『道化師』 について ‑カール ・ エーミール ・ フランツォース試論 (3)
著者 伊狩 裕
雑誌名 言語文化
巻 5
号 2
ページ 177‑205
発行年 2002‑12‑31
権利 同志社大学言語文化学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000004386
『道化師』について
−カール・エーミール・フランツォース試論 (3)
伊 狩 裕
1
イェーリングを追悼した翌1893年、フランツォースは遺作となる作品『道 化師−ある東方の物語』(Der Pojaz. Eine Geschichte aus dem Osten.以下『道化 師』と略す)を完成する。構想から20年を要し、この作品はフランツォース にとって初めての、そして最後のロマーンとなった。ロマーンとノヴェレの 違いについてフランツォースは次のように定義する。「作品の外見上の規模 だけではなく、内的な本質に関しても(ロマーンとノヴェレには)違いがあ る。ノヴェレは、空間的のみならずテーマにおいても狭く限定された、ひと つの生の断片を叙述する。それに対してロマーンは、それがロマーンの名に 値する限り、この生の全体的な反映である必要がある。」1)すなわち、「生の 断片」、「生の全体的な反映」という言葉によってフランツォースが語ろうと したことを言い換えれば、生の時間軸をひとつの出来事によって輪切りにし た断面のなかで人間を描くのがノヴェレであるのに対して、生を時間軸に沿 って、生の流れそのもの、人生の全体を出来事として描くのがロマーンであ るということである。おそらくこのときフランツォースの頭の中にあったモ デルは『ヴィルヘルム・マイスター』であろうし、「ロマーン」という言葉 をさらに限定して、「 教 養 小 説」という術語を使えばフランツォースが『道 化師』において試みようとしたことはいっそうはっきりする。ノヴェレの作 者は、「断片に通じてさえいればよい」が、ロマーンの作者は「叙述される べき全体の生を、その全体的なあるいはもっとも重要な諸関連において支配 していることが必要」であり、『道化師』執筆にさいしてフランツォースは、
「言語文化」5-2:177−205ページ 2002.
同志社大学言語文化学会©伊狩 裕
「 外 的 に も 内 的 に も 十 分 ユ ダ ヤ の 生 活 を 知 っ て い る と い え る ま で 躊 躇 し・・・ユダヤ民族の心をこれまで以上に深く探究しよう」2)としたため、
完成までにこれほどの時間を要したと述べている。
この物語においてフランツォースが描こうとした「生の全体」とは、19世 紀半ばのガリツィアを生きた一人のユダヤ人青年の半生であったが、それを
「全体的な、あるいは最も重要な諸関連において」描き出すために、物語は 主人公の父祖の代、すなわち18世紀末まで溯る。舞台となるのは、北はコヴ ノ(現リトアニアのカウナス)から南はチェルノヴィッツ(現ウクラナのチ ェルニフツィ)におよび、東欧ユダヤ人と呼ばれた人々が居住したほぼ全域 を覆っている。主人公は道化師(Pojaz3))とあだ名されたゼンダー・グラッ トアイスであるが、フランツォースは、主人公の才能を動機づけるために主 人公の父メンデレ・グラットアイスの生涯から物語を開始する。
ゼンダーの父メンデレは、1795年4)リトアニアのコヴノに生まれた。両親 は彼をタルムート学者にするつもりであったが、メンデレは生来、放浪の癖 と他人の物真似の才を備えており、一所に留まっていることができず、結局 は親に勘当され「浮浪人」(Schnorrer5))となるのである。
「浮浪人」というのは、リトアニアからガリツィア、ロシア、ルーマニア にいたるまで、東欧各地に周辺諸民族から孤立して点在したユダヤ人コミュ ニティの間を、芸と情報を売り歩きながら、同時に各地のコミュニティ相互 のネットワークの役割を果たす存在であった。「東方のユダヤ人たちの中に はそのような放浪者がたくさんいた。千人、数千人の東方ユダヤ人たちが、
このように自らすすんで極貧の運命を選び、・・・故郷も妻も子供も含めす べての財産を断念する。」「自分のものと呼べるものは何一つ持たない」浮浪 人という生き方を彼らが選ぶのは、「怠惰と労働忌避」からではない。一つ にはこの民族が古来、放浪を好んできたということ、もう一つは、自分たち は定住者たちに求められている(「浮浪人のいないサバトとはいったいなん だろう」)という自負心が浮浪人という生き方を支えてきたのである6)。行商 はユダヤ人に典型的な生業であったが、浮浪人は、芸と情報という、いわば 形のない商品を売り歩く行商人であり、フランツォースはそれをもっともユ ダヤ的な生き方と見ている。東方ユダヤ人は19世紀末から西欧、合衆国に大
挙して移住してゆき、彼の地で「芸」=エンターテイメント(たとえばハリ ウッド)と「情報」=出版・ジャーナリズムの世界で主導的な地位を築いて ゆくことになるが、ガリツィアの「浮浪人」たちは、そんなユダヤ人の20世 紀を予言するかのごとく、芸と情報伝達という二つの才を一身に体現する存 在であった。しかしこの二つは「浮浪人」においては未分化であり、情報と いっても客観性より娯楽性に重きが置かれていたのであった。フランツォー スは、「浮浪人」の機能を次のように要約する。
本物の浮浪人は、同時に何でもできなくてはならい。すなわち、漫談 家であり、歌手であり、役者であり、そしてなかんずく生きた、二本 足の新聞でなくてはならない。印刷された新聞よりもこの新聞が優れ ている点は、定期購読者が簡潔に要領を得たいと望むならば十二折版 で、あるいは詳細を知りたいと望むならば二つ折版でといったぐあい に、常に購読者の望み通りのかたちで発行されることなのである。よ くわからないときには質問もできるので、購読者は知りたいことをい つでも知ることができるし、ジョークの愛好家にはジョークが提供さ れ、国家の歴史はほんの付け足しとなる。ゲットーの政治家は長大な 論説記事や、いま話題の外交事件を心ゆくまで味読することができ、
文化欄に煩わされることもない。印刷された新聞にはいつも真実しか 書いてないが、浮浪人はもちろんしょっちゅう嘘をつく。印刷された 新聞の論説記事にあっては、どれをとっても、一つの出来事に関して 理性的な人間が抱くことのできる唯一の見解が見いだされるのに対し て、浮浪人の事実理解は往々にして主観的で、それどころか一面的で さえある。
しかしその代わり彼は、全国紙でさえも満たしてくれない特別の役割 を果たすのである。というのは、歌ったり一人芝居を上演したりして くれる新聞はないし、他のどの新聞よりも多くの奇譚を一度に提供し てくれるし、一日に3度もシーツの大きさで発行されるからである。7)
東方ユダヤ人とスラブの農民たちは、同じようにガリツィアの「汚泥にま
みれた町で、単調な、くすんだ生活を送っていた」とはいえ、ユダヤ人たち はスラブの農民たちとは違って、「ヘブライ語を読み書きすることができ」、
「トーラーやタルムートによって悟性を研ぎ澄まされていた」ので知識欲が 旺盛であった。ユダヤ人たちは、「世界で何が起きているのか、ドイツとフ ランスは条約を結んだのかどうか」を知りたがり、「80年前であれば、ナポ レオンはまだセント・ヘレナから戻ってこないのか、あるいは今日であれば、
ビスマルクはふたたび帝国宰相になったのか」を知りたがった。こうした欲 求に浮浪人はあたかも見てきたかのように答えてくれた。「ゲットーには印 刷された逸話集もコンサートも劇場もなかった」から、「歌や流行歌、劇に 飢えている」者の欲求も浮浪人は満たすことができた。8)
