく項拙に誘われて︑編集に携ったものであろう︒ ﹁民衆文芸周刊﹂は十二月九日に創刊されている︒その他      ゆのメンバーとしては高長虹︑毛壮侯︑陸士鉦らがいた︒胡也頻はまた項拙を介して魯迅とも相識るようになる︒ ﹁魯迅日

記﹂をみると十二月二八日に中興楼で荊有麟︑緩理緩夫︑項拙︑孫伏園に会ったことが識されており︑そこに胡也頻も同

麿している︒謂わば﹁京報﹂ ﹁民衆文芸周刊﹂の関係者が一堂に会した格好であるが︑魯迅は時々﹁民衆文芸周刊﹂の原

稿を校閲してやったり︑みずからも︽一介・罪犯的自述︾などを書いており︑そうした経緯もあってか︑胡也頻は二五

年五月 =日までに前後五回︑魯迅のもとを訪れている︒

 ﹁民衆文芸周刊﹂は︑後﹁民衆文芸﹂︑﹁民衆周刊﹂︑﹁民衆﹂と改名して︑二五年十一月第四七期で停刊するまで続くが︑

この編集を通じて︑沈従文︵休芸芸︶と識り合いになり︑以後︑丁玲を含めて三入の親しいつき合いは胡也頻が死ぬまで

続く︒沈従文はその出合いを次のように回想している︒

  因力有一次一A→用﹁休芸芸し作力碑毛名的莞名作家︑那吋北京写下的文章︑迩不値得任何編輯的注意︒也只成天倣埜︑

 埜想写出的文章有人園凄︑但是各処拭験皆失敗了︒就冒冒失失的寄了一点文章到他伯那里去︒文章即刻登載出来了︒就

 是那一天︑北京西城一全名力庚隼公寓的一向房子里︑就来了函→不能入伍的海軍学生曙及了一全逐剛退伍不久的陸軍歩

一五

(17)

一六

 兵上士︒予是他但淡了涛多空活︑吃了許多阿水︒那爾奈海軍学生走后︑那全歩兵上士心想︒逮到是古怪的事情︑爾介編

 輯也来到我的住処了︒我有了朋友︑我的生活︑就快有日美的光照及了︒⁝⁝⁝那吋詰︑自然是我最莞亦法必置生活的討      ⑯ 情︑日美的光是不会照到契上的︒

 丁玲と知り合うのは︑同じアパートに住む左という青年の紹介によってであったようである︒丁玲は一九二四年︑北京

に出て来て︑絵画の勉強のかたわら︑大学受験の準備などをしていた︒二五年の夏︑丁玲が常徳に帰省すると︑後を追う

ようにして胡也頻も常徳に向う︒そしてひと夏を丁玲の故里で居候をして︑読書や詩作に耽っていたという︒・

  ﹁かれが最も熟知していたのは漂泊者の生濡︑飢餓と寒さ︑孤独と寂翼︑冷淡な世間と生を求めての奮闘であった︒

 しかし彼はそれを喋々するようなことはほとんどなく︑いつも呆けたように坐ったまま︑指をかんでいた︒そしてその       あと悲憤と帳凋の感に満ちた詩を何首か書くのであった︒し

 その秋には︑北京で丁玲と同棲を始め︑北京西郊の香山︵碧雲寺︶に住む︒

  ﹁真新しい生活は︑二人の感情をしてまばゆい光景の中で遊泳させていた︒そのため胡也頻はただイギリスのシェリ

 ーをめざすだけであった︒詩を作り︑自分のつれあいを賛蘂することが︑彼の最も重要な仕事になってい編︒﹂

 そのように︑詩作に打ち込みながらも︑当時なお︑胡也頻は文学に対する十分な自信を持ち得てはおらず︑丁玲との新

しい生活を営みながら︑自己の文学を確立するために雌伏する時期が続く︒

  不這在那奈吋葡︑這海軍学生︑文学上的方向是没有自信的︒ ︵中略︶南方人的熱情︑有一紳偏私的固持︑支配到生活︒       逮性格墨屈伏到女人那一面︑変成力勇敢和柔脱︑結果是徹了沸多美葡的小涛︒       既に五月に﹁民衆文芸周刊﹂を離れてからは作品を載せる雑誌を失い︑どこに投稿しても没になる状況が続いていた︒

