• 検索結果がありません。

諸問題 : 主体形成と時代性を反映した歴史叙述と 史観

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "諸問題 : 主体形成と時代性を反映した歴史叙述と 史観"

Copied!
71
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

諸問題 : 主体形成と時代性を反映した歴史叙述と 史観

著者 弓削 政己

出版者 法政大学沖縄文化研究所

雑誌名 沖縄文化研究

巻 39

ページ 1‑70

発行年 2013‑03‑31

URL http://doi.org/10.15002/00008870

(2)

奄美諸島︑近代初期の県商社による砂糖独占販売の諸問題

ー主体形成と時代性を反映した歴史叙述と史観│

dHHH

はじ

めに

鹿児島県の奄美諸島は︑二ハ

O

九年以前は琉球国の統治下にあった︒二ハ

O

九年に島津氏︑薩摩藩

が琉球︑奄美諸島を侵攻し︑奄美諸島は薩摩藩の直轄支配に入った︒それからちょうど二

OO

九年

は︑

﹁薩

摩侵

攻四

OO

年﹂

にあ

たっ

た︒

それ

を契

機と

して

︑沖

縄・

奄美

諸島

の歴

史を

総括

的に

とら

えよ

うと

﹁薩

摩侵

攻四

OO

年﹂

﹁侵

略四

OO

年﹂と題して各地で市民団体︑大学などの研究機関︑行政等が主催

してシンポジュウムなどの取り組みを行った︒

その中で︑衛美諸島民の底摘にある考えを含めて︑その歴史意識・認識が表面化してきた︒その総

括として︑知名町教育委員会編﹃江戸期の奄美諸島﹄(南方新社)が︑二

O

二年三月に出版された︒

そして︑この書を前後して︑奄美諸島と沖縄側から以下の出版物が出された︒

1奄美議身、近代初期の県商社による砂精強占販売の諸問題

(3)

O

一一年二月︑与論島の融家文書︑黒田家蔵﹁代官記録﹂︑十五夜踊の台詞・歌詞の﹁大和踊言

葉書帳﹂を収載した与論町教育委員会﹃与論島の古文書﹄︑三月に名瀬のまちの近世末からの移り変

わりを絵地図などによって明らかにした筆者︑岩多雅朗︑飯田卓︑中山清美﹃名瀬のまちいまむかし﹄

(南

方新

社)

が︑

翌二

O

一二年三月には︑主に各家系譜の翻刻集である山下文武編﹃南西諸島史料集﹄

第五巻(南方新社)︑徳之島の犬田布一摂︑刑罰の具体的事例も記載されている徳之島町教育委員会﹃仲

為日記﹄︑従来の系図焼棄論に焦点をあてた拙稿﹁奄美諸島の系図焼棄論と﹃奄美史談﹄の背崇│奄

美諸

島史

把握

の基

礎的

作業

│﹂

(法

政大

学﹃

沖縄

文化

研究

認﹄

)が

︑一

O

︑琉

球・

奄美

諸島

共通

の相

撲・

墓・ノロ制度を古墳例に︑薩摩藩直轄支配の奄美諸島における文化変容を著した津波高志守沖縄側から

見た奄美の文化変容﹄(第一書房)︑一一月︑幕末薩摩藩の倒幕資金として奄美諸島の黒糖に正而から

取り

組ん

だ史

料集

︑か

つ論

考も

含む

先回

光演

可奄

美諸

島の

砂糖

政策

と倒

都資

金﹄

(南

方新

社)

︑一

二月

現在把握されている与論島の文書を網羅した先田光演編著﹁与論島の古文書を読むし(南方新社)が

発刊

され

た︒

二年間にこのような量の史料集︑論稿本︑論文が出されたのは︑初めてのことである︒その背妓と

して

︑﹁

薩摩

侵攻

OO

年﹂に閲して様々な視点が曲されてきたことと関係する︒

この

よう

な出

版状

況を

みる

と︑

シン

ポジ

ュウ

ムな

どの

取り

組み

とい

う段

階か

ら﹁

史料

集﹂

の発

行︑

様々

な視点や研究課題に対して史料に基づき同意や批判の﹁論考﹂が出され始めたということが言える︒

(4)

今回︑この傾向を継続する立場から︑奄美諸島の近代初期貢糖(税)以外の砂糖に対する商人︑商

社のご手販売﹂(独占販売)とそれに対する島民の独占打破︑﹁相対交易﹂﹁勝手商売﹂(自由売買)

と称される運動について取り上げる︒

この研究課題は︑同時期の下人・下女︑膝素立(両者の子供)等の家人(大島の呼称ではヤンチユ)

解放問題とともに︑奄美諸島近代史の基本問題である︒

これ

まで

︑私

は﹁

奄美

諸島

︑明

治初

期の

商社

強占

制度

﹂に

つい

て︑

﹃喜

界町

誌見

瀬戸

内町

誌三

大和

村誌

で少しずつ明らかにしてきた︒しかし︑従来の研究に依拠している点もあり理解が不十分であった点

もある︒そのため︑①新たな史料による研究の展開とともに︑②琉球︑宮崎まで若干視野老広げて﹁商

社砂糖(黒糖)独占販売の諸問題﹂としてまとめる︒さらに③この運動に対する﹃市町村誌﹄の記述

に変遷がある︒それは︑奄美諸島の時代性が反映されている史観であることも明らかにしたい︒

なお

︑﹁

時代

性を

反映

した

歴史

叙述

︑史

観﹂

とい

う点

では

︑例

えば

長南

伸治

﹁近

代の

秋田

県に

おけ

る﹁

田藩史観﹂形成に関する一考察l明治中後期の県内の動向を中心に│﹂(日本風俗学会誌﹃風船史学﹄

刊 号

O

一二

年)

があ

る︒

奄美諸島史の立場から言えば︑今回の拙論は︑﹃沖縄文化研究﹄羽号の﹁奄美諸島の系図焼棄論と

守奄

美史

談﹄

の背

l

奄美諸島史把握の基礎的作業│﹂で提起した﹁誤解の史実﹂が長い間︑承認さ

れてきたのはなぜかという問題意識を引き継ぐものである︒

3奄美諸島、近代初期の照商社による砂織独占販売の諸問題

(5)

一︑奄美諸島における砂糖疏通の商社独占と﹁勝手商売﹂(自由売買)概観

筆者は︑この運動について︑大和村編纂委員会﹃大和村誌﹄(二

O

O

年﹀の﹁第四章

売買運動と三方法運動﹂で史実の修正を含めて述べてきた︒これを基本としてまず︑この歴史展開を

簡潔

に述

べた

上で

︑研

究課

題を

明ら

かに

する

︒以

下︑

ここ

では

︑島

民が

諦願

で使

用し

てい

る﹁

勝手

商売

また

は﹁

相対

交易

﹂と

いう

用語

を使

用す

る︒

また

︑﹁

島民

﹂と

は︑

内部

階層

を超

えた

奄美

諸島

の多

くの

人々

とい

う意

味で

使用

する

砂糖

自由

一八

O(

文政一三)年に第二次惣買入制度が始まった︒この制度は︑

薩摩藩による砂踏黍の強制割り当て︑砂糖を税として上納させ︑それ以外の残りの砂糖(余計楢)に

ついても私売(脇売)禁止の流通の独占︑藩の砂糖買入値段を下げ︑一方島民へは商い諸品を売り付

けて砂精を多く入手する事が出来る不等価交換の手法の仕組みであった︒とれは︑近世専売制度の中

でも

︑島

民に

とっ

ては

もっ

とも

厳し

い制

度で

ある

近代になり専売制廃止の時代になったが︑鹿児島の砂糖疏通政策は︑まだ旧慣の仕組みであった︒

それ

に対

する

島民

の運

動が

おこ

った

︒そ

れを

以下

の三

つの

時期

に区

分し

つつ

︑検

討課

題を

提示

した

い︒

近世

の砂

糖を

めぐ

って

は︑

第一期︑商人・商社取引l勝手商売(自由売買)期│

(6)