ナポレオンの動静もビスマルクの言動も、ペストやポグロムの情報も「浮 浪人」によって各地のユダヤ人コミュニティにいち早く伝えられ、ある地方 の流行り歌も、「浮浪人」によって瞬く間に東方ユダヤ人全体の間に広まっ た。「浮浪人」のお陰で、東欧全体に孤立的に点在していたユダヤ人コミュ ニティはほぼ同じ時間と情報とを共有し、互いに遠く隔たっていても連帯感 を維持することができたのであった。ベネディクト・アンダーソンは、「国 民という想像の共同体」の文化的根源となった「同時性」を産み出したもの として、活字メディア(本、そして「本の極端な一形態」である新聞)の普 及を挙げている9)が、東欧ユダヤ人のコミュニティ間に同時性と連帯感を創 りだし民族意識を支えていたのは活字メディアではなく、まさにこの「生き た、二本足の新聞」、すなわち「浮浪人」というメディアであった。もちろ ん、それを可能としていたのはイディッシュという共通語であったのだが。
そのため東方のユダヤ人は自分たちの「浮浪人」を必要としているし、
これら放浪者のなかには、文字通り顧客を選別することができ、彼を 客人として歓迎したくても誰にでもそれが叶うというわけではない浮 浪人たちが沢山いるのである。そういう浮浪人を迎えることができる 者のところにも、彼は一日以上は滞在しないし、比較的大きな街にも 彼は一週間ととどまらない。彼はじっとしていられず町を後にするの であるが、そこには計算と自尊心も働いていた。すなわち、彼は常に
目新しく、魅力的で、歓待される存在でありたいのである。10)
「浮浪人は、ひそかな自尊心の中で定住者を見下し」、「パトロンよりも自 分の方が聡明で、機知に富んでいて、教養があるばかりでなく、・・・高貴 なのだ」11)という矜持を常に持ち合わせていたし、自由であるという点にお いても、中世のお抱え宮廷道化師よりも自分たちのほうがはるかに優ってい るという誇りを持っていた。しかし「浮浪人」は人気商売であり、彼らの間 には当然、人気の高低が生じたが、ゼンダーの父親メンデレは、東方ユダヤ 人世界で知らぬ者のない、もっとも人気のある「浮浪人」、すなわち「浮浪 人の王」12)といわれるまでになったのであった。
「浮浪人」として自らに妻帯を禁じていたメンデレであったが、同情心か ら養女とした孤児ミリアムを妻とすることになる。「茂みの陰で死ぬだろう」13)
(すなわち「行き倒れになる」)という、父親の予言とも呪いともつかぬ遺言 の通り、メンデレは、黒海を目指す旅の途上で、我が子の誕生を待たずに息 を引き取る。「子供は、私の父に因んでゼンダーと名づけよ。まっとうな人 間に育てよ。自分のなりたいものになるがよい。ただし『浮浪人』にだけは するな」14)、というのが主人公ゼンダーの父の最後の言葉であった。母親ミ リアムも、ガリツィアのバルノフ近郊でゼンダーを産むとじきに息を引き取 り、ゼンダーはその町の通行税徴収請負人であるユダヤ人寡婦ローゼレの子 供として育てられることになる。
物語はこのあと第3章からゼンダーの成長を追う教養小説の趣を帯びてく る。父の遺言にもかかわらず、長ずるにつれゼンダーは、父親譲りの物真似、
そして演技の才能を発揮し、「まっとうな人間」に育て上げようとする養母 ローゼレの努力にもかかわらず、ゼンダーの職人修行は長続きしない。才能 の正当な捌け口を見出せないゼンダーは、演技と物真似の才能を、他人をか らかったり悪戯することに浪費し、ゲットーの人々から「道化師」とあだ名 されるようになる。だがやがて、「ユダヤ人が標準ドイツ語を話し豚肉を食 べているような不潔な町」15)チェルノヴィッツで演劇に初めて触れたゼンダ ーは、そこに自らの天職を見出し、ゲットーを出てドイツの劇団の俳優を志 すことになる。しかし結局は病に倒れ志を遂げることができないままゼンダ
ーはその人生を終える。
2
主人公ゼンダーは、ゲットーの中で育ち、フランツォースは同化ユダヤ人 としてゲットーの外で育ったという点で、作者と主人公の、ユダヤ人として の境涯は対照的である。それは序文の中で次のように描写されている。
私がまだ小さかったころ、父は私にいった;「おまえは民族としては ポーランド人でもないしルテニア人でもなく、ユダヤ人でもない。お まえはドイツ人なのだ。」しかしその頃おなじようによく父が口にし たのは、「信仰からしておまえはユダヤ人なのだ」という言葉だっ た。・・・・・私は、ドミニカ派の修道院のなかにあった、町で唯一 の学校に通った。そこで私はポーランド語とラテン語を学んだ。ドイ ツ語は父が自ら私に教えてくれた。・・・・・私の同級生、遊び仲間 はキリスト教徒であった。ユダヤ人の家庭に行くことはほとんどなか ったし、シナゴーグには一度も足を踏み入れたことはなかった。ユダ ヤの慣習も食事の規則も私の両親の家では守られてはいなかった。私 はまるで孤島で育てられているようであった。信仰と言語によって私 は同級生たちから区別され、同じものが私をユダヤ人の子供たちから も区別したのであった。私はユダヤ人であったが、彼らとは別のユダ ヤ人であった。私には彼らの言語は全然理解できなかった。・・・私 はドイツ人であると同時にユダヤ人であった。私は両者のもっとも優 れた点、高貴な点だけを聞かされ、私の忠誠心は熱狂的なまでに燃え 上がった。ときにユダヤ人の子供に汚物を投げつけられ、背教者と罵 られることもあったが、そんなときには、「だからこそあの子はおま えの同胞なのだ。あの子のことを呪ってはいけない。自分のしている ことが分かっていないだけなのだから」と教えられた。もちろんこれ まで以上に同胞に近づくことは許されなかったが、付き合ってみたい という気持ちも少しはあった。だが私が試みたささやかな接近も悲惨
な結果に終わった。カフタンの少年たちは私を打ちのめし、罵った。16)
フランツォースが生まれ育ったチョルトコフ(作品中のバルノフ)の町は、
当時のガリツィアの多くの町がそうであったように、人口のわずか四分の一 ほどのポーランド人が、人口の六割を占めるユダヤ人、二割ほどのルテニア 人(ウクライナ人)を支配していた。町で唯一の、ドミニカ派修道院の学校 もポーランド人のための学校であり、フランツォースは「ポーランド語とド イツ語が同じくらいよくできた」17)とはいえ、家庭内ではドイツ語が使われ ていた。その家庭では、「ユダヤの慣習も食事の規則も」守られてはいなか ったが、「信仰からして」フランツォースはユダヤ人であると教え込まれて 育ったのであった。他方、「ドイツ人であると同時にユダヤ人」として、「ユ ダヤの慣習も食事の規則も」守られない家庭で育てられた少年フランツォー スは、ユダヤの戒律を厳格に守るハシディームのゲットーで育ち、イディッ シュ語を話す少年たちから見れば、「別のユダヤ人」であった。「背教者」と 罵りながら自分に汚物を投げつけてくる少年たちは、近づくことも許されな い禁忌の対象とされる一方、誰も同胞ではない者を「背教者」と罵りはしな い、すなわち、「背教者」と罵るからこそ「あの子はお前の同胞なのだ」と も教え込まれ、少年の頭にその理屈が理解できたかどうかは別として、彼ら は、「付き合ってみたいという気持ち」さえ呼び起こす矛盾背反した存在で あった。フランツォースが『道化師』において描こうとしたのは、かつて自 分に「汚物を投げつけ」、自分を「打ちのめし」た、このようなゲットーの 禁忌の同胞ゼンダーの生であったが、作者フランツォースは、主人公ゼンダ ーの生涯に、以下に見るように、自らの人生において決定的な意味を持った 体験を重ね合わせてゆく。すなわち、出自と境涯の違いにもかかわらず、フ ランツォースはゼンダーを自らの分身として造形しようとしていたのであ り、ある意味で『道化師』はフランツォースの自伝であった。
