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秦漢姦淫罪雑考

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(1)

秦漢姦淫罪雑考

著者 下倉 渉

雑誌名 東北学院大学論集. 歴史学・地理学

号 39

ページ 105‑174

発行年 2005‑03‑15

URL http://id.nii.ac.jp/1204/00024182/

(2)

秦 漢 姦 ︑ 淫 罪 雑 考

下 倉 渉

〇五

(3)

は じ め

近年公刊された二年律令は︑たとえそれが当該律

全文でないとしても

級史料として

価値を減じる

ことはない

分析によって︑秦漢時代史は勿論

こと︑中国史全体

究明に

飛躍が見られるであろうと︑

誰しもが期待しているはずである

研究

方向性は種

考えられるが

まず第

に着手すべきは︑漢律

復元作業であろう

既得

睡虎

秦律等を

参照

︑且

︑これまでに確認

収集された佚文をもあわせ用いれば︑従来以上の成果が得られるであろうことは

間違いない

かかる検討

結果は︑秦漢法制史

解明に大きく貢献するであろう

そして︑そ

裨益するところは

これに

まらない

復元した条文を唐律

それと対照することによって︑唐律形成史研究も

進展が見込まれ

更に︑唐代以降

律にまで対象を拡大して︑そ

通時代的な変遷を明らかにすれば︑刑法規定

比較を通じて

各時代

特質をあぶり出すことも可能になる

ではあるまいか

本稿

着想は︑まさにこうした点にある

比較を試みようとした場合︑当然何らか

の ﹁

を設ける

要がある

まず思浮かぶ

は︑律中

特定

法規

に着目

て︑それを通史的に考察する方法である

いま少

限定すれば︑具体的な事犯を取り上げ︑そ

処罰規定 に検討を加えるとい

た手法が考えられよう

ただし︑そ

際︑ど

ような犯罪を選ぶべきかという点に注意しな

ければならない

社会状況

違いによ

て比較が困難であろうと予想されるも

a ︒

古今を通じて︑罪

認定

や刑

軽重等

基準にズレ

少ない犯罪を選択する

が肝要であろう

本稿で対象とする姦淫罪は︑そ

の 一 つ

であ

(4)

ると思われる

以下︑第

節ではまず︑行論上

要な範囲に限つて︑唐律にける当該犯罪

刑罰規定に

いて確認し︑そ

で明清律と

相違点を指摘する

そしてかかる検討をふまえて︑第二節以下では︑二年律令を主たる材料とし

ながら沈家本

程樹徳による佚文収集

成果を活用し

っ つ

︑漢律における姦淫罪

処罰規定︑並び

魏晋期

以降

変遷に関して考察を加える

宋代以降

法制史に暗く︑

かも

出土史料を本格的に扱う

は初めてである

で︑重大な過ちを

しているかもしれない

諸先達

の 叱

責を乞う次第である

第 一 節 唐 律 以 降 の 処 罰 規 定

a

唐律

場合

唐律

姦淫罪処罰規定は︑唐律疏議巻二十六

雑律

二二条から二八条に見える

これらを戴炎輝 ︵照は

普通

規定

特別姦罪

に大別する

内︑

普通規定

即ち

般規定に当たる

が︑

良人相姦

︵雑律

二二条︶

︵3︶であった

律中では

凡姦

と称され︑

特別姦罪

に対する処罰は︑通常これを基準に刑

加減がなされた

中で

も︑無夫

婦女︵未婚女性︶と

和姦が基準中

基準で︑刑は徒

年半

有夫婦女と

和姦︑よび未婚女性を強

姦した場合には

これに

等が加えられ︑既婚女性

強姦には更に

等が加重された

︒ ﹁

特別姦罪

を戴氏は以下

六種に分類する

①良賤相

:

雑律

2 2 ・

2 6

(5)

家賤男姦主或其親属 雑律

2 6

③親属相姦 雑律

2 3 〜

2 5

監守内姦 雑律

2 8

居父母或夫喪姦 雑律

2 8

道冠姦 雑律

2 8

①は︑身分が異なる者同

士 の

姦淫罪で︑男性当事者が賤民であれば︑良人相姦︵凡姦︶に加等され︑逆に良民男性

であると減刑される

②は︑私家

賤男︵奴

部曲︶が主やそ

親属と姦通

たケー

ス ︒

和姦

場合︑相手が主と

︵4︶そ

妻子および期親︵そ

妻を含む︶である時は

に処され︑大功以下總麻以上

親︵そ

妻を含む︶ならば︑

︵5︶流刑に当てられた

③は︑三条に分けて規定される

唐律において③が最も重視されていたためであろう

重大犯

罪と

されていたことは︑それが

十悪

の ﹁

内乱

に入れられている点からも窺いしれ請 ︶

なお︑その詳細に

いては後述する

の ④

は︑監守

役人が部内

良民婦女と姦した場合

の 処

罰規定で凡姦に

等加刑された

は︑父母よび夫

喪服期間中に子

妻が犯した姦淫罪で︑これと︑⑥

良民と道

士 ・

女冠

尼と

姦罪には︑

姦に二等が加重された

以上

姦淫罪

罰規定では

和姦罪と強姦罪とに分けて

刑が定められている

強姦は︑和姦に

等加とされ︑科

対象は男性に限られた

︒ 一

方︑和姦罪は︑触法者

首従を分かたず︑男女に同

一 の

刑が科された

ただし︑こ

れは原則で︑④

の ﹁

監守内姦

﹂ の

場合︑婦女は

姦を以て論じると定められ︑また︑⑤⑥でも︑私通相手は凡姦扱

(6)