  ﹁私たちは有名になりたいとか︑金もうけをしたいと思って小説を書いていたわけではない︒ただ生活の方がなんと

(18)

かやっていけるなら︑私たちが一生懸命書いた小説が公平に評価されて︑雑誌に掲載されるとそれで満足だったのであ

る︒それにしても︑まともに読んでくれる編集者のなんと少なかったことか︒私たちの願いはただ︑もう少し公平にし      て欲しいということだけだったのに︑そういう編集者はひとりもいなかった︒﹂

 胡也頻︑丁玲の同棲生活は︑自由で甘やかなものであったが︑生活は困窮していた︒そのため︑二人はやがて余儀なく

香山を降りて北河沿東城のアパートに移る︒そのアパートは焦菊隠︑張釆真︑干麿虞︑王魯彦︑顧千里︑五三辛︑塞先交︑

朱湘︑劉夢誰などが住んだことのあるアパートであって︑名だたる青年文士を〃輩出〃したことが︑鷹揚な家主の自慢で

あったという︒一体に北京のアパ!ト事情は上海などよりも良好であったようで︑也頻もかなり頻繁に︑気分転換などと

称してアパート換えをしている︒この北河沿のアパ⁝トから︑二人は蒔々北京大学に聴講に行ったりもしている︒

 二六年春︑湖南に帰省する丁玲を追って湖南に向う︒五月︑上海永貴里︑八月︑常徳︑十月︑洞庭湖に遊び︑同月末︑

也頻だけが北京に帰って西城の梶樹胡同に落ちつくが︑後再び北河沿に変る︒この秋︑劉夢牽らと同人の︽無須社︾を組

織するが実際上は形を成さず︑ただ︑手書きの︽無須社叢書︾として︑詩集︽宝剣的錺︾︽夢花夢︾︑小説集の︽憲雨︾

が残っただけであった︒

 十二月︑再び旅に出て︑十五日︑新堤︑一一六日︑岳州︒鹿角︑天津を回って年末に北京に帰っている︒

 蕃に二人で湖南に帰り︑十月末に胡也頻だけが北京に戻った時︑二入の聞には︑ひとりが故郷に残って母親と居る聞に︑

もうひとりは外で良い仕事をするという約束ができていた︒胡也頻になかなか売れる作晶が書けないためにやったことで

あったが︑しかし沈従文によれば︑この計画は失敗であった︒

  好象萬升了女人︑成天単是写涛︑逮熱情逐是在血中笈熱笈酵︑不能抑止︑困此逮骸子不久又借了些銭回襲湖南︒逮吋

一七

(19)

一八

       情那一方面一・→却也因力不能忍受分萬的拭験趨忙向北京出笈︒

 別離の寂しさには耐え難かった也頻であったが︑確かにこの時期︑ひとつの創作の高濫期を迎えている︒︽栃修︾︵十

月二九臼︶︑︽律肺︾︵十一月︶︑︽械斗︾︵十一月十日︶︑︽一介劣人︾︵十一月︶︑︽申秋欝︾︵十一月︶など︑胡也頻

らしさを示す代表作がこの慌しい旅の間に書かれている︒

 また二六年になると︑︽最報副刑︾に作品が採用されるようになり︑生活は安定してくる︒農報館から︑月三十元前後

の収入を得︑経済的に余裕が出てくると頻繁にアパート換えをしている︒銀聞︑孟家大院︑中老湖同から︑北河沿の漢花

園公寓に移るが︑やがてこのアパートには沈従文も移り住むようになる︒

 二六年以降二八年にかけて︑胡也頻の作品のほとんどが﹁農報副刑﹂と﹁現代評論﹂に載っているところから︑胡也頻

が︑新月派︑或いは現代評論派に近い人脈の中にいたことがわかる︒最報副刊に作品が載るようになるのは︑前年十月一

日から徐志摩が編集を担当するようになり︑当時既に徐志摩と面識のあった沈従文の紹介があってのことであろう︒蕪緩       ⑳元氏は︑新月派が農報副刊を﹁徐志摩を主編として︑反動的な刊行物に変質させ﹂たと述べている︒また新村徹氏が指摘       しているように︑農報副刊の編集をしていた孫伏園が︑そのヘゲモニ⁝を現代評論派に取られたことが﹁語綜﹂を創刊す