鹿児島県は︑奄美諸島や硫球の物品︑砂舶を取り般う国産会社を一八七二(明治五)年二月に投世

し︑

旧来

の専

売制

と同

様な

﹁一

手販

売﹂

(独

・H a u

版完

)を

考え

てい

た︒

一八七二(明治五)年夏︑大山々民の声を背肢にして︑大

‑ U

人の

太一

‑一

和良

と話

良等が上県し︑県や同産会社と交渉し︑﹁余計制﹂(税以外の品民が処分できる砂梢)は︑K

句美

諸山

川全

﹂れ

に対

して

城︑硫球部でも国産会社に紳られない勝手商売として他の商人︑商社と取り引きできるようになった︒

しか

し︑

翌年

一八

七二

一(

明治

六)

年春

以陣

︑大

‑ U

では︑旧藩と同様な独占販売に基づいた﹁大島商社﹂

との

契約

が島

役人

との

聞で

結ぼ

れた

︒こ

の理

解は

︑﹁

一手

販売

﹂の

大島

商社

との

契約

を一

八七

二(

明治

五)

年とした一九三九(昭和一四)年刊行のつ鹿児島県史し第三岳︑(昭和四六)年の﹃名瀬市

h

中巻

(円

改訂

名瀬

市誌

l巻

歴史

編﹄

﹀の

通説

と異

なっ

てい

る︒

一九

したがって︑ここでの検討から大島商社との契約年の確定とそれに伴う島民への評価の問題点︑及

びこの歴史事象の記述の変化について述べる︒また︑県と豪商等との結び付きを広い地域から見直し︑

街美諸島に関係する﹁方︑会社︑商社﹂や商人の変遷や相互の関係を明らかにする︒

第二期︑商社取引

l

商社独占期│

①各

島の

流通

強占

体制

の商

社は

一八七三(明治六)年の大島商社設立以降︑順次設立された︒

②疏通独占は県の庇謹の下に実施され︑島民の﹁抜荷﹂には﹁法﹂による剖則焼定があり︑また︑

5奄美諸島、近代初期の以前社による砂精強占販売の誠問題

(7)

物品を市場価格より高くして砂糖を多く得る方式であった︒そのために︑旧藩期の専売制の様である

と評

され

た︒

@大曲では︑一八七四(明治七)年帯から島民の商社体制に対する迎動が始まった︒当初は︑黒踏

の商社買取価指の引き上げであった︒一八七五(明治八)年以降︑商社﹁解祉﹂要求︑大島全域にお

ける島民の迎動の組織化︑一八七七(明治一

O )

年鹿

児島

への

陳情

︑島

民要

求の

正当

性の

理論

構築

旧慣制度の打破などと発展してきた︒その結果︑一八七八(明治一一)年︑翌年春の取引から勝手商

売が

実施

され

る事

が決

定さ

れた

@このような相対交易︑勝手商売の要求︑大島商社解社とともに︑旧制の廃止・民主主義的思考な

ど近

代思

想を

内包

した

運動

とな

った

@運

動体

の中

で︑

大島

での

商人

︑商

社と

の﹁

約定

﹂(

契約

)は

︑一

八七

二(

明治

五)

年︑

一八

七三

(明

治六)年に交わされたが﹁約定﹂書は不明である︒しかし︑一八七六年三月の大島商社と大支庁商社

掛が鹿児島県庁へ提出した﹁出産糖商法規則﹂は把握できている︒また︑商社﹁解社﹂後の一八七九

(明

治二

己年

約定

の断

聞が

ある

@また︑一八七五(明治八)年﹁初め﹂に﹃イギリスから蜘ってきた﹂といわれる丸田南里の指導

力は

大き

い︒

①同時に︑丸田南里を投獄した人物とも言われるが︑長崎出身の大島大支庁長の柿原義則も︑県柏

(8)

﹁勝手商売﹂を推進し︑商社﹁解社﹂を早急に実施するように高知出身のお村通俊県令に迫った人物

であ

る︒

この第二期の検討から︑奄美諸品と鹿児尚北開人︑商社との結び付きゃ︑なぜJ手販売の商社が進出

できたかを明らかにしつつ︑品民要求の性格を抱抑する︒

第三期︑寄留商人との取引│三方法運動期│

この商社﹁解社﹂は︑一八七八(明治一二年に県の方針で決定し︑翌年春(実質は一一年冬)か

ら勝手商売となった︒そのため︑奄美諸島に鹿児島︑関西︑長崎などから商人が来島︑つまり寄留商

人との勝手商売となった︒しかし︑貨幣経済の歴史的体験を持たない島民と寄剖商人との取引は︑第

二期同様物品の不等価交換の下︑台風被告により砂糖で島民が返済できなくなる︒寄留商人は︑レー

トの変更などで島民の負債額を増大させ︑奄美諸島民を裁判に訴える︒それに対して奄美諸島で初め

て︑各島代表が一八八八(明治二一)年四月中旬に大島名瀬へ集まって裁判に臨む態度や砂糖増産な

どの方針を決定し︑対策に取り組んだ︒これを三方法運動という︒この三方法とは︑﹁高利負債消却

の方法﹂﹁農事改良方法準則﹂﹁節倹法準則﹂であり︑その方針のもとに裁判への対策を講じたが︑本

論の

対象

外と

する

7奄美4諸島、近代初期の県商社による砂精独占販売の諸問題

(9)

二︑鹿児島県と士族・商人・商社との結びつき│魚住源蔵の事例を通して│

廃藩置県後︑鹿児島県でも︑士族や特権商人︑船主たちの救済策が着手されていた︒県は︑その重

要な柱の一つに︑奄美諸島の黒糖の﹁一手販売﹂権を商社に与える事による救済施策をとった︒

ここでは︑魚住源蔵という﹁豪商﹂を通した県との結びつきを︑鹿児島県と旧藩︑薩摩藩の支藷で

ある佐土原藩︑奄美諸島の徳之島︑琉球を含めて検討することによって具体的に明らかにしたい︒

先行研究によれば︑魚住源蔵は︑鹿児島城下の鹿児島下町の町人役人で惣年寄に次ぐ年寄格で︑商

人である︒また︑一八六六︿慶応二)年には大坂薩州下屋敷別館の百聞町屋敷の御用聞となり︑その

後設立された島津氏の堺紡縞所御用聞も兼務していた︒一八六三(文久三)年の薩英戦争の処理で佐

土原藩士らに随行し︑また︑佐土原藩御用達商人でもあった︒

一八六八(明治元)年一二月の寺島宗徳書簡にも魚住の名が出てくる︒寺島が昨年三月︑京都で﹁鎗

刃ヲ免﹂がれた途中︑一長刀を棄てたが︑代わりにご万を︑魚住源蔵ナル者より借り得﹂︑﹁今︑魚

住ナルモノニ所借ノ万を︑返却セントス﹂とある︒名字︑帯刀を許されているところから見ると︑功

績により士身分に取りたてられたいわゆる﹁士成商人﹂と考えられる︒

佐土原芦伺用達商人のため︑廃藩置県後の佐土原の百姓一撲にその名が出てくる︒

﹃佐

土原

町史

﹄に

よる

と︑

魚住

源蔵

は︑

一八七二(明治五﹀年九月四日の佐土原で起こった百姓一

(10)

