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中世の経塚にみる信仰
教科・領域教育専攻
社会系コース
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曽根大地第 一 章 研 究 史 と 問 題 点
経塚とは十一世紀以降の日本の中世において、
書写した経典を銅製の筒に納め、それを地中に 埋納した塚のことを指す。現代においても、タ イムカプセルと称し記念品を地中に埋め、何十 年後かに取り出そうとする試みがなされるが、
経塚もそれに近い。しかし経塚の場合は、
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千万年後という遠い未来に、弥鞠菩薩がこの 世に下生し、龍華樹において三会の説法を説い て衆生の救済をする時まで、経典を保護すると いう目的のために造営されるのである。当時日本では、人々の間で末法思想が流布し、
廃仏の恐れを抱いていた。末法とは、仏教にお いて釈迦の入滅後の世界を三時期に別けた内の
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つの時期を指す語句である。三時期では、正 法・像法・末法に別けられ、仏教の「釈迦の教 えJ
・「悟りJ r修行J
から、仏教が衰退していく
過程を説明しているのである。正法では、釈迦
の教えが残っており、修行して悟りをひらく者
が存在している時期をいう。像法では、教えは
残っているが、修行しても悟りをえることがで
きない時期をいう。そして末法では、釈迦の教
えのみが残るだけであり、修行する者も悟りを
ひらく者も存在しなくなってしまう。そのため、
弥鞍菩薩が下生する時代になって仏教が衰退し てしまっていては、弥鞘からの救いを得ること ができなくなってしまうのではないかと考えら れていた。そこで経塚によって経典を地中に埋 納し、後世まで経典を保護するという目的によ
指 導 教 員 大 石 雅 章
り、盛んに造営が行われたのである。
経塚から出土する銅製の筒は、経筒と呼ばれ ており、その側面には銘文が記されている場合 がある。そこから、経塚を造営しようと計画し た人物の名前や、造営を取り仕切った僧の名前、
造営された時期などが記されており、経筒が出 土した経塚についての情報を読み取ることがで きる。また、経筒銘文からは埋経の目的もみる ことができ、弥鞍信仰などに関係する「龍華樹
J
や「三会説法」といった語句が読み取ることが できる。しかし、経塚から出土する経筒銘文か らは、弥鞠信仰を目的としていない銘文も存在 しており、経典を保護する目的で造営されたの ではないと思われる経塚も存在している。その ような性格を持つ経塚から出土する銘文では、「現世安穏」や「後生菩提j といった現世利益 的な信仰を持っており、弥鞘信仰に関する語句 が一切読み取ることができないのである。
これら埋経の目的の違いから、経塚そのもの の定義に問題が生じており、時期や埋経形態に よる分類がなされるなどの研究が行われている。
また経塚という語句を埋経遺跡とするなど、塚 としての表現を見直すといった考えも打ち出さ れている。本研究では、経塚から出土する願文 や経筒銘文から信仰を読み取り、埋経の目的の 変遷について検討していきたい。
第二章弥鞘信仰を銘文に持つ経塚
弥鞠信仰を銘文に持つ経塚は、奈良県金峯山
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経塚・和歌山県奥之院経塚、粉河産土神社経塚・ 埋経している。また、粉河産土神社においては 京都府鞍馬寺経塚・福岡県四王寺経塚、武蔵寺 弥鞍信仰のみの目的で、あったが、鞍馬寺におい 経塚などがあげられる。金峯山経塚では、寛弘 ては弥鞠信仰の他に、「過去二親Jの供養を祈願 四年(1007年)に藤原道長によって埋経が行わ しており、同一人物の埋経であっても、場所に れており、弥鞘菩薩に値偶し、金峯山の地主神 よっては目的に違いがみられることがわかる。
である蔵王権現から霊験を授けられることを祈 願していることが願文から読み取ることができ、
埋経の主目的であることが理解できる。
また、同地において道長の曾孫にあたる師通 が寛治二年 (1088年)に埋経を行っており、願 文からは弥鞠慈尊の三会の説法に結縁するとい う意図の祈願が記されており、この願いを「願 力最切j とし、弥勅信仰が師通の埋経において 最も重要な祈願であると読み取ることができる。
しかし、道長の埋経と師通の埋経を比較すると、
埋経目的に相違点が生じている。それは、師通 の願文には弥勤信仰だけでなく、現世利益的な 信仰も祈願されているのである。その主要な記 銘は「只以祖孝之奮業矯望j とあって、亡くな った祖父や父の供養を祈願していることや、
「只以子孫之繁昌矯願Jとあり、子孫、の繁栄を 願っているのである。
和 歌 山 県 高 野 奥 之 院 経 塚 で は 、 永 久 二 年 (1114年)に法薬尼という女性によって埋経が 行われた。出土した願文には、弥鞍慈尊出世に 結縁していることが注目できるが、経典保護の ために、高野山奥之院で入定している弘法大師 空海に埋納した経典を護持してもらうことを祈 願している。
京都府の鞍馬寺では保元元年 (1120年)、和 歌山県の粉河産土神社経塚では天治二年 (1125 年)において、清原信俊という同一の人物によ って埋経が行われた。信俊は霊地・聖地とされ る場所に書写した経典を送り、兜率天に結縁し、
弥鞠慈尊に値偶するという内容の銘文をもって
第三章現世利益を銘文に持つ経塚
和歌山県隅田八幡神社では、長寛二年 (1162 年)記銘の紙本経が出土した。隅田八幡神社は 隅田一族によって神事が執り行われる神社であ った。神社から出土した紙本経の銘文には、弥 鞍信仰に関係する語句が読み取ることができず、
「現世安穏」や「後生菩提j、「愛子安穏太平」
といった現世利益的信仰の記銘がみられた。具 体的に隅田八幡神社における信仰に注目してみ ると、宮座などの神事に、荘民が参加している ことがわかり、神社が隅田一族のみによって信 仰されているのではなく、在地民衆によっても 信仰の対象とされていたことがわかった。
終章
経塚から出土する経筒銘文や願文から読み取 ることができる埋経目的は弥鞠信仰に留まらず、
様々な祈願によって、造営されていることがわ かる。貴族による金峯山や高野山に埋経される 経塚は弥鞠信仰に基づく経典保護を第一義とし た目的で、あった。一方、隅田荘の荘民の生活を 鎮守する隅田八幡宮においては現世利益の目的 のみとなっている。
現在の定説では経塚造営の目的は末法思想に よる弥鞠信仰の経典保護であるとされるが、時 期や埋経者などの信仰のみならず、埋経が行わ れる地によっても造営目的の変化が見受けられ る。