︵7︶いとされた

更に︑唐律疏議雑律

二六条

奴姦良人

には

其部曲及奴

姦主及主之期親若期親之妻者︑絞

婦女︑減一等

とあるから︑②中

の ﹁

主及主之期親若期親之妻

に対する科罰も

男女同罰

原則

例外であっ通

二三〜二五条に見える③

の ﹁

親属相姦

いて︑和姦罪

刑罰に限定して考察を加えると︵以下付図参照︶︑二

三条

の ﹁

姦總麻親及妻

は︑總麻

小功

大功親間

妻を含む︶

姦淫罪に関する

般規定である

刑は徒三

本条で注

きは︑妻

前夫

女と異父同母姉妹とが含まれている点である

後者は小功親︵ただし義服︶で

︵9︶あるが︑いずれ

女性も異姓に他ならない

父系

原理

原則からいえば︑両者とも異族に当たる

︒ ﹁

特殊な間柄

︵l0︶といいえよう

続く二四条

の ﹁

姦従祖母姑

と二五条

の ﹁

姦父祖妾

では︑具体的な親属

名称を挙げて刑を定める

二四条に

見える親属名は︑従祖祖母姑

従祖伯叔母姑

従父姉妹

従母

兄弟

兄弟

妻で︑こ

内︑従父姉妹と

兄弟

妻が大功親︑他は小功親に属す ︵

a ︒

本条は

小功

大功親

例外規定と見なしえよう

科される刑は︑前

条よりも重い流二千里であった

二五条には

伯叔母

娜妹

子孫之婦

兄弟之女

とあり︑子孫

婦以

外は全て期親に当たる

︒ っ

まり︑こ

対象は︑傍系

期親と直系卑親

妻︵子孫

婦︶であったと換言するこ

とが可能であろう

処分は

と︑二四条よりも更に重い

なぉ

二五条では表題に見える

父祖

通も

と定める

ただし︑これは父祖

子を産んだ妾

場合であって︑子をなさない妾であれば︑本条

刑か

等が減じられ種 ︶

また︑

父祖所幸婢

姦は︑更に

等減刑され

m

〇九

(7)

b明清律

場合

-

唐律と

比較

1

唐律において雑律

の 一

部であった姦淫罪処罰規定は︑明清律になると

刑律中

の ﹁

犯姦

篇としてまとめられる

唐律

七条を分割

統合

た上で改題し︑且

︑新たに

縦容妻妾犯姦

﹂ ﹁

誣執翁姦

﹂ ﹁

官吏宿娼

﹂ ﹁

買良為娼

﹂ の

条が追加さ - : :- --

一 一 ︒

また︑従来

諸条中に

︑ ﹁

姦生男女

﹂ ﹁

嫁売姦婦

﹂ ﹁

非姦所捕獲及指姦

といった姦淫罪発覚後

定を付加する

更に関連する条項と

て︑刑律

人命篇に

殺死姦夫

条も新設された

である

唐律と明律と

異同に

いて考えようとした際︑有益な

がかりを与えてくれる

が︑薛允升

著した唐明律

合編であお

また︑清律

理解に当たっては︑沈之奇

大清律輯註が大いに参考にな話

以下︑本項では

両書

所論を参照しながら︑唐律と明清律

相違点を確認する

なお︑指摘は行論上

要な範囲に限定すること︑

︵l7︶再度断つておきたい

明清律でも︑

良人相姦

﹁ 凡

と称された

これが

般規定であった点は︑唐律と異ならない

しかし︑そ

刑罰を見ると︑基準中

基準であった未婚女性と

和姦

刑は︑

杖八十

に改められている

単純に比較すれば︑

唐律

年半よりも四等減じられたことになる

姦淫罪に関しても︑加減される刑

等数は唐律

それと同

じであった們︶︑基準となる刑罰が軽減されたため︑実質的には減刑された

と等

し ぃ ︒

かかる唐律

軽罰化は︑小

竹文夫氏が

全体として明律

処分が軽くな

ている

と概括されるとお

g

︑明律︑そしてそれを継承した清律

全体的な傾向であ

たと考えられる

ただし︑例外も存在する

の 一 つ

が強姦罪であ

明清律では︑唐律になかった

已成

︵既遂︶と

未成

(8)

︵未遂︶

区別が設けられた

て︑良人相姦

刑を定めた明律

の ﹁

犯姦

条に

強姦者︑絞

未成者︑杖

流三千里

とある如く

既遂は原則

で︑未遂

場合は一等が減じら.- :一

一 一 ︒

唐律に比べると︑明清律

処罰は頗る重い

者では和姦

罪と

等しか違わず︑

かも和姦

刑に従つて︑そ

処分は大きく変動した

これに対して後者

合は︑基本的には処死に刑罰が固定された

である

強姦罪以外では

家賤男姦主或其親属

にも相違点が見受けられる

前項で確認したように

唐律では︑主とそ

妻子および期親

妻を含む︶と

の 私

通は

に処され︑大功以下總麻以上の親︵そ

妻を含む︶ならば

刑に当てられた

以上に相当する明清律

処罰規定は︑

奴及雇工人姦家長妻

条に見える

凡奴及雇工人姦家長妻

女者︑各斬﹇決﹈

若姦家長之期親若期親之妻者︑絞﹇監候﹈︑婦女減

若姦家長

之總麻以上親及總麻以上之妻者︑各杖

百流

流二千里

強者︑斬﹇監候﹈

︵以上は清律から引用︶

家長

期親と總麻以上

親︵ともにそ

妻を含む︶に対しては︑それぞれ

﹂ ﹁

百流

流二千里

が科された

いずれも唐律

刑罰とほぼ同じであるが︑明清律では姦淫罪

の 処

分を軽減する方向にあった

だから︑刑

据え置

きは当該犯罪を厳しく処断しようとする

法意図

表れと理解できる

更に注

きは︑家長

妻女に対する刑

罰規定が独

して定められている点である

刑は

斬決

と極めて重い

しかも︑婦女

等減

適用範囲外と

なされている

妻女

処分は︑唐律に比

ると

二重に加重されている

である

家賎男と

不義だけではない

親属相姦

罰則規定も厳罰を極める

唐律では三条に分けられていたが︑明清律

(9)