撰の原因の対象者であった︒百姓一按は以下のようであった︒

幕末の御用商人であった魚住源蔵は︑弘文社という営利会社の代表者であった︒弘文社は︑﹁幕末

に設立された御内用所の後身ともいうべきもの﹂で︑﹁地方生産に閲する商権を握っていた﹂︒この商

社が︑売出し停止になっている大豆を密かに仲買︑旧藩時代に専売であった槽・櫨実が自由売買とな

ると︑﹁下偵﹂(安い値段)でそれらを貿っていた︒そのため︑他の要悶もあるが︑﹁旧庄屋︑旧村役

阿千人または七千人ともいわれる百姓一段が起こり︑

人全

部︑

一部

の外

械士

族等

﹂も

加わ

った

三千

継続

した

運動

にな

った

つい

で九

月四

日︑

一段

の﹁

刷出

カ条の一項目に﹁. h

商社

廃止

ノ習

しが

ある

これ

に対

して

︑郎

知所

は︑

﹁向

社燦

止ノ

事ハ

︑.

卜々

如何

料ノ

迷惑

ニ制

成候

岐︑

取調

司法

山下

問ノ

ポ﹂

つま

りど

れほ

どの

迷惑

にな

って

いる

か取

り調

べる

と返

党け

した

︒し

かし

五日

H .

過ぎになっても﹁商社

下問

ノ義

一向

不相

分﹂

と何

もわ

から

ない

とい

う状

況で

︑商

社廃

止に

つい

ては

︑あ

いま

いで

不明

であ

った

その

ため

︑六

日の

二度

目の

﹁願

舟﹂

には

︑﹁

一︑

魚住

源蔵

︑当

地ニ

於テ

商売

差留

ノ取

引﹂

︑﹁

一︑

大豆

売出ノ差留ニ相成候処︑商社ヨリ密々仲買ヲ以テ買調不宜事﹂︑﹁て楕・櫨勝手次第売買被仰出候処︑

下値ヲ以テ買揚不宜事﹂とある︒

商社社長である魚住は︑大豆の仲買や櫨実を百姓から低価格で購入して百姓を苦しめていたため︑

百姓らは佐土原での商売の禁止を求めている︒

9奄美諸島、近代初期の県商社による砂締法占阪売の諸問題

(11)

つまり︑魚住は︑幕末の佐土原藩御用商人であるとともに︑近代はじめには︑日向で旧藩の専売制

と結びついた商社社長として現れてくる人物である︒

ついで︑魚住は︑琉球藩にも食い込んでいた︒一八七三(明治六)年︑中原長左衛門︑小山宗兵衛︑

長崎武八郎三名と共に琉球藩の年貢上納商人︑つまり御用商人という役割を持って現れ︑一八七四(明

治七)年七月には琉球藩へ以下の﹁仮約定書﹂を提出している︒

10 

乍恐手控書ヲ以奉願上候

(引

用者

中略

訂 者

用 酉者 年

中 よ

略 り} 御

年 貢 代 金

納上

免許

被 伸 付 候 付

仮約定書之事

琉球御藩御貢米向砂糖之儀︑輸送来候者ハ送状相下リ会社御引合申上荷役中私共会社え出曜︑樽

落テ雨漏り其外ニモ気ヲ附︑無間違様相勤可申事

右砂糖之儀︑皆同生産会社え入込︑彼御方入札代ヲ以テ御払方之事

(引

用者

中略

)

右砂糖器札人ヨリ入札代之外︑三部銀之内一部者会社え為手数料相納︑二部者私共四人え苦労銀

(12)

トシ

テ可

被成

下取

(引

用者

中崎

)

右之通御約定巾上候僧実正ニ付︑列印加件候也

明治七年成七月中原長左衛門

小山宗兵衛

魚住源蔵

長崎武八郎

琉球御藩

魚住は︑また﹁内船迎陽号﹂の所有者でもあった︒この内船迎陽号は︑

処分時︑第一回目に派遣された松田道之らが那踊滞在中︑緊急の用のため一週間出港を延期するよう

に命じられた船であった︒その代償として政府からその聞の費用七百円が支払われている︒また︑琉

球繕の御用商人として︑その政策決定へも影響を与えていた事が考えられる︒

一八七四(明治七)年七月五日︑琉球藩の大坂詰書役桃原里之親雲上︑同蔵役渡蕗倣筑登之親雲上

から御物奉行衆へ写書﹁生産会社砂糖取扱之規則﹂が提出されている︒

一八

七五

(明

治八

)年

琉球

11 奄美諸島、近代初期の県商社による砂鑓独占販売の諸問題

(13)

砂糖払方之手筋︑方々聞繕申候処︑会社払之方可然・有之︑右ニ付鹿児島県生産会社︑大島方

会社両方之閥︑何方可宜哉相尋候処︑矢張同様有之候得共︑生産会社之趣法は本御家老為被相

勤調所笑左衛門殿被立置候規則ニて容最通取扱来︑砂糖屋之者共ニも致心服︑是迄何之変事も

無之︑日本中良策之段取沙汰仕候由

12 

砂糖の取り扱い会社を鹿児島県の生産会社と大板にも出張所を設置していた大島方会社(大島商社)

どちらにするか︑琉球役人はいろんな方面に尋ねた︒それに対し︑皆同様に︑生産会社の方が旧藩時

代の家老調所笑左衛門が決めた規則に基づいて運営されているため︑もっとも良い取り扱い会社であ

ると

評価

した

この時︑琉球藩貢米上納の御用商人で︑砂糖を生産会社に納めていた魚住の考えも影響を与えたと

考え

られ

る︒

奄美諸島と魚住源蔵の関係はどのようなものであったのか︒一八七三(明治六)年︑徳之島商社︑か

設立された︒この設立された商社に魚住が関与していた︒鹿児島商人は外に長崎用造・迫仲右衛円で

あっ

た︒

魚住は︑次の史料によると︑この徳之島商社の資金運用の担当者として︑日向の税金であるa

米か

ら二千五百石︑代金にして九千円を借りた︒西南戦争後の大蔵省官員の調査では︑この借用資金は未

(14)

納となっていた︒その後の処理については不明であるが︑魚住は︑穂之島商社用の資金を日向固から

借りる事が出来る立場であり︑鹿児島県の後押しによる商社という事が明確である︒

日向国諸税米金仕訳書ニ記載有之候第九十六大区長米之内︑二千五百石徳ノ島商社へ相渡此代

金九千円者同社ヨリ直二本県へ上納ノ約定之趣向区長申立候処︑右代金ハ未納之資ニ付同社相

札既納ニ候ハ︑領収証可差出旨相達候処︑社員ノ内魚住源蔵右米之儀専ラ取扱罷在(下略)