る動機になっていること︑その﹁語練﹂と﹁現代評論﹂の対立から︑農報副刊がある意味で﹁変質﹂したことは認められ

るであろう︒さらに︑新村氏は︑ ﹁新月﹂と﹁現代評論﹂執筆者の比較から︑ ﹁現代評論﹂と﹁新月﹂の主要メンバ⁝と

が共通である点を指摘し︑ ﹁両者のつながりは明らかだろうと思う﹂とされている︒胡也頻の場合︑初期の愛情詩が︑フ      ⑳ランス象徴派詩人の中国への紹介者である李全髪の影響を受けていることが指摘されており︑近代英国史の伝統に立とう

とする徐志摩らの新詩理論に︑作風の点で︑どれ程︑融合的であったかはともかく︑作家としての地歩を︑農報副刊と現       代評論と新月を結ぶ︑緩やかな人脈の中で︑確立していったことは指摘できる︒

(20)

 一九二七年になると︑北伐軍が南京にまで到達して︑北京ももはや平穏な都ではなくなるのだが︑その頃の北京の出版

事惰について︑沈従文は次のように述べている︒

  中国的南方革命己透到南京︑出版物的盈虚消患己墨然由北而南︑ ︵中略︶在上海卿正是一些新お勒的附輩︑︽小悦

 月報︾因力編者的方向略改︑用了我伯的文章︑︽現代坪泥︾己迂上海︑︽北新︾己迂上海︑︽新月朽店︾力我伯各人印

 行了一本お︑所以我四月里就寓升了北京︑双海道把一点筒単行李同一^→不甚鯖宴的身体︑搬移到上海一介地方住下了︒      ⑳ 到一九二八年二月︑他個覚得逐是到上海来才有竣机︑所以也就到上海来了︒

 胡也頻は︽小説月報︾二七年七月︑第十八巻十七期にはじめて︑︽牧場上︾を載せている︒また実質的な処女小説集と

いえる︽聖徒︾が二七年九月︑新月書店から出版されていて︑沈従文の回憶を裏づけている︒但だ︑創作上の転機は︑北

京時代︑二七年の始めの頃に既に訪れていたと考えたい︒即ち︑︽聖徒︾︵三月︶︑︽一対度密月去的人︾︵五月︶︑︽狂

人︾︵七月︶︑︽優骸︾︵八月︶︑︽酒癩︾︵十月︶︑︽初恋的自白︾︵十一月︶など︑ヨーロッパ近代文学の影響が認め

られる作品が出ているし︑︽鬼与人心︾︵七月︶︑︽資本家︾︵十二月︶ のような︑社会問題を扱った作晶も書かれ始め

ている︒ また︑二七年の暮に︑胡也頻︑丁玲は轟雪峯に初めて会っている︒その出合いは多分に偶然的であり︑王三辛の紹介で︑       雪峯に日本語を習い始めたのがきっかけであったと言う︒当時︑沈従文︑胡也頻︑丁玲の三人は︑旧本語を勉強して︑機

会があれば日本留学をしたいと塑んでいたが︑丁玲だけがこの計画を実行し始めた︒丁玲に日本語を教えはじめた薦雪峯

との仲を也頻が嫉妬して大喧嘩になり︑それも原因となって︑翌年二月︑二人は上海に生活の場を移したのだと沈従文は     述べている︒真偽の程は疑しいが︑少なくとも二人にとって︑雪峯との出合いが︑その後の人生を左右する決定的な出来

一九

(21)