淫罪

では

親属相姦

という表題

の 一

条にまとめられる

︒ し

かし︑①總麻

小功

大功親間

姦淫罪に関する

般規定

②小功

大功親

例外規定

③期親および直系卑親

妻に関する規定

1

五服

制を根幹とする三段階

処罰規定

はそ

まま堅持された

しかも︑そこには

同宗無服之親及無服親之妻

と姦した場合

規定が追加されている

﹂ ︒

これは凡姦よりも二等重い

そして従来

三規定に関しても︑①は

徒三年

と唐律

罰が維持され︑②③は

流二千里

﹂ ﹁

から︑それぞれ

絞﹇監候﹈

﹂ ﹁

斬﹇監候﹈

﹂ へ

と刑が引き上げられてい

B ︒

薛允升が唐明律合編

=ハ

・ ﹁

親属相姦

按語で

明律改流爲絞︑改絞爲斬︑總係求勝於唐律之意

と指摘するとおりであろう

五服に基づいた親属秩序

遵守を︑明清人が唐人以上に求めた結果であるに違いない

唐律以降

趨勢に

いて︑桑原

蔵は

内乱防範

法禁は︑唐律より清律にかけて

儼然維持されて居た

否唐よ

2︶り明︑明より清と︑代

代寧ろ緊厳を加

て来た

と概括する

従うべきであろう

の ﹁

家賤男姦主或其親属

関する考察をもあわせれば︑親属に関わる姦淫罪

処罰は︑唐代以降︑厳しさを増す傾向にあったと総括しえる

である

c

強姦罪

刑罰

︵2:-︶張中秋氏は︑強姦罪

刑罰が原則

に変更された時期を元代とする

元史

〇四

刑法志三

・ ﹁

姦非

強姦有夫婦人者死

無夫者杖

百七

未成者減

婦人不坐

(10)

秦 

漢 

姦 

罪 

雑 

考 

°

0

L

̲

とあり︑

はこれを論拠とされるが︑かく

如き理解は

しくない

以下︑本項ではこ

点に

いて少しく考察を

加えたい

元史と同じ規定は︑元典章中にも確認できる

例えば︑巻四五

刑部七

諸奸

強奸

・ ﹁

強奸無夫婦人

条 に次

ように見える

雷例︑強奸者︑絞

無夫者減

周知

如く︑

﹁ 旧

として示される刑法は金

泰和律を指す

よって︑七野敏光氏が論じられるように︑金代にお

いて既に強姦

処罰は

となされていた

であ

ただ

無夫

︵未婚婦女︶

の 一

等減は︑明清律には見

︵一

一 一

︶えない規定である

仁井田陞

は︑泰和律が

姦淫︵強姦︶罪を唐律より重科として扱う

理由に

いて︑

女真的固有法意識

反映

があるかも知れない

と推論されるが︑これも

しくな ︵W︶

五代史

四七

刑法志には以下

ようにある

﹇周太祖廣順﹈二年︵九五二︶二月︑

-

:

乃下詔日

﹁ - - ︒

應有夫婦人被強姦者︑男子決殺︑婦人不坐

其犯和

姦者︑並准律科斷︑罪不至死

︒ - - ︒ ﹂

先是︑﹇後﹈晉天福中效︑凡和姦者︑男子

婦人並處極法

至是始改從

律文焉

右には

晋天福中

としか記されていないが︑同書巻

一 一

周書

一 ・

太祖紀

には

廣順元年︵九五

︶春

月丁卯︑

- -

︑制日

﹁ - - ︒

今後應犯竊盜賊贓及和姦者

並依﹇後

晉天福元年︵九三六︶

(11)

一 一

と見える

天福元年は後晋

高祖

石敬塘が即位した年であるから︑同王朝

成立と同時に和姦

強姦ともに処死

と刑法が改定されたと考えられる

そして︑後周が創業された広順元年に︑和姦

処罰

み唐律

規定に戻された

であった

︵2︶宮崎市定氏が概括されるように︑唐末から五代

混乱期において︑

容赦ない重罰

が勅によって定められた

淫罪

厳罰化を命じた後晋

天福勅も︑こ

の 一

例であろう

後周

時︑かかる峻法は緩和されたが︑それは和

一一一 一 の

刑だけであって︑強姦罪を処死とする法規はそ

まま継承された

そして︑こ

規定を北宋は引き継ぐことになる

宋刑統巻二六

雑律

諸色

姦には︑唐律

姦淫罪処罰規定に続いて

ママ准

後﹈周廣順三年二月三日效節文︑

應有夫婦人被強姦者︑男子決殺︑婦人不坐罪

其犯和姦及諸色犯姦︑並

准律處分

︒ ﹂

︵8︶と︑前掲

後周広順二年勅が引用されている

傍照法に従つて︑強姦罪は

男子決殺

と量刑されたに違いない

ただし︑こ

の ﹁

男子決殺

は法定刑であ

て︑続資治通鑑長編巻三五

に﹇神宗元豐八年︵

〇八五︶﹈

未︑三省

樞密院言

該配︑合從開封府及軍馬司斷造者︑並依法配行

無軍

名者︑五百里以上︑並配牢城鄰州︑本州並配本城

強盜︑或三犯竊盜︑因盗配軍後再犯罪︑若謀殺并以刃故傷

人︑放火

強姦︑或人力姦主

成︑造蓄盛毒及教令人︑并傳習妖教︑故沈有人居

舟船︑拒捕︑已上於法合配

者︑并諸軍犯階級及逃

應配千里以上︑並依法配行

︒ - - ︒ ﹂

從之

とあるから

執行刑は

配軍

であったと推測される

また︑麼元条法事類巻第八〇

雑門

諸色犯姦

(12)