このように︑魚住は︑幕末から鹿児島藩の町人役人の惣年寄に次ぐ年寄栴︑大坂での用問︑幕末日

向では専売制下での商人︑近代初めの商社社長として百姓から排斥対象とされた人物である︒琉球藩

下では荷船を所有した琉球藩の御用商人︑奄美諸島では︑徳之島商社設立と運営のために日向貢米を

借り出すことができる豪商である︒

また︑一八七三(明治六)年一二月一

O

日に開業した第五国立銀行に出資をし︑その時の住所は︑

鹿児島郡築町であり︑持ち株は創立当初は二

O

株で

あっ

た︒

つまり︑幕末から商業活動を行なう事が出来た背最には︑旧薩摩藩時代からの藩の庇護︑琉球︑支

藩の佐土原藩︑直轄地の奄美諸島という地域を基盤に︑資金も鹿児島県から借りうけるなど︑旧藩︑

鹿児島県と結びついていたためであり︑魚住源蔵はその象徴であった︒

13奄美諸島、近代初期の県商社による砂鱗独占販売の諸問題

(15)

その背策に︑鹿児島県﹁士族﹂の椛成比で︑士族身分が四人に一人︑全国の五倍前後にもなり︑そ

れだけに﹁平民救済﹂の立場ではなく︑﹁士族救済﹂の立場という政策が強く求められていたという

県内

事情

の反

映が

あっ

た︒

また︑硫球との結びつきについて言えば︑一八七二(明治五)年に疏球部となっても︑疏通上は旧

来の薩摩藩豪商に押さえられていたことを示している︒

14 

三︑旧藩の﹁方﹂︑﹁会社﹂︑﹁商社﹂と琉球︑奄美諸島

ー︑県と商社の資金調達

魚住源蔵に見られるように︑県と豪商︑船主︑士族との結びつきは︑以下のように構造的に成立し

てい

た︒

﹁六

私学

校制

建之

官事

﹂(

﹁丁

丑擾

乱記

﹂)

O

因ニ云︑此残余金(註︑県庁費用︑島津家資金)年々若干アリ︑大山網良ハ属官渋谷国安・横

山弥兵衛・鎌田市兵衛・喜入嘉次郎・岡田彦左衛門等ト謀リテ撫育・承恵社或第五銀行ニ渡シ︑

商法ヲナサシメタリト︑或諸島砂踏商社ノ連中ニ︑安価ノ利朱ヲ以テ貸与セリノ云々ニ︑砂糖商

(16)

社ニ

対シ

民沸

騰ノ

説ア

リ︑

後ニ

記ス

ヘシ

O

第五銀行ハ横山・渋谷ノ両属カ胸中ニ出テ︑重久佐平太・長崎用戴・林甚左衛門等ヲシテ︑旧

知事所有ニ属スヘキ旧藩庁ノ金ヲ以テシ︑或ハ鉱山ヲ抵当トシテ創立セシ者ナリ

また﹁一二四

従恐

多欲

騎事

者ヲ

極メ

タル

県官

﹂に

も以

下の

記述

があ

る︒

砂糖商社ノ某ナル者矢野作兵衛大山旧従者ナリノ名ヲ以テ別業ヲ栴タルコト︑或大島其他砂糖商

社ハ︑所謂県庁別途金ヲ貸与シタルコト︑或島民協同商社ハ島民ニ益ナク古アルヲ歎キ︑解社セ

ムト数回歎訴セシコト島民惣代人某九年ノ夏頃歎訴切ナリシト云︑

さらに︑﹁鹿児島一件書類﹂の﹁大山網良口供写﹂にも﹁第百八十九条三十年前ヨリ旧藩ニ

於テ生産会社ナルモノヲ設ケ︑官下人民及ヒ琉球諸島ニ商法資本金ヲ貸付置シ処﹂とある︒

つまり︑県は︑撫育社︑承恵社︑第五国立銀行鹿児島支底︑砂糖商社︑琉球諸島への﹁商法資金﹂

の便宜を図っている︒そして︑後述する大島々民の勝手商売運動は︑

一八

七六

(明

治九

)年

の.

真こ

嘆訴

が多

かっ

たと

ある

15奄美諸島、近代初期の県商社による砂儲独占販売の諸問題

(17)

2︑鹿児島における産物取扱組織の変遷と明治政府布告

このような構造の下︑﹁方︑会社︑商社﹂の成立︑変遷について︑(表

l)

﹁近

代初

期︑

奄美

諸島

踏の取引役所︑会社名︿稿ごを参照しつつ触れる︒

薩摩滞︑鹿児島県は︑奄美諸島の﹁三島方﹂︑琉球の﹁硫球産物方﹂を︑ついで両地域を統合して

対応

する

﹁生

産方

﹂︑

﹁国

産会

社﹂

(﹁

保護

会社

﹂)

︑﹁

生産

会社

﹂︑

﹁承

恵社

﹂と

設立

・変

遷さ

せて

きた

めま

ぐる

しい

改編

であ

った

さら

に詳

述す

ると

︑奄

芙諸

島に

対し

ては

︑文

政の

初め

に設

問さ

れ︑

合氾

美諸

品の

出納

を取

り扱

う﹁

二一

白方﹂が︑琉球との関係では︑文化年開設世され︑琉球産物を取り扱った﹁方﹂があり︑名称は﹁二

ノ丸

御続

料方

﹂︑

﹁唐

物方

﹂︑

﹁琉

球産

物方

﹂と

変選

︑改

称さ

れた

一八

六九

(明

治二

)年

︑一

二島

方と

琉球

産物

方の

二局

を﹁

合併

シ改

テ﹂

︑﹁

生産

方﹂

(別

称﹁

諸島

方﹂

)

となった︒したがって生産方は︑琉球産物︑奄美諸島︑藩内のその他の・版物も取り扱った︒また﹁資

本九十八万円﹂は島津家が出資し︑実質上は官営である︒

一八七二(明治五)年二月︑さらに生産方を引き継いだ﹁国産会社﹂(保趨会社ともいう)が︑資

本金一五

O

万円で次のような役訓と方針で設立されていた︒

琉球井諸島砂柏等之生産代ヨリ生スル利益︑従前御手元へ差分之金額︑足迄国産会社え相円メ大

16 

(18)

坂及ヒ県内諸所え貸付︑其余勢ヲ以当地臨時之御続等取扱来候処(引別者中略)

これによると︑当初は︑琉球や奄美諸島の砂縮から生じる益金︑従来の藷主用の金額を国産会社へ

まとめ︑大坂や県内に貸し付けてその余力でもって臨時の費用を賄ってきたと︑国産会社の役割を述

べて

いる

︒こ

の国

産会

社は

︑一

八七

三(

明治

六)

年七

月雌

出社

し生

産会

社に

引き

継が

れた

︒生

産会

社は

税所竹兵衛ほか数名が県庁に設立願を出して︑同年八月二八日開業を許可された︒なお︑前述の魚住

源蔵は︑乙の生産会社とも深く結びついていた︒

一八

七六

(明

治九

)年

O

月一七日︑生産会社を引き継いだ承恵社が︑島津家の費用で大

蔵卿大隈重信より学校費用・窮士救助のためという名目で許可された︒資本金二万円として県の出納

( m v  

課長

喜入

嘉之

助が

社長

とな

った

その

後︑

一八七一(明治四)年末頃から盟年にかけて︑県は︑特産品の自由売買方針を表明してい

た︒しかし︑茶︑養蚕︑紡縮︑奄美諸島の黒糖等は︑従来の専売制と一部専売制及び県監督下で展開

していた︒つまり︑鹿児島特権商人などと県が﹁手を結び︑特殊会社を設立﹂して関与するというも

ので

あっ

た︒

総じ

て︑

また︑県のこのようなめまぐるしい商社︑会社の名称や組織変更は︑政府の布告が反映されたと考

える︒これまでの研究で指摘されている次にみられる政府の一八六九(明治二)年六月二二日の布告

17奄美諸島、近代初期の県商社による砂儲独占販売の諸問題

(19)