『道化師』の完成と前後して、フランツォースは自伝的粗描を二度試みて いる。ひとつは上に引用した『道化師』の序文においてであり、もうひとつ は、ほぼ同時に執筆されたと思われるが、『道化師』完成の翌1894年に出版 された、『私の処女作「バルノフのユダヤ人」』(以下、『私の処女作』と略す)
というエッセイの中においてである。「半アジア」の作家として、しかも半 ばジャーナリストとして、ガリツィアを中心とした東ヨーロッパを舞台とす るノヴェレを中心に書いてきたフランツォースは、他方で、自らの生を表現 の対象とすることを考えていた。上にあげた、事実に即した二つのエッセイ 風の自伝では語り得ぬ部分を何らかの形で表現したいとフランツォースは考 えていたのである。そしてそれは、ゲットーの少年に自らを投影するという 形をとったのであった。二つのエッセイ風の自伝的素描を事実の自伝と呼ぶ なら、『道化師』は、フランツォースが別のユダヤ人としてゲットーに生ま れていたならば起こりえかもしれない人生の自伝、いわば仮想された自伝で あった。
3
時計職人の見習いを失敗し、次の仕事として御者の見習いをしていた二十 歳のゼンダーは、客を運んで行った先のチェルノヴィッツで生まれて初めて 演劇というものを観る。演し物は『ヴェニスの商人』であったが、そもそも 演劇というものを知らないゼンダーは、その約束事も知らなければ、虚構と 現実との区別も覚束ない。
やっと幕が上がった。不思議なことにそれはひとりでに上ってゆくよ うに見えた。幕を引っ張り上げている人間は見えなかった。
「往来だ」と私が叫ぶと周りの人々は私の方を見て笑い始めた。18)
常日頃はユダヤ人シャイロックを蔑み虐待してきたアントーニオーがシャ イロックに借金を申し込みに来る場面では、ゼンダーは、「このアントン
(アントーニオー)という男はポーランド人に違いにない。彼らはいつも金 が入り用になるとこうやって擦り寄ってきて媚びるのだ」19)、とガリツィア の現実を持ち込む。そして第2幕第2場、ジェシカが父シャイロックを欺き、
愚弄する場面で、客席は歓声を上げる。ここでゼンダーは、「あれは悪い女 だ。罰せられるべきだ」と叫び、回りの観客に笑われる。そして結末で、
「何という不正」、「こんなものはこれ以上見ていられない」と叫んで席から
立ち上がり拳を振り回す20)。ここには、フランツォースが『私の処女作』に 記録している、10才のときの初めての演劇体験がそのまま投影されている。
しかもそれは、フランツォースを初めて書くことに向かわせた体験として、
「消すことのできない思い出」となったのであった。
1858年の春、ドイツのどさ回りの一座がチョルトコフにやってきたと き、同級生で薬屋の息子ルートヴィヒ・ロスが彼の両親とともに私を 公演の初日に誘ってくれたのであった。私の両親は服喪中であったの だが、私は両親にせがみ、なんとかロス一家に連れて行ってもらうこ とを許してもらった。この初めての観劇は私にとって消すことのでき ない思い出となった。上演されたのはモーゼンタールの『デボーラ』
であった。熱に浮かされたように興奮して私は上演に見入った。演 劇!しかもユダヤ人が扱われているのだ!だが残念なことに私はすで に第2幕の終わりで悲劇的な破局に襲われてしまった。教師役が登場 し、「我々の国にユダヤ人はいらない」と叫ぶと、数人のポーランド 人が拍手喝采し、私の隣に座っていたルートヴィヒも拍手喝采したの であった。私はびっくりして飛び上がり、彼の横っ面に平手打ちを喰 らわせたので彼はベンチから落ちてしまった。騒ぎが起こった。ユダ ヤ人たちとキリスト教徒たちが笑っていた。私には極めて恐ろしい罰 が下された。憤慨した薬屋が私をつかんで劇場からたたき出したので あった。その夜私は目を閉じなかった。というのも怒りと苦しみが静 まると、あの後あのすばらしい作品がどのように進行したのか想像せ ずにはいられなかったからである。翌朝、頭の中に残っていたことを 書き付け、私流に完成させようとした。完成には至らなかったが、こ の一座は私に初めて自分の作品を書かせたといえるであろう。私の最 初の観劇の夕べによって私は罪人になったばかりでなく、私の信仰の 殉教者となったのであった・・・。21)
「書くこと」が「ユダヤ人であるということ」と一つに結ばれているとい う意味において、これはフランツォースにとって重要な体験であった。フラ
ンツォースにとって作家としての出発点となった『キリスト像』(Das Christusbild)という短編を書かせたのも、自らが「ユダヤ人であるというこ と」に起因する体験であった。すなわち、『キリスト像』の主人公は、ユダ ヤ人であるがゆえにキリスト教徒の女性との結婚を断念せざるを得なくなる 教師の物語であるが、これはフランツォース自身の二十歳のときの体験に基 づいていた。「消すことのできない思い出」をフランツォースに刻みつけた モーゼンタールの『デボーラ』という作品については、『道化師』の中にも 取り入れられているので、のちに触れる。
ゼンダーは、『ヴェニスの商人』を上演した劇団の座長アードルフ・ナー ドラーに喜劇役者になりたいと申し出るが、ナードラーは、故郷に帰り二年 間でドイツ語を習得するように忠告する。ゼンダーは忠告に従い故郷バルノ フに戻るが、そこは、「ドイツ語の本を読むことは禁じられ」、それは「神に 対する罪」22)とされ、「ドイツ語の読み書きができるなどとは一生の恥」、
「害毒」23)と信じるハシディームのゲットーであり、表立ってドイツ語を学 ぶことはもちろん、ドイツ語の指導者を捜すことすらできなった。あるとき、
町の郊外のバルノフ山の城址で人目を忍んでモーリッツ・ハルトマンの『坊 主マウリツィウスの韻文年代記』(Reimchronik des Pfaffen Maurizius.以下
『マウリツィウス』と略す)を読んでいる若い兵士をゼンダーは偶然に見つけ、
彼からドイツ語を学ぶことになる。この兵士は、バルノフの町に駐屯してい たオーストリア軍の輜重兵で、ハインリヒ・ヴィルトといった。ヴィルトは、
1848年のウィーン革命に大学生として参加し、捕らえられ、「初め死刑を宣 告されたのだが、恩赦によって終身一歩兵として輜重隊に配属された」24)の であった。彼は、これも懲罰として、「動物のように、機械のように従順に なるように」25)読書は禁じられていたので、非番になると廃墟にやってきて は密かに禁断の書『マウリツィウス』を読んでいたのである。ゼンダーはヴ ィルトから、『マウリツィウス』をテキストとしてドイツ語を習うことにな る。
ハインリヒ・ヴィルトという名は、フランツォースの人生と思想に、父親 についで決定的な影響を与えた少年時代の家庭教師の名であった。家庭教師 ハインリヒ・ヴィルトの姿は、『私の処女作』のなかで次のように描写され
ている。
「この子(フランツォース)はくよくよしすぎる」と父は嘆いたが、
もっと心配であったのは、私の過剰な空想癖であった。私は、「今日、
雲の中に神様が見えたよ」と言ったり、マリニア(ルテニア人の乳母)
が話してくれたメールヒェンを自分自身の体験として話し、姉たちか ら嘘つき呼ばわりされた。父は姉たちのような態度はとらなかったが、
当初考えていたよりも早く私のために教師を雇い入れ、彼に次のよう な教育方針を示した。「できるだけ多くの時間を算数にあてること。
メールヒェンは御法度だ!」哀れな輜重兵ハインリヒ・ヴィルトはそ れを誠実に守った。だが、私が作家になったについて彼が共犯に問わ れなければよいがと思う。この不幸な男は1848年の学生の一人で、罰 として軍隊に入れられたのであった。私は彼から7年間にわたって、
読み書き計算ばかりでなく、私が当時理解できるかぎりで自由を愛し 反動を憎むことを学んだ。私はなんと熱狂したことか。ウィーン制圧 のことを考え夜も眠れないことがよくあった。26)
