著者 鍛冶 博之
雑誌名 社会科学
巻 41
号 4
ページ 109‑140
発行年 2012‑02‑24
権利 同志社大学人文科学研究所
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000012704
パチンコホール企業による人材獲得の史的展開
鍛 冶 博 之
本稿の目的は,パチンコ業界の健全化に向けたパチンコホール企業改革の具体的取 組みの一例としてホール企業の人材獲得活動に焦点を当て,それの終戦以降から今日 までの史的展開を明らかにすることである。
1970 年代まではホール内の労働環境の整備に尽力されたが,人材獲得や育成に対し てはほとんど関心が向けられることはなかった。しかし 1980 年代には,第三次ブーム への反省を主たる要因として,その他のさまざまな外的要因も作用し人材獲得及び育 成の重要性が認識されるようになった。しかしこの時点ではホール企業全体の動きに までは至っていない。転機となったのは 1990 年代である。1990 年代には新卒採用とい うホール企業では斬新な採用方法を採り入れることで本格化し,ホール企業では人材 獲得や育成に関するさまざまな戦略が展開されるようになった。そして 2000 年代も新 卒採用はホール企業の有力な人材獲得手段と位置付けられる。しかし 1990 年代は比較 的円滑に展開できた新卒採用は 2000 年代には必ずしも十分に行えなくなったが,2008 年より表面化した世界金融危機の発生によって,多数の日本企業とは逆にホール企業 にとって採用活動を行いやすい環境をもたらした一面を無視できない。
は じ め に
本稿の目的は,パチンコ業界の健全化1)に向けたパチンコホール企業改革2)(以下,ホー ル企業改革と表記)の具体的取組みの一例としてホール企業の人材獲得活動に焦点を当 て,それの終戦以降から今日までの史的展開を明らかにすることである3)。
ホール企業では特に 1980 年以降,パチンコ店経営において従来重視されてきた中核的 サービスの充実(例えば,多種多様な遊技機の提供,出玉率・換金率の調整,多品種な一 般景品の陳列)ばかりでなく,パチンコ店の付加価値を高めるための付随的サービスの 充実(例えば,パチンコ店内空間の開放性の向上,人的・物的サービスの展開)に経営 の主力を移すようになる。これは,パチンコ店の外観や内的設備などのハード面および 上記の中核的サービスの充実を図るだけでは,競合他社との差別化の実現が困難になっ
てきたためである。そのため人的サービスをはじめとするソフト面の充実が生存競争を 勝ち残るための喫緊で重要な課題として認識されるようになった。それはホール企業に 対する社会的評価を高め,さらにはパチンコ業界のイメージアップに向けて行われてき たものであり,各ホール企業では経営改革を進めることでそれに貢献してきた。
ホール企業改革を実現するための手段はさまざま存在する。しかし,多様な手段が存 在するというだけではホール企業改革を遂行し実現させていくことはできない。重要な のは,①ホール企業を運営する経営者や幹部がホール企業改革の重要性を認識すること,
②ホール企業の社員やアルバイト・パート従業員を含め,パチンコ店運営に関わる全て の労働者が自社の経営改革を実現させ,さらにはパチンコ業界全体のイメージアップを 実現させていくという高い志を持つこと,③各ホール企業での経営改革を実現するため の具体的スキルを習得し,パチンコ店の社員もしくは従業員であることに各人が誇りを 持てるよう意識を変えていくこと,これらが必要とされよう。
1980 年代以降,経営改革を推進する多くのホール企業では,優秀な人材の獲得や育成 に力を注いできた。そして社員や従業員が,パチンコ店経営はれっきとしたサービス業 であるということを認識したうえで,接客能力を含めた質の高いサービス提供力を習得 できるよう,彼等に対する人材教育に取組み,また彼らを育成する人材教育制度の確立 を急いでいる。
このように,特に 1980 年代以降,パチンコ業界のイメージアップの重要性と必要性が 強調されるなか,ホール企業における人材獲得と育成の重要性が着実に認識されるよう になった。そのこともあり 1990 年代から今日まで,優秀な社員や従業員を獲得すること の必要性や,彼等への人材育成の重要性とその具体的手段,さらには労働条件や労働環境 の整備とその具体的手段などを論じたパチンコ関連の著書・論文・記事がいくつか発表さ れるようになった4)。しかしこれらは総じて,人材の獲得および育成の現状分析を試みた ものや,将来のパチンコ店経営に求められる人材獲得・育成のあり方(将来展望)を論じ ているものが多い。したがって,人材獲得と育成を必要とするようになった背景など,人 材獲得と育成をホール企業における経営改革の重要課題として認識しそれに経営の主力 を傾けるに至った歴史的背景の考察についてはほとんど行われてこなかった。しかし人 材獲得および育成に関する史的展開は,1980 年代から今日に至るホール企業改革の史的 動向を明らかにしていくうえで検討されなければならない課題である。そこで本稿では,
ホール企業改革を実施していくうえで基礎的かつ重要な役割を担うホール企業の人材獲 得に関して,戦後から 2000 年代までの時期における史的展開の一端を明らかにする。な
お具体的な人材育成手段については別の機会に考察する。
1 終戦後〜 1950 年代
1.1 1970 年代までの動向
まず終戦後から 1970 年代までのホール企業での人材獲得の状況について概観する。
1970 年代までのホール企業において,社員や従業員の採用や育成に力を注いだという事 例はほとんど確認できない。その背景として,①パチンコ業界での就業を希望する者とい えば,住所不定の流れ者や一癖ありそうな無頼者が多かったため,会社側も従業員をそ れほど大事に扱ってこなかったこと5),②日本経済が高度経済成長の真只中にあり,他産 業への人材の流動が激しかったため,パチンコ業界が慢性的人材不足に陥っており,パ チンコ店経営を継続させるためだけの労働力としての人材が求められる傾向にあったこ と,③パチンコ店経営の活性化にためには人材を育成することよりもむしろ,不要な人 材の放出と新たな人材の獲得が重要であると考える経営者が多く存在し,獲得した人材 を自店で育成するという視点が欠落していたこと6),④パチンコ店の経営者・幹部・社 員・従業員のいずれも,パチンコ店で勤務することに対して所詮パチンコ屋であるといっ た消極的な見方しかできない傾向にあったこと,以上を指摘できる。確かに 1970 年代ま でのパチンコ店経営であっても,基本的な接客態度や店内業務といった就業場所で必要 とされる業務内容を先輩社員もしくは先輩従業員が勤務現場で直接指導する,いわゆる
「OJT(on-the-job training)」はパチンコ店の伝統的な従業員教育方法としてこの当時か ら既に行われていた。しかし,今日のように人材の質的向上とそれに伴うパチンコ店の サービス向上に尽力する姿勢はほとんど見られなかった。
こうしたことから,終戦以降から 1970 年代においては,パチンコ店従業員の獲得や彼 等への人材教育の重要性が十分認識されていたわけではなかったと言える。しかし一方 で,同時期にはパチンコ店の従業員が労働しやすい環境に改善していく動きが見られる ようになり,今日のパチンコ店の形態の原型が形成されることになる。以下では,パチ ンコ店の労働環境が整備される経過について言及する。