勅に

諸強姦者︵女十歳以下︑雖和亦同

︶︑流三千里︑配遠悪州

未成︑配五百里

とあり

法定刑もやがて処

から

等が減じられて︑

流三千里

に引き下げられたと考えられ礎 ︶

かかる改定が宋朝

つ の

時点で行われた

かは︑詳らかにしえない

そもそも︑同王朝にいて強姦犯がど

ように処分された

か︑今ひと

はっきりしない

である

︒ 日

ところ︑詳細は不明とする他ない

だが︑少な

くとも如上

考察から︑当該期にける強姦

の 処

罰は唐律

ような和姦に

等を加重する変動型

刑罰ではなかっ

た︑と論断することは許されるであろう

和姦罪とは連動しない固定型のしかも︑和姦

刑よりもはるかに重い

厳酷な刑罰を科す強姦処罰

あり方は︑唐朝滅

常制であり︑明清律

規定はこうした五代以降

変遷を集大

成したも

に他ならない

である

第 二 節 秦 漢 の 処 罰 規 定

1

I ﹁ 凡 姦 ﹂ を 中 心

1

本稿

主題である秦漢時代

姦淫罪処罰規定に

いて話題を転じよう

︒ ﹁

はじめに

で断つたように︑出土した

年律令を主な検討材料としながら︑且

︑沈家本漢律 :

擴過と程樹徳九朝律考

成果を活用し

っ っ

︑考察

を進めていく

二年律令

引用に当たっては︑張家山漢墓竹簡︵文物出版社二

〇 〇 一

整理に従つて律名

を示し︑簡番号と釈文

頁数を掲げた

また︑睡虎

秦簡は睡虎

秦墓竹簡︵文物出版社

九九

︶によった

なぉ︑

要な場合以外は簡

区切れを明示しない

(13)

a

和姦罪

二年律令

一標律︵

九二簡

五九頁︶には

諸與人妻和奸︑及其所與︑皆完爲城

其吏也︑以強奸論之

と︑人妻と

和姦に

いて定める

女性が未婚であった場合

規定は︑出土した二年律令

中に見出せないが︑

同墓から発掘された奏識 ︵部

案例二

一 I 亡

葬儀期間中に

一 一

一 一

f:

一一 一 一

犯 し

た密通事件に関する裁判記 ︵銅

1

は︑冒頭に以下

如くある

︵ 一

〇 〜 一

八三簡

二二

頁︶

故律日︑

a

死夫︵

?

︶以男爲後

毋男以父母︑毋父母以妻︑毋妻以子女爲後

律日︑

b

諸有縣官事︑而父母若

妻死者︑歸寧卅日

大父母

同産︑十五日

︒ ︵

c

努︵傲︶悍︑完爲城

春︑鐵一顯其足︑輸巴縣鹽

︒ ︵

d

教人不孝︑

次不孝之律

不孝者棄市

棄市之次︑難爲城

︒ ︵

e

當錬公

士 ・

妻以上︑完之

︒ ︵

f

奸者︑耐爲隸臣妾

奸者

案之校上

後略

本案例には紀年が記されていないため︑

確な年代を確定することはできな ︵

一 一

しかし︑右に見える

a

︶ 〜 ︵

f

︶ の

︵33︶

文 の

内︑

a

︶︵

b

︶︵

d

︶ ︵

e

︶ の

四条は二年律令中に該当する条文が確認される

︒ ︵

c

︶ ︵

f

は見当たらないが︑後者

半部分

捕奸者

案之校上

は︑後に詳述するように

和姦

を検挙する際

の 必

須要件を示したも

で︑当規定は

秦代に設けられ︑それが漢代に継承されたと考えられる

て︑少なくとも

f

は︑出土した簡願中に見えないだ

けで︑これと同内容

条文が

a

︶ ︵

b

︶︵

d

︶︵

e

︶ の

四条と同じく本来

二年律令中には含まれていたと見なしえる

であ

おそらく

の ︵

f

中に見える

奸者

耐為識臣妾

こそが︑当該律

段階にける未婚婦女と

和姦に関する

(14)

刑一割規定であったに違いない

かかる想定が

しいとすれば

漢初

律でも女性

有夫

無夫によ

て和姦罪

刑に差等が設けられていたこと

になる

て︑そ

具体的な刑罰は︑未婚であれば

耐為隷臣妾

︑既婚は

完為城旦春

であったと理解できる

また︑

九二簡には

皆完為城旦春

とある

和姦罪

処分は男女同罰が原則であった

だろう

刑名を除くと︑以

点は唐律以降

規定と何ら異なるところはない

である

︒ 一

九二簡と全く同

一 の

条文を敦煌懸泉置漢簡

中にも確認することができる

敦煌懸泉漢簡釈粋︵上海古籍出

版社二

〇 〇 一

九頁に見える次

簡がそれである

●諸與人妻和奸︑及所與

爲通者︑皆完爲城旦春

其吏也︑以疆

強︶奸論之

其夫居官 以下断欠

n

0 ll

2

:

8︶

同書

の ﹁

凡例

によると︑ 簡番号

の ﹁ n ﹂

は発掘された場所

︑ ﹁ ② ﹂

はそ

地層を表している

同所

同層から出土

した簡

紀年を有するも

は二五枚で︑

n

03 l

4︵

2︶一 :

302に見える

五鳳二年

︵宣帝後期︶が最も古く︑下限は

n

0 ll

4

:

294

の ﹁

元始

年四月丁未

︵平帝末年︶である

元帝と成帝期

が最も多く︑前者は八簡︑後者は

二簡となる

出土状況から考えると︑右は前漢晩期に施行されていた律

佚文と想定される

既婚女性と

和姦 に関する二年律令

規定は︑少なくとも前漢時代を通じて

- っ

まり︑文帝

三年

刑制改革以後も

1

変更さ れることはなかったと見なしえる

である

文献史料に目を転じると︑漢書

高惠

一 一

一同后文功臣表

土軍式侯宣義

項に

一一七

(15)

一 一

建元六年︵前

三五︶︑候

嗣︑八年︑元朔二年

︶︑坐與人妻姦

とあり︑また︑太平御覧巻二〇

一 ・

封建部四

誅貶に引く束観漢記

利取候畢尋玄孫守姦人妻︑國除

'