すなわち、フランツォースの家庭教師ハインリヒ・ヴィルトは、名前だけ でなく、「1848年の学生の一人で、罰として軍隊に入れられ」、ロシア国境が 20㎞に迫る辺境の町チョルトコフの駐屯地27)に送られてきたという境遇もそ のままに『道化師』のなかに取り入れられたのであった。フランツォースは、
ここに『マウリツィウス』を引用することによって、当時家庭教師ハインリ ヒ・ヴィルトから学んだ1848年の精神、すなわち「自由を愛し反動を憎むこ と」を象徴的に示そうとしているのである。
『マウリツィウス』の著者、ボヘミア生まれのユダヤ系ドイツ人モーリッ ツ・ハルトマンは三月前期にすでに政治的叙情詩人として知られていたが、
1848年三月革命が起きると、プラハのヴァーツラフ浴場における市民集会で、
126名の「国民委員会」(初め「ヴァーツラフ委員会」)のメンバーに選ばれ、
市民的自由の承認に関する皇帝への請願文の起草に加わり、5月にはフラン クフルト国民議会の代議員に選ばれ、そこでは共和制憲法を備えた統一ドイ
ツを求める最左翼の立場に立ち論陣を張る。同年10月、帝国からの独立を求 めるハンガリー王国を支持してウィーンの急進的市民、プロレタリアート、
学生が蜂起すると、フランクフルト国民議会左派は、ローベルト・ブルーム、
ユリウス・フレーベル、アルベルト・トランプシとともにハルトマンを、革 命派支援のためにウィーンに送り込み、ハルトマン、ブルーム、フレーベル の3人は市民蜂起に加わる。だが10月31日、ウィーンはヴィンディッシュグ レーツ将軍によって制圧され、ハルトマンはブルーム、フレーベルとともに 逮捕され、ブルームは戒厳令下の即決裁判によって処刑され、フレーベルは 釈放、ハルトマン自身は、今日でも詳細は不明であるが難を逃れ、再び、フ ランクフルトの国民議会に姿を現す。このときの昂揚は、翌年匿名で出版さ れた『マウリツィウス』にそのまま流れ込み、そこでは革命の正当性が高ら かに宣言され、
彼らは戦いたいから戦うのである
彼らの偉大で神聖なもののために戦うのである 歴史の役割の中で
炎のように輝きたいからではない 彼らは自由の神のために戦う
ドイツと来るべき日々のために戦う。28)
市民たちの殉教が讃えられ、
誰一人として自分が英雄であることを知らない 自らの受難が神聖なものであることを知らない そして銃弾に倒れると
慎ましく死に赴く29)
犠牲者たちに哀悼が捧げられ、
まどろんでいる者たちに平和を!
死者たちに安寧を
彼らは地中で安らいでいる
彼らは今ようやく手に入れた自由を喜んでいる まどろんでいる者たちに平和を!30)
反動が呪われ、
誓約を破った者たちに呪いを
彼らは神聖の名に値するすべてのものを 恥らうこともなく押し殺したのだ 歴史の精神の前に
彼らは赤面することもない 誓約を破った者たちに呪いを31)
激しい戦いのあとのウィーンの惨状がうたわれ、
わが哀れなウィーンよ、お前は蹂躙された 完全に蹂躙され、破壊された。32)
・・・
殺戮を重ねた血だらけの拳の下で ウィーンは激しく圧殺され
静かな、静かな墓地となってしまった 怯える妖怪のでる墓地では
決して安らぐことのできない幽霊たちが 墓石の上を舞う33)
虐殺された同志が回想され、
ヘルマンよ、君は貧しく、もの静かな思索家だった 私たちは夜ごと、薄暗い蝋燭を挟んで腰を下ろし、
互いの心の中に自由の炎をかき立てたのだった ああ、そのとき誰が考えただろうか
君の命運が執行吏によって絶たれてしまうなどと34)
そしてフランクフルトから行動をともにしてきた盟友、処刑されたローベル ト・ブルームが招魂される。
神話が生まれた。ローベルトは生きている。
やつらに撃ち殺されたあのローベルト・ブルームは生きている35)
少年フランツォースは家庭教師ハインリヒ・ヴィルトからこのような革命 の神聖と悲惨を聞かされ、「当時理解できるかぎりで自由を愛し反動を憎む ことを学」び、「ウィーン制圧のことを考え夜も眠れない」ほど「熱狂した」
のであった。そして自分が作家になったについては、ハインリヒ・ヴィルト の影響が大きく関わっていることをフランツォースは告白している。フラン ツォースが当時『マウリツィウス』を読んだか否かは問題ではない。フラン ツォースはここにハインリヒ・ヴィルトと『マウリツィウス』を引用するこ とによって、自分の人生を決定した人物と思想を記録したのである。
ところで、ゼンダーは、少年フランツォースのようには『マウリツィウス』
に熱狂することはない。ハシディームのゲットーに育ったゼンダーは、啓蒙 されて育った同化ユダヤ人の少年フランツォースとは違って、歴史や革命を 理解するための基礎知識を欠いている。すなわち、「この少年(ゼンダー)
の歴史的な知識は、聖書の物語と1848年の出来事に限定されていた。その間 に立ちこめる霧の中からは皇帝ティトゥスとナポレオンの名前が浮かび上が って来るだけであった。彼らは、一方はユダヤ人の敵として、他方はユダヤ 人の味方として、世間から隔絶したゲットーの片隅でも不滅の生命を保って いたからであった。」36)しかし48年の出来事にしてもゼンダーは「革命」と いう言葉と「憲法」という言葉を取り違えて理解している。「皇帝が偉大な 革命をくださった。」「ウィーンの学生たちは皇帝の窓に向かって石を投げつ けました。だけど皇帝は彼らを許したのです。そればかりか彼らに偉大な革
命を与えたのでした。」「皇帝はふたたび革命を取り戻しました。なぜなら学 生たちがふたたび皇帝に対して無礼を働いたからです。」37)反動がユダヤ人 の権利も縮小したとヴィルトが説いても、初めて「反動」という言葉を聞い て女の名前かと問い返すゼンダーには事態を理解することができない。ヴィ ルトは挫折した革命の敗北感、反動の中での屈辱感を伝えようとするが自分 の演劇的使命しか頭にないゼンダーにはうまく伝わらない。フランツォース はここで安易にゼンダーを啓蒙してしまおうとはしないのである。これは次 の『賢者ナータン』のシーンにおいても変わらない。
作中のハインリヒ・ヴィルトは、『マウリツィウス』を所持していたこと が発覚し、ゼンダーと出会った数ヵ月後に処刑され、ゼンダーはドイツ語を 独学せざるを得なくなるのだが、ドイツ語の書物は、たとえ購うことができ てもそうすることはゼンダーには許されないことであった。そこでゼンダー が思いついたのはドミニカ派修道院の書庫であった。ゼンダーは、ユダヤ人 として、「この建物の中に入ることは死罪に値するといわれて育った」38)の であったが、幼馴染のルテニア人で、修道院の寺男をしているフェドゥコを、
彼の好物であるスリボヴィッツ(スモモからつくった蒸留酒)で籠絡し、ひ そかに修道院の書庫に出入りできるよう手引きさせる。そこでゼンダーは、
以前ヴィルトから偉大な詩人であると聞かされていたレッシングの『賢者ナ ータン』を見出す。そして啓蒙主義の精華として知られた「三つの指輪」の 寓話を読み、「美しい物語だ。すばらしい物語だ。すぐにでもほかの人々に も伝えたい。なんと含蓄に富んでいることか」と感激する。「宗教的偏見の 目隠しが、よそではめったに見られないほどしっかりと哀れな人間の目を覆 っている」ガリツィアのユダヤ人ゲットーに生まれ育ったゼンダーにとって、
それは、「彼の知らないよその世界、純粋な人間性の世界であった。」しかし、
「彼自身は素直にこの物語に従うことはできなかった」のである。「みなそれ ぞれ、なにものにも左右されない、偏見のない愛を求めよ」というナータン の警告も、「たとえその意味が彼に完全に明らかになったとしても、彼にと っては実現不可能であった。」39)なぜなら、ゼンダーはつぎのように考える からである。「ナータンは、ユダヤ人もキリスト教徒もトルコ人も立派な人 間たりうるし、誰も自分だけが正しいと信じてはならないということを証明