1.2 劣悪な労働環境
1950 年前後からパチンコ業界では 1952 年に登場した連発式遊技機が日本全国でヒット し,その結果パチンコ店数とパチンコ参加者数を急増させ7),パチンコ業界は第一次ブー
ム期を向かえた。そのブームを影で支えたのは他ならぬパチンコ店従業員である。当時の パチンコ店従業員の大半は若年女性である。彼女等は劣悪な労働環境の中で,遊技機の 遊技球を補給する「裏回り」と呼ばれる仕事に従事していた。溝上(1999)は昭和 20 年 代から 30 年代にかけての,彼女達の労働内容とパチンコ店の労働環境について以下のよ うに描写している。
「戦後のパチンコ店の営業の主役は多くの女性たちであった。貸し玉を手渡したり,
玉と景品を交換するだけでなく,パチンコ機の裏側に待機し,玉の補給を担当する裏 回りと呼ばれる女性従業員たちもいた。朝の九時ごろから夜の一一時ごろまで,彼 女らは文字通り昼夜別なく働いていた。
ひとりの女性がだいたい一〇台の機械を担当し,玉がなくなると急いで台の上の タンクに補給する。うっかりすると,『オイ!玉が出ないぞォ』と客が声を荒らげる。
機械をドンドンと叩いたり,足で蹴ったりする客も珍しくない。急に怒り出してはパ チンコ玉を上から投げつける客もいた。営業中は持ち場を離れるわけにはいかない。
人ひとり通れるだけの細長い箱の中で彼女たちは一日を過ごした。夏場ともなると 箱の中は温度が上昇して蒸し暑くなる。まだ二〇歳前の女の子がスリップ姿に前掛 けをしただけというあられもない格好で働くことを余儀なくされた。閉店後は粉石 けんをまぜた熱湯で各台から集めた玉を洗い,最後に布で水気をふきとる。作業は 深夜にまでおよんだ。翌朝はふたたび手作業で玉を各台に運ぶ。思えば過酷で劣悪 な労働であった。(省略)
彼女たちは地方からやってきた者が多かった。ほとんどが住み込みで,パチンコ 店の二階などに寝泊りしていた。昭和三〇(一九五五)年代に入ると地方から集団 就職列車に揺られてパチンコ店にやってくる女性たちも増えていった。(省略)三〇 年代のパチンコ店の営業は,こうした女性たちの過酷な労働に支えられていたので ある。」8)
このような劣悪な労働環境を目の当りにして,パチンコ店の職場環境を改善しなければ ならないと考える経営者も当時は少なくなかった9)。しかし実際にパチンコ店での労働改 善が機械化や自動化という形で本格化するのは 1960 年代になってからであった。
1.3 人材の量的不足と質的低下
1950 年代半ばに入ると,全国のパチンコ店では労働者不足に陥ることになる。当時こ の労働者の不足問題はパチンコ業界に限ったことではなく日本の産業界全体が直面して いたが,なかでもパチンコ業界の労働者不足の問題は深刻であった。その背景として,第 1 に当時パチンコ業界に対する社会的イメージが悪化しつつあったことである。パチンコ 店では連発機の出現以降,換金行為が開始されるようになり,その後これにヤクザや暴力 団などの反社会的勢力が介入し始めた。そのためパチンコに対する社会的イメージが急 激に悪化し,大衆娯楽としての誰もが気軽に楽しめる遊技としてのパチンコは失われて しまった。第 2 に上記の溝上(1999)の引用からも分るように,パチンコ店の労働が極め て重労働であるばかりでなく労働環境も整備されておらず,いわゆる 3K労働の典型とみ なされていたことである。第 3 に同時期の日本経済が高度経済成長期に突入し,労働者の 大半が基幹産業での就業を希望したため,パチンコ業界にはほとんど労働者が流入して こなくなってしまったこと,これら三点を指摘できる。これらを背景にパチンコ業界では 慢性的な労働力不足に陥ることになる。そしてこのことがパチンコ店従業員の更なる労 働過多を誘発し重労働を強い,パチンコ業界への労働力の流入が抑制されるという悪循 環に陥らせた。「店の前に『従業員募集』の看板や張り紙がない日はなかった」10)と言わ れるほど,あらゆるパチンコ店が日々労働者の確保に懸命であったが,それでも労働力不 足は解消されなかった。このような状況を打開すべく,パチンコ業界では過去の経歴や職 歴などを考慮せずにどのような者でも雇用するという習慣が生まれるようになった。つ まり「応募してくれば身元や性格もたしかめずにだれでも雇ってしまうのがパチンコ業 界の風潮になった」11)のである。具体的には,家出した者,駆け落ちした者,犯罪者な どである。そのような人々がパチンコ店に就業するようになる。そして彼等を就業させ続 けた全国のパチンコ店は,長らく駆け込み寺のような存在として機能するようになった。
しかし,日々の小遣い稼ぎを唯一の目的としてパチンコ店に就業する彼等が,利用客に 対して高品質のサービスを提供しようというモチベーションを持っているはずもない。
そのため従業員の接客マナーは悪化し彼等の質的低下を加速させた。このことがパチン コに対する社会的評価をさらに低下させる結果となった。悪化するパチンコ店の雰囲気 が影響し,客足はパチンコ店からますます遠ざかった。この傾向は特に女性層に顕著に見 られ,その後パチンコ店内環境が整備され女性が従業員として再度活躍するようになる 1990 年代まで,パチンコ店は女性が足を踏み入れにくい空間へと変貌してしまった。勿 論全てのパチンコ店がこのようであったわけではなく,なかには従業員の定着率向上と
店舗の健全経営に尽力するパチンコ店も存在した12)。しかし終戦直後から 1950 年代半ば のパチンコ店は総じてこのような状況であった。そのためパチンコ店が従業員の人材育 成に積極的に尽力するという事例はほとんど見られなかった。人材育成に尽力しようと する経営者の積極的姿勢がほとんど確認されず,人材育成を実行することの必要性すら 認識されていなかったと言える。
一方,パチンコ店の労働力不足の解消と従業員の労働過多の抑制を実現するためのパ チンコ店内での労働軽減に向けた具体的措置を講じる必要性が問われるようにもなって いた。実際に 1957 年には,東京都のパチンコ店 5 店舗の従業員 85 名が,パチンコ店の低 賃金・長時間労働の是正を経営者に求め,「全川崎遊戯場労働組合」を結成し,労働環境 の整備を要求している13)。この出来事は,①当時のパチンコ店の従業員が過酷な労働環 境での勤務を強いられていたこと,②しかし彼等個人の活動ではパチンコ店に対しその 改善を要求し実行させていくだけの権限がなかったこと,③パチンコ店経営者が店内環 境の改善の必要性を感じていなかったこと,これらを示していると言える。つまり,パ チンコ店内の環境整備と改善に向けた動きは,パチンコ店の従業員からの要請でなされ たというより,従業員を管理する経営者が彼等の勤務実態を不憫に思い,その改善の必 要性を痛感したことに背景があると考えられる。
2 1960 年代〜 1970 年代
2.1 パチンコ店内業務のオートメーション化
1950 年代に見られるようになったパチンコ業界内部からのパチンコ店内環境の改善へ の要請が強まるなか,1960 年代以降,店内業務のオートメーション化が進行する。これ により従業員の労働環境が飛躍的に改善され,彼等を過多労働から解放した。特にオー トメーション化に貢献したのが「自動玉補給装置」と「無人機」の登場であった。
