米国へ:運び屋・ミュール
── 搾取の構造に生きる中米コロンビア女性の表象──
矢田 陽子
はじめに──この研究の目的について
2018年秋、中米グアテマラやホンジュラスから米国入国の可能性を探る人々が 徒歩で米国・メキシコ国境に押し寄せた。中南米の人々にとって米国は母国で蔓 延する貧困と暴力から逃れるための希望の地であり続けていることを、報道に よって再認識させられた事象であった。
しかし、米国側からすれば中南米不法移民の流入は脅威である。国内の雇用が 低賃金で雇用可能な不法滞在者に奪われるという理由のみならず、中南米麻薬カ ルテルが米国社会に縦横無尽に広げていく覇権力が脅威の根源となっている。
米国が常に恐れる中南米からの麻薬密輸はどの様に行われているのか。麻薬カ ルテルが組織的に多くの地下組織を使って密輸する方法は勿論のことだが、米国 の市民権を持つ中南米人や彼らを頼りに観光ビザで入国する中南米人によって持 ち込まれるケースも多く、実際に生活改善のために国境を渡ろうとする不法入国 者よりも、一見、普通の観光客に見える旅行者を介して持ち込まれる確率が高く なっている現状がある(
Cambell,
2008:257)。勿論、中南米出身者と麻薬を結びつけるのは安直で誤った先入観である。不法 入国者の多くがいつの日か市民権を得て米国の一員となることを夢見て努力し、
長期に渡って不法滞在の身の上のままその“いつの日か”を待つのである。しか し、背後にメキシコやコロンビアの麻薬カルテルが密輸ルートを確立し、米国入 国を夢見る若者を駒としてその命をいとも簡単に搾取し、繁栄し続けている現実 が存在していることも事実である。
本稿の研究では、コロンビア麻薬カルテルの運び屋・ミュールとして米国にコ カインを密輸する10代のコロンビア女性達の実話に基づいて描かれた米国・コロ ンビア映画『そして、ひと粒のひかり:
Maria Full of Grace
(2004)』に焦点を当 てる。この作品は2004年に発表され、2004年度のベルリン映画祭銀熊賞、米国サ ンダンス・フィルムフェスティバルで最優秀女優賞を獲得するなど、欧米で高い 評価を得た。監督のジョシュア・マーストンは、米国内でドキュメンタリーを得 意とする映画作家で、副題としてBased on
1000true stories
とある様に、マースト一三二
ン監督自身は中南米から米国への麻薬密輸に関わる女性達の現実を映画として伝 える為に、米国に滞在しているコロンビアの女性運び屋だけではなく、コロンビ アから離れず米国にコカインを定期的に運ぶ女性達、計1000人に取材しこの作品 の脚本を書きあげている(1)。
この作品の発表は今から15年前のものであるが、南米、特にコロンビアやメキ シコからのコカイン密輸とそれに関わる麻薬カルテルの勢いは衰えるどころかそ の覇権力は確実に米国に浸透し続けている(2)。密輸の手段も、確かに時代の変化 によって変化し得るのだが、本稿が扱う作品の主人公のような“麻薬袋を飲み込 んで空路で先進国に持ち込む”方法は現在でも日本を含める先進国を渡航先とし て確実に日常的に行われ、内外メディアでこの種の密輸犯罪の顕在ぶりを目にす る(3)。
2000年代に中南米から米国への密輸において頻繁にコカイン袋を飲み込むとい う形が定着し、そこから東南アジア・中東から欧州・日本へと使われることに なった。そこで、15年の月日が経過しても命の危険を顧みずに自らの体で麻薬密 輸に携わる人々が存在していることを示す表象の一手段として、この作品を選択 した。
ハリウッドではこれまで様々な運び屋の映画が制作されてきた。知られたとこ ろでは、1983年にアル・パチーノが、キューバからの不法移民で麻薬取引で成功 するものの、最後は無残な形で自滅していく姿を演じた『スカーフェイス』や、
2018年には、クリント・イーストウッド監督主演で、実話を元にした作品『The Mule運び屋』が公開になり、88歳のイーストウッドが演じる米国の老人が中南 米麻薬カルテル側の「80代の白人男性が薬を運ぶとは思いもしない」という固定 観念を上手く利用した策略に使われ、テキサスから他州へと麻薬を運び最終的に は麻薬取締局に逮捕されていく姿が描かれている。
しかし、ハリウッド映画で描かれてきた麻薬密売人は常に男性であるという点 に留意すべきである。勿論、麻薬カルテルのような巨大犯罪組織が男性によって コントロールされてきた世界であることがその理由であるが(
Cambell, op. cit
: 256)、米国と地続きのメキシコでは、1920年代から麻薬密輸の60パーセントが女 性の手によって米国に持ち込まれていた事実があるにも関わらず(Carey,
2014:3)、多くの米国映画では女性が登場する場合、麻薬組織の犠牲となる役回りが定 石で、映画だけではなく小説においても麻薬組織によって搾取され命を落として いく女性の表象の偏向が多く見られた(
Cambell, op. cit
:249)。そこで、本稿では、コロンビアの地方都市に貧しく暮らす少女が自ら麻薬密輸 に運び屋・ミュールとして関わり、最終的にそのまま米国で不法滞在を決意し ていく物語を取り上げ分析していく。既に言及したように、この作品は監督自
一三一
身が米国とコロンビアの両国での取材に基づいて脚本を書き上げたことからも、
ミュールとして米国に渡る主人公の環境やその文化的思考を主軸に、麻薬密輸と 麻薬カルテルが普通の人々を搾取し続けている過酷な現実もあからさまに描いて いる。
米国社会に生きる中南米移民を語るとき、彼らを取り巻く恒久的な貧困とその 副次的な結果として生み出される犯罪・暴力からの脱出が、不法滞在・不法入国 の最大の理由であると報道で報告されるのみで、それ以外の要因が語られること が少ない。
確かに中南米諸国の高い犯罪率の要因は貧困であり、その現状は改善される予 兆さえ見えていない。中南米における貧困と、貧困が引き起こす犯罪についての 研究、もしくは麻薬カルテル関連の研究も英語圏で進んでいるが、その多くが恒 常化する貧困を結論とするものが多く(
Cambell, op. cit
:256)、貧困以外の要因 から考察した学術研究は僅少で、特に女性達の思考・心理構造、アイデンティ ティーに関する研究が非常に乏しい。そこで本稿ではこの貧困理由を掘り下げるのではなく、経済的困窮理由以外に 10代の若い女性が麻薬密輸に手を染める決断をする要因がどこにあるのか、そし てあるとすればその要因がどこに帰因し、どの様に劇中で表現されているのかを 探り、我々は何を読み取るべきなのかを考察していく。
米国・メキシコ国境で麻薬密輸に手を染めるメキシコ女性のオーラルヒス トリーを文化人類学的観点から研究するテキサス大学の
Cambell
は、“We must apply to the study of females
’criminal behavour in a border setting analyses that account for the specific cultural, familial and class environments in which they operate
”(Cambell,
op. cit
:243)、と述べていることからも、本稿では家庭環境と宗教観の2点に拘って主人公を中心とした表象を分析していくこととする。
なかでも重要なポイントとなるのは、主人公の家族の捉え方の根幹を成すカト リックの宗教観である。特に、国教として定着しスペイン入植以降、人々の思考 に大きな影響を与えてきたカトリックは本国スペインよりも中南米で熱心に信仰 されてきたがゆえに、カトリック思想は中南米社会の人々の思考の根幹を成して いるはずである。そのカトリック思想の観点から主人公の表象を考察することに より、主人公の思考とその背景の関係を紐解き、彼女に米国へ麻薬を運ぶという 道を選ばせるものが経済要因以外に存在していたのかを見つけていく。
