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【調査実習報告(教員)】
原の辻遺跡の復元展示とテーマパーク
大平 晃久 (国際文化講座教員)
Ⅰ はじめに
原はるの辻つじ遺跡は,長崎県壱岐市旧芦辺町と旧石田町にまたがる,細長い丘陵とその周辺の低湿地
(「深江ふ か え田原た ば る」)に広がった遺跡である。旧石器時代から平安時代の複合遺跡であり,3世紀末の「魏 志倭人伝」に登場する「一大国(一い支き国)」に比定されている。1997年9月2日に国の史跡に指定 され,さらに2000年11月24日には特別史跡に昇格した。2005年度から壱岐市によって復元整備 事業が進められ,復元展示「原の辻一支国王都復元公園」は2011年4月に全面開園している。
弥生時代の遺跡は,1990年代の吉野ケ里遺跡の成功以降,「吉野ケ里方式」1) とも呼ばれる復元・
実物大展示が一般化した。ただし,そこには様々な議論があり,吉野ケ里遺跡の復元当事者が「立派 な建物を復元することが遺跡整備だと勘違いされてしまっている」と述べるように2),高楼や見張り 台のような観光資源として目立つ建造物を作ろうとする傾向には批判もある。またそうした整備に対 しては建造物のデザインや高さの根拠はあるのかといった批判もついて回ることになる3)。
原の辻遺跡をめぐっても,こうした復元自体に対する批判は可能である。すなわち,復元建物のデ ザインや高さが問題になることは上で述べたとおりであり,また,特定の時代に復元することで長期 にわたって形成されてきた遺跡の重層性が無視されていることも指摘できる。原の辻遺跡は,弥生時 代後期=「魏志倭人伝」の時代に復元整備されたが,集落形成は弥生前期(紀元前200年前後)にさ かのぼり,奈良時代の道路状遺構や墨書木簡,平安時代の貿易陶磁も出土している4)。「魏志倭人伝」
の時代への復元整備はそれらの価値を軽んじるものであるともいえるだろう。3つ目には,遺跡の中 核といえる部分(後述の「祭儀場」わき)も史跡未指定・未発掘であり,現状の発掘部分だけで遺跡 が完結するのかという批判もありうる。さらには,現在復元されている部分は集落の中心部分,支配 階級・上層の住民の居住区域のみであり,集落全体を理解できるようにはなっていないとも指摘でき
図 1 原の辻一支国王都復元公園 北東方向から望む。2014年撮影。
浦上地理 第2号 2015
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ただし本稿では,これら復元自体に関わる問題ではなく,復元展示の手法を考えたい。そしてそこ にはテーマパークをめぐる議論を援用できると考えている。
原の辻一支国王都復元公園や吉野ケ里歴史公園などの史跡公園が,まさにあるテーマを掲げた公園 であるという意味でテーマパークであるのは自明といえよう。ブライマン,A.は『ディズニー化する 社会』の中で,テーマパークの「テーマ化」は「ナラティブ(物語)を組織や場所に適用することで 成り立っている」と定義している5)。日本の史跡をめぐっても,文化庁による『史跡等整備のてびき』
の中では,文化財広域整備計画について「歴史及び文化の中に流れる『物語性』の発見」を踏まえ,
「基本方針(テーマの設定)」の策定を行うとしている6)。これは広くは個別の史跡にも当てはまる考 えであろう。また,山 泰幸は,史跡でのイベントを(ディズニーランド等とは異なり,「テーマパ ークの外部にそれらが指示する対象であるところの…歴史が『実在』する」ことから)「外部準拠型 のテーマパーク」と呼んでいる7)。いずれにせよ,「吉野ケ里方式」以後の史跡公園はテーマパークと してとらえるにまことにふさわしい対象であるといえよう。
従来のテーマパークをめぐる議論はディズニーランドを中心に進められてきた。本稿ではそれらを もとに原の辻一支国王都復元公園の復元展示について,見学者を展示に引き込む空間的な仕掛けの欠 如という問題があることを示したい。
Ⅱ 原の辻遺跡と復元展示
