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近代化への挑戦

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近代化への挑戦

著者 コビルスキ アレクサンドラ・M., 北垣 宗治

雑誌名 同志社談叢

号 35

ページ 1‑27

発行年 2015‑03‑01

権利 同志社大学同志社社史資料センター

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014643

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こ れ は 同 志 社 大 学 大 学 院 に 留 学 し た こ と の あ る Aleksandra Majstorac Kobiljski 女史が、2013 年に City University of New York に提出した博士論文の序章を、著者の了解のもとに訳したものである。

アメリカン・ボード宣教師たちが深く関わってきたレバノンの American University の前身であるシリア・プロテスタント・カレッ ジと同志社英学校の建学の事情を、社会的・文化的に、グローバルな 視点から関連付けた論考である。論文のタイトルは

“Learning to Be

Modern: American Missionaries, Arab Intellectuals, and Japanese Educators in Search of Modern Education, 1860-1900”であるが、長 いので、『近代化への挑戦』とした。北垣宗治

近代化への挑戦

アレクサンドラ・M. コビルスキ 北垣 宗治訳

国の歴史は国の枠を越えて進む:序に代えて

1874 年 10 月のことである。日本人でプロテスタントへの改宗者、そし てアメリカン・ボードという、当時北アメリカで最も財政豊かな宣教団体 の一つによって新たに宣教師に任職された新島襄は、ボードの年次大会の 秩序立った進行を妨害した。彼は説教壇に立ち、出発直前の別れの言葉を 述べる代わりに、日本に学校を立ち上げるための資金を求め、その資金の 約束が得られるまで、その場を立ち去ることを拒否したのであった。この 大それた行為に驚いた人もいたであろうが、深い印象を受けた人もいた。

何人かの手が挙がり、数分とたたないうちに、提案された日本における学

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校のために 3,500 ドルが約束された(2013 年の貨幣価値からすると、固く 見積もって、約 100 万ドルに相当する。)⑵ 新島襄(ジョウはジョゼフの短 縮形)はこの金を手にして帰国し、1875 年に、京都で同志社英学校を開校 した。これはプロテスタントの宣教団体による資金援助のもとに開校した 初めての、セキュラーなカリキュラムをもつ学校だった。[訳者注:新島は その金を携えて帰国したわけでない。ハーディーが会計の責任者となり、

請求があるまでボードが保管していた。また、多数の文献は新島に約束さ れた金額は約 5,000 ドルだったとしているが、著者は

Missionary Herald に

基き、約 3,500 ドルとする。]

この論文の主眼は同志社の起源を論じることである。同志社は小さな学校 として出発したが、二十一世紀の日本では私立の指導的な研究大学の一つに まで成長した。だが十九世紀の地球における新しい知識創造の場に、いかに して多様な人々が協力してきたかを示す一例である。ここに描写する同志社 の系統図は、これまでに書かれた歴史、たとえば日本に移されたアーモスト またはイェールといった記述法が示すよりもさらに複雑である。1860 年か ら 1875 年に至る期間に生起した出来事の影響とか、改革の諸計画の混ざり 合いの輪郭図を描くならば、いかにして京都でリベラル・アーツ・カレッジ を想像することが可能になったのか、そしてレバント[レバノンやシリア、

イスラエルの地域]から受ける霊感と、ニュー・イングランドから来る金と、

明治の改革が作り出した要求とに押されてそれを立ち上げることができたか を示すことになるであろう。そうすることにおいて本書は、ますますグロー バル化していく世界の歴史をいかにして記述するのかという、現在進行中の 歴史記述論争に貢献することになるであろう。その核心の部分においてこ の物語は、十九世紀の知的世界がいかに未曾有の仕方で色々な糸で織りなさ れてきたか、その具体的な実例に光を当てる。この論考は 1875 年に、見捨 てられたミヤコ京都の一隅に学校が建てられたという、一見小さな出来事が、

日本国内の出来事として限定される限りは理解できないこと、あるいは「日

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本と西洋」式の限定的な軸足では理解できないことを示す。このようにして、

本書は日本史を地球規模の遠近関係に置くための一歩なのである。それは具 体的に見ると、ここ二十年間に、アメリカ史の記述が、他の地域の歴史と融 合しはじめてきた状況に似ている

明治のプロジェクトの根底にあるレバント的なもの

1860 年の夏の初め頃、レバノンの山中で二つの部族が激しく衝突し、そ の国の近代史の流れを変えた。この流血の惨事の結果、推定 5,000 人ないし 11,000 人の犠牲者が出、何千人という難民が山を下って海岸の町ベイルー トに達し、市内の宗派別の割合に大きな変化をもたらした。対立が治まる より先に、ベイルートを基盤とするアラブの知識人ブトロス・アル・ブス タニ(Butros al-Bustani)は抗争の繰返しを避けるために小冊子を書き始 めた。小冊子の一つにおいて彼は、学校が異なる部族から来た若者を同じ 教室に入れると部族間の関係がよくなり、将来の暴力を防ぐことができる、

と断言した。1860 年に彼はそのような学校を開く計画を立て始め、それ を適切にもナショナル・アカデミーと呼んだ。学校は 1862 年に開校し、

ブスタニのナショナル・アカデミーはベイルートの「学校ブーム」のさき がけとなった。そのユニークな点は、学校にあらゆる宗派の子どもたちを、

改宗させる目的なしに受け入れたことであった

最初ブスタニの、改宗を強要しない中等学校を開校するという計画は、

のちに新島襄が参加したアメリカの宣教団体[アメリカン・ボード]の、

ベイルートで伝道している人々を怒らせた。彼らからすると、ブスタニは 彼らの最も貴重な[キリスト教への]改宗者だった。だから彼が伝道計画 を斥けたことに失望せざるをえなかった。しかしそれ以後に起こったこと から判断すると、宣教師たちは行動へと駆り立てられたのだった。ブスタ ニが計画したような学校ができると、彼ら自身の影響力が減少することを 恐れて、ベイルートのアメリカ人宣教師たちはボストンの本部に対して、

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カレッジを開く許可を申請せざるをえないと感じたのである。はっきりと 書いているわけではないが、綿密に調べてみると、宣教師たちの心にあっ たのは、カリキュラムについてはナショナル・アカデミーに類似したもの であるが、宣教の戦略では異なる(つまりプロテスタント方式のチャペル 出席と聖書科は必修)ものであった。ベイルートを基盤とするアメリカの 宣教師たちが請願した「文学的カレッジ」(彼らはそう名付けた)は危険な 動きだった。彼らを雇い、後には新島もそれに参加した宣教団体はそのよ うな直観的な計画を財政的に支援する余裕はあった。しかしながら組織を 動かしていたのは特定のプロテスタントの流れの人々であり、彼らはリベ ラルな神学教育はもちろんのこと、改宗者を出すことを意図しない教育に ミッションの予算を使うことに長らく反対してきた。このようにして[ア メリカン・]ボードは、自分のエネルギーを識字教育以上のものに使おう とする宣教師たちに、心を入れ替えるか、それともミッションから出て行 くか、というところまで強く迫るようになった。ベイルートとボストンの 間で何か月も続いた交渉の結果、請願者たちはしぶしぶながらの祝福と、

ごく僅かな財政支援を与えられた。彼らはさらに頑張り続け、また四年間 の募金活動の後に、1866 年、つまりブスタニのナショナル・アカデミーの 創立五年目に、そのアカデミーの隣にシリア・プロテスタント・カレッジ