1.あらすじ
南米コロンビアの田舎町のバラ農園で働く17歳のマリアは、母、シングルマ
一三〇
ザーで子持ちの姉、そして祖母と暮らしている。家計は苦しく、給料の殆どを家 に入れている。ある日、勤め先の農園の上司から不当な扱いを受けたマリアは、
これまでの積もった不満が爆発し辞職してしまう。家族からは「忍耐力が足りな い」となじられ、上司に丁重に謝り直ぐにでも復職するようにと責められる。乳 飲み子がいるという理由から家族に経済的に頼り切る姉は常にヒステリックにマ リアを責め、実母もまたマリアに全面的な経済的貢献を強いる。家庭では四面楚 歌で更には望まない妊娠をしている事が判明し、マリアは自分の置かれた環境に うんざりする。そんな中、偶然知り合った青年から「あるモノをニューヨークに 運べば大金が入る仕事がある」と持ちかけられる。それはコロンビアの麻薬カル テルが扱うコカインを大量に飲み込んでニューヨークに飛ぶ運び屋・ミュールの 仕事であった。マリアは親友のブランカと共にコロンビアの首都ボゴタの麻薬カ ルテルの元締の監視の下、大量のコカインを飲み込み
JFK
へと旅立つ。JFK
では 厳しい入国検査を通過しニューヨークへの街へ出ていくが、マリアを待っていた のは麻薬カルテルの残虐性であった。自分が足を踏み入れた世界の現状を認識し たマリアは麻薬カルテルと決別し、米国での不法滞在者としての道を選んでい く。2.分析の社会的背景
2.1.米国と中南米:麻薬生産国コロンビア
中南米大陸からの不法移民を米国・メキシコ国境で如何に食い止めるのかが、
現トランプ政権にとっては最重要項目の一つであることは良く知られているが、
2019年5月、米国政府はメキシコ政府に不法移民数の減少対策を図るよう要求 し、「不法移民がいなくなるまでメキシコからの輸入品に対し5%の関税賦課を 上乗せし、そのパーセンテージは今後月毎にあげていく」と発表している(4)。そ の甲斐あってか、2019年9月の米国への不法入国数は56%減少し、メキシコ国 境側で逮捕された不法入国者数が2019年5月の14万4千266人から、8月には 6万3千989人に減少していると発表されている(5)。
この米国の経済的な脅しとも言える政策で、不法入国者を国境で食い止める作 戦は今のところ成功しているとも言えるが、現在の米国におけるヒスパニック合 法移民の割合は17
.
4%と黒人の12.
4%を優に超えている。今後40年では、現政権 が行っている移民政策の成功不成功に左右されずに、白人人口は現在の62.
2%か ら43.
6%に下がり、反対にヒスパニック住民が28.
6%に上昇していくと推測され ており、米国民の約30%がスペイン語圏をルーツに持つ人間になっていく現実が 目の前に控えている(6)。一二九
実際、四半世紀前は貧困層であった合法ヒスパニック住民は今や中間層に成長 し、白人の4倍の高い出生率でヒスパニック人口は確実に増加しており、米国の 人種構造そのものが刷新されていくことを示している。
また、米国で合法移民となった親族を頼りに観光ビザで入国し、そのまま不法 滞在者となる非合法移民の数も増加しており、少なく見積もっても1100万人の中 南米の人々が不法移民として残留し、米国社会の底辺の仕事をこなしている(7)。 中南米と地続きである米国は歴史的にも中南米からの移民問題に常にさらされて きたが、人的流入だけではなく、中南米からのコカインなどの麻薬の流入もアメ リカにとっては脅威であり続けていく。
コカインの葉はアンデス高地を発祥とし、疲れを癒やして労働の為の活力を生 み出す効能があるゆえに、インカ文明以前から既に先住民社会で常用されていた とされている。コロンビアでは、現在でも原住民族がコカの葉そのものを噛む光 景が見られるほどの生活に密着した植物である(寺澤、
op. cit
:149)。コカの葉そのものは人間の体には害はなく、精製されて初めてコカインとなる が、1855年にドイツ人科学者の手によって初めて麻薬として製造された。またコ カイン製造がビジネスとしてコロンビアに定着したのは1970年代で、それまでは チリが中南米大陸でコカインを生産し密輸する国であった。しかしこの時期、チ リの内政が揺らぎ独裁政権に突入したことで麻薬カルテルが一掃され、コロンビ アの第二の都市で港町のメデシンにその中心地が移行した。現在も尚このメデシ ンにコロンビア最大の麻薬カルテルの中枢が置かれている(寺澤、
op. cit
:150)。コロンビアで麻薬組織が成長していく過程は、米国には脅威以外の何物でもな かったが、米国政府は60年代のニクソン政権時から既に中南米から流入する麻薬 を脅威として捉えていた(寺澤、
op. cit
:146)。また、70年代後半のカーター政 権では、コロンビア国内の複雑な麻薬戦争を常時監視対象とし、DEA
(米国麻 薬取締局)の職員をコロンビアの首都ボゴタのアメリカ大使館に常駐させるな ど、麻薬カルテルの撲滅を目標にコロンビア政府に直接圧力をかける方向に外交 の舵を取っていく(寺澤、ibid
)(Ramirez, Lemus, et al,
99,
103:2005)。やがて米国は、麻薬カルテルに汚染された中南米諸国の民主主義を取り戻す名 目のもとに、混迷・弱体化するコロンビア政府を援助し、政府間で取締りの連携 を組んで米国への麻薬カルテルの浸透を防ごうと画策する(
Youngers and Rosin,
2005,
4-
5)。しかし、この米国の取り組みとは裏腹に、コロンビア国内の麻薬カルテル、コ ロンビア第二の都市メデシンに本拠地を置くメデシン・カルテルは、潤沢な資 金を元に国際的な麻薬ビジネス、つまり米国や欧州への密輸ビジネスを成功さ せ巨額の富を得ていく。そして彼らはそれを制裁しようと試みるコロンビア国
一二八
内の司法関係者から政権トップに至るまで殺戮を繰り返し(寺澤、
op. cit
:155)(
Restrepo,
2015:145)、司法も手を出せない、事実上、政府以上の存在となっていく。
80年代にレーガン大統領、それに続いてブッシュ大統領が、中南米から米国内 への麻薬密輸と麻薬カルテルによる犯罪に対し、安全保障対策として更なる強化 対策を取るようになる(
Youngers and Rosin, op. cit
:3)。しかしコロンビア麻薬カ ルテルは、常に米国が設けた防衛網をくぐり抜けては米国へ「白い粉」を運び、その力を拡大していく。そして現在も米国が様々な対策を取ろうと彼らは弱体化 していない。
2.2.「ミュールとなる女性達」麻薬密輸と女性
90年代以降、コロンビアとメキシコの麻薬カルテルは、米国への密輸の拡大を 更に成功させていく。なかでも、米国側で取り締まる捜査官や検閲官の古典的な ジェンダー先入観を逆手にとってその判断を緩ませる為に、女性を運び屋として 使う方法が浸透するのだが(
Cambell, op. cit
:244)、実際に運び屋になっていく 女性達とは一体どのような人達なのか。Cambell
はメキシコから米国への麻薬密輸に関わる女性達を、(1)Female Drug
Lords,
(2)Middle Level of Drug Organizations,
(3)Low-level Mules
の3種に分類し ている。地続きのメキシコと空路で米国に入国するコロンビアとは状況が異なる ものの、両国とも世界最大の麻薬カルテルの発祥国であり類似する点も多い。この3種の「女性の運び屋」は、麻薬組織内での立場や密輸によって得られる 報酬に大きく差がついている。例えば、(1)の
Female Drug Lords
は自らの意志で 麻薬カルテルに関わり、その才能から男性と同等に近い立場で報酬を得て豊かに 生活し、事実上、麻薬カルテルのトップに君臨する女性達である。また、(2)のMiddle Level of Drug Organizations
