隠岐にゐける長崎俵物の歴史地理学的研究
田
中
豊
治 隠岐における長崎俵物の歴史地理学的研究
一︑
緒
言
近世隠岐の経済社会は離島と言う孤立的︑封鎖的環境によって強固な村落共同体を形成しながらT﹀︑他方におい
ては西廻海運の発達に依って国民経済の大動脈の中に参加し得る機会に恵まれ︑商業資本の成立が水産物︑木材等の
本土移出を核として西郷港︑浦郷港︑別府港等の主要帆船寄港地に展開して行き︑本土の一般農村に比し商品経済の
侵透が急速に進んだ
(2
3
従って近世隠岐の人口は当時日本全体としては停滞現象をつづけつつある中にあって増加
の一途をたどり︑近代社会への脱皮が離島としてはもっとも早く行われた地域であるす)O
隠岐における商業資本発達の契機となったのは︑島内における生産力の進展により島内経済が高度に内部成熟した
故ではなく︑島内特殊資源が外部的な経済的要請によって開発促進せられた故である︒
﹁外部的要請による開発資源﹂とは何か?それは後世においていわゆる﹁長崎俵物﹂として対華輸出物の中枢とな
193
った飽︑海鼠の生産であったハ
43
194
ニ︑隠岐におりる﹁長崎俵物﹂生産前史
であ
る︒
隠岐における海産物中︑古代より中世にかけて︑中央政府によって貢納品又は特産品として重視されたものは﹁飽﹂
まず延喜式をみようo
主計上は隠岐国の調︑及び中男作物として
調︑
御取
鍍︑
短銀
︑烏
賊︑
卦航
海鼠
︑鮪
脂︑
雑踏
︑紫
菜︑
海菜
︑嶋
蒜
中男
作物
︑雑
踏︑
紫菜
み と り の あ わ ぴ い り こ
をあげている︒御取鰻︑煎海鼠︑ たこのきたひ
鮪 措
︑
に ぎ め あ さ づ き
海菜︑嶋蒜と訓ずるが︑
紫主
婦
海菜
は若
布︑
る
(5
﹀O
後世︑俵物と称される干飽︑煎海鼠は古代よりの隠岐の代表生産物である事がわかる︒
就中︑飽は延喜式の中の他の巻にもしばしばその名があらわれる︒
例えば巻二十一には
凡新 羅客 入朝 者給 二神 酒‑
・: :若 従ニ 筑紫 主一 理者 応 v給 ニ酒 肴一
︑使 付ニ 使人 一一 英肴 総隠 岐鮫 六斤 :: :
巻三十こには
新 嘗 祭 隠 岐 鍍 二 両
親王以下三位己上井四位参議
(中 略)
隠岐鍍二両一分︑四位五位弁命婦
隠岐
媛︑
堅魚
烏賊
神祭雑給料 嶋蒜は葱の一種の様であ
隠岐
飯︑
烏賊
各十
六斤
雑給料 参議巳上隠岐綾五両 五位己上隠岐鰻四両二分 平野夏祭雑給料隠岐腹廿一斤 加 茂 神 祭 隠 岐 綾 煮 堅 魚 五 斤 四 料
同祭斉院司別当己下回人食料::・隠岐飯︑煮堅魚:::各十二両
春 日 祭 隠 岐 緩 各 三 十 七 斤 釈 尊 祭 別 供 料 隠 岐 鍍 十 八 斤
(下
略)
延喜式三十二巻︑三十九巻︑四十三巻︑等にもしばしば隠岐鰻の名が見える︒つまり古代中央政府において︑隠岐
隠岐における長崎俵物の歴史地理学的研究
鰻は既に名産として︑しかも神祭供物用として貴重な存在であった事がわかる︒
延亘口式において隠岐同様の水産物が貢納品としてあらわれて来る国は﹁志摩︑若狭︑隠岐︑参河︑駿河︑安一房︑出
雲︑伊予︑土佐︑阿波︑肥前︑肥後︑豊一後﹂であるが︑隠岐が御取鰻六二O斤︑短鰻九三O斤の貢納に対して︑出雲
二十四斤︑阿波五七二斤︑伊予三六六斤︑肥前御取鰻三六四斤︑短鰻五三四斤︑羽割腹二四斤が大量の貢納国である
に比べると︑律令制下における隠岐鰻は全国一の貢納を中央政府に納付していた事になる︒