(Syrian Protestant College: SPC: 現 在 の ベ イ ル ー ト の ア メ リ カ ン 大 学

[American University])が開校した。アメリカン・ボードの保守派はこの カレッジ計画にうんざりしていたが、ニュー・イングランドの宣教関係出 版社はやがて、それを「高貴な事業」の偉大な一例としてもてはやし始め た。ブスタニの学校は、競争相手とも、またアメリカ人たちの仕事を動機 付けたものとも、書かれていない。その学校の話はむしろ、光を東方にも たらしてアラブ人を教化しようという、アメリカ人の開拓者的な努力の物 語として焼き直されていた。それは宣教努力の自然な発展から、ほぼ必然 的に生み出されたものとされたのである

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同志社大学の起源に関して歴史家が払う関心に関する限り、彼らは二つ の点で一致しているようである。新島の演説が大成功だったことと、それ が同志社英学校受胎の瞬間だったことである。けれども、なぜ・ ・その演説が 成功だったのかという問題は、日本語または英語で書かれた歴史では、今 日まで学問的に注目されてこなかった。これは主として、過去何十年にも 亘って初期の同志社史の大部分が、尊敬すべき創立者新島襄の人物研究に 集中してきたという事実によるのである。この図式の範囲であると、新島 の成功は暗黙のうちに彼自身のカリスマに帰せられた。すなわち新島こそ はサムライ的反逆者であり、無一文のままでボストンに到着し、ニュー・

イングランドの高等教育(フィリップス・アカデミー、アーモスト大学、

アンドーヴァー神学校)ののろしの許に道を切り開き、途中でキリスト教 に改宗し、アメリカン・ボードの最初の外国人宣教師となって帰国(ただ し給料は半額で)した人物であった。

新島が驚くべき生涯を送った稀有の人物だったことは疑いない。しかし 本書は、彼の辿った道というのは、実は彼がカレッジを創立する決意をす る前に、十年間に亘ってベイルートとボストンの間で生起した出来事や戦 いによって敷設されていた道であったことを示すものである。新島はシリ ア・プロテスタント・カレッジの計画を知っていた。それはアメリカン・ボー ドのすべての宣教師と宣教師志願者にとって必読の書であったボードの機 関誌[『ミッショナリー・ヘラルド』]にきちきち報告されていたからである。

彼はベイルートのカレッジをモデルとして、それにはっきりと言及してい るわけではない。またベイルートの宣教師団の誰かと文通していた記録も ない。にもかかわらず、同志社を創立しようとしていた新島は、意識的に か無意識的にかは別として、ベイルートの先例に習い、或る程度寄付者や 支援者の同じネットワークを利用した。ブスタニのナショナル・アカデミー から少なくとも或る程度霊感を受けて変更したけれど、ミッションが支援 する高等教育機関の問題をめぐる、指導的宣教師たちの戦いは、或る程度

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まで新島の戦いでもあったのである。1860 年代のベイルートの請願が或る 程度成功したことと、そのことから起こった動き、つまり SPC が展開した おかげで、新島は 1870 年代に彼のカレッジ計画の十分な支援を得ることに 成功したのであった。新島が「教師と説教者を育成するための訓練の機関」

を求めることができたのは主として、ラットランド集会に至るまでの十年 間に、SPC が「悪」であるという考えが、宣教事業の最先端まで行きつい ていたからであった。

このことから、もう一つのカギとなる要点が導かれる。すなわち京都の 同志社やベイルートの先例のような、新しい知識生産の機関は、差し迫っ た地域的状況から現れた動きなのであり、それはまた地域的に入手可能な 有能さと思想によって勢力を補充され、その土地や遠方のさまざまな中間 協力者の協力によって容易ならしめられてきた。このようにして同志社は、

思想やモデルが「西洋」から輸入され、「残りの人」によって吸収されるか、

ではなくて、むしろ、このような思想やモデルが対話や運動を通して明確 なものとなることを調べてみる場所として、見事に役立つのである。事実、

同志社の歴史が示すことは、宣教師というものは、或る時には思想の流れ の重要な通路であり、さらに重要なことは、金の流れの通路であったが、

別の時にはベイルートのブスタニや京都の新島が明確に示したように、そ の地域の改革を指導する者ではなくて、それに従う者だということである。

啓蒙期の旗の下に包括される、十八世紀の文化的原動力に関する最近の 研究は、人々が大陸横断的移動性、ますます増加するグローバルな統合、

そして帝国主義に応じた発展だったことを示している。たとえば十九世紀 の日本やインドについての研究は、ヨーロッパないし「西洋の科学」とし て一括されてきたものの中には、事実上別の場所で作られたものがあると いうことを示している。本書は、近代の学問を教授する学校がその例外で なかったことを示すものである。アメリカのプロテスタントが世界にもた らしたリベラルな教育は、出会いと相互作用から起こる思想と霊感の物語

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なのであり、その場合当事者たちはすべて挑戦と霊感を受けるのである。

単なるモデルの移築という考え方は、改革の諸計画と、さまざまなネット ワークと、複雑で階層性のある学校を生み出した原動力との合流に対して、

正当な評価とはならないように思われる。SPC やそれより少し後の同志社 のカリキュラムは、アーモスト大学のモデルに負うのと同様、ブスタニの ナショナル・アカデミーのモデルに多く負うている。中東におけるアメリ カの宣教師団についての最近の研究は、出会い(相克的であれ協調的であれ)

がどの程度まで両方の側で新しい実体と新しい機会を可能ならしめたのか を示している。けれども、いくつかの例外はあるにしても、それはただ二 つの陣営のままである。本書は同志社の初期の歴史を三つの軸足で分けよ うとする試みである。すなわち諸計画と、さまざまなネットワークと、そ して財政支援の問題の入り組んだものを描写することによって、同志社を ベイルートの SPC ならびに(間接的ながら)ブスタニのナショナル・アカ デミーに接続することになる。

上からの近代化

SPC も同志社もともに、ベイルートと京都の宣教師たちと改革をめざす 指導者たちによって創立された。彼らはアメリカのプロテスタント宣教師 たちを、何よりも先ず、貴重な知識を持ち、それぞれアラブの地域社会の 活性化と近代日本の建設に貢献することのできる教育者と見做した。それ ぞれのキャンパスとカリキュラムはアメリカのモデルに似ていたけれども、

これらの学校はニュー・イングランドから移植されたものではなくて、新 しい世代の指導者を教育するという地域の欲求をはっきりと満足させる、

地域に根をおろした機関であった。そうするために彼らは、アメリカのプ ロテスタント宣教師の専門知識やコネを含め、利用できるあらゆるものを 動員した。学校は学生と同様、教師にとっても訓練の場となった。一方で は学生たちが経済学、英文学、歴史、科学関係の諸科目について細々とノー

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ト筆記をしていたが、他方では宣教師である教師たちは宣教から目をそら せて、学生たちがこがれ求めるセキュラーな[伝道目的とは無関係な]科 目に目を向けた。同じく重要なことであるが、宣教師たちは外国文化の中 での生活に慣れていくうちに、徐々に彼らは、自分の宗教的伝統は世界中 の多くの宗教的伝統の一つに過ぎないことを理解するようになった。明確 なかたちでそう記述していなかったとしても。