(表1)

r

近代初期、奄美諸島砂糖の取引投所、会社名(稿)J快調史料は「本諭J惨烈)~

1872(明治5)国産会社(JlIJ1弘保盟会紛国産会社

(20)

.sl{f源蔵ら4人.官官緒の年貢代金上納免許者受ける8月、生産会社 生産会社と取引。

週一望柏崎(盲目町盛担割刷海念品即吋ば記憶ddeE 詰尽乞同市︐羽海山冊闘世田‑

ヰ生産会社との『砂臆取組担則J*7月魚住源鼠らー主i.~~~;_;;.m必~..│浄!<Ij!I!i!Q商社│ 資本金2万円、他国九兵衛・林曽左j衛門司~~!霞立.... 生産会社(1目1I主が県へ雲氏)).急盃両?i飯石雨量lt主主、特普左衛門{鹿児島節制泉町九魚住源蔵{問領町}、長崎周鼠{同広;JJ、路人長崎武八郎{同六日町}、浜崎太平次(同弁天町}、田辺奈鼠{問弁天町} 828

1210

1874(明治7)7

国再覆F

資本金2万円、F町林笹定衛門(j中永良節島商社も腹3{改定『出産悶商│ 必拠J_~湾ç;..L・.1I I 1一一ー一一一一│最恵社(1目箱主力、県)I一一一一一一...1・………l今一ー‑… …1... ...・...1思祉(岩村県令.噂先(~村県令.専従I(~村県令、専尭I (ll村県令、碍売刻~止m乏しー…LiI1J廃止決定)……..1制廃止決定)...l制廃止決定】rc",~ .c.~...r...r6月。契針縫了、商

社より狼立取引を望む喜多い、郎理代人骨~J!!lで商.~t主契約.... 115

1876(明治9)I315

10171叩治11

叩月悶

6

7

8旦且至旦 1875(明治8)

両示雇扇面証吾祢は残る。実質の勝手商売は1880(13) 海海M街並断芯itui...,商社と解*~が"1省証記解約 新「大島商社J矢野Irr.匝悼拙白鳥U作兵衛)や他商人113CTEJ;芯』制大量進出ゆ間内幅削 6月、商遇社1879(明治12)

(21)

が影

響し

てい

ると

考え

る︒

20 

明治二年六月二十二日布告

三都府諸開港場其他所々へ府藩県ヨリ産物売捌ト唱へ︑商会取立役人出張︑米穀其外買〆致シ諸

品追々不融通ニ相成商民一般ノ難渋不少候︒是迄一定ノ商律不相立候ヨリ威厳ヲ以テ銘々勝手ノ

商業開キ甚以不都合ノ事ニ付︑此度会計宮中通商司ヲ被建︑追々商律御取設相成候問︑右犠ノ儀

一切廃絶被仰付候︑此旨相違候事

六月

日 開

この布告は︑﹁華士族の商法を禁止し︑藩営事業の廃止を求めたものであった﹂︒そのため︑現在の

宮崎県の一部である当時の低肥藩では︑﹁藩職制の改正を行った際︑藩営事業の資本を御用立に譲渡

する

古学

﹂に

なっ

た︒

しか

し︑

﹁実

際の

事業

経営

は藩

主導

のも

とに

行わ

れた

もの

と思

われ

る﹂

とい

う︒

なお︑﹃鹿児島県史七三巻八三六頁は︑﹁何れも営業不振で︑僅々二︑三年の短期間に解散﹂したと

ある︒営業不振という要因を指摘している︒さらに︑当初の会社設置や変更は︑政府の布告が前提に

なっていると考えることができる︒

(22)

3︑鹿児島商人︑会社組織と璃球︑奄美諸島のつながり

このような鹿児島県における産物取り扱い組織である﹁方﹂﹁会社﹂の設立と硫球藩や奄美諸島と

の関

係を

検討

する

まず︑琉球は一八七二(明治五)年七月︑琉球藩となった︒しかし︑砂精の流通︑大坂での売却は︑

旧藩時と同様︑鹿児島の﹁方﹂﹁会社﹂に依拠していた︒

この時期に︑鹿児島県の琉球物産を取引していたのは︑

であった︒琉球側では以下の史料が見いだされる︒ 一八七二(明治五)年二月設立の出産会社

生産奉行は国産会社社長(引用者中略)各御役名相替候段承申候︑此段致御通達候︑以上

附須田幸吉殿も御在番附属と相唱候へ共︑倒産会社御用御取扱被成由

申七月十五日

那覇

筆者

御物城

用 頼

一八七二(明治五)年二月に生産方が国産会社に変わったが︑琉球内では七月一五日に那覇筆者か

21奄美諸島、近代初期の県商社による砂織独占販売の諸問題

(23)

ら御物城周頼にその事が通達されている︒そしてごカ月後の九月一四日に外務省官轄の琉球離となっ た ︒

22 

また︑同年︑琉球藩となった直後の九月二九日︑県は︑奄美諸島に勝手商売を許可した︒その事に

依り

︑県

は硫

球部

や﹁

諸島

﹂に

対し

ても

︑﹁

琉球

井諸

島よ

り税

登候

自物

砂糖

︑国

産会

社え

加入

無之

分は

以来自他県売開勝手ニ令免許候事﹂と︑税以外の自物砂糖を国産会社と今後取引をしない場合は︑鹿

児島県や他県との売買勝手を許可する布告を出した︒このことは︑疏球部と国産会社が経済の面で結

びつ

いて

いた

こと

を示

して

いる

生産

会社

と結

びつ

きの

強い

魚住

源蔵

らは

則﹂

を結

んで

いる

これらの事は︑生産方︑国産会社︑それを引き継いだ生産会社︑承恵社が︑また︑直接的には鹿児

島の豪商が︑大鹿で引き続き琉球龍砂輔の売却を担っていたことを示している︒つまり︑疏球部とな

っても︑流通︑経済面では︑近世同様に︑旧藩や鹿児島県に握られていることを明らかにしている︒

一方︑奄英荷品は︑一時期の喜界島の例外はあるが︑国産会社との契約をやめて各自は他の新たな

新興

の商

社と

取引

して

いく

よう

にな

った

一八七回(明治七﹀年二月に︑疏球部と・﹁砂鮪取扱細

4︑国産会社と保盟会社の関係

(24)

の 俗た 美

め 諸、 島

国 の

産 史会 料

社 に と 間

集露

目史 o 

o  z:;; 

五 社

訪主

V ' d J

霊妻 . . . む主

通 K

F 厄 星雲

じ 宏

"7"  p; 

売員 之空

結曾 習と '

; '  

~、

実る

:Jが で し

ι

λ

ーレ

て 一 く

明そ

治五

﹀年

二月

設立

一八七三(明治六)年七月雌止の国産会社は︑保護会社の事である︒後述する俗

美諸島の負債の件に関わるため︑改めてその事を明確にしておきたい︒

もともと守鹿児島県史L一ニ巻八三七頁が︑別会社として述べているため︑史料の理解に困難さをも

たらしていた︒つまり︑衛藤助治1沖之永良部誌

L (

一九

一四

・大

E

年一

O

践文

)を

典拠

に︑

﹁保

護会社﹂は﹁国産会社﹂と別組織と理解し︑保護会社は﹁(大・局︑喜界島︑徳之島の)コ一品以外の属

島への物品積下等の事業も営んだゃうである﹂と吋県史﹄が述べたことに原因がある︒

しかし︑明治﹁十年十二月本県出張県令より呈ス﹂(張紙)とある﹁鹿児島県大島改善施設ニ閲

する意見書﹂(早稲田大学図書館︑異本﹁意見苫

柿原

義則

﹂)