自動玉補給装置は愛知県で竹屋会館というパチンコ店を経営していた竹内幸平が,
1958 年に通称「タコ足」と呼ばれる全店還元方式の自動玉補給装置を開発し,彼が経営 するパチンコ店に実験的に導入されたのが最初である。その後改良が重ねられ,1962 年 には島(シマ)14)還元方式による自動玉補給装置が誕生し,全国のパチンコ店へ急速に 普及する。その後西陣をはじめとする諸メーカーが自動玉補給装置の開発・販売を進め ていく。
一方無人機は,1961 年に全店還元方式の自動玉補給装置である「月光ライン」を開発
した西陣が 1960 年代には市場を席巻していき,無人機が市場に普及していくことになっ た15)。
2.2 オートメーション化による労働環境の変容
では自動玉補給装置と無人機の登場に見られるパチンコ店内での業務のオートメー ション化は,パチンコ店の労働環境にどのような変化をもたらしたのだろうか。
第 1 に,パチンコ店内での労働の機械化が促進されたことである。それまで特に女性 従業員の労働力に依存してきた遊技球磨きや遊技球の遊技機への補給といった肉体労働 を行う必要がなくなり,店内業務の自動化・合理化・省力化を一気に進展させた。
第 2 に,女性を中心とした労働者が日常的な労働過多から解放されたことである。上 記のように,店内業務の機械化・自動化・合理化・省力化は,労働時間の軽減や労働内 容の削減を実現したのであった。
第 3 に,パチンコ店において戦後以降の課題とされてきた慢性的な人手不足の問題を 大幅に改善したことである。第 1・第 2 で指摘した変化により,パチンコ店内での諸業務 から人手が要らなくなっていったのであった。一方でそれにより女性従業員は徐々にパ チンコ店から離れていき,パチンコ店の従業員の中心は女性から男性へと変質した。こ のことは女性が従業員だけでなく利用客にとってもパチンコ店に入店しづらくなるとい う傾向に拍車をかけることとなった。
第 4 に,パチンコ店内空間の有効活用が促進されるようになったことである。パチンコ 店内での業務の機械化の進行により,店内業務の中心であった先述の「裏回り」作業が 不要になったため,島の裏側に空間を設ける必要もなくなった。その空間を向かい合う 遊技機の背面を密着することでパチンコ店内に余剰空間が生まれることになった。この 点に関して玉村(1983)は,「この装置(自動玉補給装置:筆者注)は,人間が島の中に 入る必要をなくさせたため,島の幅を 30 〜 33cmの狭さでもよいことにした。島の幅が 狭くなれば,当然店内に余裕ができて従来より多くの台数が設置でき,大型化が可能と なった。しかし店によっては,この装置が一般化した時,パチンコ店はデラックス化の 傾向にあったため,そのスペースを椅子席(座り島と呼ばれる)やパブリック・スペー スに用いた場合も多い」16)と指摘した。
このように 1960 年代前半にはパチンコ店内の業務の機械化が進行し,従業員の労働環 境が大幅に改善された。更に 1970 年代から 1980 年代にかけては,自動玉貸機や自動計 算機の開発,さらにはコンピューター技術の導入17)による出玉率管理や会計の自動管理
がなされ,パチンコ店内の労働環境の更なる機械化・自動化が進められた。それにより
「他の業種に比べても最先端をいく産業のひとつ」18)と評価されるまでになった。これら 自動装置の開発とそれらのパチンコ店内への設置は,従来遊技機 300 台につき 30 人必要 だった従業員を,半分の 15 人にまで減少させることを可能にした19)。
一方,1970 年代のパチンコ業界では労務管理の確立が期待されていたが20),1970 年代 には先述の通り労働環境のハード面での整備に重点が置かれる傾向が強く,従業員の人 材育成に関しては積極的に尽力されたとは言えない。後者の充実は 1980 年代に入るまで 待たねばならなかった。
3 1980 年代
1980 年代に入ると,ホール企業では従業員の人材獲得と育成を重視する方向に転換す る。事実,1980 年代以降に発表される研究や雑誌記事には,れっきとしたサービス業とし てパチンコ産業を捉え,パチンコ店経営を担う従業員の育成を行うことの重要性や必要 性を強調するものがいくつか見られるようになる21)。一例として伊藤(1985)は 10(テ ン)カウント規制22)以降のパチンコ店経営における人材獲得および育成の重要性につい て以下のように述べていた。
「…10 カウント規制以後の営業を考えるとき,接客サービス業の原点に戻り,従業員 の接客姿勢を改善し,接客マナーの向上に努めるべきであろう。
それには,従業員の教育指導を徹底して行なわなければならない。とかくパチンコ 業界は従業員の労務管理とか教育研修についておざなりにしてきたきらいがある。
募集,採用の時点においても,簡単な面接で即決し即雇用する。研修の時間を省き,
即戦力となる経験者を優先するため,各地の遊技場を転々と渡り歩いてきた『ジプ シー店員』が対象となる。これでは,いつまでたっても従業員の質的向上は望めな い。
こうした旧来の既成概念を捨て,体質の改善から手がけなければ,接客マナーの 向上のための従業員教育を施したとしても,その成果を期待するのは容易ではない。
もっと根本的に改善しようとするならば,戦後の衣食住欠乏の時期の遺産ともいえ る『住込み』制度なども改革すべきではないだろうか。(省略)
遊技場は,その経営規模からいっても生来の『パチンコ屋』から大きく飛躍した組
織経営を行なわなければならない『企業』である。したがって,組織の構成員であ る従業員の質的向上を図るため,旧来の体質を改善し,教育指導を徹底的に行って,
サービス業の従業員としての意識をしっかり植えつけ,接客マナーの向上を図るこ とが急務である。」23)
3.1 人材の獲得と育成の必要性が強調されるようになった背景
では 1980 年代にホール企業で人材の獲得と育成の必要性が強調されるようになった背 景とは何だったのか。以下ではパチンコ業界要因(パチンコ業界に起因する要因)と社 会要因(日本社会で発生した出来事に起因する要因)に分けて考察したい。
3.1.1 パチンコ業界要因
第 1 に,1980 年に登場した株式会社三共(現
SANKYO)のフィーバーと株式会社平和