しようとしているが、その点では彼は正しい。だがナータンがどの信仰も正 しいと言おうとしているならば、それは私には間違っているように思われる。
私はポーランド人に反感を持ってはいないし、彼らが私をそっとしておいて くれるならばそれで満足だが、しかし彼らの宗教が私の宗教同様正しいと信 じることはできない。というのも、なぜ私は、みんなが罵り圧迫するのにユ ダヤ人であり続けるのか?もし彼らの宗教が私の宗教同様正しいなら私はす ぐにでも洗礼を受けることができるではないか!レッシング氏がユダヤ人に たいへん正当な意見をしゃべらせているのは立派である。人々はそれを聞き それから考える;『なぜ私たちはユダヤ人を憎まなくてはならないのだ。彼 らは私たちを憎んではいないではないか。』それはいい。たいへんいいこと だ。ただ残念なのは、すべてのポーランド人にドイツ語が分かるわけではな いと言うことだ。」40)すなわち、ゼンダーは、どの信仰も正しい、あるいは カトリックの信仰がユダヤ教と同様に正しいなどと考えることは到底でき ず、ガリツィアの現実のなかでは、ナータンに耳を傾けなくてはならないの は、披抑圧民族である自分たちユダヤ人ではなくポーランド人のほうである、
というのである。作者フランツォースは、啓蒙主義者として、「この警告が もう一方の側(すなわちユダヤ人の側)にも必要かもしれない、ということ に彼(ゼンダー)は思い至らなかった」41)、という批判的な一言を付け加え ることを忘れはしないが、しかしここでも、『マウリツィウス』の場面同様、
ゼンダーの啓蒙は留保される。ナータンが語る啓蒙の理念は確かに「美しい」
し、「すばらしい」かも知れないが、しかし被差別、被抑圧の抜き差しなら ぬ現実がゼンダーにはある。この現実の重みが、自らの位置を相対化したり、
いったん自分の立場を離れて対象化したりというような悠長な態度を許さな いことをフランツォースは知悉している。
外から知識人が持ち込む啓蒙主義が、抑圧者に対してであれ被抑圧者に対 してであれ、19世紀末のガリツィアという現場でいかに無力であるかという ことを、フランツォースは四半世紀の作家、ジャーナリストとしての活動を 通じて思い知らされていた。すでに本「試論(1)」42)において述べたよう に、ドイツ文化、すなわち、啓蒙主義と教養の理念を通じて、「民族性と宗 教のあらゆる相違を超越」43)することを目指したフランツォースの戦いは、
ナショナリズム、すなわちフランツォース自身の言葉で言うなら「宗教間の 憎悪と人種憎悪」44)が吹き荒れる19世紀末のガリツィアでは、「敗北ばかり をおさめ、勝利することはほとんどなかった」45)のであり、「西欧において ひどく追いつめられているドイツ文化は東方においては完全に地に墜ちた。
偉大なハプスブルク家のヨーゼフ2世が蒔き、彼の後継者たちも決して疎か にすることはなかったあの高貴な種子は今日では踏みにじられ砕かれ、雑草 が図々しくも楽しげに生い茂っている。疑いなく、ドイツ文化の国家オース トリアの夢は実際終わったようだ」46)というのが、『道化師』執筆当時にフ ランツォースが到達していた認識であった。ゼンダーの蒙昧はフランツォー スの自己批判である。古典的・楽天的啓蒙主義はすでにその歴史的使命を終 えていた。その認識が、ハインリヒ・ヴィルトの場面でも、『ナータン』の 場面でも、主人公を啓蒙することを作者に躊躇させるのである。
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『道化師』完成前の10年余りのヨーロッパは、東西を問わず「宗教間の憎 悪と人種憎悪」の時代、すなわち反ユダヤ主義が高揚していった時代であっ た。ベルリンではヴィルヘルム・マルの「反ユダヤ同盟」(1879年)、アード ルフ・シュテッカーの「キリスト教社会労働党」(1880年)という、いずれ も反ユダヤ主義を掲げる政党が相前後して創設され、ロシア南部とウクライ ナではポグロムが相次ぎ(1881年以降)、ハンガリーのティサ=エスラール では儀式殺人の風評によるユダヤ人襲撃が起き(1882年)、ウィーンでも反 ユダヤ主義を掲げるカール・ルーエガーの「キリスト教社会同盟」が旗揚げ され(1887年)、ドイツ帝国議会選挙においても、マルの「反ユダヤ同盟」
は、1890年には397議席中5議席を、そして『道化師』完成の年、1893年に は16議席を獲得するという大躍進を遂げ、その翌1894年にはパリでドレフュ ス事件が起き、1897年にはウィーンでカール・ルーエガーが市長に選出され る。この間、1880年代の初頭からロシア・東欧のユダヤ人たちは大挙してパ レスチナ、あるいは新大陸を目指して移住してゆく。
『道化師』の主人公ゼンダーが23歳で没するのは、作中の様々な年号から、
1854年と推測できるが、フランツォースは1880年代以降の時代の傾向と風潮
を作品中に投影している。とくにガリツィアのユダヤ人が置かれた位置は、
ゼンダーが『デボーラ』を観劇する場面によく現れている。モーゼンタール の『デボーラ』という作品は、すでに触れたように、少年時代のフランツォ ースに「消すことのできない思い出」を残した作品であった。
4幕の民衆劇『デボーラ』は、ザロモン・ヘルマン・モーゼンタールのも っとも有名な作品で、1849年ハンブルクの市民劇場で初演されると、13の言 語に翻訳され、世界各地で上演された。特にその英語版『見捨てられたレア』
(Leah, the Forsaken.)は、1862年ニューヨークでは連続して400回、1863年か ら64年にかけてはロンドンで500回以上上演され、20世紀になってからは二 度(1908年、1912年)映画化された。少年フランツォースがドイツのどさ回 りの一座による『デボーラ』を観たのは1858年、作中のゼンダーがこれを観 るのは、1853年である。
劇の舞台は1780年、すなわちマリア・テレジアが没しヨーゼフ2世の単独 統治が始まった年のシュタイアーマルクのある村で、テーマはキリスト教徒 とユダヤ教徒の「融和」である。当時のシュタイアーマルクでは、ユダヤ人 はキリスト教徒の村に宿泊することを禁じられていたため、放浪のユダヤ人 の一行がこの村の外れに野営している。村の牧師の娘ハンナは、一行の中に いたデボーラという少女にことのほか同情を寄せ、彼女を村に迎え入れよう とするが、程度の差こそあれユダヤ人に反感を抱いていた村人たちに猛反対 される。一方かつてのハンナの恋人、村長ローレンツの放蕩息子ヨーゼフが デボーラと恋仲になり、彼女を連れて海のかなたの「大きくて自由な国」47)
(アメリカ)に逃げることを約束するのであるが、ハンナとその父の牧師、
そして自分の父である村長に、デボーラと手を切るよう説き伏せられてしま う。村人たちは金を渡してユダヤ人たちを旅立たせ、ヨーゼフはかつての恋 人ハンナと結婚する。5年後、乞食の姿となって戻ってきたデボーラが、密 かにハンナとヨーゼフの家を窺いにくる。夫ヨーゼフは、ウィーンの皇帝
(ヨーゼフ2世)にユダヤ人のことで請願に出かけていて不在であったが、
幼い娘二人と家を守っていたハンナもそれがデボーラであることに気づかな い。デボーラはハンナの娘の一人に名を尋ね、彼女が「デボーラ」と答える のを聞き思わず差し含む。その子供にバラの冠を被せてデボーラはなにも言