には

︑以

下の

指摘

があ

る︒

是ヨリ先キ明治二年三島方ヲ改テ︑諸島方ト称シ︑

又生産方ト云︒明治二一年国産会社ヲ建テ生

産方

ヲ合

併シ

︑該

社或

ハ保

護会

社ト

E︒少アツテ生産会社ト称ス︒是皆各島ヲ管スル三島方ノ順

序ニ

異ナ

ラス

これに依ると︑生産方を合併し︑新たに設問したのが﹁国産会社﹂であり︑それは別称﹁保護会社﹂

23奄美諸島、近代初期の県商社による砂繍独占販売の諸問題

(25)

という︒つまり国産会社H

保護

会社

であ

る︒

2.1 

一八

七七

(明

治一

O )

年一二月一七日付︑大蔵卿から太政大臣あてのこ等属金問荷風の鹿児島見聞

の報告中の﹁承恵社ノ事﹂にも次のように記載されている︒

渋谷

国安

云維

新ノ

後右

二局

(引

用者

柱︑

琉球

産物

方・

一二

島方

)ヲ

合併

シ改

テ生

産方

トス

︑此

時該

ノ資本九十八万円ナリ︒廃藩ノ後国産会社保護会社ト転称シ︑後復タ生産会社ト称セリト

すなわち︑﹁方︑会社﹂の変避を渋谷凪安の言により叙述通り再度示せば︑①生産方②国産会社保

護会社③生産会社となり︑﹁国産会社保護会社﹂と一まとめに記述されている︒

また︑柿原義則﹁意見書﹂は︑﹁故ラニ商社ヲ結ハシム︒名ケテ大島商社ト云︒徳ノ島︑沖撰・与

論又之ニ准ス︒喜界島ハ未タ保護会社ノ所管タリ︒此時明治八年初テ結社三年ヲ期トス﹂とある︒他

の島が鹿児島商人設立による新興商社と契約したのに︑喜界島はまだ﹁保護会社ノ所管﹂とある︒

一方︑この頃の喜界島の状祝老若した別史料に﹃諸御用向文書集巽行春﹄(喜界町盛家文書︑

山下文武写本奄美市立博物館)がある︒これは︑一八七二(明治五)年申年の砂精を上納免除にす

るかどうかに閲する文書である︒このなかに﹁申九月廿五日︑国産会社社長﹂とある︒これからする

と︑同年九月段階の喜界島管轄は︑国産会社である︒

(26)

つまり︑この頃は︑柿原義則﹁意見書﹂では﹁保護会社﹂︑同時代の別史料には﹁国産会社﹂と記

述している点からして︑保護会社と国産会社は同一である事が理解できる︒

さらに︑との﹁国産会社社長﹂と名のある但書には︑﹁但

調可申上候﹂とあり︑沖永良部品︑与論島の未上納砂糖については追々取り調べるとある︒これから

すると︑これまでの砂糖の取り扱い菅鞘﹁会社﹂は︑喜界島だけではなく︑沖永良部島︑与論島を含 沖之永良部品︑与論島之儲は追々取

め奄美諸島全域でも﹁国産会社﹂であった︒

さらに﹁琉球井諸島砂糖等之生産代ヨリ生スル利益︑従前御手元へ差分之金額︑是迄国産会社え相

円メ﹂とあるように︑奄美諸島の砂糖に閲する取引会社としては︑国産会社であったという事が出来

そのため︑国産会社と契約をしない奄美諸島の島々は︑ る ︒

累積負債を清算するように︑県や圏産会社から求められていた︒

衛藤助治﹃沖之永良部誌﹄によれば︑沖永良部島では物品代として納めなければならない砂縮︑百

四十六万斤の負債があった︒また︑大島は何年間分か不明だが︑﹁本島ニ輸送スル雑品代糖二百六十

万斤

余﹂

の負

債が

ある

とい

う︒

一八七二(明治五)年九月に︑これまでの

それら島民が負債返済をしなければならない会社の名称を︑﹁旧保護会社﹂﹁保護会社﹂と記述して

いる

ので

ある

25奄美諸島、近代初期の県尚社による砂衡強占阪売の諸問題

(27)

なお︑同産会社(保護会社)の設立年月日は︑これまで明確ではなかった︒その中で︑柿原義則﹁立

見書﹂は︑一八七

O(

明治ゴ己年と記述している︒しかし︑コ冗治二年赴作阿久栂河南甑兵衛船々

諸諸

問帳

﹄(

﹁讃

虎山

. m

﹂奄央市立奄美帥物館)により掛りである事がわかる︒これによると︑阿久制限

河南源兵衛の﹁口上党﹂には︑﹁本文願通申付候生産

H

印(明治五年)中二月十五日﹂とある︒

次の﹁口上党﹂には︑船主阿久恨之七左衛門より﹁中二月岡・脱会社御方﹂︑船主阿久但河南七左衛

国産

会社

御中

﹂と

ある

門より﹁中九月

これにより︑明治五年二月一五日以降に﹁生産方﹂から﹁同産会社﹂へ変わっていることが分かる︒

問︑奄美諸島の第一期︑商人・商社取引l勝手商売期(自由売買)│

一八七二(明治五)年の勝手商売決定と大島以外の動向

研究史では︑奄美諸島の商社設立と取引は︑当初から大島商社による旧藩期同様の独占︑専売が実

施されたと述べている︒つまり︑一八七二(明治五)年夏以降に専売制の契約が決められ︑翌一八七

一‑

一(

明治

六)

年春

の取

引か

ら大

島商

社の

独占

専売

が開

始さ

れた

とい

う理

解で

あっ

た︒

しかし︑以下に述べるように通説とは逆で︑一八七二年は︑島民が県から勝手商売の許可を得て︑

凶産会社以外の商人︑または商社と契約を結んだ年であった︒そして翌一八七三年先日の段断では︑税

26 

(28)

以外の島民が処分可能な﹁余計糖﹂の勝手商売を実施した年であった︒

それはわずか一八七三年春だけであったが︑勝手商売取引が実施された︒したがって︑その商社あ

るいは取引商人らの時期を第一次商社設立期とする︒その後新たに設立された独占︑専売の大島商社

の段階を第二次商社設立期として区分して述べていく︒

これら第一期と後述の第二期の商人や商社は︑相互に関連を持つ組織体であると考えられる︒しか

し︑﹁勝手商売﹂決定後の取引とそうでない独占・専売の下での取引とは区分する必要がある︒

( 表

l)