このような、見た目に変則と思われること、すなわち公然たる宣教団体 に支援される大部分がセキュラーなカリキュラムの学校というのは、近代 性がベイルートや京都のような場所に形成された過程という大型の問題を 覗き見るのに、まさに持ってこいの場所なのである。近代を形成する科学 と信仰の相互作用を通して、地域的なものとグローバルなものとが共に創 り出したこの種の学校は、十九世紀後半の宗教性と科学教育と非西洋的近 代性の交差点を探究するための場所なのである。こうした学校の起源、学 校が直面した挑戦、その結果起こった変容を理解することによって、十九 世紀の地球的規模における社会的・文化的改革に教育がいかに中心的な働 きをしたかに、光をあてることになるであろう。

近代、その起源と結果が何を意味するのかという問題にはさまざまな意 見が提出され、論じられてきた。これが近代史の分野の特徴である。実際 のところ、近代の定義自体が流動的である。けれども殆どの歴史家は近代 の真ん中に世俗主義(セキュラリズム)があるという点で一致する。ヨーロッ パ史の最近の研究はこの見解に目立った変更を加え、啓蒙時代の議論の中 に宗教を引き戻した。今出されている議論は、宗教が近代ヨーロッパの周 辺において生き延びてきたとか、多分栄えてきた、ということではなく、

むしろ神が近代性の中心に存在し、信仰は近代性の構成要素だということ なのである。分析的に言えば本書は、それに類似する道を辿り、宗教的な 動機や確信は十九世紀の高等教育機関を建てる積み木ブロックであったの みでなく、自然界に関する科学的知識は霊的真理に到達するための強力な

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道であったということを示すものである。ベイルートと京都において、信 仰は原動力ではなかったにせよ、重要な要素だった。この力が働いて学校 を創り、学校は近代の理性的な方向で社会を創造していこうとする男たち

(のちには女たち)の世代を生み出していったのである。

非西洋的近代性やそれに代わるもの、何が近代性を構成するのか、十九 世紀後半の展開において、いったい何が近代的なものであったかに対する 学問的な議論はしばらく措くことにして、本書は近代がその同時代人に何 を意味したか、彼らがそれをいかに追求していったかという観点から近代 性を扱う。近代性とか、モダンであることの意味は人によって異なるし、

彼らの意味したことも時間がたつにつれ、場所を異にするにつれて変化し た。けれども殆どのオスマン帝国時代のアラブの知識人と、明治日本の指 導者たちは「文明」(彼らがしばしば用いた言葉である)または「開化」は、

特権的な状況ないし文化に固有のものではなくして、一つの達成であると いう考え方で一致していた。十九世紀後半にオスマン帝国や明治日本で最 高潮に達した自前の改革計画は、基本的に社会的スケールに基く教育過程 だった。それは政治問題から個人の行動までを含む、国家と社会のあらゆ る局面に触れるものだった。憲法、政治上の代議制、公的分野、文化的慣習、

品行、性行動から髪型に至るまですべて、彼らが採用した近代性の考え方 に基いて造り直されたのであった。

1860 年代と 70 年代に、ベイルートの宣教師たちのキャンパスはオスマ ン国家の改革やアラブの社会的・文化的な復興運動と共に、アメリカの福 音主義的活動を導入した。SPC は他の新設の学校と同様に、近代教育、特 に近代科学教育は個人を改革し、国を良くするという役割を具体化した。

この関連からベイルートで生れた約束は、京都に定住した改革者たちが明 治維新後のごたごたの中で社会に貢献しようとした時に拡大された。本書 はオスマンのベイルートと、明治の京都と、南北戦争後のアメリカのプロ テスタント体制の歴史を組み合わせてゆき、宣教師のカレッジと地域的な

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改革運動との交差点を際立たせ、三者がすべて所属した十九世紀のグロー バルな改革の基本方針に光を当てる試みである。

オスマン帝国と日本においてこのような改革者と彼らの宣教師たる盟友 に働きの場を提供した時、いったい何が起こっていたのか? 宣教師がやっ てきた他の多くの場所と同様、両方の社会における十九世紀中葉は、改革 の興隆とリバイバル運動によって特徴づけられる。オスマンの側では改革 運動に二つの流れがあった。それはイスタンブールで企画された新秩序

(Tanzimat)と呼ばれる政治近代化の運動と、オスマンのアラブ地域で発 生した復興 (al-Nahda) と呼ばれる文化再生の運動である。日本においては いくつかの藩から出たサムライのグループによる政治改革の衝動であり、

それは将軍政治を打倒することにおいて頂点に達した。彼らはまた若い明 治天皇に頭を下げながら、寡頭政治家の支配の下に、軍事的に強く、強力 に産業化された国を樹立した。

[オスマンの]新秩序の改革を特徴付けるのは二つの法的文書、すなわち 1839 年のギュルハン(Gülhane)の勅令と、1856 年のハッティ・ヒュマユ ン(Hatt-I Hümayun)の勅令だった。前者は良い政治への復帰というレト リックの下に、従来の政治慣習から離れ、皇帝の臣民の生命、名誉、財産 を保護することと、信仰のいかんを問わずに臣民は平等であることを保証 するといった、新しい政治観念を導入した。それはまた、農業課税を直接 税に変えること、軍隊や徴兵制度の再組織を含む数多くの政治改革を導入 した。後者の法令はイスラーム教徒とノン・イスラーム教徒の区別を廃止 することによって、ギュルハンの勅令を明確にし、強化した。オスマンの 改革の背後にあった原動力は、ひと握りの献身的な官僚グループだった。

彼らは日本の改革者たちにすこぶる似ていた。二十年後に日本で起ったよ うに、領土喪失の危険性が起こり、オスマン帝国においては実際に喪失し たため、国家の主権は近代的軍隊の実力いかんに依存することが明白になっ た。軍隊を装備し維持していくには効果的に税金を集める制度が必要であ

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り、それは帝国の改革された行政に頼るほかはなかった。それは政治的展 望の中に起こった変化や、地政学的現実の新たな理解に基く国家の道具立 てを大きくやり直すことが求められた。実際にはその意味は近代国家がど のように動くものであるかを学ぶことであった。

新秩序運動と並行して、無制限な権威に対する敵意に養われながら、オ スマン帝国の周辺にいたアラブの知識人は、イスラーム教徒、キリスト教徒、

ユダヤ教徒を含め、彼ら自身の文化・文芸復興にたずさわった。アラビア 語につなぎとめられたまま、新しい知識生産技術、例えば雑誌、文芸・科 学協会、図書館、新しい文学的演劇的ジャンル等に根をおろしながら、彼 らは現在に思いをめぐらし、過去を再考し、過去に代わるべき未来を思い 描いた。そのような改革の衝動の集合体に対する学問的な関心は主として 文学作品の中に現れたが、それは中心に社会改革を志向する知的歴史の問 題でもあった

明治の体制はこの新秩序運動と同様、ヨーロッパの帝国主義勢力に主権 を明け渡すことになるかもしれないという見方への反動なのであった。オ スマン帝国が国の構造を近代化するのに徐々に歩を進めたのに対し、明治 日本は将軍政治の腐敗を矯正し、1854 年に締結した諸大国との不平等条約 を改正するために、急速かつ深遠な改革に出た。日本政府は絶えず、束縛 的かつ屈辱的な条約を改正するため、また主権を完全に回復するために議 論してきた。1889 年の憲法(明治憲法)は近代中央集権国家を謳うものであっ た。明治日本は未曽有の、東京中心主義を特徴とした。税制の改革、徴兵 制の採用、刑法の編成は新秩序時代のそれに似ていた。アラブの文芸復興 もまた日本にその例があった。新世代の知識人たちは彼らの社会の改革に 着手した。遠く離れていたとはいえ、これら二つのグループは大部分同じ ことをやったのである。両者は新しい学校を開き、古い学校を改革し、言 語の改革を実験し、歴史を考え直し、雑誌を発行し、食事、流行、家庭の 形に変化をもたらすことを提唱し、その過程において新しい様式を獲得し