わずに立ち去る。皇帝から、ユダヤ人も我が市民であるから村に受入れても よいという答えを得てウィーンから戻ってきたヨーゼフは、留守中訪れた女 乞食がデボーラであると察し、「私たちは和解したのだ」48)と叫んで幕がお りる。途中、ヨーゼフと別れた後のデボーラが、愛の神キリストの声を聞い て教会に吸い寄せられて行く場面49)や、村でもっとも過激な反ユダヤ主義者 である学校教師が実はユダヤ人であったことがユダヤ人一行の老人によって 暴かれる場面50)なども挿入され、ユダヤ人(モーゼンタール自身ユダヤ人で あったが)からすれば、なんとも腑に落ちない、キリスト教徒の独り善がり の「融和」であった。これを観た、さるユダヤ人批評家は、「いったいなん という道が『賢者ナータン』から『デボーラ』に敷かれてしまったことか!」
と怒りに駆られて叫んだ51)というが、当然のことだろう。『デボーラ』に表 現されていたのは、「芝居の舞台となったヨーゼフ2世の時代に登場し、
1848年にそのピークに達したドイツのユダヤ人たちの政治的楽天主義」52)で あった。
『道化師』の主人公ゼンダーは、「カフタンなど一度も着たことがないか のごとくにドイツ語を話すことができる」53)ようになり、養母に別れの手紙 を置き、揉み上げの巻き毛を切り落とし、カフタンの丈を「ドイツ風」切り 詰め54)、すなわちユダヤ人であることをやめ、ゲットーを捨て劇場監督ナー ドラーのもとへ旅立つ。途中、ナードラーから劇団を搾取したシュティック ラーという男の一座が、『デボーラ』を上演しているところに遭遇し、ゼン ダーはこの劇を観ることになるのだが、公演のポスターを読んだゼンダーは 怒りに震える。ポスターは左右二つに分けられ、左側はユダヤ人向けにヘブ ライ文字で、右側はドイツ人向けにラテン文字で記されていたのであるが、
その内容は、とても同一の内容を指し示しているとは思えないほどに異なる ものであった55)。原作者について、ユダヤ人向けには、「シュローメ・ヒル シ・モーゼンタール氏は、ガリツィアのタルノフ生まれ、世界で知らぬ者の ない高貴なイスラエル人!! 自らの信仰に常に忠実で、いつも同胞を守り、そ のため世界中のイスラエル人から愛され、尊敬され、賞賛されている。この 作品を見ないものは恩知らずであり、この世界的に有名なシュローメ・ヒル シと同胞である資格はない。氏はオーストリア帝国・ハンガリー王国皇帝じ
きじきの顧問官であり、授与された勲章は170をくだらない」、と紹介してあ ったが、ドイツ人向けには、「著者の騎士ジークムント・ハインリッヒ・モー ゼンタール氏は、世界中で有名な劇詩人。ベルリン(プロイセンの、そして 知性の首府)生まれであるが、教皇公認オーストリア帝国・ハンガリー王国 フランツ・ヨーゼフ皇帝陛下じきじきウィーンに招聘され、最高の勲章によ り顕彰された。17個も授与されたという。そして帝国および王国直属官吏と して登庸された。彼の曾々祖父はユダヤ人であったらしいが、彼自身は、生 まれついてのカトリック!!! しかしユダヤ人に通暁し、彼らを的確に描き出 すことができる」となっていた。ユダヤ人に対してはモーゼンタールはユダ ヤ教に忠実なユダヤ人であると強調し、ドイツ人に対しては生まれついての カトリックであると紹介する二枚舌に、モーゼンタールに対する作者の揶揄 を読むこともできるが、しかし作中ではあくまで客引きの戦略である。モー ゼンタールがオーストリアで騎士(Ritter)に叙せられたのは1871年のこと であり、作中の時代の20年近くも後のことであるが、フランツォースは誇張 のために敢えて時代を錯誤している。登場人物の紹介も、同一人物を指して いるとは思えぬほど露骨に書き分けられる。たとえばヨーゼフについてユダ ヤ人向けには、「ユダヤ人女性を不幸にする。だが罰は下されない」、とある が、ドイツ人向けには、「高貴であるが、惜しいことにユダヤ女に籠絡され る」と紹介され、また、「卑劣漢。洗礼を受け、反ユダヤの扇動をしている ユダヤ人」とユダヤ人向けに紹介されている学校教師は、ドイツ人向けには、
「立派な男。残念なことにユダヤ人の悪意にたいへん傷つけられる」、となる。
さらにヒロイン、デボーラについては、ユダヤ人向けには「世界一気高く、
美しいユダヤ人女性」と紹介されるが、ドイツ人向けには「人を呪うがその 効無く、やがて自分が呪われるユダヤ女」とされている。すなわちユダヤ人 を貶めることが最も手っ取り早い客寄せの手段であったが、他方でユダヤ人 も呼び込まねばならない苦肉の策、ポスター書きの男の労作であった。その 結果客席はキリスト教徒とユダヤ人の罵りあいの場と化する。ここには、先 に引いた『私の処女作』の中でのフランツォース自身の1850年代の体験がほ とんどそのままに取り込まれている。「『ユダヤ人たちがおとなしく従わない のなら、われわれは彼らを追い出す』、というケネン(学校教師役)の台詞
に応えて、フリツコ(廷吏役)がルテニア語で、『そうだ、ユダヤ人たちは 出て行かなくてはならない!』とやったとき、歓声はやみそうにもなかった。
だが次のシーンでビルク扮するアブラハムが、ケネンはユダヤ人であると暴 くと、ほとんど同じくらいの笑い声がわき起こった。」56)
ユダヤ人とキリスト教徒のこの程度の応酬は、近代のヨーロッパ各地でこ とさら珍しい風景ではなかったであろうし、時代を特定できるメルクマール とはならない。しかし、第4幕第1場、ルーベンがユダヤ人たち一行を率い てアメリカへ向かうシーンではユダヤ人の間で論争が起きるが、ゼンダーは 何が問題になっているのか理解できない。たまたま席を隣り合わせた同化ユ ダヤ人の弁護士が、ゼンダーに事の次第を解説する。
「この論争が起きることもポスターを書いた男は承知の上でした」と 弁護士が教えてくれた。「ユダヤ人の側には、彼はルーベンがユダヤ 人たちをパレスチナへつれて行くことにしていたのです。だからこそ 今日これだけ多くのハシディームが見に来たのです。しかし作品のな かでは作者はルーベンに、『エルサレムは私たちのふるさとではない』
と言わせアメリカにあこがれさせているのです。それで彼ら(ハシデ ィーム)はモーゼンタールと哀れな男ケネンを罵倒しているのです。
それに対して啓蒙派のユダヤ人たちは二人を弁護しているのです。だ けど彼らは入場料を返してはもらえないでしょうね。ポスター書きの 男は自分の仕事をよく心得ていたと言うことです。」と彼は言葉を結 んだ。57)
確かにルーベンはポスターで、ユダヤ人向けには、「気高い男。追放され たユダヤ人たちをパレスチナに連れ帰る」と紹介されているが、ドイツ人向 け、あるいはドイツ語を解する者もいたであろう「啓蒙派のユダヤ人」向け には、「気のふれたユダヤ人。幸いなことにたくさんのユダヤ人をアメリカ に一緒に連れて行く」と予告されていた。ハシディームと啓蒙派のユダヤ人 がパレスチナかアメリカかを巡って激しく論争するというこのシーンは、ロ シアのポグロムをきっかけとして、東欧のユダヤ人たちが大挙してヨーロッ
パを逃れ、新大陸やパレスチナへと向かった1880年代以降の状況を背景とし たものである。このときハシディームのラビたちは、アメリカは宗教生活の 基盤が脅かされる「不浄の国」(das unkoschere Land)であるとして否定的で あり、アメリカへの移住に対しては、再三再四、警告を発していた58)。実際 には、ラビの警告を無視して大量のハシディームがアメリカに渡ったし、シ オニズムに共感する多数の啓蒙派のユダヤ人がパレスチナへ向かったのであ ったが、行き先がユダヤ人たちの争点となるというこの状況は、作中で想定 されている1850年代のものではない。ロシア、ガリツィアから逃れてきたユ ダヤ人たちを目の当たりにしながら、自らも1891年にベルリンで(フランツ ォースは1886年にベルリンに移っている)、ロシアで迫害されているユダヤ 人のための献金を集めている「ロシア・ユダヤ人のための中央委員会」