は、会社経営や警察官を含め公務員といった中産階級でキャリアを積んでいる女性達が余剰の資金調達として麻薬密輸に不定 期に関わるパターンで、摘発の可能性が比較的低い種類である。
そして逮捕・拘束される危険に常に晒されているのが、(3)の
Low level Mules
である。最も摘発されやすく、母国への強制送還後にも麻薬カルテルによって 命を奪われることも多い、つまり搾取の対象となるのがこのLow level Mules
であ る。Low Level Mules
となる女性達は労働条件の厳しい状況に置かれていることが多い。例えば低収入のシングルマザーや深刻な経済的困窮状態にある女性達が体 を張って麻薬を運んでいく。入国コントロールで捕まることなく米国に入国され すれば大きな報酬を得られるが故に、このレベルのミュール達は経済的な問題の
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解決経験と日常的には得ることのない達成感を得られるがゆえにミュールの仕事 を繰り返すことも多い(
Cambell, op.cit
:245-
256)。本稿で扱う作品の主人公はまさにこの
Low level Mules
であり、経済的困窮の現状につけ込まれ、麻薬カルテルに搾取されていく姿が描かれていく。
3.表象分析──主人公の表象から見えてくるもの
この作品では、コカイン62粒を飲み込んでコロンビアの首都ボゴタからニュー ヨークに渡る若い女性達が描かれる。主人公のマリアやその友人のブランカがど の様にミュールとなる決意をしていくのか、そして実際に62粒ものコカインの大 きな粒をいかに飲み込むのか、また、麻薬カルテルによる脅しとも言える取り決 めを受諾する様子も描きだしながら、少女二人は麻薬カルテルが手配した切符を 手に
JFK
に飛ぶ。作品の冒頭から主人公マリアの個人的背景とミュールになっていく背景が描か れていくが、ブランカは親友のマリアがミュールとなることを決断したことに感 化され、自分もその選択をする。
物語が米国に移ると、年月を掛けて合法移民となり家庭を築いているコロンビ ア女性も登場し、主人公に自身の不法移民であった当時の心情を語るシーンも組 み込まれ、最終的に主人公マリアが米国に留まる決断に大きな影響を与えてい く。
中南米女性による麻薬密輸、不法入国、そして不法滞在は相関関係にあり、こ の作品では麻薬密輸以外の移民に関わる家族関係についても詳しく描くことも忘 れてはいない。この分析では、主人公マリアとその家族、主に姉のディアナ、そ して親友のブランカの言語表象に焦点を当て考察していく。
3.1.マリア
マリアは、街で唯一の産業であるバラ農園で棘を取る単純労働に従事する17歳 の少女であるが、映画は彼女が不当な労働条件の下で働き、実家でも家計を支え るよう経済的負担を強いられている様子を冒頭から描き出していく。それはマリ アが家庭においても搾取されている状況を示すものであり、分析において最も留 意すべき点である。
マリアは、ある日工場の上司から難癖をつけられ勢い余ってバラ農園を辞めて しまう。祖母、母、シングルマザーの姉とその息子から構成される彼女の家族の 暮らし向きは苦しく、マリアの収入に全面的に頼る状態である。しかし姉は子供 が小さいという理由で仕事に就かず家族に依存している。妹のマリアにとっては
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それが不服であり、二人は折り合いが悪い。次の①と②の二つのシーンは、マリ アにとって家族が心理的負担となっていることを明確に示すものであるのと同時 に、その背後に存在する家族のありかた」の既成概念を表象している。また、マ リアに自己犠牲を強いる思考も搾取の構造を生み出すものである。何気ない会話 の中に、文化に根付く既成概念と、それゆえに搾取が行われるという結果を我々 に誘導していくシーンである。
3.2.孤立
日本語字幕 スペイン語台詞
①姉 9600ペソよ Son 9600, ¿Usted tiene para pagar?
②母 マリア、お金を。 María, Déme la plata
③マリア なぜ私が?(なぜ私が払わない といけないの?)
¿Por qué tengo que pagar yo?
④姉 パチョのためよ Para Pacho que empezó a vomitar
⑤マリア なら自分で Eso plata qué?
⑥母 マリア! María!
⑦マリア 私は給料の殆どを家に入れてる わ なのに薬代まで?
(ママ、実際私は給料全て家に 入れてるわ、彼女は1ペソも入 れてない。その上、こんな薬ま で私が払うの?)
Ay Mamá yo prácticamente pongo todo mi sueldo, ella no pone un peso. Además de todo, me toca gastar la medicina de chino?
⑧母 ぐずぐず言わないで出して 次のお給料からひけばいいわ どうしてこう厄介なの
Maria no me saque la piedra. Muestra la plata y punto. Puede quedarse con los nueve mil seis cientos de la próxima quincena. Yo no entiendo por qué con usted todo es una rogadera
この会話は、マリアがバラ農園を辞職した帰り道で偶然母に呼び止められ、薬 局で子供のために薬を買い求めている姉と合流するシーンである。上記の表のよ うに、②で母親は、「
María, Déme la plata
(マリア、お金を)」とマリアに催促す るが、それに対しマリアは明確に③「¿Por qué tengo que pagar yo
?(なぜ私が?)」と冷静に答える。字幕では短く「なぜ私が?」と表現されているが、スペイン語 の台詞では、義務感を表す動詞を使いながら「なぜ私が払わないといけないの?」
となっている。
明確に不公平感を表すマリアに対し、姉は④で「パチョのためよ」と当然の如 く“家族の為”と主張している点に着目したい。
マリアは、⑦で「自分は給料の殆どを家に入れている」と訴えながら、家族に
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完全に依存する姉を非難する。しかしマリアの訴えは母には届かない。マリア の孤立感を際立たせるのが、それに対する母の台詞⑧であり、母は姉の肩を持 ち「
Maria no me saque la piedra. Muestra la plata y punto
(ぐずぐず言わないで出し て)」、「Yo no entiendo por qué con usted todo es una rogadera
(どうしてこう厄介な の)」と寧ろマリアを悪者にする有り様である。このやりとりを観る我々観客は、本来ならば17歳のマリアを擁護すべき家族が 不当な扱いをし、そのうえ経済的貢献を強いている、つまり“搾取している”と いう現実を理解するだけではなく、母や姉がそれを当然の事として捉えマリアに 強要している点に着目しなければならない。
3.3.家族の概念とカトリック
次に、姉ディアナが妹マリアに家族への経済的貢献を強要するシーンに着目す る。姉のディアナは、街で唯一の産業であるバラ農園で再び働けるように上司に 謝ってこいとマリアを諭し姉妹は言い合いになるのだが、この会話における姉 ディアナの表現は、彼女が家族のあり方を如何に捉えているのかを明確に示して いる。このシーンの状況は、マリアがミュールの仕事の話を受諾し麻薬カルテル から支度金を得て帰宅した際の会話である。
日本語字幕 スペイン語台詞
⑨姉 仕事はなかった、そうでしょ?