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たのであった。

日本とオスマン帝国における政治・文化の改革運動の間にある類似性は、

構造的な類似性から起こった。特に両者はそれぞれの主権を侵害する国際 的な圧力に出会い、緊急な改革を迫られたのであった。似通った急場が類 似の計画を生み出し、どちらの社会においても、危機の瞬間が深遠な地殻 構造の変化の引き金となった。オスマン帝国の官僚たち、アラブの知識層、

明治政府内外の改革者たちはおもに三つの問題と取り組んだ。第一に彼ら は、他の国ぐにの文脈に照らして自国の歴史を省み、そうすることによっ て新しい遠近関係を獲得した。第二に、歴史と国を新しい光の下で見直す ことにより、彼らは啓蒙主義の理想と西洋の近代性とになじもうとした。

そのため彼らはその理想は自分たちの文化と共存できると主張するか、ま たはその理想は自分たちの国でもともと始まったものだと主張したので あった。彼らが自国の文化の母胎にとって本質的であると考えたものは、

何一つとして近代化と両立しなくはない、と彼らは主張した。第三に、彼 らは自国をいわゆる文明国・強国の仲間に加わることを早めるような仕方 で、西洋を批判的に「他者」だと主張した。

このような明確な、しかも並行的な改革・復活運動が、広くかけ離れた 地域で起こったのは、似通った理由によるものなのか、あるいはまた、そ れはまだ形を取るに至らない地球的ネットワークにのせられた概念や実践 方法によって結ばれていたのかどうかは、まだ答が出ていない問題である。

本書が示そうとしているのは、高等教育機関に関する限り、両者は類似し ているのみならず、共通の系譜を持つということである。すなわちそれは、

ベイルートと京都とボストンのアメリカン・ボード本部の三角関係を描く ことによって明らかになる関係である。日本のカレッジの創設者がレバノ ンのカレッジの創設者たちと直接に連絡し合ったという文書の証拠は存在 しない。けれどもベイルートでの出来事は先例となったのであり、宣教に 熱心なアメリカのプロテスタントたちがセキュラーな教育機関を支援する

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ように促し、ついには京都に今一つの宣教師が支援するリベラル・アーツ・

カレッジを実現させたのであった。

下からの近代化

上から下に向う新秩序運動と明治の改革がこの物語の広い意味での枠を 提供するのであるが、その根底に、日本やオスマン帝国のアラブ地域の都 市部の中産階級のインテリや、地方の有力者たちの間には、彼らの社会を 改善しようという意欲があった。国家主導の場合であれ、地方のエリート 主導の場合であれ、総じて教育、特に学校教育は具体的な改革計画の中で 最高の優先順位を占めていた。支配層がすばやく認識したことは、東京ま たはイスタンブールが考え出す改革を実施するには、何十人かの文民の行 政官の養成に頼らざるをえない、ということだった。しかし国は教育また は改革を独占するわけにいかなかった。都市のインテリも地方の有力者も、

近代化のための具体的な段階として新しく学校を作る必要を見てとった。

古文書館にそのような地方が率先したことを示す文書は殆ど残っていない が、歴史小説がじれったいほどの実例を示してくれる。例えば徳冨健次郎 は『雪の中の足跡』[『思出の記』]の中で「新しい学校」を描写したし、ア ミン・マルーフ(Amin Malouf)は祖父の残した文書に基いて『起源』と いう小説を書き、レバノンの山中に祖父が建てた男女共学の「世界学校」

のことを記述した。地方の人々とオスマン帝国の古記録に印象を残した改 革志向の学校の一つは、ブトロス・アル・ブスタニが 1862 年にベイルート に建てたナショナル・アカデミーであった。それは新しい種類の教育を通 して社会を改革しようという知識人の希望を具体的に空間に投影したもの だった。それはシリア・プロテスタント・カレッジ(SPC)の創設に、間 接ながら重要な役割をはたした。

社会改革のプロセスとして必要なリーダーシップを確立するための知的 な戦略を立て、学校に中心的な役割を与えるための説得力のある運動は、

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アメリカの宣教師たちに仕事を用意し、彼らが派遣されてきた用向きから 逸れるとはいえ、宣教師たちを広い意味での仕事に向かわせた。聖書は依 然として宣教師たちの信仰の基盤であったが、彼らはアラブの再生運動(al- Nahda)や日本の文明開化計画を発酵させる仕事に巻き込まれていった。

ベイルートに何年か住むことにより、何人かのアメリカ人宣教師はオスマ ン帝国内のアラブ改革運動に知的なエネルギーを注ぐようになり、ボスト ンで計画されたアラブ人の間で場所を得るためのルールを曲げるところま で行った。

中東と日本で起こりつつあった地殻変動と並んで、アメリカでは南北戦 争の余波が政治の雰囲気のみならず、宗教の雰囲気にも変化をもたらした。

宣教に使命を感じた若いアメリカ人たちはますます国内での改宗者獲得に 集中していった。西部におけるアメリカ・インディアン、人口が増えてい く都市での貧しい移民たち、南部での最近解放されたアフリカ系アメリカ 人が対象だった。社会的責任を強調するこの新しい努力は二十世紀初頭の 社会的福音の神学を予言するものだった。関心が内国伝道の方にシフトし たため、資金は海外伝道から国内へと流れ始めた。そういうわけで、外国 伝道の地盤もまたシフトするに至った。十九世紀初頭の至福千年への希望 や、活気にあふれた福音主義的情熱は退潮していき、地域の要望に応えて さらなる教育事業がそれに取って代わった。外国宣教師たちの日常生活に 或る程度の宗教的寛容が浸透し始めた。ほとんどの人は依然として彼らの クリスチャンの生き方が最良と信じていたが、彼らは次の事実を黙認して いた。すなわち彼らのまわりに居る殆どの人々の目には、クリスチャンの 生き方は決して社会的・霊的な福祉にとって唯一の生き方ではない、と映っ ていたのが事実であった。

1920 年にシリア・プロテスタント・カレッジ(SPC)の第二代学長ハワー ド・ブリス(Howard Bliss)の書いた記事は、この間に生起した意味深い変 化を明らかにする。なお、ブリスは初代学長の息子としてキャンパス内で育っ

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た人であり、そうした出来事を熟知していた。『アトランティック・マンス リー』に掲載された「現代の宣教師」という記事は、「現代の宣教師は今日、

世界のどの部分においても働いているが、・・・彼らの精神」を説明する ために、キャンパスで起こった一つの場面を紹介している。その出来事は預 言者ムハンマドの誕生祝い(id al-mawlid al-nabawi)だった。「スンニ派、シー ア派の区別なく、うやうやしい学生たちの大群衆が集まった。中には白いター バンを巻いた族長の姿も見られた。」コーランの一部が朗唱され、カレッジ の代表が演説した。その記事によれば、現代のプロテスタント宣教師のカレッ ジは学生たちの宗教的意見を尊重すべきであり、「この世の正義を主張する 勢力を強めるために」あらゆる機会を利用すべきである、といった論調で あった。