と見える

沈家本は漢律 :

巻八

雑律

・ ﹁

与人妻姦

﹂ の

以下同書同巻同条

場合は項名

み掲示︶で前者

を引き︑程樹徳は九朝律考

一 ・

漢律考四

律令雑考

・ ﹁

和姦

項︵本書に

いても以下項名

み掲示︶におい

て両例を引用する

人妻︑即ち既婚女性と

和姦

事例に他ならない

沈家本は

﹁ 与

人妻姦

﹂ の

項で

他に漢書から次

記載を引く︵巻

景武昭宣元成功臣表

岸頭候張

次公

項︶

以都尉從車騎將軍準匈奴候︑從大將軍︑益封︑凡二千戸

五月

已封︑五年︑元狩元年︵前

二二︶︑坐與淮南

王女陵姦︑受財物︑免

て︑以上

両事例を掲げた上で︑沈は

按︑

周禮﹈秋官司刑引尚書大傳

男女不以義交者︑其刑宮

︒ ﹂

古者︑姦罪甚重︑此二者︑僅

免候

蓋輕

於古矣

稱淮南王女︑似是無夫者︑而﹇岸頭侯張次公﹈與土軍﹇侯宣生﹈之罪同︑是漢時不分有夫

無夫矣

と論じる

︒ ﹁

時︑有夫

無夫を分かたず

という論断は︑本項如上

考察に基づいて改められなければならない

二年律令

存在を全く知らなかった

だから︑致し方なしとすべきであろう

ただし︑右

按語における問題

点は

結論部分だけに

まらない

それを導き出すに当たって前

となされている諸点も疑わしい

︒ ﹁

淮南王女

(16)

という表現から当該王女を

無夫

と推定する

か無理があろう

また︑宣生

張次公に科された刑罰が

であったとする点にも従いかねる

沈家本は︑史記漢書

諸表中に見える

免侯

諸候に対する処罰

1 正

確に言えば︑本来科されるべ

き刑罰が侯位

の 剥

奪によって免除された

- の 一 つ

と見なす

そして︑かかる理解に基づいて表中に記載される犯

罪名や刑

軽重等に

いて判断を下している

例えば

︑ ﹁

吏姦部民妻

﹂ の

項で︑漢書高惠高后文功臣表

敬候董一深

元光三年︵前

三二︶︑侯朝嗣︑十二年

元狩三年︵前

︶︑坐爲濟南太守與城陽王女通︑耐爲鬼薪

を掲げ︑そ

按語において

姦人

二事︑僅此免候︑而成嗣候爲鬼薪者︑殆城陽歸濟南所監

故罪較重

と述べる

︒ ﹁

姦人妻前二事

とは先

生 ・

張次公

事例を指す

両名が

免侯

であった

に董朝には実刑が

科されているから罪が重かった

だろうと考えて︑これを

与人妻姦

ではなく︑

吏姦部民妻

﹂ の

項に分類する

である

沈家本はこ

按語で

城陽帰済南所監

と論じる

即ち︑城陽国が済南郡

監守下あったとする

だが︑両地

の 地

理的な位置関係を確認すると︑前者は後者

北にあり︑そ

間には泰山郡

領域が横たわっている

︒ っ

まり︑城

陽国と済南郡は境域を接

ていない

である

所論をすぐさま支持するわけにはいかない

また︑

耐為鬼薪

と実刑名が記されている点に沈は着目する

だが︑漢書成敬侯重渫

項には︑董朝

記載

後段に

(17)

元康四年︵前六二︶︑渫玄孫平陵公乘識詔復家

とある

︒ ﹁ 免

とないだけで︑実際は重朝も侯位を

奪されたと見なさなければならない

爵位と刑

減免と

関係に

いて︑沈家本は誤解を

している

富谷 ︵郵

宮宅 ︵確

両氏が論じられるように︑秦

漢時代にいては削露

によって自動的に全て

刑罰が免除された

ではない

また︑布目潮 楓氏は

漢書

の 列

候表を見て︑死刑以下

の ﹁

完城旦春

﹂ ﹁

鬼薪

﹂ ﹁

司冦

﹂ ﹁

隷臣

﹂ の

刑罰に処せられた者が散見するが︑これは死刑

数に比して極めて

なく︑死刑以下

刑罰は︑漢書は多く

場合に記載を省略して︑単に

と行政上

︵3 6

︶分

み記

であろう

と指摘する

列侯表

性格を考えれば︑ここに書すべき

須事項は侯位

有無であって︑

記述に当たっては削爵や奪爵といった爵位に関わる処分に力点が置かれたはずである

同時に科せられたであろう

刑罰に関して記入

遺漏が存在する

極当然

ことといえよう

生 ・

張次公

事例では実刑名が省かれてい

るに過ぎない

︒ ﹁

国除

とある畢守

記載︵前掲

太平御覧所引束観漢記︶も同じであろう

また︑重朝に

対する科刑がこれらよりも重か

たと断定することもできない

重朝に関する記述を︑程樹徳は

和姦

﹂ の

項に引

くが︑これこそが

しい分類であろう

以上掲げた文献史料中

諸例は︑全て唐律における

凡姦

﹂ の

和姦罪に相

︵3︶当すると私は考える

ただし︑右

結論が

しいとすると︑ここから新たな間題が生じてくる

上述したように︑二年律令

規定では︑

未婚女性と

和姦は

耐為隷臣妾

﹂ ︑

既婚ならば

完為城

であったと考えられる

ところが︑

朝が科された

刑罰は

耐為鬼薪

であったと漢書には記されてい ︵

刑名

致をど

ように整合的に解釈す

きか

(18)