のゼロタイガーのヒットによってもたらされた第三次ブームへの反省が見られるように なったことである。1970 年代半ばから業績不振に陥るホール企業が増加するようになっ た。その背景として,① 1970 年代以降,活発化した郊外パチンコ店の乱立などから引き 起こされた過当競争が激化したこと,②オートメーション化の進展に伴うパチンコ店の 機械化とそれへの設備投資の結果,経営採算をとるための遊技機の大量保有(すなわち店 舗の大型化),さらに地価の高騰が複合的に影響しパチンコ店の固定費負担が増大したこ と,③ 上記①②にもかかわらず,パチンコ参加人口が増加せず一人当りの客単価も増加 しなかったこと,④ 1979 年に登場した業務用ビデオゲームであるインベーダーゲームが 日本全国で大流行し,旧来からのパチンコファンをも吸収してしまったこと,これら四点 を挙げられる24)。それだけにパチンコ業界では当時,この不況期を克服する遊技機の登 場が切望された。1980 年に登場した遊技機メーカーの三共が発表したフィーバーは,射 幸性もゲーム性も備えた画期的な遊技機としてパチンコファンに受容され,1981 年以降 全国を席巻した。他社メーカーもフィーバーと同様の遊技機を相次いで製造販売し,パ チンコ業界は第三次ブーム期に突入した。これにより 1970 年代後半期からパチンコ業界 が陥っていた業界停滞期を脱することにはなった。しかし,急激な射幸性の上昇を背景 にした第三次ブーム期の様相に対して悲観的に捉えるパチンコ関係者が出現するように なった。つまり,それ以前のパチンコブームの歴史を概観し,この第三次ブームが長期 化することはないと予見するパチンコ店経営者や業界研究者が出現するようになったの である。そして彼等の多くが,ブームの終息後にパチンコ店経営で重要になるのは,それまで重視されてきた遊技機の機種やその射幸性ではなく人的サービスであること,そ のためにはパチンコ店の従業員の質的向上を図る必要があることを察知していた。この ことが後のホール企業改革の背景のひとつとなったと言える。例えば,この第三次ブー ムに翳りが見え始めていた 1984 年には以下のような指摘がみられた。
「近い将来,現在のパチンコブーム(第三次ブーム:筆者注)のあとは必ず厳しい冬 の時代に直面すると見ている。そのような状況下でチェーン展開を続けるには,ただ 場所を求め,資本を投下し,規模を拡大するのではなく,立地条件の厳しい選択眼が 要求され,しかも,地域に合わせたきめの細かい営業が必要不可欠となる。そして,
それを可能にするのは人なのである。サービス業の成否は,あくまでも “ 人 ” の問題 である。」25)
このように,加熱した第三次ブームの反動としてホール企業では従来からのハード面に 固執した経営だけでなく,ソフト面も重視した付随的サービスの重要性が認識され,そ れをパチンコ店経営に導入する動きがみられるようになった。そしてそれを実行できる 人材の確保と育成の必要性が強調されるようになってきたのであった。
第 2 に,日系・在日系に関わらず,1980 年代には創業者から家業を引き継いだ二代目 経営者がパチンコ店の運営を担うようになったことである26)。今日の各ホール企業の経 営改革の牽引力となっているのが,二代目経営者であると言ってもよい。株式会社ダイナ ムの佐藤洋治や株式会社ピーアークホールディングスの庄司正英はその代表的経営者で ある。二代目経営者の社会化の過程を概観すると,おおよそ次のような共通点が見られ る。それは,①幼少期から就職するまで,創業者である父親の労働状況を目の当たりに し,パチンコ業界に身を置いて就業することの過酷さや困難さを,日常生活を通じて熟知 していたこと,②彼等が一般的観点から見ても高学歴を有している場合が多く,特定分野 の専門知識を持っていること,③短期・長期に関わらず,彼等がパチンコ業界で就業する ようになる以前に,パチンコ業界とは全く関連もない産業で就業していた経験を持って いること,④彼等の多くは当初,家業であるパチンコ業を継承するつもりはなかったが,
各々の諸事情(例えば,創業者であった父の死去)によってそれまでに勤務していた会 社を退社して家業を引き継がざるを得なくなったこと,である。これらの経験は,二代 目経営者が各ホール企業での経営改革を率先して実行していく精神的基盤を確立する上 で重要な要素であった。二代目経営者はパチンコ業がサービス業であることを再認識し,
サービス業において高品質なサービスを提供する源泉が人,すなわち従業員の質に依る ということをパチンコ業を継承する以前に勤務していた企業での勤務経験を通して認識 していく。その一方で,パチンコ業界外での勤務経験を有したが故に,パチンコ業界が構 造的に抱える不健全性や閉鎖性,さらに言えば他の業界・業種では考えられないような 異常性を明確に認識することにもなった。そして一般的なサービス業とパチンコ業界と の大きなギャップに苦悩しながらも,家業を継いでパチンコ店経営に専念して行かなく てはならない以上,まずは自身が経営するパチンコ店だけでも健全経営を推し進めてい くことを決意する。つまり「『パチンコ屋』の苦渋を味わってきた父の時代を見て育った 新世代は,社会的評価の重要性を身をもって知り抜いているのである」27)と言える。そ の過程で,パチンコ店従業員の質的向上を図るために,人材獲得だけでなく彼等に対す る育成の必要性を痛感するのであった。
3.1.2 社会要因
第 1 に,1983 年 9 月に東京ディズニーランドが開園したことである。パチンコ業界を 含め,レジャー産業全般で人材獲得と育成の重要性が認識されるようになったのは 1980 年代になってからである。その契機となったのが東京ディズニーランドの開園であった。
東京ディズニーランドはレジャー産業における人材育成の重要性を認識させるうえで重 要な役割を果たした。東京ディズニーランドが日本社会にもたらした影響についてはさ まざまに列挙できるが28),本稿との関連で重要なのは,東京ディズニーランドが日本の サービス産業全体にもたらした影響と,それによる生活者の購買スタイルの変化につい てである。従来レジャー・アミューズメント活動では施設の充実といったハード戦略こ そが重要であり,またそれだけで事足りると考えられてきた。しかし東京ディズニーラ ンドの開園により明らかにされた高品質な人的サービスとディズニーランド独自の徹底 した人材育成方法の存在は,レジャー・アミューズメント施設の経営においてもソフト 戦略を重視することの有効性と重要性を日本社会全般に認識させた。その影響はホール 企業にも及ぶことになり,パチンコ店経営におけるソフト戦略とそれを実践するための 人材教育の必要性が説かれていく重要な基盤となったのである。
第 2 に,1980 年代には日本のあらゆる産業でサービス経済化が確立されつつあり,第 三次産業(サービス産業)に対する社会的評価が高まってきたことである。日本におけ るサービス経済化傾向の実態とその背景を考察した先行研究がいくつか存在し,それら の実証分析が行われている。それらを概観する限り,日本では 1960 年代から 1980 年代
にかけて第三次産業の比率が増大し,日本の中心的産業へと変容していったことが解明 されている。こうした日本の産業界全体の動向になかで,パチンコ業界もサービス業と しての一翼を担っていることを認識するようになり,サービス業として相応しいパチン コ店経営のあり方を模索するようになった。
第 3 に,1980 年代にはレジャー産業で追及される戦略の方向性が大きく変化したこと である。1973 年に発生した第一次石油ショックに伴うインフレーション不況が原因で,
1960 年代から 1970 年代前半まで見られたマス・レジャー現象は一気に衰退した。その後,