二〇

事であったことは事実である︒

  ﹁也頻は二八年︑二九年と︑魯迅と薦雪峯が訳した大量のソヴィエトロシアの文芸理論書を読み︑進んでは社会科学︑

 政治経済学︑哲学などの書物を読んだ︒彼は革命についてしだいに理解するようになり︑しだいに左傾し︑二九年には

 ﹃モスクワへ﹄を書き・三〇年には晃はわれわれの前に在り﹄を書い編﹂

 と丁玲は語っている︒胡也頻が左駁の作家へと変貌をとげていく過程で︑漏雪峯の果した役割については︑別に考究す

べき問題が多いので︑ここでは深入りしない︒但だ︑薦雪峯は︑﹁普通の党員であったけれども︑わたしたちは旧友を迎

えるよ乏彼とは肝胆を照らしてつきあつ煽・﹂﹁いちばんよく思い出すのは也頻で・いちばん懐しいのは雪箏という丁

玲の言葉から︑雪峯が︑二人にとって︑単なる理論の指南役にとどまるのではなく︑文学者として︑人間として・親しい

友誼を懐く対象であったことがわかる︒

六︑苦悶する青春

 胡也頻には︑同時代の青年を主人公にした一連の︑調わば青春文学があり︑北京時代から上海時代へと︑作家技量の進

歩と︑自己認識の深化を示しながら︑それは続いている︒そこに一貫性を認められる問題意識は︑五四時代の文学によっ

て提起された人生問題︑重苦しい時代の中で︑一回生起の人生を人間として如何に生きるかというテーマであるように思

われる︒五四時代の文学はそのように問題意識の次元で︑也頻に継承されて︑胡也頻文学の特徴のひとつを形づくってい

る︒小説中の人物は多かれ少なかれ︑実生活における胡也頻自身の影を帯びており︑創作手法としては未成熟な心情吐露

の文学である︒しかし︑それ故に逆に当時の青年たちを取りまく雰囲気をよく伝えていて︑胡也頻ら︑時代の青年たちの

(22)

苦悶する青春のありようが髪髭としてくる︒前述した作品傾向区分に従えば⇔に属する何篇かの小説を見ていきたい︒

 ︽夢后︾︵一九二四年十二月十六日︽民衆文芸周刊︾第二号︶

 李玉几は不幸な星の下に生まれる︒生まれる時に母が死に︑生まれて程なく父も亡くなる︒ ︵〃玉几的命真硬〃⁝出世就

克了娘︑張嚇又吃了欠巴/〃︶親戚の家を転々として︑今は王衷伯の家に肩身狭く身を寄せている︒伯母の子の仁葛は海軍

の将校であり︑叔母の子の奇寄は︑日本留学をした大学教授︑ 来曹〃は駐米領事館の秘書をしている︒なのにかれらは

抜一毛而利天下不力〃︑自分の髪の毛の㎝本すらも世の為に役立てようとはしない︒互いに押しつけ合って︑私を養う

ための十元の金が出せないと言うのだ︒李玉几は夢に母を見︑母の慈愛を体験する︒お母さん・あなたは一体どこに行っ

てしまったのです︒

 人生の苦しさを母なる何者か︑絶対的な愛の体現者に向って懸命に訴える︒李玉几を取りまく家族社会の冷たさは︑そ

のまま社会的現実の縮図である︒その社会の中に酷薄な人生を強いられる冑年が︑超脱のための︑絶対的な愛と理性の力

を求める︒ここには︑謝汰⁝心の︽超人︾における思想の影響のあることを指摘できよう・例えば・

  他恵是静静地︑故意露些眼縫几的静静地蛸着︑眉随壕幼地看着母茉︑看着母来畷脚的愴惰地走来︒及母楽的唇勢触到

 他的頬上肘︑他愉快級了︑只是微微的笑着︑微微地傾所那心房里面之美妙的音駅︒

 ここに︑繊細な筆致で描き出されているのは謝汰心的な優しさの感覚世界であり︑しかもそれは次のような悲傷を基調

とする情緒的世界の上に置かれる︒

  象逮祥永透是逮祥的埜兇母祭后之悲窃︑他︑他今農乍心能纏幸免︒

  不要笑明/母来会再来的呵/・然而︑万紳不堪雲的味道的悲哀︑如浪涛般在他的胸中潤涌︑如針⁝炎般在他的心美孔

 無︑忽能不使他的眼泪几象梨雨般不住的横落︑

一二

(23)