このイメージは誇張だった。イスラーム教の聖日の行事はキャンパスの 普通の日の出来事とはかけはなれたものだった。カレッジの規則は依然と して、寄宿舎のすべての学生に、毎日のチャペル出席と日曜礼拝への出席 を義務付けていた。1900 年と 1920 年の間に数少ない譲歩がなされたのは、

ひとつにはハワード・ブリスの自由神学的な見解に基いてのことであった。

それと同様に、あるいはもっと重要なことは、何年間にも亘って学生たち がキリスト教行事の強制に抗議してきたことだった。1909 年にはイスラー ム教徒とユダヤ教徒の学生が協調して、チャペル出席の強要に抗議して三 か月のストライキに入った。預言者ムハンマドの誕生祝いを許可したこと は、カレッジの現状を維持するために行う宗教的寛容のみせかけのジェス チャーだったという様相が濃い。学生たちはこの預言者生誕日をキャンパ スで守ったかもしれないが、彼らは依然として毎日チャペルに出席しなく てはならず、金曜日の祈り(shabbat 又は salat al-jum’a)に参加するため にクラスから抜け出ることはなかった。新しい宣教師倫理は学生たちの信 仰を尊重すると主張した。けれども実際には学生たちにキリスト教の礼拝 に出席を求めつつ、学校内では学生の信仰の実践をほとんど許すものでは

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なかったのである。

けれども、考え方に起こった変化は感知できるものであった。また宣教 師団の周辺の空気が、具体的に印刷に付されるずっと前に、教師たちの行 動にも現われていた。ハワード・ブリス師が、コーランの中には正義の源 となりうる何かがあると、遠まわしに書いたという事実は、注目すべきこ とであった。宣教師たちの議論にとって同じく異常で新しかったのは、コー ランには聖書に共通する何かがあるという認識だった。ルーファス・アン ダソン(Rufus Anderson)や他のアメリカン・ボードの最高決議機関の委 員たちは、1860 年代にしぶしぶカレッジ計画を承認したとはいえ、確かに 上記の二つの成行きには猛反対したに違いない。けれども彼らが残した意 見は二十世紀に入るとほとんど問題にされなかった。父親とはちがって、

ハワード・ブリスはキリストの使徒たちを引用する場合と同様の気安さを もって、カリフ・オマール(Caliph ‘Umar [?-644])や預言者ムハンマドか ら引用した。彼がアラビア語をたやすく使い、イスラームの基本的な文献 を熟知していたことは、彼の周囲の知的・宗教的世界に長年関与してきた ことを証しする。その過程において、「キリスト教の理想」や「キリスト教 精神」は改宗に置き換わり、多くの宣教師の日々の仕事は、高校教師やカレッ ジ教授の仕事に似たものとなった。

アメリカ宣教師たちの見解も変化した。彼らは時としてしぶしぶながら、

彼らの周囲で起こっていることと調子を合わせたからである。そうしなけ れば彼らは問題にされないことに気付いていた。近代のレバノンの歴史に おいてアメリカの宣教師たちに存在場所を保証したのは、マロン派の大司 教の腐敗したキリスト教に対する神学論争の故ではなく、あるいは彼らが 獲得した一握りの改宗者の故でもなく、実にそれは彼らがその国に建てた 学校やカレッジの故であった。同様に重要であるのは、宣教師がカレッジ それ自体において働いた経験であった。何十年にも亘って教え、教科書を 書き、研究室ですごしたことがコーネリアス・ヴァン・ディック(Cornelius

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Van Dyck)やドワイト・ラーネッド(Dwight Learned)のような宣教者を、

医学や経済学の教師に変えたのであった。

教育に加えて科学と技術も重要な役割をはたした。しかし宣教事業の中 ではその役割は過小評価されたに過ぎなかった。宣教師たちにとって科学 を教えることは、間接的に改宗をうながす手段、科学的方法・合理的思考・

プロテスタント的価値を教え込むための手段であった。アラブ人学生や日 本人学生がそれぞれクリスチャン・カレッジに惹きつけられたのは、宗教 上の理由からではなく、近代科学教育に重点が置かれたからであった。実 際的な価値を超えて、科学の認識論的前提は、西洋と東洋の知識の間に介 在する、時として麻痺感覚を与えるほどの区別を克服する可能性を与えた。

学生たちは科学と合理性に基く教育を意欲的に受け入れた。それは強力な 自主独立の国を発展させるため彼らが重要な役割をはたすのに最善の準備 だと考えたからであった。多くの場合、教育から受けたキリスト教の基盤 は偶発的なものであり、それは改宗してプロテスタント教会の信者となっ て定着した人数がごく限られたものだったという事実が示す通りである。

キリスト教のカレッジだけが科学教育を授けたわけではなかったが、そ のようなカレッジは知的に魅力があった。京都とベイルートのカレッジの 学生たちは最高の社会経済層の出身ではなかった。だが彼らの間には新た な種類の多様性があった。ベイルートの学生はキリスト教の各派から来た 人たちであり、都市に地盤を持つ地主階級か、ないしは地方の有力者階層 に属していた。彼らの息子たち、そして後には娘たちもまた、都市の知識 人や企業家の中核を形成していた。京都の学生の多くは廃藩後のサムライ 一世の出であり、彼らは秩禄が廃止された時まだ十歳代であった。彼らは 教育を投資の道と見做し、明治日本への足がかりを確保するものと考えた。

ベイルートでも京都でも、キリスト教のカレッジは彼らの時代の政治に関 わって行こうと努力する野心的な若者たちに、うってつけの教育機会を与 えたのだった。

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対話の中でなされた混合

宣教師がスポンサーでありながらも純粋には宗教学校とはいえないカ レッジという考え方が、アメリカの宣教師たちとアラブの知識人との間で 交わされた対話に端を発し、それがその後日本への道を辿ったことを示す に当り、本書は現代性というものは成熟した形で大都会から周辺へと流れ ていくわけでないことを示そうとするものである。霊感はむしろ地球上の 様々な場所から来た。アメリカ人たちは激変や改革の強力な歴史的運動を 目撃した。それ自体がアメリカに変化をもたらしたのだった。この過程は、

第二章に記すように、1866 年にシリア・プロテスタント・カレッジ(SPC)

がベイルートで誕生した時から始まった。この学校の設立はアメリカン・

ボードが財政支援するが完全には支配しないリベラル・アーツ・カレッジ の先例となった。第三章ではこの変化の頂点を辿る。1874 年にアンドー ヴァー神学校を卒業した一人の日本人が同じ道を辿って、ベイルートのカ レッジにきわめて類似したカレッジを日本に設立したのであった。その頃 までにはアメリカン・ボードは財政問題で態度を決めることをそれほど嫌 がらなかった。それに一年後に京都で開校したカレッジは、市内の教育態 勢をととのえたかった市の役人たちから大きな支援を得ることができた。

十年以内に、純粋に宗教的とはいえない教育機関は排除されるどころか、

宣教事業の正当な分野と見做されるよう戦っていた。第一章と第二章をひっ くるめて、ベイルートと京都の出来事を、ボストンに中心を置く宣教団体 の発展との三角関係を描き出す。そしてそれに続く[二十]世紀になると、

あのまぎれもない制度的変則が宣教事業の常道となっていった系図を辿っ てみたいのである。

次に、二つのカレッジを、キャンパス、学生、教員、カリキュラムにつ いて比較する。第三章「キリスト教学校建築」は、知的環境を形成するに当っ てキャンパスの具体的な構造がはたした役割について考察する。キャンパ スの位置と、そこに建てられた最初の建物を調べてみることによって、当