何故にかくの如く律令体制下において隠岐鰻が中央政府に多量に納入せられたかについては本稿では詳細は避ける
事とするが︑その一因は八世紀l十一世紀にかけて隠岐が国防上の第一線として山陰道節度使の派遣地域で大陸国家
に対する前哨的位置を占め軍事施設が設置され︑守備兵が駐留し︑中央政府と密接な連絡がとられ︑離島でありなが
ら軍事上︑経済上の価値が比較的重視されていた事は看過出来ないと思われる
(6 3 195
中世においては隠岐水産物の生産︑流通に関する歴史的事実は資料的に不詳である︒
196
戦国末期に﹁島前御くしの物当日記﹂なる村上助九郎文書に(年号不詳)
っくしこ拾遠別府村一︑あわび五連くしこ十連字賀村
とあり
( 7υ
︑島後では僅かに那久村の串鰻二連︑南方村の一︑六連︑久見村の三連のみで串海鼠役は島後では見えな
ぃ︒島前でも浦郷には両役とも無く︑その他の各村でも一連役のみで︑別府︑宇賀等が圧倒的に多い︒
近世初頭の小物成の中においては宝歴十一年編の﹁隠洲往古諸色年代略記﹂なる松浦文書にハ
8U
慶長
四年
亥十
一月
雲州
隠州
両国
堀尾
帯万
様御
拝領
被遊
︑十
九日
ニ美
保関
細屋
藤左
衛門
船に
て浦
之郷
迄竹
林弥
三左
衛門
様御
着船
被
成当
国御
請取
︑串
海鼠
︑串
飽︑
鯛︑
切飽
︑絡
︑鰯
︑鮫
油︑
和布
︑海
苔︑
漆︑
柄油
︑山
板︑
椎茸
︑栢
実︑
茶御
運上
被仰
付
とあり︑慶長初年より海産物も主な対象として課税せられ︑このうち串飽︑串海鼠については同書慶長十五年の条に︑
串飽
一連
に付
一斗
六升
宛︑
串海
鼠一
連に
付六
升宛
ニ而
御座
候処
︑純
一連
ニ付
代米
六升
二合
増被
成︑
串海
鼠二
建一
一付
代米
七合
増ニ
被仰
付侯
と見えている︒海産物中︑串飽︑串海鼠が中心となっていた事がわかる︒飽︑海鼠の乾物である串飽︑串海鼠が近世
中期︑長崎俵物として全島に於て生産されるようになったのは隠岐において古代より海産資源の中で両者が伝統的に
生産され官辺に名産(特産)として熟知されていた事が原因であると思われる︒
︑隠岐におりる長崎俵物生産と流通
A
研究史と問題点
隠岐における長崎俵物研究については筆者の﹁経済史研究﹂二十八巻二号に発表した﹁隠岐における長崎俵物の
生産
﹂
(昭和十七年八月号)を最初とする(93これは同年二月︑島内史料探訪の時に西郷町元屋の故横地満治氏蒐
集による文化四年大庄屋惣七によって書留められた﹁長崎御用俵物一途留﹂の分析を通じて︑主として隠岐島島後地
区の生産と流通の概要ををのべたものである︒昭和二十五年以降︑筆者は﹁島慎経済の構造とその解体過程﹂
八)の研究(地理学評論に発表)なる研究をつづけたが︑隠岐における俵物生産が島畷経済の商品化進行に与えた意
義については地理学評論二九巻一号の拙稿﹁近世隠岐における商業資本の成立とその影響﹂
(昭
和一
一一
十一
年一
月号
)
にやや詳論した︒
昭和三O年以降︑島内史料の精査をつづけたが︑次の四氏宅において相当量の俵物史料を発見した︒
隠岐における長崎俵物の歴史地理学的研究
隠岐郡海士町宇受賀村尾益行氏所蔵文書(村尾氏祖先は島前の大庄屋︑当主益行氏は︑隠岐神社宮司)は量的には
最大
で︑
且つ俵物生産︑流通等各分野についての文書があり内容的にも豊富であるo主なものとして次の文書がある︒
ィ︑
平井
弥惣
次様
より
請書
控(
天明
五年