一ご一

耐えがたい悲傷の申で︑やさしきものを憧憬する胡也頻の心象のありようを想像しうる︒

 ︽莞題︾︵一九二五年四月十四日︽民衆文芸周刊︾︶

 詩魂にあてた﹁私﹂の手紙を詩魂が読んで涙するという構成である︒若い詩人が大学で学問をしようとするが学費がな

くて勉強を続けることができず︑学問がないというだけで雑誌社に送った詩は︑内容の良し悪しに関わりなく採用になら

ない︒人生の出口を全く失った若い詩人は明朝にも︑永遠に安らかで快適な海の向うの国に船出することを決意する︒

﹁私は貧苦のうちにも生きていきたいと願っていた⁝⁝⁝だが今︑自殺せざるを得ない/詩魂わが友よ!心からの握手を

しよう/ああさらば︑さらば︑永遠に︑永遠に﹂

 金篇を貫く悲観的な情調は︑当時の胡也頻のある種の心理状況の反映であり︑また幻想的︑空想的であった彼の心象風−

景を映してもいる︒

 また︑この作晶に限らず︑胡也頻は︑自己の時々の境涯︑具体的な事実や状況を作品のべ⁝スに据えていることが少な

くない︒従って虚構世界にこめられている事実的状況を指摘することができる︒例えば︑

  詩魂我友⁝険︑莫奈何︑只得把我素不敢対祢説的︒告訴給侭了/i逮︑我却不思慮祢的児怪︑也不清求弥的原涼︑

 只希望弥托升弥的陣閉的心扉︑辻我的悲憤遊去︒

 といった表現から︑詩にしか望みを托すことができないし.また必ず詩によって︑詩人として立っていこうとする胡也

頻の強い自信と傲気とを認めることができる︒

  険︑我磯碗実実是着了魔︑咳死︑否則︑我決定不会送般的昏蝿︑以力没有学沢是不配倣人︒祠圃我現今覚悟了︒十二

 万分的覚悟了!学源什仏是学涙!学沢不這富人的私有晶−玩物−雲了︑与貧几有何相干!鰍使貧几不鹿有而有学沢︑

(24)

 却也是没有用処陽:有用処︑便是燃焼自己生命的火焔了!

 これは学識ある者によって支配される社会に対する強烈な呪謁である︒貧しい人間が苦界から這い上る唯一の方法は︑

学問を身につけ︑学歴に依って立つことであるが︑しかし︑その道も往往にして隣路であって︑貧しさのために︑学問へ

の途上で︑なまはんかなままで挫折する膏春が少なくない︒貧乏人が分不相応な学識を身につけても役に立たない︒役に

立つとすれば︑それは︑ ﹁自分の生命を燃してしまう炎として﹂であるという言葉は︑そうした一人でもあった也頻の痛

切な怨恨の吐露であろう︒そしてその怨恨は︑時に︑貧しいが故の︑自虐的な醐笑ともなっていく︒

  真的︑我常常曾逮祥究沮ll去雲︑貧几伯去雲︑迭世界不是侮伯座住的/ 伽伯︑貧几幻呵︑没有学沢只配作同胞

 的奴乗︑有毘︑却又座当受同胞的折斥/

 これも何か︑ある具体的な体験に裏打ちされているかも知れない︒それは例えば徒弟時代の体験であろうか︒

 学問に志そうとしても︑貧乏であるがために︑人々の蔑視を受けざるを得ない無念さが吐き出さすように蓑現されてい

る︒   .真的︑学校没有宿舎︑和自亦伏食︑的碗我失学的一・→原因︑恐幅也是元数失学一→原關肥?