原の辻遺跡は1904,05年頃に,地元の研究者で石田尋常高等小学校教諭であった松本友雄によっ て発見された8)。その後,1916年に東京帝大の鳥居龍蔵,1923年に東京帝大の黒板勝美,京都帝大 の梅原末治,1927年頃に九州帝大の中山平次郎,1930年に東京考古学会の森本六爾といった中央の 研究者が相次いで訪問する一方,地元民俗学者の山口麻太郎,壱岐中学校の鴇田忠正によってそれぞ れ調査・論文発表が戦前・戦中に行われている。戦後になると,1951~61年に九学会連合と東亜考 古学会による調査が行われた。
原の辻遺跡の本格的な発掘は,1975~77年に長崎県教育委員会によって遺跡範囲確認調査として 実施された。それによって重要な遺跡であることが確認され,1991 年からは深江田原の圃場整備を 含む幡鉾川流域総合整備計画に伴う範囲確認調査・緊急調査が行われる。1993 年には環濠が発見さ れ,「魏志倭人伝」の一支国の中心集落であるとみなされるに至った。
遺跡の範囲は1㎢を上回り,2014年3月末現在の発掘面積はおよそ108,000㎡である9)。また2011 年3月末時点の特別史跡指定面積は208,605.23㎡で,公有化率は90.37%に達している10)。 発掘の成果を受けて,1995年4月には壱岐・原の辻展示館(現在の原の辻ガイダンス,図2)が 開設される。復元整備に向けて1997年10月には西谷正九州大名誉教授を委員長に,研究者や地元 の行政関係者・有識者で構成される原の辻遺跡保存整備委員会が設置された。同委員会の下で「保存 整備基本計画」(1999年3月)11),「保存整備実施計画」(2003年3月)12) などが策定され,「一支 国遺跡博物館」(現在の一支国博物館ではなく,原の辻一支国王都復元公園のこと)として復元展示 が目指されていくことになる。
「保存整備基本計画」では,第1期整備の「4つの整備目標」として,①王都の表現,②成長する 整備,③現代の一支国・活用,④研究拠点 が示されている13)。①については,
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図 2 原の辻一支国王都復元公園内の復元展示配置図
壱岐市・壱岐市教育委員会『原の辻一支国王都復元公園』(パンフレット),壱岐市・壱岐市教育委 員会,発行年不明 による。〈 〉は筆者による付記。
←〈船着き場検出地点〉
〈石田大原墓域〉
↓
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当初より「一支国」が「魏志倭人伝」に登場した弥生時代後期の集落への復元が目指されている。② では調査・研究を継続すること,また植生を長期的に復元することがうたわれている。
2004年度に文化庁の記念物保存修理事業,2005~2010年度に同じく文化庁の史跡等総合整備活用 推進事業の補助を得て,遺跡の復元整備が進められ,原の辻壱岐国王都復元公園として2011年4月 に全面開園した。また2010年3月14日には遺跡北東の丘陵上に市立一支国博物館(長崎県埋蔵文 化財センターを併設)が開館している。なお,同館の開館に伴って,遺跡に隣接した壱岐・原の辻展 示館は原の辻ガイダンスとして衣替えすることになった。
図2に原の辻一支国王都復元公園の全体構造を示した。17棟の復元建物のほか,門・柵や環濠が 設けられている。第1期整備に当初含まれた「石田大原墓域」の整備は第2期以降に回されることに なった。また,船着き場は注目される遺構であるが,圃場整備区域であることもあってか,復元展示 されていない(発掘された船着き場は後期初頭までのもので,それ以後,すなわち復元集落の同時期 には,集落東側の門のさらに東側に位置したという想定もある14))。地表面は一部が削平を受けてい るものの,当時の地表高+1mで復元された。また植生復元も試みられたが,水田の中に突き出した 丘陵地であるために風害がひどく,十分な成果をあげていないという。
Ⅲ 物 語ナラティブと空間的な仕掛け
(1) 原の辻一支国王都復元公園の 物 語ナラティブ 原の辻一支国王都復元公園の復元展示には明確な
ナラティブ物 語
が存在する。それを具体的にみていこう。
4棟の高床式建物と大型住居が検出された遺跡の最高部は「祭儀場」と名付けられている。それら 5棟の復元建物の周囲を生垣がめぐり,入り口には鳥形を乗せた門柱が立つが,生垣や門は検出され ていない15)。「祭儀場」は祭祀や儀式が執り行われた場所と想定されており,大嘗祭・新嘗祭をモデ ルに 物 語ナラティブが編まれている16)。「祭儀場」に隣接した大型住居は「王の館」とされ,濠で囲まれた周溝 状遺構も何らかの儀式の場とみなされている17)。