生活者の多くは高度成長を背景とした社会流行に合わせたレジャーを志向するのではな く,個々の生活の興味や関心に合わせたレジャーを追求ようになった。つまりレジャーが 個性化・多様化・複雑化したのである。そのためレジャー関連の商品を供給する企業の マーケティング戦略も大きな転換を余儀なくされる。つまり,生活者個人の多様なニーズ を充足するレジャーの提供が求められるようになったのであり,それはホール企業も例 外ではなかった。1980 年代以前のホール企業では,遊技機に依存したマス戦略を展開す るのが一般的であった。しかし生活者のニーズの多様化がより鮮明になってきた 1980 年 代には,旧来のパチンコ店の経営方法ではホール企業間の生存競争に勝ち残っていけな いのではないかと懸念するホール企業が出現するようになった。そんななかでレジャー 産業全般での戦略転換に対応できるパチンコ店従業員の確保と育成が求められるように なったのであった。
第 4 に,女性の社会進出が見られるようになってきたことである。ここでいう女性の社 会進出とは,①女性がレジャー産業関連の企業に就職するようになってきたこと,②女性 がレジャー活動に積極的に参加するようになってきたこと,この二点の意味を持つ。これ をパチンコ店経営に当てはまると,ホール企業では女性の適切な就業場所としてホール 企業を整備するために,また顧客として女性を引き込めるようなパチンコ店経営を模索 していくために,優秀な人材の獲得・育成と彼女等による労働環境の整備が急務となって いたのである。なお,実際に女性がホール企業で本格的に就業するようになるのは 1990 年代になってからである。
3.2 ホール企業の姿勢
しかし実際に,1980 年代のホール企業の動向を総体的に観察すると,人材獲得および 育成がホール企業の成長にとって重要な戦略であるという認識が当時はまだ低かったと 言わざるを得ない。
先述の通り,フィーバー機が登場した 1980 年代初めより既にパチンコ業界や警察によ る規制の動きがみられた。例えば,全国遊技業協同組合(全遊協)29)を中心とするパチ ンコ業界によるフィーバー機の自主規制,パチンコに対する警察庁からの規制方針の提 示,1984 年の風俗営業適正化法の改正に伴う遊技機統一基準の制定がなされ,遊技機が 有していた射幸性の抑制に向けたさまざまな規制が 1980 年から 1985 年の短期間に繰り 返し行われた30)。しかしフィーバー機に対するパチンコファンの支持は高く,その支持を 背景に遊技機というハード面に依存したパチンコ店経営を継続させることが可能であっ た。したがって人材獲得および育成,さらには彼等を活用したサービス戦略の展開といっ たソフト面の充実にそれほど尽力されていたわけではなかった。
とはいえ 1980 年代のホール企業では,人材の獲得や育成の必要性が部分的に訴えられ 始めており,サービスにおけるソフト面の充実の必要性が強調されつつあったことは確 かである。例えば,株式会社太陽グループ(本社:北海道札幌市)の東原俊郎は,自身が パチンコ業界と初めて接点を持った 1980 年代後半に従業員の人材育成の必要性を感じ,
次のように述べている。
「私がこの業(パチンコ業界:筆者注)に入った頃のパチンコ屋の社員は,まったく もって接客をする態度ではなかった。客の気持ちなどは無視して,鍵をジャラジャ ラと鳴らし,サンダル履きで店内を闊歩している者もいた。社員の意識を高めるこ とが先決で,それがなくてはいくら店を増やしたところで失敗すると思う。」31)
また,韓昌祐(株式会社マルハン代表取締役会長)は,1980 年代前半の西原産業(マル ハンの前身となる企業)の人材育成について,次のように述べている。
「そのころ(第三次ブーム期の頃:筆者注)のパチンコ業界に,従業員の接客態度を 良くするという発想がまるでなかった。うち(西原産業:筆者注)は,いち早く接客 マナーをサービスの中心に取り入れていた。従業員の見だしなみや,店内のきちん とした清掃もお客さまへのサービスだと,ぼくは考えていた。(省略)パチンコ店舗 全体に清潔感をだす。レジャー産業が果たすべき目標の一つだと思った。パチンコ機 の技術革新と店舗の清潔感,それに従業員の接客態度の改善,ハード面とソフト面 の両方が向上することで,お客さまの層がさらに拡大していくと想像していた。」32)
このように,1980 年代には実際に人材の獲得や育成の重要性を認識するホール企業が 確かに存在はしたものの,それはごく少数に限られた。したがって当時のホール企業全 体を概観すると,実際には遊技機やその他のパチンコ店内の設備といったハード面に依 存した経営であっても十分にパチンコ店経営が成立していたこともあり,優秀な人材を 獲得し彼等を育成するというソフト面の拡充に力が注がれることはほとんどなかったと 言える。
4 1990 年代
1990 年代にはホール企業の人材獲得および育成が本格的に行われるようになる。ホー ル企業の伝統的な人材獲得方法として縁故採用と中途採用が見られたが,この時期から は定期採用手段として新卒採用33)が注目され,ホール企業の多くが実施していく。本章 ではホール企業による新卒採用を中心に着目し,1990 年代の人材獲得の動向について考 察する。
4.1 1990 年代の就職環境概観
本節では 1990 年代の就職環境全般について概観する。日本の大学(学部)の卒業者の 就職率は 1970 年代・1980 年代には 70%台を維持し 1991 年には 81.3%に達する。しかし その後,バブル経済の崩壊に伴うデフレ不況期に突入し,日本経済は所謂「失われた 10 年」を経験し,2003 年に過去最低の 55.1%を記録するまで減少傾向が継続された。一方 で 1990 年代には進学も就職もしていない学生の比率の増加傾向も確認される。1991 年以 降 2003 年まで増加傾向が見られ,2003 年には 22.5%に達しフリーターやニートの出現を 助長した34)。同時期の日本企業はバブル期に抱え込んだ諸コストや不良債権の処理に追 われ,経済の先行きの不透明さも影響して,人材マネジメントの見直しが進められた。そ のなかで特に強調されたのが中高年労働者のリストラと若年者の採用抑制であった35)。 本章との関連で重要なのは後者である。日本企業は 1990 年代全般にわたって若年者の採 用活動を抑制し人件費の削減を図った。原(2007)によると,大卒求人倍率は 1991 年の 2.86 倍をピークに,1990 年代は総体的に減少し続け,2000 年には 0.99 倍と 1 倍を割り込 んでいる。同時に 1990 年代は若年失業率と完全失業率ともに上昇し続け,前者は 1990 年 の 4.3%から 2003 年には 10.1%へ,後者は 1990 年の 2.1%から 2002 年には 5.4%に達し,
その後は 2000 年代後半に共に微減している36)。
4.2 ホール企業による新卒採用
1980 年代以降,パチンコ店に勤務する人々の質的向上の重要性とそれに向けた人材育 成の必要性が説かれるなかで,大手ホール企業を中心にパチンコ店での接客のあり方を 見直し,サービス業としてふさわしい接客サービスを模索する動きが加速化するように なった。そのため 1990 年代と 2000 年代を通して,ホール企業の社員や従業員によるパ チンコ店での接客態度は大幅に改善された。その背景のひとつには,大学生を中心とし た新卒者にターゲットを絞った人材採用戦略(いわゆる新卒採用)が展開されるように なったことを挙げられる。
パチンコ店は元来,ハードウェア(①立地条件:繁華街立地・駅前立地・郊外型ロー ドサイド立地等,②施設規模:設備台数・駐車台数等,③施設内容:パチンコ店単体型・