(Zentralkomitee für die russischen Juden)に加わるという時代状況のなかでフ ランツォースはこれを書いているのである。そして当のベルリンでも反ユダ ヤ主義の傾向は高まり、1893年のドイツ帝国議会選挙で反ユダヤ同盟が大躍 進を遂げたことはこの節の冒頭ですでに述べた。
5
厳冬の寒さに耐えながら続けた修道院の書庫での読書は、ゼンダーに労咳 を齎していた。そのためゼンダーはナードラーのもとまでたどり着くことが できずにその途上で倒れる。養母ローゼレがゼンダーをバルノフに連れ帰り、
そこで彼は、「私の人生はとても、とても素晴らしかった」59)という言葉を 残して息をひきとる。結局ゼンダーはドイツ人になることはできず、ユダヤ 人に戻ることもないまま世を去ったのである。このとき、ユダヤ人として全 く対蹠的な境遇から出発した分身ゼンダーと作者フランツォースは完全に重 なったのである。「ドイツ人にもなれずユダヤ人にも戻れない」まま逝った 分身ゼンダーの生に、フランツォースは、事実に即した二つの自伝的素描で は語り得なかった部分を託したのであった。「私はこの序文で、私の小説を 解説しようというのでも、弁護しようというのでもない。いくつかの客観的 状況に触れながら、ついでに長年、私が育んできたこと、そしてこの場で言 っておくのがいちばんいいことをいくつか述べておきたい」60)と前置きし、
『道化師』の序文に自伝を添えたのも、仮想された自伝によって事実の自伝 を補完しようというのが、この作品の意図であったからである。
フランツォースの家系は祖父の代に同化し、父はドイツ人として育てられ、
ドイツ人として死んでいった。『道化師』の序文でフランツォースは父を次 のように描写している。
1848年の晩秋の東ガリツィアはひどい時代だった。ポーランド人たち が蜂起し、半年前にポズナニの同胞たちがプロイセン人に対して加え たのと同じ運命を、ガリツィアのドイツ人の一人一人に味わわせよう としていた。私の父も迫害の対象となった。というのも彼は、第一に オーストリア・ハンガリー帝国の管区医師として働いていたからであ り、また、彼は常に熱心なドイツ人として活動していたからである。
毎日脅迫状が降るように舞い込んだ。61)
すなわち、フランツォースの父はこのときポーランド人に迫害されること によって自らの「ドイツ人」を完成した。その父にフランツォースも、「ド イツ人であると同時にユダヤ人」であると教えられ、「チェルノヴィッツの ギムナージウムに入り、それから大学で好きな勉強をし、そのあと、できれ ばドイツに定住せよ」62)という父の遺言どおり、ベルリンに移ってきたので あったが、時代は「ドイツ人であると同時にユダヤ人」というあり方をすで に許さない「宗教間の憎悪と人種憎悪」の時代、好むと好まざるとに関わら ず民族的帰属を問われるナショナリズムの時代となっていた。本「試論(1)」 で述べたことを再度繰り返せば、「『私たちは自分たちの民族なのですか?民 族とはいったい何なのでしょう。キリスト教徒とユダヤ教徒は人間である前 にキリスト教徒とユダヤ教徒なのですか』というナータンの問いかけに対し て、『人間である前に』ポーランド人であり、ウクライナ人であり、チェコ 人であり、あるいは、ルーマニア人、スロヴェニア人、クロアチア人として 初めて人間たりうるのであり、『私たちは自分たちの民族』であると応えた のがナショナリズムであった。ナショナリズムの前にフランツォースの古典 的な啓蒙主義はすでに無効であり、『ほとんど敗北ばかりをおさめ』たので
あった。」63)
フランツォースが、ドイツ社会で「ドイツ人であると同時にユダヤ人」と いうあり方に感じていた困難、反ユダヤ主義の障壁の高さは、完成した『道 化師』という作品そのものが証明してしまうことになる。1893年に完成した
『道化師』は、ユダヤ人を主人公とし、しかもその同化をテーマとしていた ために、10年以上におよぶ奔走にもかかわらず、出版社を見いだすことがで きないままフランツォースは1904年に世を去る。当時フランツォースは、
「半アジア」の作家として著名であったにもかかわらず、どの出版社も、こ の作品を出版することによって親ユダヤ的と見られることを恐れたのであっ た64)。フランツォースの死後この作品を出版した妻オッティーリエは、これ が作者生前に公刊されなかった理由について、「この本が、あるいはふたた び彼(フランツォース)に対して引き起こしたかもしれない暗い力との闘い を彼が恐れていたわけではない」65)と付言しているが、この「暗い力」が、
フランツォースに、父のように「ドイツ人であると同時にユダヤ人」という 生き方はもはや困難であると感じさせた力であり、啓蒙主義者としてフラン ツォースが最期までそれと闘わねばならなかった時代の力であった。(完)
注
1) Franzos, Karl Emil: Der Pojaz. Eine Geschichte aus dem Osten. Stuttgart und Berlin. (J.
G. Cotta'sche Buchhandlung Nachfolger) 1912 (9.u.10.Auflage), S.12 2) Ebd.
3) 「"Pojaz"という語は"Bajazzo"の堕落した語である」(Ebd., S.15) とフランツォー スは本文中で解説を付け加えているが、「堕落した語」という言い方は当時一般 にはイディッシュ語を意味した。ドイツ語<Bajazzo>の語源は、イタリア語の
<pagliaccio>(イタリア喜劇における道化役)にまで遡ることができるが、直接的 には、そのミラノにおける変異形<pajazz>からの借用であった。<pajazz>はポー ランド語でも<pajac>として借用されており、<Pojaz>が直接ドイツ語の<Bajazzo>
(道化役、道化師)に由来するものかどうかは疑わしい。ちなみに、現代のイデ ィッシュ語では、< >(payats)である。
4) メンデレの生年として「1795年」が明記されているわけではないが、ゼンダー
の祖父からメンデレに譲られ、そしてメンデレがゼンダーにのこした唯一の遺品 である祈祷書に、「息子メンデレ6歳の誕生日、天地創造後5561年(西暦1801年)
アダルの月(太陽暦2〜3月)の5日にコヴノにて購入」、という祖父の手にな る隠された書き込みをゼンダーが発見するくだりがある。Vgl. Ebd., S.241 5) イディッシュ語でも< > (shnorer)。ヴァインライフ(Uriel Weinreich:
Modern English-Yiddish/Yiddish-English Dictionary.)は< >に対して<beggar>
という訳語を一語振るのみで、とうていフランツォースがここで説明しているよ うな、東方ユダヤ人世界における「浮浪人」の重要な役割の説明には届かない。
< >の語源は中世ドイツ語の自動詞<snurren>(騒がしく通り過ぎてゆく)
であるが、クルーゲ(Friedrich Kluge: Etymologisches Wörterbuch.)によれば、こ の ド イ ツ 語 は 1 8 世 紀 以 降 再 び イ デ ィ ッ シ ュ 語 の 発 音 と 意 味 を 逆 移 入 し 、
<schnorren>となり、「がらがら笛(Schnurrpfeife)や琵琶笛(Maultrommel)を吹 きながら門付けして歩く」ことを意味した。名詞<Schnurrant>(辻音楽師)も同 じ語源からの派生である。<Schnorrer>は、なにものかの代価として金銭を受領し ていたという一点において、<beggar>からは区別されていた。
6) Der Pojaz, S.16ff.