主任に謝って戻るのね
¿No consiguió un trabajo lo cierto? De lo contrario me lo hubiera dicho. Te tocará a volverá disculpar al jefe para atender de nuevo.
⑩マリア お断り No, pues, no
⑪姉 ママに悪いと思わないの?(マ マに不公平でしょ。ママにとっ てどんなに辛い事かわからない の?)
No es justo para mamá. ¿Sabe que es duro que le toca a ella?
⑫マリア [字幕なし] No me joda
⑬姉 ただでさえ(私は貴女に最も難 しいことを強いているのかし ら?)
Yo le estoy haciendo las cosas aun más difíciles?
⑭マリア うるさい No me joda
⑮姉 パチョは今朝 42度も熱が No me joda que no la joda, María Pacho tuvo 42 grados esta mañana.
⑯マリア 親でしょ Es tu hijo
⑰姉 だから何? Yo sé que es mi hijo, ¿Y?
⑱マリア 親の責任よ Es su responsabilidad.
一二四
日本語字幕 スペイン語台詞
⑲姉 何様のつもり? 仕事もなく
(ここでは皆が平等、貴女は何 か仕事を見つけないといけない のよ)
Aquí, todos somos iguales y usted tiene que conseguir algo
⑳マリア あるわ Pues ya conseguí trabajo
姉 どんな? 嘘ばっかり ¿Sí?¿Cómo qué? ya pare con esa mierda マリア これでいい?(私は家に貢献し
ているわよ)
Yo sirvo a casa
このシーンでは、何よりも姉ディアナの台詞⑪、⑬、⑲、に着目したい。麻 薬カルテルと麻薬を運ぶ話をつけて帰宅したマリアに、姉のディアナは、再度
「バラ農園に再就職しろ」と強要し、工場で不満があろうが家族の家計を支える べきであるという概念が現れている箇所である。
何よりも注目すべきなのが、次の姉ディアナの台詞⑪である。「ママに悪いと 思わないの?」と日本語字幕では表現されているが、スペイン語での台詞を直訳 してみると、「ママに不公平でしょ。ママにとってどんなに辛い事かわからない の?」となる。つまり、バラ農園の仕事に復職しないことは母に対して不義理で あり、母を辛くさせることだ、とマリアを責めているのである。もちろん、給料 の殆どを家計に入れる妹が無職となることでこれ以上困窮することを恐れている にすぎない。しかしたとえ建前だとしても、親の感情を最優先にすべきであると いう思考回路に注目すべきである。
そして次の台詞⑬「
Yo le estoy haciendo las cosas más dificiles
?」は、日本語字幕 では「ただでさえ」とだけ表現されているが、筆者が本来の台詞を日本語に訳す と「私は貴女に最も難しいことを強いているのかしら?」となる。つまり、姉に とっては、復職して今まで通り家計を支える事は当然のことであり、それを妹に 主張しているだけにすぎない。この様な表現が口から出てくるということは、そ れを作り出す思考回路が存在するはずであり、姉の考え方の基盤を示すものとも 考えられる。そして続く⑲の台詞でも、日本語字幕では本来の意味と大きく異なった意訳
「何様のつもり?仕事もなく」となっているのだが、スペイン語での台詞をその まま日本語に訳すと、更に姉ディアナの思考を映し出す興味深い表現が見えてく る。日本語への直訳は、「ここでは皆が平等、貴女は何か仕事を見つけないとい けないのよ」となり、注目すべき箇所は「ここでは皆が平等」である。
前出の台詞⑪では、“母のことを最優先に考え経済的に家族に貢献すべきであ る”と言う主旨の意味を読み取れたが、この⑲の「ここでは皆が平等」からは
一二三
“家族であれば誰もが平等に働き、家計を助けるべき”というシンプルな意味合 いを解釈できる。この姉ディアナの“家族がみな平等に働き”、や“母を最優先 に”という表現を生み出す思考はどこから来るのか、何が主因となるのか。
1510年にスペインに植民地として支配されて以降、他の中南米社会と同様にコ ロンビアもカトリック思想が根付いたが、未だにカトリック信仰がコロンビアの 人々の思考・精神性に大きな影響を与え続けており、それを示すかの様にこの作 品でも主人公マリアが独りで教会を訪れ祈るシーンが冒頭に置かれている。17歳 の少女が自主的に教会に独りで赴くのであれば、マリアの家族も同様に非常にカ トリック的であるはずである。この作品の監督兼脚本家ジョシュア・マーストン がそのようなシーンを作った意図には、マリアの宗教的環境がカトリックである こと、つまり主人公を取り囲む環境である家族もまたカトリック思想である事を 示そうとしたとも解釈できる。
中南米のカトリック教徒は4億2500万人で、世界のカトリック教徒の40%を占 めている。これほどカトリック信仰が現在でも強く人々の生活に根付いているの は中南米のみであろう。勿論、その中南米でのカトリック信仰にも変化は生じて いる。1900年から1960年代までは自分がカトリック信者であるというアイデン ティティーを有していた人口の割合が90%であったが、そのうちの20%ほどが プロテスタントに移行するなどの理由で現在は69%に下降している。それでも、
84%の中南米の人々が「自分はカトリックの環境で育っている」との認識がある という研究調査が存在し(8)、依然として中南米の人々のアイデンティティーに影 響しうるのは、カトリック信仰である。
参考までに、カトリック信仰を中南米にもたらしそれを侵攻の戦略ツールとし て使った元宗主国スペインについては、カトリック教徒として自主的な行動をし ているかという問いに人口の60%が「日曜のミサに赴くことはない」と答えてい る。しかし、自己の宗教アイデンティティーに関しての問いには、「自分はカト リックである」という回答がスペイン人口の4分の3を占めているという結果が 英国の新聞社の調査によって示されている(9)。スペイン政府は同性愛者同士の婚 姻を早々と認めるなど、カトリックを国教としながらも
EU
先進国の一国として 革新的な道を選んできた側面もあり、スペイン国民が敬虔なカトリックではない にしろ、アイデンティティーとして問えば彼らもまだカトリックなのである。そこから考えるに、歴史的に見てもカトリックの世界人口の4割を占める中南 米の人々にとってカトリック思想が個々の決断において影響を与えないはずはな く、彼らの思考はカトリック思想を基とすると想定可能ではずである。つまり、
主人公マリアの家族もまたカトリック思想の基に成長し、思考や自己アイデン ティティーの形成においてその影響を受けているはずである。
一二二
通常、カトリック信者としてのアイデンティティーが形成される過程で“カト リックの教え”は、教会の神父や修道女といった宗教教育に携わる聖職者によっ て信者に伝承されていくものであるが、ローマカトリック教会はどの様に家族や 親との関係性を捉え、それを教えとして信者に伝えてきたのだろうか。それを探 ることでマリアの家族の思考もまた見えてくるはずである。その為に、ローマカ トリック教会において神父や修道女の説教によって伝えられるカトリックの教え である『カテキズム(要理教育)』に立ち返って見ていく。