複合型等)やソフトウェア(①出玉,②遊技機の機種構成,③集客・販促のための各種 イベントや各種サービス)に重点を置いた経営がなされ続けられる一方で,ヒューマン ウェア(①各ホール企業が持つ人的財産(=人財),②スタッフによる人的サービス)を 軽視する傾向が強かった。しかし 1990 年代には 1980 年代から見られ始めたパチンコ業 界のイメージアップに向けた動きが徐々に業界全体に浸透するようになった。その結果,
ヒューマンウェアを重視しサービス産業としてパチンコ店を位置づけるホール企業が多 数出現し,組織の活性化と企業成長を実現する事例が見られ始めた37)。つまり 1990 年代 は,個別ホール企業が成長する前提条件として,さらにパチンコ業界のイメージアップ の前提条件としてヒューマンウェアの重要性が本格的に強調されるようになったのであ る。そして大手ホール企業を中心として,ヒューマンウェアの充実を図る上で大きな役 割を担ったのが新卒採用であった。ホール企業の人材獲得手段としての新卒採用の重要 性は 2000 年代および 2010 年代現時点においても変わっていない。
4.3 1990 年代前半の状況
各ホール企業が経営改革を遂行するにあたりまず重点を置いたのは,自社の健全経営 を可能にする人材を確保することであった。しかし先述の通り,旧来からの採用方法で は,勤務者が給与獲得という自己満足のためだけにパチンコ店に就業し,その目的を達成 すると躊躇なく退社する場合が多かった。これではこれまでの史的動向を見る限り,結 果としてパチンコ店での定着率の低い従業員しか採用できない可能性が高くなる。ホー ル企業改革の起動力として求められる人材は,ホール企業の将来的な企業成長と発展を 実現させるだけでなく,パチンコ業界の社会的評価の向上に貢献できる,流動性の低い
長期雇用可能な社員である。そこでホール企業が着目したのが,新卒採用による勤務者 の獲得であった。
しかし,1990 年代半ばまで,ホール企業では十分な人材獲得や育成がなされていたわ けではなく,新卒採用は少数のホール企業でしか行われていなかった。この点に関して,
例えば熊澤(2005)は,1990 年代前半までのホール企業の状況について,株式会社マル ハン(本社:京都府京都市)での勤務経験を振り返り,以下のように述べている。
「この当時,パチンコ店員の社会的地位は,相当に低いものでした。一階がパチンコ・
ホール,二階は社員寮という形態が圧倒的に多く,いわゆる『住み込み可』という
『慣行』が根付いており,着の身着のまま紙袋ひとつで現れた人間にも働ける環境が 用意されていました。そこには学歴差別も年齢差別もなく,また国籍も関係ない。近 隣に指名手配者の存在を知ると,警察は必ずパチンコ店に来ると噂されるほど荒れ た状態でした。そんな状況であるわがパチンコ店に接客サービスなど,期待できるは ずもありません。しかし,私たちが理想としたのは,社員に他業種並みのサービスマ ナーを徹底させることでした。それには,何よりも先に社員の意識改革が必要です。
周囲を見渡してみても,共感者になってくれそうな人は,どこにも見当たりません でした。それどころか,感じられるのは,『そんなことをやって何になる』という冷 たい視線のみでした。」38)
上記の熊澤の主張からも分るように,1990 年代前半から半ばにかけて,いくつかのホー ル企業で社員の経営改革に向けた意識変化や新卒採用に見られる人材獲得に向けた動き が見られたものの,ホール企業内での賛同を得られにくく思うように人材の獲得と育成 が進められなかった。
このように 1990 年代前半から半ばには,確かにパチンコ業界のイメージアップの必要 性が訴えられ始め,その実現に向けた個別ホール企業による人材育成の重要性が主張さ れるようになりつつあったが39),全体的には 1980 年代までと同様の状況が継続されてい た。
4.4 なぜ,新卒採用が進められたのか
ホール企業による新卒採用は,1987 年にピーアーク株式会社(本社:東京都足立区),
1989 年にオータグループ(本社:東京都新宿区)が先駆けて開始したのを皮切りに,1991
年には現在ホール企業最大手のマルハンが新卒採用を開始するなど,1990 年代に入って 新卒採用はその数を増加させ,本格的に行われるようになった。当時の大手ホール企業 の動向について,『日本経済新聞』(1995 年 4 月 21 日号)は以下のように報じた。
「景気低迷で新卒採用の絞り込みが各業界に広がっているが,大手パチンコチェーン 会社の間で大卒の新規採用を大幅に増やす動きが相次いでいる。来春に百人以上の 新卒採用を計画する企業もある。大卒の定期採用で幹部候補生を育成し,積極出店 や業容拡大に対応するのが狙い。大卒採用を増やすパチンコ会社の多くは株式公開 に向けて経営の健全化・近代化を進めており,就職難を『追い風』に人材の強化を 図る。」40)
では,1990 年代半ば以降にこのような活発な新卒採用が行われるようになった背景に は何があったと考えられるか。以下で詳しく考察する。
4.4.1 パチンコ業界内外からの要請
第 1 に,パチンコ業界の内部と外部の両方から業界のイメージアップの必要性が要請 されるようになったことである。
まず,パチンコ業界内からの要請に関してである。1988 年には大手遊技機メーカーの株 式会社平和がパチンコ業界で最初となる株式店頭公開を実現した。これは不透明性や閉 鎖性の高さが問題にされ続けてきたパチンコ業界にとっての画期的な出来事となった。
平和の上場を皮切りに,パチンコ関連企業や業界団体の体質改善を求める動きがみられ,
メーカーに続いてホール企業の上場を目指す動きが加速化した。しかし一方で,1989 年 にはパチンコ業界から特定政党への多額の献金流出がみられたという所謂「パチンコ疑 惑」と呼ばれる事件が発覚し,さらに 1995 年から 1997 年にかけては,パチンコ・プリ ペイドカード変造・偽造事件の多発によりカード発行会社の被害損額が約 630 億円に達 したこと,遊技機の不法投棄が全国的に行われていたことが週刊誌等で暴露されたこと,
パチンコ依存症に関連した事件・事故が多発したこと等,業界のイメージアップの実現に 向けて尽力するパチンコ業界にとっては,むしろ逆効果となる出来事が立て続けに発生 した。これら 1995 年から 1997 年にかけて発生したパチンコ業界内でのさまざまな諸問題 は,当時新聞・雑誌・テレビニュース等で頻繁に取り上げられ,パチンコ業界が構造的に 抱えながらもそれまで明らかにされてこなかったマイナスの側面が次々に暴露されるこ
とになった。そのことがパチンコ業界,さらにはパチンコという遊技自体に対する社会的 評価を著しく低下させることになった。パチンコ業界はこうした社会的批判を回避する 手段のひとつとして,1996 年から射幸性が著しく高いと判断された遊技機を「社会的不 適合機」とみなし,それら約 70 万 4,000 台が全国のパチンコ店から強制撤去された。し かし 1990 年代に登場し遊技機の射幸性の上昇に大きく影響を与えた
CR
(Card Reader)機のほとんどが対象外だったことから,パチンコ業界に対する更なる批判を招く結果と なった。