「祭儀場」の北側は「迎賓場」として 物 語ナラティブ化された。住居2棟,高床倉庫1棟が復元され,朝鮮 半島からの外交使節の宿所であったとされる。復元建物には「迎賓の建物」,「従者の宿舎」など具体
図 3 「主祭殿」の説明 図 4 「使節団の倉」の説明 2014年撮影。 2014年撮影。
18 的な表示が行われている。
このほかにも,個別の建物には「長老の家」,「譯えきの家」など,すべて 物 語ナラティブ中の役割が割り振られ ている,また,年間のこよみと祭り,人々の階級,衣服,各戸別の家族構成など18), 物 語ナラティブを支える 詳細な設定が用意されている。
このように,原の辻遺跡の復元展示には明確で細部にまでわたる 物 語ナラティブを読み取ることができる。
しかし,現地において,こうした 物 語ナラティブにうまく入っていけない見学者がいるのではないだろうか。
いいかえれば,こうした 物 語ナラティブに基づく展示がうまくいかない場合があると考えられる。
筆者が2014年4月に初めて原の辻一支国王都復元公園を訪れた際の経験を述べたい。筆者は南の 石田側から徒歩(路線バス利用)で公園に入場した。公園北側にあるガイダンスの開館前だったため ガイダンスには入館せず,パンフレットも入手できないままであった。そうした状態で,上述の 物 語ナラティブ に接し,すなわち図3・図4のような復元建物の説明をみて,強烈な違和感を覚えたのである。なぜ ここに「王」が住んでいたとわかるのか,どうして「外交使節」の「従者」がこの建物にいたといえ るのか,あるいは「主祭殿」での儀礼の中身までどうやって示せるというのか,などなどと疑問ばか りであった。そして,こうした違和感は筆者ひとりのものではなく,見学の順路などによって多くの 人に起こりうるものであると思われる。
では,こうした違和感をどう考えればよいのだろうか,あるいは,違和感を緩和するためにはどの ような展示の改善が考えられるのだろうか。
(2) テーマパークの空間的な仕掛け Ⅰでもみたように,史跡整備を 物 語ナラティブ仕立てにすること自 体は今日でも当然化している。ここではテーマパーク,特にディズニーランドをめぐる議論をみるこ とで,原の辻一支国王都復元公園では見学者を 物 語ナラティブに入り込ませる空間的仕掛けが欠如しているこ とを指摘したい。
カリフォルニア・アナハイムのディズニーランドについて,能登路雅子は,周囲の市街地と切り離 された別世界空間として周到に設計されていることを指摘している。すなわち,ディズニーランドの 周囲の盛り土は「虚構の世界と日常世界とを切り離すための目かくしの機能」を果たしている19)。ま た,来場者を導く入り口は1か所で,しかも駐車場,切符売場,タウンスクエアの三重構造になって おり20),来場者の意識を非日常へと徐々に切り替える役割を果たす。さらに,タウンスクエアに続く ショッピングモールであるメインストリートUSAを来場者に通らせることによって,「ディズニーラ ンド全体のムードを設定すること」21) が可能になっているという。
同様に,東京ディズニーランドについて論じた吉見俊哉は,「空間的な自己完結性」をそこにみい だす22)。すなわち,東京ディズニーランドでは「人びとの視界のなかに外部の異化的な現実が入り込 む可能性は最大限排除され,演出されるリアリティの整合性が保証されていく」。そのために,園内 から外部,あるいは園内を端から端までみとおすような「俯瞰的な視線」は排除されているという23)。 このように,アナハイムと東京のディズニーランドは,外部と視覚的かつ意識的に切り離し,それ によって 物 語ナラティブを強化する空間的な仕掛けがあるといえる。では,その視点から,原の辻一支国王都 復元公園はどのようにみることができるだろうか。主として吉野ケ里歴史公園も比較に加えつつみて いきたい。
そもそも原の辻は外から丸見えであり,入り口も複数ある点で両ディズニーランドとは全く異なっ ている。これは吉野ケ里でもあてはまるが,原の辻はより開放的であるといえよう。ただしこれは原