かかる疑問に対する解答は後

項で示すことにして︑ここでは最後に以下

点に

いて

み言及

てぉきたいc浜

口重国 ︵

﹂ E e

および富谷 ︵用によれば

隷臣妾

刑名は前漢武帝期を境に文献史料

上から姿を消す

文帝

三年

刑制

改革によって隷臣妾と鬼薪白粲はともに三年を刑期とする労役刑となった

ため︑やがて前者は廃

され︑三

歳刑は後者に

本化されたと両

は想定する

富谷

によると︑元狩五年︵前

一 一

八︶

紀年を有する漢書

高惠高后

功臣表

記載が

隷臣妾

存在を確認できる最後

事例であるから︑董朝

へ の

科刑がなされた元狩

三年

段階では

まだ同刑は廃されていない

しかし︑こ

後︑当該刑名

消滅に伴つて︑未婚婦女と

和姦に対

する刑罰は︑二年律令が定める

耐為隷臣妾

から

耐為鬼薪白粲

に切り替えられたであろうと推断される

b

強姦罪

二年律令

一標律︵

九三簡

・ 一

五九頁︶には

強與人奸者

府︵腐︶以爲宮識臣

とあり︑強姦罪

刑罰は

腐為宮隷臣

であ

たことがわかる

刑名から推測すると︑肉刑である

︵宮刑︶を

施した上で︑

宮隷臣

﹂ の

労役に当てたと考えられる

また︑

腐為宮隷臣

字を欠く

は︑唐律以降

定と同様︑男性

みが科刑

対象であったためであろう

機律︵

・ 一

五八頁︶に

奴取︵要︶主

主之母及主妻

子︑以爲妻︑若與奸︑棄市︑而耐其女子以爲識妾

其強與奸︑除所強

と見え︑同じく

一標

律︵

・ 一

五八頁︶にも

(19)

淫罪

同産相與奸︑若取︵娶︶以爲妻︑及所取︵娶︶︑皆棄市

其強與奸︑除所強

とあるから︑

所強

即ち被害女性が科罰されなかったことは間違いな ︵-

ここで︑前項所掲

一標律︵簡漢置泉懸煌敦︶簡二

九 一 ︵

n

0 ll

2

:

8︶を再度引用すると

諸與人要和奸︑及其所與︑皆完爲城旦春

其吏

︑以強奸論之

●諸與人妻和奸︑及所與

爲通者︑皆完爲城

其吏

︑以題︵強︶奸論之

後略

傍点部に

強奸

﹂ ﹁

疆奸

と見える

既婚女性と

和姦に関する処罰規定に続き︑且つ

其吏也

とある

だから

傍点部は吏が人妻と私通

た場合

罰則規定であろう

具体的な罪名は︑沈家本が

吏姦部民妻

名付ける姦淫

罪に違いあるま ︵-

管轄内

人妻と密通した吏に対して︑通常

和姦刑とは異なる罰を科す点︑唐

の ﹁

監守内姦

と全く同じ ︵-

の ﹁

吏姦部民妻

﹂ の

項で︑沈家本は

本節

a

項に掲げた漢書成敬候董渫

他に

太平御覽巻六三九

刑法部五

聴訟に引く会稽典録

﹂ の

記載を引用する

謝夷吾︑字堯卿︑山陰人也

爲荊州刺史︑行部到南魯縣

遇孝章

帝巡狩︑幸魯陽

︒ -

:・

有詔 :効夷吾︑入傳

録見囚徒

︒ - - ︒

有亭長姦部民者

縣言

和姦

﹂ ︒

上意以爲吏姦民何得言和︑且觀剌無决當云何

頃夷吾呵之日

亭長︑詔書朱積之吏

職在禁姦︑今爲悪之端

何得言和 ︵-

- j

上で︑当該項

按語において

此唐律之監主於監守内姦條也

︒ - - ︒

南魯亭長不得言和︑未知所處者何罪

或與成嗣侯同論

若以強姦論︑則

(20)

無此法理也

と述べる

だが︑県令

の ﹁

和姦

という論罪に

対 し

て︑謝夷吾は

何得言和

責を加えているのだから︑強姦

罪が適用されたと理解する

が穏当であろう

役人が権

に着て部民に情交を強要する

こうした悪行は後を

絶たなかったはずである

章帝が

長吏以劫人而得言和

と疑念を抱くのも当然

ことといえよう

二年律令が制

定された時点でも︑状況に違いはなかったと想定して大過あるまい

︒ ﹁

以強奸論之

という規定は︑かかる実情に照

らして定められた罰則であ

たと推断しえる

である

c

差等

再度確認すると︑唐律において︑有夫婦女と

和姦は無夫と

それに罪

等が加重された

また︑強姦

場合は︑

各和姦罪にそれぞれ

等が加刑された

であった

︒ 凡

和姦罪

強姦罪は︑未婚女性と

和姦

処罰を基点とし

序列化がはかられていた

である

では︑二年律令

段階ではどのような体系になっていた

であろうか

これは︑各犯罪

刑罰がど

ような関係にあったかという間題に置き換えることができよう

以下︑本項では︑先

成果に導かれながら︑

耐為

臣妾

︵未婚女性と

和姦︶

・ ﹁

完為城

︵既婚女性と

和姦︶

・ ﹁

腐為宮隷臣

︵強姦︶

序列に

いて考察を加えたい

周知

ように︑睡虎

秦簡が発見される以前

段階では︑秦代刑罰

序列は労役強度

高低に基づいて城

鬼薪白粲

隷臣妾

順になっていたと考えられていた

しかし

宮宅

は︑かかる理解を批判して以下

ように論

(21)