)
戸︑
飽稼
高日
記(
享和
三亥
年)
ハ︑
隠州
俵物
新規
稼井
増方
等取
極請
書(
享和
元年
)
ニ︑
請取
申一
札之
事(
各年
代)
ホ︑
下地
村々
俵物
割賦
相写
(文
政八
年)
へ︑
隠州
干飽
水練
入漁
新規
取極
請書
(享
和元
年)
ト︑
隠州
干飽
当亥
ぷ三
ヶ年
間青
崎宇
八出
稼取
極候
請書
(享
和一
二亥
年)
チ︑
俵物
之問
屋船
宿請
書(
享和
元年
)
リ︑
長崎
廻御
用俵
物送
状之
事(
各年
代)
ヌ︑
俵物
村々
割付
改帳
(文
化四
1文
政七
断続
) 197
198
第二は海士町の旧家︑後鳥羽上皇御陵守を近世まで引きつ守ついて奉仕して来た村上家の文書である︒第三は島前西
ノ島町焼火神社蔵文書︑大目付江提出文書
(天
明五
年)
︑
第四は島後西郷町一万屋の横地文書︑長崎御用俵物一途留
(文
化四
年)
であ
る︒
此の他に年代不詳の笠木家文書︑天明八年以降の美田村︑船越村問屋文書︑明和六年の佐藤文書等も存在するが断
簡で
ある
︒
昭和三十二年︑関西大学の津川E孝氏が︑島前海土村の村尾文書を分析して﹁隠岐島前における俵物生産(史泉︑
第七
︑
八合併号︑昭和三十二年)を発表せられ︑筆者の横地文書による主として島後の研究に対して︑島前地区の実
情を明らかにせられた︒
津川氏の研究︑筆者の研究における最大の欠除点は隠岐における生産と流通が全国的視野で把握せられず単に隠岐
地区内での史料整理にとどまっている点であった︒
従って全国的史料における隠岐の生産の位置づけの解明が緊要な事実として残されていた︒
B
隠岐
にお
ける
長崎
俵物
生産
の全
国的
位置
づけ
俵物の全国的生産を直接的に示す資料は遺憾ながら発見出来ない︒東京大学史料編纂所保管の﹁諸国俵物元極帳﹂
﹁長
崎俵
物請
方覚
﹂
﹁長崎俵物明細帳﹂及び長崎県立図書館蔵の﹁俵物方手続室百﹂ポ基本的な史料であるがいづれも
幕府と生産浦方との生産契約﹁請負高﹂が︼記されているので現実の生産高でない︒又︑直接俵物役所に納入せられる
数量とも差異がある︒従って請負高︑納入高等を比較勘案して全国的生産量を推定する以外に現在の筆者にとっては
検討資料がない︒
前記史料の紹介閲覧については三重県立大清水三郎教授︑九州大学秀村選三教授︑山口大学小川国治助教授︑長崎
県立図書館︑東京大学史料編纂所阿部助教授の指導と協力をうけた︒
尚︑右史料の裏付けのため地方史料として小川助教授の﹁毛利藩における俵物生産と統制﹂を始めとする徳山落︑
豊浦落︑長州藩等の研究(想︑白山友正氏の﹁松前蝦夷地における長崎俵物の研究﹂八日u荒居英次教授の
﹁津
軽落
にお
ける俵物生産集荷﹂(日を始め︑南部落の研究︑森嘉兵衛教授の﹁一二陸東海岸における長崎俵物生産の研究﹂白)を使
用し
た︒
長崎俵物の生産と隠岐の生産の比較のため前記中央資料を地域的に集計してみた︒
隠岐における長崎俵物の歴史地理学的研究
集計に当つては国名毎の集計を主としたが︑平戸︑五島︑天草等の如く地域的に請負高の多い特定地域があるので︑
それ等の特定地域は国毎統計から除外し︑独立的な摘記を行なった︒又︑延享二年の統計は昆布︑所天草︑鰹節の記
述もあるので表中に記入した︒更に俵物手続書による集荷は各国からの集荷を一括して記入してあるので︑これはそ
のまま︑集計した︒
隠岐の数字が特記されているのは俵物元極帳と俵物手続書である︒