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時の企画の含む不安、緊張、逆説等が明らかになる。宣教師たちはその町 にとって有意義な、しかも重要な部分でありたいと欲した。しかし同時に 彼らは学生とカレッジとを遠くに隔離して閉じ込めることをも欲した。宣 教師たちは教室でさえ依然として宣教者であり、学生たちを改宗させるこ とは重要な願いであった。しかしながら、町に所属したいという彼らの望 みは、知的に魅力のあるカリキュラムの提供につながり、通常は科学関係 の科目や英語に重点を置き、聖書の学びは最小限におさえられた。二種類 の要求に橋を架けるために、彼らは文系・理系のカリキュラムを教えつつ、

キリスト教を課外活動で補った。学生たちは家族から引き離され、キャン パスで寮生活することを求められ、動くことを制御され、自由時間は敬虔 なプロテスタントの役割モデルに最大限さらされるように組まれていた。

空間と建築とはこの努力の重要な一面だった。特に強調点が、説教から授 業へとシフトしたことを、宣教師たちは言葉にしたくなかったからである。

ひょっとすると、彼らはこのことの含む意味を意識していなかったかもし れない。しかしその意義は、建物とキャンパス自体のイメージにおいて明 白だった。

ベイルートのカレッジが設計・建築される過程(1871-1873)と、京都で 彰栄館が設計・建築される過程(1882-1884)は、一方においてはアメリカ の宣教師たちと設計者、他方においてはアラブと日本の大工との間の共働 作用を示すものである。建築デザインの点からすると、二つの建物は少し も似ていない。両者に共通であるのは、設計と建築のハイブリッド性である。

ベイルートの建物の設計をしたのは、ニューヨーク株式取引所の設計をし た有名な設計者、ジョージ・B. ポスト(George B. Post)だった。しかし ポストのブロードウェイ通りの事務所で作られた設計図によって、いった んベイルートの岬で建築に取り掛かってみると、設計変更が不可避となっ た。アブド・アル・マッシー(’Abd al-Massih)という名で知られているア ラブ人石工の親方は、カレッジ・ホールの真正面に二層分の尖りアーチを

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取り付けた。それはオスマンの民間建築に共通する要素だったのである。

そうすることによって彼は、奇妙ではあるが印象的な建物をベイルートの 文脈に効果的にはめ込むことに成功した。日本の京都では、彰栄館の建築 に た ず さ わ っ て い た ア メ リ カ の 宣 教 師 ダ ニ エ ル・ グ リ ー ン(Daniel Greene)は、アメリカのモデルに基いたレンガ建築を構想していた。とこ ろがいよいよ実際の建築に取り掛かる段になると、グリーンもまた地元の 大工に頼らざるを得なくなった。その大工は、伝統的なタイプの巨大な屋 根をもつ日本流の木製フレームを作った。そのあとで彼は日本建築で見か ける引き戸の場所に、赤レンガを積み上げていった

建築のプランはカレッジに西洋らしい印象を与えようとするものだった が、結果は[地元との]融合によって改善されたものになった。1892 年に 濃尾地震が起こったとき、西洋建築の最新の基準に基いて建てられたばか りの同志社ハリス理化学館は相当な被害を受けたが、日本風に屋根をつな いだ彰栄館は無傷で残った。ベイルートではアブド・アル・マッシーが正 面に乗せたアーチには建築的な機能は何もなかったが、そのアーチはポス トの設計した建物よりは一層なじみ深い建物となったばかりでなく、さら には夏の猛暑と、二月の雨を立派に防いだ。

第四章「知的空間―学生、教員、教科書」は学生が教師となり、説教者 が教員となったことを探究する。両キャンパスにおいて開かれた(のちに 閉ざされたが)知的な大道が、教師たるアメリカの宣教師と、日本または アラブの学生たちの経歴をいかに形成してきたかを探ってみたい。アメリ カ人教師たちが学生にどれほど影響を与えて改宗させようとしても、また 時として彼らがどれほど成功したとしても、学生たちの方ではキャンパス での経験、それは講義であろうと、教科書であろうと、学生に対する忠告 であろうと、親代わりになるほどの親切であろうと、そのような経験によっ て深く影響された。

第四章に登場するすべての学生―サルフ(Sarruf)、ニムル(Nimr)、下

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村[孝太郎]、元も と ら良[勇次郎]はすべてプロテスタント・キリスト教への改 宗者である。レバノンの場合、両学生はクリスチャンの家に生れたが、教 派の線を超えての改宗だった。ある意味でこの学生たちは初期の同志社な いし SPC の学生としては代表的でなく、むしろ宣教師の方で望ましいと考 えた人たちだった。イスラーム教徒の学生の中にはベイルートで勉強して いた間ずっと自分の信仰を固く守った学生が沢山いたし、またクリスチャ ンとして京都にやってきたけれど無神論者として、または福音主義のメッ セージに動かされることなしに卒業していった学生も数多くいた。確かに もっと代表的な学生たちが数えきれないほど多くやってきて学んだが、イ ブラヒム・ミシャカ(Ibrahim Mishaqa)のように[キリスト教信仰の]痕 跡さえ残さずに卒業していった者もあった。私は暑い夏の一週間をダマス カスで過ごし、この SPC の最初の医学クラス卒業生に関する記録を探して みたが、成功しなかった。彼はマロン派からプロテスタントに改宗した著 名なアラブのインテリの息子で、しかもその父親はダマスカスのプロテス タント教会の長老だった。イブラヒムは 1955 年の SPC 卒業生名簿にかろ うじて入っていた。しかし彼について他の痕跡を明らかにすることはでき なかった。私が知ったことは、彼に三人の息子がいたこと、医師として働 いたこと、1923 年に亡くなったこと、それだけであった。しかし第四章に イブラヒム・ミシャカが現れないことはニムルや下村が自分の母校につい て述べたことが重要でないということを必ずしも意味するわけではない。

事実、彼らは少なくとも、ミシャカの生涯について多少のことは語ること ができると私は考える。つまり、イブラヒムらが自分で語る資料が出現す るまでは。

第五章「危機の再定義」は学校が直面した危機の記述である。それぞれ のカレッジは教員間で、また教員、理事会、スポンサー団体の間に起こっ た苛烈な戦いで揺れたのだった。ベイルートでの相克は表面的にはダーウィ ン主義をめぐるものだった。京都ではキリスト教の定義をめぐって争われ

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た。しかし、深く考えてみると、どちらの場合にも、どのような種類のプ ロテスタント的敬虔さがキャンパスで主流となるべきかを決めるのはいっ たい誰なのか、という問題を引き起こしている。ベイルートでは、カレッ ジにはアラブ人の教職員が配置されるべきこと、そして実行可能な限りア ラブ人が支配権を握ることが望ましいとされた。しかしベイルートで胚胎 されたそのヴィジョンは、カレッジのニューヨーク市のスポンサーたちの 考え方とは合わなかった。最初のうちアメリカ人教師とアラブ人教師は共 に講義し、教科書を発行し、紀要を編集し、地域のアラビア語の新聞に寄 稿していた。ベイルートの学校としてのカレッジのヴィジョンは、開校し て一年後の 1867 年にチャレンジを受けたけれど、きわめて弾力性があり、