 この言葉の前段に︑十七歳の﹁私﹂が学問をするために親兄弟を棄てて顧みなかった時︑遠い親戚が学費の面倒をみて

くれた事情が語られるが︑それは胡也頻の上海−天津時代の実生活の状況とも︑ほぼ符合する︒也頻は北京でも大学を

めざして果たさなかったーそして︑その間に文学へと志を変えていくーが︑その最大の原因が︑恐らくここに現れる

ような経済的な事情であったことは容易に想像できる︒

   涛魂/我現在迩潟得︑弥因我那一篇文章被×先生没収去︑﹃得狼狼地対我悦︑ 〃逮般文芝界的編輯者都該死/筒直

 都是文芝的賊/::・::呵PD/綴使像得・→什仏学位−不只要祢蜂了什仏名人的介招︑称的文章便可以蒙編輯先生⁝⁝

榊一

O

(25)

      二四

⁝恰恰!那吋候︑我却恨葱怒︑但在現今想起来︑迭正是現在的文芝的編輯先生所磁有的恣度︒没有〃羨街〃和没有名

人介招而且是貧几的作晶原是比什仏都核賊些的/

前述したように肩書きや有名人の紹介がないばかりに︑雑誌社に送った原稿が採用にならぬ悲哀を︑也頻が痛い程味わ

ってきたことは︑沈従文の回想からも窺える︒

 ︽栃修︾︵一九二六年十月二九日︑︽最報副刊︾二六・十 ・二〇︶    ・

 ある夜︑友人を訪ねて行き︑そこで楊修という青年を識る︒彼は雰常に活快であるが︑しかしまた時には全く沈黙がち

になる︒楽しそうに話をしている最中に︑ふともの寂しげな︑深いため息をつく︑そんな青年である︒人前では朗らかに

笑い︑細やかな心づかいを見せるけれども︑何故か私の前では悲嘆にくれ︑憔埣した表情を浮かべて︑やりきれないと弦

く︒彼は絵圃の勉強をしており︑画家をめざしているのだが︑自分の画家としての才能にも︑生きるべき蒋代にも希望が

もてない︒強烈な酒の匂いの染み着いた彼の部屡の壁には︑詩が浮き出て見える︒

  将眼泪的光焔殿天我脊春的美埜

  更元須那善笑的孤狸聯濁我墓上

  呵在逮祥秋蝉不咽的死寂的深夜

  告券我凶猛的白竺地能麻木爽魂

我股色的憔埣既如那狼籍的秋荷

染所有的顔色亦唯描昔個的美雨

(26)

是必要随那瓢泊的多月走到荒野

鏑在蹴悪的白栃栂下与古鬼力郭

湾求侮上帝可不可僕吝祢的残忍

辻我休息干敢塊的香里疵摩窃痕

逮荘踏灰色的人生我己釜裳痛苦

祢礁我是悪祥的疲乏流血与憔惇

紛抗在我心上的一切沖突和希望

去曜到欧床幸福的入群尋兎満足

我今夜将那眼泪的光焔殿天埜想

和凶猛的白首地使我的灸魂麻木

 涙の光でわが青春の麗しい夢を葬ろう 更にあの泣き虫きつねがわが墓上を俳徊するには及ぱぬ ああこの茅蠕の声

もなく静まりかえった深夜に 教えてくれ凄じきブランデーは魂を眠らせうるだろうか︒ わが面の憔埣は既に散乱し

た秋の蓮 あらゆる色に染まりまた昔Bの美しさも描き難い 瓢泊する歳月とともに荒野を行き 風わたる楊樹の下に

横たわって古鬼と隣あおう︒ ねがわくば神よあなたの残酷を吝奮し ハマナスの香り傷を撫するうちにわれを休息さ

せよ この荘荘とした灰色の人生われはすでに悉くの苦痛を舐めた 見よわれはげに疲れ血流しそして憔埣している︒

二五

(27)