第1表はその集計結果を示したものである︒
の廻着高と天保十二年二八四一)の集荷高とは大差があり︑俵物のみに関しこれによると延享二年(一七四五)
て比較すると天保十二年は約二倍の集荷高を示している︒
(請
負高
八四
万︑
集荷
高七
九万
)︑
請負高に近い量が集荷され天保十二年の請負高と集荷高を示すと数字は近接し
199
ている︒此の見地からすれば︑請負高は生産高に近い数字を示し︑請負高を以てその地域の生産高を示すものと考え
200
第1表長崎俵物全国的請負高,集荷高
延享2年廻着俵物出所 天保12年俵物語貫高(諸国俵物元極帳)
煎 海 鼠 │ 干 飽 │ 昆 布 陸 天
l
鰹 節 月!~海(町鼠~I 干(町飽~I 鎌(町鰭~I役引所請I
会M 卦l斤 斤 斤 斤 斤 斤
松 前 62,1001 210 790.000 130.000 120,000 ‑1250,000
津 軽 33,810 ー 15.000 3,000 ‑1 18.000
南 部 3, 070! 9, 100 17,500 48,500 500 ‑[ 66.500 仙 台 2,800 20,000 5.000 25,000 常 陸
安 房 3,100 ‑1 4,410 ‑1 4,410 上 総 3,805 15,510 ‑1 19,315
武 蔵 4,800 37, 170 37,170
江 戸 ‑1 2.000 2.000
相 模 8,500 15,600 15,600
伊 豆 ,1800 2,995 2,995 三 河 10,000 8, 700 8,700
尾 張 1,200 7,000 7.000
紀 伊 850
伊 勢 11, 100 11.000 11.000
志 摩 7.100 6,500 6,500
和 泉 80 80
播 磨 2.000 5,040 5,040
備 前 15.000 17,490 17,490
備 中 700 4,010
後 備 2,535 2,535
越 後 2.000 5.000
越 中 450
佐 渡 2,230 2.000 5,000
コ
M00越 前 1,100
能 登 18,800 32.000 32.000
若 狭 7.000 7.000
丹 後 1,330 4,500 1,100 5,600
イ
白 番 250 300 50 600
出 雲 2,800 4.000 4.000
隠 岐 5,600 5,600
石 見 500 280 300
長 門 11,350 5,950 一 220 30, 6001 30, 820
周 防 23.000 7, 3001 7, 300
) 一 十 一
∞ 必
∞
ω
叩 印
∞
∞
m出
回 一 泊 初 一 ぬ
∞ 白 羽
∞
∞
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ω ω
一回
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一三
日
‑ 0 4 5 1 4 6 8 5 4 5 7 6 3 0 2 5 5 9 5 1 2 0
‑ 2 骨 一 合 一 部 4 4 U 2 3 1
日
8 u m n m 9 1 m 7 4 2 U
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天 保 12年 俵 物 集 荷 概 要 ( 俵 物 手 続 書 )