それがくつがえされたのは 1882 年のスキャンダルの後においてであった。

京都では 1890 年の新島襄の死とともに、カレッジの目的に対する生産的 な誤解が終わりを告げた。アメリカン・ボードと多くの宣教師にとって、

同志社はクリスチャンの説教者と教師を養成する学校だった。新島にとっ て同志社は最良で最も賢い日本の若者が、聖書と並んで近代科学を学ぶと ころだった。1890 年代の初期に、学校は日本の教育制度と歩調を合わせ、

学生の徴兵免除を確保するためにそれが必要になると、広い意味での教育 と狭い意味でのキリスト教とのどちらがより重要か、という問題の解決を 迫られた。宣教師たちは学校内における信仰の衰退と彼らが見做すものと の十年余りの戦いに夢中になっていて、明治の国家権力(1890-1912)が初 期(1868-1889)の構造的なドラマに取って代わったという意味での変化に 気付くことができなかった。同志社の組織に属する問題は今やますます、

日本人理事対アメリカの支援者の間の単なる内部問題ではなくなっていた。

生き残るために同志社は、他の私立学校と同様に、国の教育制度に適合し ていかざるをえなかった。日本がますます主権の侵害に神経をとがらすよ うになった時期に、外国の団体に支配されていると感じられるキリスト教 学校として、同志社は日本国への忠誠を証明するために憲法[同志社通則 .]

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から「キリスト教」という文字を削除しなくてはならなかった。アメリカ の宣教師にとってこれは裏切りだった。ところが日本側の執行部にはそれ が生き残りの道だった。

ベイルートと京都にあるカレッジを含め、多くのキリスト教カレッジは 現在でもなお続いている。学校の長寿はその受胎の事情と同じく、アメリ カの支援者たちは両カレッジの発展に一定の役割をはたしたとはいえ、彼 らのせいではなかった。両カレッジが続いてきたのはむしろ、最初から両 校ともそれぞれの地域の産物でもあったという事実に基いている。海外で 長年に亘って働いて来たアメリカの宣教師たちは、彼らがその地域の諸問 題に知的に巻き込まれていたことに気付いた。抜き難い自己正当化や優越 感、そしてその土地の慣習に対する若干の軽蔑感はあったにせよ、長年勤 めた教師たちは毎日の経験の故に、知的・社会的な風景に深くはまるよう になり、アメリカの宣教師であると同様に日本またはアラブの教師となっ たのである。アメリカン・ボードは宣教師たちがその国の若者たちをキリ スト者に造り変えてくれることを望んでカレッジに財政支援をした。事実 また何人かの学生はプロテスタントのクリスチャンに改宗した。けれども 同時に、教師たち自身も教師・助言者としての経験の故に、学内で学生た ちと接触した密接さの故に、彼らが現場ですごした年月そのものの故に、

変えられたのである。アメリカ人と学生たちの力関係の不平等さにもかか わらず、ベイルートと京都のキリスト教学校は教える者と教えられる者と の区別をあいまいにする生産的な地盤であった。

いかにしてこの相互変革が起こったかという物語は、本書の中で最も興 味深い部分であろう。学生たちの要求を入れて、古代の宗教について教え るつもりだった古典ギリシア語専門の一人の宣教師は、政治経済学の教師 になった。病人に仕えるために派遣された今一人の宣教師は科学書の翻訳 者・教科書の執筆者になった。彼はその新しい役割を深刻に考えるあまり、

仲間の宣教師たちに反対し、仲間たちが学生の問題意識に十分な関心を示

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さないとしてカレッジを辞めてしまった。アラブの若者も日本の若者もこ れらの学校に科学と英語の訓練を求めてやってきた。多くの若者はキリス ト教の説教を注意深く聞いた。しかし科学への道は神の摂理との関連にお いて説かれたとはいえ、改宗者の数は少数だった。

長い期間に亘って狭い場所でなされる教授と学習は、強烈な知的取組み だった。それは宗教上の正当性とアメリカ人の考え方の前提とを問う機会 を与えた。宣教師である教師たちはその地域の伝統や宇宙観を批判した。

教師たちもまた疑問に答えなくてはならなかった。そうした質問は福音主 義的な目標や自由教育という円を正方形にして示せる能力が教師たちにあ るかどうかを試した。両側から出た質疑の結果として、学生も教師も自分 自身の世界を今までとは違う角度から眺め始めた。アラブの学生も日本の 学生も英語、医学、国際政治、近代科学、政治経済の分野で貴重な教訓を 学んだ。学生たちは学んだことを様々の仕方で応用した。教師たちもまた きわめて貴重な教訓を得た。最も重要な教訓は、自分たちの信仰は数ある 宗教的伝統のうちの一つであり、それはこの世界を見る一つの見方に過ぎ ないということだった。二十世紀に入って相当な時が過ぎてもなお、多く の宣教師は自分の信奉するキリスト教は他の宗教的伝統よりもすぐれてい ると信じていた。しかし中には各宗教の伝統の間にある共通点を強調した 者もあった。この地殻変動の系譜は第一次世界大戦の後に目立つものとなっ たが、ベイルートと京都という、互に大きくかけ離れ、状況を異にする場 所にまで辿ることができるのである。

他の多くの改革と同様、最後には、非宗教的科目を教授するキリスト教 カレッジという考え方が、様々にめぐる考え方の中から現れてきた。この カレッジのモデルはニュー・イングランドから世界の他の部分に移植され たものではなかった。むしろそれは、オスマンとアラブの急迫した改革運 動に先ず学校が反応し、それにアメリカの宣教師たちが彼ら自身の経験と 事業をもたらしたケースであった。次に学校は、アメリカで訓練を受けた

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宣教師たちが明治日本の差し迫った状況と理解したものに反応した。その 結果は学校という混合体だった。つまりそれを、建設的でありながらもあ いまいな目的と、宣言された目標、それへの過程、そして最終的な結果と いう三者の間の生産的なミスマッチとが、成功と長寿を確実ならしめたの であった。

⑴ “The American Board,”Rutland Herald 80, 15 October 1874, morning edition, 1.

⑵ Samuel H. Williamson, “Seven Ways to Compute the Relative Value of a U. S. Dollar Amount, 1790 to Present,” MeasuringWorth, 2013, http://www.measuringworth.

com/uscompare/

⑶ 北垣宗治『新島襄とアーモスト大学』(京都、山口書店、1993); 本井康博『千里

の志:新島襄を語る(一)』(京都、思文閣出版、2005); 太田雄三『新島襄』

(京都、ミネルヴァ書房、2005);同志社大学人文科学研究所編『アーモスト大学 と同志社大学の関係史』(京都、晃洋書房、2013).英語で書かれた同志社開校に 関する短い記述として次のものがある。Irwin Scheiner, Christian Converts and Social Protests in Meiji Japan (Berkley, California University Press, 1970), pp. 156-87.

⑷ Kapil Raj, Relocating Modern Science: Circulation and Construction of Knowledge in South Asia and Europe, 1650-1900 (Basingstoke & New York: Palgrave Macmillan, 2007); Christopher Hill, National History and the World of Nations: Capital, State, and the Rhetoric of History in Japan, France, and the United States (Durham: Duke University Press, 2008); Sebastian Conrad, The Quest for the Lost Nation: Writing History in Germany and Japan in the American Century (Berkley: California University Press, 2010); Christopher L. Hill, “Conceptual Universalization in the Transnational Nineteenth Century” in Samuel Moyn & Andrew Sartori, Global Intellectual History (New York: Columbia University Press, 2013). See also: Serge Gruzinski, « Les Mondes mêles de la monarchie catholique et autres ‘connected histories’ » in Annales. HSS, vol 56, 2001, no. 1, pp. 85-117 ; Serge Gruzinski, «Faire de l’histoire dans un monde globalisé » Annales HSS, 2011, no. 4, pp. 1081-91 ; Sanjay Subrahmanyam, « Par-delà l’incommensurabilité : pour une histoire connectée des empires aux temps modernes » in Revue d’histoire moderne et contemporaine, supplément 2007, no. 54-4bis, pp.34-53 ; Pierre-Yves Saunier, « La secrétaire générale, l’ambassadeur et le docteur : Un conte en trois épisodes pour les

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historiens du « monde des cause » a l’epoque contemporaine, 1800-2000 » Monde(s), 2012, vol 1, pp. 29-46.