3.4.カトリック教本「カテキズム」のなかの「あるべき家族の姿」
先代のローマ教皇ヨハネ・パウロ二世によって公布された『カテキズム』は、
ローマカトリック教会がカトリックにおける教えを平易に伝わるようにとまとめ たもので、英語を始め多言語で翻訳されており、一般人も手にすることができ る。その『カテキズム』の中の、公文書「神の十戒」第3編第2章[隣人を自分 のように愛しなさい]の第4項第4の掟には、イエス キリストが神の教えとし て家族がどうあるべきなのかどう伝えていたのかが記されている。
そこには、「家族は、社会を形成していく第一の細胞であり(2207)、お互いに 自分を与え合うようにし、家族内での権威と安定と共同生活とが社会に於ける自 由と友愛の土台である」と記してある。
この第4項第4の掟の中核となるのは、子としての親の捉え方である。カテキ ズム日本語版には「父と母を敬いなさい」、「神は、私たちがご自分の次には、私 たちを生み、神を知る知識を伝えてくれた両親を敬うようお命じになりました」
という表現が存在する。神を信じることを教えてくれた両親こそを敬うべき、と 説き、親の次は隣人を愛せと繋がっていく。そして、神への愛とは、父母を敬 い、家族のなかでは父・母を権威としお互いを助け合いながら安定した共同生活 を送るよう各人が努力し、そして他者・隣人を自己を愛するが如く思い遣る事を 実践することである、と説いている。
このカテキズムにおける家族の在り方の概念を基に姉ディアナの台詞に立ち返 ると、「ママに悪いと思わないの?」や「ここでは皆が平等」は、まさしくこの 第4項第4の掟に含まれる教えに符合している。
勿論、これは前に言及したように、姉のディアナの自己中心的な思考回路の表 象としても捉えることができる。しかし、カテキズムが示す“家族を優先していく 教え”が根底に存在しているからこそ発生する思考であるとの解釈も可能である。
しかしこれは主人公マリアにとっては既成概念の押しつけ以外の何ものでもな い。実際にマリアは、自分に怒鳴り散らす姉に冷静に対応する強さを見せるが、
この時には既にマリアはミュールとなり米国に飛ぶ意志を固めており、手にした
一二一
前金の一部を投げるように姉に差し出す。これで自分が果たすべき義務は果たし たと主張するかのような表情を見せ「
Sirvo a casa
」と言うマリア。これは字幕で は「これでいい?」となっているものの、直訳すると「私は家に貢献しているわ よ」である。決別とまではいかないまでも、マリアの心理には“自分ができる家 族貢献は果たしてきたし、今もこうしてしている”という自負があるという解釈 が可能である。マリアは独りでも教会に赴き祈る敬虔なカトリックの少女である。これまでど んなに不服であろうと母や姉の指示に従い、家族に尽くすことを当然の義務とし て実践してきた。しかしミュールとして米国に飛ぶことを決めた彼女には、姉が 押しつけてくる“家族の為”という聞き慣れた概念は響かない。マリアにとって は、家族という名の自分を搾取する構造から離れる要因は寧ろ家族であり、自分 を縛ってきた宗教的既成概念であると考えられる。
3.5.古典的な思考「家族のために」 ─ブランカ
ここで、マリアの親友で、マリアと共にミュールとしてニューヨークに渡る少 女ブランカの言語表象を短く取りあげる。同じ年のブランカはマリアとは異な り、家族への貢献を第一の目的としている。それが以下の台詞の場面に見る事が できる。
日本語字幕 スペイン語台詞
ブランカ 5000ドルよ、ペソでいくらだと 思 う? 1000万 ペ ソ よ、 家 族 に家を買ってやれる
(1000万ペソよ。それで家族の 為に私は家を買うことができる のよ)
Son cinco mil dollares, María. ¿Sabe cuántos son en pesos? Yo averigüé. Son como Diez millones de pesos. Con esos puedo comparar una casa para mi familia.
これは、ニューヨークに飛ぶ事を決めたマリアの家に親友のブランカが訪ねて きたシーンで、ブランカが「自分もミュールになり一緒にニューヨークに飛ぶ」
とマリアに告げるシーンである。
特に着目したいのは太字の部分である。「5000ドルあれば家族の為に家を買っ てあげられる」と言うブランカにとって、家族は何よりも優先される存在であ り、この場面はマリアとは対照的な想いを持つコロンビアの少女を表象している 場面である。
生活に困窮する家庭に育った少女であるからこそ、家族に「家を買ってあげた い」と思うのは、宗教の種類または文化に関係なく達する想いであろう。しか
一二〇
し、家族の為に大金を得られることを理由に、自身の命を危険に晒す犯罪に関わ ろうとする選択は、それが犯罪であるという意識の薄さや浅はかさも示している だけではなく、“家族のために”という自己犠牲の感覚がブランカにも形成され ている事を表している
主人公マリアが“強要される自己犠牲”からの逃避願望を抱えている一方で、
ブランカは“自主的な自己犠牲”であり、二人の感覚は対照的である。
“自己犠牲を良しとする感覚”は、仏教、儒教、キリスト教、回教の違いを超 え、そして文化や言葉を超えて普遍的な感覚であるはずである。しかし主人公マ リアやブランカが感じ取っている“家族のための自己犠牲”を生み出しているの は、やはり彼女達を育てた文化に根差すものであると想定できる。
そこで、この“自己犠牲を良しとする感覚”がどこから来ているものなのか考 察いく為に、ここで敢えて旧約・新約聖書に立ち返り、本来のキリスト教が如何 に“自己犠牲”を捉えているのかを探る。
3.6.キリスト教・カトリックの「犠牲の精神」とその変容
同志社大学の小原克博(2018)は、本来のキリスト教には“自己犠牲を良しと する感覚”は存在しなかったと主張しながら、時の経過と共に“犠牲の論理”が 文明社会で形成されたとする論点を紹介している。この“犠牲の論理”は東京大 学の高橋哲哉(2012)が自身の著書のなかで定義したものだが、高橋は、長崎の カトリック信者が原爆によって犠牲となった事実を“天恵”と捉えた言説を例に 挙げ、カトリック的な“犠牲の論理”に一石を投じている。
長崎の浦上天主堂は爆心地であり、天主堂の周辺には多くのカトリック信者が 住んでいたことから、長崎の原爆犠牲者の多くがカトリック信者で、8000人が命 を落とした。そしてその当時の長崎ではカトリック信仰の象徴的存在でもあった 浦上天主堂が爆心地となり犠牲の的となったことに対し、「天罰である」という 声が世論に広がったことがある。それ対し、当時、長崎大学病院の医師として治 療に当たっていた永井隆が、のちに書いた小説『長崎の鐘』の中で“天罰”では なく“天恵”であると表現する。
“原子爆弾が浦上に落ちたのは大きな「み摂理」である。浦上は神に感謝を 捧げなければならぬ”。(略)浦上天主堂地域の大きな犠牲は世界大戦争とい う人類の罪悪の償いとして清き羊として選ばれたのであり、その犠牲が終戦 に導き、更に失われるはずであった幾千もの人々が救われた。8000人の信者 の犠牲は「神の恵み」である”(高橋、2012:139