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の辻の特長でもあり筆者は否定しているわけではない。上述のディズニーランドにみる外部との視覚 的・意識的切り離しのうち,ここでは意識的切り離しのみを問題としたい。なお,入り口が複数,現 実的な見学者の動線を考えても南北の2つがあることはこれまでも当然考慮されており,「保存整備 基本計画」(1999年3月),「保存整備実施計画」(2003年3月)では,南北それぞれにガイダンス施 設が計画されていたが24) 実現していない。
原の辻一支国王都復元公園のメイン入り口といえる北からの入園に限って考えてみよう。そこには 明確なゲートなど何もない。外部との隔てはなく丸見えである。吉野ケ里歴史公園の場合,入場料を 徴収するために隔絶するゲートがあり,それは外部と視覚的・意識的に切り離す装置となっていると いえるだろう。
原の辻の入り口については,復元された集落の門とは違う位置であることにも注意したい。いわば,
柵を乗り越えて脇からディズニーランドに入り込むような,というといいすぎかもしれないが,入り 口が 物 語ナラティブの強化と関わっていないといえる。
そして,原の辻のメイン入り口(「導入エリア」)にはそもそも何ら 物 語ナラティブの説明がない。「祭儀場」
や「迎賓場」といったエリアにも 物 語ナラティブの説明はなく,何ら 物 語ナラティブに入り込むことなく歩を進め,復元 建物前に至ってしまう可能性がある。原の辻同様に明確な 物 語ナラティブが構築されている吉野ケ里に比べ,
解説板の類が極めて限られていることがその大きな要因と思われる。なお,原の辻では数少ない解説 板やパンフレットにQRコードが付され,携帯電話やスマートフォンでより詳しい解説を閲覧できる サービスがある。これは良い取り組みであると思うが,利用者はかなり限定されるのではないだろう か。
物 語ナラティブの印象的な提示として筆者が思い浮かべるのは滋賀県立琵琶湖博物館の「農村の暮らしと自 然」展示とアメリカ・マサチューセッツ州の野外博物館プリマス・プランテーションである。前者で は1964年5月10日の彦根市本庄町の冨江家(博物館屋内に移築)が再現され,後者では1627年の 同日のプリマス植民地が入植者を演じる人々まで加わって再現されている。再現≒復元の日時まで宣 言することで,(あたかも映画の中に入るかのように)見学者に 物 語ナラティブの世界に入ることを強く印象づ けていると考えられる。原の辻では 物 語ナラティブの複雑さに対してその提示力はあまりに弱い25)。
園内での 物 語ナラティブ提示を補うものとして,ガイダンス施設やパンフレットがあげられる。原の辻一支 国王都復元公園の北に隣接する原の辻ガイダンスには駐車場があり,多くの見学者はここを経由して 入園してくることが期待されている。ただし,館内の展示は特に 物 語ナラティブを提示しているわけではない し,ガイダンスに入館せずに帰ったり,公園を先に見学してからガイダンスに入館したりすることも 十分にありうる。一支国博物館もガイダンス施設といえるが,原の辻ガイダンス同様,特に 物 語ナラティブが 提示されているわけではないし,公園を先に回る見学者も多いだろう。また,原の辻ガイダンスで入 手できるパンフレットは 物 語ナラティブの説明を含むが,上でみたようにこれを持たずに公園に入ることも大 いにありうる。吉野ケ里歴史公園でもガイダンス施設は全見学者が入館するようにはなっておらず,
パンフレットには原の辻よりも簡単な説明しかない。しかし,それを補う仕組み(入園ゲート,解説 板)があるというべきであろう。
このように,原の辻一支国王都復元公園には外部との意識的な切り離しという空間的な仕掛けが欠 如しているということができる。具体的には,入り口があまりに開放的で,見学者の意識を外部から 切り離すものになっていないこと,入り口や各エリアで 物 語ナラティブの提示がないこと,またガイダンス施
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設,パンフレットによる 物 語ナラティブの提示も不十分であることなどが指摘できる。
Ⅳ おわりに