二六

 わが心を惑わせるすべての衝動と希望よ 去れ楽しく幸福な人々の中に満たされるものを求めよ われはこの夜その涙

 の光もて夢想を葬り 凄じきブランデーとともにわが魂を眠らそう︒

 そして私が江南︑湖北の旅に出︑漂泊して不安の心を養っている時︑彼は北京を去っていった︒

  我要革命去!他笑着悦︒ 到邸里去兜? 一・→朋友問︒  奈蹄 革什仏命幌? 革我自己的命!在煤火

 的光星︑憔埣的楊修的瞼几苦笑着︒

 楊修はおのれの精神の閉塞を打破すべく︑懸命に出路〃を求めようとする︒何処へ行くのか?広東へ︒何を革命しに

行くのか?自分の命を革めに︒しかし彼は本当に︑当時北伐革命の策源地であった広東に行ったのかどうかわからない︒

まったくあてどない失踪のようでもある︒ただ︑時代の波にのまれていった青年の凄惨な微笑が残像のようにそこに残る︒

 ︽住何処芸︾︵一九二八年五月︽現代評論︾VOL︑七︑一七八〜一八〇期︶

 無異君は︑三週間前に北京から上海にやって来て︑自分の原稿を書店に売り歩いている貧乏作家である︒ ︵二八年二月︑

也頻もやはり上海に来て無異君と同じように亭子間に取りあえずの宿をとる︒彼自身が︑ここでもモデルに近い存在であ

る︶油の匂いのたちこめる︑やかましい︑牢獄のような部屋︒朝は朝で︑早くから〃馬桶〃を集める車の響きと︑それを

洗う汚臭︒その部屡を根城にして自分の作品を売り歩く︒街にはまだ寒風が吹いている︒空腹を抱えた彼はわけもなくた

だ情けなくなって︑自分のような人間は本当に︑こういう世間で生きていくのには向いていないと思うが︑同時に︑そう

した思いを強く打ち消す衝動も突き上げて来る︒ 自分に向いていない世間でこそ生きなければならない︒満たされた生

活は精神を無感覚にさせる︒刺激に満ちた苦しい生活こそ︑全ての創作の基礎だしかし︑一日目に行った書店では次々

と冷たくあしらわれ︑二日目に行った書店でも︑編集長兼支配人の男が応対に出て︑一読を約してくれるが︑要するにも

(28)

っと恋愛と性欲に関するものでないと売れないと言って︑無異君に︑たまらない苦悶と屈辱を与える︒長い一日を︑一縷

の望みをかけて待ち︑翌日︑そぼ降る雨の中をずぶ濡れになって書店に行ってみると︑その編集長兼支配入の男は約束を

放って︑西湖へ花見に行ってしまっていた︒勿論原稿は突き返される︒重い足どりで宿に帰ると︑別の書店から出してい

た小説集の︽酸橘︾の売れ行きが極めて悪いので印税が払えないという手紙︒傷つき惑乱した意識のままで︑フラフラと

亭子間を出︑何本もの狭い通りと広い通りを抜けて足にまかせて歩いていると︑いつの間にか黄浦江のほとりに出ていた︒

そこでふと想う︒

  杁辛苦中来︑又得向辛苦中走去仏?簿但最贋他胱然覚得︑他自己是己祭絶糠了︒ 毅然他想.再向辛苦中去生活︑

 我懇意⁝⁝便拾起来︑笈痴的望蒼江中水ー是静惜梢的緩緩地流去︒ 正像我的生命咽⁝⁝他失声的叫︒干是他看

 着周囲︑逮整・→的夜是一神売望的凄凍的情調︒他落下眼泪来︒

 苦しみの中から来てまた苦しみの中に向かわねばならないのか?しかし彼は突然︑既に生活の資を失っていることに気

がついた︒たとえまた苦しみの中に向かって生きねばならぬとしても︑俺は⁝⁝︒そして顔をあげて︑ぼんやりと江の水

を見ていた︒それは静かにゆっくりと流れて行った︒まるで俺の命のようだ⁝⁝︑彼は思わず声をあげた︒周囲を見わた

すと︑夜は墾みない凄凍とした情緒に満たされていた︒涙がこぼれてきた︒

 二六年に書かれた︽楊修︾の結末と︑二年後の作品である︽住何処去︾のそれとの聞に︑生きる姿勢に対する明確なト

ーンの違いがあって︑その聞の胡也頻の︑それなりの精神的苦闘を読みとることができるのだが︑ここでも作者の姿と二

重写しになった無異鱈の惨めな姿や︑苦悶と彷径︑落胆と悲傷の心理が描き出されている︒実生活でも彼の作晶は丁玲の

ものに比べて売れなかった︒

  ﹁上海の知人たちはみな丁玲を可愛がったが︑胡也頻に対しては冷淡だった︒雑誌の原稿にしても︑丁玲に依頼しに

ご七

(29)