この時期に端を発し今日まで継続するパチンコ業界の停滞は,パチンコの市場規模や 参加人口の低迷傾向からも窺える。『レジャー白書』によると,市場規模はピークの 1994 年には 30 兆 4,780 億円に達したが,その後は今日まで減少傾向が続き 2010 年時点では 19 兆 3800 億円にまで減少している。また参加人口は 1990 年代前半では総じて 2,900 万 人を維持したが,1990 年代後半以降今日までは総体的な減少傾向が続き,2010 年時点で は 1,670 万人となっている41)。さらに 1990 年代以降の市場規模と参加人口の動向から次 のことを指摘できる。それはパチンコ市場規模が 1990 年代には 28 兆円から 30 兆円の水 準を維持しているにもかかわらず,パチンコ参加人口は最近 10 年間だけを見ても 1000 万 人以上減少していることから,遊技者一人あたりの一回の投資金額が増加している傾向 が窺えることである。このことは,1990 年代以降のパチンコがヘビーユーザー中心の顧 客構成となる一方で,ライトユーザーがパチンコを遊技しなくなっていることをも意味 している42)。こうしたなかでの新卒採用は,①先述の諸事件によって損なわれたパチン コ業界に対する社会的信頼を回復させること,②パチンコ参加人口の減少に歯止めをか けること,③射幸性が強力に追求されつつあったパチンコ店経営に新しいサービス(特に 付随的サービス)を導入し,射幸性のみに依らないパチンコ店の在り方を模索すること,
これらを実現するための重要な手段として捉えられたのである。大学卒業者や大学院卒 業者をホール企業の社員として就職させることで,ホール企業が一企業としての体裁を 有した社会的存在であること,また日本の一般的企業と同様の手法である新卒採用の方 法による人材獲得を行うことで,企業としての健全性をアピールでき,将来的な株式上 場に向けた足がかりとしたいという意図がホール企業にはあった。
一方,パチンコ業界外からの要請に関して,一例として 1980 年代から 1990 年代前半に 進められた流通系企業(例えば,西友・ダイエー等)や運輸系企業(例えば,東武鉄道・
神奈川中央交通・琵琶湖汽船・神姫バス等)をはじめとする異業種企業によるパチンコ 事業への参入(特にパチンコ店経営の開始)の動きを挙げられる43)。異業種企業の参入
に対しパチンコ業界が脅威に感じたことのひとつに,異業種企業が従来のホール企業が 疎かにしてきた付随的サービスの充実に注力しやすい立場にあることを指摘できる。そ の背景には,異業種企業の多くが本業から人材を転用することで,彼等が本業で培った そのノウハウをパチンコ事業に応用でき,また本業のネームブランドを活用できること から,パチンコ事業での付随的サービスの展開を可能にする人材を確保しやすいことが あった。先述の通り,ホール企業は人材獲得および育成の重要性と必要性を認識しそれ の実行が進められていたものの,パチンコ全体に対する社会的イメージの悪さが障害と なり,人材確保および彼等の育成が思うように実現できなかった。ホール企業では優秀 な人材を確保しやすく従来のホール企業では見られなかったさまざまなサービス提供を 行うと考えられた異業種企業に対して,業界のイメージアップの一翼を担う存在として の期待と,パチンコ業界再編の可能性があることへの脅威,これら相反する見方がなさ れていた。いずれにせよ,こうした異業種企業のパチンコ事業への参入の動きが一要因 となって,既存のホール企業が付随的サービスを長期的に行っていくための人材獲得の 一環として,まずは大手企業を中心として新卒採用が進められていった。
4.4.2 旧来からの伝統的経営手法
第 2 に,旧来から残存する個人や家族によるパチンコ店経営では,旧態依然の経営方法 から脱皮することができず,業界のイメージアップに向けた経営改革を遂行していくこ とができないという危惧があったことである。ホール企業改革の目的は,従来のパチン コ店経営ではほとんど重視されてこなかった付随的サービスの充実を図りパチンコ店利 用客の顧客満足度を向上させること,またホール企業に対する社会的評価を高めてパチ ンコ業界のイメージアップの一端を担うことである。しかしこれらを長期間にわたって 実施し実現していくためには,旧来のパチンコ店経営ではなされてこなかった全く新し い経営戦略が必要とされる。そのため,高い専門知識や教養を持ち合わせていると期待 される大学卒業者,さらには大学院卒業者を社員として採用することで,業界のイメー ジアップに向けた動きに対応しようとしたのであった。
4.4.3 長期的視野でのホール企業改革の実施
第 3 に,ホール企業改革の実現には長期的視野が求められることである。先述の通り,従 来パチンコ店の従業員はパートやアルバイトといった短期雇用者が大半であった。彼等 の多くはホール企業の成長発展にためではなく,彼等自身の給与獲得を最大かつ唯一の
目的としてパチンコ店に就業していたため,給与を獲得した直後に退社してしまうケー スがしばしば見られた。このように流動性が高くパチンコ店での定着率の低いパート従 業員やアルバイト従業員がホール企業の経営改革の遂行を長期的に担うことは不可能で あった。そこでホール企業では,自社ホール企業への明確な就職意欲を持ち社員として 長期間雇用が可能な新卒者の採用を積極的に行うようになったのである。
4.4.4 困難な人材確保
第 4 に,ホール企業では安定した人材の確保が難しいことである。パチンコ店の成長 性を圧迫する要因として,ホール企業の成長を支える人材の不足,後継者難,幹部役員 や技術者の不足が指摘されているが44),新卒採用は人材の安定確保によるパチンコ店経 営の基盤を安定させるうえで重要な人事戦略であるとみなされている。
4.4.5 大学生・大学院生への期待
第 5 に,パチンコ店経営の新しいあり方を模索していたホール企業が,大学生や大学 院生の持つ発想力や企画力に期待していたことである。この点に関して『日経産業新聞』
(1994 年 9 月 19 日号)には以下のように述べられている。
「パチンコ大手が採用に積極的なのは株式公開を控えていることに加え,各社とも ゲームセンターを併設した複合店など新しいタイプの店舗づくりを進めており,今 後もこうした特色のある店を設計していくためには大卒社員の企画力が必要と見て いることがある。」45)
ホール企業は採用予定の大学生や大学院生が経済学・経営学・商学・法学をはじめとす る学術分野を習得し,それぞれの分野に精通していることを期待している。そしてそれ らをホール企業の運営に応用させることで,新しいパチンコ店経営のあり方を模索する うえで有効であると考えている。また学生は大学時代や大学院時代を通して,社会人と しての基礎的マナーを身につけていることも期待されている。接客サービスの質的向上 を図りたいホール企業にとってこのことの意味は大きい。
4.4.6 ホール企業のイメージ戦略
第 6 に,ホール企業が新卒採用を実施しているという事実自体が,そのホール企業に対 する社会的評価を高めるイメージ戦略として活用できることである。ホール企業による 新卒の定期採用の開始は,パチンコ業界全体とまでは言えなくとも,少なくとも個々の ホール企業がパチンコ業界の長年の課題であった閉鎖的特性を改善しようと試みている ことを社会的にアピールする機会でもある。つまり,ホール企業が日本社会に存在する 一般企業と同様に,積極的に社会との接点を持ち,社会に対してオープンな企業である