-
141)。一一九
ここで着目すべきは、自身も信者であり、被爆者の壮絶な死を目の前にしてそ れを治療してきた医師自身が結果的に原爆を肯定し、罪なき人々の犠牲を“貴い もの”と考え受け入れている点である。勿論、永井も医師として、またカトリッ ク信者として、被爆者の遺族に対しての慰藉をこのような形で表したのであろ う。しかし、そうであったとしても自己犠牲を美徳とするような思考がカトリッ ク信者のなかに顕在していることがこの永井の表現で示されているとは考えられ ないだろうか。
これに対して、小原は、このキリスト教における犠牲の概念を正しく解釈する ために、次の2点、①贖罪的解釈と、②最後の晩餐における連帯感、を挙げて説 明している。
贖罪的解釈とは、イエス・キリストが自ら十字架に掛かる道を選択したのは、
人類が犯してきた罪を贖うためであり、それこそが真の自己犠牲であるという考 え方であり、実際にキリスト教思想の根本を成す。
ユダヤ教で多くの生贄という犠牲を出してきた習慣を顧みて、イエスが自身の 犠牲で区切りをつけ、人間はこれ以降敢えて犠牲を出す必要をなくす、つまり
“犠牲を出さない世界”を理想としていることがキリスト教学では明確に示され ており(小原、2018:6)、キリスト教は本来“犠牲を終わらせるため”という目 的をもって生まれた宗教であり、本来はイエスが背負った以外の犠牲を正当化し ていく教えは存在していない。
しかし、このイエス・キリストによる“尊い犠牲”を模範としつつ“自己犠牲 を正当化するような解釈”が歴史の経過とともに誕生し、我々の文明社会でその 思想が定着していったのではないかという解釈を小原は説いている。それ故に、
永井隆のような、長崎被爆者の犠牲を“天恵である”と捉え、それが伝承され る。つまり、犠牲を美徳とする概念は、後世の、カトリック、またはプロテスタ ントといったキリスト教によって作り出された概念であり、時に慰藉としてそれ を美徳のある行為としたとも考えられる。
一方、②の「最後の晩餐における連帯感」の解釈では、小原は、この絵画が伝 えるのも、共同体として犠牲者を出さない連帯感を形成する目的であると指摘し ている(小原、
op. cit
:6-
7)。イエス・キリストはこの最後の晩餐でユダの裏切 りを予告したというのが通説であるが、しかし、今後、十二使徒達が経験する苦 難を思ったイエス・キリストが、神を裏切ることなく団結し、連帯感を忘れずに いることを自覚させる為に行った儀式であったという解釈はより一般的なもので あり、更にイエス・キリストが意図したのは、この「最後の晩餐」に、異邦人、サマリア人、徴税人、そして罪人までも招待し、そういったこれまでのユダヤ教 では生贄の対象となり得た人々の前でイエスが“犠牲を生み出さない誓い”を
一一八
十二使徒にさせたという解釈も古くから存在している(小原、
op. cit
:8)。ユダヤ教では、共同体の連帯感を維持していく目的で、常に生け贄を使ってき た。出エジプト記には「モーゼが捧げ物の雄牛の血を半分取って祭壇に振りか け、契約の書を手に取って民に読んで聞かせたあと、残りの血を民に振りかけ、
それをユダヤの神と結んだ契約の血であると誓わせた」という記述がある(出エ ジプト記、24
.
1-
18、旧約聖書(10))。キリスト教がユダヤ教と類似しながらも決定的に異なるのは、生け贄、つまり 犠牲となるものを生み出さないとイエスが定義したとされる点である。しかし、
歴史と共に蔓延した、“犠牲の論理”は、大きな全体のために個人が犠牲となる ことを促し、それをその後、美談として持ち上げたとする考え方も存在する(小
原
, ibrid
)。しかし「マタイによる福音書」に立ち返ると、イエスが説いた話として以下の箇所が記述されていることに注目すべきである。
ある人が羊を百匹持っていて、その1匹が迷い出たとすれば、99匹を山に残 しておいて、迷い出た1匹を探しに行かないだろうか。はっきり言っておく が、もし、それを見つけたら、迷わずにいた99匹より、その1匹の事を喜ぶ だろう。そのように小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父 の御心ではない(マタイによる福音書18
.
10-
25)これは、イエスが犠牲を生み出すことを容認しないこと、そして犠牲となりえ るその1匹の羊に意識を最大に向けるべきであると説いている箇所である。つま り、重要視されるのは“個”であり、“集団のための犠牲”や“大義のための犠 牲”を容認する概念は本来のキリスト教の教えには存在せず、救世主が目指した 本来の思想は、個の重要性と犠牲を生み出さない思考であったはずである。
この点から考えるに、キリスト教として最も古いカトリック教会の教本『カテ キズム』は、家族の重要性、特に子の親への忠誠について強く主張し、本来はあ りえないはずの“犠牲は美徳”という解釈を生み出し、大勢の為の個の犠牲も生 み出す隙間や余白を作り出したとも考えられる。
これらのカトリックの思考が、恒久的な貧困に苦しむ中南米文化で“家族のた めであれば犠牲を生じても致し方なし”となる思考構造も作り出しているとの解 釈も可能である。
マリア一人を犠牲とすることで、自分達が少しでも毎日をやりくりしていけれ ば、それはそれで家族への貢献であり、その犠牲もまた重要な貢献である。その 結果として、マリアは家族という“自分を搾取する群れ”から離れ、“迷い出た 羊”として危険な手段で越境していくのである。
一一七
つまり、経済的要素だけがマリアのような若い女性達を麻薬密輸の道に引き込 む要因になっているわけではなく、ミュールという危険な仕事を引き受けること を決断する思考の奥には、“家族への貢献”や“自己犠牲”といった彼女を囲む 文化と社会的背景から形成されてきた既成概念が無意識のレベルで大きく作用し ていると考えられる。
マリアは、家族に従順であろうとする古典的な要素と“家族の犠牲になってい る”、“家族に搾取されている”という相反する感覚を常に持ち続けてきた少女で あり、それは台詞表現以外でも映像で描かれている。
ふとしたことから持ち掛けられた米国に麻薬を運ぶ仕事は、家族としての古典 的役割をマリアに果たさせるだけではなく、異なる文化の自由な空気をマリアに 感じさせ、家族からの解放をも自覚させていく。
しかしここで留意しなければいけないのは、家族からの搾取から麻薬カルテル による搾取へと、その構造が変わるだけであり、彼女は自分がいつでも真の犠牲 者となりえることを認識していない点である。
麻薬カルテルは、マリアのような少女の境遇につけ込み人の命を軽んじ搾取を 続けていく組織であるが、その麻薬カルテルによる搾取の表象を短く取り上げ る。
3.7.搾取から搾取へ
コロンビアの首都ボゴタで麻薬カルテルの元締めが見守るなか、マリアは62粒 のコカインを飲み込む。その後、その元締めの口から以下の表現が出る。
日本語字幕 スペイン語台詞
カルテ ルの男
もし運んだものをなくしたり出せない と、我々は君の祖母や母と話しをする。
姉やパチョとも。我々は正確に君の粒 の重さを知っている。
(もし君が運ぶ物を渡航途中でなくしで もしたら、我々は君の家に行き、君の 祖母、母親、姉、パチートとも話をす る。我々は君が運ぶ62粒が一体何グラ ムであるのかも正確に把握しているよ。
わかったね?)