﹁近代初期︑奄美諸島砂輔の取引役所︑会社名(稿)﹂を参照しながら︑第一期商社設立を

検討

する

奄美

諸・

品で

は︑

一八七二(明治五)年春の取引は︑鹿児島県の実質運営であった生産方または同年

二月にその﹁方﹂を引き継いで設置された凶産会社であった︒

この国産会社との勝手商売交渉のため﹁島中歎願ニ付﹂という大島の島民の声を背景に︑周年夏︑

または八月に大島与人の太三和良と基使良の二名が書役当二志︑甚佐登と共に上県した︒彼らは︑県

役人の御検事岩元六右衛門︑御筆者柏木厚之助と共に行った︒上県理由の﹁島中歎願ニ付﹂とは︑次

の事

であ

る︒

﹁先年交易之節ハ身売等有之︑漸々困窮之基之段詰役中様御吟味有之︑諸事願方﹂とあるように︑

砂糖専売制の下︑島民の身売︑困窮などがあったためである︒このような状況と島民の声があったか

27奄美諸島、近代初期の県商社による砂繍独占sli売の諸問題

(29)

らこそ︑二名は︑国産会社の提案について﹁得と承服仕らず︑相当の応答申し上げ﹂と記述している

ような国産会社とのやり取りを行い︑鹿児島県も﹁勝手商売﹂は認めざるを得ないという結果になっ

た︒そして︑九月二八日︑県への﹁勝手商売﹂嘆願書︑それを受けて県は︑翌二九日に大島だけでな

n v

く﹁外三島﹂つまり奄美諸島全域で﹁勝手商売﹂が﹁願書どおり御免仰せ付けられ﹂た︒

この決定は︑さらに︑九月付﹁鹿児島県庁﹂名で大島︑徳之島︑喜界島︑沖永良部島・与論島の﹁諸

島詰在番﹂(県詰役人)へ︑税は貢糖の金納とし︑﹁余計糖之備は︑作得米同僚之訳ニ付︑都て勝手商

売商

・付

候﹂

とし

た︒

この県の方針は︑各島個別の在番(鹿児島県派遣役人)に﹁申渡﹂された︒ここでは︑新たに把握

A m )  

した史料である沖永良部品在番への史料を提示する︒

沖永良部島

右之年貢倍︑是迄砂糖ヲ以テ致上納来候得共︑追々公平至首之御布告ニ基キ︑以来年貢米石代市

街平均直成ヲ以金納申付候条正金取建無滞租税課え上納可致候︑左候て︑正税上納之外余計糖之

儀ハ作得米同様之訳ニて都テ勝手商売申付候︑就てハ梢々至仁之御趣意貫徹致シ︑日用之品々連

モ追々・殖致シ各其産業ヲ相励︑可成島々用弁之道相立候様︑可嘩ニ御趣意無遺漏相違候様早々

28 

(30)

可申渡事

但︑島々ニ依り見込ノ訳モ候ハパ︑既ニ御年貢之時節ニ莞掛候問︑共段早々可願出事

明治

壬申九月鹿児島県庁

沖永良部島

在 番

沖永良部島は︑余計糖の勝手商売が決定した一八七二(明治五)年に︑従来の国産会社ではなく︑

新たに矢野作兵衛と矢野善左衛門の二名に依頼をして︑翌年春から取引を開始した︒勝手商売(自由

売買)となったため︑旧藩専売制機構を受け継いでいる国産会社でなく︑矢野両名との取引をするこ

とになったのである︒矢野作兵衛は﹁平民﹂︑県令大山網良の元従者で鹿児島郡金生町居住であった︒

矢野善左衛門も﹁平民﹂︑鹿児島郡中町居住であり︑二人はその後︑

一八

O(

明治

一一

二)

年開

業し

た沖縄第百五十二国立銀行の株主ともなっている︒

その後︑砂糖販売の一手販売︑独占販売という仕組みで作られたと考えられるが︑沖永良部島では︑

一八七四(明治七)年一一月に沖永良部品産糖交易のため沖永良部商社が設立され︑本社を鹿児島︑

支白老沖永良部島においたという︒鹿児島易居町の鹿児島商人池田九兵衛・林善左衛門の二名により︑

29奄美諸島、近代初期の県商社による砂総独占販売の議問題

(31)

資本

金二

万で

設立

され

た︒

﹃鹿児島県史﹄第四巻四五四頁によれば︑一八七五︿明治八)年︑沖永良部商社と正・刷戸長と砂

梢売買の契約は︑売込品物代約一万五千円︑貝取砂櫛約三

O

万庁︑契約期間は明治二銀六月までと

ある

30 

とこ

ろが

︑喜

界島

は従

来ど

おり

国産

会社

との

取引

であ

った

が︑

島投

入は

以下

の方

針を

取っ

てい

た︒

各島之内喜界島之価︑此以前島役ヨリ依頼ノ趣有之︑年々米穀其他注文ニ応シ物品差下シ︑右代

価返

弁ニ

付テ

ハ︑

産栢

大坂

え為

繰登

売立

之上

︑仕

込代

金二

︑年

一部

之利

子ニ

テ算

計相

受取

来候

処︑

一昨亥春︑各島同様ノ仕向ヲ以テ島役ヨリ下町居住林普左衛門え依頼ノ趣有之︑同人商社取結ノ

節︑

当社

ヨリ

島許

仕込

品代

金凡

三万

二千

円有

之候

処︑

同人

引受

ニテ

追々

一万

二千

円程

返済

イタ

シ︑

差引残リ二万円位引負相成︑追々産糖売立代金ノ内ヨリ返弁之約定(下略)

①つ

まり

︑喜

界島

は従

来週

り︑

(国

産会

社と

の)

取引

とす

る︒

@しかし︑喜界島の島役人の依頼で︑自民の物品代価返済は︑黒踏を大坂で売却し︑さまざまな経

費を含む鵬入代金に年一分︿一%)の利子でもって国産会社は受取ってきた︒島民にとって︑この大

坂での売却値段を前提に︑かつ一%の上乗せ値段での支払いという点では︑旧藩時代の不等価交換時

(32)

代と比較すると︑前進であったと考えられる︒それは︑余計臓の勝手商売が決定されたという立場の

反映

であ

ろう

③ところが︑各品同様ということで︑品役人は︑鹿児山下町の林部左衛門に依頼し一八七五(明治

八﹀

年五

月に

喜界

・品

商社

が︑

自凶

作品

府内

一糊

交拐

のた

め資

本金

二万

円で

鹿児

島下

住古

町に

設立

され

た︒

かし

︑国

産会

社は

一八

七三

(明

治六

)年

七月

に雌

社︑

その

後は

生産

会社

が設

立さ

れて

いる

︒そ

のた

め︑

喜界島は約二年間は国産会社を引き継いだ生産会社との取引をしていたと考えられる︒

@喜

界・

品商

社と

の契

約に

あた

って

︑そ

れま

での

﹁当

社﹂

(国

産会

社﹀

から

由民

の品

物仕

入代

金が

万二千円あった︒そのうち︑林が一万二千円返摘し︑強二万円は借金として︑県糖の売却代金から支

払う

約定

をし

た︒

資本については︑承恵社(当時の国産会社と生産会社﹀から貸与されていた︒契約期間は︑﹁明治

八年

初テ

結社

三年

ヲ期

トス

﹂と

ある

徳之

島商

社は

︑一

八七

三(

明治

六)

年に

︑徳

之島

の福

島喜

美院

らが

鹿児

島へ

行き

︑長

崎周

造(

蔵)

迫仲右衛門・魚住源蔵と交渉し徳之島商社が設立された︒契約期間は︑一八七八(明治一二年まで

h n ‑

の五カ年であった︒長崎用蔵は鹿児島郡広小路居住で︑第五国立銀行株主であり︑また︑魚住源蹴に

つい

ては

前述

して

きた

通り

であ

る︒

31奄1!諸島.近代初期の県商社による砂鮪独占阪売のお問題

(33)