⑸ Thomas Bender (ed), Rethinking American History in a Global Age (Berkeley:

University of California Press, 2002); Thomas Bender, A Nation Among Nations:

America’s Place in World History (New York: Hill and Wang, 2006); Cyrus Schayegh, The Modern Middle East: A Transnational History (Cambridge: Harvard University Press, forthcoming).

⑹ Leila Fawaz, An Occasion for War: Civil Conflict in Lebanon and Damascus in 1860 (London: I. B. Tauris Publishers, 1994)

⑺ Butros al-Bustani, Nafir Suriya [Clarion of Syria], ed. Yusuf Kozma Khuri (Beirut:

Dar Fakr li-l-Abhath wa-l-Nashr, 1990), 29 July 1860 9.

⑻ 通常「ナショナル・スクール」と訳されている。私は小学校と区別するため、「アカ

デミー」という言葉を使い、当時としては進んだ学問をする場所を表わそうとした。

⑼ アカデミーの開校は普通1863年とされる。1873年にブスタニがal-Jinanaに書いた記

事を注意深く読むと、開校認可の日付は1862年の秋である。”Al-Madrasa al- Wataniyya” [The National Academy] al-Jinan 4 (1873): 627-28 を参照。

⑽ Prospectus and Programme of Collegiate Institution in Syria.

⑾ David W. King, “The New Divinity and the Origins of the American Board of Commissioners for Foreign Missions” in Wilbert R. Shank (ed), North American Foreign Missions, 1810-1914: Theology, Theory, and Policy (Grand Rapids, MI: William Eerdmans Publishing Company), pp. 11-38.

⑿ Extract from a letter written by Dr. W. M. Thomson, the author of “The Land and the Book,” Beirut, January 2, 1863, ABCFM papers, reel 51, 297. “City Religious Press” New Evangelist, June 2, 1864, Vol. 35, No 22, p. 6. この解釈は歴史事実に反す るが、二次資料では生きている。James A. Field, America and the Mediterranean World, 1776-1882 (Princeton: Princeton University Press, 1969), p. 357.

⒀ Ibid.

⒁ Irwin Scheiner, Christian Converts and Social Protest in Meiji Japan (Berkeley:

University of California Press, 1970), pp. 156-87. Otis Cary 「ラットランドと新島襄 と同志社」(北垣宗治編『新島襄の世界』[京都、晃洋書房、1990]、pp. 199-220)

⒂ 要約として、次の文献を参照。Sebastian Conrad, “Enlightenment in Global History: A Historiographical Critique”, American Historical Review, Vol. 117, No. 4 [2012], pp. 999-1027.

⒃ Gregory Clancey, Earthquake Nation: The Cultural Politics of Japanese Seismicity, 1868- 1930 (Stanford: Stanford University Press, 2006); Kapil Raji, “Colonial Encounters,

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Britain and India, 1760-1850” in S. Irfan Habib & Dhruv Raina, eds. Social History of Science in Colonial India (Delhi: Oxford University Press, 2007), pp. 83-101; Kapil Raji, Relocating Modern Science: Circulation and Construction of Knowledge in South Asia and Europe, 1650-1900 (Basingsoke & New York: Palgrave Macmillan, 2007).

⒄ 問題の設定と、議論の系譜の重要な点については、次の文献を参照。Dipesh

Chakrabarty, Provincializing Europe: Postcolonial Thought and Historical Difference (Princeton: Princeton University Press, 2007); Sanjay Subrahmanyam, “Hearing Voices: Vignettes of Early Modernity in South Asia, 1400-1750,” Daedalus 127, No.

3 (1998), 75-104; Sanjay Subrahmanyam, Three Ways of Being Alien: Travails and Encounters in the Early Modern World (Boston: Brandeis University Press, 2011). 最 近の討議については、”Roundtable: Historians and the Question of ‘Modernity’,”

American Historical Review, Vol. 116, No. 3 (June 2011), 631-751を参照。

⒅ Dror Wahman, “Introduction,” American Historical Review, Vol. 108, No. 4 (October 2003), 1057-60; Jonathan Sheehan, “Enlightenment, Religion, and the Enigma of Secularization: A Review Essay,” American Historical Review (October 2003), 1061- 80を参照。

⒆ この主題に関する古典的な著作には次のようなものがある。George Anthonius,

Arab Awakening: Story of the Arab National Movement (New York: G. B. Putnam’s Sons, 1946); Albert Hourani, Arabic Thought in the Liberal Age, 1793-1939 (Oxford:

Oxford University Press, 1962). 最近の研究には、次のものがある。Ghali Shukri, al-suqut fi al-fikr al-misri al-hadith [Rise and Fall of Modern Egyptian Thought] (Cairo: al- Hay’a al-Misriyya al-‘Ama lil-Kitab, 1992); Stephen Sheehi, Foundation of Modern Arab Identity (Tampa: Florida University Press, 2004); Jeffery Sacks, “Futures of Literature: Inhitat, Adab, Naqd,” diacritics 37 (2007), 38.

⒇ Tokutomi Kenjiro, Footprints in the Snow. A Novel of Meiji Japan, trans. Kenneth Strong (London: George Allen and Unwin, 1970); Amin Maalouf, Origins: A Memoir, trans. Catherine Temerson (New York: Farrar, Straus and Giroux, 2008).

この記事はもともと Atlantic Monthly の1920年5月号に発表され、1920年5月にハ ワード・ブリスが永眠して数か月後に、アメリカン・ボードが小冊子として再版し た。引用はすべてその小冊子からである。”Syrian Mission―Station Reports,”

Missionary Herald 54 (May 1858), 6 を参照。

Ibid., 4.

Report on the Conservation of the National Treasure Building Shoeikan at Doshisha (Kyoto:

Kyoto District,Department of Education), 1981. 補強修理工事の分析については、前 久夫「同志社の近代建築」(上)(『同志社談叢』2号[1982]), pp. 73-94を参照。

参照

関連したドキュメント

[r]

Lewis and Zdenka Mansfeldová, eds., The European Union and Party Politics in Central and Eastern Europe (New York :

[r]

Report on the Columbia Conference on International Economic Development, Williamsburg, Virginia, and New York, February 15–21, 1970 (New York: Columbia University

Americas Asia Pacific Europe Middle East and Africa Atlanta Bogotá Calgary Chicago Dallas Detroit Houston Mexico City New York Palo Alto San Francisco São

おわりに 図5 本番インストールのフロー 5.2

This is when a nation transplants a modern legal system, and thus its legal culture is modernized in appearance, but an indigenous legal base is retained.. Conversely

しかし、EU の場合は、もっと直接的で、この 年間で何と数十万ページ にわたる EU 法というのを、ずっと出してきている。法の体系として