7) Ebd., S.18 8) Ebd., S.17f.
9) ベネディクト・アンダーソン(白石隆・白石さや訳):想像の共同体−ナショ ナリズムの起源と流行(リブロポート)1995年、 第Ⅱ章、第Ⅲ章。
10) Der Pojaz, S.19.
11) Ebd., S.20
12) Ebd., S.36.「浮浪人の王」(der König der Schnorrer)という言い方はフランツォ ースの発明になるものではなく、当時の東方ユダヤ人たちの間である程度一般的 な言い回しであったらしいことは、たとえば、フランツォースと同時代のイギリ スのユダヤ人作家ザングウィル(Israel Zangwill, 1864-1926)にも、"The King of Schnorrers"(1894)という作品があることからもうかがえる。
13) Ebd., S.35 14) Ebd., S.45 15) Ebd., S.77 16) Ebd., S.7
17) Lachs, Minna: Sentimental Journey. In: Stefan Simonek/Alois Woldan: Galizien.
Klagenfurt/Celovec (Wieser) 1998, S.175 18) Ebd., S.80
19) Ebd., S.81 20) Ebd., S.86
21) Franzos: Mein Erstlingswerk: "Die Juden von Barnow". In: Ders. (hrsg.) : Die
Geschichte des Erstlingswerks. Berlin (Concordia Deutsche Verlags-Anstalt) o.J. (1894), S.227
22) Der Pojaz, S.100 23) Ebd., S.213 24) Ebd., S.103 25) Ebd.
26) Mein Erstlingswerk: "Die Juden von Barnow", S.223f.
27) 「ウィーンから26時間」隔たったここチョルトコフの駐屯地には、1898年7月に ホーフマンスタールが軍事演習のために一月ほど滞在し、「気を滅入らせる侘び しいこの土地にいるととても不快な気持ちになってくる」と辟易した気持ちをシ ュニッツラーに伝えている。Vgl. Hugo von Hofmannsthal/Arthur Schnitzler:
Briefwechsel. Frankfurt/Main (S.Fischer) 1964, S.103
28) Anonym (Moritz Hartmann) : Reimchronik des Pfaffen Maurizius.
Frankfurt am Main (Literarische Anstalt) 1849, S.24
フランツォースは、"Mauritius"と表記しているが、正しくは"Maurizius"である。
29) Ebd., S.23f.
30) Ebd., S.24f.
31) Ebd., S.25 32) Ebd., S.20 33) Ebd., S.26 34) Ebd., S.27 35) Ebd., S.34 36) Ebd., S.111 37) Ebd., S.101f.
38) Ebd., S.120 39) Ebd., S.138 40) Ebd., S.138f.
41) Ebd., S.139
42) 伊狩裕「啓蒙と『半アジア』−カール・エーミール・フランツォース試論(1)」 同志社大学言語文化学会『言語文化』第3巻第2号2000年12月、第3節(160頁以 下)参照。
43) ジョージ・L・モッセ(三宅昭良訳):ユダヤ人の<ドイツ>(講談社)1996、
14頁。
44) Franzos: Aus Halb-Asien. Vierte gänzlich umgearbeitete Auflage. Berlin (Corcordia Deutsche Verlags-Anstalt) 1901, 1.Bd., S.XXIX
45) Ebd., S.XXVIII 46) Ebd., S.XXXII.
47) Mosenthal, Salomon Hermann: Deborah. S. H. Mosenthal's Gesammelte Werke. Zweiter Band.Stuttgart und Leipzig(Druck und Verlag von Eduard Hallberger) 1878, S.21 48) Ebd., S.85
49) Ebd., S.62 50) Ebd., S.44f.
51) Meyer, Michael A.: Deutsch werden, jüdischbleiben. In: Michael Brenner, Stefi Jersch- Wenzel und Michael A.Meyer(hrsg.): Deutsch-jüdischeGeschichte in der Neuzeit. Bd.Ⅱ:
Emanzipation und Akkulturation 1780-1871. München(C. H. Beck) 1996, S.238 52) Ebd.
53) Der Pojaz, S.152 54) Ebd., S.375 55) Ebd., S.391-393 56) Ebd., S.417f.
57) Ebd., S.420. 引用されているルーベン(Ruben)の台詞は、Mosenthal: Deborah, S.69
58) Hödl, Klaus: "Vom Shtelt an die Lower East Side" Galizische Juden in New York.
Wien, Köln, Weimar (Böhlau) , 1991, S.48 59) Der Pojaz, S.486
60) Der Pojaz, S.5 61) Ebd., S.6
62) Mein Erstlingswerk: "Die Juden von Barnow", S.229 63) 伊狩、同上167頁。
64) Vgl. Pazi, Margarita: Karl Emil Franzos' Assimilationsvorstellung und Assimilationserfahrung. In: Hans Otto Horch/Horst Denkler (Hrsg.) : Conditio Judaica.
Judentum, Antisemitismus und deutschsprachige Literatur vom 18.Jahrhundert bis zum Ersten Weltkrieg. Zweiter Teil. S.218-233 Tübingen (Max Niemeyer) 1989
65) Der Pojaz, S.14
*本稿は2002年度同志社大学学術奨励研究「19世紀ガリツィアの民族と文化の研究」
の成果である。
Über „Der Pojaz“
–– Versuch über Karl Emil Franzos (3)
Yutaka IKARI
„Der Pojaz“ (1905) ist der einzige und letzte Roman von Karl Emil Franzos. Er wurde postum veröffentlicht und ist eine Art Bildungsroman.
Sein Protagonist, Sender Glatteis, ist ein in Galizien lebender jüdischer Junge in der Mitte des 19. Jahrhunderts. Sender, der das komödiantische Talent von seinem Vater, dem „König der Schnorrer“, geerbt hatte, wollte Komödiant (Pojaz) im deutschen Theater in Czernowitz werden. Dazu lernte er in seiner heimatlichen Stadt Barnow Deutsch, allerdings heimlich, da im chassidistischen Getto Deutsch zu lernen „eine Sünde gegen Gott“
war. Als Sender Deutsch erlernt hatte, als wenn er „nie einen Kaftan getragen hätte“, verlässt er das Getto als „Deutsch“ (d.h. Deutscher) : er hatte sich „die Wangenlöckchen“ abgeschnitten, den Kaftan um zwei Spannen verkürzt und sich „deutsch“ gemacht. Sein Vorhaben kann er jedoch nicht verwirklichen. Auf dem Weg zum Direktor des deutschen Theaters stirbt er an einer Krankheit.
In welchem Verhältnis steht diese tragische Lebensgeschichte von Sender Glatteis zum wirklichen Leben des Autors Franzos? Zunächst fallen die Unterschiede zwischen dem Autor und dem Protagnisten des Romans auf.
Beide waren als Jude in einer ganz entgegengesetzten Umwelt aufgewachsen: der Autor in einer deutsch-jüdischen Familie als „ein Deutscher und ein Jude zugleich“, der Protagonist des Romans hingegen bei Chassidim im traditionell-jüdischen Getto, wo die deutschen Sprachkenntnisse „ein Gift“ waren. Doch Franzos verarbeitet auch wichtige