2︑大島商社の動向

以上︑大島以外の各島の状況を先に示してきた︒このような変化をもたらしたのは大島から上限し

た与

人の

基健

良︑

太三

和良

が︑

島民

の声

を背

蹴に

余計

踏の

﹁勝

手商

売﹂

を組

めさ

せた

から

であ

る︒

その上で︑大島でも従来の国産会社ではなく︑新たな会社との契約に向かった︒その新会社との契

M g

約の

経過

は以

下の

とお

りで

ある

32 

就ては︑鼠早︑米・品物下シ込之時節も到来︑大阪迄も駈引商銭を話候ては︑急速計取まじく︑

当地において笛なる商人え約談相居り︑米︑その外御用なくて叶わざる大豆・油の類は︑早々下

し方相成り候様手筈に御座候得共︑未だ商人義(俄)治定これ無く候︑趣法の次第は張紙通り御

座候

問︑

両日

中に

は相

片付

け申

ベく

︑商

人は

長・

両家

・浜

崎・

田辺

・大

坪等

を頭

取に

して

凡一

七︑

八人に相及び申すべく候

つまり︑①当冬と翌年の島民用の米・品物を下す時期が到来してきでいる︒そのため︑これから大

阪ま

で行

って

大阪

商人

との

取引

は困

難で

ある

︒@

した

がっ

て鹿

児島

で確

かな

商人

と﹁

約競

﹂し

てお

り︑

米・

E

・油類は︑早々と大島へ下すことが出来るような手はずになっている︒@しかし︑商人も定

かで

はな

いが

︑別

紙強

り紙

通り

の契

約と

なる

ので

︑二

日ほ

どで

決定

する

よう

に︑

また

︑商

人は

長・

両家

(34)

浜崎・田辺・大坪らを中心にして一七︑八人ほどであると述べている︒この商人たちを﹁第五同立銀

行持株一覧﹂で検討すると︑﹁長・二家﹂は︑長崎二家で長崎武八郎(鹿児島郡六日町)と長崎周蔵

(同

広小

路)

︑﹁

浜崎

﹂は

浜崎

太平

次︑

﹁田

辺﹂

は田

辺泰

蔵(

問弁

天町

)と

考え

られ

る︒

なお

︑長

崎武

郎についてさらに指摘すれば︑前述したように︑琉球藩の御用商人として︑一八七四(明治七)年七

(

}

月には琉球藩へ﹁仮約定書﹂を魚住源蔵らとともに連署で提出している人物である︒

さらに︑国産会社と契約を結ばないこととなったために︑以下のように一八七二(明治五)年一O

月︑上県与人の基俊良︑太三和良の﹁国産会社御役々様﹂あての﹁口上党﹂がある︒前に述べたが︑

ここ

で詳

述す

る︒

①県は︑大島に対して﹁当冬より当春に掛御下シ込相成候品物代︑井去ル卯年以米御品物代砂糖滞

納引結之儀被仰渡﹂とあるように︑一八七一(明治四)年冬から翌年春の分と一八六七(慶応三)年

以来の島民の滞納分を国産会社と精算をするように求め︑基︑太の二名は承諾した︒

②一八七二(明治五)年夏に︑納めた砂糖九四万二ハ

O

九斤半と一八六九(明治二)年に納めた砂

糖代の内︑代価の品物がまだ下されていない︒そのため︑砂糖の代価の品物を下されていない分を含

めて︑翌一八七三(明治六)年春の品物代は代砂糖上納で補い︑残りの砂糖斤高は︑これまで通り砂

踏上

納を

した

い︒

③﹁但来春御品物代斤高秀之儲は︑下島之上取究御届可申上候﹂とあるように︑一八七三(明治六)

33奄美諸島、近代初期の県商社による砂猶独占販売の諸問題

(35)

年春の品物と砂結代価については︑下島のうえ改めて取り決めをするという考えである︒

これらの﹁口上覚﹂文言をみると︑勝手商売となった二人の立場の強みとともに︑逆に国産会社の

滞納生産の要求の両者の立場が組み取れる︒

県から国産会社との契約をしない島民が﹁引結之儀被仰渡承知仕候﹂と精算するように言われたの

は︑大島だけではなく︑徳之島︑沖永良部島︑与論島も同様である︒

沖永良部島では︑与人土正照が︑未進糖︑品物代年賦払いでの清算という﹁重大事件﹂のために

上県するように在番困田四郎助から二一月一八日に以下のように申し渡されている︒

和泊方与

土 人

政 照

右者出来糖之儀今般格別之御仁慈ヲ以テ商法変革被仰渡候ニ付︑一同ヨリ之御礼旦末進糖並御品

代糖年賦上納等島内重大事件ニ付︑上県申付候条早々相仕舞一番早船より可罷登候

在番

園田四郎助申十二月十八日

34 

(36)

前に触れたが︑この時期︑勝手商売取り決めに依る国産会社との消買をめぐる負債が﹁旧保護会社

への負債﹂という文言で大島や沖永良部品の文書中に出てくるのである︒

ところが︑県の川辺郡七島︑三島や口永良部品に対する一切免税方針など県内品腕も含めて検討す

る必要があるが︑一八七二︿明治五)年までの島民の未払代金(代糖)は︑結県として沖永良部品の

土政問(後に土持政照)の凶郷隆盛や組制権顕松方正義らとのやり取りや大山県令の大・品巡察後に無

納と

なっ

た︒

こうして︑上限した峰︑太は︑①勝手間売の品中蹴聞という状況の下︑②年聞の此制二五八万六千

六七一斤は市中平均拙段で金納とする︑@開放りは﹁勝手交易﹂で新たな﹁商社引結﹂と表現される国

産会社以外の商人迷と勝手商売の約定を結び︑その年の冬に下向した︒

一八七三(明治六)年の審の砂舗の取引は勝手商売となり︑国産会社との取引をやめた大品では長

崎︑浜崎︑田辺らの商人︑龍之島では穂之島商社︑神永良部島は矢野二名という新たな商人︑商社と

契約した︒一方︑喜界島は従来どおり国産会社との取引を開始したが︑以前の国産会社との取引より

は改

善さ

れた

と考

えら

れる

この一八七三(明治六)年の沓の砂崩の取引内官は︑奄美諸島全体的は不明であるが︑大a

の余

輸の取引価柿は︑一八七三(明治六)年存のみについて言えば︑これまでとちがって由民の利益にな

っていることがわかる︒それは︑一八七五(明治八)年八月の東方百姓中の商社出止を求める明願に

35 fiill諸島、近代初期の県商社による砂続強,!i阪犯の諸1m

参照

関連したドキュメント

地方創生を成し遂げるため,人口,経済,地域社会 の課題に一体的に取り組むこと,また,そのために

問55 当社は、商品の納品の都度、取引先に納品書を交付しており、そこには、当社の名称、商

北区では、外国人人口の増加等を受けて、多文化共生社会の実現に向けた取組 みを体系化した「北区多文化共生指針」

それは10月31日の渋谷に於けるハロウィンのことなのです。若者たちの仮装パレード

『いくさと愛と』(監修,東京新聞出版局, 1997 年),『木更津の女たち』(共

本日は、三笠宮崇 たか 仁 ひと 親王殿下が、10月27日に薨 こう 去 きょ されまし

[r]

 工学の目的は社会における課題の解決で す。現代社会の課題は複雑化し、柔軟、再構