淫罪

じる

︒ ﹁

睡虎

秦律において

罪内容

軽重によって刑が逓減する場合

城旦春←隷臣妾という関係は見られるも

︑鬼薪白粲がそ

なかに組み込まれたも

はない

﹂ ︒

有爵者とい

た特権保有者が城旦春に該当する罪を犯した場

合︑

原則的には鬼薪白粲に当てられて労役に服すことにな

つていた

︒ っ

まり︑城旦春

鬼薪白粲

隷臣妾という

直線的な体系が存在した

ではなく︑身分

高下に対応する城

1

鬼薪白粲と罪

軽重に対応する城旦春

1

識臣

妾と

二系統に分かれていた

である

そして

かかる刑罰

体系は︑文帝

刑制改革まで基本的には変わらなかっ

︵45︶たと

は想定される

二年律令では︑女性

未婚

既婚によって和姦

刑は

耐為隷臣妾

完為城旦春

とに分けられていた

宅氏

見解に従えば︑これは︑罪

軽重に基づいた区分であろう

そして︑そ

差は︑唐律以降

規定と同様

であったと想定される

︒ っ

まり︑同系列で軽重

刑罰が科された

である

︒ 犯

様態︵男女双方

合意に基づく不義密通︶が同

であり︑そ

違いは当事者女性

有無という

事だけであったことが︑かか

る処分を二年律令

の 立

法者が定めた根拠であったと推断される

である

これに

対 し

て強姦は加害者による

方的な犯罪である

では︑そ

処罰である

腐為宮隷臣

は︑刑罰体系

でど

ような位置にあった

︒ ﹁

腐為宮隷臣

という刑名は︑睡虎

秦簡

二年律令を通じて︑前項に掲げた

例しか確認できない

しかし

これが強姦

刑であることに留意すると︑先ず注日す

きは次

收律︵

七四〜五簡

・ 一

五六頁︶である

罪人完城

鬼薪以上︑及坐奸府︵腐︶者︑皆收其妻

田宅

其子有妻

夫︑若爲戸

有爵︑及年

(22)

十七以上︑若爲人妻而棄

寡者︑皆勿收

坐奸

略妻及傷其妻以收毋收其妻

傍点部

坐奸腐者

﹂ の ﹁

強奸

であり︑

腐. -一は

腐為宮隷臣

を指しているに違いない

宮刑受刑者に科

される労役刑は通常

宮隷臣

であったため

︑ ﹁

と略記された

ではあるまいか

滋賀秀三氏によれば︑春秋時代以前では

刑罰

種類として身体毀損刑︵肉刑︶が重きをなしていた

﹂ ︒

て︑

肉刑を受けた者は︑公

や貴族

宮廷にいて特定

役務に使役せられ︑もって不具となった身

余生を終る

︵l6︶常とした

﹂ の

である

あくまでも肉刑が主刑であり︑刑徒に科された労役は︑不可分ではあるが︑副次的な要素で

あったといいえよう

当時︑宮刑を受けた者は

刑臣

て嚴視され︑後宮

取り締まりや君主身

辺 の

賎役

に使役されていた︵同

指摘︶

︒ ﹁

宮隷臣

とは︑春秋時代に宮刑受刑者が担わされた︑かかる賤役に淵源をも

︑極

めて古いタイプ

刑役であったと推察される

事例が

例だけしか確認できない

は︑こ

刑名が既に消えゆく運

命にあったことを意味

ているように思われてならない

先に推測した如く

坐奸腐者

﹂ の ﹁

腐為宮隷臣

であったとすると︑それは

罪を併科される下限

刑として

完城

鬼薪

﹂ の

二刑と併記される関係にあったことになる

そして︑

腐為宮隷臣

﹂ の

刑罰体系に

おける位置を考えるに当たって見逃せない

が︑

左 の

告律︵

七 〜 一

・ 一

頁︶である

告不審及有罪先自告︑各減其罪

等︑死罪鯨爲城旦春︑城

春罪完爲城旦春︑完爲城

春罪

- -

l

27

:

-

薪白粲及府︵腐︶罪耐爲熱臣妾︑耐爲隷臣妾罪 128

耐爲司寇︑司寇

遷︶及錬顯︵顔︶一類罪順耐︑臓耐罪

罰金四兩︑願死罪願城旦春︑一順城

春罪順斬︑願斬罪臓鐵︑願媒罪願耐︑耐罪

-

:129

﹂ - - 口

金四兩罪罰金二

(23)

罰金二兩罪罰金

令史或偏

偏︶先自 13o

得之

相除

3二︵

﹁ - - ﹂

は断欠部分︑英数字は

簡番号︑

﹁ ﹂ ︒

す表区切れれぞをそれ

簡は︶

︵47︶京都大学人文科学研究所

三国時代出土文字資料

研究班

江陵張家山漢墓出土二年律令訳註稿そ

︵以

人文研訳注

と略称︶が解説するように︑右は告不審と自首に関する規定であった

いずれ

場合も告した罪

から

等減と定める

断欠部分が多く︑しかも重要な箇所が欠落している

だが︑傍点部によると︑告発ないしは自首

た罪が

腐罪

であ

た場合︑

耐為隷臣妾

に減刑されたと推察される

の ﹁

腐罪

坐奸腐者

﹂ の ﹁

であり︑且

︑そ

具体的な刑名が

腐為宮隷

であったと見なしえるならば

1

可能性が高いと私は考えるが

1

︑それと

耐為隷臣妾

差は

等であったことになる

︒ ﹁

完為城

耐為隷臣

とが労役強度

高低に基づく

差等であった

に対して︑

腐為宮隷臣

耐為隷臣妾

は宮刑︵肉刑︶付加

有無という︑異なった系統に

る刑

上下差と位置づけられる

これは︑両刑罰に

応する二種類

姦淫罪︑即ち強姦と未婚婦女と

姦が罪

関係にあったことを意味するに他ならない

︒ ﹁

腐為宮隷臣

完為城旦春

は平行

関係にあり︑しかも︑ともに

耐為隷臣妾

﹂ の

刑であっ

たと推断される

そして

かかる三刑

序列は︑それぞれ

刑罰に対応する各姦淫罪

軽重

差を示していること

になるわけだが︑強姦

刑に

いては︑更に検討を要する問題点が残されている

唐律では和姦と同様に強姦罪に おいても

被害女性

未婚

既婚を基準に刑に差等が設けられていた

かかる刑罰

差は︑二年律令

強姦処罰に

(24)