(実際にはそうでなくても,そうであるかのような)イメージを与える戦略のひとつとし て,新卒採用を活用することができるのである。
4.4.7 渋谷パチンコタワーの完成
第 7 に,1995 年 7 月 7 日に株式会社マルハンが「渋谷パチンコタワー」をオープンさ せたことである。渋谷パチンコタワーの成功は,パチンコ業界ばかりでなくマスコミか らも注目を集め,さまざまな場面で取り上げられる注目のレジャー施設となった46)。渋 谷パチンコタワーでは,それまでホール企業で積極的には実践されてこなかった接客及 びそれを基盤とした付随的サービスを徹底して実施された。
先述の通り,パチンコ業界では 1980 年代には既にパチンコ店従業員の人材育成の重要 性と必要性が認識されつつあったにも関わらず,実際に人材育成に尽力するホール企業 が少ないまま 1990 年代前半に至っていた。この時期のホール企業では,経営者の意識の なかでは人材育成を伴う接客重視の一般的なサービス産業への転換の重要性が認識され つつも,それを実現するための具体的方法が確立されず,その効果についても未知であっ たこと,さらには 1990 年代前半に登場した高射幸性を有する
CR
機のヒットという状況 が見られたことも影響し,旧態依然の経営を継続してさえおればパチンコ店経営が成立 し得たため,実際のパチンコ店経営において人材獲得および育成に取組むホール企業は ほとんど見られなかった。ところが渋谷パチンコタワーの成功は,ホール企業の社員や 従業員に対する人材育成の有効性を示すうえでの見本となったのであり,ホール企業が 人材獲得と育成に取組み始める契機のひとつとなったと言えよう。5 2000 年代
5.1 2000 年代の就職環境概観
2000 年代に入り今日に至るまで,経営改革を実践するホール企業での人材採用の中心 的方法は新卒採用であり続けている。しかし 2000 年代になり,ホール企業の新卒採用活 動は 1990 年代のように円滑に行いにくくなってきた。それは,1990 年代まで採用活動を 控えてきた日本の諸産業全般で,2000 年代前中期にかけて新卒者の採用活動が積極的に 行われるようになったからである。
2000 年代に入ると大学卒業者数に占める就職者数が増加し就職率を高めるようになっ た。過去最低の就職率を記録した 2003 年の 55.1%を境に徐々に就職率は増加し,2008 年には 69.9%にまで回復した。同時に,進学も就職もしていない学生の比率も 2003 年以 降,2008 年まで減少し続けた47)。また大卒求人倍率は 2000 年の 0.99 倍から徐々に増加 し,2008 年には 2.14 倍まで回復している48)。
つまり 1990 年代には買い手市場だった労働市場が,2000 年代には逆に売り手市場に変 貌し 2008 年後半まで継続されたのであった。その背景として,① 1990 年代以降,デフレ 不況下にあった日本経済に回復の兆しがみられるようになったこと,②「団塊の世代」に 属する約 800 万人もの労働者が一斉退職するという,いわゆる「2007 年問題」がクロー ズアップされるようになったこと,③企業側だけでなく,就職を希望する学生も就職意欲 が高まってきていること,④日本企業の多くで 1990 年代には若年者の採用を抑制してい たため,2000 年代になり将来の企業成長を担う若年層の人材不足が露呈したこと49),こ れらを指摘できる。こうしたなか特に大学生(大卒予定者)の就職活動への参加が活発 化しており,大卒者への求人数が 1980 年代のバブル経済期を上回る事態となった50)。
2000 年代における売り手市場への移行は,学生にとっては彼等が企業に採用され就職 できる可能性を高めるものであり,実際に新卒者が就職活動において複数企業から内定 を獲得するという傾向を顕著にした。一方,採用する企業側から注目すると,採用を希望 する学生に内定を出したとしても学生が入社しないという事例が増加し,新卒者の獲得 がより困難になりつつあることを意味した。そこで企業としては,①二次募集・三次募 集の機会を設けて学生と企業との接触機会を増やす,②内定辞退者を見越して前もって 採用枠を広げておく,③採用基準を落とす,といった対応で学生の獲得に躍起になった。
しかし 2008 年末に発生したアメリカでのサブプライムローン問題に端を発する世界同 時金融危機は日本経済にも深刻な影響をもたらした。製造業を中心に非正規労働者の雇
用契約の一方的な打ち切りが横行し,いわゆる「派遣切り」と呼ばれる問題を表面化させ ている。また内定取得者が企業から一方的に内定を取り消されるというケースも発生し,
派遣切りと合わせて社会問題化した。いずれにせよ,2000 年代前半から好調だった就職 環境は 2000 年代半ばには急激に悪化した。
5.2 ホール企業による新規採用が困難になった背景
日本の産業界では 2003 年頃から 2008 年末に世界規模での金融危機が発生するまで,全 般的に採用活動が活発化し企業の学生採用枠が拡大してきた。しかし,そのことがホール 企業の採用活動も活発化させるように作用したわけではなかった。約 20 年近くにわたっ て確立されてきた新卒採用を軸とするホール企業の採用活動は,2000 年代に入って各 ホール企業とも計画した通りに展開できない状況が生じた。ではなぜ,2000 年代に入って ホール企業の新卒採用による人材獲得が困難になってきたのであろうか。ここでは 2008 年末までの状況について,パチンコ業界要因と社会要因の二点から考察する。
5.2.1 パチンコ業界要因
パチンコ業界要因として,1990 年代にはパチンコ業界の成長・発展が進行し,2000 年 代以降も有望な産業として期待されていたにも関わらず,2000 年代にはその期待とは裏 腹に,現実にはパチンコ業界の衰退傾向が顕著に現れるようになったことである。その点 については,先述のパチンコの市場規模や参加人口の動向を見ても,1990 年代半ば以降の パチンコ業界の停滞傾向を明確に読み取れる。1990 年代以降,新卒採用を展開するホー ル企業では自社の健全性や成長性は勿論のこと,パチンコ業界の明るい将来性をも同時 にアピールすることで新卒者の獲得を行ってきた。ところが 2000 年代に入ってもホール 企業がアピールし続けてきたパチンコ業界の健全性や成長性が必ずしも達成されていな いという現実が明白になってきた。健全性に関しては,業界健全化に向けた取組みがホー ル企業だけでなく業界団体主導の下でも展開されつつあるが,そうした活動が生活者に 対して広く情報公開されにくいこともあり,今日もなお十分な改善がなされているわけ ではなく,生活者のパチンコに対するイメージは決して良好なものとはなっていない51)。 成長性に関しては,新卒者がホール企業側からアピールを受けてきたほどの劇的な成長 が期待できず,実際には先述のようにパチンコの市場規模や参加人口が目に見える形で 縮小する様相を呈してきている。こうした現実のパチンコ業界の状況を考慮した結果,新 卒者がパチンコ業界への就職を控えるようになったのではないかと考えられる。