Si lo que lleva se pierde en el camino o no aparece, vamos a su casa, conversamos con su abuelita, su mamá, con su hermana, con Pachito. Sabemos exactamente cuánto pesa cada una de sesenta y dos pepas que llevas ahí. ¿Entendido?
これは、マリアが62粒のコカインを麻薬カルテルのアジトで数時間かけ全て飲 み込んだ後にマリアに投げかけられる言葉の一部である。飲み込むにも苦労をす る大きな粒を体内に入れようとしている間、元締めはマリアを優しく扱っていた
一一六
ものの、この会話の部分からトーンは一転する。注目すべきはカルテルの元締め の台詞で下線部の「我々は君の祖母や母と話をする。姉やパチョとも」の箇所で ある。この箇所には2つ留意すべきポイントがある。「話をする」と「パチョ」
(スペイン語台詞ではパチート)である。残虐な麻薬カルテルにとっての“話を する”とは“殺害”を意味し、その上、麻薬カルテルの元締めが、マリアの姉の 1歳にも満たない息子パチョまで犠牲の対象として話に持ち出している裏には、
“赤ん坊にまでも自分達は容赦しないぞ”という最大級の脅しの意味合いが隠れ ている。この2点は、残虐な麻薬カルテルのやり方を示すと共に、自分の命が奪 われるだけではなく家族全てが犠牲となる可能性を示唆されながらミュールとし て米国に飛ぶマリアの搾取された立場も表象している。
コカインを詰めた粒を一つでも失えば家族に危害が及ぶという恐怖感から、マ リアは時間の経過で排出されたコカインの粒を洗い直し、喉に通りやすい様に手 元にあった歯磨き粉を塗り再び飲み込む。カメラが映し出すその必死な姿もまた 搾取される側としてのもう一つの表象と捉えることができる。
そして
JFK
に到着したマリアを待ち受けているのは、観光ビザで入国しようと する中南米からの“不法滞在予備軍”を空港でせき止めようとする税関の取締官 の厳しいプロフェッショナルな目である。マリアのようにコカインを飲みこみ観 光ビザで入国するミュールを摘発するために、現在の米国入国審査では疑わしい 人物にレントゲンを撮る。この作品でも主人公は尿検査と共にレントゲン検査を 強いられそうになるが、妊娠3ヶ月であることが尿検査で判明することでレント ゲン検査から免れ税関を通過し、空港外で待機していた麻薬カルテルのバンに乗 り込みニューヨークの街へ運ばれる。そして飲み込んだ62粒を体外に出す為に、マリアは他のコロンビアのミュール 達と共にカルテルの監視を付けられホテルに閉じ込められる。そこでは既に機内 で体調の悪さを訴えていた一人のミュールが意識を失い、カルテルは彼女を殺し てしまう。あげくに、腸からコカインの粒を取り出しその遺体を米国の街に遺棄 する。その残虐な状況を目の前にしたマリアはそこで遂に自分が搾取される立場 にあり命の危機にもあることを認識していく。
Carey
(2014)は、これまで中南米研究においてミュールを犯罪者というよりも“犠牲者”として捉え研究調査を進めていくこと自体が過小評価されてきた傾 向を指摘している。また、犠牲者であるミュールの環境や家族背景などを考慮し たリサーチ方法についても長年無視する傾向があったとも言及している(
Carey,
2014:197)。それは、実際に米国に越境してきたミュール達の足跡が、逮捕後の刑務所の記 録や死亡診断書といった限られた情報でしか残されておらず、あくまでも統計的
一一五
なデーターしか残されていないことに起因しているのだが(
Carey, ibrid
)、研究 として多くの欠落点があることは否定できない。映画『そして、ひと粒のひかり』の原題は「
Maria Full of Grace, Based on
1,
000true stories
」である。Full of Grace,
神の恵みを受けたとは、なんとも皮肉なタイトルではあるが、マリアは家族という搾取の構造とその思考を形成してきたもの からの解放を求めるなかで、別の搾取の構造を利用して“自由の国”へ飛び込ん だ。勿論、不法滞在、不法移民として生きていく道は茨の道である。
悲観的な見方はいくらでも可能であるが、少なくともマリアの表象は、我々に 中南米から米国に渡るミュールが経済的要因だけではなく、既成概念や宗教的概 念によって縛られているアイデンティティーに踠き、そこからの解放を求めるが ゆえに別の搾取の形を選択しながら現状を打破する道を探っていくこともあると いう一例を示しており、これは21世紀の現代が故の傾向であろう。つまり、中南 米女性が、自分が属す文化の既成概念や自己のアイデンティティを形成してきた ものに対して客観的かつ懐疑的な視点を持つことができなければ誕生し得ない表 象である。
そして米国政府が把握しえないこの様な女性達も、米国という“越境の人々に よって作られた国”を影の存在として形成していくという現実もまた突きつけて いる作品である。
最終シーンは、マリアがコロンビアに戻ることなく
JFK
空港から立ち去り、ニューヨークの街へと戻っていく姿を映し出すが、そのマリアの表情は寧ろ清々 しい。マリアの米国での未来はもちろん前途多難ではあるが、しかし、ひとまず 自己を縛る家族からの解放を選択した。それは自分を搾取し続けてきた構造から の決別であり、自分を搾取するもの、それはマリアにとっては生まれ育った環境 であり、自分を育てた文化的宗教的概念からの解放である。物語は、複合的に絡 み合った要素をたとえ一つでも捨て去ることでマリアには別の道が用意されたこ とを示しており、原題の
Maria Full of Grace
は、苦境の中からも新しい流れを見 つけ出すマリアの真の強さを意味しているのだとも解釈できる。終わりに
監督のジョシュア・マーストンは、本作品の
DVD
の巻末インタビューで「主 人公マリアの視点から観てほしい」と語っているが、観る者は彼女を取り囲む環 境の厳しさを思い知らされ絶望的な感覚を得てしまう。しかし主人公のような搾 取と犠牲の構造の中に生きるミュールは絶えることなく今も中南米と米国との間 で誕生しては消えていっている。一一四
米国サイドからみれば、主人公マリアはただの犯罪者であり貧しい不法移民で ある。また中南米サイドからみれば、家族を支えるために自己を犠牲にする、あ またいる献身的な女性の1人にすぎないのかもしれない。しかし、日本というど ちらの文化にも属さない国で研究する筆者は、米国側が論じる昨今の移民政策の 観点でもなく、中南米側が提示する貧困度でもなく、寧ろ、主人公の文化的環境 と思考の根源を探ることで一体何が彼女をミュールにさせたのかを探ろうという 発想に行き着いた。
そのために活用したのがカトリック思想である。特に、主人公マリアを苦しめ てきた要因である家族の思考を考察する為にカトリックのカテキズム教本に遡 り、劇中のマリアの家族、そしてマリア自身の心理を表す表現と照らし合わせて 分析した。そこから導かれたことは、家族を何よりも重要視し、親に従うことが 神への愛であるとするカトリックの教えは、“家族のための犠牲を厭わない思考”
を作り出したのではないかという解釈である。しかし本来、キリスト教はそのよ うな“犠牲”を良しとはしない宗教として誕生しているという神学の観点から考 察することで、“犠牲”の解釈は、我々後世の人間が状況に応じ自己や社会に合 うよう、時に益となるように肯定化してきたのではないかという考えにたどり着 いた。
たとえマリアが家族からの解放を願っていたとしても、ミュールという仕事を 選択したのは家族の一員としての責務を果たそうとする古典的概念がマリアの思 考にも確実に存在しているからである。意識下で現状に反発を覚え、そして無意 識下で自己を形成してきた文化の既成概念に従うのである。これもまた古典的な カトリックの教えが今もなお強く残る中南米文化の一面が映画で示されたという ことになる。
マリアの“62粒のコカインを飲み込んでの命がけの越境”は、彼女を搾取する 構造や思考からの真の解放にはつながらない。しかし、米国社会という中南米と は全く異なる社会で様々な経験を積むことで、マリアは別の強さとしなやかさを 身につけていくであろうことをラストシーンで我々は知ることになる。
米国内の民族構成の変動期を迎えつつある今、これまでよりもまして古典的カ トリック思想の中南米文化圏から多くの若者がチャンスを求め米国へ流入してく る。それは強硬な政権がいかなる政策を採ったとしてもその流れは決して止まる ことはないであろう。また、たとえ不法移民であったとしても、中南米系の人々 はこれからの米国の側面を形成していく主要なメンバーとなっていく。
本稿で考察してきた不法移民の存在、特に不法移民女性の問題は中南米から米 国への越境に限ったものではなく、後進国から先進国への流れであればどの文化 圏にも汎用し得るユニバーサルなものであり、複合的・学際的な観点からの考察
一一三
が必要であることも提示している。
マリアのような市民としてカウントされない不法移民の女性達がどの様に生 きているのか本稿をベースとして今後更に深めた形で映像や文学の表象から考察 を継続していきたい。
附記
本研究は2019年度
JSPS
科研費(奨励研究)の助成を受けたものです。参照文献
Arceneaux, Craig and Pion-Berlin, David (ed). 2005. Transforming Latin America, The International and Domestic Origins of Change. USA. University of Pittsburgh Press.