出 荷 地 区 │ 俵 物 種 別 │ 集 荷 根 拠 地 │ 集 荷 額
松 日 I j , 津 軽 , 南 部
│ 煎干海 飽鼠 │ 松岡 別 │97000斤│
同 上 上 89,022.4
前
前目U
i
前煎煎海海海一鼠鼠干鎌飽鰭瞬階I同向目Ij役場上引上請 837,,563 60016.000 狭阿日波向,志備土摩佐中,三備伊河前予,伊丹能勢後登,,尾,播越張磨前~讃和,岐若泉, l!ト煎 海 鼠
大 阪 } ! ! }
116202
天 保 12年 俵 物 集 荷 概 要 ( 干 俵 物 手 続 書 )
出 荷 地 区 │ 俵 物 種 別 │ 集 荷 根 拠 地 │ 集 荷 額
江 戸 緩 鰭 │ 江 戸 l
上戸佐向,, 阿伊 波予総丹伯 !1白 後 大下 阪 3. 700
日 後 戸関 770
江豊 後,安,房石, 見上 相模者番, 仙豊台 江 76,680 下 関 6,240 長津伊崎予,筑地,廻前対,馬,佐豊,佐後賀領渡,備後朝天鮮草,備,薩中摩,備,唐前 }!煎 海 鼠
!}長 崎 ! } 一 江島戸見原,安房伯周, 防上総,安,常芸陸向, 仙台 │長崎江下役場戸関
町
3341.,390650石 番 , 日 645
長対崎馬地,廻佐,渡天草,唐津, 筑目Ij, 豊後/}ヱl 飽 /}長 崎 }I仰 95
筑 前 , 豊 前 , 長 門 │煎海鼠,干飽 │ 下 関 │ 18, 500 大 村岐,平 戸後,五 島後
壱 ,肥 ,主主 , 出 雲 }I煎 海 鼠 , 干 飽 / } 言 明 書 ! } 侃063
隠 [j皮 │ 煎海鼠,干飽 │長崎役場引請[ 5, 700
長 門 請 負 領 │ 煎海鼠,干飽
l
下 1,900正山ま 国 │ 煎海鼠,緩鰭 │長崎役場引請1 16.000
土 佐 干 告白 阪 │ 50
メ口L 計 額 791,752
備 考 資 料 1 俵物方手続書 長崎図書館蔵
俵物方手続書の統計は天保12年の実情と思われる。
2 諸国俵物元極帳 東京大学史料編纂所保管
天保12年の実情と推定される(小川国治氏の見解)本概要表の統 計は田中が地域毎に集計し原本の記述順次に従っていない。
3 延享2丑年廻着高は「花蛮交市治聞記六(華蛮交易明細記の記事 を集計した)J
長崎県史史料篇4巻掲載 4 (町)は町人請負を示す
隠岐における長崎俵物の歴史地理学的研究 203
1万斤 l千斤 量 生 産 地 域
曾 10万 斤 e
ても大きな過誤はな
いと
思う
︒
第1表を資料とし
て生産地域と生産量
布
の分布を図化すると
分
第1
図 の 如 く に な 産
る︒最大の生産地は
生
松前地方で︑ここで
物
は飽︑海鼠の生産は
俵 崎
相半ばしている︒太
長 平 洋 岸 で は 三 陸 海 第1図
岸︑房総︑三浦半島
に集
中し
︑ 伊 豆 半
島︑紀伊半島は意外
にすくない︒瀬戸内
は平均的に産地分布
が見られ︑豊後水道
4晶 ︑
1' li ft
m一
一 謀
議
Y
ま
俵物方手続書記載の隠岐俵物集荷高(天保12年) (原本長崎県立図書館) 第2図
両岸に産地が集中し︑九州では島興部の対馬︑五島︑
天草と肥前の海岸が大産地で︑日本海側では能登を最
大産地とし︑若狭︑丹後及び佐渡︑隠岐の二島が産地
となっている︒煎海鼠と干飽の産額は前者が大で︑鰻
鰭は全体量がすくない︒
隠岐における長崎俵物の生産状況は全国生産八O万
斤程度に対して五千六OO斤程度の位置づけが第一表