原の辻遺跡の周辺環境との調和はすばらしい。まさに弥生時代,「一支国」当時を彷彿とさせるも のである。一支国博物館のオープニング映像の演出―再現ドラマの最後に幕が上がって原の辻一支 国王都復元公園を窓からみせる―もそれをいかんなく活かしている。映像と窓の外の景観を連続さ せるという演出自体は大阪歴史博物館と同様だが,大阪が難波京当時からの変貌に気づかせるもので あるのに対し,原の辻は当時のままという感を抱かせる点で異なる。原の辻一支国王都復元公園にお いて完全な外部との隔絶,すなわち視覚的な切り離しはありえないし,すべきでもない。
ただ,現状の違和感を取り除くためには,物 語ナラティブを貫徹させる空間的な仕掛けがあったほうがよい。
見学者の意識を切り替えさせられるように入り口を整備すること,入り口や各エリアで解説板を充実 させたりパンフレットを全入園者が手にとれるようにしたりすることによって, 物 語ナラティブがより明瞭に 入園者に伝わるようにすること,また場合によっては原の辻ガイダンスの展示を公園の 物 語ナラティブと合致 させることが考えられよう。
本稿は原の辻一支国王都復元公園の復元展示の問題点をテーマパーク論の視点から少々検討して きた。原の辻遺跡の整備をめぐっては,当初から,カラカミ遺跡や古墳群,元寇関連遺跡など他の文 化遺産とのネットワークづくりまでが目標として掲げられている26)。そうしたいわば島全体の「オー プンミュージアム」化の中で,原の辻遺跡がどのような位置を占めるのか,またその 物 語ナラティブは維持さ れるのか,それとも改変を迫られるのかも興味深い課題といえよう。
注
1) 七田忠昭「史跡の実物大復元・整備―吉野ケ里遺跡整備の現状と課題」日本歴史754,2011,63頁。
2) 納富敏雄『吉野ケ里遺跡―保存と活用への道』吉川好文館,1997,103頁。
3) 矢野和之「歴史的建造物復元とカルチャーツーリズム」(西山徳明編『文化遺産マネジメントとツーリズムの
現状と課題』国立民族学博物館,2004)175-193頁。
4) 長崎県教育庁原の辻遺跡調査事務所編『原の辻遺跡総集編Ⅰ』長崎県教育委員会,2005,333-335頁。
5) ブライマン,A.(能登路雅子監訳・森岡洋二訳)『ディズニー化する社会―文化・消費・労働とグローバリゼ
ーション』明石書店,2008(原著2004)40頁。
6) 文化庁文化財部記念物課監修『史跡等整備のてびき―保存と活用のために 計画編』同成社,2005,40頁。
7) 山 泰幸「遺跡化の論理―歴史のリアリティをめぐって」(土生田純之編『文化遺産と現代』同成社,2009)
95頁。
8) 以下の学史・調査経過に関する記述は『原の辻遺跡総集編Ⅰ』による。前掲4)20-39頁。
9) 「原の辻遺跡調査研究・保存活用事業 事業評価調書[途中評価](平成26年度)」による。https://www.pref.
nagasaki.jp/sehyo/h26/detail/pdf/tyosho1/8/28.pdf(2015年4月2日閲覧)。
10) 壱岐市教育委員会『特別史跡原の辻遺跡―第Ⅰ段階整備事業報告書』壱岐市教育委員会,2011,8-9頁。
11) 財団法人文化財保存計画協会編『国指定史跡原の辻遺跡保存整備基本計画報告書』原の辻遺跡保存等協議会,
1999。
12) 原の辻遺跡保存等協議会編『特別史跡原の辻遺跡保存整備実施計画書』原の辻遺跡保存等協議会,2003。
13) 前掲11)14-23頁。
14) 前掲10)141頁。
15) 前掲10)71頁。
16) 前掲10)71・144-150頁。
17) 前掲10)176-177頁。
18) 前掲10)142-173頁。
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19) 能登路雅子『ディズニーランドという聖地』岩波書店,1990,34頁。
20) 前掲19)34-39頁。
21) 前掲19)42頁。
22) 吉見俊哉「遊園地のユートピア」(吉見俊哉『リアリティ・トランジット』紀伊国屋書店,1996(原著1989))
50頁。
23) 前掲22)52頁。
24) 前掲11)61頁,前掲12)27-28・66頁。
25) 物語の提示力に関連して1つ付け足すならば,原の辻一支国王都復元公園では予算・管理上の問題と思われ るが,復元建物の中に吉野ケ里にみられるような人形がない。上述した人々の階級,衣服,各戸別の家族構成 など物語を支える詳細な設定が実際の復元展示には生かされていないといえる。
26) 前掲11)31-36頁など。