Bagley, Bruce M. and Rosen Jonathan D. (ed). 2015. Drug Trafficking, Organized Crime, and Violence in the Americas Today. USA. University Press of Florida.
Cambell, Howard. 2008. “Female Drug Smugglers on the US-Mexico Border: Gender, Crime, and Empowerment.” Anthropological Quarterly, vol 81, no. 1. USA. George Washington University Institute for Ethnographic Research. pp. 233-267.
Carey, Elaine. 2014. Women Drug Traffickers. Mules, Bosses, and Organized Crime. USA. University of New Mexico Press.
Donato, Katherine M. 2001. “A Dynamic View of Mexican Migration to the United States.” Rita James Simon (ed). Immigrant Women. USA. Transaction Publishers.
French, John D and Daniel James (ed). 1997. The Gendered Worlds of Latin American Women Workers.
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Kyle, David and Koslowski, Rey (ed). 2011. Global Human Smuggling, Comparative Perspectives.
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Youngers, Coletta A and Rosin, Eileen (ed). 2005. Drug and Democracy. The impact of US Policy.
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カトリック中央審議会.2002.「カトリック教会のカテキズム」.カトリック中央審議会.
高橋哲哉.2012.『犠牲のシステム 福島・沖縄』.集英社新書.
寺澤辰麿.2011.『ビオレンシアの政治社会史─若き国コロンビアの“悪魔払い”』.アジア 研究所.
日本聖書協会.1993.『聖書 旧約聖書続編付き』.日本聖書協会.
一一二
DVDマーストン、ジョシュア.2004.『そして、ひと粒のひかり:Maria Full of Grace. Based on 1000 true stories』.日活株式会社.
注
(1) DVD『そして、ひと粒の光 Maria Full of Grace』(2004)巻末インタビュー。
(2) https://witnessforpeace.org/six-reasons-the-drug-war-is-disastrous-for-latin-america/
米・シカゴ警察が、“アルカポネ以来の最大のアメリカ社会の敵”と言明したメ キシコの巨大カルテル“シナロア”のトップ、ホアキン・グスマン、通称エル・
チャポは、アメリカの刑務所から二度脱獄〔1993年と2015年〕し米国の司法・警察 を常に翻弄させたが、最終的に米国の刑務所に収監され終身刑となっている。エル・
チャポが君臨し続けた2015年まで、メキシコ・コロンビアから米国への麻薬密輸市 場は多様な密輸方法で隆盛を極める。(アクセス日時2019年12月30日)
(3) https://www.bbc.com/japanese/48429071
2019年5月26日メキシコの首都メキシコシティから成田行き旅客機の機内で日本 人男性が死亡。検視の結果、体内に246袋のコカインを有しており、死因は薬物の 過剰摂取による脳浮腫。(アクセス日時2019年12月30日)
(4) https://www.jetro.go.jp/biznews/2019/05/21bdb684b10b9653.html (アクセス日時2019 年12月30日)
(5) https://www.theguardian.com/world/2019/sep/06/mexico-us-border-crossings-down- trump-tariffs (アクセス日時2019年12月30日)
(6) https://www.nhk.or.jp/syakai/10min_tiri/shiryou/pdf/006/shiryou_002.pdf (アクセス日 時2019年12月30日)
(7) https://www.nikkei.com/article/DGXMZO41760130W9A220C1TCR000/日本経済新 聞(The Economist:米共和党の移民政策の盲点 2019年2月27日掲載)(アクセス日 時2019年10月7日)
(8) Pew Research Center: Religion & Public Life. https://www.pewforum.org/2014/11/13/
religion-in-latin-america/(アクセス日時2019年10月7日)
(9) https://www.theguardian.com/world/2011/mar/31/neweurope-spain-catholics-church-in- fluence(アクセス日時2019年10月7日)
(10) 『聖書』、日本聖書協会
一一一
Flying to the US:
The Mules, Representations of Colombian Women, Living in Exploitation Structures
YADA Yoko The number of undocumented people from Latin America has not decreased, despite President Trump ’ s declaration to create walls on the borders between the US and Mexico. However, those undocumented people are not the only element which might be a menace for American society ; the existence of drug cartels and undocumented immigrants who enter into the country by association with criminal groups are more of a critical problem than ever before for the future of the country. In this article, we will argue about the representation of a Colombian woman, the protagonist in the film, Maria Full of Grace (2004) , who tries to enter JFK Airport in New York while hiding 62 bags of cocaine inside her stomach. The film shows us the harsh realities of the protagonist within her own family, and also how the cartel treats mules such as the protagonist extremely brutally, in order to accomplish the smuggling of drugs out of Colombia. There are certain studies which explain how cruel the situation of undocumented immigrants really is, especially when the most notorious drug cartels are involved. However, those works usually have not demonstrated the reasons behind the elements which drove the mules to become involved in this most dangerous of work, in which they may lose their lives at any moment.
Therefore, we will analyze the female representations from religious perspectives, especially from Catholic mentalities, such as devotion towards family and self- sacrifice, since Colombian society and culture have been profoundly influenced by Catholic thinking during the period from over five hundred years ago until the present day. The analysis of this article is quite polemic and an everlasting one. It is possible to apply this analysis to other cases of people crossing borders, from Latin America not only to the US, but also to Europe, especially the northern European countries.
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