一一

 来る人はいつも誰かいたけれども胡也頻に書いて欲しいという人はいなかった︒二人で同時にある所に原稿を送っても

 胡也頻の原稿だけが返送されて来ることがあった︒同様に︑出版にしても丁玲の本なら全然問題なしに出してもらえた

 が︑胡也頻のは署名をみただけで断わる本屋があった︒﹂

 こうした状況の中での創作であることを考えると︑︸連の小説の中には︑当時の胡也頻の生活と意識がリアルな精彩を

放っていきついていると言える︒

七︑まとめにかえて

 胡也頻の文学的立場とでも言うべきものは︑二四年に創作を始めてから二八年末頃までほとんど変っていない︒それは

︽写在く詩稿V前面︾︑︽一介観念︾など二八年に書かれた文章によっても確められる︒つまり三十年に近くなるまで︑

かれの文学に対する考え方は︑基本的に変っていなかったということを指摘した上で︑そのあいだの創作の特徴について

考えてみたい︒

 胡也頻は︑常に自己の意識︑情緒の変遷や生活の情調︑また︑みずからの見聞する庶民の社会生活のありように対して︑

客観的︑観照的にアプローチする作家としての姿勢を失ってはいないばかりでなく︑そうした自己の体験を体験として描

くことになんら購躇を感じていない︒しかも一連の作品をつなげていくと︑そこには︑体験を基にした自伝的な要素が出

てくるし︑也頻が︑書くという行為を通じて確かなものにしてきた自我のありようが︑ほとんど無加工なままで投げ出さ

れてもいる︒それは私小説であると言ってよい︒少なくとも私小説的な方法を採っているといえる︒そして︑それは恐ら

く︑也頻が意図し︑目的意識的に追求したものというよりも︑生活の中の想念を述べ描くことから始めて︑自然に身につ

(30)

けていった手法であろう︒従って作品も多く身辺に取材したものであり︑また心情吐露的であって︑スト〜リーをもった

場合でも︑その構成は単純で簡単である︒例えば︽往何処去︾を例にとると︑﹁上海に来るー亭子聞−電車で外出ー書店

へ︒﹂翌日も﹁宿ですごすー雨の中︑轡店へー帰る﹂という︑無異君の時聞を追った行動が作品展開の軸になっていて︑

その過程で︑さまざまな観想が綴られていく︒つまりフィクションの世界を広げていく構想力乃至は構成力に欠ける︒こ

の点が星活の中の︑かなり深く新しい見解を持ちながら・それを芸術的髪現しきれていな晦﹂と評される所以である

し︑より大きなスケールで時代の全体を表現する文学に向い得なかった原因でもあろう︒

 胡也頻の文学の全体的な性格づけのためには︑最後の二篇︽到莫斯科去︾︽光明在我伯的前面畝の分析を欠くことはで

きないが︑その二作に到る創作の過程を予定調和的にプロレタリア文学に接近するものとして把握することはできない︒

二八年までの胡也頻には必然的に革命文学に向っていくような︑明らかな萌芽は認められないし︑その作風も一貫して革

命文学とはかなり距離があった︒それにも拘わらず︑薦雪峯と親交を結び︑マルクス主義文学論の翻訳に接するところか

ら︑革命文学への急速なアプローチを開始する︒その急激な変化の中に︑胡也頻を取りまいていた︑当時の﹁革命文学論﹂

の激しい嵐を感じとることができる︒一九二八年から始まる︑所謂﹁左朕の十年しという時代は︑逆に言えぱ︑人物の心

理や観念について︑その欝屈したデテールの描写を得意とするような作家が︑急速に革命作家へと変貌をとげていくよう

な︑思想的政治的緊張をはらんだ疾風怒瀞の時代であったのだということを︑胡也頻の文学的転回が浮き彫りにしている

だろうと︑私は思う︒

   註

①  ﹁前哨﹂一巻一期︑中国左翼作家縦盟﹁申国左翼作家朕盟為図民党屠殺大批革命作家宣言﹂

② 丁景唐︑嬰光煕﹁左駁五烈士資料編欝﹂参照︒

二九

参照

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