も設定されていた

であろうか

これは前項でふれた

吏姦部民妻

﹂ の

具体的な刑罰

間題でもある

点に

いて︑私は今

ところ以下

ように考えている

即ち︑人妻を襲つた場合︑それと

和姦

刑に罪

等が加重されたと仮定すると︑既婚女性と

私通は

完為城

された

だから︑強姦

刑罰はそこに宮刑

が加えられて

腐為城旦春

となされた可能性が最も高い

しかし︑出土した二年律令

中に強姦罪に関する

処罰規定は前項

一標律︵

九三簡︶しか確認できない

また︑右

推論を些かなりとも裏付けられるような材料も

見いだしえない

かかる現状を無視するわけにはいかないであろう

現時点では

加害対象が既婚女性であっても︑

刑罰は

腐為宮隷臣

であったと理解してぉく

が穏当であるかに思われる

︒ っ

まり︑明清律において強姦罪

処分は原則

であったように︑被害女性

未婚

既婚を区別することなく︑強姦犯︵ただし凡姦相当

場合

み︶は

様に

腐為宮隷臣

に処されたと想定しておきたい

思うに︑歴史を

ると︑元来︑姦淫罪を犯した者は専ら腐刑に処された

そして︑そ

刑徒は宮内

賤役に従事

させられた

であった

有名な尚書大伝

記載

男女不以義交者︑其刑宮

は︑こうした古

記憶を言説化し

︵l8︶たも

であろう

やがて時代が下り︑刑罰制度

整備

改変が進むと︑和姦罪は労役を主とする処罰

体系

中で

処理されるようになる

強姦犯に

み宮刑が科せられ︑そ

の 正

式な刑名は

腐為宮隷臣

となされたが︑そ

来歴

から

腐罪

と略称される場合もあった

である

︒ っ

まり︑

腐為宮隷臣

は︑まさに強姦罪専用

刑として︑二年

律令

刑罰体系

内に残存していた

であろう

二年律令

具律︵八八簡

・ 一

四六頁︶に

有罪當鯨︑故錬者

之︑故則者斬左

︵趾︶︑斬

左 止

︵趾︶者斬右

︵趾︶︑斬右

︵趾︶者府︵腐︶之

後略

(25)

とあるから

同律において肉刑として

宮刑は︑通常初犯に科されることはなか

たと推察される

ところが︑強

場合はそれが法定刑となされていた

である

当該事犯と腐刑と

間に対応

関係が存在した可能性は極めて

︵- 9︶高いと思われてならない

である

宮刑は︑文帝

肉刑廃

以後も依然と

て行われていた

ただし︑そ

執行例は死刑

代替刑といった特殊なケ

ばかりであるから︑刑制改革

結果︑

腐罪

刑罰体系

外に置かれるようになったと見なしえ調

︒ ﹁

為宮隷臣

という古いタイプ

刑罰がこ

時完全に廃

されたとは言いがたいが︑刑制改革

結果︑強姦罪

刑罰

に変更が加えられたことはほぼ間違いないと私は考える

和姦罪と同様

強姦

処罰も労役刑

体系

内に組み込

まれた

ではあるまいか

具体的な刑名を知る術はないが︑おそらく︑

腐為宮隷臣

耐為隷臣妾

差等に

基づいて︑和姦に

等を加重

た刑が当てられた

そして︑こ

時︑婦女

有夫

無夫を区別する唐律

祖型が案

出されたも

と推察される

である

さて︑ここで︑

a

項に掲げた漢書

E響同后文功臣表

成敬候董一深

記載を再度引用

し ょ

元光三年︑侯朝嗣︑十二年︑元狩三年︑坐爲濟南太守與城陽王女通

耐爲鬼薪

董朝に科された和姦

刑は︑なぜ

耐為鬼薪

であ

本項

考察をふまえると︑先に保留してぉいたこの

疑問に対

て︑次

如き解答が想定できる

即ち︑密通相手

城陽王女は既婚者であった

だろう

有夫婦女との

和姦であるから︑董渫

刑罰は︑本来ならば

完為城

旦 ﹂

であ

しかし︑彼が有爵者であったため

耐為鬼薪

︵5 1

︶に

された

ではあるまいか

(26)

かかる推測が

しいとすれば︑鬼薪白一元狩三年段階においても依然として︑被刑者

身分を考慮して当て

られる特殊な刑であ

たことになる

文帝

刑制改革以後も︑同じ労役三年

刑と

て鬼薪白粲と隷臣妾とが併存

されていた意味を考えてみる

要がある

文帝

三年

改革を

た後も︑鬼薪白粲が本来有していた性格は直ぐ には失われなかった

本源的な属性が完全に払拭された結果︑刑期を同じくする隷臣妾が不要になった

では

あるまいか

隷臣妾刑

消滅期が武帝代であった

ならば︑そ

治世こそが︑刑罰原理

転換という文帝期を転機

とした

大改革

完成期であったに違いないと予想される

である

第 三 節 秦 漢 の 処 罰 規 定 ︵ 2

- 関 連 条 文 の 検 討 1

a ﹁

捕奸者

案之校上

本項表題

条文は︑前節

a

項で確認したように︑奏識書案例二

一 の

冒頭に見える律文である

池田雄

氏は︑

しら本条

の ﹁

案之校上

いて︑

校上

交上

であり︑

現場

﹂ の

意であるとされた上で︑

之を交上に案

べ l

︵. 2︶る

と一

一 一

一 一

読する

また︑学習院大学漢簡研究会は︑池田氏

解釈に従つて

姦を行つた現場で犯人を取り調べる

翻訳す請

従う

きであろう

表題

条文を現代風に訳せば︑

和姦犯を検挙する際は︑現行犯逮捕であることを

要す

となるに相違あるまい

ここで奏識書案例二

一 の

内容を紹介してぉくと︑本件に関連する律

引用に続いて事件

あらましが記され︑

後に廷尉府における審議

過程が記載されている

被疑者は丁

夫が病死して︑そ

の 埋

葬がまだ済ん

参照