からよみとれる︒
此の額が隠岐における俵物生産の歴史的推移の中で
如何なる位置づけを得ているであろうか︒
文化四年(一八O
七)
の隠岐島の請負高は島前二︑
一 五
O斤︑島後二︑五五O斤︑計四︑七OO斤で︑此
の額は享和元年(一八O一)代官葉倉権九郎隠岐に渡
海し︑浦方との取極高二一︑
00
0斤に比すと著しく
小額であるが︑当時の鉾突採取による生産高としては
略平均的生産額と思われる︒その理由は四︑七OO斤
の請負高は長崎代官高木作左衛門が廻村の上資源減少
隠岐における長崎俵物の歴史地理学的研究
£っ こ︒
チt
ヂー
天保十二年(一八四一)長崎役所集荷高五︑七OO斤との右の額は一致し
205
ける隠岐島俵物生産のかなり確実な生産と思われる︒
半f
第3図
の状態を確認し請負わせた額だから
俵物方手続書)
であ
る︒
四︑七OO斤の浦々割当をみると
請負高よりも大で︑島前合計二︑
(資料
五Oは変らないが︑島後合計は二︑
九二
O斤となって︑合計では五︑︒
俵物生産地と集荷系統
七O斤となっている︒これは島後に
おける各浦々割当てについて︑漁場
生産豊度を比較検討しての修正割り
あての故である︒この割当ての二年
後の文化六年(一八O九)には高木代
官によって島前四五七斤︑島後五回
斤︑
計一
︑
00
0斤の追加割符が
行な
われ
︑
五七
︑
OO斤の割当てと
( 第
2園 )
︑
﹂の
額は
化政
l天保期にお
206
化政l天保期にかけての全国俵物集荷高は年による差異が大で︑五O万斤l八O
万斤の聞を上下している
a v o
従
って隠岐の出荷高は全国集荷高の一%を占めていたと推定される︒
隠岐における長崎俵物の出荷を全国俵物集荷形態の中で図化してみると第3図の如くになる白)O
続書を資料としての集荷図で︑隠岐は長崎会所直送となっている(初期には下関問屋を経由した︒これは後述する)︒ ﹂れは俵物方子
俵物の集荷は町人請負と役所直接集荷の二形態のある事は第一表からも読みとれるが︑その集荷圏は図に示すよう
錯雑している︒大観的には集荷圏は集固化しているが︑西日本の場合︑特に伊予あたりでは大阪︑下関︑長崎の三地
区に集荷が分散している︒集荷効率から見ると極めて不経済の集荷のように思われる︒こうした錯雑さの理由につい
ては明らかにされていないが︑筆者の推定では幕落体制下における行政管轄の交錯がその一因となっているのではな
いかと思われるo例えば俵物諸国元極帳によると伊予の加藤遠江守領の煎海鼠は長崎集荷︑松平隠岐守領︑松平右京
太夫領︑松平采女正領︑伊達遠江守領の煎海鼠は大阪に集荷されている︒豊後の稲葉備中守領の干鮪︑煎海鼠は長崎
に︑松平河内守領の煎海鼠は下関に︑というふうに支配関係の差で集荷先が異なっていることがみとめられる︒
隠岐では文政八年までは下関送付︑九年以降は長崎役所直轄で長崎会所直送となった自﹀O
C
隠岐
にお
ける
長崎
俵物
の生
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流通
ィ︑
天明
五年
長崎
会所
直買
実施
以前
の状
況
隠岐は島前︑島後の二島群にわかれ︑前者は別府村に︑後者は西郷町に代官所があり︑俵物下請人も島前は別府村
酒屋伴左衛門︑島後は西郷町宇屋の板屋武左衛門が長崎役所から指名されていた︒
俵物に関する資料は島前の方が豊富に存在し︑島後は極めて僅かである︒これは明治三年に隠岐騒動と称する騒乱